オレイジによる「 ベルゼバブの孫への話」の総括(回想のグルジェフ内の)

まずオレイジとグルジェフには、それなりの差があると思います。後にこの2人は別れることになりますが、何となくわかる気もします。なんて言えばいいか、グルジェフは徹底的に客観性と厳密さにこだわりますが、オレイジは主観的な部分が多く情緒的な感情を多く絡めてしまうように感じます。この特徴は、現代の多くの作家や言論人にも見受けられますが。
しかしそれでも、このオレイジという人物も非常に優れた人物であり、とても興味深い洞察力と見識を持っていて勉強になります。
また、このまとめは、「ベルゼバブの孫への話」を読む前に読んでおくと、とても参考になります。何しろ、ベルゼバブはあえて読みづらくしてあるので、、。

(C.S.ノットの言葉から)
私たちは1927年の暮れにニューヨークに戻り、その地のグループとのワークを再開した。冬の間オレイジは、過去3年間の私たちの「ベルゼバブヘの孫への話」に関する研究を総括した。私は彼の講演についてのおびただしい量のノートを作り、他の人間からもノートやメモを集めて
それらをまとめ上げた。後になって、オレイジがロンドンに移り住んだとき、私は彼と3、4年に渡ってその内容について討議し、まとめ直した。以下に記したコメンタリーは、何百ページにも及ぶノートから編集されたもので、全体のごく一部にすぎない。私はこれらを年代順に並べようとしたが、厳密にはそうなってはいない。なお、オレイジは同じ箇所について、しばしば異なった観点から何度も言及したので、本章にも重複したところがある。また、メモの中には断片的に見えるものもあるかもしれないが、すべては連関している。オレイジはこう言った。

オレイジ:君たちの中には、文法や句読点の打ち方の誤りを指摘する者がいる。だが、なぜ私がそれについて言及しないのかを不思議に思う人もいるだろう。確かに最初の原稿の時点から、それぞれの章がそういう感じだったが、グルジェフはその原稿を何度も書き直したり書き改めたりしている。君たちも知っての通り、彼はこの原稿を鉛筆を使ってアルメニア語で書き、そしてロシア語に訳され、それからロシア人によって英語に逐語訳されている。それがさらに、プリオーレにいるあまり国語の知識のない、数名の英米人の弟子によって修正された。現時点で私にできることは、その意味が不明瞭な場合に、英語を修正することだ。私はこの原稿についてグルジェフに尋ね、その意味について議論したが、彼は決してそれを説明しようとはしない。彼の仕事は本を書くことであり、私たちの仕事はそれを理解しようとすることだ。本書のスタイルと感覚はグルジェフのものだ。驚いたことに、翻訳が困難であったにもかかわらず、その感覚とスタイルは、見事に生かされている。英語はフランス語よりも柔軟な言語なので、元の言葉の本来の特色を保ったまま、翻訳することができるのかもしれない。

ノット:オレイジは私たちに、〈新入りの弟子たちへ「ベルゼバブの孫への話」に書かれてあることの意味を、私たちが理解している範囲で説明するように〉と告げた。ただヒントを与えることぐらいしかできない者もいたが、自分と理解の程度がさして変わらない人間との議論は、有意義なものだった。数週間すると、オレイジは再びこの本を概観し、私たちは私たちでそれに何とか貢献しようと努めた。また、私たちはみんな理解の程度にあまり差がなかったので、議論は実際非常に役立った。彼のコメンタリーを辿ることは、いわば〈ベルゼバブのハセインへの話〉の概略を見るにすぎない。しかし、そこには深遠で豊かな叡智が隠されている。読者も、自分の内的な発展の度合いに応じて、これを理解するだろう。初めはそれは蕾(つぼみ)にすぎなくても、やがては花と開くのである。

(以下からは、オレイジの進行で、たまにノットやGの発言がある。)
この本の序文は、オペラの序曲のようなものだ。高度な思想がさりげなく示されていて、直接的にではなく、寓話(ぐうわ)によって表現されている。この序文は、「思考の覚醒」と呼ばれている。この本は、3つのすべてのセンターへ、全体へ、ことに〈聖霊〉への祈りと共に始まっている。この本は真の心によって、つまり、感情的知性によって読まれるべきものなのだ。正常な人間ならば、全身を傾けて大きな冒険を始めるだろうが、この狂気じみた惑星上にいる私たちは、決してそんなことをしようとはしない。するにしても、ほんのささやかな冒険だ。グルジェフはその手を彼の心臓の上に、つまり太陽神経叢の上に置いている。彼の太陽神経叢は私たちにとっての心臓である。なぜなら、私たちは〈聖霊〉を持たず、中和的な力を持たないからであり、私たちは第三の力に対して盲目であるからである。彼には書こうという願望はない。彼は個人の性癖とは無関係の意志によって、自らに書くことを強いているのである。そしてこれが、私たち一人一人が〈手法〉に取り組む際に必要な態度なのだ。この本は客観芸術作品だ。客観芸術は、観客や読者に明確な印象を与えようとする芸術家や作家の意図に応じて、様々なバリエーションが採られる。私たちの知っている芸術は、鳥の囀(さえず)りや巣と似たような、本能的なものだ。ウグイスの巣は、私たちにはシギの巣よりも複雑に見える。しかし、鳥に意識的なものを見出すことはできない。
グルジェフはインテリの用語を使おうとはしない。この本に書かれてる思想は、私たちの習慣的な思考パターンに向けられることはない。私たちの知的な生活は、多かれ少なかれ固定された偶発的な連想に基づいている。これらが破壊されて初めて、私たちは自由に思考することができるようになる。私たちの連想は機械的なものだ。ある総体的な雰囲気が、異なる連想のグループに属するたった1つの言葉を使っただけで、崩壊してしまう。例えば、真剣に議論をしていても、無思慮な人間が馬鹿な言葉を1つ掛けただけで、そのグループの雰囲気はたちまちのうちに損なわれてしまう。
グルジェフは、「何語で書くべきだろうか?」と悩んだ。彼はまずロシア語で書き始めたが、そのうち書き進めなくなった。というのも、ロシア語には本質と個性の区別がないからだ。
ロシア人は最初は論理的に考えるが、しばらくすると陰口や無駄話を始める。英語は実際的な問題には好都合だが、〈全体〉について瞑想したり深く考えたりするには不適格だ。ロシア人やイギリス人の心理は、〈あなた〉と〈私〉以外がすべて一緒くたにされたシチューのようなものだ。彼らは、自分自身に関する事実を述べることができない。
文学作品も含め、書物の多くは、病理的な状態の現れだ。だから例えば、癌性のものもあれば、結核性のものや梅毒性のものもある。
君たちは、文芸評論家のように、言葉だけのスタイルと、言葉と内容が合わさったスタイルの違いを述べることができるだろうか?
旧約聖書の〈デボラの歌〉は後者の例だ。しかしこれは、完全に心によって書かれているにもかかわらず、客観芸術ではない。なぜなら、その内容が偶発的な連想に依存しているからだ。
「ベルゼバブの孫への話」は、既存の価値を破壊する本だ。これは真摯な読者に対してあらゆる評価を洗い直すことを強いるが、それは誠実な人間にとっては容易なことではない。グルジェフが言うように、それは自分の好物を我慢することであり、自分のお気に入りの理論や芸術形式を退けさせることだ。それは辛子のようなものだ。それは君たちの精神的・感情的連想を、君たちの惰性を、妨げるのだ。
自分について言うと、今では私はこう理解している。
私はこの2年間、この考え方を用い、自分自身の価値観を放棄するのではなく高めることを目指して、自分の価値観にそれを同化させようとしてきた。新しい考え方は視野を広げ、古い考え方を成長させ、中身を多様にすると考えた。
しかし今では、そういった考えさえ無為になりつつあると感じている。このワークにおいて、ほとんどの人がこう自問すべき時が訪れたのだ。
「私は刺激的な古い価値観を捨て、異なる秩序に属する新しい価値観に進むべきなのだろうか?」
この本をさらに読み進めてゆくと、〈宇宙は理性的かつ知性的に導かれているということ、留意されるべきことが沢山あるということ、そして、生はこの私たちの地球上においては正常ではないが、人間はある種の努力によって正常になることができる〉ということがわかってくる。
ベルゼバブは追放された。
私たちの中において、追放されたものとは何だろうか? 私たちは太陽神経叢と、つまり感情と結びついている。太陽神経叢は複雑でまとまりのないセンターだ。ワークを続けていると、感情の起伏、つまり葛藤する感情の無駄な闘争の代わりに、ある目的へ向けられた感情の集中が生じる。
ベルゼバブは観測所を建設した。しかしそれは、多くの試練を経て改善がなされてからである。私たちは自分のことを正しく観察することができるようになる前に、長い期間にわたってワークを行わなければならない。〈手法〉やシステムに対してしばしばなされる最初の妨害の1つは、愛のない利己主義である。
イエスは「自分自身のことを考えるな。」と言ったが、ベルゼバブはこう言っている。「自分自身のことだけを考えなさい(もちろん、正しい方法で)。なぜなら、そのとき初めてあなたは、他人のことを考えることができるようになるからだ。」
グノーシス主義には、次のようなイエスの箴言が伝わっている。
「私に従えば、あなたは私を見失うだろう。自分自身に従えば、あなたは私と自分自身の両方を見いだすだろう。」
グノーシス主義は、私たちが学んでいる手法をキリスト教に導入した。しかし、初期の教会の〈キリスト教〉の指導者たちが権力を持つようになると、彼らはグノーシス主義を放逐し、迫害したのだ。
〈カルナック〉というのはアルメニアの言葉で、肉体は霊の墓場であるという、ギリシアの思想と関連がある。
「ベルゼバブの孫への話」は、肉体という墓場で眠っている死者に向けて書かれたものだ。この本は、〈自我〉から発せられた言葉からなっている。そこで理解されたことは、実際に実践されるだろう。この本の中には、私の知らないことは何一つとして存在しない。しかし現時点においては、私はまだ目覚めていないし、それを理解していない。
こんなマントラを知らないだろうか?
「太陽より眩(まぶ)しく、雪よりも白く、エーテルよりも精妙なものは、私の心の中にある〈自己〉である。私はその〈自己〉であり、その〈自己〉が私なのだ。」
年若いハセインは、私たちの中にある自己を象徴していると言うことができる。ハセインは、若き〈自我〉なのだ。
宇宙船のシステムに関して言うとそれは、〈人間の側からの能動的な働きを必要とする1つの心理学的なシステムである〉と言うことができる。それは、信仰、愛、希望という、より古い受動的なシステムに取って代わるものだ。

シリンダーとは何か? 円筒は固く封印された。この手法を教えた、ヘルメスの封印によって閉じられたのだ。つまり、円筒は狡猾な人間のやり方だ。実体(否定的感情の霧やガス)が密度を増すと、君たちはその用い方を知り、宇宙船は速度を速める。
古い宗教においては、人は会堂の中に留まり、機械的に機械的な天国へと運ばれる。しかし、このシステムにおいては、人間は自分で物事を始めなければならない。それは苦難に満ちた巡礼者の道のりだが、逆に、アジアからヨーロッパに移入された簡易なシステムよりも、迅速で確実な方法である。

第六章は一種の寓話だが、また戯画でもある。実際、この本の章の多くは宗教的な意味での戯画である。この戯画は、地球上での人間生活の一側面を描いたものであり、人間生活への関心を引き出し、読者に深く考えさせて真実に至らせるために、ある方法を用いて誇大に表現されている。これは様々な宗派、セクト、儀式、密儀、呼吸法や断食などのシステムを風刺したものだ。これらはすべて〈不死をもたらす〉と公言してはばからない。そこへ合理主義がやってきて、それらを頭でかち砕いた。しかし合理主義もまた否定的なものだ。

第七章の「真の存在義務に目覚める」についてだが、これは、社会に対する義務、すなわち「義務を遂行すること」ではない。それはある意味では、私たちの肉体を機械のように扱ったり使用したりして、その潜在能力を顕在化させることと関係がある。私たちの肉体は、多くの目的を持った1台の機械だ。しかし現在では、霊魂が、その目的の一部のために肉体を使っているにすぎない。これは倫理に反することだ。もし私たちが常に1つか2つのセンターのみでワークを行うならば、私たちは1つか2つの頭脳を持った生物として生きることになる。このことは、潜在的には3つの頭脳を持った生物
(人間のこと)にとっては、明らかに倫理に反することである。
私たちがハセインのように良心の呵責を感じて、「どうすれば自分の存在や、自分のために行動してくれた人たちに対して、報いることができるのか?」と自問し出すと、私たちは真の存在義務に目覚めはじめる。3つの頭脳を持った生物は、どれもある段階(必ずしもこのワークとは限らない)に至ると、こう自問する。
「存在の意味と目的とは何だろう? 何のために私はここにいるのだ? なぜ私は生まれた? どうして私はこの家族のもとに、この状況のもとに生まれてきたのか? 私は何をしなければならないのだ?」

ベルゼバブはハセインに、「そのことについては、もうそれ以上考えるな。」と告げている。彼はまだ若いので、学ばなければならない。後になって彼はするべきことを知るだろう。私たちは、ワークの経験がまだ浅いので、同じように学ばなければならない。覚悟を決めて、この本を読まなければならないのだ。なぜなら、答えを解く鍵はすべてここにあるからであり、グルジェフの言うように、扉の傍(そば)にはないからだ。
「今怠けていて、できることを何一つ学ぼうとしない人間は、後になってもその知識を実行に移すことはできないだろう。」
煉獄で耐え忍ぶことは、自分がすべきことと自分にはできないことを知り、理解することである。しかし、好奇心は強い方がよい。ただし、早まった実践は危険だ。私たちは放蕩息子だ。あるいは、私たちのうちのいくらかは放埒(ほうらつ)だ。ところで、この物語【新約聖書の中の放蕩息子の寓話のこと。ルカによる福音書第15章11節以下参照】はグノーシス主義に由来している。栄光のローブの賛歌には、こう記されている。
「ある男が盗まれたローブを探しに出かけるが、途中で彼は機械的な生に陥り、その目的を忘れてしまう。しかし、豚の世話をしている時に彼は目を覚まし、自分の使命を思い出し、父親のもとに帰る。」
グルジェフは、〈完成された人間は天使よりも優れている〉と言っており、これは〈ある理性の段階にまで至った人間は、神の精神を構成する細胞となる〉という考えである。天使は神の感情である。
宇宙の悲劇の1つは、人間が、太陽ではなく月(ルナ)の支配を受けているということである。つまり、人間は狂人(ルナティック)なのである。地球は〈愚かな惑星〉あるいは〈狂った惑星〉であるという伝説がある。〈地球は宇宙の精神病院だ〉と言うジョージ・バーナード・ショーは、この意味を踏まえている。彼はそれをルキアノスから借用しているが、ルキアノスはそれをギリシア人から、ギリシア人はエジプト人から、エジプト人は古代バビロニア人とシュメール人からそれぞれ援用している。
しかし、有害な惑星上での生活には、それを埋め合わせるものがある。人間であるという極めて不利な立場に苦しみながら、私たちは自己を完成させ、天使よりも高次の存在になる可能性を持っている。自らの努力によって完成された天界上の一人の人間の喜びは、自然に進化した99人の天使の喜びよりも大きいのだ。
グルジェフは「ベルゼバブの孫への話」の中でこう書いている。「神聖な〈理性〉と真の〈悪魔〉の素質を持っていても、自ら苦しんだ経験のない
(ある?)人間の苦しみを理解することはできないだろう。」
この文章は誤訳だと思います。おそらく、意識的な労働と意図的苦悩のことを述べているのかと。
これは、通常の機械的な苦しみではなく、真の苦しみと関係がある。

多くの国、多くの宗教に、高次の力によっても予見できなかったある偶発的な大異変に関する伝説が存在しているが、その異変によって地球から大きな破片が飛び散り、月が生まれたのだ。グルジェフは、2つの破片が存在したと言っている。そして、小さい方は「安眠を絶対に許すことのない」〈キメスパイ〉となった。私たちの中でも、地球に起きた偶発的な事件が繰り返されている。ある年齢に至ると、私たちの中に心理学的な変化が生まれる。2つのセンターが分離するのだ。私たちは、この破片を自己の中に見いださなければならない。私たちは体を切り刻まれたオシリスのようなものだ。〈手法〉の助けを得て、私たちは自己を想起し、自己を取り戻し、全体となることができる。
ある年齢になったときに、私たちに衝突する彗星とは何だろうか?
大天使の〈アルガマタント〉と〈サカキ〉は、他の天使や登場人物と同じように、聖書で言及されている権天使と能天使に匹敵する、人格化された知性である。つまり、高次の宇宙的な個体、様々な太陽系を司って宇宙を支配する〈永遠なる主〉の助力者が存在するのだ。だが、明らかにその存在は全知全能ではない。もしそうならば、彼らは宇宙の異変を予見していたはずだ。
〈永遠なる主〉のみが全知全能であり、博愛者なのだ。そして、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒には無数の呼び名があるにもかかわらず、彼の本当の名前は通常の人間によっては決して知られることも、口に出して呼ばれることもない。
私たちは月を知っている。月は「ルーンデルペルザ」という秘教的な名称を持ち、月についてポウイス(イギリスの作家 Powys,John Coperのことか?)は、〈その青白き反逆者、月、あらゆる災いのもと〉と記している。しかし、〈アヌリオス〉(地球から飛び出た2つの破片のうちの一方。もう一方は月になった。)は、私たちには知られていない。もし、理性的な心理学者や芸術家、作家、あるいは改革家が、自己のうちに完成へのうずきを感じても、〈アヌリオス〉には何ら関心を払わない。彼らは、より優れた芸術、より優れた文章、より優れた生活環境によってそれが矯正されることを夢想する。彼らは何千年にもわたってこのことを夢想し続け、存在義務の不履行を自覚することによって生じる真の良心の呵責は、彼らに対して何ら意味を持たない。
ギリシア神話は、もっぱら自己発展、自己完成のための手法(意識的な労働と自発的な苦しみへの絶えざる希求)に溢れている。ヘラクレスの十二功業、金羊毛の探求、オデュッセウス、ペルセウスとゴルゴン、アリアドネ(〈生命の迷宮〉からの脱出を導いた糸)、ヘレネーをめぐるギリシアとトロイの戦争。(このシステムでは、ヘレネーは何を象徴しているのだろうか?)
また、ギリシア人がその神話の淵源(えんげん)とした「マハーバーラタ」においても、こうした考えは遥かに精巧に組み込まれている。
この本を読むことは、想像的な知性を働かせながら注意力を持続させる、ひとつのエクセサイズとなる。理解するためには、3つのセンターすべてによって努力がなされなければならない。中途半端な努力では、全体を構成することができない。どれぐらいの間、私は注意力を維持することができるのか? それは一様ではなく、読者は、物語によって自分の注意力が持続されていることに気づいた時、その時間を有効に活用しなければならない。
叙事詩の質を、物語の設定によって判断しなさい。
この本は、(その役割を中断して今や批評家となり、自分の結論を客観的・論理的に述べている)ベルゼバブという現実化した理想、つまり客観意識的な人間と、知性を希求している未熟な若い人間との間の、一種の対話である。
ベルゼバブは、宇宙という肉体を公平無私に概観し観察する。私たちもそのように、自分の肉体を観察しなければならない。彼は、〈宇宙には一つの目的があり、自分はそれを理解している〉と、ほのめかしている。太陽系、惑星、存在物、人間の生命、そしてあらゆる生命体は、理論的あるいは神秘的な役割ではなく、実際的な役割を持っている。そして、私たち人間を含む大宇宙には、そういった役割を果たしている部分もあれば、果たしていない部分もある。

(ここでイエスに関する質問が出された)
イエスはエッセネ派等の学院で学んだのだ。最初、彼は治療者(ヒーラー)として迎え入れられたが、それは彼の仕事のほんの一部に過ぎなかった。彼は、民衆に、ユダヤ教の祭司によって構築された複雑な組織の代わりに、ごく単純な手法、ある1つのシステム、言わば、ほとんど動く部分がないエンジンを持った船を与えるためにやってきたのだ。

この惑星の風変わりな生命は、ある偶然の結果だ。私たちの月は1つの結果だ。それは、他の数々の惑星のように自然に発達したのではなく、早まって引き渡されたものなのだ。その結果、月と〈アヌリオス〉を維持するために特殊な波動を放出できるように、特殊な生命
(主に人間を含む地球表面上の有機生命体)が形成されなければならなかった。この惑星の存在物は、この目的のために使用されなければならなかった。しかし、もし彼らがその目的を悟ったら、彼らは存在することを拒否していたかもしれない。そこで、人間の中に〈クンダバファー〉というある器官が置かれた。それは、人間に現実を逆さまに知覚させる効果を持っていた。宇宙的な調和への危機の可能性が過ぎ去ると、その器官は取り除かれたが、その影響は残存した。そして人間はそれ以来、わずかな例を除いて、幻影の中に、夢の中に生き続けている。
もし、(自分には知性があると思い込んでいる)私たちが公平かつ真剣に自分たちの行動を日々反省して、自分たちが愚かで卑怯者のように振る舞っていたこと、私たちはどこへ行っても自分の巣を汚していることに気づいた場合、私たちはどう釈明するだろうか?
もし私たちが他人の行動をこのように客観的に考慮したら、私たちがいつもやっているように、その相手を非難するだろう。しかし、自分自身に対しては、私たちは甘く、無頓着である。私たちは自分に対しては、あまりに無頓着で、無批判なので、自分たちが本来の役割を果たさず、自分たちの生命の機械化が進んでいることを全く理解していない。さらに、この事態を重視さえしていない。
私たちはなぜ現在のような状態にあるのか? 生命は何のためにあるのか? 肉体は何のためにあるのか? 私たちはどんな価値観に則って生きているのか?
こういった問題は、熟慮されるべきものとして私たちの前に現れることが決してない。しかし、例えば〈創世記〉の作者に対しては、そういった問題が示された。創世記の作者は、〈原罪(堕落と機械化)は、受動的・否定的部分であり、本能センターへの人間の屈服によってもたらされたのだ〉と、神話上ではあるが、極めて理性的に述べているのだ。
ベルゼバブもこう言っている。
「おまえのお気に入り(人間)は、残念なことに、否定的部分だけしか知らない。」
私たち人間は〈エデンの園〉に送り込まれ、楽園の管理を託された。しかし私たちは努力を怠って眠ってしまい、追放された。しかし、初めは私たちにはあまり非がなかったので、〈永遠なる主〉は、アダムの時代から使者を次々に私たちのもとへ遣わした。私たちを覚醒させ、〈クンダバファー〉によって引き起こされた人間の機械化の影響から自己を解放するために、族長、預言者、教師らを遣わしたのである。

私たちが繁栄した過去の文明の成果である、エジプトの学問と芸術、インドの哲学と宗教、カルデアの叡智、古代中国の制度などを利用したり、維持したりすることに失敗するのはなぜだろうか? 私たちが「すべての時代の継承者」ではないのは、なぜだろうか? なぜ古いものを壊そうとする衝動に駆られるのだろうか? なぜ私たちは、過去に立脚せずに一からやり直さなければならず、なおかつ、芸術や科学の多くの分野において、古代よりも劣った段階にあるのか? 私たちの周囲には、私たちが堕落し、自ら築き上げたものさえをも破壊しようとする力を産み出そうと日夜努めていることを示す証拠があるにもかかわらず、なぜ私たちは「進歩」を信じ、そしてまたそれを望むのだろうか?
答えは、〈クンダバファー〉
(この言葉の詳細は別で解説)だ。私たちには意志が欠けており、ワークを行おうとすることができないのだ。しかし、これは私たちの「改革者」にとっては、些細なものにすぎない。
精神は常に大量の暗示にかかっている。それはどんな色の肌を持つ人間であろうと、同じだ。
「英雄」という言葉の概念を例に採ろう。ベルゼバブはハセインに、英雄とは〈創造〉のために自ら労働を負う人間のことだと述べている。この意味で言えば、グルジェフは英雄だ。彼はアジア、近東を30年もかけて踏破し、知識と知性への希求を満たし、人間が自己を完成させることのできる手法を見つけ出して、それを教授するために、幾多もの試練を乗り越えたのだ。
地球という惑星の上では、つい最近まで「英雄」とは、戦争という巨大な精神病にたちまちにして罹(かか)り、多くの人間の命を奪う人間のことを指した。しかし、古代人は戦争における人間の狂気を、神々や悪魔によるものだと考えた(例えば、マハーバーラタやアエネーイス)。
かつては、戦争は自然界のために必要だったかもしれないが、今では、ベルゼバブによれば、戦争は偉大な宇宙における〈恐怖の中の恐怖〉となり、神的な計画の障害物となってしまった。
今や、〈栄えある戦争の行進や儀式〉という幻影に対して責任があるのは、人間とその被暗示性のみだ。
〈最初の降下〉は、アトランティス大陸の時代に行われた。アトランティス大陸が存在したかどうかという問題は、今の私たちには関係がない。しかし、私たちの中にアトランティス大陸が存在しているということは、非常に重大な心理学的問題なのだ。アトランティス大陸は、地下深くに埋められてしまった。私たちに課せられた仕事の1つは、沈んだアトランティス大陸を、埋められた〈客観的良心〉を、掘り上げることだ。
私たちは、知的・感情的状態に留まりながら、人類に対する見解を確立しようと試み続けなければならない。知的であることは容易い。しかし、それだけでは私たちはそれほど遠くに行くことはできない。時間は刻々と過ぎてゆく。しかし、もし私たちが知的・感情的状態において何らかを学び、それについて実際的に議論するならば、私たちは真理を理解することが出来、可能な三重の状態を確立してその状態を永続させることができるだろう。
この本は人間の起源を著(あらわ)したものであり、人間を客観的に描写したものだ。新しい事実はない。すべては、混沌とした状態で私たちの中に存在しているが、私たちの意識の中には存在していない。
グルジェフは、「私たちは何か新しいものを見つけようとしているのではない。失われたものを取り戻そうとしているのだ。」と言っている。
新約聖書の寓話に、このことに触れているものがある。
エクセサイズとして、地球の5つの根源人種を一遍に思い描いてみなさい。それぞれには歴史があった。彼らは何の後に現れたのか? 彼らの人種的な特徴は何であり、その進化と退化の状態はどうか? 器官〈クンダバファー〉の働きによって顕現された、すべてに共通する客観的な特徴とは何か? 例えば、5つの根源人種の男女はみな、虚栄心、自己愛、自尊心、エゴイズムといったものを持たされた。しかし、私たちの中にはある種の客観的な規範が残されていて、それは、しばしば奥深くに埋められてはいるが、こうした性向を嘆かわしいものとして見なしている。
例えば、エゴイズムという言葉には何が表されているのだろうか? ある意味では、それは、〈私が結びついている生命体は、他のものよりも優れていると信じている〉ことであり、その結果、我々は他人を自分の好き嫌いによって、相手の要求ではなく自分の好みによって推し量る。さらに我々は、自分が大きなへまをやらかしても、言い逃れるために厚かましく相手のあらを探す。
エゴイズムとは〈私〉〈私〉〈私〉だ。アッタールの〈鳥の言葉〉に、こんな逸話がある。ある日、神がモーゼにこう言った。
「行って、悪魔から助言をもらって来なさい。」
それでモーゼは、悪魔のところへ行って、助言の言葉を求めた。すると悪魔はこう言った。「『私』という台詞(せりふ)を口にしてはならない。このことをいつも心に留めて置きなさい。そうすれば、私のようになることは絶対にない。」
そして虚栄心とは、それが傷つけられるままにするよりはむしろ、それのためにあやうく何かを生贄に捧げかねないもののことだ。自己憐憫は悪魔的なものだが、真の憐れみは神聖なものだ。これらは、私たち自身がすべての人間と分かち合っている特徴だ。ベルゼバブによれば、それは私たちが異常な惑星の生物学的製品だからである。私たちは普段、異常な状態にあるのだ。こうした特徴は、真の存在にとっては異常なものなのだ。
偉大な宗教的な教師たちは、バーナード・ショー的な意味での改革者ではなかった。ショーは決してイエスを理解しなかった。
彼らは既存の文化を変えたり再形成したりしようとしたのではなく、人間精神の性質を変えて、人間が正常に思考し知覚し、行動するようにしようとしたのだ。
また、人間の魂を再生させ、それに活力を与えたあらゆる偉大な変革(あらゆる偉大な芸術、音楽、文学、建築)は、偉大な教師たちの内的な教えに従って働いている意識的な人間の小規模のグループを通じてもたらされたのだ。
どんな種類であれ、外的に組織された宗教はすべて、偉大な教師たちの言葉を歪曲することによってもたらされたのだ。そうした宗教は、〈オクターヴの法則〉の下降のプロセスに属している。〈オクターヴの法則〉は、その起源は意識的なものだが、私たちのもとに届くと機械的なものになる。つまり、退化する。
私たちの中の進化とは、意識的な労働と自発的な苦悩、すなわち、下降の流れに対する闘争の結果である。
ベルゼバブの最初の地球への降下は、アポリス王とのトラブルに巻き込まれた、ある若く未熟な彼の同族者のためである(『マハーバーラタ』のクリシュナに相当する)。
最初の降下の物語は、ある意味では、感情に振り回され、「民衆を信頼するならば、すべてはうまくゆく」と主張する改革者への警告である。改革者は、〈民衆は、自分たち自身の要求と全く関係のない目的のために労働し、苦しんでいる〉と考えているのだ。彼はある種のことについては正確に把握しているが、〈自分はなされるべきことを知っている〉と信じ込んでいて、これが間違いをもたらすのだ。かくして、もし彼が自分の一族に改革をもたらすことに成功しても、その改革は、次の改革者に悪用される。べルゼバブはハセインに、人類に対してある種の感傷的な考えを抱くことを警告している。
彼はハセインに、これらの「ナメクジ」(人間のこと)は二重の性質を持っていると教えている。彼らはある場面では、虫も殺せないような顔をして喋るが、別のある場面では怪物のように振る舞い、野獣でさえ尻込みするようなことを互いにやり合う。キリスト教ほど相互に多大な破壊をもたらした宗教は他になく、これは多くの誠実な人間の心の中に潜在する愛の原理を台無しにしてしまった。

だが、愛の原理は真の知識を追究する際には、欠くことのできないものだ。
常に人間は愛について記し、そして語っているが、真の愛、すなわち意識的な愛の煌めきを持っていない。

ベルゼバブは火星から地球へ降下している。これはどういうことだろうか? 火星、つまりギリシアのアレス神は本来ゲームとスポーツの神だ。スポーツとは私たちの知っているスポーツではなく、肉体を鍛えて役立たせるための闘争のことだ。やがてアレス神に対するこうした考え方は、戦争と虐殺の神としてのマルス神へと変質していった。
私たちは、グルジェフが「ベルゼバブの孫への話」について述べたことを、常に心に留めておかなければならない。この本には3つのバージョンがある。外的なもの、内的なもの、秘奥のものの3つだ。また、この本のそれぞれの文章には、7つの側面がある。従ってある意味私たちは、〈地球上の人間の生を公平無私に観察させた火星上の観測所について、ベルゼバブから言われたこと〉を、熟慮しなければならない。私たちは自分たち自身の生命に対して、公正な態度を採るようにしなければならないのだ。

グルジェフとオレイジは、教えている時や私たちが宇宙の法則のような高度な思想を学んでいる時、私たちを日常の些細な物事に導き、それらを高度な思想に関連付けることができた。彼は、小さなことを意識的に行うことの重要性を常に強調した。なぜなら私たちは、意識的にならなければ、偉大な法則に関してほんのわずかも理解することができないからだ。連想器官を用いればすべてを知ることができるが、理解することはできない。
こんな諺がある。「汝の持つすべてのものを使って、理解を得なさい。」
「知性」とは、理解することが最も難しいことの1つだ。グルジェフは、しばしばこう言っていた。「あなたがたは、知性が意味していることを理解していない。」
「鳥の言葉」の中で、〈第3の谷〉について鳥たちに話していたヤツガシラは、こう言った。「私が話している谷の後には、別の谷が現れる。それは終わりも始まりもない〈知性の谷〉だ。この道に匹敵する道はない。知性とは、どんな旅人にとっても永続的なものだ。しかし、知識は一時的なものだ。霊魂は、肉体と同じように、進化もしくは退化の状態にある。霊的な道は、旅人が自らの過ちや欠点、眠気や惰性を克服した段階においてのみ現れ、各々は自分の努力に応じて自分の目的に近づくだろう。この谷を渡るには様々なやり方があり、鳥たちはすべて同じように飛ぶわけではない。知性は、様々な形で得られうる。壁龕(ミフラーブ)を見つけたものもいれば、偶像を見つけたものもいる。〈知性の太陽〉がこの道を照らすとき、各々は己の功徳に応じた光を受け取り、真理の理解に関して、自分に割り当てられた段階を見いだす。存在の神秘がその者に対してはっきりと開示されるとき、この太陽の炉は花園と化すだろう。しかし、私たちがこの困難な谷を渡ることができるようになるためには、深く強い意志を持つことが必要だ。あなたたちは眠っている! まるで驢馬のようだ。あなたたちはいつまで今のままでいるつもりなのか?」
アッタールはこう付け加えている。「中国に、休むことなく絶えず石を拾い集めている人間がいる。彼は幾多の涙を流したが、涙が地面に落ちると、それは石に変じ、彼はそれを再び拾い集めた。もし雲がこのような涙を流したら、それは大変なことになるだろう。真の知識は、真の探究者のものとなる。しかし、普通の知識は、形式的な精神によって歪曲され、石のように堅くなる。」

前にも言ったように、
私たちの大きな欠点の1つは、私たち人間は過去から何も学んでいないということだ。おまけに、私たちは何も学んでいないだけでなく、教育や良書と呼ばれるもののほとんどが、〈過去の叡智は、私たちが現在知っているものに比べれば、グルジェフの言う「太古の野蛮人の知ったかぶり」の産物に過ぎない〉と私たちに信じさせようとしている。私たちの文明は、かつての文明の上に築かれているのではない。科学は、科学が最初に物事を発見していると考えているが、実際には過去を反復しているにすぎない。ベルゼバブは、少なくとも有史以前の2つの文明について言及していて、その文明においては、電気的な発明が現代と同じくらいの高度な段階にまで達していた。グルジェフは、かつてゴビ砂漠の探検に参加したと言っている。そしてある場所の地下20ヤードの所に、彼は都市の廃墟を発見した。そして、他の場所でも発見した。
トロイやエリコの遺跡で、似たようなものを発見した考古学者がいる。現在その地に住んでいる人々は、これらの失われた都市にまつわる伝説や伝承を何ら持っていない。これに比べれば、エジプトなどは昨日のことのようだ。子供の頃、私たちは、イギリスの巨大な石造物は古代ローマ軍の要塞跡だと教えられた。しかし、現在では、それらがローマ帝国黎明期の文明の遺跡であり、アヴェバリーの巨大な環状列石の起源は、ストーンヘンジよりも数千年遡るということが続々と明らかになっている。通常受け入れられている歴史観は、人間の生活を歪んだ鏡を通して見たものである。ギボンは「ローマ帝国の没落」の序文で、
「歴史」とは主として罪の記録である、と言っている。

今日では、科学的態度が宗教的態度に取って代わっている。
一連の迷信は他のものに代わった。
科学者は宇宙という肉体を解剖することに従事している。彼らは理由ではなく、方法に興味を持つ。科学は、運動・本能センターを通して、すべてを機械的に見ている。それは危機に際した人間に必要な答えを、何も持っていない。私は、〈個人的な経験によって確認されていない、情報や部分的な知識を類別する普通の科学者〉のことを言っているのだ。
客観芸術は、その目的として、存在の意味と目的の究明を掲げている。量を多く発見することではなく、物事の真理を、真の関係を発見することが目標なのだ。

(誰かが「迷信とはどのように定義されますか?」と尋ねた。)
オレイジ「迷信とは、虚偽に向けられた感情的な態度だ。」

オレイジ:私たちは、遺伝や環境に応じて変化する、3つのゼンマイを持った時計のようなものだ。しかも、その3つとも三、四百年間動き続けたために、巻き上がってしまっている。グルジェフは、〈当初、私たちの肉体は1500年間持ちこたえられるように作られていた〉と言っている。族長たちの年齢は単なる神話ではないのだ。私たちのゼンマイを駄目にしたのは何か?
それは、人間の異常な生活である。すなわち、人間の肉体的な生活、感情的な生活、知的な生活である。私たちの時計の調節器は、正確には働かない。それは責任を負うべき年齢になると狂いはじめる。なぜ子供の頃の時間は長く思え、残りの人生は速く過ぎて短いように思えるのだろうか? 時間は体験の潜在性であり、センターに含まれている体験の総数である。そしてこれらの体験は継時的にも、あるいは同時的にも生じうる。私たちの人生の「時間」は、これらの潜在的な体験が消耗される度合いに依存する。スタディーハウスの箴言にこんなものがある。
「人間には決められた体験の数がある。体験を節約すれば、長生きできる。」
ベルゼバブは、水滴の中の生物の寿命が、私たちの寿命と比べていかに短いかということを述べている。しかし、私たちがいるこの部屋が、もしテニスボールぐらいの大きさに縮んだとしても、私たちはそのことに気がつかないだろう。おそらく、これと同じことが何百万年も前に蟻や蜂に対して起こったのだろう。当時は非常に巨大な生物だったのだが、彼らは堕落してしまい、宇宙全体にとって脅威となってしまった。そこで、〈自然〉が彼らを縮ませたのだ。だが、時間と寿命は、彼らにとっては昔も今も同じように感じられるかもしれない。

もし人間の堕落が続くならば、もし人間のエネルギーが無為なことに注ぎ続けられるならば、もし科学者がさらに無謀な破壊の方法を編み出すならば、もし人間が河川や大地を化学薬品や農薬によって汚染し続けるならば、そのとき〈自然〉は、蟻や蜂に対して行ったのと同じことを、人間に対しても行うかもしれない。


(誰かが尋ねた。「あなたは、明らかに未来を予言したり、過去を読み取ったりすることができる人間を否定しますか?」)
私は、そんなことができる人間に、これまで1人として出会ったことがない。私は、心霊研究協会の調査官だったとき、本物と思しき例を一度も見たことがなかったし、聞いたこともない。可能性はあるかもしれないが、時間と空間が、現実のために限定されることはない。ついでに言うと、自然科学によっては説明できない、いわゆる超常現象に出くわしたことも一度もない。

グルジェフの著作の目的の一つは、理性のタイプに応じて、非常に優れた精神の中に絶望を引き起こすことだ。

ベルゼバブは、理想的な正常な人間を象徴している。この惑星上での彼の任務はもう終了している。彼は、人間としてあらゆる経験をしている。彼は人間性に対する批評家だ。彼は客観的であり、公平無私であり、偏見を持っていない。彼は憤慨しているが、憐れみと慈しみを備えている。
彼は自らの流浪を、意識的な存在をもたらすために利用し、自分の潜在性を現実化させることに努力を惜しまなかった。彼は、私たちにもなることが可能な存在である。彼は私たちがなるべき存在である。会話の中で彼は私たちに、私たちがなるべき存在になれる手法を示している。
ベルゼバブは、自分に責任のある状況にいる人間を観察している。その状況は、三脳生物には「適して」いない。ここでの[become]という言葉は、「適する」ということと、対象をそう「ならせる」、もしくは「させる」ということの両方を意味している。教育システムのせいで、人間が生きている宇宙に対する知覚は、人間の精神から消え失せてしまった。私たちが自然界の植物相や動物相や、私たちが生きている文明を知っているのと同じように、三脳生物は宇宙の機能(惑星に対する太陽の機能、月に対する地球の機能)を知るべきなのだ。これが「本質的な知識」、すなわち、風聞ではない直接的な個人的知識となるのだ。正常な三脳生物は、宇宙的現象を、放射物やエネルギーから受ける影響を理解しようとする。異常な生物である私たちは、このことに関心を払わず、理解するにしても誤った理解をする。なぜか? グルジェフという人物は、私たち一人一人にとって、現実を反映する1枚の鏡だ。この本も鏡の一種だ。クンダバファーも鏡だ。
しかし、それは現実が逆さまに映っている歪んだ鏡だ。
教育とは、器官クンダバファーを重視した結果だ。プラトンは、〈生まれたての赤ん坊と一緒でなければ、「国家」を立ち上げることはできない〉と言った。しかし、子供たちは大人によって教育されなければならないので、彼らは損なわれてしまう。プラトンはもちろん哲学者だったが、ソクラテスは哲学者であるだけでなく、メソッドの教師でもあった。今日の多くの人々は、その品行よりも優れた知性を持っている。現代の我々は宗教や科学、道徳、政治にまつわる迷信から自由である。しかし、子供たちについては不条理であり続けている。我々は教育システムの愚かさを認識しているのだが、自分たちの子供をそこへ放り込みつづけている。

ベルゼバブによれば、私たちの太陽には光も熱もない。心理学的な意味合いは別として、私たちは個人的な知識によって、地球に送られてくる熱や光の原因について、一体何を知っているだろうか? 教会の権力者たちが、〈太陽は地球の周りを回転している小さな火の玉であり、それは私たちに光と熱を与えてくれる〉と説き、みんながそれを信じきっていたのは、つい昨日のことだ。今では、科学者たちが、太陽は何千マイルもの先まで炎を放つ巨大な火の星であると説き、みんなもそう信じている。しかし、どうしてそうだとわかるのだろう? ベルゼバブは、太陽は冷たく凍っていて、熱と光は物質の放つ良心の呵責なのだと言っている。〈聖アイエイオイウオア〉(生物が太陽から発せられる放射物に直接触れたときに生じるもの)は客観的な良心の呵責のため息だ。それは、自己を本来よりも高度な意識的状態に発達させた存在を前にして、感じ取るべきものだ。なるべきものになろうという願望なのだ。
地球は、私たち太陽系の恥だ。それは、異教徒に気づかれないように密かに真の教えが隠匿された民話に登場する、醜いアヒルであり、小人であり、野獣である。つまり、もし人間が正常になることができれば、この惑星は太陽系を改善させるかもしれない。吟遊詩人(トルバドール)もこうした考えを教えていた。彼らは秘教学院からの使者だったのだ。

宇宙全体は、〈トロゴオートエゴクラティックシステム〉(相互扶養システム)ゆえに存在しているのであり、それによって維持されている。私は物を食べる。私は3つの食物(普通の食物、空気、そして印象)を常食としている。私たちは互いに助け合って生きている。誰かと一緒にいるとき、君は〈彼もしくは彼女は私に栄養を与えてくれる。彼らと話すと、私は自分が成長したように感じる〉と言うことができる。その誰かというのが吸血鬼であれば、彼らはあなたを吸い尽くしてしまう。(もっともそれは、あなたが彼らを好きにさせておくほど愚かならばの話だが)
私が食べている食物は、私の肉体の細胞となる物質へと変換される。私とは、私が食べ、消化したものだ。文字通り、私は自分自身を食べたのだ。
宇宙は、生きるために食べる1個の生物だ。物質的宇宙のどの部分も崇高なる「私」が食べることによって生じたものだ。こうした考え方は神話の中に見いだされる。
初期のキリスト教徒は、〈イエスはその肉体を切り裂き、使徒たちはそれを食べ、そしてイエスの血を飲んだ〉と考えた。グルジェフによれば、これと似たようなことが実際に生じたのだ。多くの儀礼や儀式がこうした考え方と結び付けられたが(例えば聖餐)、当然歪められてしまった。食人の儀式や、(生殖力や精力の源として)性器を食べる風習は、完全に歪曲された例だ。
私の肉体が物を食べる。では、「私」とはどこにあるのだろうか?

ノット:〈芸術〉に関する章についてオレイジは、ピュタゴラスの時代には、〈芸術家たちは、その仕事に感情的に没頭することがないようにと戒められていた。〉と言った。彼は続けた。
オレイジ:芸術には主観的なものと客観的なものと、無意識的なものと意識的なものの2種類がある。
芸術は、〈自然〉が産み出すことのない、いや、産み出すことのできない感情の広がりを呼び起こす。芸術家がこのことを意識している程度に応じて、私たちはその芸術家の価値を決める。芸術家は〈自然〉の魂の中に、〈自然〉の法則の中に、存在していなければならない。〈自然〉の数学的原理を理解することは、〈自然〉の力学を理解することではない。芸術家の理解は科学者の理解の軌跡とは異なる。科学者は〈自然〉を先取りすることができないが、芸術にはそれができる。
主観的な芸術家は、個人的な成長のために芸術を追究している。客観的な芸術家の目的は、人々に対するある明確な、かつ計算された影響を産み出すことである。芸術家自身の個人的な目的もこれに含まれるかもしれない。
芸術は感情を伝達する手段である。主観芸術は芸術家を満足させる。客観芸術は、鑑賞者に対して、芸術家が意図した通りの影響を与える。
客観芸術は、建築、絵画、彫刻、音楽、文芸、舞踊、演劇における〈七の法則〉の暗黙の原理に基づいている。ラスキンは「七つのランプ」の中でこれを追究しているが、躊躇している。
葛飾北斎は、「自分が死ぬときには、光で描き、花々を創造する〈自然界〉の芸術家のグループに加わりたい。」と言った。
ブレイクは、真の創造のヴィジョンを得た。
「創造」という言葉の現代の用法は、不適切だ。現代芸術はただ生じるだけだ。私がここで言いたいのは、自己を表現する、典型的な主観芸術家であるボヘミアンのことだ。芸術家の多くは、人間的な感情ではなく美意識しか持っていない。しかし〈芸術を追究することは、理性を追究すること〉なのだ。真の芸術家は〈自然〉のアンテナである。〈自然〉の到来の前には、芸術家の到来が伴う。スタディーハウスにはこんな箴言がある。「感情をもって芸術を愛してはならない。」
客観芸術は、非同一化の状態をもたらす。この働きに関して言えば、偉大な芸術とは、完璧な人間存在を自分自身から作り出す芸術である。

人間活動のほぼすべてが、惑星体の真の必要性を満足させることではなく、その欲望を叶えさせ、弱点を補うことと関わっているということを、君たちはこれまで考えたことはないだろうか?
ウォール街やロンドン取引所、五番街やボンド街の商店を見てみるといい。実に何百万もの人間が、女性の気まぐれや虚栄心を叶えるためにひたすら商品を作り、何百万もの人間が、武器や爆薬、自然を破壊する化学肥料、そしてそれによって生じた病気を癒すために開発された薬物のために金を費やしている。ジャーナリストや無知な作家の憂さ晴らしが印刷される紙を作るために、毎月切り倒されている大量の樹木のことを考えてみるといい。飛行機や車の生産のために費やされているエネルギーのことを考えてみるといい。生のテンポが速まり、生がますます複雑化するにつれて、人間は本来的なものを失いつつある。
器官〈クンダバファー〉の働きによって生じる大きな錯覚の一つは、〈幸福の追究そのものを目的とすることは良いことだ〉というものだ。しかし、もし私たちが本当の目的を持てば、副産物として幸福が生じてくるのだ


私たちはいろいろな理論を知っているかもしれないが、自分自身の中に調和を確立するまでは、宇宙に関することを理解することはできない。
グルジェフは、〈私たちは想像力を主に空想のために用いている〉として、その想像力の用い方を非難している。しかし、この本は、想像力を正しく利用する機会を与えてくれる。想像力を正しく使うエクセサイズとは、〈想像力を、個人的なものから普遍的なものへ、あるいは普遍的なものから個人的なものへと、頻繁に変換すること〉である。
もし私たちが、自分の中にある、能動的、受動的、中道的エネルギーの働きについて理解すれば、そのとき宇宙における〈三の法則〉を理解することができる。〈七の法則〉についても同様だ。
君たちはこれまでに、こうした2つの法則(それは常に機能している)が自分の中で働いていることを実感したことはないだろうか? もしないというのなら、君たちが理解していることは単なる知識となり、それはやがては消え失せてしまうだろう。
私たちの文明の96パーセントは、本能・運動センター、すなわち惑星体(身体・肉体)に関係している。
残りの3パーセントが真の文化である感情に、1パーセントが「なぜ?」という問い、すなわち真の知性に関係している。本能・運動センターは、本来は受動的であるべきものだが、私たちの文明においては、能動的・積極的なものになった。私たちは、逆さまに磔にされた、あべこべの人間なのだ。

ピュタゴラスはこうしたシステムと手法を教えたが、彼の教えの記録は、後世のグループによって伝えられた断片的なものを除いて残っていない。彼について書かれた本は、ほとんど想像の域を出ない。しかし、彼の教えは多大な影響をもたらした。プラトンの「ティマイオス」は、ピュタゴラスの宇宙発生論をふまえている。グルジェフの舞踏やムーヴメンツには、ピュタゴラスの教えの断片に基づいたものがある。例えば、〈女祭司のイニシエイション・秘儀の断章〉がそうだ。アリストテレスはその形而上学に関する本を著す際、宇宙、時間、思考、そして力について、彼がピュタゴラスから受け継いだ教えに照らし合わせて、議論するつもりだった。しかし、彼がそれに成功したとは思えない。

この惑星上の生物の特性は、特殊な状況に起因している。こうした生物は独特な存在で、とりわけ歪んだ理性を有している。なぜ私は、自分が出会う人間のほとんどは愚かだと考えるのだろうか? なぜ人々は、私が愚かであると考え、私に憐れみを掛けようとするのだろうか? なぜ私も彼らも両方正しいのだろうか? なぜ私たちは冷静になると、人間の本質的な非常識さを認識するのだろうか? 他人の過ちを見つけるのはたやすく、自分の過ちは見つけにくいのはなぜだろうか?
こうしたことは、すでに以前からわかっていた。ソクラテスや、「マハーバーラタ」のシャクンタラーの物語を読んでみるといい。
こうした非常識さは、権力を持った生物にとっては当たり前のこととなり、それは彼らが「大衆」「民衆」と呼んでいるものの取り扱い方に用いられる。
群衆に直面したとき、私たちはなぜ理性的に振る舞うことが困難になるのだろうか? 誰もが法律や規則の75パーセントはくだらないものと考え、それから逃れようとする。しかし、それに反抗する人間は滅多にいない。

熱と光は物質の放つ良心の呵責だ。私たちが自己想起の状態にあるとき、私たちの肉体の中にある成分が良心の呵責を感じ、光が生じる。この良心の呵責は劣等的な感情ではなく、前向きな感情と結びついた私たちの存在そのものに対する一種の後悔の念である。そして私たちは、闇の中に隠された自己の中に存在するものを観察することができる。
私たちは電気によって造られている、ということが現代の化学者によってよく言われる。3つの力である、正、負、中性はある1つのものである〈オキダノク〉(宇宙に偏在する活性元素)、すなわち電気において融合する。グルジェフは、かつての2つの文明は、電気をあまりに機械的に使用したために滅びてしまったと、述べている。私たちの文明は3番目のものなのかもしれない。
この極端な機械的な利用によって、心理学的な利用が少なくなる。そして、人間の意志は弱くなり、目的が曖昧になる。これは教育に影響を与える。

現代の教育は、古代においては教育が始まった時期、すなわち、18歳から20歳にかけての時期に終了してしまう。しかしこの時期は、人生により多くの意味を与えてくれるものを吸収するのに理想的な時期である。この理想的な時期において、生命は充電されるべきだが、それを処理する術を若者に教えてくれる者は誰もいない。
その結果、最も理想的な時期にいる人間が冷笑的になったり、あるいは気難しい変人になり、薬に頼ったり、セックスに耽溺(たんでき)するようになってしまう。彼らは本能・運動センターに依存しているのだ。


(誰かが宿命的な質問を発した)
問「私がこのグループの中にいて、あなたの話を聴いている間、私は話のすべてが真実であるということを自分の感情によって感じています。ここで私は、私が行為できるということを、そして今後私は教えに従って生きるだろうということを、感じています。しかしまた、心の中では、私がこの集会を離れたら、旧来のあらゆる短所が表に現れることもわかっています。私は、このグループに再び戻るまで、ここでのことを忘れ、以前と同じように生きるでしょう。」
オレイジ:君の声の調子からすると、君は八つ目の大罪である「悲観」に陥る危険にあるようだ。しかしこのワークにおいては、何度でもやり直しがきく。毎回君は、自分が少しでも多くの霊的な筋力を得られるように努力する。歩きはじめた赤ん坊のように、あなたは何度でもやり直す。そしてこのワークは無限に、より難しく、より複雑になってゆく。しかし結果は約束されている。私たちは、器官〈クンダバファー〉の働きによって、私たちが、阿片のような作用を持つ一種の病に冒されていることを忘れてはいけない。本当の努力をすることが、重要なのだ。
この病は私たちを狂人にした。そして、この器官は今ではすっかり退化してしまったが、しかしそれでもその影響はまだ残っている。一般的に言えば、私たちは健全に生まれついているのだが、年長者の影響によって、他人と同じように行動しようという欲望(習性?)によって、広い意味での教育によって、異常に、つまり人類の敵になってゆくのだ。

生贄の真の意味とは何だろうか? ベルゼバブはこのことについて多くのことを語っている。
偉大な教師や英雄たちは、人類のために自分を犠牲にした。実際、場合によっては、彼らは生贄として地球上で処刑される。イエスがその例だ。また、ベルゼバブによれば、ユダ(彼はイエスの愛弟子で最も信頼されていた)は他の使徒たちと人類のために、自分を犠牲にしたのだ。
ノット:〈生贄と豊穣の儀式は、原始人の宗教的思想の始まりであった〉とする進化論主義者の理論には、どこか納得の行かないところがあります。それとは全く逆だったのではないでしょうか? つまり、神や英雄が人類のために死んだという考え方が歪められ、誤った宗教的思想と結び付けられてしまったのです。神は王に化身し、王が生贄にされたのです。例えば、ウィリアム二世の死(ノルマン朝のイングランド王、ウィリアム二世は、狩猟中に何者かの矢に当たって死んだと伝えられている。)は、キリスト教ではない古代の宗教の生贄の儀式だったと言われています。普通の人間は無論のこと、人間のために王や神官が犠牲になった例はいくらでもあります。
オレイジ:君の言うことはもっともだ。また、古代の神官が特定の時期には大量の死が必要だと考えていた可能性もある。だから、膨大な数の動物が古代のインド人やユダヤ人、ギリシア人によって生贄に捧げられたのだ。マハーバーラタには、神々は生贄によって養われた、と書かれている。しかし、生贄とは何だろうか?
ある意味で私たちは、ベルゼバブの〈三回目の地球降下〉時における生物の屠殺を、無垢で本能的な欲望の撲滅と捉えることができる。三回目の降下は、本能・運動センターに照応し、そこでは肉体的な欲求や本能、願望を抑圧するあらゆる禁欲主義者、修道僧、苦行者によって、無垢な欲望が生贄として捧げられている。
こういったことはすべて、相互扶助の関係〈トロゴオートエゴクラット〉を持っている。キリスト教的な宗教において犠牲という考えは、〈私たちが享受しているものを放棄する〉という考えに変質してしまった。それは清教徒において極限に達し、彼らは舞踏や歌謡、祭、演劇、熊いじめ(つないだ熊を犬にいじめさせた遊び)、そしてとりわけセックスを禁じる法を、人間がこれらのことを享受するゆえに作った。清教徒は最も厳格な人々であり、〈不愉快な物事があっても、それは自分のためになることに違いない〉と信じている。この意味では、私たちはみんな背教の清教徒だ。
私たちは、自分の機械的な苦悩以外の何かを生贄に捧げるだろう。しかし、もし私たちがこのワークにおいて進化することを望むなら、私たちはこの機械的な苦悩である、怒り、苛立ち、落胆、自己憐憫、感傷性といった、私たちの人格を表現するすべてのものを生贄にしなければならない。人格の死による苦しみは、「自我」の誕生に伴う陣痛だ。アンギレ・シレジウスはこう言っている。
「私自身がマリアとなり、神を産まなければならない。」

根本実体は1つである。しかし、1つは3つである。つまり、肯定・否定・和解、もしくは能動・受動・中立である。君たちはこの3つを区別することができるだろうか? 例えば、1個の水素原子の中においては、陽子は正であり、電子は負であり、陽子を周回する電子の運動はエネルギーを産み出す。これが中和である。これは高度に形而上学的な概念だ。私たちは3つの脳を持っていて、それぞれは電気的な形態をとっている。正常な生物は、これら3つが調和した状態にある。
自然は惑星体の脳を、ほぼ完璧な段階にまで発達させたが(もっとも私たちはそれを台無しにしてしまったが)、私たちの感情的及び精神的センターの脳の発達については、不充分なままである。そして、私たちは異常な状態にある。「肯定」は精神に属し、「否定」は肉体に属し、「和解」は感情に属している。肉体は物事の「方法」を知り、精神は物事の「理由」を知り、そして感情は、精神と肉体を加えて、物事の「理由」を理解する。科学者は「理由」ではなく「方法」に関心を持つ。新しい発見は、それがたとえ人類に害をもたらす可能性のあるものであっても、すべて大衆によって「神聖なもの」として見なされる。知識はそれ自体で完結しているという現代の迷信は、このようにして正当化される。スタディーハウスの箴言にこんなものがある。
「西洋の知識と東洋の知性を持ち、そしてそれを探究しなさい」
理解の伴わない知識は、諸悪の根源だ。

理解することと、「自我」は1つのものだ。自己の外側に立つ、これがエクスタシーの本来の意味だ。東洋の神秘主義的な詩人たちはその喩えとして、エロティックな愛を用いた。性的な愛の高みにおいて、彼らは自己の外部にいるという感覚、非同一化を体験した。それは、多くの人間の場合に見られる、グルジェフが「振動性自己忘却」と呼ぶものではない。自然が、私たちの第2、第3の肉体を発達させることはない。自然は私たちに実体を提供し、私たちは〈手法〉を用いることによって、こうした実質を高次の肉体のための物質へと変成させることができる。
「地球への二回目の降下」の中では、陥没したアトランティス大陸の物語は、私たちの奥深くに埋没し、人格に飲み込まれてしまった〈客観的良心〉と比較されているのかもしれない。〈客観的良心〉は、正常な生物の機能だ。それは、神の代理人である。バプテスマのヨハネとは何か? それは、肉体の荒野で叫ぶ、外的な生活によって首を斬られてしまった、客観的良心である。

ベルゼバブは、自分の目的を達成させるために、この惑星上の生物の迷信を活用する。私たちは、このワークにおいて、教師たちに対してすら警戒する必要がある。普通の人間の理性は非常に気まぐれなものなので、教師たちは良い結果を得るためにはトリックを使わざるを得ず、嘘をつくことも辞さない。グルジェフは常に私たちをトリックでもてあそび、私たちに自分の理性を使わせようとする。彼はスタディーハウスにこんな箴言を書いている。
「もし生まれつき批判的精神を持っていないのなら、ここにいても無意味だ。」
私たちは、〈イエスは愛の福音を、私たちの幸福のために教えたのだ〉と思い込んでいる。確かに、もし私たちが愛を理解できていれば、福音は私たちの幸福のためになったかもしれない。もし私たちが愛の主な3つの種類(本当は全部で7種あるのだが)を区別し、意識的な愛を実践できるようになれば、それは今でも可能だろう。そして、埋没した客観的良心を掘り出すならば、私たちは絶対安心なガイドを持つことになるだろう。
イエスは間違いなく最終的な結果に、〈他の無意識的なものと同様邪悪な、機械的な愛がもたらす有害な結果〉に、気づいていた。ギリシア語原典によれば、イエス自身は、意識的な愛と無意識的な愛について述べる際、2つの別個の用語を用いた。

バーナード・ショーはかつて私に、「自分は25歳くらいの頃に自然の目的、つまり脳の発達を悟った。」と言った。しかしショーは、主に知性センターによって活動し、教師ではなく改革者となった。

「地球への三回目の降下」では、インドの過剰な感傷主義と近代イギリスの動物愛護(似非博愛主義的な感傷主義による否定的感情)に対する風刺がなされている。

ベルゼバブが地球への三回目の飛行譚の際に述べている、ケシの実とは何だろうか? それはどんな効果をもたらすのか? ケシの実は人間に価値を創案させ、人間が現実を見ることを不可能にさせ、自身の本能や経験をガイドとして用いることを妨げた。

現代の広告は、あらゆる私たちの行為、所有物、欲望、そして私たちを誘惑するありとあらゆるものと関係している。そしてこのことが、狂気的な宣伝をもたらしている。
マハーバーラタでは、儚いものに対する人間の果てることのない欲望について、盛んに言及されている。しかし、人間はいくらものを得ても、決して満足することがない。無益な願望や欲望は、はびこるキンポウゲのようなもので、放っておけば庭を覆い尽くしてしまう。ケシの実を噛む習慣は、私たちが親の言うことを真剣に受け取る幼年期に始まる。
ほとんどの子供は、セールスマンの生贄になる運命にある。そしてそれは生涯続く。
もし誰かが私に、自己を暴露させる衝撃的な真実を話すならば、私の虚栄心や自己愛は傷つけられる。私は憤慨する。しかし、もしその者が私にお世辞を言うならば、たとえ良くない結果につながるにしても、私は彼と友達になる。
実に多くの人間が、公では名士とされながら、私生活においては傲慢不遜で扱いにくい人間を、「偉人」として見なしている。大衆は独裁者を崇拝し、実際には狂人と言えるほどに、虚栄心や自尊心、自己愛、エゴイズムに浸っている人間を、「偉人」として見なす。
私たちは演出力を賞賛する。例えば、H・G・ウェルズは、若い頃、奇抜なアイデアに溢れたC・H・ヒントンの本を読んだ。ヒントンは自分の考えに、物語という形式(科学小説)を当てはめた数学者だった。しかし、彼は凡庸な作家だった。一方、ウェルズは優れたセールスマンであり、ショーマンだった。彼はヒントンの考えを「タイム・マシン」などの作品に発展させ、富と名声を得た。しかし、ヒントンは無名なままだった。

神話や物語という形態でしか、人間は真理を理解することができない。グルジェフが今取り組んでいるもう1つの本、「注目すべき人々の物語」は物語調の短い話(真理の断片を含んだ物語)を集めたものである。ついでに言うと、グルジェフは若い頃にインド哲学を学び、その後にブラヴァツキー夫人の本を読み、そしてインドやチベットへの旅の途中で、ブラヴァツキーの文章の9割は、彼女の個人的な知識に基づいたものではないということを発見した。彼は数年に及ぶ探検を経て、このことを明らかにしたと言っている。チベットでは、彼はスパイをやっていたのではない。彼はダライ・ラマのために僧院から税金を集める仕事を、自ら買って出たのだ。そしてこの役目のおかげで、彼はどんな僧院にも入ることができた。彼は「魔術」と呼ばれている空中浮揚という異常発達の例を目にしたが、ある種の舞踏や儀礼を除くと、客観的な知識として記述されうるようなものは、ほとんど見いださなかったという。僧侶たちが発達させていた力のほとんどは、通常のものを流用したものだった。それは興味深いものではあったが、〈西洋世界の人々の自己発展には役立たないものだ〉と彼は思った。しかし、
チベット人の生命は、おそらく現在の地球上の誰よりも正常なものに近く、遥かに汚れの少ないものだった。チベットは世界のどの国にも増して、低劣な西洋文明の影響や、破壊的な共産主義の影響が少ない。しかし遠からず、グルジェフの言うこれら2つの力の『泥の海』が、この惑星の他の古い生命と同じように、チベット人の生命を吸い込んでしまうだろう。
私はよくこの文章を思い出し、この文章の通りになっていることを深く悲しむ。グルジェフは、ダライ・ラマのチベット脱出を手伝ったという話もあるが、実際に現在(2018年3月)もチベットは破壊され続け、もはや再興する可能性がないのではないか?とも思う。
グルジェフの情報が本当であれば、チベット崩壊の最初の原因は、イギリスの気まぐれによる度重なるチベット侵攻であり、その後の中共の侵攻はいわば〈第二次大戦の勢い〉のようなものだと思う(この部分に関しては詳細を調べるつもりだが)。
〈第二次大戦の余波と考えられる〉中共による、モンゴル、ウイグル、チベットへの暴虐、いわば、善良な人々が残してきたものへの冒涜行為が止むことを、私は死ぬまで願い続けるだろう。そしてなるべく早く、その(自然による)鉄槌が下ろされることを願い、グルジェフのチベットへの思いが成就される日が来ることを願う。

ベルゼバブは、チベットへの旅の間、彼とその仲間たちが野生生物を追い払うために、夜に火の輪を作らなければならなかった次第を話している。私たちは、自己想起の状態にあるとき、否定的感情の攻撃からは保護されている。しかし夜になって油断をして眠ってしまうと、それは私たちを襲ってくる。
釈迦は、弟子たちに他人の不愉快な表現行為を我慢する方法を教えた。しかし、徐々に弟子たちは道を逸脱し、結局「生命」が耐ええない主知主義という高みに行き着いてしまった。西洋にも、仏教についてよく知っている人はいるが、本質的には何も理解していない。釈迦は、ピュタゴラスやイエスと同じように、単なる説教者ではなく、実際的な職人だったのだ。
私たちは猿に関する章を、自分たち自身に当てはめなければならない。私たちは、正常な生物の戯画である猿のようなものだ。
極端な場合がある。
言葉や概念を取り扱う思弁的な哲学者、真意が忘却されたシンボルを取り扱う神官、お金の目的を忘れてしまい、それを物品としてしか取り扱わない金融業者がそうだ。彼らは1つのセンターに従って働いている。また、膨大な形而上学に関する著作のことを考えてみるといい。そこでは、知性センターが自分で生産しようとしている。主知主義とは単なる言葉であり、感情センターに対しては何も影響を及ぼさない。

エジプトでベルゼバブは、「ソープタカルクニアン思考と呼ばれる状態」に入る。それは、客観的理性を手にしていたかつての生物によって残された「コルカプティルニアン思考テープ」と呼ばれる思考形態を読み取ることを可能にする状態である。しかしこの思考形態は、グルジェフのように最低限の客観的理性を得た人間によってのみ読み取られ、理解することができる。他にも、聖者や神秘家のような人々の中に読み取ることができる人がいるかもしれないが、それはごく稀である。それに、決して完全に理解されることはない。ある種の病理学的なタイプの人間はつまみ食いをして、ごちゃまぜにしてしまうかもしれない。自動書記や幻視、天啓といった現象はその類なのかもしれない。

ベルカルタッシ(「ベルゼバブの孫への話」に登場するアトランティス大陸の有力な知識人)は、自分の人生を客観的に顧みて、自分がしようと望んできたことと、自分がしてきたことの間に、何の照応もなかったことを発見した。彼の願望や意見と、彼の実際の行動との間には、常に矛盾が存在していた。彼は、〈自分はどうしようもない馬鹿者に違いなく、友人や知人が自分と同じくらいに愚かになることは不可能だ〉と結論付けた。なぜなら、彼らはみなちゃんと常識があるように見えたからだ。彼は、自分は特別な馬鹿に違いないと結論づけた。そして、〈友人や知人は、ちゃんと常識があるだろうから、自分と同じように愚かになることはありえまい〉とも思った。それから彼は友人を尋ねてまわり、自分の愚かさを告白し、自分を咎めてくれるように求めた。彼の誠実さは友人たちの抵抗を和らげ、彼らは、〈自分たちもまた同じように無意味な人生を送っていること〉を認識しはじめた。彼らは、存在の意味と目的を探究するための研究団体を組織し、それぞれ異なる言語をしゃべる3つのセンターを持った生物の精神障害を、癒そうと試みた。彼らは、小規模の私的な集まりからそれを始めた。感情に溺れて「自らの罪を告白する」のではなく、その集まりの中で誠実さを保ち、自分の過ちと欠点について語り、それを公平無私に観察しようとしたのだ。彼らは過去の人生と現在の行為を振り返り、その集まりの目標を掲げるようになった。後になって、彼らは5つのグループに分裂した。
君たちはこのことの意味がわかるだろうか? 私たちがこのことを自分たちに当てはめなければならないということを、君たちは理解し始めているだろうか?
これらのグループの1つは、最も広義な意味での数学に関心を抱いた。グルジェフは、生命は数学に基づいていると言っている。あらゆる偉大な芸術、偉大な音楽は、数学をその基盤として持っている。思考には様々な重さと速さがあり、感情には様々な激しさが、筋肉の運動には様々な強さがある。君たちはこうした重さや激しさ、強さの間にある違いを観察し、説明することができるだろうか? その説明には、心理学という手段を導入することになるだろう。
現代の心理学は単なる生理学に過ぎない。しかし、自己を測定し、2つの思考の差を区別できる人間がいるだろうか? 例えば、グルジェフは「時間とは〈唯一の主観性である〉」と言っている。この言葉と「空間、時間、そして神」といったアレキサンダー(イギリスの哲学者。批判的実在論を主張。)の著作を比べてみよう。アレキサンダーは「時間とは空間の父である」と言う。ここでは、多くのことが理解されたものと仮定されていて、空想的であり、「私」との接点が全く存在しない。グルジェフの言葉は非常に重みがあり、たちまち強い個人的な印象を与える。インド哲学では「時間とは自我である」としばしば言われる。これはグルジェフの言葉と似ているが、それとは違った重みを持っている。
4番目のグループは、物理と科学を研究した。彼らは、中でも、知覚によって自己の中に生じる変化を観察した。
5番目のグループは、3つのセンターの働きの結果として自分たちの内部に起きる現象を研究した。
彼らは、5つのカテゴリーに分類される現象の研究を行ったとき、何か他のものが必要であることに気づき、代理人を派遣して、自分たちよりも優れた研究者を探すことにした。代理人はアフリカへ行った。この場合、アフリカとは生命体の一種の戯画である。しかし、本能・運動センター、感情センター、知性センターはどこにあるのだろうか? また、ここでは古代エジプトの自己発展、自己完成のためのシステムと手法が記され、そしてベルゼバブのシステムが説明されている。エジプトのシステムは、ベルゼバブのシステムが私たちに適合しているのと同じように、当時の人間に見事に適合した。

私たちの感情的なシステムは一種の気候だ。あるいは、様々な気候を寄せ集めたものだ。君たちは、自分の気分の風の変化を図に示すことができるだろうか? 君たちは陰湿な消極的な状態から、さわやかに晴れ渡った空に自ら変わることができるだろうか? 現時点では、答えは「ノー」だ。今のままでいるかぎり、私たちは、私たちが出会う人間や出くわす出来事、あるいは私たちが食べる食事のなすがままだ。私たちは気の赴くままなのだ。
古代エジプトの神官は、意識的な目的を持っていた。弟子たちに自己の否定的な実体を肯定的なものに変えるやり方を教える傍ら、客観芸術を示すことによってエジプトの外的な暮らしに変化をもたらしていた。ギリシア人は彼らを「夢の生贄」ではなく、「夢の達人」と呼んだ。例えばスフィンクスは、古代カルデアにあったものの複製だ。大本の像は、3つの部分を繋ぎ合わせたものだった。4つ目の部分は、琥珀に覆われた。エジプトのスフィンクスは、「なぜ?」という質問を暗示していた。スフィンクスには翼がなかった。なぜなら、向上心を喚起するものが失われていたからだ。
ギリシア文化の開花は、間接的には哲学者たちがエジプトと交流した結果だった。美しく整然とした庭園は、偶然によって生まれるものではなく、庭師の一種の意識的な愛によってもたらされるのと同じように、どんな文明においても、真の文化の開花は、少数の意識的な生命のワークによってもたらされる。とりわけ、ピュタゴラス、ソクラテス、プラトン、ソロンらは、学問を修めるためにエジプトへ行ったのだ。

「地球への五度目の降下」の中で、ベルゼバブは、〈人間の人生が段々と短くなってゆくのを火星から観察した〉と語っている。彼は調査のために地球に降下した。当時最先端を行っていたバビロニアでは、人間精神の退廃が始まっていた。これに先立って、古代バビロニアの科学概念は、人間の正常な潜在力の発達に基づいていた。生命の義務の1つは、2番目と3番目のセンターを発達させることだということは、当然のことと考えられていた。それはちょうど現代において、普通教育を受けることが当たり前のことと考えられているのと同じようなものである。古代バビロニアの生はこれが中心だった。芸術や文学や労働は、それに従属するものに過ぎなかった。しかし、直観や潜在力が衰えてくると、機械的な手段がそれに取って代わるようになった。客観的な科学者は、直観を持たずに機械的な技術を巧みに操る「科学者」に取って代わった。あらゆる知識が蓄積されていったが、知性は減少していった。新しい科学者たちが、宇宙という死骸の解剖に従事するようになった。そして、「なぜ?」ではなく「どうやって?」という疑問ばかりに夢中になっていった。
すべてを本能・運動センターを通して見ようとしたのだ。その事情は今も同じだが、度合いはさらに強まっている。
私たちはこの人生において、感情的、知性的潜在力を発達させ、古代バビロニア時代以前においてはごく普通だった、プラトンやヒュパテアのような人物になることができるだろうか? 直観と知性から合理主義へというこうした退歩によって、宗教は退廃し、善悪という有害な思考が産み出されたのだ。
私たちの世界観とは何だろうか? 宇宙は純然たる偶然の産物なのだろうか? 私は宇宙を、全知全能の絶対者によって制御されているものとして見なしているのだろうか? 私は恵み深き神に依存しているのだろうか? 私はそれを流刑の地として、「憂き世」として見なしているのだろうか? それとも、私は世界を、ある種の知性を得るために送り込まれる学校として、自分の潜在性を発達させることのできる一種のギムナジウムとして見なしているのだろうか?
私たちは自分たち自身のために、生という概念を考えるようにすべきだ。

「ベルゼバブの孫への話」を読み通すことは、最初のうちは君たちには辛いかもしれない。それは、エジプトのヒエログリフのようなものだ。科学的にはそれは不条理に思える。しかし、絶えず読んでいればその向うには、知覚できるものが、何も存在していないように思えた黒い幕が、巻き上げられるのだ。
「地球への5度目の降下」の中では、ハモリナディール(古代バビロニアの知識人)は一般的な理性の最高次の形態を象徴していて、死後のことについては何も知らないことを認めている。たまたまだが、私がグルジェフとこの章について話したところ、彼はこう言った。
G「自分は文学者ではないが、ベルゼバブには、詩人や作家なら叙事詩を作ってしまうような素材を提供したのだ。」
「ベルゼバブの孫への話」を字義通りに理解しようとすることは、馬鹿げたことだ。これは1つの神話だ。そして神話とは、芸術的なシンボルが想像力に刺激を与えるのと同じように、精神に刺激を与える寓意的な怪物だ。この本を絶えず読んでいると、時おり精神が麻痺しているような感覚に捕らわれるかもしれないが、それは逆に知性を目覚めさせているのだ。
ハモリナディールは、「人間理性の不安定性」に関する文書を読み上げた。彼は、エジプトを含むあらゆる学院で学んだ第一級の科学者だった。他の者と同じように彼は、〈精神は手と同じように、進化によって必要に応じて自然に発達した〉と仮定した。しかし、彼が習ったこと、学んだこと、訓練したことは、彼に、誰もが関心を持っている問題を1つとして解決させることはなかった。死の後には何が起こるのか? 彼はそのテーマについて本を書き、それは誰からも絶賛された。
彼は、他者によって提案された理論に耳を傾けていると、ある感情の状態においては、人間は肉体のみであるという考えに賛成することができた。しかし、別の状態では、人間は精神のみであると考え、そしてまた別の状態では、人間は、死後には決められた場所へと向かう永遠の霊魂を持っているのだと考えた。そして彼は、学識ある聴衆に対して、〈自分にはこの問題についての個人的な体験は全くないこと、そして何も理解しておらず、手法、つまり自分が試みようとしなかった知識への手段を持っている人間がいれば、自分に教えて欲しい〉と告白する。しかし誰も返事をしなかった。
それで彼は完全に失望し、涙を流しながらホールを出て2度戻ることはなかった。彼は自分の農場に戻り、〈チョーンガリー〉(存在食物)を栽培した。すなわち、彼は秘教スクールに行き、そこでワークを学ぼうとしたのかもしれない。
彼の主張は私たちと同じだ。
自分は、「ニュー・エイジ」の編集長として、宗教、哲学、心理学、科学に関する東西のあらゆる文献を読み、「マハーバーラタ」は2回読み通した。そして多くの芸術家や音楽家、科学者、心理学者を友人に持ち、知的世界のあらゆる人と出会い、宗教、科学、神智学、心理学、経済学、政治学におけるあらゆる理論に親しんだ。しかしそれにもかかわらず、あらゆる知識をもってしても、存在の意味と目的について、つまり死に際して起こることについて、ほとんど何も理解していないことに気がついた。そしてグルジェフに出会ったとき、すぐにここに自分の教師がいることを悟り、50歳になって、平凡な生活に倦み、すべてをなげうってフォンテーヌブローの学院に向かったのだ。
ハモリナディールは、幻滅した現代の思索家の戯画であり、その理性が不充分なので客観的な結論を得ることができないでいる。

感情と思考は物質的な客体のように持続するが、客体は思考よりも速く分解する。例えば、初期のユダヤ人によって作られた物質的な客体の中で、何が残っただろうか? 答えは〈無〉だ。だが、宗教的な思想は今なお残っているし、今なお生きている。しかし、私たちにはその活力の使い方がわからないのかもしれない。マハーバーラタに込められた、古代インドの思想についても同じことが言える。古代インド人によって作られた物質的な客体の中で、何が残っただろうか? 都市の廃墟の他には何も残っていないではないか? しかし、マハーバーラタの思想は、この先何百年経っても文学に刺激を与え続けるだろう。
言語的な推理は、言葉が形式であり、実体(一種の体験を与えることができる人的に創造された現象)であるがゆえに、危険である。
「労働者に力を」や、「自由を」といったスローガンは、人間の感情を惑わし、生きた幻想で満たしてしまう。そして人々は、ようやく自由を手にすると、すぐに権力と自由を、自分たちに従わない人々から奪い去ってしまう。

思索的な理性は、言語的な識別力を除けば、全く価値がない。グルジェフはそれを最も価値の低いものとして見なしている。なぜなら、それは形式的な推理にも、客観的な推理にも導かないからだ。
私たちはそれぞれ異なる次元の思考に基づいている、「植物の思考」と「動物の思考」と「人間の思考」との間を、区別することができるように常に励まなければならない。思考と感情は、天秤に掛けられている。生命を伸ばす感情と、生命を収縮させる感情が存在する。それは波動の問題だ。
生き生きとした思考や感情は、高い波動率を持っている。

問「知性的なタイプとは何ですか? ハムレットはその典型でしょうか?」
オレイジー「いや、ハムレットは何も『聴く』ことができない内向的な人間だ。センターは磁力的な紐によって結ばれているが、それが断ち切られると、眠気が生じ、センターは共鳴的な振動を休止することになる。ハムレットのセンター間の磁力的な紐は、磨り減ってしまったので、彼はほぼ常に眠っているに等しい状態にあった。彼の本当の悩みは、『自分の知性センターが刺激されている時に、なぜ私はこの罪と殺人に対して、恐怖を感じることができないのだろうか? なぜ私は、行動することができないのだろうか?』というものだったのだ。
私たちが、注意を自分に、自分たちが行っていることに向けようとし、自己を想起しようとすれば、センターは繋がる。」

聖書で述べられている奇蹟は、明らかにその通りには起こらなかった。それらのうちのいくつかは、低次の宇宙における高次の宇宙の法則の顕現だったのかもしれない。奇蹟譚の中には、まるで実際に起こったかのように、もっともらしく作られているものがある。本物の寓話は、理解のために読まれなければならない。その内的な意味が表面に現れることはなく、ストーリーと同じ次元に存在することはない。書かれた文章へと導かれる精神は、理解することが不可能な知識人だ。
(?)
しかし、熟考する精神は理解することができる。
意味があまりにも変わっため、福音書の中の言葉すら、私たちにとっては無意味なものになりつつある。パン、魚、「奥まった部屋」といったものは、今の私たちには理解できない特殊な意味を持った用語なのだ。あからさまな意味は、寓話においては価値がない。しかし暗喩的な意味は、いついかなる時でも現れうる。
問題は、〈どうすれば私たちは寓話の謎を解く鍵を手に入れることができるか?〉ということだ。
〈手法〉なしで、グルジェフの本は意味を持つだろうか? これは、〈一度もグループでワークをしたことのない人間は、この本から大切なことを学ぼうとはしない〉ということではない。そうではなくて、〈手法を実際に経験することなく、より深遠な意味が見つかることはない〉ということなのだ。鍵がなければ、聖書は何か意味を持つだろうか? 私は、旧約聖書と新約聖書の区別は、比喩的な意味を持っていると考えている。旧約聖書は、ド、レ、ミの3つが一体になったものだ。
そこへ、宇宙的な受肉という衝撃が発生し、そして、イエスから、問隔を置いて誕生したキリストへと、物語が進行する。旧約聖書は、本来、低次の3つのセンターを通した人間の発達を寓意的に表現したものであり、新約聖書は、高次の3つのセンターに対応しているのだ。パウロは、例えばハガル(アブラハムの子、イシュマエルを産んだ。創世記に登場する。)の物語のような、旧約聖書の物語の中のいくつかを、新約聖書的な意味合いに翻訳した。イエスは、古いアダムと新しいアダムという言葉を口にした。旧約聖書は、歴史的な寓話だ。新約聖書は心理学的な寓話だ。この聖書の場合と同じように、鍵を持たずにグルジェフの本を解釈することは、無為なことになりかねない。
新約聖書では、〈この手法を実践する者は、新しいものであれ、古いものであれ、自分の持っている宝を引き出す〉と言われている。それは、まず第一には、その者の内的な資源を増やし、そしてさらに、より多くの記憶をワークにおいて利用できるようにしてくれるはずだ。

問「アインシュタインの理論は寓話でしょうか?」
オレイジ「いや、それは暗号だ。言語ではない。寓話においては共通の用語が用いられる。」
問「ブレイクの予言書はどうでしょうか?」
オレイジ「それは精巧な寓意物語であり、詩的なイメージだ。」
問い「ワーグナーの『ニーベルングンの指輪』は?」
オレイジ「それも寓話だ。ワーグナーは非道徳論者として出発したが、それを守り続けることはできなかった。彼はキリスト教徒となり、次第に感傷的に、柔和になっていった。スウィンバーンは、ヘンリー(William Ernest Henley。イギリスの詩人、批評家)と同じように、幼稚な美学者だ。彼は、信頼はできるがたいしたことはない。
詩を読む際、散文の場合ではどうなっていただろう? と考えるならば、君たちは二重の満足を得る。音楽もまた二重の内容を持っている。しかし、
ほとんどの音楽は、ほとんどの詩と同じように、単に大仰なものに過ぎない。もしワーグナーを散文に還元するなら、陳腐な下らないものになってしまう。バッハやパレストリーナはそうでもないが、ベートーベンは似たようなところがある。不幸にも私たちは、音楽に関しては、多くの子供たちにとっての詩と同じような関係にある。それが良く聴こえれば、私たちはそれを良いものと考えるのだ。」
問「私たちには、音楽の知的な分析を期待する権利があるでしょうか?」
オレイジ「それはちょうど詩人が、詩の中で何も言うことがないときに口にする言葉だ。まさしく私が今、(音とは関係なく)音楽の中身を読み解こうとしているのと同じように、私たちは表向きの意味を無視し、本当の『散文的な』意味へと戻って、寓話を読み解くことができるようになるべきなのだ。寓話は、様々な表現を統合したものだ。だから私たちは寓話を、つまり普遍的な真理を含んだ真のお伽話を書くことができないのだ。」
 
私たちは感覚と感情を、また感情と思考を(つまり3つの主要な状態を)区別すべきだ。
自分はその違いを理解していると思っていても、人々はいつも感覚を感情に、感情を思考に取り違えている。まず感情的な状態のリストを作ることから始めてみなさい。例えば同じ怒りの感情にしても、怒り、憤り、癇癪、苛立ち、腹立ち、激怒、憤慨など、実に多くの種類がある。自己想起の状態にある人間は、こうした様々な状況を一般的な用語でそれを定義づけることができなくても、観察し意識することができる。
バビロニアの科学者たちは「言葉による推理」を創造し、「存在」の追究に終止符を打った。彼らは言語的な思考を陶冶(才能・性質などをねって作り上げること)された直観の代わりに用いたのだ。私たちは教育社会に入り込み、そして言葉によって堕落してしまった。知識はもはや「存在的体験」の結果ではなく、石化した概念になってしまった。
バビロニアには、道徳に関しての2つの学派が存在した。二元論者もしくは観念論者と、唯物論者もしくは無神論者だ。前者は世界の存在は2つの原理、善と悪から成っていると仮定した。私たちの自己の中には、自分との関係においてではなく、絶対的なものとして、物事をこのように類別しようとする傾向がある。生物にとっては、その各々の種の必要や要望に応じて物事を類別することが自然である。
「この草は自分にとっては良いものだ。」と馬は考える。「このブランデーは私を良くする(おいしい)。」と人間は考える。そしてこのことには対象それ自体の判断は何ら含まれていない。もし私が「これはそれ自体で善だ。」と言っても、私は自分の個人的な判断を働かせているのだ。この「善」という言葉の二重の用法が、私たちの混乱のもとだ。そして、こうした誤った個人的な価値観を、私たちは道徳と呼ぶ。グルジェフは宇宙には「客観的な悪」が存在すると言ったが、私たち自身が知っていることの中には、普遍的に善や悪だといえるものは1つもない。このことを知っているにもかかわらず、私たちは「善」と「悪」という言葉の使用を控えることができず、私たちには判断を下す権利があると考えている。
これは、バビロニアの時代にまで遡る教育システムの結果である。客観的な道徳が崩壊し始めたとき、主観的な道徳が登場したのだ
2つ目の学派である唯物論者は、心も神も「霊魂」も存在しないという結論に達した。現代の行動主義者や社会学者、知識人にとっては、人間とは印象を受け取って行動を排出する単なる動物の一種に過ぎない。彼らは、外的な行動と巧緻な心理学にとらわれている。グルジェフ・システムは、人間は機械であるという考えには賛成する。しかしこのシステムは、行動主義者が引き返した地点から始まっている。人間は、客観的理性に届きうる生きた霊魂となる可能性を持っているのだ。

古代の演劇では、俳優は舞台の袖に隠れていた。舞台の上で芝居が始められても、袖に隠れた役者たちは、いつ舞台に呼び寄せられるかわからず、しかもその求められる役が事前に明かされるようなことはなかった。

ある側面から見ると、人格は本質の守護者だ。プラトン学派に学んだメディチ家のある者は、15年間尼僧院に暮らして僧院長になり、それから宮廷へ戻ったといわれている。彼女は自分の理性が命じている限りは、その役割を演じることができた。手段と知識さえあれば、他にも似たような例を、中世やルネサンスのヨーロッパに、いくつも見いだすことができるだろう。

グルジェフは客観的な理性に従って、本質によって生きている。
しかし、通常の生活を送る人間にとっては、意識的な人間と山師の行動はしばしば見分けがつけにくい。だからグルジェフには色んな噂がつきまとうのだ。それに、取り巻きや若い弟子たちからのやっかみもある。意識的な人間の場合、その行動は意識的な目標と関係している。山師の場合は、その行動は無意識的だ。

知っての通り、エホバァーもしくはヤーヴェという言葉は〈ヨッド〉と〈エヴォエ〉、つまりアダムとイヴの2つから作られている。ユダヤ教は、客観的な秘教からは堕落したものとして見なされている。なぜなら、ユダヤ教は悪に対する責任を〈ヨッド〉から降ろし、それを〈エヴォエ〉の上に置いたからだ。責任を転嫁し、能動から受動へと逃れたこれらの「男」たちは、「〈ヨッド〉の男」である。
スーフィーは、ユダヤ人は自分たちに真実、客観的知識を与えたと言う。しかし、ユダヤ人はそれを捨て去り、そしてその結果、彼らは罰を受け、離散させられた。

根本的な羞恥心は、恐怖をもって異常性を見る生命体が持つものだ。正常な生命体のみがこれを感じるのだ。

意識的な労働に関しては、アシアタ・シーマッシュの例を挙げることができる。彼は言わば気まぐれで熟考をはじめた。彼は過去の教義をすべて熟考し、そして最終的に批評と新しい技法を確立した。それはおのずから見いだされたのだ。彼は、人生における彼の目標を自分自身の努力によって発見した。そして、その目標を実行するために、最も効果的な手段を編み出す仕事に取り掛かった。これが意識的な労働だった。
グルジェフ・システムは、すべての人間に対して目標を明確にする。それは、自己意識の獲得と客観的理性による判断である。この考え方は、最終的には、どんな行動も意図的な行為へと関連付けさせることができる。この意図的な行為は、それだけで他の機械的な人生に対して意味を与えることができる。真の誇りは「自我」の働きから始まる。それは、努力したことへの「満足」だ。
アシアタ・シーマッシュは、惑星地球の生物のさらなる退廃から救うための方法を考案しようとした。多くのワークを行い、何度も熟考して、自分は主観的に固く決意しているということを実感してから、彼は彼の教育の覆いを見透かすことができるようになり、そして、客観的かつ公平無私の状態に達すると、自分の使命をまとめ始めた。彼は、現在でも中央アジアにわずかながら残存している、イニシエイト(伝授者)たちのために記録を残した。
すべては3つの意味と7つの側面を持っているという、ベルゼバブの言葉を忘れてはならない。
アシアタ・シーマッシュは「恐るべき現状」(ベルゼバブの孫への話の第26章)を記した。
ノット:このときオレイジは、〈グルジェフがこの章の朗読の伴奏のために作曲した音楽を、ニューヨークでの時のように鑑賞してほしい〉と言った。というのも、その音楽の中では、この考え方が、本の中で知的に理解されるのと同じように、感情的に認識されるからだ。彼はさらに続けた。
オレイジ:アシアタ・シーマッシュは祈りを始めた。つまり、彼は肉体的な姿勢と同じくらい正確に、自分をある感情的な姿勢に置いた。彼は意識的に自分の感情を整えた。「私であること」という状態に自分を置いたのだ。「自我」は永遠である。「私は父であり、子であり、昨日であり、明日である。」
私たちの場合、「自我」は周期的に現れる。もっとも、初めは不規則だが。
アシアタ・シーマッシュはあらゆる束縛から自分を解放し、そして客観的になることができた。
彼は、〈信仰〉〈希望〉〈愛〉の上に築かれた宗教の結果を概観し、〈人間はもはやこれらの宗教の影響を受ける可能性はなく、彼らの正常な理性に訴えかけることは、もはやできない〉と考えた。狂人に健全さを説くことは無駄だ。
彼は、〈私たちの考え方だけでなく、私たちの感情すべてを疑い、そして、私たち自身のものではあるけれども手中にはなく、かつ腐敗していないものである客観的良心が、まだ埋もれたまま残っている〉という結論に達した。

彼は修道院から36人の人間を選んだ。彼らは自由な思想家で、当時の社会的潮流、つまり、彼ら自身の生命体や彼らの周囲にある外面的な世界の潮流に逆らって考えることができた。自由な思想家は、修道院の中で生きている。
アシアタ・シーマッシュは36人に〈手法〉を教えた。そのため彼らは、書物からではなく、自分自身の体験からしゃべることができるようになり、同じ使命を持った大勢の他の人間を救うことができるようになった。
長い間、彼の組織は繁栄し、彼の思想はイニシエイトたちによって伝承されていった。最終的に、それは〈レントロハムサニン〉(「ベルゼバブ」に登場する古代アジアの知識人)によって破壊された。
ところで、この名前は、今日ではよく知られている言葉のいくつかを繋ぎ合わせたものだ。私たち一人一人の中には、〈レントロハムサニン〉が存在する。すでに言ったように、このワークにおいてもまた、ある種の人間(グルジェフ・システムの知識はあるが、必ずしも理解はしていない人間)が、自分の主観的な目的のためにこの思想を利用する時代が訪れるだろう。彼らは思想を歪曲し、自分たちは〈道〉の上にいると勘違いすることだろう。しかしそれでも、グルジェフが教えたのと同じように、〈手法〉と〈システム〉を真に理解し守る人間が、常に存在し続けるだろう。
私たちの時代では、〈信仰〉〈希望〉〈愛〉に対するあらゆるアピールは感傷的な含みがあり、ある種の嫌悪感をもよおさしめる。知的には、私たちはそれらに対して防衛している。しかし、私たちはかつてのバビロニア人と同じように文明化され、堕落しているので、知的な証明を必要とする。
正常な理性に対するアピールに関しては、私たちは、釈迦という例を持っている。
釈迦はインドでは偉大な弁証家、鋭い理論家・論理家として認められていたが、すでに彼のことを誤解し始めていた直弟子たちの継承者たちによって、誤った解釈が定着してしまった。
アシアタ・シーマッシュは、〈信仰〉〈希望〉〈愛〉をアピールした自分の前にいた教師たちが、失敗したことを理解した。彼の後を継いだ人間もまた失敗した。そして彼は、私たちがまだ理解していなかったことを、絶望的な状況でなければ、ほとんどの人が体験しようとはしなかったことを、アピールすることを提案した。
なぜ犬は常に犬なのか? なぜ犬は犬のように振る舞うのか? なぜ犬は、理性的に振る舞わないのか? 犬はあるがままに振る舞う。なぜなら、結果が何であれ、犬は、ある通りになることを強いられるからだ。犬にとっては、規模が増えようが減ろうが、繁殖しようが絶滅しようが関係ない。それは無垢であり、本質的な存在だ。
鉱物、植物、動物は、それらの種の法則に従っている。
「すべてのものは、知恵深き神が負わせた軛(くびき)の下に頭を下げる」(アッタール)
それらには、私たちの言う意味での悪は存在しないし、心理的な努力も必要ない。これらの種は固定されている。人間は外面的には固定されているが、心理的には自分の中にすべての種を有している。人間は、鼠にも、犬にも、ライオンにもなることができる。
自分や友人たちのことを見てみたまえ。人間は、音符で言えば〈シ〉だ。この音符は不安定なもので、音階を上げることも下げることもできる重要なものだ。次の高次の音階に上るための努力がなされるだろうか? これが「恐るべき現状」だ。なぜなら、もし努力がなされなければ、人間は堕落し、蟻や蜂のように退化してしまうかもしれないからだ。
アシアタ・シーマッシュは、神という考えを導入する。それは、〈人間はその潜在性をより高次の方向に発展させるべきだ〉という決意である。人間よりも下位にある種には、これは必要ない。人間は、オクターヴにおけるこの重大な位置に就いた最初の生物学的な種だ。そして、人間の宇宙的な機能は、創造者によって宇宙に課せられた計画、つまりこの宇宙の進化と協働することである。
アシアタ・シーマッシュは、今のような実体を変成させる単なる機械として存在するのではなく、普通の人間、つまり〈息子〉となることができる〈手法〉を教えた。これは、〈ある時点で、単なる奴僕ではない、自己意識的な人間が数多く現れ、この気まぐれな計画の実行に協力してくれること〉を必要とした。アシアタ・シーマッシュは意識を人間にもたらし、それを育むことを提案した。
酒や薬に酔っていたり、愛や憎しみといった強烈な感情の影響下にある人間に、正常な状態を思い出させることは不可能だ。人間に正常な状態を(平均的な人間が瞬間的に覚醒し、真の意識状態を一部であれ想起する状態を)思い出させることが、すべての真の教師たちの目的であり目標なのだ。
お腹の中の赤ん坊が「僕が誰だか忘れないよ」と歌う物語がインドにある。この赤ん坊の誕生後の第一声は、こうだ。「ああ、忘れちゃった!」
こうした考えは、〈放蕩息子〉の物語があるキリスト教徒にはなじみやすい。この物語は他の物語と同様に、「聖書時代」の出来事として考えられているが、もとになっているのは古いグノーシス主義の「栄光のローブの賛歌」である。
私たちはこの物語を自分自身にはあてはめない。あるいは、あてはめるにしても、それを主観的な道徳の観点から見る。
アシアタ・シーマッシュは弟子たちに手法を教え、それによって彼らは、自分たちが〈放蕩息子〉の遥かなる故郷、すなわち惑星体に住んでいるという事実に「目覚める」ことができた。そして次第に彼らは、その尽きることのない欲求や願望と同化することをやめ、真の自己に回帰することができるようになった。〈手法〉とは、私たちが自己感覚・自己想起・自己観察の技法と呼んでいるもののことだ。それは「パークトドルグ義務」であり、簡単だが、同時に難しい方法だ。
なぜか? それは、人生全体が、私たちに忘れさせよう、私たちを眠ったままにさせようという陰謀の中にあるからだ。それはまた、文献をもとに〈手法〉を利用しようと試みる人間にとっては危険でもある。とはいえ、それはあらゆる偉大な教えの中に記録されている。
聖堂騎士団や騎士団を創設した根源的なグループや、単純な道具を使ってイギリスの片田舎の島にイーリー聖堂という奇跡を築いた未知のグループは、アシアタ・シーマッシュのグループに近い例だと言えるだろう。
こうしたグループの創設者たちは、真の意志、真の意識、真の個性をかなり持っていた。
ヒントンの「科学ロマンス」では、ある登場人物が、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの通りを歩いていて、「ジョン・スミス、非教育家」と書かれた扉のプレートを見たことを物語る。スミスの職業は、人間から、教育を通して蓄積されたくだらないことを忘れさせることである。私たちは一旦忘れ去り、もう一度教育され直されなければならない。
アシアタ・シーマッシュは〈人間は自分の本来の務めを果たす義務感を持つべきであり、そして、この義務を遂行した程度に応じてのみ、人間は進化するのだ〉と教えた。そのために人間は、我々が「幸福な人生」のために必須だと考えているあるゆる類のもの、地位、権力、知識、自己愛、驕り、エゴイズムをあきらめなければならない。
レントロハムサニンの批評は、優れた哲学者というよりは純粋な合理主義者のそれ(〈客観的良心〉のない〈客観的理性〉)だった。彼の考え方は、〈もし人間が奉仕のために創造されたのであれば、人間は奴隷にすぎない〉というものだった。彼はこの奉仕を拒み、絶対的な自由を得ることを言葉巧みに提案した。彼は〈意識的な労働と自発的な苦悩を伴う努力をせずに、これを得ることが可能だ〉と考えた。ある意味では、レントロハムサニンは、私たちの精神的な祖先であり、文明の創始者である古代ギリシア人やローマ人の先駆者であり、それ以前の文明はすべて野蛮だという考えを持っている。
だがグルジェフは、〈古代ギリシアの文明は、古代バビロニアの文明より遥かに劣っていて、それはアシアタ・シーマッシュではなくレントロハムサニン(高次の感情的な衝動を持たない合理主義者)の血を引いているのだ〉と言っている。
私たち一人一人の内部で、その内部にあるレントロハムサニンが、アシアタ・シーマッシュの仕事を無為にしようとしている。無意識的な力が意識的な力に反抗しているのだ。
私たちが携わっているこのワークでは、知識が知性よりも勝っている人間の場合、これに続いて生じる苦悩(罪悪感、良心の呵責、自己非難、自分をコントロールできないという絶望感)に耐えることができないかもしれない。これは霊魂の暗闇である。中には方針を変えて、より安易な道を探し、例えば哲学に救いを求める人間もいるかもしれない。あるいは、西洋人の精神には不似合いな東洋のカルトに向かうかもしれない。あるいはまた、彼らはレントロハムサニンとなり、完全に自己中心的となって、具体的なワークに反対するようになるかもしれない。このワーク
は極度に肯定的なものだが、グルジェフの言う通り、極度の肯定は極度の否定を呼び起こす。
レントロハムサニンとは、私たちの中にある非自発性を擬人化したもので、〈客観的理性〉の獲得と並んで〈客観的良心〉を得る為に、必要な苦しみに耐えるためのものだ。
神には計画がある。この計画では人間が必要で、神のためだけでなく、人間たちのためにも働く機会を、選ばれた人間に与えることが計画の一部に含まれている。それは非常に高度で遠大な計画だ。そして、苦悩はこの計画の重要性を示す。選ばれた者とは誰か? それは、意識的な労働と自発的な苦悩の代価を払おうとするすべての人間だ。それは、摂理によってあらかじめ運命付けられているという、ジョン・カルヴァンの言う選民のことではない。
レントロハムサニンは、〈善良な感情は持っているが、客観的理性には至っていない、この単純な民族を取り込むこと〉を選んだ(彼らは、苦労をしても〈客観的理性〉を得る望みがないと考えはじめて失望していた。)。
彼はこの壮大な計画の代わりに。「人生で重要なのは幸福の追求であり、幸福とは必ずしも絶え間ない努力を強いるものでない。」と教えた。場合によっては、私たちはこの教えに賛同できるかもしれない。
レントロハムサニンは、人間の中にある2つの特徴に関心を持った。無意味なもののために何かを得ようとする欲望と、将来の幸福のための自由という考えである。彼は怪物でもなければ、意図的な反逆者でもない。彼は自分が一番よく知っていることを、ただ考えただけだ。彼は高次の感情的な要素を無視した。
高次の感情状態においては、人間は悪を行うことができない。〈客観的良心〉が覚醒しているからだ。彼は自己想起の状態にある。
(ここでいう彼とは、覚醒している人のことだと思われる)
私たちの通常の理性には、すでに釈迦やイエス・キリスト、アシアタ・シーマッシュを打ち負かすに充分なものが存在している。レントロハムサニンの欠点は、〈理由を理解しようとせずに知識だけで満足してしまった〉ということだ。
グルジェフは、「『なぜ?』という疑問は、知っているものに対するものではなく、存在しているものに対するものだ。」と言っている。
前にも言ったように、私たちは2つの流れ、アシアタ・シーマッシュとレントロハムサニンのうちの後者、つまり古代ギリシア人とローマ人の血を継いでいる。だが、ギリシアには真正な秘教グループが存在し、それらにはその文明を開花させる責任があった。ソクラテスはそのグループの一員だった。アリストファネスは当時のレントロハムサニンの一種だった。彼は決してソクラテスを理解しなかった。
アシアタ・シーマッシュの信徒たちは、彼の教えがレントロハムサニンの合理哲学の波に呑み込まれてしまうと、小さなグループに避難した。こうした小さなグループは私たち自身の中に存在する。
現在の生についての一般的な説明はすべて個人を基準にしている。客観性はエゴイズムに呑み込まれてしまった。私たちは、個人的な関心という観点を除くと、いかなる哲学も構築することができない。
ニーチェはこう言った。「私はもはや哲学者に『それは真理か?』とは訊かない。『哲学者にとっての関心とは何だったのか?』と訊く。」
高次の感情がなければ、あらゆる哲学は利己的な想像の産物となる。私たちの退化した理性と同じように。
高次の感情的な知性がなければ、普通の人間は〈宇宙は偶発的なものであるので、人間を含めて地球上の生物は開発されるべきものである〉という考えを持つ。つまり、〈神は世界の創造に際し何ら有効な目的を持たず、そして神は私たちにとって無益である。〉あるいは、〈神は私たちのためだけに宇宙を創造したのであり、神は人類を愛し人類を幸せにさせたがっている。そして、もし人類が幸福になろうとせず、神の思うままにならない場合は、神は怒り、人類を罰するだろう〉と考える。
これは、〈私たちの主たる目的は幸福になることであり、幸福への歩みは他人をも幸福にさせる〉という私たちの幼稚な考え方の1つだ。これはショウペンハウアーの考え方だ。もう1つのタイプは、個人の幸福のみが重要であるという考えである。これはニーチェが陥った主観的な錯誤で、〈人類は、ごく少数の超人を生み出すために存在している。〉というものだ。他には病的な共産主義者・社会主義者の態度がある。
〈未来の他人のための「進歩」と幸福があるならば、自分の現在の幸福や周囲にいる人間など、どうでもよいではないか?〉という訳だ。そして、現代の科学者たちは、来るべき世代の利益のために、さらなる発明をしている。まさに
「明日という病」だ。
客観的理性は、主観的な利己的感情や個人的な苦悶によって得られるものではない。客観的良心もまた必要なのだ。グルジェフの宇宙論は、通常の精神には滑稽なものに思えるかもしれないが、私たちの主観的な観点に内在している子供じみた概念に比べれば、それは人間的で知性的でさえある。
アシアタ・シーマッシュはこう言っている。「本質の理解を今得ることができる手段がある。」
レントロハムサニンはこう言っている。「理解することなく、本質に順応することができる方法がある。」
ギリシア人は人間理性の堕落に、ローマ人は本質的な良心の堕落に責任がある。

ベルゼバブは、地球への六回目と最後の降下の際に、人間存在の短縮化の原因を探ろうとした。
近年の西洋での統計は、人間の肉体が軽量化していることを示している。この寓話でベルゼバブは、人間の〈三脳センターとしての存在〉が減少化しているという事実を、私たちに気付かせようとしているのだ。西洋社会の存在様式を調べてみれば、人間の本質的な生が、ここ2、3百年の間に、急速かつ深刻な減少をこうむり、それが今なお継続しているということが明らかになる。その原因の1つは、25歳あるいは30歳を過ぎると、人間が独創的に思考することを止めてしまうことにある。彼らはいつも機械的に考え、そして40歳になるとほとんどの人間は感性を失い、下等動物のように同じことをひたすら繰り返し、7割方は死んでしまっている。
こうした早すぎる死の原因は何だろうか? それは1つには教育の問題である。〈客観的良心〉を育てることに失敗し、〈客観的道徳〉が失われてしまったのだ。
正常な教育を行っている正常な社会では、〈客観的理性〉に向かって2つの高次の体を発達させる。現在では、〈客観的良心〉や〈意志〉〈意識〉〈個性〉の代わりに、「哲学、精神分析、科学、芸術、宗教、スポーツ、健康」などを用いる。
私たちは、北極点の上空に浮かぶ飛行船の中のアムンゼンに似ている。彼のコンパスはぐるぐると回って、どこをも指し示さない。私たちは誰も人生のはっきりとした内的な方向感覚を持っていない。私たちは存在し、移動することを強いられているが、周囲の人間が認める方向にしか動くことができない。こうして、社会的な慣習や道徳、理念といった実用的な取り決めがはびこるようになる。主観的な基準は奇異で頑迷なものであり、あるいはまた陳腐なものだ。しかし、客観的に見れば、奇異であろうと陳腐であろうと、同じことだ。両方とも主観的なものには違いない。だから私たちは様々な詭弁(きべん)に陥る。例えば、価値の基準は「適応」である。ユング学派は、「私たちは適応しているだろうか? もし適応しているなら、私たちは正しいに違いない」という考えに基づいている。これは一番楽な座り方だ。ベルゼバブの言う、便所の中の安楽椅子だ。
ここでは目的が手段にすりかえられている。
もし意識的な目的を持たないなら、手段は過大評価されてしまうだろう。例えば、哲学の目的は真理である。しかしその目的は見失われ、私たちはプロセスやエピグラム、レトリック、巧緻な理論といったものに目をくらまされてしまっている。私たちは手段を崇拝している。
正義という概念も同じだ。正義の本当の概念は、万物に当てはまる規則に公平無私に従っている。しかし、私たちは律法主義者となり、精神的な論理の代わりに法的な形式や合法性を追求するようになった。

そして性だ。客観的な観点からすると、性の目的には生殖と自己創造という2つの側面がある。惑星体の生産と、ケスジャン体およびメンタル体の創造である。古代ローマ人のおかげで、私たちは性を無目的に使い、それを利用した結果生じる真の満足を、性的なプロセスに由来する快楽にすり替える方法を覚えた。すなわち、組織化された厳格な宗教下では、私たちは性を否定し、それを悪として、大きな罪として見なす。そして人間は性的な妄想に惑溺する。なぜ西洋では数多くの思想が、性エネルギーの誤用や不使用の結果に対する研究へと向かったのだろうか? 性的な問題は、東洋では、西洋的な清教徒主義の影響を受けたところを除けば、生じていない。
有機的な生を停止させることによって、私たちは性的な結合に由来する快楽を享受する権利を持つが、人間としての私たちは、意識的な目的のために、一部であってもエネルギーを使わなければならない。性エネルギーは、意識的な目的のために使用されなければ、私たちが「異常」と呼んでいるものよりもはるかに有害な目的のために、流用されてしまう。
〈自分が生まれた理由を知り、しかもなるべく早いうちにそれを知って、自分の役割を果たせるように教育されるべきである〉という考えを、私たちは先天的に持っている。動物や植物は、自然の状態でこのことを実行している。植物は種を産み、失敗することはあるかもしれないが、その機能を変えることはない。植物界は、障害を克服する優れた適応能力を持っている。三脳生物は〈客観的良心〉という胚芽を成長させる3つの脳を持っているが、生まれてからの教育や環境によって胚芽は押しつぶされ、土に埋められてしまう。エサウのように、私たちは、普通の生活という一椀の羹(あつもの)のために生得権を諦めてしまったのだ(「創世記」第25章27上24節参照。目先の利益のために大利を失うことの例え)。これがこの物語の真意なのだ。

私たちは先天的な基準を持っていない。だから、自分の周囲にいる人々の基準を受け入れざるを得ない。さらに問題なのは、私たちはこの惑星について、その地質や人種について、正確な知識を持っていない。私たちにあるのは科学者や地質学者、考古学者、民族学者たちによる推測だけであり、しかも世代や学派によって意見は異なるのである。
かつての文明の盛衰や、その文化、芸術、哲学を想起し、その後継者を自認できる人間がいるだろうか? あるのはただ噂だけであり、知識の連続は存在していないのだ。
グルジェフはこう言っている。
G「アトランティスの時代以来、秘教的な知識を守る秘教学院が存続していて、その秘教的知識は、これらの学院から送り込まれる教師たちによって、時おり解釈され教授される。天空から遣わされたあらゆる偉大な召命者であるクリシュナ、モーゼ、釈迦、イエス、ムハンマドは、このことを語っている。他にも普通の召命者や教師がたくさん存在した。」
〈芸術〉に関する章では、客観的知識を伝承するための、〈意識的な人間の、少人数のグループによって考案された手段〉が述べられている。それは単に子や孫の代に伝えるための手段ではなく、数千年以上に渡って伝えてゆくための手段である。私たちが「芸術」(普通の主観的な芸術)と呼んでいるものは、鳥にとっての巣作りと同じくらい、人間にとっては自然なものである。芸術家は特殊な人間であるべきではない。そうではなくて、誰もが特殊な芸術家であるべきなのだ。そしてかつては芸術家は、多少なりとも人々の記憶に残ったのである。ロシアを含むヨーロッパの農民芸術や、産業化や教育の普及が訪れる前までイギリスに残っていたもののことを、考えてみたまえ。小屋が並び花園が広がるイギリスの田園風景は、ヨーロッパで最も美しいものと見なされ、それはイギリスの郷士や職人、労働者たちの天性の美感の結実だった。しかし、人間が「進歩の時代」へと転落してしまうと、こうした風景は、小賢(こざか)しい建築業者や製造業者の無節操な赤レンガの下に埋もれはじめた。ロシアでは、農民芸術や民俗風習、民俗舞踊、宗教儀礼(ロシアの有機的な生)は、共産主義によって抹殺されてしまった。
西洋の有機的な生の破壊者たる古い資本主義と、新たに現れた東洋の有機的な生の破壊者たる共産主義は、人間の精神の内的な退行の徴候だ。
グルジェフは、世界的な規模における文明の退行や退廃、あるいは衰退は、一度ならず起こっていると言う。そして、個々の人種や民族の退廃や衰退に至っては、明々白々だと言う。マハーバーラタでは、こうした漸次的な退行が言及されていて、私たちはその退行の最終段階〈カリ・ユガ期〉にいる。

ベルゼバブは、〈レゴミニズム(イニシエイトを通して過去の情報を伝える方法)の信奉者は、彼らが理解した宇宙的な法則の原理を使った〉と語っている。そして彼らは、「厳密な不正確性」という革新的な概念を、芸術の様々な様式に導入した。彼らは文学を否定した。それは、パピルスや紙の腐食性のゆえではなく、文学があらゆる芸術の中で、最も主観的なものだからである。それは言語に依存しており、言語は変わることもあれば死滅することもある。
イギリスの古代芸術、バーグヘッドの石刻画、ストーンヘンジ、ダウンズの〈ホワイト・ホース〉、ケルト装飾や陶器を鑑賞することは誰にでもできる。しかし、それらを作った古代の人間について、私たちは何を知っているのだろうか? 何も知っていないではないか?
これらの古代人は何ら文献を残さなかったので、イギリスの教職者たちは、文明はイギリスで始まったと信じ込んでいる。だが、アングロ・サクソン語(古英語)を読むことができる人間が、一体どれだけいるだろうか?
文学は影絵でしかない。小説は作家の思い描いた白昼夢だ。
マイナー芸術は自己表現に関係している。メジャー芸術は、必ずしも芸術家ためではなく、鑑賞者の利益のためにある種の思想を伝達しようとする。
普通の主観芸術について言えば、〈完璧な芸術作品は、私たちの調和感覚(運動、感情、知性のすべての側面について)を完全に満足させる〉と言われている。
グルジェフの観点、目的からすると、私たちを眠りから覚まさせるというこうした調和(真の安定ではなく、高次の睡眠様式)への充足は、最も危険なものだ。芸術的な観想は、最上の睡眠だ。意識は一時的な停止状態に入る。
〈レゴミニズム信奉者〉の目的は、人々に「想起」させることだ。彼らは厳密な不正確性をあらゆる類の芸術に導入し、人々が「なぜそうなのか?」と尋ねるようにさせた。この思想は、日本の芸術を開花させた仏教の禅に見受けられる。この思想からは、〈完璧な芸術作品の中には、未完のものが残されるべきである〉とする伝統が育まれた。
グルジェフは、中央アジアを探検したとき、砂漠の真ん中で巨大な彫像に出くわした、と語っている。最初はただの遺跡だと思い、その傍にキャンプを張った。それはなぜか一行の好奇心をそそり、彼らはそれを調査しはじめた。時間が経つにつれ、それが、(精神を通してではなく、感覚を通して)何かを彼らに教えているように思えてきた。それが客観芸術だったのだ。
ギリシア芸術を見て、「これは奇妙だ。一体何を意味しているのだろう?」と言う人間はいない。それは完全に充足を与える。それは内的な好奇心を湧き起こさせない。しかし、エジプトの壁画を見ると、私たちはどこか奇妙で不可思議な感情を持つ。エジプトの芸術家たちはギリシアの技法を有していて、職人としては決して劣ってはいなかった。作品が奇妙なのは、観る者を喜ばせるのではなく、困惑させようという芸術家の願望のせいである。ギリシア芸術でさえ、ある時期においては、客観芸術が存在していたようだ。オリンピアにあるゼウス像は、誰に対してもある一定の明確な印象を与えた、という伝説がある。古代ギリシア以前の古代芸術を研究したレオナルド・ダヴィンチは、こう疑問を呈している。
「こんなに高度な技術に達していながら、なぜ古代の芸術家たちは並置することしかしなかったのだろう?」
グルジェフによれば、彼はその謎を解明しかけていた。

宇宙的な法則に基づいた同一の原理は、音楽において用いられている。グルジェフの舞踏は客観芸術の一例であり、グルジェフの音楽もまたそうだ。波動の法則を理解している人間は、3組の別々の波動を持ち、各々のセンターに異なる影響を与えて、〈聴く者に、そうなりたいという願望を意識的に引き起こさせる音楽〉を作曲することができる。それはまるで、自己を芸術的な貧しさから解放させるために、自己想起を強制する状況へと引き戻すかのようである。
また、波動の法則を理解した人間は、合法的な不正確性を宗教的・社会的儀礼に導入した。そして、彼らは初期のキリスト教会の創設者たち(必ずしも「教父たち」ではない)によって理解された。
グルジェフは、「初期のキリスト教は、これまでに作られた組織化されたすべての宗教の中で、おそらく最も優れたものだ。」と述べている。そして、儀礼や典礼を導入してカトリック教会の前身を築いた創設者たちは、ステンドグラスを通した色彩や、音楽、空気圧、建築物の形態などが感覚や感情に及ぼす影響の原理を、理解していた。彼らは崇拝者のためを思って、これらすべてを理解し利用したのだ。その影響は、意識的かつ数学的に計算されたものだった。例えば、ミサの際の激しい鐘の音は、古代バビロニアの時代の儀礼から取り入れられたもので、眠くなりがちな儀式を中断させ、「なぜ?」という質問を起こさせるためのものだ。アンジェラスの鐘(朝・昼・夕に鳴らして祈祷の時刻を知らせる)は、修道士たちに自己を「想起」させるための合図だった。臨終を知らせる鐘の音は、私たちはみな死すべき存在であることを示す合図である。同じような影響の痕跡は、宗教的な行進や王や女王の戴冠式の中に見いだせる。
建築では、シャルトル大聖堂やノートルダム寺院、スーフィーの秘教学派が築いたタージーマハル宮殿に、客観芸術の例を見ることができる。
客観絵画の例は、14、15世紀のペルシア絵画の中に見いだせるかもしれない。
非自然主義的な手法で色彩が並べられることによって、心地良い不調和が醸し出されている。ある色彩を感受すると、スペクトルの法則に従って、眼はごく自然にその補色を要求し、そして補色が網膜上に形成される。古代バビロニア人は、「眼の要求」を理解していて、要求されていない色彩を眼に見させた。
それは一瞬眼をくらませるが、快感をもたらす。しかしそれは、意識的な補正を必要とした。だがこれが意図せずになされたり、あるいは単に目立たせるためになされると、快感がもたらされるとは限らない。凡庸な人間はその際、「これらの色彩は合わない。」と考えてしまうのだ。
〈レゴミニズム信奉者〉の舞踏やムーヴメンツ、リズムには、宗教的なものと社会的なものの2種類があった。彼らは、非自然的なある種のムーヴメンツを取り入れた。それは踊り手に対してある種の方法で作用し、その結果、舞踏あるいはムーヴメンツは、踊り手の中に高次のセンターを喚起させた。ムーヴメンツは、正確に演じられると、ある種の心理学的な状態を産み出した。遮られると、それとは反対の状態が生じた。さらに、舞踏はある種の書物であり、観客はこの書物から特定のことを思い出すことができた。舞踏にはまた、〈観客の中に、自己を想起したいという願望、つまり良心の呵責を生じさせること〉も目論(もくろ)まれていた。
ちなみに、グルジェフの舞踏の多くは、客観芸術である。彼がすべてのムーヴメンツを考案したわけではないが、彼は中央アジアの神殿で多くのムーヴメンツを見、そしてその原理を研究した。そして彼は、〈三〉や〈七〉の法則を理解し、古代の客観舞踏芸術を発見して、自分のムーヴメンツや舞踏をこの意識的な芸術に基づかせ、それを西洋世界に順応させた。ちなみに、彼の舞踏は、来るべき世代のインスピレーションの源泉となるだろう。
グルジェフはこう言っている。「舞踏によってその国を判断することができる。」
どこの国も、空疎なアメリカン・ジャズのために、古きよき民俗舞踊を放棄してしまっている。低俗な流行歌が民謡に取って代わられている。それは、悪質な習慣が堕落をもたらしている一例だ。それは目新しいので、無教養で中途半端な教育しか受けていない人間にとっては、良いものに違いない。そこには見境がない。
アメリカでは、宗教的な舞踏がホピ族の間に残存している。〈スネーク・ダンス〉は祈祷だ。
でも一体何のための? それは忘れられてしまった。
中央アフリカでは、太鼓のリズムは本能的・感情的センターに対して特別な効力を持っていて、それはインドでも同じだ。しかし、黒人のリズムは内展的なリズムだが、インドのリズムはそうではない。黒人のリズムは、その芸術と同じように、原始的な文化を示すものではなく、かつての偉大な文明のかすかな痕跡なのだ。インド人やスーフィーのリズムは外展的だ。グルジェフの舞踏はこの部類に属する。
〈舞踏が人間にとって本能的に必要なものであり、いつになってもなくなることはない〉ということを理解したレゴミニズム信奉者は、大衆的な舞踏や民俗舞踊に、いくらかの客観芸術の要素を取り入れた。それは例えば、中央ヨーロッパなどの原始的な民族の中に、イギリス人やアメリカ人にさえ強い印象をもたらす民俗舞踊を見いだすことができる。宗教的な舞踏から発展した豊穣舞踏の中に、真の知識の断片を見いだすことができるかもしれない。民話についても同様だ。また、本来の収穫祭は宗教儀礼であり、舞踏と儀式から成り立っていた。
古代人は、一年のある時期には、膨大な量の動物の生贄が必要だと考えていた。そして、またある時期には、人間の本能的、感情的、性的エネルギーを大量に放出しなければならなかった。自然がそれを要求したのだ。儀礼は意識的に組織され、管理され、そうした風習は世界中に見受けられた。
キャプテン・クックは、南太平洋の島々では、一年のある時期になると、乱交に終わる舞踏が行われることを知った。だが、それが行われる本来の理由は、忘れられてしまった。
イギリスでは、清教徒の時代になるまでは、毎年〈無礼講の司会者〉が決められていて、ロンドンでは〈無礼講の司会者〉が見習の中から選出され、一日中お祭り騒ぎとなり、通りでは誰もが踊り狂い、主人は召し使いとして振る舞った。
古代の儀礼が退行すると、自然は他の道を探すことを強いられる。こうして集団ヒステリーの波が、集団精神病、集団犯罪、戦争、革命への波が生じる。
舞踏は、初期のキリスト教において重要な役割を果たした。イエスは使徒たちを宗教的な舞踏に引き込んだと言われている。
〈レゴミニズム信奉者〉は、〈七の法則〉、つまり数学に基づいて彫像を作った。合法的な不正確性が取り入れられ、彫像を見た人間が熟考し、理由をいぶかるようにされた。スフィンクスや足が5本ある〈アッシリアの牛〉の像はその例だ。
演劇は、身体に関する知識と身体のコントロールを前提としている。私は、本能、感情、思考からなる身体を持っている。私はそれを使うことを習いたいと思っている。必ずしも私は、〈それ〉が欲するままにさせることを望んでいるわけではない。私たちは、身体をコントロールすることができる前に、「自我」を持たなければならない。〈手法〉は、「自我」の成就のための技法を提供する。こうして私は、3つのセンターを伴った身体を自分の目的のために操作することができる。
しかし、秘教学派(「オカルト」や魔術のことではない)は演劇を、生命活動のためのエクセサイズとして、〈現代の私たちが、劇場という舞台で芝居をするのと同じように、人生という舞台で芝居をするためのエクセサイズ〉として利用した。かつて聖堂や教会で演じられた聖史劇や奇蹟劇は、これらの残照である。
〈客観芸術〉の原理と法則を理解した人間は、精神の性質をも理解して、3つのセンターが共に調和的かつ同時に作用することはほとんどなく、経験の程度に応じてそれぞれに異なることを悟る。
一般に私たちは、人間を3つの類型に分類している。肉体的、感情的、知的の3つである。
類型を理解している意識的な人間は、相手から望み通りの反応を引き出すことができる。彼には、相手がどう反応するかがわかっているのだ。
古い文明においては、類型は固定される傾向がある。私たちは、容易に外面的な類型のリストを作ることができる。
フォルスタッフ、ハムレット、ミコーバー(チャールズ・ディケンズの「デイヴィッド・カパーフィールド」の登場人物)、サム・ウェラー、ドンファン、メッキー・シャープ(サッカレー「虚栄の市」の主人公)、あるいは弁護士、軍曹、兵隊、管理人、司祭等々。
これらの外面的な類型の背後には、言わば本質的な類型がある。そして、それを言い当てるのが社会学なのだ。

古代の演劇では、人々は意識的に「演じる」ように教え込まれた。つまり、感情や思考、願望を無意識的に表現させるのではなく、自分が望んだ印象を伝達することが求められたのだ。〈もし私たちが現実の生においてこのことを行うならば、それは偽善のための技法になる〉と君たちは思うかもしれない。もし君たちが、〈誠意から意図したことが、君たちの表現をコントロールできなくさせる〉なら、その通りだ。
客観演劇の俳優たちは、1つ、あるいは2つ、3つのセンターにおいて、意識的に演技ができるようにならなければならなかった。聖パウロは、「誰にでも気に入られるように振る舞いなさい」と言った。しかし、これは意識的な人間に対するものである。もし私たちがそうしようと努めれば、私たちは、他のすべての人間と結び付けられている自分に気が付くだろう。そして、他人の立場に立って考えることができるようになる。スタディーハウスの箴言を思い出しなさい。
「他人をあなた自身によって判断しなさい。そうすればあなたは誤解されることが滅多になくなるだろう。」
もっとも、意識的な演劇には演じる役が必要だ。
子供たちの真の教育には、とりわけ擬態の能力を発達させることが含まれるはずだ。擬態は、すべての動物にとって、天然の演技である。推測することもそうだ。訓練を施せば、若々しい推測力は直観を確実に発達させ、真の判断力となる。しかし子供たちは、推測を行い、制御された想像力を行使することにためらいを感じる。それは「嘘をつくこと」と非難され、やがて子供は、大人と同じような嘘をつくようになる。
グルジェフは、「初期のある種のギリシア演劇は、「ベルゼバブの孫への手紙」の中に記されているように、即興で作られた」と言っている。プラトンもまた、即興劇について言及している。このような演劇には、批評眼のある観衆が必要だった。インドのマハーバーラタのような叙事詩や、ギリシアのイーリアスやオッデセイアは、それらが書き記される遥か以前に、舞台で朗誦(ろうしょう)されていて、その際に、朗誦者はさまざまな役を演じなければならなかった。
数人の人間が演じるようになると、年長者が高次の役、つまり神々(天界の住人としての神々ではなく、客観的理性と知性を有した人間としての神々、通常の機械的な生を超越した脱魂の状態にある人間としての神々)を演じるようになった。
演劇学校とは、本来は宇宙的な生のための訓練の場だった。それは、多くの若者が不満を感じている生とは懸け離れている現代の修道院のような大学とは違って、真の大学だった。ピュタゴラスの学院は、そのような訓練所だった。ピュタゴラス派の人間は、「神秘劇」の創作者だった。密儀には超常性、非常性が存在する。観客たちは、演者を注視して、学びえる未知のものを見分けなければならなかった。
意識的な演劇の高次の形態においては、弟子は、重要な場面で意識的な役を、無意識的な俳優と共に演じることを求められた。
イエス・キリストの誕生、生、死というキリスト教の密儀は、イエスが所属していたエッセネ派の秘教学院でリハーサルされていた。やがて適当な時期に至ると、何世代にもわたる人間たちの思考、感情、行動に影響を及ぼすべく、それは歴史的に実演された。キリスト教の密儀は、〈レゴミニズム信奉者〉たちの学院の成果だったのかもしれない。G・R・S・ミートによって編纂・翻訳された「忘却された信仰の断片」には、イエスによって、彼の使徒や弟子たちが特殊な役を演じ、特殊な舞踏を行うよう教育されていたことがほのめかされている。使徒たちの中で最も意識的で最も献身的だったユダは、最も困難を役を受け持ち、誤解を受けやすい悪役を演じて、何世紀にもわたって純朴な観衆たちから非難を食らった。
キリストの生涯は、イエスの生涯ではない。キリストはイエスの以前にも、以後にも存在した。神的な使命は主にキリストのものだった。イエスは、キリストの目的と使命を遂行し、パウロの言うように、苦悩によって(通常の機械的な苦悩ではなく、自発的な苦悩と意識的な労働によって)自己を完成させていた。
グルジェフは、ごく少数の人間しか演じることがない、あるいは演じることができない役割を演じている。私はしばしば彼に惑わされる。若い弟子たちはもちろんのこと、シャンポール博士やハルトマン、ザルツマン、そしてとりわけウスペンスキーさえも、時おり騙されている。
ピュタゴラスの演劇はどんな影響を残しただろうか? 古代の神秘劇にはその余波がいくらか見られる。
現代の演劇は2つの目的を持っている。娯楽と宣伝だ。密儀はもはや不可能だ。意識的な俳優は存在しない。私たちの俳優は、内部からではなく、外部から模倣する。彼らは単に観客に幻影を引き起こさせているにすぎず、観客たちが覚醒させられることは決してなく、ただ以前に記録された体験を想起するように刺激を受けるだけだ。今日では、芝居は新しい体験ではなく、再体験である。それは娯楽である。それは新たな質料をもたらすものではなく、すでに処理中の古い質料を調整する刺激にすぎない。それは、表現するものではなく、喚起させるものだ。それは生産的なのではなく、副生産的なのだ。そして、このために、俳優と観客双方の機械性は強化されてしまう。

「ベルゼバブの孫への話」は総体として聖書と相似の関係にあり、そこでは、宇宙論と宇宙発生論と共に、世界がいかにして、そしてなぜ創造されたのかということや、人類の堕落について説明されている。
聖書は、神話を織り交ぜた、半歴史的なエピソードをいくつも交えて進行していて、最終的には預言者たちが登場する。聖書の読者は、神に対する自分の位置と義務に目覚めるように促される。
〈客観的良心〉が覚醒させられると、新約聖書、つまり個人によって教授される〈手法〉が登場する。それと同時に、〈手法〉に応じて成長し続ける〈客観理性〉が現れる。それは弟子たちの個人的な性質を最高度に向上させ、弟子たちは〈手法〉の訓練に熱心に励むことになる。したがって、聖書は芝居として、最高度の客観芸術作品として、見なしうるのである。
旧約聖書は覚醒した機械的な人間だ。新約聖書は意識的な人間だ。旧約聖書は現実性を、新約聖書は潜在性を象徴している。
聖書は象徴的かつ歴史的なものだ。聖書のすべての謎を解く鍵を持っている人間が(少なくとも、私たちが接触しうる範囲に)いるかどうかは疑わしいが、グルジェフはそれを持っているかもしれない。「ベルゼバブの孫への話」は一種の聖書だ。
私たちには滑稽で不条理に映る文章は、まさしく聖句であり、その聖句は、突き詰めれば、教義の基礎を構築しているのかもしれない。
グルジェフによれば、レゴミニズムを解く鍵と不正確性を解く鍵は2つとも私たちの掌中にあり、後者は直観によって発見される。レゴミニズムの鍵は〈手法〉だ。この本を理解することは、〈手法〉の理解と認識のテス卜だと言いえる。この本は、現代の私たちが接することができる、暗号化された芸術作品の唯一の見本だ。遠くへ行って他の例を見つけようとしても、無駄なことだ。グルジェフは、〈この本の適切な読解は、アクシャ・パンジアール(「ベルゼバブ」に登場する、レゴミニズム信奉者の学者)の時代に製作されたあらゆる芸術作品の解読を不要とさせるだろう〉と主張している。おそらく、グルジェフの著作は、将来聖典の一冊となる。
私たちの各々は、空間的には隔てられた未知の部分を有している1つの宇宙である。移動をして、忘れられたものを見つけるためには船が必要である。宇宙論は具象的な心理学だ。グルジェフの体系は完璧だ。そこには文学があり、芝居があり、舞踏や音楽がある。そして、エクセサイズを伴った手法があり、それは何年にもわたって研究とワークを積んだ教師によって、教えられうるものなのだ。
グルジェフの祖母は、彼にこう助言した。「孫や、私の言うことをよく聴きなさい。他人の真似をしてはいけないよ。何にもやらないか(つまり、ただ学校に通うか)、それとも、誰もやらないことをするか、どちらかにしなさい。」
これは、私たちは奇矯さや癖を養うべきであるとか、故意に慣例に対して抗うべきだ、ということではない。事実、グルジェフはこう言っている。「郷に入りては、郷に従え。」
彼はまた、〈私たちは今以上に外的に思慮するべきだ、他人をもっと思いやるべきだ〉と教えている。

ノット:オレイジは、彼が『ニュー・エイジ』を編集している時、「ある一定の方向に機械的に世論が向かっていることに気が付いたとき、反対の流れを起こしたくなった。」と言った。彼はさらにこう続けた。

オレイジ:知性を得る方法の1つには、熟考によるものがある。熟考とは、形而上学や宇宙発生論のような抽象的な主題について、意味を把握すべく考えようとすることである。この本には実に多くの思想が存在し、私たちは少なくとも今生においては、決してそれらを理解することができないだろう。しかし、もし熟考しようとするならば、理解することができるものもまた数多くある。
通常私たちは、〈真実が明白に述べられるならば、私たちはそれを理解するだろう〉と仮定している。しかしそれは幻想だ。
知性は、熟考だけでなく、優秀な庭師が自分の庭を管理するように、実際的に状況を操作することによって育まれるのだ。知性は、「(自己と宇宙に関する)真実の認知に苦しむこと」によって育まれる。
私たちは、規範から外れると異常になる。だからこの本の中では、芸術家や作家、俳優、科学者、政治家、ビジネスマンといった人間が徹底的に批判されている。彼らは正常な目的の代わりに、美の追求や惑星の物質的征服、権力欲や金銭欲といった一時的な形式を用いる。そして例えば、主観的な芸術家や作家が他の人間に影響を与えているので、ベルゼバブは彼らを悪質な影響力と見なし、それは、人間の関心やエネルギーを正常な目的から、大いなる計画に抗う目的へそらせようとすると考えている
正常な人間の深奥には、聖書に書かれているような正義に対する飢えと渇望と、〈客観的理性〉に対する渇望がある。

生に対する一般的な考え方の1つは、〈宇宙的な目標や意識的な目的などは存在せず、生命は偶発的に形成されたのであり、万物はたまたま生じたに過ぎない〉というものである。もう1つは、〈人間は、人間の生活の水準を将来的に向上させることを目的とした国家のために創造されたのだ〉というものである。また、〈神は全能であり、すべてを愛している〉という考え方もある。
〈神は全くの慈悲から世界を創造し、そしてただ自分の子供たちが幸せになるようにということだけを願って、世界を統括した。私たちには義務はない、人間は大地と動植物に対する支配力を与えられ、それらを活用する権限を認められた〉これはよく見掛ける、我がままで甘やかされた子供が両親に対してとる態度で、こうした未熟な子供は、〈何事も自然や他人を介さずに生じることはない〉ということを充分に理解していない。こうした態度は世界中に広まっており、組織化されたキリスト教会の教義でもある。
エクセサイズとして、自分自身の言葉の中に、友人や自分自身にわかるように、生の思考を置くようにしなさい。世界に対する君の考えは何だろうか? 世界は単に偶発的なものなのか、それとも何らかの計画が存在しているのか? 意識的な目的や目標は存在するのだろうか?
この本の第一章には、〈世界は可知的なものであり、宇宙は意識的な創造の産物であり、それは意識的な目的(巨大な機械)のために意識的に維持されている〉という考え方が暗示されている。
〈神は世界を私たち人間の楽しみのためにではなく、意識的な目的の追究のために創造した。そして理性という重荷は神に負わせられている〉これはおそらく、擬人的な見方だろう。そしてまた、擬神的でもある。もし、こうした見方が人間の形態を持った神を作るならば、それはまた神の似姿を持った人間をも作ることになる。
動物は機械を作ることも、理解することもできない。人間は、〈自分では構築することのできない巨大な機械を理解することができる理性〉を持っている。人間の目的は機械を作り、理解することだが、彼が地球上に現れたのとほぼ同時に生じた大異変のために、彼の理性は歪められてしまった。そしてその時以来、人間はあたかも薬でも飲んだかのように、睡眠状態に陥ってしまった。薬が残っている間は、私たちは自制心を働かせて正常に思考することができない。同時に、私たちの良心には、私たちが理性的に行動していないことを示すわずかな痕跡が、かすかに揺らいでいる。〈放蕩息子〉のように、私たちは肉体という遥かな故郷を何となく意識しているが、自分の父親の故郷を思い出すことができないでいるのだ。問題は、いかにして目を覚ますかだ。これには近道も手品もない。
恒久的に覚醒状態を続ける唯一確実な方法は、自発的な苦悩と意識的な労働によるものだ。まず私たちにできるのは、生きる意味を日々熟考し、ぼやくことなく積極的に、状況に対処するように心掛けることだ。こうして私たちは、〈客観的道徳〉に準じた正常な行動をたしなむようになるだろう。

自分が本当に願っているものは何か、自問してみなさい。しかしそうする前に、一時的な欲求や欲望と、本質的な願望との違いを識別するようにしなければならない。デニス・ソレ教授は、〈願望と思考は実体である〉と述べている。もし君が願望を抱くなら、君は存在を抱くことになるだろう。もしそれが一時的な願望や欲求なら、それは満たされることなく、やがて消え去るだろう。
もしそれが真実の、高次の願望なら、それはエネルギーが許す限り存続し続けるだろう。もし君が豊かな人間性を持つなら、君は生きている間存続する願望を持つことになる。ソレの観点からすると、私たちの不死性は、肉体を超越する願望を持つことに依存する。私たちの観点からすれば、知性や存在への願望は、惑星体を超越していると言えるのかもしれない。
グルジェフはこう言っている。
G「真の願望は、最高次の事象だ。しかし、行為するためには、願望を抱くためには、存在しなければならない。もし私が存在するならば、私は行為することができる。もし行為することができるならば、私は願望を抱くことができる。存在し、そして行為することができる時にのみ、私は願望への客観的な権利を持つ。」
〈宇宙は、エネルギーを切らした機械である〉という、現在の一般的な物理学者の考えとは反対に、この本は、〈宇宙は膨張し、成長し続けている〉という考えを採用している。一つ一つの部分は衰弱してゆくが、それらは他のものに置き換えられてゆく。この巨大な機械には絶えず注意を払っておく必要がある。この機械のために、神は助っ人を持っている。人間が現れたとき、神は人間を助っ人として利用することにしたが、大異変が起きたために、人間はゾンビのようになってしまい、夢を見ているような状態、あるいは薬物中毒に陥った奴隷のような状態で仕事をしている。
だが、私たちと正常性の差はごくわずかだ。それはまるで、薄い壁が私たちを隔てているようなものだ。

器官〈クンダバファー〉の影響力の結果として、出版や映画、ラジオ、テレビといった近代の阿片が現れた。共産主義者たちは、宗教は人民の阿片だと言った。そして彼らは、壮麗で音楽を伴った宗教的な行進の代わりに、軍隊の隊列とブラスバンドを用いたのだ。
〈クンダバファー〉は退化してしまったが、その影響力は残存しており、そのため人々は、自分の内的な体験ではなく、他人が述べたことによって判断をしている。
私たちは、〈裕福は貧乏よりも幸せな状態であり、人間には、身分や財産、器量、教育あるいは才能(例えば、ありきたりに過ぎない文才)に応じて、優劣がある〉と子供の頃から教えられている。そして、私たちはこう信じるようにと教えられている。〈自然の偉大さはその自己充足的な状態にあり、娯楽は人間を惑わせ、華々しい交際は喜ばしく、他人からの賞賛は不可欠であり、人々の不満は収まりつつあり、読書や絵画や音楽は人々に刺激を与え、労働のない余暇は望ましく、何もしないことは不可能であり、名声や権力、肩書、成功には真の価値がある。〉と。
私たちはこうしたことをすべて、熟慮なしに受け入れている。私たちは熟考することを望んではいない。なぜなら、私たちは存在の意味を理解せずに精神を平安に保とうとしているからだ。客観的道徳の代わりに、「好き」「嫌い」を基準にするエゴイズムを持っているからだ。私たちは、心理学の機序である被暗示性の犠牲者だ。私たちは因果応報ということを信じており、そしてそれは子供の教育に必要である。しかし、私たちは決して成長しない。私たちは、体験を通して知性を得ることが滅多にない。しかし、私たちは常に知性に目を光らせている。逆説的だが、私たちは経験することによってのみ、理解することができる。知性は私たちの内部にある。もし自分を知れば、自分が父の子であることに気が付くだろう。

惑星は巨大な生物であり、惑星同士は人間同士と同じような関係を持っている。惑星とは反応力であり、緊張力だ。それは様々な形態を取るが、宇宙での回転の結果、球形となった。惑星は放射物によって意志を伝え合う。放射物とは、物質によって機能するのではなく、光(これは物質によって機能する)によって機能する純粋なエネルギーだ。私たちの地球は、その有機的なシステムを通して他の惑星と意志を伝達し合う惑星であり、スウォニッジ(イギリス南部の町)の巨大な石球に塗られたワニスの皮よりも薄い肌のようなものだ。惑星間の緊張力は私たちの地球上にも及び、それは特別な時期に至って顕著になる。そして、グルジェフが〈ソリオーネンシウス〉と呼ぶものが発生する。
太古の時代において、当時知性を有していた祭司たちは、緊張力を利用するための大規模な宗教儀礼の執り行い方を知っていた。しかし、器官〈クンダバファー〉の働きによって彼らはそれを忘れてしまい、戦争が引き起こされた。私たちは個々ではこれらの緊張力に従属しており、絶えず張り詰めていて、後で後悔するようなことを行ったり言ったりしている。人間は実にしばしば、完全に自己と同化し、他のものをすべて無視して、ある1つの決まった方向だけを追求する。したがって、初めから彼は自己に目覚め、自分がこれまでしてきた行為を認識することを恐れる。
こうした例は喜劇から悲劇に至るまで、毎日のように見受けられる。オヴィディウスの「メタモルフォーゼ」には多くの例がある。これは惑星力の結果であり、特に月の影響力が強い。月は私たちが自己想起の状態にないとき、つまり、悪が自らを開示して私たちが無意識の状態にあるとき、器官〈クンダバファー〉を通して私たちに作用を及ぼす。しかし、「ブルータスよ、過ちは星の中ではなく我々の中にあるのだ」。
つまり、私たちはあらゆる惑星的な緊張力に左右される奴隷であり、感情的な風に弄ばれているのだ。
私たちは一個の集団として、〈手法〉を持っている。私たちは、私たちがしなければならないことを考え始めている。私たちは、自分と他人の間にある緊張力によって揺り動かされたエネルギーを利用できるようにならなければならない。私たちはこのエネルギーを、月に放出させることなく利用することができるようにならなければならない。宇宙的な図式では何も失われない。私たちが否定的感情において浪費するエネルギーは、月によって使用される。そして否定的感情は必ずしも怒りや落胆といった、荒々しく抑圧的なものばかりではない。多くの感情は一様に否定的なものであり、宗教的な復興集会や動物愛護集会において顕(あら)わにされる感情、あるいは、一面識もない人間の不幸に触れた新聞記事を読んだときに湧き起こる憐れみ(これは自己憐憫に他ならない)、これらもすべて否定的感情なのだ。
緊張の結果生じる摩擦は、まさにその瞬間に自己を想起することができれば、大いに有効に活用することができる。プリオーレにおいて、しばしばグルジェフは、弟子たちが平穏な状態に至ろうとすると、彼らの間に摩擦を引き起こさせた。
例えば、かつて陸軍士官を務め、独断的な命令を下していたある弟子には、肉体的なワークが課せられた。彼はグルジェフの教えをよく理解していた。
別のある若い弟子は、あまり利巧ではなく、グルジェフの教えをほとんど理解していなかったので、年輩の弟子に命令されると憤然としていた。波動の衝突が生じ、この若い弟子は命令を拒絶した。年輩の弟子がこのことをグルジェフに伝えると、グルジェフは「今度彼が拒否したら、彼をなじりなさい」と言った。グルジェフは結果を見越していた。こうしていさかいが起こると、大きな摩擦と多くの否定的感情が引き起こされたので、私たちはみんな、数日にわたって自己想起を行うことになった。若い弟子は、このショックから何かを学び取ったはずだ。少なくとも私たちは、何かを学び取ることができた。
グルジェフは、「誰かと争い事に至ったときには、そこで生じたエネルギーを直ちに有効なワークに活用するべきだ。」と言った。
ワグナーは、偶発的にアイデアを思いついたと言われている。彼はスランプに陥ると、わざと口論を仕掛け、それによって生じたエネルギーを作曲や創作に用いようとした。通常の機械的な生においては、それまで避けていたこと(例えば部屋の掃除)を行うことによってエネルギーを発散させることは、非常に有益なことだ。さもなければそのエネルギーは怒りや憎しみ、あるいは不安や憂鬱に変じてしまうのだから。

宇宙は、総体として、〈絶対的太陽〉のために存在している。〈絶対的太陽〉は神の霊体だ。私たちの肉体は「自我」のために存在している。「自我」は私たちの肉体の神だ。
どんな教師も、霊魂の胚芽が成長し、苦しみから解放される方法を示してきた。アッタールはこう言っている。「いかなる教師も、自分なりにそれを示し、そして消えてゆく。」と。例えば釈迦は〈八正道〉を示した。
〈アカルダン〉とは何者か? 〈カルダン〉は月を、〈ア〉は否定を意味する。彼は探究者であり、思索者であり、月の要求を満たそうとする通常の生の流れと格闘する人間である。
ある時代に、惑星のある箇所(例えばヨーロッパの一部)が激しい戦闘地域になるのはなぜだろうか? なぜ、ロンドン、ニューヨーク、パリなどの大都市に人口が集中するのだろうか? それは、自然はこれらの地域からある種の波動を必要としており、その波動は生命の死と、人間の密集によって引き起こされる緊張によってのみ得られうるからなのだ。

輪廻に関する質問がしきりに出された。ウスペンスキーが著書「奇蹟を求めて」の中で報告しているように、明言しえることは、すべてグルジェフによって述べられている。「ベルゼバブの孫への話」では、さらに多くのことを見いだすことができる。そして、その気になれば、私たちが持ちえる甦りと輪廻に関する知識のほぼすべてを、そこに見いだすことができるはずだ。しかし誰であれ、このことを自分のために理解しなければならない。さもなければ、グルジェフが言うように、誤解と歪曲が生じ、深い眠りに陥ることになる。
マハーバーラタの文章の解釈に基づいた神智学的な教義は、〈誰もが輪廻転生をする〉ということを前提としている。グルジェフは、〈輪廻はごく少数の、高度な発達を遂げた人間にのみ起きる〉と教えている。

生まれ出るということについて言うと、グルジェフは、霊的な意味合いから、「肉化」や「物質化」という言葉を認めなかった。霊魂は肉体をまとうのではない。「肉をまとう」という表現についても同じことだ。人間の観点から知覚できる、木や石といった物体は、「受肉」し、生まれ出る。〈顕現の潜在性を顕現させている霊魂〉という概念は、どう表現すればよいだろうか? グルジェフは電気学の言葉を応用した。電気風呂に目に見えないものを浸すと、それは目に見える物になる。だから私たちは、「コーティング」という言葉を、目に見えないが実在する物体の上に、それを知覚的なものにする何かを重ね合わせる、という意味合いで用いた。

さて、ここで「存在することの意味と目的は何だろうか?」という疑問に答えてみることにしよう。アシアタ・シーマッシュはそれを〈客観的道徳のための5つの努力〉の中で定義している。
ベルゼバブはこう説明している。「この惑星のすべての生物は、そのとき、自分たちの意識の中にこの真の良心の神聖なる機能を持つために、自らワークを行い出した。そして、この目的の達成のために、宇宙のどこにいようと、彼らは『5つのオブリゴリアン努力』と呼ばれるものを実行した。」
真の良心の神聖なる機能を自分の意識のうちに持つためには、何をしなければならないだろうか? 私たちは5つのオブリゴリアン努力を実行しなければならないのだ。
第一の努力は、「自分の通常の存在のうちに、自分の惑星体を満足させるもの、またそれに真に必要なものをすべて持つことである。」
ここでの「満足」は、欲望を充足させることとは何の関係もない。私たちには、肉体を健全に保ち、肉体が私たちにとって有用な道具となるべく、できうる限りその要求を満たすよう、努力する義務がある。つまり、自分が受け継いだこの肉体を、整った状態に維持する義務があるのである。私は肉体を持っている。このことは、単に健康であるだけでなく、知性の利用にも対応できるような柔軟性を持っていることをも意味している。何らかの得意分野を持つことは必要だが、柔軟性を酷使して得られた特殊技能は、〈客観道徳〉には反している。グルジェフは、「自分の専門分野以外にも、40種の職業に就いた」と言っている。彼はそれらの職業についてはからっきしの素人だったが、その際にも2つの目的を持っていた。1つは自分の本能・運動センターに感情を与えることであり、もう1つは自分の目的の遂行にとっての潜在的に必要なことに対して準備を整えておくということである。ほとんどの人間は、極度な専門家に対して批判的な感情を抱いている。理想的な発達は普遍性に向かうべきだ、という曖昧な感情を持っているのだ。
2つ目の努力は、「(存在という意味における)自己完成に対して、絶えず本能的な欲求を持つことである。」
これは、私たちの通常の知識や行為によって定義されるものではない。それは、〈行為〉のための、真の〈知識〉に基づいた状態である。個人の成長は、本質の成長、つまり、(外的な人格ではなく)「存在」の成就にかかっている。私は一体いかなる存在なのか? 私たちは、「存在努力」というものがどういう時になされるかわかっている。絶えず活動的な状態にあることは、必ずしも「存在努力」をしているわけではない。存在努力という形態は、朝晩に簡単な運動(ありきたりな肉体的な体操ではなく、集団で行われるもの)を私たちに行わせる。あるいは、私たちは、肉体的もしくは感情的惰性を克服し、肉体が拒絶するような労働を行うことによって、存在努力の状態に至ることができる。存在は、意識的な努力を通し、些細なことを自発的に行うことによって、成就される。この意味では、人生とは体操学校(ギナジウム)だ。聖パウロの言葉を借りれば「競争」だ。グルジェフは、「私たちは常に前向きでいなければならない」と言っている。そうすれば、私たちはグルジェフの言う意味で、「霊化」されるのだ。
3つ目は、「〈世界創造〉と〈世界持続〉の法則について、より多くのことを知ろうと、意識的に努力することだ。」
真の哲学の目的とは、生を理解することであり、これは決して少数者の特権ではない。「なぜ?」という問い掛けは、正常な人間存在の一機能なのだ。問い掛けに正しい答を出すことはできないかもしれないが、人間の尊厳は、問い掛けとの関係のうちに存している。どんな状況においても、質問に値する材料がある。一方では正常に行動しつつも、他方では質問をしている。俗世から遠ざかったり、奇を衒(てら)ったりする必要はない。〈世界創造〉と〈世界持続〉の法則の働きを深く考える際になされる努力は、必然的に、精神の諸機能を促進させる。注意力、記憶、集中力、そして真の想像力が、直接的ではなく間接的な運動によって、強化されるのだ。30分も熟考すれば、何も言葉を発せなくなるだろう。あるいは、自分が無知であることの認識が高まるだけかもしれない。
しかし
、ソクラテスによれば、「無知の知は叡智の始まりだ」。
グルジェフはこう言っている。「あなたがたは、自分が無知であることを認識すればするほど、より多くのことを理解することに気がつくだろう。」
ここにあえて、ラマナ・マハルシの言葉を残しておきたい。
「すべての不幸は、無知と知ったかぶりから」

4つ目は、「〈私たちの共通の父の悲しみ〉をできる限り軽減させるべく、誕生の当初から、自分の存在と個性の責務をできるだけ素早く果たすよう努力することだ。」
一般的に言うと、私たちはみな寄生虫だ。グルジェフはこの表現をプリオーレでいつも使っていた。そして、私たちのうちの一人として、その借りを自然に対して返した者はいない。生きているということは、唯一無比の奇蹟だ。それは〈非存在〉の場に〈存在〉の可能性を持っているということだ。私たちがただ自然に仕えるのではなく、〈父の息子〉となるために、自然が試行錯誤を経て私たちに費やしてきたことを考えてみなさい。そして、その見返りとして、一体私たちは何をしているのだろうか? 私たちは〈自然〉という家族の中で、自分のことしか頭にないわがままな子供のように振る舞っている。私たちは天然資源や土地、森、動物を、異常な欲望の充足のために活用しているが、もしその中途でちょっとでも真剣に考えてみるならば、ゾッとする思いに駆られるだろう。
エマーソンは「自分の生をかせげ」、つまり生きるための権利を獲得せよ、と言った。
〈自然〉が人類を生存させていること、他の種に対してとは違って、人類を撲滅させていないということには、時おり驚くことがある。
5つ目の努力は、「自分と同類のものも他の種類のものも含めて、他の生物がなるべく早く完成し、聖なる〈モートフォタイ〉の段階に至るよう、つまり自己・個性の段階に至るよう、絶えず援助することである。」
私たちは、自分の目的を達成させるために他者の弱点を把握することと、他者を助けて本当になりたいと思っているものにさせることとを、区別しなければならない。しかし私たちは、自分に対して「二重に厳格」になれなければ、他者に対して「厳格」になることができない。私たちが他者に対してなしうる真の奉仕は、人間としての機能を他者に放棄させるような奉仕だ。
時おりグルジェフの見せる他者に対しての一見無情な振る舞いが、ここで重要となる。彼は、他人の思惑には一切無関心だ。彼が君のことを、みんなの前であざけったり、辱めたりしても、1週間後、あるいは1ヵ月後、1年後には、彼に対する感謝の念が生じ、自分の内面が力強くなったことに気が付くだろう。

〈客観道徳の五つの努力〉は、グルジェフの〈手法〉の本質を含んでいる。しかし、正しくこれらの努力に励むことができるようになる以前に、私たちは意識的な労働と意図的な苦悩の意味を理解しなければならない。なぜなら、この2つの原理(〈パークトドルグ義務〉と〈努力〉)に、グルジェフ・システムのすべての法則と予言が依存しているからだ。それは基本となるオクターヴを形成し、確固たる基盤となっているのだ。

私たちがなさなければならないことの1つは、現代科学、宗教、倫理の頽廃をもたらす避けがたいペシミズム(悲観的傾向)と同化することではなく、それを予想して対応を考えることだ。グルジェフ・システムの概念は、現時点では、ほとんどの人間にとっては時期尚早だ。それらについて語ることは、自分は健康だと思い込んでいる人間に、医者を薦めるようなものだ。しかし、こうした概念に沿って働く人間の増加は、望ましくまた必要なことだ。ペシミズムは秀でた精神に影響を与える。
「私は堅い絶望の巌の上に家を建てている。」とかつては言いながら、今では「地獄にいようとかゆくもない。」と言うバートランド・ラッセルのように、誰もがすばやく立ち直れるわけでない。

ベルゼバブは、生命体を構成する7つの要因を挙げている。これらは、近代の行動主義者たちが築いてきた考えを超越している。彼はこう言っている。
ベルゼバブ:お前のお気に入りが、「時間の流れ」を定義するやり方を説明したとき、私がこう言ったのを覚えているだろうか? 器官〈クンダバッファー〉がまるごと彼らの存在から取り除かれ、彼らが、〈フーラスニタムニアン〉原理と呼ばれるものに従って、我々の宇宙に生じるあらゆる三脳生物と同じように存在し続け始めるならば、彼らは、第二存在体である〈ケスジャン体〉が完成され、最終的に理性によって聖なる〈イシュメシュ〉の段階にまで到達するまで、間違いなく生存するはずだ。
しかし後になって、彼らは次第に非三脳生物化してゆき、大自然が予見したように、この義務によってしか、高次の部分を形成させるためのデータを得ることができないのに、パークドルグ義務を遂行しなくなった。そして、これらの結果、その放射物の質は〈最も偉大な汎宇宙的トロゴオートエゴクラティックプロセス〉のすべての要求に応えることができなくなった。そのとき、大自然は、「振動を均等にする」ために、〈イトクラノズ〉原理、つまり、三脳生物のような可能性もなく、「パークトルク義務」を遂行できない、一脳生物や二脳生物を持続させる原理に従って、彼らの存在を持続させざるを得なくなった。この原理によれば、生物の持続やその存在全体は、一般的に、次のような彼らを取り巻く7つの要因から生じるものから決定される。

1.遺伝
2.受胎時の状況と環境
3.生産者の子宮内での形成期における、太陽系の全惑星から発せられる放射物の組み合わせ
4.彼が責任ある存在の年齢に達するまでの、生産者の行為の程度
5.彼の周囲にいる、彼と類似した生物の存在の質
6.成年に達するまでの、彼を取り巻く環境において形成される「テレオクリマルニクニアン」と呼ばれる思考波の質。つまり、私たちが「血族」と呼ぶものに見られる、真剣で善良な願望や行動
7.彼自身のエゴプラスティークリと呼ばれるものの質。つまり、〈客観的理性〉を得るためのあらゆるデータを自分に肉化させるための努力

ごく簡潔に述べられたこれらのことは、生命体を構成する7つの要素である。私たちは、〈これらのことを簡単に検証しながら、「ベルゼバブの孫への話」の他の箇所と同じように、この本の他の部分を同時に考慮しなければ、これらのことを理解することができない〉ということを認識しなければならない。理解に至る扉を開く鍵は、他の章の中に見いだされるかもしれない。この本の至る所に見られるように、理解に至るには、主に3つの流れがあるのだ。
さて、このことを心に留めて、7つの側面を見てゆくことにしよう。

〈1.遺伝〉
これは必ずしも自分の直接の血族のことを指すのではなく、民族や種族のことも含んでいる。種族には主として5つの種類があり、それぞれが独自の歴史や体験、精神を持っている。また、種族の背後には、生物の歴史(鉱物、植物、動物という歴史)がある。肉体は、複雑な生物学的な過程の結果であり、その過程はこの惑星上の有機的な生命の萌芽にまで起源を遡る。
〈2.受胎時の状況と環境〉
受胎の瞬間に、私たちは細胞生物としての生命を開始する。この瞬間には、両親の肉体的・精神的状態とその近況も、受胎に影響を与える。また、地理的位置や空気、土壌、磁力も関係する。これらを分析することは複雑すぎて不可能だ。私たちの体験の可能性は、先に挙げた要因によって決定される。私たちは生まれながらにして複雑な機械だ。私たちは、夢の長さをコントロールできないのと同じように、自分の体験を削ったり増やしたりすることができない。
〈3.生産者の子宮内での形成期における、太陽系の全惑星から発せられる放射物の組み合わせ〉
惑星からの放射物、つまり惑星的な影響力は、妊娠期間中、母体を通して私たちに働きかけつづける。このことは太古の昔から認められていたが、証明することはできない。しかし、それを裏付ける多くの状況証拠が存在する。
〈4.彼が責任ある存在の年齢に達するまでの、生産者の行為の程度〉
行為というものは本質的なもので、真正であり、貴重なものである。真の誠実な行動は、子供に(その性格に)多大な影響を与える。子供が性格を持たずに成長する1つの理由は、両親から愛されないためではなく、両親がその愛を行動の中に隠蔽するからである。
〈5.彼の周囲にいる、彼と類似した生物の存在の質〉
これは、子供が出会う人間存在の性質のことである。現代文明は、人間にあらゆる類の行動をもたらし、そしてこのことは子供に影響を与えている。
自然に呼吸をしている人間は、ほとんどいない。私たちは努めて労力を使わないようにし、肉体労働者のように沢山呼吸を取ろうとは決してしない。私たちはほとんど考える必要がない。思考は、教育や新聞、出版、ラジオが肩代わりしてくれる。あらゆるものが私たちのために用意されている。
私たちには、地球上で生じたあらゆることが、知らされている。そして、すべては、
真の知性を欠き、部分的な知識しか持たないうえに、誤った見解を持つ人々によって〉教えられている。真の教えは、記憶力の機械的な訓練に置き換えられ、その結果、詳細な記憶を持ち、誰もが心密かに何の価値もないと認めている試験に合格できる人間が、優秀な児童ということになってしまったのだ。
食べ物、空気、印象の3つの基本的な食物は、すでに蔑ろにされた。都会の子供たちは、〈正常な生物の行動を模倣することができないという〉端から不利な立場にいる。田舎の子供たちは正常なものに近づきやすいので、田舎出のいわゆる「無教育」な子供が都会の子供たちより優(まさ)りつつある。
この傾向はヨーロッパでは特に顕著で、それは、田舎出の人間はその能力を酷使しなければならないからなのだ。
〈6.成年に達するまでの、彼を取り巻く環境において形成される「テレオクリマルニクニアン」と呼ばれる思考波の質。つまり、私たちが「血族」と呼ぶものに見られる、真剣で善良な願望や行動〉
私たちは、この問題を討議できるほど充分な理解にまだ達していない。推測することしかできない。例えば、たとえ外的な行為は丁寧でも、両親が互いに敵対していると、子供は敵意を感じ取り、苦しむことになるだろう。
現代文明では、たいてい1人っ子は神経質であり、問題児となる。ほぼすべての児童心理学者は問題児の生みの親であり、多くの精神科医は神経症だ。裕福な家の子であれ、貧しい家の子であれ、子供の非行は、生来の本能と可能性を歪め、抑圧した家庭に原因があるのだ。
〈7.彼自身のエゴプラスティークリと呼ばれるものの質。つまり、〈客観的理性〉を得るためのあらゆるデータを自分に肉化させるための努力〉
これは、子供が青年期までに育成させられる「理解するための努力」のことだ。私たちは、子供たちは好奇心を持っていると決め込んでいる。そして、子供に、自分で好奇心を満足させるように仕向ける。確かに、好奇心に対する本能的欲望は、子供を夢中にさせる。しかし、火の上に積まれた燃料は、逆に火を消してしまう。
好奇心は生において非常に貴重なものであり、それを満たすことを延ばすべきではない。戸惑わずに、教師たちは真の生について知ろうという真の好奇心を育ませるべきだ。グルジェフは、「東洋には教師は存在せず、弟子しかいない」と述べている。
現在では、東洋の古い生活様式の崩壊と教育の普及によって、つまりいわゆる「後進的な」民族の文明化、すなわち工業化によって、太古の叡智は消え失せつつあり、秘教学派のみにしかそれは残りそうもない唯一の救いは、生の外面の変容とは関係なく、人間の無意識、あるいは潜在意識という奥深い流れが絶えることなく続いているということだ。生は非常に好奇心が強い。だが私たちは、好奇心と同化することのないように注意していなければならない。第ニシリーズ(『注目すべき人々との出会い』)のルボヴェドスキー公の物語を読むといい。

社会は怪物を造り出す。なぜなら、社会が提供する刺激には抗い難いからだ。
真に偉大なヨーロッパ人であるレオナルド・ダ・ヴィンチは、莫大な報酬を示されたにもかかわらず、専門家になることを拒否した。彼は自分がマンネリに陥り、バランスを失っていることに気が付くと、何であろうと自分がその時点で行っていることを放棄した。これは誰にでも当てはまる労働規則であり、現代の優れた教育システムはこのことを理解している。しかし、学校を卒業すると、専門家になることが求められる。
だが何であれ、選んだことにおいては、他人に抜きん出るように励むべきだ。
3つのセンターの調和的発展を目的とし、意識や存在、知性の増進に向かうグルジェフ・メソッドに携わることによって、仕事と同化することなく他人に抜きん出ることができる。
何かと同化することと同化しないことの違いは、効率の問題ではない。それは、全体的な力や注意力を仕事に注ぐか注がないかという問題なのだ。
これによって私たちは最終的なゴールに導かれる。最初に私たちは、〈人間の基本は、存在の意味と目的を理解するための情熱である〉と述べた。これが主要な磁流だ。プラスは大脳であり、マイナスは本能・運動的な部分だ。磁力が正常に流れているときは、すべての機能は適切に働き始める。しかし私たちはマイナス化されている。流れは背骨から脳へと向かい、私たちは不調和な状態にある。
私たちはペテロだ。頭を下にして磔にされているのだ。
心理学的な人間は、知性への情熱を持った人間だ。磁力が正常に流れている人間は、生の諸機能が徐々に正常になってゆくことに気が付く。肝心なのは、知性に対する積極的な情熱の存在だ。なぜか? それは、人間が〈霊魂〉を産み出すという目的のために創造されたからだ。そして、霊魂とは、〈客観的理性〉を産み出すものとして定義することができるかもしれない。
「ベルゼバブの孫への話」は、すべてが寓意的なわけではない。歴史的な部分や同時代的な部分もある。私たちはその境界線の狭間や向こうにある思考を、比喩的に読み取ることができなければならない。
ベルゼバブの六回目の降下の間、天界からの3人の〈使者〉がこの惑星上に現れた。イエス、ムハンマド、ラマである。この短い期間の間になぜ3人も現れたのだろうか?
それぞれが教義を残していったが、その教義は創始者にも見分けがつかなくなるくらい著しく変形されてしまった。そして信奉者は分裂し、彼らは本来の教義とは関係がなく、むしろ反対でさえある思想を唱導した。しかし、私たちは自分自身の体験から、私たちの奇妙な精神の働きゆえに、たとえ明確に述べられても、〈思想というものは、必ず異なって解釈され、分割され、改竄(かいざん)させられる〉ということを知っている。このことは常に起きてきたことであり、私たちの精神が異常でありつづける限り、起き続けるに違いない。
〈最後の晩餐〉と〈秘蹟〉についてのベルゼバブの記述は、秘教的なグループに属するごく少数の人間には、つとに知られていたことだ。磔になる前に、イエスはその血を器に流したが、おそらく使徒たちはその血を飲んだはずだ。そして、教師のケスジャン体とその直接の弟子たちとの間に絆が結ばれた。教師の死後、弟子たちは、自分をある意識の状態に置くことによって、血を通して教師と意志を伝え合うことができるようになった。意志の伝達は、言葉によるものではない。イエスが目撃されたという報告は、これが原因である。コミュニケーションはある一定の期間だけ可能だった。それが途絶えると、〈昇天〉の時が訪れた。
出来事は、イエスと使徒たちにとって、あまりにも早く進行した。そこで、最も信頼されていたユダは、時間を稼ごうとして、ローマ人との陰謀を画策した。彼は、ローマ人がイエスを素早く取り押さえられようにすることを申し出て、儀式を執り行うのに必要な時間を稼いだ。ユダは使徒たちの中で最も意識的な存在なのであり、最も偉大な奉仕をした人物である。これが真実のユダである。普通、ユダは裏切り者とされ、二千年にわたってキリスト教徒から呪われつづけている。しかし、この世界の呪いも喝采も、同等の価値を持っている。つまり客観的な意味では、それは無なのだ。
私たちの誰もが、旧来のユダを心に抱いている。プリオーレのグルジェフは、弟子たちが眠り呆(ほう)けて道を外れると、しばしば弟子たちにこのことを教えた。

第47章のタイトル案には、「公平無私なる思考活動という山道」というものもあった。この観点からすると、この本は、様々な理性の段階の上昇を象徴している。ベルゼバブはこの山道を辿り、〈公平無私なる客観的理性〉の状態に到達した。生の新たな秩序が今や可能となった。発達の一部を、その同類のために放棄するということは、どういう意味だろうか? 私たちはこう喩(たと)えることができる。もし私たちの「自我」が成長し、発達するならば、他者の「自我」はその欲求を満たす可能性をいくらか断念しなければならない。反抗することなく、彼らが断念することを望む時が来る。

最後の場面で、ハセインは私たちすべてに関わる質問を発している。
〈この地球上に生じる三脳生物を何とかして救い、彼らを相応(ふさわ)しい道に向かわせることは、まだ可能なのでしょうか?〉
ベルゼバブはこう答えている。
「地球上の生物を救うための現時点における唯一の方法は、彼らの体内に〈クンダバファー〉のような新しい器官を埋め込むことだろう。しかしこの場合には、こうした不幸な人間は、その生存の過程の間、他人の死だけでなく自分自身の死の不可避性を、絶えず感じ取り、認識していなければならない。今や、こうした感覚と認識だけが、〈本質〉をまるごと吸い上げてしまった、完全に凝固している彼らのエゴイズムを破壊できるのだ。またそれは、エゴイズムから生じる他者を憎悪する傾向をも打ち崩すことができるのだ。そして、その傾向こそが、あらゆる相関関係を産み出し、三脳生物にとっては不適切で、自己や宇宙全体にとって有害な、あらゆる異常性の原因となっているのだ。」
2018年の現在、さらに人類の堕落と退廃は進み、いつでも人類にとって致命的な戦争が起こりえる状況だと思います。
ほかに考えられる必要な認識は、「人類は、本当に連鎖的は戦争によって滅亡しうる」という事実と、「あまりにも簡単に戦争は起こり、それを阻止するためには、それを自覚し目覚めた多くの人間の多大な努力が必要である」ということ、さらに、「人間の能力の低下が戦争の主な原因となっているため、そのことを人類全体が自覚し対処することが必要」だと、私は考えます。
詳しくは、また「戦争について」で書きます。