Q&A

問:なぜ我々は生まれ、なぜ我々は死ぬのですか
G:あなたは知りたいですか?本当に知るには苦しまなければならない。苦しむことができますか? できない。一フラン分も苦しむことができないのに、少し知るためにも、百万フラン分苦しまなければならない。


(ここで、ある神智学者が、状況は変えられると主張した。)
G:状況は、けっして変わらない。常に同じである。変わることはない。修正されるにすぎない。
問:1人の人間が向上するのは、変化ではないのですか?
G:人類にとって、一個人など何の意味もない。1人が向上し、別の1人が堕落する。いつも同じ状況にある。
問:しかし、嘘つきが正直になるのは改善ではないのですか?
G:
そうではない。同じことである。真実を言うことができないから、初めは機械的に嘘をつく。次には機械的に真実を語るが、そうする方が易しいからである。真実と虚偽は、我々がそれを制御できれば、初めて価値を持つ。現在のままの我々は、機械的であるため、道徳的ではあり得ない。通常の道徳性は相対的・主観的であり、矛盾し、機械的である。
我々に関しても同じであり、肉体的人間、感情的人間、知的人間のそれぞれに有益な異なった道徳がある。あらゆる人間の機械は3つの基本的部分、すなわち、3つの中枢部に分かれている。いつでも、自分自身に、「この瞬間に活動しているのは、どの『私』であろうか?知性中枢部であろうか? 感情中枢部であろうか? 運動中枢部であろうか?」と、問うてみなさい。おそらく、あなたが想像するのとはかなり違っているのに気づくであろうが、この3つの中枢部のうちのどれか1つである。
問:万人に共通であるべき絶対的道徳律はないのでしょうか?
G:ある。3つの中枢部を制御するすべての力を使えるようになれば、初めて我々は道徳的であり得る。我々の機能の一部分だけを使っているかぎり、道徳的であり得ない。我々のすることすべてが機械的で、機械は道徳的であり得ない。
問:絶望的な状態のように思えますが?
G:まったくそのとおり。絶望的である。
問:では、どうやって自分自身を変え、すべての力を使えるようになれますか?
G:それは別の問題である。我々の弱さの主な原因は、3つの中枢部に意志を同時に集中できないことにある。
問:3つのどれかに意志を集中することができるのですか?
G:もちろんできる。我々は、ときおりそうしている。ちょっとの間、1つの中枢部を制御することによって、驚くべき結果が生じる。(グルジェフ氏は、ある囚人が、妻への伝言を記した紙片を丸め、高くて届きそうもない窓へ投げる話をした。)これがこの男にとって、自由の身になる唯一の手段である。最初の試みでしくじれば、チャンスは二度とない。そこでこの男は、絶対不可能と思える事を成し遂げるために、一時的に身体中枢部を完全に制御する。
問:それほど高次の存在に達した人をご存知なのですか?
G:私がイエスとかノーとか答えても無意味である。イエスと答えたところで、あなたはそれを証明できないし、ノーと答えたとしても、あなたにとっては同じことである。
私を信じるなどということは、無用である。自分で証明できないことは何も信じないように、しいてお願いする。
問:高次の存在とは何ですか?
G:意識にはいくつかの段階がある。
(1)眠り。ここでも我々の機械は働いているが、極めて緩慢である。
(2)覚醒状態。今、この瞬間における我々の状態である。普通の人が知っているのはこの2つだけである。
(3)自己意識と呼ばれるもの。人が自己と自己の機械の両方に気づいている瞬間。閃(ひらめ)きとして経験されるものであるが、あくまでも閃きの域を出ない。自分がしていることだけでなく、それをしている自分自身を意識する瞬間がある。「私はここにいる」、という場合の「私」と「ここ」との両方を、また怒りと怒れる「私」の両方を理解する。これを自己覚醒と呼んでもよろしい。
こうして、「私」と、それが何をしているか、それがどの「私」であるかに常にはっきりと気づいているとき、あなたは自分自身を意識するようになる。自己意識は第3の状態である。
問:受動的なときに、そうなりやすいのではないですか?
G:そうであるが、それは無意味なことだ。機械は働いているときに観察しなければならない。
意識の第3状態の先にもまだいくつかの状態があるが、今、話す必要はない。最も高次の存在の人間だけが完全な人間である。その他はすべて、人間の片鱗にすぎない。我々が必要とする外からの助けは、私が従う師たちや教えから来るであろう。この自己観察の初歩は次の点である。
(1)自己は1人ではない。
(2)我々は自己を制御できない。自分自身の機械を制御できない。
(3)我々は自己を覚えていない。「私は本を読んでいる」と言うものの、「私」が読んでいるということを知らない状態と、「私」が読んでいることを意識している状態とは別である。後者が自己覚醒である。
問:冷笑的になりませんか?
G:まったく、そのとおり。自分も他人もみな機械である、ということをただ知るだけならば、冷笑的になるだけである。しかし、仕事を続ければ冷笑的でなくなる。
問:なぜですか?
G:二者択一をしなければならなくなるからである。まったく機械になりきってしまうか、完全に覚醒するか、どちらかを選ばねばならなくなる。これが、あらゆる神秘主義的教えが指摘している道の分かれ目である。
問:私がしたいと思うことをするのに、他の方法はないのでしょうか?
G:英国では、ない。東洋では事情が違う。人が異なれば方法も異なる。ともかく、自己の師となる人を見つけなければならない。あなたがしたいと願うことを決めることができるのは、あなた自身だけである。あなたが最も欲するものを心の中に深く追求しなさい。それができれば、何をなすべきか知るであろう。熟慮し、前進しなさい。

問:研究所
(Gの学校)の方法とは、どういうものですか?
G:個人的な方法である。つまり、各人の特性によって異なる。1つだけ誰にでも適用できる一般的な原則は観察である。観察は、誰でもやらねばならない。しかし、この観察は、自己を変えるためではなく、自己を見ることを目的としている。人は誰でも、持ち前の性癖あるいは習癖を持っているが、普通、本人はそれに気づいていない。こういった特性を自分自身で観察しなければならない。こうして、一人一人が「多くのアメリカを発見する」
(コロンブスがアメリカ大陸を発見した時の衝撃に例えている。未知の部分を発見した衝撃とでもいうべきか)であろう。一つ一つの小さな事実に根本的な原因がある。あなた方が自己に関する資料を収集してからなら話すことができるが、今は理論的な会話にすぎない。
片方に重心を掛けたら、なんらかの方法で、平衡を取り戻さなければならない。自分自身を観察するように努力することで、集中力を実行するのであるが、これは日常生活においてさえ役立つ。
問:自己開発における苦しみの役割は何ですか?
G:2種類の苦しみがある。意識的なものと、無意識的なものである。愚者だけが無意識的に苦しむ。
人生には2つの河、2つの方向がある。第一の河では、法則は河自体のためにあり、水滴のためにあるのではない。我々は水滴である。水滴は、ある瞬間には河の表面に浮上し、別の瞬間には河底に沈む。苦しみは、水滴の位置によって決まる。第一の河では、苦しみは偶然で、無意識的であるから、何の役にも立たない。
第一の河と平行して、もう1つの河がある。この別の河では、別の類いの苦しみがある。第一の河の水滴は、第二の河に渡れる可能性を持っている。水滴が今日苦しむのは、昨日十分に苦しまなかったせいである。ここでは応報の法則が働く。水滴は、あらかじめ苦しむこともできる。遅かれ早かれ、すべては償われる。宇宙にとって、時間は存在しない。苦しみは自主的に受けることができ、進んで受ける苦しみだけに価値がある。ただ不幸であるという理由で苦しむこともできるが、昨日を償い、明日に備えて苦しむこともできる。
繰り返して言うと、自主的な苦しみだけが価値を持っている。
問:キリストは、秘教の教団で教育された指導者だったのですか? それとも、偶然の天才だったのですか?
G:知識がなくては、キリストはキリストであり得なかったし、キリストのしたこともできなかったはずである。キリストがいた所に知識があったことは知られている。
問:我々がただ機械的であるならば、宗教にどんな意味があるのですか?
G:
宗教は、ある人々にとっては法則、導き、手引きであり、他の人々にとっては、警官である。(Gの言い方を借りるなら、「宗教」という言葉自体が時代錯誤なのかもしれない。なぜなら、ここで宗教と呼んでいたものは、西暦2017年の現在ではほとんど失われてしまっているのだから。もちろん秘教学派等にはあるかもしれないが、大半の人間の手の届くところにはない。つまりは、「古代宗教」もしくは、「原始宗教」と呼ぶべきなのかもしれない。)
問:以前の講義で、地球は生きていると言われましたが、それはどういう意味ですか?
G:生きているのは我々だけではない。部分が生きていれば、全体も生きている。宇宙全体が鎖のようなもので、地球はこの鎖の中の1つの輪である。運動のある所に生命がある。
問:死ななければ生まれ変わることができないとは、どういう意味で言われたのですか?
G:いかなる宗教も、地上でのこの人生の死について語っている。死が、生まれ変わるより先に来なければならない。
だが、何が死なねばならないのであろうか? 自分の知識についての誤った自信、自己愛、エゴイズムである。我々のエゴイズムを粉砕しなければならない。我々はきわめて複雑な機械であり、エゴイズム粉砕の過程が、長く、困難な仕事であるということを心しなければならない。真の成長が可能になる前に、我々の人格が死ななければならない。
問:キリストは舞踊を教えましたか?
G:その場にいなかったので、わからない。舞踊と体操を区別する必要がある。この2つは異なるものである。キリストの弟子たちが踊ったかどうかは、知らない。しかし、キリストが訓練を受けた所で、「宗教体操」を教えたことは確かである。
問:カトリックの祭典や儀式に、何かの価値がありますか?
G:カトリックの儀式を研究したことはないが、ギリシア正教の儀式ならよく知っている。そこでは、形式や儀式の根底に真の意味がある。あらゆる儀式は、元のままの形で行われていれば、価値がある。儀式は、古代の舞踊のように、真実を記した案内書である。しかし、それを解読するには鍵が要る。
古いカントリーダンスも意味を持っている。その中のあるものは、ジャムの製法といったようなものまで含んでいる。
儀式とは、多くのことが記されている本である。読める人には読める。1つの儀式には、百冊の書も及ばぬ多くのことが書かれている。通常、すべてが変わるが、習慣と儀式は、元のままであることが可能である。
問:魂の生まれ変わりということはありますか?
G:
魂は得難いものである。十分に発達した魂を持って生まれてきた人は、1人としていない。魂の生まれ変わりについて話すことができるには、その前に、どのような人間について、どのような魂について、どのような生まれ変わりについて話しているのかを、明確にする必要がある。魂は、死後すぐに分解してしまうかもしれないし、しばらくしてから分解するかもしれない。あるいは、ある魂は、地球の限界内では結晶化することができて地球に残るかもしれないが、太陽に対しては結晶していない。
問:女性も男性と同じように働けますか?
G:男性と女性では、それぞれ異なった面が発達している。男性では知性面であり、これをAと呼ぼう。女性では感情面であり、これをBと呼ぼう。研究所の仕事は、あるときはAの線に沿って行われ、その場合、Bにとってはとても難しい。あるときはBの線に沿って行われ、これはAには困難である。しかし、真の理解に達するには、AとBの融合が不可欠である。この融合がCという力を生み出す。
男性にも女性にも同等の可能性がある。

問:どうやって注意力を増すことができますか?
G:人々に注意力はない。それを獲得することを目標としなければいけない。自己観察は、注意力を獲得した後に初めてできる。小さなことから始めなさい。
問:どういう小さなことから始めたらよいのですか? 何を為すべきでしょうか?
G:いらいらして、落ち着きのない動作から、あなたは自分に対して無力であり、馬鹿者だということが、それとなく誰にでもわかる。そういう落ち着きのない動作を続けるかぎり、何ものにもなれない。そういう動作をやめることをあなたの目標、あなたの神としなさい。家族に協力してもらってでも、そうしなさい。そうした後で初めて、たぶん、注意力を増すことができるであろう。これが「為す」ことの一例である。
もう1つの例をあげると、大志を抱くピアニストは、一歩一歩学ぶしかない。旋律を弾きたくても、練習しなければ完全な旋律は弾けないであろう。あなたの旋律は耳ざわりで不快感を与え、人から嫌われる。心理的な問題についても同じである。何ごとを獲得するにも、長い習練が必要だ。
最初は、小さなことを達成するように心掛けなさい。初めから大きなことを目指しては、何も成就しない。さもないと、あなたの発現は、調子はずれの旋律を出してみんなから嫌われる。
問:どうしたらよいでしょうか?
G:2種類の行為がある。自動的行為と、目標に従った行為である。今のあなたにはできない小さなことを取り上げ、それをあなたの目標とし、神としなさい。何ものも、この目標を妨害してはならない。この一事だけを目標としなさい。これに成功したら、もっと大きな課題を出そう。あなたは今、過大なことをしたがる欲求を持っているが、異常な欲求である。大きなことはどうやったってできっこないのに、この欲求のために、小さなことから始めることができないのだ。この欲求を破壊し、だいそれたことを忘れなさい。小さな癖を破るのを目標としなさい。
問:私の最大欠点は、喋りすぎることだと思います。喋りすぎないように努めるのは、よい課題でしょうか?
G:あなたにはたいへんよい目標である。あなたの口数が、何もかもだいなしにしてしまっている。あなたの事業にさえ、妨げとなっている。多弁にすぎると、言葉は重みを失う。多弁の癖を克服するように努めなさい。これに成功すれば、多くの恵みが得られるであろう。誠にこれは良い課題である。だが、大きなことであり、小さなことではない。これを成就したなら、たとえ私がここにいなくとも、成功を知り、次に為すべきことについて、助けを差し延べることを約束する。
問:他人の発現を我慢するということは、よい課題でしょうか?
G:他人の発現を我慢するのは、大きなことである。普通の人間にとってできることではない。完全な人間だけにできることである。まずあなたを苛立たせずにはおかない1人の人の、1つの発現に耐えることを目標とし、神とすることから始めなさい。「欲すれば」、「できる」。「欲さなければ」けっして「できない」。この世で一番強いのは「欲すること」である。意識して欲すれば何ごとも実現する。
問:私は自分の目標をしばしば思い起こすのですが、しなければならないと思うことをするエネルギーがありません。
G:人間には、自主的に選んだ目標を達成するエネルギーがない。夜間の静止状態に蓄えた力を、全部否定的発現に使ってしまうからである。そのような発現は自動的発現であり、積極的で、意志的な発現とは反対のものである。
目標を自動的に思い出すことができても、目標を達成する力のない人々は、少なくとも最低1時間1人で静坐しなさい。すべての筋肉をリラックスさせなさい。連想はあるがままに進行させるが、とらわれてはいけない。連想に対してこう言い聞かせなさい。
「今、私の望むようにさせてくれれば、後で願いを叶えてあげよう。」
連想を誰か他人のもののようにみなし、あなた自身を連想と同一視しないように留意する。
1時間後に、紙に目標を書き留め、この紙を自分の神としなさい。これ以外のものは、存在しない。毎日ポケットからこの紙片を取り出し、読みなさい。このようにして、目標は最初は頭の中だけで、後には実際にあなたの一部となる。エネルギーを増すには、こうして静坐し、あらゆる筋肉の動きを死んだように停止させる訓練を続けなさい。1時間たって自分の内部のすべてが鎮まったら、目標について決定しなさい。連想に飲み込まれてはいけない。自主的目標を立て目標を成就することから、磁化現象と「為すという」能力が生まれる。
問:磁化現象とは何ですか?
G:人間は自己のうちに2つの物質を持っている。肉体の活性要素と、星気(アストラル)体の活性要素で出来ている2つの物質である。この2つが混合すると、第3の物質ができる。この混合物質は人体の特定部分に集まり、その人の周囲に一種の大気をつくり、ちょうど惑星を囲む大気に似ている。
惑星の大気は、他の天体との関係で、その諸物質は絶えず増減する。惑星が他の天体に囲まれているように、人間は他の人々に囲まれている。ある範囲内で2つの大気が遭遇し、この2つが「同調的」であると、その間につながりができ、法則どおりの結果が生じる。何かが流れる。大気の量は変わらないが、質が変わる。
人間は自分の大気を統御できる。この大気は、電気のようにプラスとマイナスに分かれている。どちらか一方を増大して、電流のように流せる。あらゆるものがプラスとマイナスの電気を持っている。人間において、願望と願望の否定は、プラスとマイナスに当たるであろう。星気体物質は、常に肉体的物質に対立する。
古代において僧侶は、祈祷治癒の能力を持っていた。病人の身体に両手を当てなければならない僧侶もいたが、近距離、または遠隔の地から治せる僧侶もいた。「僧侶」とは、混合物質を持ち、他人を治癒できる人のことであった。僧侶は磁化現象を起こせる人であった。病人は十分な混合物質を持たず、磁気も、生命力も十分持っていない。この「混合物質」は、凝縮状態では肉眼で見ることができる。オーラとか、後光とかは、実在するものであり、ときによっては聖蹟(せいせき)や教会の中で見ることができる。メスメールは、この物質の使用法を再発見したのである。
この物質が使えるようになるには、まずそれを獲得しなければならない。注意力についても同じである。意識した仕事と、意図して受ける苦悩を通してのみ得られ、小さなことを自主的に行うことによってのみ得られる。小さな目標をあなたの神としなさい。そうすれば、あなたは磁気を獲得する方向に向かう。磁化現象は、電気のように、凝縮させたり流したりできる。真のグループなら、この質問に対して、真の回答が与えられるであろう。

問:霊感(インスピレーション)とは何ですか?
G:霊感とは、連想である。1つの中枢部の作用である。霊感は安易なものである。これは確かだ。
葛藤と反論が結果を生じる。能動性があるところに受動性がある。
神を信ずるなら悪魔も信じているといったことには、何の価値もない。
人が善人であるとか悪人であるとかいうことには、何の価値もない。
2つの間の葛藤にのみ、何らかの価値がある。多くが蓄積されたとき初めて、新しい何かが現れる。
どの瞬間においても、内面の葛藤があるであろう。みな、自分自身を見ることはけっしてない。自己の内面を見始めれば、初めて、私の言うことがわかるであろう。やりたくないことをやろうと努力すれば、苦しむ。やりたいと思うことをやらなければ、やはり苦しむ。
あなたの好むことは、善くても悪くても、その価値は同じである。善とは相対的概念である。
仕事を始めれば、あなたの善と悪が存在し始める。
問:2つの欲望から生じる葛藤は苦しみに導きます。だが、中には、精神病院に導く苦しみもあります。
G:苦しみはいろいろな種類であり得る。初めに、2つの種類に分類しよう。第一は、無意識の苦しみ、第二は、意識した苦しみである。第一の苦しみからは何も生じない。例えば、パンを買う金がないので飢えに苦しむより、パンはあるが食べないで苦しむ方がよい。
思考、または感情のどちらか1つの中枢部だけで苦しむと、精神病院行きになる。
苦しみは、調和的でなければならない。繊細なものと粗いものの調和がなければならない。さもないと、何かが壊れる。
あなた方は多くの中枢部を持っている。3つや、5つや、6つだけではない。もっと多い。これら中枢部の間に、論争が生じる場所が1つある。だが、平衡が乱れるかもしれない。家を建てても、平衡を失えば、家は倒壊して、すべてがだいなしになる。
今、理論的な説明をしているのは、相互理解のための材料を提供するのが目的である。たとえ小さな事であろうと、何かを為すには、多大な危険を伴う。苦しみが重大な結果を招くかもしれない。
苦しみについて理解できるように、今は理論的に説明している。しかし、こうするのは今だけである。
研究所では、将来の生活は考えない。明日についてだけ考える。人間は見ることもできず、信じることもできない。自分自身を知ったとき、初めて自分の内面構造を知り、そうなって初めて、見ることができる。今は、外面的方法で研究している。
太陽や月を研究することは可能である。だが、人間はすべてを自分自身のうちに持っている。私の中に、太陽、月、神が存在する。
私が、すべての生命の全体である。
理解するには、自分自身を知らねばならない。

問:寿命を延ばす方法はありますか?
G:異なった学派の人たちが寿命を延ばすことについて様々な理論を持ち、その方式も多数ある。いまだに不老不死の霊薬の存在を疑わない、信じやすい人たちさえいる。
(不老不死の概念は、Gによれば〈死後も生き続ける結晶化した魂〉から来ているのようです。実際それは不死であるようなので。)
この問題を私がどう理解しているか、概要を説明しよう。ここに時計がある。ご存知のように時計にはいろいろな種類がある。私の時計には、24時間用に作られている大ぜんまいがある。24時間経つと、時計は止まる。中には、1週間、1か月、いやおそらく1年間動き続けるものもあるであろう。だが、ぜんまいを巻くメカニズムは、常に一定の時間用に計算されている。これは時計を作る人が決めることで、変えられない。
時計に緩急調節装置があるのを見たことがあるであろう。これを動かすと、時計が進んだり遅れたりする。緩急調節装置を取り除くと、大ぜんまいはすばやく巻き戻り、24時間として計算されたぜんまいが、3、4分間で切れてしまう。それで、私の時計は24時間用に作られているが、1週間あるいは1か月といった単位で動くこともできるわけである。
我々は時計のようなものである。我々の組織は、確立されてしまっている。各人が異なったぜんまいを持っている。遺伝が相違すれば、組織も相違する。例えば、ある組織は70年として計算されているかもしれない。大ぜんまいが切れると、生命が終わる。別の人のメカニズムは、100年用として計算されているかもしれない。この人は、別の職人によって作られたかのようだ。
このように、人の一生の長さはそれぞれ違う。その組織を変えることはできない。誰もがつくられたままで、一生の長さを変えることはできない。私の大ぜんまいが切れると、私の生涯が終わる。ある人の大ぜんまいは、たった1週間しか続かないかもしれない。人の一生の長さは、生まれたときに決まってしまい、これを変えることができると考えるなら、それはまったくの空想である。これを変えるには、何もかも変えねばならない。遺伝、父親、いや、祖父さえ変えねばならないであろう。しかし、もう手遅れである。
我々のメカニズムを人為的に変えることはできないが、より長く生きる可能性はある。すでに言ったように、大ぜんまいを24時間でなく、1週間持つようにすることができる。また、この逆もできる。50年として計算されている組織を、5、6年で終わらせることもできる。
人は誰でも大ぜんまいを持っている。我々のメカニズムはそうできている。この大ぜんまいを巻き戻すのは、我々の印象と連想である。
我々は、2つか3つの螺旋状のぜんまいを持っているだけである。ぜんまいの数は、脳の数と同じだけある。脳はぜんまいに相当する。例えば、我々の知性はぜんまいである。我々の連想は、一定の長さを持っている。思考は、糸巻きを巻き戻すのに似ている。それぞれの糸巻きには、一定の長さの糸がある。思考するとき、糸は巻き戻る。私の糸巻きには50ヤードの糸があり、別の人のには、100ヤードある。今日、私は、2ヤードを消費した。明日も同じである。50ヤード使い終えたとき、私の生命も終わる。糸の長さは変えられない。
しかし、24時間の大ぜんまいが10分間で巻き戻ってしまえるように、生命も早く消費してしまえる。ただ1つの相違は、時計にはぜんまいが1つしかないが、人間には数個のぜんまいがある。
各中枢部に、それに相応する一定の長さのぜんまいがある。1つのぜんまいが止まっても、人間は生き続けることができる。例えば、思考は70年として計算されていても、感情はたった40年用という具合である。それで、40年過ぎると、感情を持たずに生き続ける。だが、ぜんまいが巻き戻る速度は、早くも遅くもできる。
ここでは何も開発できない。我々にできるただ1つのことは、節約することだけである。時間は、連想の流れに相当する。
こういう事実は、わけなく思い起こすことができる。家で座っていると、あなたは冷静である。
5分間座っていたように感じるが、時計は1時間経過したことを示している。別のとき、通りで誰かを待っている場合、相手が来ないのでイライラし、1時間も待ったように思えるが、実際には5分しか経っていない。それはこの場合、連想がたくさん起こったからである。なぜ相手は来ないのか? 車に轢かれたのかもしれない? 等々を考えたからである。
集中すればするだけ、時間は速く経つ。1時間過ぎても気づかないのは、集中していると、連想、思考、感情が少ししか起こらず、そのために時間が短く感じられるからである。
時間は主観的で、連想の数で測れる。集中せずにいると、時間は長く感じられる。時間は、我々の外には存在せず、我々の内にだけ存在する。
思考中枢部の場合と同様に、他の中枢部でも連想が起こる。
寿命を延ばす秘訣は、中枢部のエネルギーを緩慢に、そして意図的に消費する能力にかかっている。意識して思考することを習得しなさい。それが、エネルギー消費の節約となる。夢想してはいけない。

(子供の教育について)
問:睡眠中に暗示を与えて子供を教育するという方法があります。こういう方法は、何か役に立ちますか?
G:そういう種類の暗示は、少しずつ毒を与えていくのと変わらない。最後に残ったひと欠片(かけら)の意志を破壊する。教育は、非常に複雑である。教育は多面的でなければならない。例えば、子供に肉体的訓練のほか何も与えないのは誤りである。
概して、教育は知性の形成に限定されている。子供は、おうむのように何も理解しないで童謡を暗唱するように教えられ、それができると、両親は喜ぶ。学校でも、これに劣らず機械的に学習するだけで、優等生で卒業したものの、何も理解せず、何も感じとれない。知性の発達程度では40歳の大人であるが、本質は10歳の子供のままである。知性では何も恐れないが、本質では恐れている。彼の道徳意識はまったく機械的で、まったく外面的である。童謡を暗唱したように、道徳も暗記する。だが、子供の本質である内面の存在は何の指導も受けず、放置されたままである。自分自身に誠実であれば、子供にも大人にも人間には道徳意識など一欠片もないことを認めないわけにはいかない。
我々の道徳意識は、まったくの観念的、機械的なものであり、自分自身に誠実であれば、我々がいかに悪人であるかが理解できる。
教育は仮面以外の何物でもなく、人の本性とは無関係である。人々は、子供の育て方の優劣を問うが、実際にはみな同じである。すべての人が同じなのだが、誰もが他人のちょっとした落ち度にすぐ目をつける。我々はみな、自分自身の最大の欠点に盲目である。自分自身に誠実であれば、自分を他人の立場に置き、自分が相手よりもよくないことに気づく。向上したければ、他人を助けるように努力しなさい。ところが現状では、人々は互いに妨害し合い、けなし合っている。その上、人を助けたり高めたりすることができないのは、自分自身さえ助けることができないからである。
何よりもまず、自分自身について考え、自分自身を高める努力をしなければならない。
利己主義者であらねばならない。利己主義が、利他主義、すなわち、キリストの教えにいたる道の最初の段階である。
だが、この利己主義は、良い目的を持つ利己主義でなければならないが、これは非常に難しい。我々は子供を普通の利己主義者に育て、その結果はご覧のとおりである。とはいえ、人を批判するには、常に自分自身を省みなさい。我々は自分たちがどんなものかを知っている。現代の教育方法で育てられた子供たちが、せいぜい我々と同じようになることは確かであろう。
子供が健全であることを願うなら、まず、あなた自身が健全であることを願いなさい。あなたが変われば子供も変わる。子供の将来を思うなら、しばらく子供のことを忘れ、自分自身について考えなければならない。
あなたが自分に満足していれば、潔白な良心を持って、今までと同じように育てることができる。
しかし、あなたは自分自身に満足しているであろうか?
我々は他人を、その人の仮面を貫いて見ることができないから、いつも自分自身から出発し、自分自身を例としなければならない。自分を知ってさえいれば、他人を見ることができる。なぜなら、すべての人はみな内側では似ていて、他人も我々と同じだからである。彼らも、我々と同じように向上しようというよい意図を持っているのだが、向上できないのである。彼らにとっても同じように、困難なのである。彼らも不満で、失望し続けている。彼らの中に現在あるものを許し、将来を想い起こしなさい。自分自身を後悔するならば、将来のために、前もって他人を気の毒に思わなければならない。あらゆる罪のうち、最大の罪は、教育について疑問を持ち始めたにもかかわらず、教育し続けることである。教育を信じているなら、あなたの責任は、疑問を持ち始めたときほど重くない。
法律は、子供が学校へ行くことを要求している。行かせなさい。だが、父親のあなたが学校に満足してはいけない。あなた自身の経験から、学校は単に頭の知識、すなわち、情報を与えるだけであることを知っているであろう。それは一中枢部だけを発達させるから、あなたは、子供が学校で得た情報に生命を与え、不足を補ってやるように努めなければいけない。こうすることは妥協であるが、
ときには妥協でさえ、何もしないよりましである

・性教育の問題について
子供の教育に関し、特に重要な問題があるが、これについて正しく考え、話されたことはいまだかつてない。現代の教育にみられる奇妙な特徴は、子供たちが、性に関して指導されずに成長することである。
数世代にわたる誤った態度により、この側面は全部歪められ、曲げられてしまっている。これが、人生で多くの誤った結果を招く主要な原因となっている。このような教育からどんな結果が生じるかは、周知のとおりである。我々の誰もが自分自身の体験から、人生の重要な側面であるこの面が、ほとんど全面的に損なわれているのを知っている。この面で正常な人を見つけるのは困難である。
この害は少しずつ起こる。性の発現は4、5歳から始まる。指導しなければ、子供はやすやすと誤った方向に行くかもしれない。教え始めるべきなのはこの時期で、あなた自身の経験が役に立つ。
この点に関して正常にしつけられた子供は極めて稀である。往々にしてあなたは、子供のことを後悔しながら、何もできない。子供自身が善悪の判断ができるようになったときは通常手遅れで、すでに害されている。
性に関して子供を指導することは、微妙である。どの場合でも個人的に扱わなければならないし、子供の心理に関し徹底した知識を必要とするからである。子供を十分に理解しないで指導するのは危険である。子供に、あることを説明したり禁止したりするのは、往々にして子供の頭の中に、禁断の実への衝動を植えつけ、好奇心を起こさせる。
性中枢部は、我々の人生で非常に大きな役割を演じる。我々の思考の75パーセントは性中枢部に発し、こういう思考が他の部分に影響する。
この点に関して異常でないのは、中央アジアの人達だけである。この地域では、性教育は宗教儀式の一部であり、多くの美点を持つ結果を伴っている。世界のこの地域には性的弊害はみられない。

問:子供はどの程度指導すべきでしょうか?
G:一般的に言って、子供の教育はすべて子供自身の意志から発する、という原則に立っていなければならない。何ものも、できあいのまま与えるべきではない。我々は、ただ考え方を示したり、手引きとなることができるだけであり、直接関係のないことから出発し、問題点に達するという間接的方法で、教えることができるだけである。私はけっして直に教えない。そうでないと、生徒たちは何も学ばないであろう。
私がある生徒に対して、彼が変わるように望むなら、私は関係のないところから始めるか、または誰か他の人に話すかする。そうすると学ぶ。というのも、子供に直に教えると、子供は機械的に教育され、後になって、同じように機械的に自己を発現するからである。
機械的な発現と、個人と呼べる人間の発現は異なり、質が異なる。前者はつくられ、後者はつくる。前者は創造ではなく、人を通した創造であり、人間による創造ではない。その結果できるものは、何も独自のものを持たない芸術である。そういう作品の持つ一つ一つの線がどこから来るかは明白である。

問:呼吸運動は役に立ちますか?
G:ヨーロッパ中が呼吸運動で夢中になっている。そのような方法で呼吸を損なった人々を治療して、私はこの4、5年間、収入を得てきた!
呼吸運動について多くの本が書かれ、誰もが他に教えようとしている。こういう人々は、「たくさん呼吸するほど酸素の流入が増える。」などと言い、そのあげく私のところへ来る。
私は、そのような本の著者や、学校の創設者、その他の人々に大いに感謝する。
ご存知のように、空気は第2の種類の食物である。あらゆることにおいて、化学や物理学で研究される現象などにおいて、正確な比率が必要である。結晶作用は一定の対応があって初めて起こり、そうなったとき初めて、何か新しいものが得られる。
あらゆる物質は一定の密度の振動を持っている。物質間の相互作用は、異なる物質の振動間の厳密な対応によって初めて起こる。「三の法則」についてはすでに話した。例えば、正の物質の振動が300で、負の物質のそれが100であれば、組合せが可能である。そうでなく、実際の振動がこのような数字に厳密に合致していないと、いかなる組合せも生じず、機械的混合が生じ、元の構成要素に分解できるので、まだ新しい物質ではない。
組合せる成分の量も、決定的な比率でなければならない。あなた方は、練り粉をつくるには一定量の粉に対し、一定量の水が必要なことを知っている。必要な量より少ない水では練り粉はできない。
通常の呼吸は機械的であり、必要な量の空気を機械的に摂取する。空気が多すぎると、当然あるべきように組合わさらないから、正確な比率が必要である。
一般に行われているような方法で人為的に呼吸を制御すると、不調和を引き起こす。従って、人為的な呼吸がもたらすかもしれない弊害を避けるには、他の食物を相応に変えなければならない。
そうするには、完全な知識があってのみ可能である。例えば、胃は一定量の食物を必要とするが、それは単に栄養摂取のためだけでなく、胃がそのように慣れているからである。我々が必要以上に食べるのは、単に味覚のため、満足感のためと、胃が一定の圧力に慣れているためである。あなた方は、胃がある神経を持っているのを知っている。胃中の圧力がなくなると、この神経が胃の筋肉を刺激し、空腹感を与える。
多くの器官は、我々の意識を伴わずに機械的に働く。これらの器官のそれぞれが独自のリズムを持ち、異なる器官のリズムが相互に一定の関係を保っている。
例えば、呼吸を変えれば肺のリズムが変わるが、あらゆるものが関連しているので、他のリズムも次第に変わってゆく。人為的呼吸を長期間続ければ、すべての器官のリズムが変わるかもしれない。例えば、胃のリズムが変わる。胃はそれ自体の習慣を持っていて、食物を消化するのに一定の時間を要し、例えば、食物が胃中に1時間とどまらなければならないとしよう。胃のリズムが変われば食物が速く通過し、胃が食物からすべての必要なものを摂取する時間を失う。別のところではこれと逆のことが起こるかもしれない。
知識を持たずに我々の機械をいじるより、それに干渉せず、悪い状態のままにしておいた方が1,000倍も望ましい。というのは、人体組織は非常に複雑にできていて、異なるリズムと異なる必要性を持つ多くの器官を内蔵し、しかもこれらの器官は相互に関連しているからである。あらゆるものを変えるか、何も変えないかの、いずれかでなければならず、そうでないと、改善でなく、害を被ることになるかもしれない。人為的な呼吸は多くの病気の原因である。たまたま例外的に、手遅れになる前に中止した場合にのみ、弊害をまぬがれている。長期間続ければ、結果はいつも有害である。
自己について仕事をするには、自己の機械のあらゆるネジ、あらゆる釘(くぎ)を知らなければならない。そうすれば、どうすべきかわかる。少ししか知らないで試みると多くを失うかもしれない。機械は非常に複雑であるから危険が大きい。簡単に壊れる非常に小さなネジがあり、強く押すと壊れてしまう。しかも、こういうネジは店で買うことができない。
非常に慎重でなければならない。あなた方が知ったときは、別の問題である。ここにいる人々のうち、呼吸の実験をしている人がいるなら、手遅れにならないうちにやめた方がよい。

(俳優について)
問:俳優の職業は諸中枢部(センター)間の調和した働きを発達させるのに役立ちますか?
G:俳優が演じれば演じるほど、その人の諸中枢部の働きは分離する。演技するには、第一に芸術家でなければならない。
白光を出すスペクトルについて話したことがある。いわば、白光を出せる人であれば、俳優と呼ぶことができる。真の俳優とは創造できる人、スペクトルの七色すべてを出せる人である。
そういう芸術家は過去に存在したし、今日でも存在する。しかし現代では一般に、俳優は外見だけ俳優である。
他の誰もがそうであるように、俳優は一定数の基本的姿勢を持っている。俳優のとるその他の姿勢は、単にこれらの異なる組合せである。すべての役柄は姿勢で築かれる。練習して新しい姿勢を身につけることは不可能であり、古い姿勢を強調するだけだ。練習を長く続けるほど、新しい姿勢を習得することが難しくなり、可能性が少なくなる。
俳優がどれほど熱演しても効果はなく、エネルギーを浪費するだけである。そうした材料を蓄え、何か新しいものに使えばもっと有益であろう。今のままでは、材料は古いものに使われている。
彼自身と他の人の空想の中でだけ、俳優が創造しているように見える。実際には俳優は創造できない。
我々の仕事では、この職業は役に立たず、逆に、明日のために有害である。この職業を一刻も早くやめた方が明日のためになり、新しいことを始めるのが容易である。
才能は24時間でつくられる。天才は存在するが、凡人は天才ではあり得ない。天才とは、ただの言葉である。
すべての芸術において、このとおりである。真の芸術は凡人の仕事ではあり得ない。凡人は演じることができず、「私」であることができない。俳優は他人が持っているものを持つことができず、他人が感じるように感じることができない。僧侶の役を演じるなら、僧侶の理解と感情を持たなければならない。だが俳優がそれを持てるのは、僧侶の素材すべて、僧侶が知っていること、理解していることのすべてを持つ場合に限る。どの職業についてもそうであり、専門の知識を必要とする。
知識のない芸術家は空想するだけだ。
連想は各個人の中で、決まった方法で作用する。ある人がある動作をしているのを私が見る。これが私に衝撃を与え、そこから連想が始まる。私が警官なら、おそらく、この人が私の懐中を狙っているのだと仮定するであろう。だが、この人が私の懐中のことを考えもしなかったとしたら、警官である私は、その人の動作を理解していない。私が僧侶であれば他のことを連想し、この人が実際に私の懐中のことを考えているとしても、私は、その動作が魂の問題につながっていると思うであろう。
僧侶と警官の心理と、この人たちの異なる接近方法を知って初めて知性で理解することができ、また、身体のうちに相応する感情と姿勢を持って初めて、私は知性で、この人たちの思考による連想が何であるか、どの思考による連想が、この人たちの感情による連想を呼び起こすかを知ることができる。これが第一歩である。
私は自分の機械を知っているので、毎瞬連想を変えるように命令する。だが毎瞬そうしなければならない。連想は毎瞬自動的に変わり、ある連想が他の連想を呼び起こし、さらにそれが続く。私が演技しているなら、毎瞬連想を監督しなければならない。弾みにまかせることは不可能である。
監督できる人がいて初めて、私が監督することができる。
思考は監督できない、思考はふさがっている。私の感情もふさがっているなら、演技に没頭していない人、人生に没頭していない人がいなければならない。そうなれば、初めて監督することができる。
「私」を持ち、あらゆる点に関し何を必要とするかを知っている人が、演じることができる。
「私」を持たない人は、演じることができない。
普通の俳優は役を演じることができない。この人の連想はふさわしくない。ふさわしい衣装を着け、ほぼ適した姿勢を保っているかもしれないし、演出家や原作者の指示するように顔をしかめるかもしれない。原作者もこういうことをすべて知っていなければならない。
真の俳優であるためには、真の人間でなければならない。真の人間は俳優であり得、真の俳優は真の人間であり得る。
誰もが俳優であるように試みるべきである。それは高い目標である。あらゆる宗教、あらゆる知識の目標は演技者であることだ。だが今のところ全部が俳優である。

問:芸術の数学的基礎を研究する必要がありますか? それともそのような研究なしに芸術作品を創造できますか?
G:この研究なしには、偶然の結果が期待できるだけである。反復は望めない。
問:感情に発する、無意識の芸術はありえませんか?
G:無意識の芸術はありえない。その上、我々の感情は非常に愚かである。感情は1側面しか見ることができないが、あらゆることを理解するにはすべての側面を見なければならない。歴史を研究すると、そのような偶然の芸術があったことに気づくが、通例ではない。
問:数学的法則の知識なしに和声法による作曲ができますか?
G:ある音と別の音の間に和声があり、また和音があるだろうが、和声の中に和声はない。我々は今、影響力、意識的影響力について話している。作曲家は影響を与えることができる。
現在のようでは、人は何にでも影響され、ある状態から別の状態にさせられる。あなたは幸せであると仮定しよう。この瞬間にある音がする。鐘の音、音楽、どの曲でもよい、フォックストロット
(アメリカの社交ダンス)かもしれない。あなたはそれを聞いたことをすっかり忘れてしまうが、後に同じ音楽、または同じ鐘の音を聞くと、連想により今と同じ感情、例えば愛を呼び起こす。これも影響力であるが、主観的である。この場合、音楽だけではなく、どんな種類の雑音でも、連想を引き起こす。その音が何か不快なこと、例えばお金をなくしたことにつながっていれば、不快な連想が生じるであろう。
しかし、我々は客観的芸術、音楽や絵画における客観的法則について話しているのである。
数学的知識がなくては客観的芸術はありえないから、我々が知っている芸術は主観的である。偶然的結果は、めったに起こらない。
連想は我々にとって非常に強力で重要な現象であるが,その重要性はすでに忘れられた。古代、人々は特別な祭日を持っていた。例えば、ある祭日は音の特定な組合せに捧げられ、別の日は花、または色、3番目の日は味、別の日は天候、寒さと熱さに捧げられた。このように、異なる感覚を比較した。
例えば、ある日が音の祭日であったと仮定しよう。1時間目はある音を流し、別の1時間には別の音を流す。この間に特別の飲み物、また、時には特別な喫煙物が回される。簡単に言うと、将来のための連想を創造するように、外的影響力の助けを借り、化学的手段によって、ある状態と感情を呼び起こしたのである。後に類似の外部環境が再現されると、同じ状態が呼び起こされる。
我々が一般に恐れている動物である、ネズミや蛇の特殊な祭日もあった。人々に特別な飲み物を与えた後、蛇のような生き物を手にとらせた。こうして、人々に、恐怖心をなくす印象を焼きつけた。このような風習はずっと昔ペルシアやアルメニアにあった。昔、人々は人間の心理を非常によく理解し、そのように導いた。しかし一般大衆には理由は説明されず、異なる角度からの異なった解釈が与えられた。僧侶だけがその意味を全部知っていた。これは、
僧侶である王に、民衆が統治されたキリスト教以前の時代に関することである
問:舞踊は身体の統御にだけ役立つのですか、それとも神秘的な意味も持っていますか?
G:舞踊は知性のためである。舞踊は魂には何も与えない。魂は何も必要としない。舞踊には意味があり、一つ一つの動きが意味を持つ。
だが、魂はウイスキーを飲まない、ウイスキーが嫌いである。魂は、我々と無関係に受け取る別の食物が好きである。
問:研究所における仕事は、私たち自身の仕事を何年間かやめることを必要としますか、それとも同時に進めることができますか?
G:研究所における仕事は内面の仕事である。これまでのところあなたは外面の仕事だけをしてきたが、それとはまったく相違する。ある人々にとっては外面の仕事をやめる必要があるかもしれないが、他の人々にはその必要はない。
問:内面の発達と、均衡(きんこう)を得るという目的は、外面の世界より強くなり、超人になるためですか?
G:人間は、為すことができないということを悟らなければならない。我々のすべての活動は外部からの刺激で動き出す。すべて機械的である。たとえあなたが為すことを欲しても、あなたは為すことができない。
問:芸術と創造はこの教えの中でどんな位置を占めていますか?
G:現代の芸術は必ずしも創造的ではない。しかし、我々にとって芸術は目的でなく、手段である。
古代芸術は、内面の意味を持っていた。過去において芸術は、今日の図書が果たす役割と同じ目的を果たした。つまり、一定の知識を保存し、伝えるという目的である。古代においては人々は本を書かず、芸術作品で知識を伝えた。解読の仕方さえ知っていれば、今日に伝わる古代芸術のうちに多くの概念を見いだす。当時は、音楽を含む、あらゆる芸術がこのようであった。
あなた方は運動と舞踊を見たであろう。だが、あなたが見たのは外形、つまり美と技術だけである。私はあなた方の見る外面が嫌いである。私にとって、芸術は調和的発達の手段である。思考せずに、自動的にはすることができないことをする、というのが我々の仕事の基本的概念である。
普通の体操と舞踊は機械的である。我々の目的が人間の調和的発達であるならば、
我々にとって舞踊と運動は、知性と感情を身体の運動に結合させ、これらを一緒に発現させるための手段である。我々がするすべてのことにおいて、直接または機械的に発達させることができないもの、つまり、知性、身体、感情の揃った完全な人間を開発するという目的を持っている。
舞踊の2番目の目的は、研究である。ある運動は、確実な知識、または宗教的、哲学的思想を証明する。ある運動には、ある料理のつくり方さえ読み取れる。
東洋の多くの地域では、こういった舞踊の内面の意味は今ではほとんど忘れられてしまったが、ただ慣習的に踊り続けている。
このように、運動は2つの目的を持っている。研究と発達である。
問:ということは、西洋のすべての芸術は何の意義も持たないということですか?
G:私は東洋の古代芸術を研究した後に、西洋の芸術を研究した。実のところ、西洋には東洋の芸術に比較できる何ものも見いださなかった。西洋の芸術は外的なもの、ある場合には非常に多くの哲学を持っている。しかし東洋の芸術は厳密で、数学的であり、操作しない。文書の一形式である。
問:西洋の古代芸術に同じようなものを見いだすことができませんでしたか?
G:
歴史を研究すると、あらゆるものがいかに徐々に変化するかがわかる。宗教的儀式についても同じである。初め、儀式は意味を持ち、儀式を行う人々もその意味を理解していた。だが少しずつ意味が忘れられ、儀式は機械的に行われるようになった。芸術についても同じである。
例えば、英語で書かれた本を理解するには、英語を知らなければならない。私は空想についてではなく、数学的、非主観的芸術について話しているのである。現代の絵描きは自分の芸術を確信し、感じるかもしれないが、あなたは主観的に見る。ある人はそれを好み、別の人は嫌う。好き嫌いという、感情の問題である。
しかし、古代の芸術は愛好するものではなかった。解読した人は誰でもそれを理解した。今では、このような芸術の目的は、すっかり忘れられている。
建築を例にとろう。私はペルシアとトルコでいくつかの建築を見た。例えば、2つの部屋を持つ建物である。この部屋に入った人は皆、年寄り、若者、英国人、ペルシア人であろうと、泣いた。これが、生まれと教育を異にする人々に起こったのである。我々はこの実験を2、3週間続け、それぞれの人の反応を観察した。結果はいつも同じだった。我々は特に陽気な人々を選んだ。建築上の組合せによって建物の中に起こる数学的に計算された振動
(影響)が、他のいかなる結果ももたらさなかったのだ。我々は、ある法則下にあり、外部的影響に逆らえなかったのである。この建物の建築家が我々とは異なる理解を持ち、数学的な建築をしたため、結果はいつも同じだった。
もう1つの実験をした。楽器を特別な方法で調律し、音を組合せ、通りから連れて来た通行人からも、我々が望んだ結果を得た。この場合、ただ1つの違いは、ある人は強く、別の人は弱く感じたということである。
修道院に行く。あなたは宗教的な人ではないが、そこで聞く音楽や聖歌が、祈りたいという気持ちを呼び起こす。後でこのことに驚く。誰でも、そうである。
こういう客観的芸術は法則に基づいているが、現代音楽はまったく主観的である。この主観的芸術のすべてがどこから来るかを証明できる。
問:数学はすべての芸術の基礎ですか?
G:東洋のすべての古代芸術の基礎である。
問:それでは、その公式を知っている人は誰でも、同一の感情を引き起こす大聖堂のような、完全な形の建物をつくれたのですか?
G:そうだ。その上、同一の反応も得ることができた。
問:それでは芸術は知識であって、才能ではないのですか?
G:
芸術は知識である。才能は相対的である。私は声を出さずに、あなたが上手に歌えるように1週間で教えることができる。
問:それなら、数学を知っていれば、私もシューベルトのように作曲することができますか?
G:知識が必要である。数学と物理学である。
問:秘儀的物理学ですか?
G:すべての知識は1つである。数学の4つの規則しか知らなければ、あなたにとって小数は高等数学である。
問:作曲するには、知識とともに、発想が必要ではありませんか?
G:数学の法則は誰にとっても同じである。数学的に構成されたすべての音楽は運動の結果である。私がかつて、運動を観察することを思いつき、芸術についての資料を集めるために旅をしていたとき、運動だけを観察した。家に帰り、観察した運動に従って音楽を演奏したところ、実際の音楽と同一であることが証明された。その音楽を作曲した人が数学的に作曲したからである。しかも私は時間がなかったので、運動を観察している間、音楽は聞かなかった。
問:(ある人が平均律について質問した。)
G:東洋でも我々と同じように、ドからドのオクターヴを持っている。こちらではオクターヴを7つに分割するが、あちらでは48、7、4、23、30というように、異なった分割をする。しかし法則はどこでも同じである。つまり同じドからドのオクターヴである。
一つ一つの音も7つに分割できる。耳がよければよいほど分割の数が多くなる。
研究所では4分の1音を使っているが、それは西洋楽器にはこれより小さい分割がないからである。ピアノの場合はある程度の折衷
(せっちゅう・良いところを集めて1つにまとめるという意味)が必要である。弦楽器は4分の1音を出せる。東洋では4分の1音だけでなく、7分の1音も使う。
外国人にとって東洋音楽は単調に聞こえる。彼らは、粗野で貧困な音楽だと呆れるだけである。しかし、外国人には1つに聞こえる音が、その地方の住人には完全な旋律、つまりたった1つの音の中に、完全な旋律を持つ音楽を聞くのである。この種類の旋律は、我々の旋律より難しい。
東洋の音楽家が旋律を間違えて弾くと、聴衆の耳には不協和音として聞こえるが、ヨーロッパ人にとっては、全体がリズム的単調さで終止する。この点については、その土地で育った人だけが、良い音楽と悪い音楽を区別することができる。
問:数学的知識があれば、何かの芸術で自己表現するでしょうか?
G:発達は、青年にとっても老人にとっても限界がない。
問:どの方向についてですか?
G:すべての方向についてである。
問:そう願う必要がありますか?
G:ただ願うだけではない。まず発達について説明しよう。進化と退化の法則がある。あらゆるものが、生物と無生物のどちらもが上か下のどちらかに向かって動いている。しかし、進化にも退化にも限界がある。1つの例として、7音階をとろう。1つのドからもう1つのドまでの間に停止する場が1つある。鍵盤のドに触れる。ドは一定のはずみを持つ振動である。その振動で、ドはもう1つの音、レを振動させるまで、一定距離を進行でき、次いでミに至る。これらの音は、この点まで進行できる内部的可能性を持っているが、ここで外部からの押しがないと、オクターヴは逆戻りする。外部の助けを得れば、そのままで長距離を進行できる。人間もこの法則に従って構成されている。
人間は、この法則の発展の中の装置としての役を果たす。私はものを食べるが、自然界はある目的のために私をつくったのであって、私は進化しなければならない。私は私自身のためでなく、ある外部の目的のために、ものを食べる。このものは私の助けなしにそれ自体で進化することができないので、私がそれを食べるのである。私はパンを食べ、空気と印象も摂取する。これらは外部から入り、そして法則によって働く。オクターヴの法則である。どの音をとっても、それがドになることができる。ドは可能性とはずみの両方を持っている。ドは助けなしにレとミに上昇することができる。パンは進化することができるが、空気と混ざらないとファになれない。このエネルギーが、パンが困難な場所を通過するのを助ける。この後シまでは助けを必要としないが、これより先は、それ自体では進めない。我々の目標は、このオクターヴの完成を助けることである。普通の動物の生命においてはシが最高位の物質で、それを材料として新しい身体が築かれる。
問:魂は別ですか?
G:すべての法則は1つである。だが魂は大して関係ない。我々は今身近な事柄を話しているのである。しかし、この法則、三位一体の法則はいたるところにある。第3の力なしには、新しいものはありえない。
問:第3の力によって、停止点を通過できますか?
G:知識を持っていればできる。自然は、空気とパンが化学的に極めて相違し、混ざらないようにした。しかしパンがレとミにおいて変わると浸透しやすくなり、混ざることができる。
さあ、あなたは自己についての仕事を始めなければならない。今あなたはドである。ミに達すると助けに出会うことができる。
問:偶然によってですか?
G:一切れのパンを、私は食べ、他の人は捨てる。これが偶然であろうか?
人間は3階建ての工場である。それぞれの階の貯蔵室に保管される原材料を搬入するための3つの扉がある。もしこれがソーセージ工場であるなら、外部からは、屠殺された動物の胴体が搬入され、ソーセージが出てくるのが見えるだけであろう。しかし実際にはもっと複雑な配置である。我々が今研究しているような工場を建てようとすれば、すべての機械に注目し、詳細に検査しなければならない。
「上のように、下も」という法則は、どこでも同じであり、全部1つの法則である。我々も自己の中に太陽と、月と、惑星を持っているが、非常に小さい規模でしかない。
あらゆるものが動き、あらゆるものが放射するのは、あらゆるものが何かを食べ、何かに食べられるからである。地球も放射し、太陽も放射する。こうした放射は物質である。地球は、地球の放射を限定する大気を持っている。地球と太陽の間に3種類の放射があり、地球の放射は短距離だけに届き、惑星のはずっと遠くに届くが太陽までは届かない。我々と太陽の間に3種類の物質があり、それぞれ異なる密度を持っている。第1は地球に近い物質で、地球の放射を含有し、その次は惑星の放射を含有している物質であり、さらにその先は太陽の放射を持つ物質である。密度は1、2、4の割合を示し、振動は逆比例するが、それは純度の高い物質ほど振動率が高いからである。しかも、我々の太陽の向こうには他の太陽があり、それらも放射し、影響力と物質を送り出し、その先に、すべての源泉がある。この源泉は、数学的に言い表せるだけだが、それも放射している。これらの高次の場は、太陽の放射が届く限界外である。
極限からの物質を1とすると、密度に従った物質の分裂が増えるほど、数が多くなる。同一法則があらゆるものを貫く。陽性、陰性、中和力の3の法則である。最初の2つの力が第3の力と混合すると、まったく異なるものができる。例えば、粉と水だけでは、粉と水のままで変化しない。しかし火を加えると火がこれらを焼き、異なる特性を持つ新しいものができる。
単一体は3つのものから成っている。宗教では、父なる神、子なる神、聖霊なる神という祈祷の言葉がある。1つの中の3つということは、事実というより法則を表している。この基本的な単一体は物理学で用いられ、単一体の基準となっている。3つの物質は「炭素」、「酸素」、「窒素」であり、これらが1つになって、いかなる密度の「水素」であろうと、すべての物質の基礎である。
「水素」をつくる。宇宙は7つの音を持つオクターヴである。一つ一つの音が、その先のオクターヴに分割され、これを何度も繰り返して、分割できる極限の原子に到達する。あらゆるものがオクターヴに配列され、宇宙のオクターヴに到達するまで、個々のオクターヴは、それより上位のオクターヴの中の1つの音を構成する。絶対からの放射はあらゆる方向に向かうが、そのうちの1つを例にとろう。我々もその一部である宇宙光線である。宇宙光線は、月、有機体、地球、惑星、太陽、すべての太陽、絶対からなる。宇宙光線はこれより先へは進まない。
絶対からの放射は他の物質に出会い、新しい物質に変化し、次第に密度を増し、法則に従って変わってゆく。絶対から出る放射を3の組合せとして理解することができるが、次の順位の物質と混ざると6になる。そして、我々の場合と同じように、進化と退化があるため、この過程は上昇か下降のどちらか一方に向かって進行し、ドはシになるか、あるいは逆方向ではレになる。地球のオクターヴはミにおいて助けを必要とし、この助けを惑星から得て、ミからファになる。
問:異なる配列を持つ他の宇宙を、オクターヴに基づいて想像することは可能でしょうか?
G:この法則はすべてに通じ、実験により証明されている。
問:人間は自己の中にオクターヴを持っているが、高次の可能性はどうなのですか?
G:いかにして為すかを見いだすこと、これがすべての宗教の目標である。無意識ではできない。体系によって教えられる。
問:それは次第にわかってくることですか?
G:ある限界まではそうである。後に困難な場所(ミとファの間)に到達し、法則に従っていかに通過するかを見いだす必要がある。
問:限界は誰にとっても同じですか?
G:行き方は異なっても、みなが「フィラデルフィア」
(当時フランスからは船旅しかなかったので、あくまでも「遠い目的地」という意味で使っていると思われる)に着かなければならない。限界は同じである。
問:数学的法則によって、誰でも高次の段階に達せますか?
G:肉体が生まれるのは、多くのことの結果であり、肉体は空虚な可能性にすぎない。人間は魂を持たずに生まれるが、魂を作ることは可能である。遺伝は魂にとって重要ではない。一人一人が、変えなければならないものをたくさん持っている。それらは個人的なものである。しかしその時点を超えると、準備は役立たない。
方法は異なっても、みなが「フィラデルフィア」に着かなければならない。これがすべての宗教の根本目標である。しかし一人一人が独自の道筋を進む。特殊な準備が必要である。我々のすべての機能が調和し、我々のすべての部分が発達しなければならない。「フィラデルフィア」の先は、道は1つである。
人は異なる言葉、異なる欲望、異なる発達と教育を持つ3人で出来ている。しかし後には全部が1つになる。全部が均等に発達しなければならないから、ただ1つの宗教があるだけである。
あなたはキリスト教徒、仏教徒、あるいはイスラム教徒として出発し、あなたのなじんでいる線に沿って仕事をし、1つの中枢部から始めてよい。しかし、後には他の中枢部も発達させなければならない。
ときとして宗教は意図してものごとを隠すが、そうしないと我々が仕事をすることができないからである。キリスト教では信仰は絶対に必要であり、キリスト教徒は感情を発達させなければならず、そのためには、その機能についてだけ仕事する必要がある。信じれば、必要な訓練を全部することができる。しかし信仰を持たずには、訓練を達成することはできない。
部屋を横切ろうとしても、道は困難で、まっすぐ進めないかもしれない。師はこのことを知っていて、左に行かなければならないのを承知しながら、我々には教えない。左に行くことは個人的な目標であり、我々の義務は横切ることである。目標に到着し、困難を通過したら、また新しい目標を持たなければならない。人は1人ではなく3人であり、それぞれが異なった欲望を持っている。我々の知性が、たとえ目標がどんなに重要であるかを知っていても、馬
(感情中枢部)は自分の食物以外は気にしない。そこで、ときには馬を巧みに操り、騙さなければならない。
しかしどの道を行くとしても、我々の目標は魂を発達させ、高次の運命を成就することである。我々は個々の水滴が受動的な河に生まれているが、自己の仕事をする人は、外面は受動的でも内面は能動的である。どちらの生存も法則に従っている。1つは退化の道を行き、もう1つは進化の道を行く。
問:「フィラデルフィア」に着いたら幸せですか?
G:私は2つの椅子を知っているだけである。不幸な椅子はない。この椅子は幸せであり、別の椅子も幸せである。人間はいつでも、もっとよい椅子を探すことができる。もっとよい椅子を探し始めるということは、その人が幻滅を感じていることを意味する。満足していれば別の椅子を探さない。ときどき、椅子がとても悪く、それ以上座ることができなくなると、他のものを探そうと決心する。
問:「フィラデルフィア」の先では何が起こりますか?
G:非常に小さなことである。今のように乗客だけがいるということは、車にとってたいへん悪いことであり、皆が好きなように命令し、恒久的な主人がいない。「フィラデルフィア」の先では監督する主人がいて、皆のために考え、あらゆることを取り決め、ものごとが正しく行われているかどうかを確かめる。皆にとって主人がいた方がよいということは、はっきりしている。
問:誠実さについて助言されました。私は、不幸な哲学者であるより、幸せな愚者でありたいということを悟りました。
G:あなたは自分自身に満足していないと信じている。私はあなたを駆り立てる。あなたはまったく機械的で、何もできず、幻覚を起こしている。1つの中枢部で見ると、完全な思い違いをし、2つの中枢部で見れば、半分自由であり、3つの中枢部で見れば、少しも思い違いをしない。
材料を集めることから始めなさい。焼かなければ、パンは得られない。知識は水、身体は粉、感情(苦悩)は火である。

問:人が生まれるときの中和的要素は何ですか?
G:それは能動、受動の原則と混ざった、ある種類の色である。それも物質で、特殊な振動を持つ。すべての惑星は地球に向けて振動を発し、すべての生命は、ある時点において地球に最も接近した惑星の振動による影響を受ける。すべての惑星が放射を持っているが、各々の惑星は、地球に最も近づいたときに、その放射が最も強力になる。惑星はいずれも独自の影響を投映するが、それぞれの独自の影響が混ざらずにいるのは、短期間にすぎない。ときには、惑星全体が特殊な振動をする。ここでもまた、法則に従い、3つの原則が互いに相応しなければならない。これらの関係が正しいとき、結晶作用が生じる。

問:(月についての質問)
G:月は人間の大きな敵である。われわれは月に仕える。この前、あなた方は緩衝装置(クンダバッファー)について聞いた。内面の緩衝装置は、地球における月の代表である。
我々は月の羊のようなものである。月は羊を清め、餌を与え、毛を刈り、月自身の目的のために飼育する。しかし月は空腹になると、羊をたくさん殺す。地球上のすべての有機生命は月のために働く。受動的な人間は退化に、能動的な人間は進化に仕える。あなた方は選択しなければならない。
だが、原則がある。一方の奉仕には、一生の仕事を持つ希望がある。他方には、多くを受けるが一生の仕事はない。どちらの場合にも、主人がいるからわれわれは奴隷である。われわれの中にも月、太陽等々がある。われわれは構造全体である。あなたの月が何であり、それが何をするかを知れば、あなたは宇宙を理解することができる。

問:あなたの体系は、ヨーガ行者の哲学とどのように異なりますか?
G:
ヨーガ行者は唯心論者で、われわれは唯物論者である。私は懐疑論者である。研究所の壁に記された最初の禁止命令は、「何も信じるな、自己さえ信じるな」というものである。私は統計的証拠があって初めて信じる、つまり、繰り返し同じ結果を得て、初めて信じる。私が研究し、仕事するのは、導きを得るためで、信じるためではない

問:2つの河がありますが、水滴はどうやって第1の河から第2の河へ行くことができますか?
G:切符を買わなければならない。変わることができる本当の可能性を持っている人だけが渡れる、ということを知る必要がある。この可能性は、願望、非常に特殊な強い願い、人格でなく、本質で求めることにかかっている。
自己に誠実であることは非常に難しく、人は、真実を見ることをとても恐れるということを理解しなければならない。
誠実は良心の機能である。一人残らず良心を持っている。これは正常な人間の属性である。だが文明のために、この機能は外皮で覆われてしまい、連想が強く作用する特別な状況を除いて、働くことをやめてしまった。良心は少しのあいだ機能し、再び姿を消す。そのような機会は、強い衝撃、大きな悲しみ、あるいは侮蔑から起こる。そのとき、良心が、人格と本質を結びつける。そうでないときは、人格と本質はまったく分離している。
2つの河についての今の質問も、本当のものがみんなそうであるように、本質に関係している。あなたの本質は不変である。人格はあなたの教育、あなたの思想、あなたの信念、つまりあなたの環境により生じ、こうしたものは、手に入れることも失うこともできる。私の話の目的は、あなたが何か本当のものを得るように助けることである。だが、今我々は、これを真剣に論じることはできない。「この問題を考えるには、いかに私自身を準備すべきか?」ということを、まず第一に問わなければならない。
あなたの人格についてのいくらかの理解が、あなたを、このままの人生についての不満に導き、もっと優れたものを見いだそうという希望に到らせた、と私は推察する。あなたは私が、あなたの知らないことを教え、第一歩を示すように望んでいる。
あなたが普通「私」と呼ぶものは、私ではないということを理解するようにしなさい。たくさんの「私」があり、それぞれの「私」が異なる願いを持っている。これを確かめなさい。あなたは変わることを願っているが、あなたのどの部分が、この願いを持っているのだろうか?
あなたの多くの部分が多くのことを求めるが、ただ1つの部分だけが真実である。あなた自身に対して誠実であるように努めることは、非常に有益である。誠実さが、ある扉を開く鍵であり、その扉からあなたは自己の別々の部分を見、まったく新しいものを見る。誠実であるように努力を続けなければならない。あなたが日ごとに着けている仮面を、少しずつ剥がさなければならない。
だが、気づかなければならない重要なことがある。人は自己自身を自由にすることはできない。自己をいつも観察し続けることはできない。たぶん5分間ならできるかもしれないが、自分を本当に知るには、自分が一日中どのように過ごすかを知らなければならない。また、人は1つの注意力しか持っていない。常に新しいものを見ることはできないが、ときには偶然に発見することができ、それらを再び認めることができる。これには次の特徴がある。ある時、あるものを自己の中に発見すると、それを再び見ることができる。だが、人間は機械的であるため、自己の弱点を見ることは非常に稀である。あなたは何か新しいものを見ると、その映像をとらえ、以後それを同じ印象で見る。それは正しいかもしれないし、誤っているかもしれない。ある人のことを、その人に会う前に聞くと、あなたはその人の映像をつくり上げ、その映像が少しでも本人に似ていると、本物でなく、その映像が焼きつけられる。我々は目にするものを非常に稀にしか見ない。
人は先入観に満ちた人格である。2種類の先入観がある。本質の先入観と、人格の先入観である。人は何も知らず、権威に従って生き、あらゆる影響を受け入れ、信じる。我々は何も知らない。ある人が本当に知っている主題について話している時と、無意味な言葉を話しているときを区別できず、全部信じる。我々は、自分のものを何も持っていない。ポケットに入れるものが、どれも自分のものでない。そして我々は、内面に何も持っていない。
また、我々は本質の中にほとんど何も持っていないのであるが、赤子のときからほとんど何も吸収してこなかったからである。けれども、ときに偶然何かが入って来るかもしれない。
我々は人格の中に、拾ってきた20か30の概念を持っている。それをどこで拾ったかは忘れてしまうが、こうした概念が類似の概念に遭遇すると、我々はそれを理解したと思う。だが、ただ脳に残された印象にすぎない。我々は現実に奴隷であり、先入観と先入観の釣合いを取っているのである。
本質もこれと似たような感受性を持つ。例えば、色について話し、誰でも自分の大切にする特別な色を持っていると話したが、そうした特殊性も、機械的に身につくのである。
さて、質問について、次のように答えることができる。真の知識を持ち、あなたを助けようと願う師を、あなたが見いだし、あなたも学びたいと願うとしよう。そうであっても、師はあなたを助けることができない。あなたが正しい方法で願うときだけ、助けることができる。これがあなたの目標である。だが、この目標も、かけ離れすぎている。何があなたをこの目標に到らせるか、あるいは少なくともあなたをそれに接近させるか、ということを見いださなければならない。目標は、分類しなければならない。それで、願う能力を持つことを我々の目標とすべきだが、この目標を達成できるのは、自己が無であることに気づいた人だけである。我々の価値観を再評価しなければならないが、再評価は必要に基づいていなければならない。自分一人ではこの再評価をすることはできない。
私は助言することはできても、助けることはできない。この研究所もあなたを助けることはできない。あなたが道を進むとき、初めて助けることができる。だが、あなたは道を進んでいない。
初めに、あなたが決めなければならない。あなたにとって道が必要であるかどうか?
それを見出すには、あなたはどのように始めたらよいのだろうか?
真剣なら、あなたは見方を変えなければならず、新しい方法で考えなければならず、あなたに可能な目標を見いださなければならない。これは一人ではできないので、あなたを助けることができる友達を求めなければならない。誰もが助けることができる、だが、特に2人の友人間で、それぞれの価値を再評価するために助け合うことができる。直ちに誠実になることは非常に困難だが、努力すれば徐々に改善できる。あなたが誠実になれれば、私はあなたに、あなたの恐れるものを見せてあげられるし、あるいはあなたが見るのを助けることができる。そうすれば、あなたは自己にとって何が必要であり、何が役立つか見いだすであろう。こういう価値観は本当に変わることができる。あなたの心は毎日変わるが、本質は変わらない。
だが、危険が伴う。こうした心の準備さえ、結果を生じる。人はときたま、自分にとって非常に悪いもの、少なくともその人の心の平和を乱すものを、本質で感じる。彼はすでに、あることを味わったのであり、たとえ忘れても、また戻ってくる。この経験が強ければ、連想があなたにそれを思い起こさせ続ける。経験が極度に強ければ、あなたは半分ある場所に、半分他の場所にいることになり、完全に居心地よいことはない。これは、変わることができる真の可能性を持っている人だけによいことであり、その人が変わる好機である。魚でもなく、人間でもなく、鰊(にしん)でもないという非常に不幸な状態にもなれる。冗談ではすまされない危険である。席を変えようとする前に、よく考え、2種類の椅子をじっくり眺めるのが賢明であろう。普通の椅子に座る人は幸せである。天使の椅子に座る人は一千倍幸せだが、椅子を持たない人はみじめである。価値のあることかどうか、あなたは決めなければならない。椅子を調べ、自分の価値観を再評価しなさい。
最初の目標は、他のことを全部忘れ、友達に話し、椅子を研究し、調べることである。警告するが、探求し始めると、現在の椅子のうちに多くの悪いものを見いだすであろう。
あなたの人生についてあなたがどうするか決定したならば、次回は、この主題について私は異なった話し方をすることができよう。自分を知らないのだから、自分を観るように努めなさい。あなたは危険を認識しなければならない。すなわち、自己自身を観ようとする人は非常にみじめになるかもしれないということである。悪いことの多くを、変えたいと願うことの多くを理解するであろうが、変化は非常に難しいということに気がつく。始めることはやさしいが、いったん自分の椅子を放棄すると、他の椅子を得るのは非常に困難であり、大きな不幸の原因となるかもしれない。
誰もが良心の呵責を知っている。今あなたの良心は相対的であるが、価値観を変えると、自己を偽ることをやめなければならなくなる。1つを見てしまうと、もう1つを見るのはずっと容易であり、目を閉じるのが難しくなる。探求するのをやめるか、進んで危険を冒すかの、どちらかである。

問:あなたの教えに、自由意志の占める場所がありますか?
G:自由意志は、真の人間の機能であり、我々はその人を主人と呼ぶ。主人を持つ人は意志を持つ。主人を持たない人は意志を持たない。普通に、意志と呼ぶものは、自発的行為と、それを否定する行為との調整である。例えば、知性があることを望み、感情はそれを望まない。知性が感情に勝てば、人は知性に従う。反対の場合は、感情に従う。これが凡人の自由意志と呼ぶものである。凡人は、あるときは知性、あるときは感情、あるときは身体に支配される。非常にしばしば、凡人は自動装置から来る命令に従うが、これは性中枢部に指図されることにより、一千倍も多い。
真の自由意志は、常に1人の私が命令するとき、つまり馬車の主人を持つとき、初めて存在する。凡人は主人を持たず、馬車は絶えず乗客を変え、それぞれの乗客が主人と名乗る。
それでもなお、自由意志は真実であり、存在する。ただ、このままの我々は、自由意志は持てない。真の人間が持てる。
問:自由意志を持つ人はまったくいないのですか?
G:私は大多数の人について話しているのだ。意志を持つ人は、持っている。ともかく、自由意志は普通の現象ではない。求めて得ることができるのでなく、店で買うことができるのでもない。
問:道徳についてのあなたの教えの方向は、どのようなものですか?
G:道徳は、主観的でも客観的でもあり得る。客観的道徳は、地球上どこでも同じであり、主観的道徳は場所によって異なり、人によって異なる定義を与える。ある人にとっての善が他の人にとっての悪であり、またその逆もある。道徳は両端を持つ棒である。どちらにも向きを変えることができる。
地球に人間が生息し始めたアダムの時代から、神と、自然と、我々を取り巻くいっさいのものの助けにより、我々の中に一つの器官が徐々に形成された。その器官の機能は、良心である。
あらゆる人がこの器官を持ち、良心に導かれる人は誰でも自動的に戒律どおりに行動する。我々の良心が正直で純粋であれば、道徳について話す必要はなかろう。そうであれば、無意識に、あるいは意識して、誰もがこの内面の声の命じるままに行動するであろう。
良心は両端を持つ棒ではない。あらゆる時代を通して我々の中に形成された、善悪についてのまったく明確な認識である。不幸にして、多くの理由により、この器官は通常、ある種の外皮で覆われている

問:何がその外皮を破ることができますか?
G:強烈な苦悩か衝撃だけが、外皮を貫き、そうすると良心が話す。しかし、しばらくすると我々は平静を取り戻し、その器官はまた覆われる。その器官が自動的に裸にされるには、強い衝撃が必要である。
例えば、ある人の母親が死ぬ。その人の中で、本能的に良心が話し始める。母親を愛し、尊び、大切にすることはあらゆる人の努めであるが、親孝行な息子であることはめったにない。母親が死ぬと、母親に対していかにふるまったか思い起こし、良心にさいなまれ、苦悶し始める。だが、人は豚のような存在だから、すぐ忘れ、再び以前のように生きる。
良心を持たない人は道徳的であり得ない。私は、してはいけないことを知っているが、弱さから、自制できない。例えば、医者に言われて、コーヒーが体に悪いことを知っている。だがコーヒーが欲しいとき、コーヒーのことだけを思う。コーヒーが少しも欲しくないときだけ、私は医者に同意し、飲まない。満ち足りているとき、私はある程度、道徳的であることができる。
道徳のことを、あなたは忘れなければいけない。道徳についての会話は、今の段階では空虚な話にすぎない。
内面の道徳が、あなたの目標である。あなたの目標は、キリスト教徒の精神を持つことである。
だがそのためには、あなたは為すことができなければならない。だが、あなたはそうできない。為すことができるとき、あなたはキリスト教徒になる。
繰り返して言うが、外的道徳はあらゆるところで異なる。ローマではローマ人のようにせよという諺のように、他人と同じようにふるまわなければならない。これは外的道徳である。
内的道徳については、為すことができなければならない。それには、「私」を持つ必要がある。
第一に必要なことは、内面と外面の配慮について述べたように、内的なものを外的なものから分離することである。
例えば、私はここに腰をかけている。足を組んで腰かけるのが私の習慣であるが、居合わせている人々の意見や、その人たちの習慣を配慮し、私はその人たちがするように、足を下に置く。
今誰かが私を非難の目つきで見るとしよう。これが直ちに私の中に、相応する連想を起こし、私は困惑する。反応を自制し、内的配慮を慎むには、私は弱すぎる。
あるいは、私はコーヒーが私の体に悪いのを知っているが、コーヒーを飲まないと話すことができず、疲れを感じるのを知っている。私は体のことを考慮しながら、コーヒーを飲む。体のためにそうする。
通常、我々はこのように生きている。内面に感じることを外面に発現する。だが、内面と外面の間に境界線を設ける必要がある。何ものに対しても内面的に反応するのを自制すること、外面の衝撃を気にせず、しかし外面的には今よりもっと配慮しなければならないことを学ばなければならない。例えば、礼儀正しくなければならないとき、必要とあれば今まで以上に礼儀正しくできるようになるべきである。今まで内側にあったものは外側に、外側にあったものは内側にあるべきだと言えよう。
不幸なことに、我々は常に反応する。例えば、怒ると、私の中のあらゆるものが怒り、あらゆる怒りが発現する。私は怒っているときでも、礼儀正しくするということを学べるが、内面は元のままである。常識を用いるなら、非難の目で私を見る人に対して、なぜ自分が怒らなければならないのか?と考える。彼がそうするのは、愚かさのためかもしれない。いや、誰かが彼に、私に背かせるたのかもしれない。彼は他人の意見の奴隷である。人造人間であり、他人の言葉を繰り返すオウムである。明日、意見を変えるかもしれない。彼が弱いとすれば、怒る私はもっと弱い。彼に腹を立て、つまらぬことから大事を起こし、私と他の人々との関係をだいなしにするかもしれない。
他人の意見を気にしてはならないという厳しい基準を理解し、打ち立てるべきである。周囲の人々から自由にならなければならない。内面で自由になれば、彼らから自由になる。
ときによっては、うわべは腹を立てているように見せる必要があるかもしれない。例えば、あなたは、怒っているようなふりをしなければならないときがある。片方の頬を打たれたら、もう一方の頬を差し出さなければならないわけではない。ときには、相手が祖母を忘れるほどに応じることが必要である。だが、内的に配慮してはならない。
内的に自由であれば、誰かがあなたの片方の頬を打てば、もう一方の頬を差し出すことが、ときには起こるかもしれない。これは相手のタイプによる。場合によっては、相手は、そのような教訓を百年たっても忘れないであろう。
ときには反撃すべきであり、別のときにはそうすべきではない。自分を状況に適応させる必要がある。しかし今のあなたは裏返しだから、そうすることができない。内的連想を区別しなければならない。そうすれば、一つ一つの思考を分離し、認識することができる。そのためには、理由を探り、理由について考えることが必要である。行動を選択することは、人が内面の自由を得て初めて可能となる。凡人は選択することができず、状況の批判的評価ができない。このような人にあっては、外面が内面である。偏見を持たず、一つ一つの行為を他人事のように仕分けし、分析することを学ぶ必要がある。そうすれば、公正であることができる。そのとき公正であることは、後で公正であることより百倍も有益である。これには非常に多くが必要である。偏見のない態度は内的自由を得る基礎であり、自由意志への第一歩である。
問:良心を開けておくためには、いつも苦悩しなければなりませんか?
G:苦悩は、非常に異なる種類のものであり得る。苦悩も、両端を持つ棒である。ひとつは天使へ導き、他は悪魔へ導く。振り子の揺れを思い出さなければならない。大きい苦悩の後には、それに釣り合う大きな反動がある。人間は非常に複雑な機械である。すべての良い道の片側に、相応する悪い道がある。一方が他方と共存している。少しの善があるところには少しの悪があり、沢山の善があるところには沢山の悪がある。苦悩についても同じで、気がついてみると間違った道にいたということは容易に起こる。苦悩は容易に楽しみとなる。1度打たれると傷つき、2度目は少し傷つき、5度目には打たれることを望んでいる。道から外れ、溝にはまることがあるから、常に警戒し、絶えず何が必要か知らなければならない。
問:良心は、「私」を獲得する事と、どういう関係がありますか?
G:良心は、時間を節約するという点で助けとなる。良心を持っている人は平静であり、平静な人は仕事に使える時間を持つ。ただし、良心がこの目的に役立つのは初めだけであり、後には別の目的の役に立つ。