物質的問題について―『注目すべき人々との出会い』より

物質的問題について

1924年4月8日、「人間の調和的発展協会」のニューヨーク支部が開設された日、グルジェフ氏を主賓として、彼の友人たちおよびフランス支部の数人の弟子たちにより、あるロシア料理店で会食の席が設けられた。
食後、出席者の大半は、グルジェフ氏に同行して、49番街にあるR夫人のアパートに赴いた。ここで、愛想のよい夫人の手で注がれるコーヒーと、B博士がどこからか手に入れてきたリキュールを飲みながら、翌日の朝食時まで会話が続いた。
グルジェフ氏は主に、リリヤンツ氏とヴァーシロフスキー夫人の通訳を介して喋り、哲学的な質問を始め、ありとあらゆる質問に答えた。
短い休憩があって、私たちがブエノスアイレス産で、ニューヨークでもその季節には大変な珍品だったスイカをごちそうになっていると、当時流行の大サナトリウムを経営し、実際家と評されるB博士が、不意にグルジェフ氏の方を向いて次のような質問をした。
「失礼かもしれませんが、あなたの協会の経済的基盤とおおよその年間予算をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
驚いたことに、この質問に対するグルジェフ氏の答えは長い物語となった。
この物語が、彼の生涯にわたる苦闘の人知れぬ面を明らかにしてくれるため、私はそれを、その日語られたとおり、できるかぎり正確に再現する仕事を引き受けた。執筆にあたっては、ほとんどあらゆる細部にわたってこの話を覚えているほど、私同様大きな関心と注意を払って耳を傾けた他の弟子たちの意見も聞いた。そのうえ、この原稿はF氏の速記録とも照合した。F氏は、アメリカにおけるグルジェフ氏の講話、講演をすべて書き取った速記者である。それまでに質問されたのと同じことを尋ねた人が、その問題に関するグルジェフ氏の回答の速記録を読んで、氏の時間を節約できるようにしてあったのである。
グルジェフ氏は次のように語った。

G「博士さん、あなたのされた質問は、多少なりとも私のことを知る人々の大多数がいつも関心を持ってきたものである。しかし今まで、誰一人この個人的問題に立ち入らせる必要を認めなかったので、私はまったくそれに答えないか、あるいは冗談で笑い飛ばしてしまうという態度をとってきた。
その上、この問題に関してはすでに言い出した者たちのまったくの無知を表す、ありとあらゆる滑稽な伝説が生まれている。この伝説は、無知ということではひけをとらない男女の厄介者や役たたずの間をあちこちとめぐりまわるうちに、ますます途方もない枝葉をつけていった。例えば、私はインドにある秘教センターから金を受け取っていると言う。あるいは、協会はある黒魔術団の手で維持されていると言う。伝説的なグルジアのムクランスキー公爵の後援を受けているという話もある。中には、私が『賢者の石』の秘密を握っており、錬金術によって好きなだけ金をつくれるという話もある。さらにひどいのになると、最近よく耳にするのだが、私の資金はボルシェヴィキによって提供されると言う。ほかにも似たような話がたくさんある。
しかし実際、一番身近にいる者たちでさえ、私が長年に渡って負担してきた途方もない出費をどう都合したのか、正確なところは知らないのである。私がこの問題、つまり協会の存立の物質的側面に本気で触れる必要を認めなかったのは、外部からの援助に関してまったく幻想を持っておらず、この問題について話すことを単なる時間の浪費、つまり、いわば虚から虚へ移し変えるようなものとしか見ていなかったからである。
しかし理由あって、今日という今日は、あまりにもしばしば聞かれ、既に十分に私を辟易させているこの質問に、まったくの冗談ではなく、幾分なりとも誠実に答えたいと思う。
今日これに真剣に答えようと思うのは次のような理由によるものだろう。それにはほぼ確信がある。その理由とはつまり、運命の意志によって(あるいはむしろ、ロシアの権力者たちの愚かしさによってと言った方がいいだろう)、教会のネズミ同然の貧乏をかこったすえ、思いきってこの『ドル実る国』(アメリカ)へやって来たこと。そしていま、ドルを蒔いては刈り取る名人たちの波動に満ちた空気を吸って、血統書つきの狩猟犬のごとく私が確かな手ごたえのある勝負の匂いを嗅ぎつけているという事実だ。この好機を逃す手はあるまい。
いまここで、いわゆるドル肥りで肥った皆さんに囲まれ、自分自身もそのありがたい放散物の機械的吸収に刺激されて、この返答を少々、皆さんの一部と、いわば『分かち合う』ことにしたいと思う。
そこで、昨今珍しいほどの暖かいもてなしをしてくださる夫人に提供していただいた快適な環境のもと、この好機に乗じて、私の頭脳の活動能力と、『お喋り機』の能力を総動員して、今日また尋ねられた質問に答えることにしよう。それには、私のポケットそのものがドルの種を蒔くにふさわしい肥沃な土壌であり、そこで芽を出したドルは、種を蒔いた者に客観的意味合いでの人生の真の幸福をもたらす性質を持つにいたるということに、皆さんの誰もが気づくような語り方をするつもりである。さて、とりあえずは、無条件に尊敬さるべきドル保持者の皆さん!……
協会というかたちで私の理念を実行に移すずっと以前から、つまり、あらゆる角度から計画を練った当初から、私は二義的ではあるものの非常に重要な、物質的な面について慎重に考慮してきた。
今日においては異例の、私たちの会の基盤となる精神的理念を実人生に導入するにあたって、多くの障害に出合うであろうことを予測した私は、当時少なくとも物質的な意味でそれを独立させることが必要だと感じた。とくに、裕福な連中は金輪際こうした問題に真剣な興味を示してこの種の仕事を支援することはなく、一方ほかの人々は、たとえ興味や願望は大きくとも、これだけの企画に必要な大金を工面するあてにはならないことが、既に経験によってわかっていたからなおさらであった。
このため、計画を完全に実現させるには、精神的課題にとりかかる前に、まず第一に問題のこの側面を解決する必要があったのである。そこで、一定の期間のうちにこの目的を満たすに十分な資本をつくることを目指して、私はそれまで以上の時間を資金づくりに捧げた。
私がいま言ったことは、おそらく今日地球上のあらゆる場所で優秀な商売人と目されているアメリカ人の皆さんの大部分を、完全な混乱におとしいれるに違いない。皆さんは、それだけの大金とおぼしきものがどうしてそう簡単に稼げるものか?といぶかり、きっと私が何か法螺を吹いているのだという印象を受けられるだろう。
まさにそのとおり、と申し上げれば、なおさら奇妙に聞こえるに違いない!
私がなぜ、どうしてそれをすることができ、どこでそれほどの自信を獲得したのかということを皆さんにおおよそでも理解していただくには、まず、人生におけるこの時期以前に、私がしばしばあらゆる種類の商業的、財務的事業に手を染め、この分野で接触を持ったすべての人々から、抜け目のない商売人と見なされていたことを説明しておかねばならない。
さらには、自らの経験を積んだ目で見ても、教育に関する私の理想に最も近いと思われる私自身の幼年期の躾について、少々お話しておくべきだろう。このしつけのおかげで、当時私はどこのどんな商売人よりも、おそらくは皆さんのようなアメリカの商売人よりも上手くやることができたし、必要とあらば今でもできるだろう。
今日こうして集まったのは、人間の正しい調和のとれた教育を根本目標として掲げる協会の開設を祝うためであるから、私の受けた教育について詳しく語るのは、何よりもふさわしいことだろう。とくにこの協会は、私によって長年の間に蓄積され、徹底的に立証された実験結果に基づいている。その私は、現在大きな苦境に立っている教育という死活問題の研究に全生涯を捧げてきたし、さらには、正常に発達した良識を持つ人々に育てられたおかげで、常に、どんな状況にあっても公正を保つ力を獲得してきた。
意図された影響のうち最も大きいのは、教育に関してまったく独自の見解を持っていた父からのものである。
独特な教育観に由来する、父の直接的、間接的な教育法のすべてを、私はいつか一冊の本にまとめようとさえ目論んでいる。
私の中に多少なりとも正しい理解力の萌(きざ)しが現れるが早いか、父はいろいろな話に交えて、ありとあらゆる途方もない話を聞かせ始めた。そして最後には必ず、何でもやり方を知っていて、ある日には空飛ぶ肘掛け椅子までつくってしまった、ムスタファという名のびっこの大工についての続き物語で締めくくった。
この方法や、そのほかの『根気のあるやり方』によって、父は私の中に、彼のような腕ききの大工になりたいという願望と並んで、常に新しいものをつくる抑え難い衝動を育んだ。子ども時分の私の遊びは、最も当たり前のものを含めてすべて、自分は普通のやり方ではなく、何もかもまったく特別なやり方でする人間なのだという想像によって豊かに彩られていた。
幼年期の最初から、父が不明確ながら間接的に教えこんだこの傾向は、後々、青年時代の初期になっていっそう明確な形を取るにいたった。それは私の最初の師の教育に関する考え方が、ある意味で父と一致していたからである。そこで、学課の成就に加えて、彼の特別な指導のもとに私は様々な手工芸や技術を実習することになった。
この最初の師の教育法の最大の特徴は、私がどれか特定の工芸に親しんで、それが好きになるやいなや、即座にそれを放棄させ、別なものに移らせることであった。
ずっと後になってわかったのだが、彼の狙いは、私にいろいろな種類の工芸を学ばせることではなく、新しい仕事につきものの、様々な困難を克服する能力を私の中に発達させることにあった。実際、それ以来どんな種類の仕事も、仕事自体がではなく、私がその仕事のこともそのやり方も知らない場合にかぎり、私に意義と興味を与えてくれるようになった。
要するに、この二人は、その独特の教育観によって、意識的であれ無意識的であれ(この場合どちらでもよいが)私の責任ある年齢への準備を引き受けてくれ、年月が経つにつれて私の本性の中に次第に発達し、ついには、頻繁に職業を変えるという形を取って定着した、ある主観的特質を生じさせてくれたわけである。その結果、たとえ機械的なものに過ぎないとしても、私は様々な手工芸的及び商業的職種をこなす理論的、実際的能力を身につけることになった。そして、視野が様々な知識の分野に広がってゆくにしたがって、私の理解力もまただんだんと増していった。
もし今日、各国において、学問の多くの分野にわたる真の知識を代表する人間であると私が認められているとするならば、それは部分的にはこの初期教育に負うものであるとまでつけ加えておこう。
正しい教育によって発達した才覚と視野の広さ、それにとりわけ常識のおかげで、私は、連続する人生の道程において、意図的にまた偶然に集めた全情報から、学問の各分野の真髄を把みとることができた。さもなければ、現代の『心による学習』とやらいう有名な教育法の必然的結果である、単なる空虚なガラクタの山を抱える羽目になったであろう。
そんなわけで、私はすでに幼少の頃から、自分の直接的必要を満たすだけの金を稼ぐ腕と能力を持っていた。しかし私は、若いときから人生の意義と目的の理解につながる抽象的問題の数々に興味をいだいていたので、これにすべての時間と関心を注いだ。異常な教育のせいで現代人、とりわけ皆さんアメリカ人のあらゆる意識的かつ本能的努力の的になっているような、生活それ自身のために能力を傾けて金を稼ぐことはしなかったのである。私が金を儲ける仕事をしたのは、限られた時期に、それも通常の生命維持に必要な場合や、自分に課した目標を遂げるための必須条件を満たすためにすぎなかった。
貧しい家庭に生まれ、物質的安定に恵まれなかった私は、避け難い必要に迫られて、かなり頻繁に、実に卑しむべき、有害な、この金というものを稼がざるをえなかった。けれども、金を稼ぐ過程そのものには、けっして長い時間をかけなかった。正しい教育によって発達した才覚と常識のおかげで、こうした人生の雑事において、すでに老練狡猾と言ってもよい域に達していたからである。
この方面での私の手腕を顕著に示す例として、ある日ちょっとした賭けのつもりで、まったく即席に、大変風変わりな工房を開いた話をしてみよう。
このエピソードを詳細に語るとかなり長くなると思うが、いまいただいているこの驚異的なリキュールがあれば(余談ながら、このリキュールが驚外的なのは、地球上のありふれた環境でつくられたのではなく、アメリカ沿海上の古い艀で醸造されたからである)そう長たらしくも退屈にも感じられないであろう。
さて、それは、私がそもそもの初めからメンバーになっていた『真理探求者の共同体』なる団体が最後に組織した、パミール地方とインドを抜ける大探険行を間近に控えた頃だった。
この探険の出発に先だつ2年前、共同体のメンバーたちは、結集地をカスピ海対岸地方のチャルジョウの町と決めた。探険に参加しようとする者は全員、1900年1月2日をもってそこに集合し、まずアム・ダリヤ河をさかのぼるという計画である。
この日までに相当の期間があったが、長旅に出かけるほどの月日はなかった。そこで、慣例どおりアレキサンドロポルの実家を短期間訪れ、家族と共に過ごしたあと、いつもとは違って遠出をせず、そのままコーカサスにとどまってアレキサンドロポルとバクーの間を行き来していた。
私がちょくちょくバクーへ出かけたのは、古代の魔法を研究する会がそこにあり、私も長年その準会員だったからである。この会のメンバーの大部分はペルシア人だった。これから皆さんにお話するつもりのエピソードにつながる出来事は、ちょうどこのバクーの町で起こった。
ある日曜日のこと、私は市場へ出かけた。
ここで告白しておかなければならないが、私は東洋の市場を歩きまわることには目がなく、どこであれ市場がある土地に行くと、必ずそこへ出かけずにはいられない。ガラクタをあさるのが大好きで、いつも何か珍しいものに出くわすのではないか?と期待していたのだ。
その日は、古い縫いとりを買い、絨毯市から出てくるところで、身なりは正しいが、実に悲哀に満ちた容貌の若い女が何か売っているのを目にとめた。
どこをどう見ても、彼女が本職の行商人ではなく、必要に迫られて自分の持ちものを売っているに違いないことは明らかだった。そばへ寄ってみると、古いエジソン蓄音機を売りに出している。
その女の悲しげな表情に哀れをもよおした私は、なけなしの金しか持っていなかったにも関わらず、それについてじっくり考えてみることもなしに、様々な付属品もろとも、この無用な機械を買いこんでしまった。この重荷をしょって寝ぐらの隊商宿へ帰り、箱を開いてみると、ほとんど破損した録音用ロールがたくさん入っている。まだ使えるロールのうち、録音ずみのものはほんの数えるほどで、残りは空だった。
私はそれから何日かバクーに滞在した。
ちょうど貯えが底をつきかけており、補充の手を考えなければならないところだった。あるどんよりと曇った朝、服を着ずにべッドに座り、どうしたものか?と思いをめぐらせていると、ふとその蓄音機に目がとまった。そのとき、一つこれを使ってやろうという考えが浮かび、あっと言う間に、行動計画をつくりあげたのである。
さっそく、そこでの諸事を片づけ、その日のうちにカスピ海対岸へ向かう最初の船に乗りこんだ。それから5日後、クラスノヴォドスクの町で、私はこの蓄音機を使った商売を始めたのだった。
ことわっておくと、この地方では蓄音機はまだ知られておらず、地元の住人たちには、これは初めて目にする驚異だった。
いま言ったように、蓄音機には何本かの空ロールがついていた。そこで私はすぐさまテキン人の大道芸人を見つけると、地元の人々に人気のある曲をいくつか録音し、残りのロールにはトルクメン語の痛快な続き物語を自ら吹きこんだ。
そうして機械についている4つのイヤホンのほかに、あと2つイヤホンを取り付けた(最初のエジソン蓄音機にはイヤホンがついていたのを覚えている皆さんもおありだろう)。それを持って市場へ出かけ、独創的な屋台を開いたのである。
代金はイヤホン一本につき5コペイカにしたのだが、その結果はなんと、私がそこで店を広げている間一日中、とくに市の立つ日など、一時としてイヤホンの空く暇がないという有様だった。毎日店じまいまでに集まった5コペイカ玉の合計は、おそらく町一番の商売にひけをとらない額だったろう。
クラスノヴォドスクのあとに行ったキジルアルバートでは、近郊の村々の裕福なトルクメン人たちから、何度か機械を持って来るようにと誘われた。こうした『出張公演』では相当な量のティアンガ硬貨が転げこみ、一度など大変良質なテキン絨毯を2枚も受け取った。
ここでまたしてもひと山当てると、私はアシハバードの町でこの商売を続けようと汽車に乗ったのだが、その車中で私たちの共同体のメンバーのひとりと出会い、その人と賭けをしたおかげで、我が蓄音機稼業は幕を引くことと相成った。
私が会った同志というのは、いつでも男ものを身につけている、無類にして豪胆なマダム・ヴィトヴィツカヤであった。彼女は私たちの危険きわまりない探険のすべてに参加し、アジア、アフリカの奥地や、オーストラリア及びその周辺の島々まで訪れていた。
来たるべき探険隊には彼女も参加する予定だったが、それにしてもまだ何ヶ月もの余裕があったため、ワルシャワからアンディジャンにいる姉(ポズナンスキーの織物会社代表と結婚していた)を訪ね、そこでチャルジョウでの集合日時まで休息することに決めていたのである。
道中私たちはとりとめもなく話をし、中でも私は最近の我が事業について喋った。
私たちの間で、なぜ、いかなる理由でそんな論議が起こったのかは覚えていないが、とにかくその論議の結果として、実に厳密な条件と明確な制限日時のうちに、私がある金額を稼ぎ出すことができるかどうか賭けることになった。
この賭けに興味津々となったヴィトヴィツカヤは、どうやってそれを成し遂げるのかを見とどけるために私と同行する決心をしたばかりか、しまいには私の手伝いまで申し出た。そこで、アンディジャンへ行くかわりに、私と一緒にアシハバードで汽車を降りた。
白状すると、私は偶然にもちあがって請け合った、この複雑な課題を果たすことに非常な興味をかきたてられ、何が何でもそれを達成し、さらには目標の条件さえ上まわってやろうという熱い気概に燃えていた。
まだ車中にいる間に、私は行動の概略を練り、その第一歩として、その場ですぐ次のような広告の文案を作成した。

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必要な道具類を大半買いそろえ、大急ぎで手製のブンゼン電池をこしらえ、ありあわせの古い洗濯だらいを電気メッキ用の水槽に仕立てると、私は入口に、白地に赤で次のような字幕を掲げた。

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あくる日広告ができあがると、町の腕白どもの手を借りて大量に貼り出し、残りは手で配った。こうして、お楽しみが始まったのである。
第一日目から、アシハバードの住人たちは、列をなして修理品を持ちこんできた。
まったく、あのとき持ちこまれなかったものがあったらお目にかかりたい!
そのうちの多くは、私がそれまで見たこともなければ聞いたことすらないものだった。世の中には実に信じられないような品物があるものだ。白髪抜き器、ジャム用のサクランボの種を取る機械、あせもに撒布する硫酸銅の粉砕機、かつら用の特殊アイロン、等々。
そこでどういうことが起こったかを想像していただくためには、その地域の有様を多少なりとも知っていただく必要がある。
カスピ海対岸地方のこの一帯と、隣接するトルキスタンの一部は、外国人が流入し始めてからまだ数十年しか経たず、新しい町々が、主として旧市街の郊外に形成されていた。その結果、この地域の町のほとんどすべてが2つの部分から成り立っていた。それぞれ独立した生活を営む、アジア人の古い町とロシア人の新しい町である。
これら新市街の住人は、アルメニア人、ユダヤ人、グルジア人、ペルシア人などから成っていたが、中心は何と言ってもロシア人で、その大部分が官公吏、あるいはこの地域で兵役を終えた退役軍人たちであった。
豊かな自然の恵みと、いまだ現代文明の汚れを知らぬ地元住民の善意のおかげで、こうした新来者たちはたちまち裕福になった。ところが、たまたまその連中の上に立つ無知な役人たちが、文化的影響力を持ちあわせていなかったため、新来者たちは移住して来る前と寸分たがわぬ無教養のままであった。
そんなわけで、物質的な富をもたらした商業的繁栄とは裏腹に、彼らの知性や専門知識を発達させるものは何一つとしてなかったのである。
いたるところで急速に広がりつつあったヨーロッパ文明も、こうした地方の人々にはほとんど達していなかった。新聞雑誌を通して伝わるわずかな情報も、ジャーナリストたちの途方もない誇張のおかげでまったく歪曲されてしまっていた。このジャーナリストなる輩は総じて、とりわけ当時のロシアでは、自分の書いている文章の本質に関しておおまかな理解さえできないのが常であった。
こうした新興有産階級は、成り上がり者の特性で『教養のある』、『流行り』ものなら何でも、つまりはヨーロッパ風のものなら何でも模倣した。ただし、この教養と流行に関する一切の情報を、そうしたことには無知な人間たちによってつくりあげられたロシアの新聞や雑誌に頼っていた彼らの姿は、公平な観察者の目には、滑稽で、同時に悲しむべき戯画としか映らない。
そうした事情から、物質的には大いに栄えながら、初歩的な文化の欠片も見せないその地の住人たちの生活は、文明人の真似をする子どものままごとのようなものだった。
あれほど流行の追従に徹していた場所はほかにあるまい。誰もが、何から何まで当世風にしようと必死なのだ。そのうえ彼らは、『教養ある紳士』の生活にふさわしいとおぼしき、新発明その他のありとあらゆるものを、いたるところから熱心に買い集めたり、郵便を通して購入したりした。それに関して、新聞広告が唯一の情報源だったのは言うまでもない。
こうした彼らの弱味につけこんで、諸外国、とくにドイツの商人が、無用な商品や、すぐに壊れたり駄目になったりする品物をどっさりと流通させていた。その喜劇的なことときたら、広告品の中に、ふつうのマッチを擦る特別な機械まで見受けられるほどだった。
そうした購買物の大半が、そもそも不用なものであるか、さもなければいっぺんで使いものにならなくなってしまう代物であった。それに、あたりに一軒の修理屋もなかったことがあいまって、どの家庭にも破損品が山のようにたまっていた。
修理の必要なものがそれほどの数にのぼったのには、いま一つ理由がある。当時の東洋、とりわけアジア圈のロシアでは、一度買ったものはたとえ不要になってもバラバラになっても、けっして手放さず、けっして売らないという習慣があったのだ。それに、たとえもし売ろうとしたところで、誰ひとり買い手がなかったろう。これに加えて、いろいろなものを何かの思い出、あるいは誰かの思い出にとっておくという習慣が固く守られていたのだからたまらない。
そんなわけで、どの家の屋根裏も物置きも、驚くべき不用品の山で、ものによっては先祖伝来のものでいっぱいだった。
当然、何から何まで修理する工房があると聞くと、人々は長年無用の長物として眠ってきた品々を修復し役だてようと、実に様々なものを引きずって来た。例えば、お祖父さんの肘掛け椅子に、お祖母さんの眼鏡。曽祖父さんのバラライカに、曽祖母さんの腕時計。名づけ親にもらった化粧だんす、司教ご宿泊のおりに使用の毛布、家長がペルシア国王から賜わった勲章、等々等々。
私はこれを一つ残らず修理した。
何かを断ったり、直さないで返したことは一度もない。
たとえ、修理に注ぎ込む時間に見合わないスズメの涙ほどの代金しかもらえなくとも、もしそれが目新しいものならばちゃんと直してやった。その場合には、代金そのものよりも、自分のまだ知らない仕事の難しさに興味があったからである。
壊れものや、まったく無用な品々に加えて、彼らは全然破損していない新品も数限りなく運びこんできた。これは単に、無知と初歩的な専門知識の欠如、要するに愚かさのおかげで、使い方がわからなかったためにすぎない。
その当時、ミシン、自転車、タイプライターといった類いの最新の発明は、すさまじいスピードでいたるところに普及しつつあった。こうした品々が熱狂的に注文され、購入されたのだ。ところが、いま述べたような最も簡単な専門的知識の欠如や、地元における修理業者と専門家の不在によって、どこかがほんの少しでもおかしくなると、その品物は役にたたないものとしてしまいこまれてしまったのである。
ここで、この手の無知と純真さを示すよい例を2、3紹介しよう。そのときの私は、何ら良心の呵責を感ずることなく、まったくの故意でそれにつけこんだものであった。

ある日のこと、金持ちの肥ったアルメニア人が、息をきらせ、汗びっしょりになって、娘共々ミシンを修理に持ちこんできたことを覚えている。ニジニ・ノヴゴロドに滞在中、彼女の嫁入り道具に市で買ったものだという。
初めのうちこのミシンは、彼に言わせればそれこそ家の宝だった。仕事の見事さと速さは、とにかく賞賛の言葉もなかったくらいだ。ところが突如として、何のわけも筋合いもなく、忌々しいことに、彼いわく逆進し始めたのである。
ざっと目を通したかぎりでは、機械は完璧だった。
ご存知のとおり、ミシンの中には、縫い目を調節するレバーの脇に、送りの方向を変えるレバーがもう一つ付いているものがある。このレバーを切り替えると、布の動く方向を変えられるようになっている。くだんのミシンも、誰かが知らずにこのレバーにさわったのは明らかで、布地が前進のかわりに後退するようになってしまったのである。
望みどおりに動かすには、レバーを切り替えればいいということはすぐさまわかったし、その場でそうすることもできた。しかし、外見から相手がずる賢い老悪党だということを察し、会話から彼がカラクリ羊の皮商人だということを知った私は、この種の手合いについてはよくわきまえていたので、懐を肥やすのに子どものごとく騙されやすいテッキ人やブハラ人を何人もひっかけてきているに違いないと見て、その償いをさせてやることに決めた。そこで、そのミシンのどこが悪いのか長たらしい話をしておいて、元通り動くようにするにはいくつか歯車を替えなければならないと言い、ついでに昨今の悪どい製造業者について、つきたい放題の悪態をついておいた。
早い話が、三日で直すという約束で、私は彼から12ルーブル50コペイカを巻き上げたのである。もちろん彼が店を出るか出ないかのうちにミシンは動くようになり、番号をふって修理ずみのコーナーに移された。
また別な機会に、一人の将校が工房に入ってくると、さも重大事であるかのような口調でこう言った。
『地方司令官の事務局へ行き、係員に私の命令だと言って、そこにあるタイプライターを全部調べてくれ。そして、どこが悪いかわかったら、私に教えてくれ。』
そう言うと、彼は来たときと同じ勢いで出ていった。余談ながら、その頃のロシア将校は、他人に命令する以外は口を開かないものだった。
その唐突で横柄な口調には私もびっくりし、何となしに腹が立ったので、必ずそこへ行ってみようと決めた。主にこの将校がどういう『野郎』なのかを確かめるのと、もう一つはたぶん、彼に思い知らせてやる方法はないかを調べるのが目的であった。実を言うと、人に思い知らせるのは、私が常に楽しみとするところなのだ。それは、私がこうした傲慢の輩を、純真無垢を装って手ひどく懲らしめるコツを心得ていたからである。
さっそくその日のうちに指定の事務所へ出かけた私は、所長に名前を告げ、来訪のわけを述べた。それでわかったのは、さっきは副官じきじき店にやって来たのだということだった。
3台あったタイプライターを調べている間に、私は所長に煙草を勧め、将校生活にまつわる痛快な小話をして手っとりばやく親しくなった。その口数の多い所長は、次のような事情を説明してくれた。
このタイプライターは最近ペテルスブルグから届いたもので、初めは申し分なく動いたものの、やがて一台、また一台、そして3台目まで全部同じような故障を起こした。リボンの巻き上げが効かなくなったのだ。副官や補給担当将校を始め、みんながよってたかって直そうとしたが、どうやっても上手くいかず、過去3日間、業務は昔どおり手書きで行われていた。所長の話を聞いている間に、私はタイプライターを調べ終わり、何が問題であるかを突きとめていた。
皆さんの中にもご存知の向きがあるに違いないが、昔のタイプライターには、機械の下部後方の特別な箱に収められたぜんまいの力でリボンを巻き、ぜんまいはその箱自体をまわして巻き上げる仕掛けになっている機種があった。ゆっくりとリボンが移動するにつれて、相当な長さのぜんまいはかなりの時間かかって緩んでゆくが、ときどき巻きなおしてやらなければならない。
納品された時点では、このぜんまいが完全に巻き上げられており、時とともに緩んだものをまた巻きなおしてやればいいことは明らかだった。ところが、ぜんまいに鍵もハンドルもついていないため、指示も受けておらず初歩の技術的な頭も持ちあわせない人々には、どうしてぜんまいを巻きなおしたらいいのかわかりにくかったのだ。
もちろんそんなことはおくびにも出さず、会食に招かれて、政府支給のキャベツスープとカシャをごちそうになったあと、私は大時代な自転車の残骸に乗ってまっすぐ家へ帰った。
その晩、またあの副官がやって来ると、相変わらずの高慢な口調でこう尋ねる。
『どうだい? あの新品のタイプライターがどうして動かないか、もうわかったかね?』
これに先だつこと久しく、私は演技に熟練していた。そこで、本職の役者たちの間で『敬意ある小心さと内気な服従』と呼ばれる表現で、様々なロシア語の専門書から借用したもったいぶった特殊な言葉を使って、この機種のタイプライターの一箇所を除いた全面的な完成度を褒めちぎった。ただしその箇所だけは、残念ながらどうしても複雑で困難な変更が必要だというわけである。手間賃としては、機械自体の値段のほとんど四分の一という見積りを出した。
あくる日、それらの完全に調子のいいタイプライターが、副官の率いる一分隊に近い兵士たちによって厳かに工房に運びこまれた。
私は即座にそれを受け取り、それから重々しい口調で、どんなことがあっても10日以内にはできないだろうと宣言した。困った副官は、事務所の業務がほとんど停止状態なので、なんとかそれより早くしてくれと懇顔する。
延々と取引した末、私は残業して一台は2日で届けるが、そのかわり兵隊たちに命令して、買ったばかりで裏庭に飼っていた3匹の仔豚に、食堂の残飯を運んでもらうようにと頼んだ。
2日後、それらまったく申し分のない機械の一台が直った。残りの2台は週末までに届けるという約束になった。
私は感謝ばかりでなく、一台につき18ルーブルの修理代を受け取った。そのうえ、私がアシハバードにいる3ヶ月間、兵隊たちは毎日仔豚に食べものを運び、面倒を見てくれたのだ。その間に仔豚どもは立派な食用豚に成長した。
むろん私は事務員たちにぜんまいの巻きなおし方を説明したが、私の『修理』がどういう内容であったのか、彼らはとうとうわからずじまいだったようである。
工房をマーヴの町に移し、同様な仕事をさらに2ヶ月続けた間も、この手のことが何度となく繰り返された。
ある日、あいにく学校の名前は覚えていないが、地元の小学校の検査官が来て、物理実験用の電気器具を修理してくれと言った。
これは、円盤をまわすと火花が出る何の変哲もない静電気発生器で、どういうわけかいまでもそのようだが、当時の学校では備えつけるのが義務とされていたようである。この機械を使って、誰でもが知っているいわゆる物理の授業で、先生たちがもったいぶって、さも神聖な儀式でも執り行うかのように教育的実験をしてみせる。ところがその実験たるや、ただ円盤をまわして、子どもたち一人一人に、ライデン瓶に付属する小さな金属製のつまみにさわらせるというものにすぎない。子どもたちがそのつまみに触るときの苦痛に歪んだ表情は、そうした先生気取りの連中に言わせると『食べものの消化に特効がある』ほどの大笑いを巻き起こし、物理の授業はかくして幕となるのである。
くだんの検査官はこの器具を一台注文し、ペテルスブルグにあるシーメソス・ウント・ハルスケ商会なるドイツ系の会社から組み立て用の部品を受け取った。ところが彼や同僚の先生たちが説明書に従って組み立ててみたところ、どうしても火花が出ず、とうとう彼が私の工房に問い合わさざるをえなくなったのである。
私は、ほかはすべて問題ないが、機械の主要部分をなす2枚の円盤が互いにおかしな位置に取り付けられていることをひと目で見てとった。必要なのは心棒についたナットを緩め、片方の円盤をわずかに動かすことだけで、ものの一分もかからずにすむ仕事である。けれども、自分自身も知らないことを他人に教えて尊敬されているこの衒学者には、私が彼の機械を修理している間、四度も工房まで足を運んでもらい、その上、充電など要しないライデン瓶の充電という名目で、10ルーブル75コペイカを頂戴した。

我が工房の存続中、こうした例はほとんど毎日のようにあった。私は、貧乏な人たちには始終勉強してやったが、偶然手にした地位の力だけで曲がりなりにも地方の知識人となったものの、真の知性という尺度から見ると、彼らの支配下にある一般大衆より遙かに劣る、こうした連中の愚かしさに乗じて儲けることを悪徳とは思わなかった。
しかし、最も奇抜なそして最も有利な商売は、何と言ってもコルセットの改造だった。
そのシーズン、パリではコルセットの流行に大きな変化があった。それまでは大変丈の高いコルセットをつけていた流行の先端をゆく女性たちが、急に低いものを着用しだしたのである。
この新しい流行の気まぐれは、ファッション雑誌を通してすぐにこの地域でも知られ始めたが、辺鄙な土地のことゆえ、新型のコルセットはまだ市場に出まわっていなかった。その結果として、大勢の女性たちが古いコルセットを私のところへ持ってきて、流行の型になおせるかどうか相談するようになった。このコルセット稼業のおかげで、私は左うちわになったのである。その経緯は次のとおりであった。
一度、さる恰幅のよいユダヤ婦人のコルセットを短くし、ついでにご本人のますます拡大する胴まわりに合わせるため幅を広げなければならなくなり、鯨のひげが少々入り用になった。長くむなしい捜索のすえ、ほかの店と同様に鍄のひげの在庫のなかったある店で、時代遅れのコルセットをまるごと買ってはどうかと店員が勧めた。鯨のひげとほとんど変わらない値段で店主が売るに違いないというのである。
そこで私は、直接店主のところへ行ってみた。ところが彼と交渉している間に、心中に別な計画が進み、予定のコルセットー着のかわりに、彼の手持ち全部、65着の旧型コルセットを定価の一着4~5ルーブルどころか、20コペイカの安値で買い取ることにした。そのあと、急遽アシハバードの店という店からコルセットを買い上げてまわったが、どの店もまったく無用の在庫品が処分できるのを喜んで、さらに安い値段で譲ってくれた。
そればかりでなく、翌日、雇っていた二人の少年の父親である老ユダヤ人を使いにやって、中央アジア鉄道沿線のあらゆる町々から旧型のコルセットを買い占めさせた。
私自身はペンチと鋏(はさみ)を手に、流行のコルセット製作を開始したのである。
それはごく簡単な作業だった。まずコルセットを切断する部分に鉛筆で筋を入れる。切り取りは、上の方が多く、下はほんの少しでいい。その上で、この筋に沿って鯨のひげをペンチで切断し、布地を鋏で切り取ってゆく。それから、私のところで働いている娘たちが、ヴィトヴィツカヤの指導のもとに縁どりのテープをはぎ取って、短くしたコルセットのまわりに縫いつける。あとはもとのレースをひとかがりすれば、きゃしゃなパリの最新ファッションの出来上がりというわけである。これは一日に100着ぐらい楽に仕上がった。
一番滑稽だったのは、自分たちの古いコルセットの変身を聞きつけた店主たちが、大きな需要を見こんで、くやしさに歯ぎしりしながら私から買い戻さざるをえなかったことである。それも、10~20コペイカというはした金ではなく、一着3ルーブル半という値段である。
この一件の成果がどれほどのものだったかを飲みこんでいただくには、私がクラスノヴォドスクや、キジルアルバート、アシハバード、マーヴ、チャルジョウ、ブハラ、サマルカンド、タシケントの各地で買いこみ売りさばいたコルセットの数が6,000着だったとだけ言っておけばよかろう。
事業の規模に比して桁外れな純益が上がったのは、地元のいわば『色とりどりの』住民たちの無知と純真さ、あるいは私の抜けめのなさや、あらゆる状況に対応する才覚によるばかりではない。それは主に、私自身を含めて誰もが持っている意志の弱さに対する私の容赦のない姿勢によるものであった。
この意志の弱さが、繰り返しによって怠惰というものを生むのだ
面白いことに、この時期に、私の存在全体の働きにある変化が起こった。これは一般科学の観点からは説明がつかないもので、私の生涯に一度ならず起こったことである。その変化というのは、エネルギーの出入りする速度の加減に現れて、何週間も、ひどいときには何ヶ月もほとんど眠れない状態になってしまうのだが、同時に活動の方は減少するどころか、反対にいつも以上の激しさになる。
最近、この状態が再び現れたとき、私はこの現象に大いに興味を引かれた。そのためそれが私にとって、つまり私の自己認識部分にとって、かつてもちあがり、それ以来その解決が人生の目的と意義になったほかのいくつかの問題に匹敵する重要性を持つにいたったほどである。
協会の基本計画に関連した諸事を片づけて、再び自分の時間の半分を主観的関心事に捧げられるようになったあかつきには、この問題の解明を最優先しようとさえ考えている。
私の肉体機能全般にわたる、いまだに不可解なこうした特徴は、この話の期間中に現れた状況にはっきりと見られるだろう。
客の流れはほとんど一日中続いた。ベラベラ喋り合いながら壊れものを修理に持ちこんだり、すでに修理のすんだものを取りに来たりするので、一日の大半は注文の受け渡しに費やされた。たまに客がとぎれた隙に、大急ぎで新しい部品や様々な常備の材料を買いに行くのが精いっぱいである。そのため、仕事自体は夜やるしかなかった。
工房が存続している期間中、昼間は客に、夜はまるまる仕事に時間を当てなければならなかった。
この仕事全般にわたって、ヴィトヴィツカヤの力を大いに借りたことをことわっておかねばならない。彼女はまたたく間に、傘張りからコルセットや婦人帽の型なおし、そしてとりわけ造花づくりの専門家と言ってよいほどになった。最初に雇った二人の少年、例の老ユダヤ人の息子たちにも助けられた。上の子はメッキ用の金属製品の汚れをとり、メッキがすむとそれに磨きをかけた。下の子は使い走りを引き受け、炉の火を焚いてふいごを吹いた。終わり頃には、地元の族長の家系の親たちが『完全教育』を受けさせようと、針仕事の見習いに我が世界巡回工房によこした6人の娘たちからも、並々ならぬ助力を受けた。
こなした仕事の量は、全部で4人しかいなかった頃から、『関係者以外立ち入り厳禁』と当然掲示しておいたドアの向こうの部屋で、少なくとも何ダースかの専門職人が働いていそうな印象を与えたほどだった。
工房がアシハバードにあった3ヶ月半の間に、私は5万ルーブルの金をつくっていた。当時それだけの額がどのぐらいのものかおわかりになるだろうか?
比較のために、その頃平均的ロシア官吏の給料は月33ルーブル33コペイカであり、これだけあれば独身男性はおろか、子どものたくさんいる家族持ちでも、どうにか生活していけたことを思い起こしていただきたい。高級将校の給料が45~50ルーブルで、大金と見なされ、これだけの額を稼ぐのが若者たちの夢だった。
当時、一ポンドの肉が6コペイカ、パンが2~3コペイカ、いいブドウで2コペイカだった。1ルーブルは100コペイカだ。
だからして、5万ルーブルといえば、ひと財産と見なされたものなのだ!
(当時の1ルーブルが約2,000円くらいみたいなので、現在の日本円に換算すると1億円くらいでしょうか?)
工房の存続期間中、副業でさらに大きな儲けを上げる機会はいくらでもあった。しかし賭けの条件の一つが、金は手仕事と、それに必然的に結びつく小規模な商取引のみによるということだったので、私は一度もその誘惑には屈しなかった。
賭けは、アシハバードにいる間にとっくに私の勝ちと決まり、規定額の4倍もの金ができていたが、それにもかかわらず、前述のとおり別の町で同じ仕事を続けることに決めた。
ほとんどすべてが片づいた。ヴィトヴィツカヤは姉のもとへ帰り、私もマーヴ行きを3日後にひかえていた。いま話したことで、私がこの話によってはっきりさせたかった内容の幾分かは伝わったものと思う。つまり、アメリカ人の皆さんの理想であり、皆さんが商業的特質と呼んでいる人間の普遍精神の特殊なかたちは、皆さんの持ちあわせていないほかの特質とともに、ほかの大陸に住む人々の間にも、より高度な発達さえ見せて存在するかもしれないということである。しかしながら、これをさらに説明し、当時の私の諸活動をより鮮明に描き出すために、アシハバードを離れる直前にやったいま一つの商業的トリックのことをお話してみよう。
工房を開いた直後、ありとあらゆるものを買い取ります、という宣伝をした。それには2つの理由がある。一つには、役にたちそうなものを何から何まですぐに店や市場で買い切ってしまったので、修理に必要な部品をさらに見つけるため。そして2つには、店に持ちこまれたり、それぞれの自宅で検分を頼まれたりする古い品々を見ていると(実際しばしば起こったのだが)何か珍しい値打ちものにぶつかるかもしれないという望みがあったからである。
ひとことで言えば、私は骨董商でもあったのだ。
出発の数日前、市場でとあるグルジア人に出会った。以前、彼がティフリスに近いカスピ海対岸鉄道のある駅で、構内食堂を経営していたときに知り合った男である。いまは軍の食糧を納める業者で、余っていた古い鉄製べッドを買わないか?と私にもちかけた。
さっそくその晩彼の家へ行き、二人で地下室にべッドを見に降りたのだが、耐え難い悪臭が立ちこめていて、そこにじっとしているのも不可能なくらいだった。大急ぎでべッドを調べて早々に退散し、道路に出てから、初めて交渉を開始した。聞いてみると、地下室の悪臭は、彼がこの地の将校食堂用にアストラカンで仕入れた20樽のニシンから匂うものだという。最初の2樽を届けて開いたところ、中のニシンが腐っていて納品できなかった。友人のグルジア人は評判を失うのを恐れて、ほかへまわす気にもならず、それを持ち帰ると一時的に地下室に放りこみ、ほとんど忘れていたのである。それから3ヶ月経った今になって、家中にその匂いが漂い始め、できる限り早急に処分しなければならないという羽目に陥った。
彼を悩ませていたのは、儲けを失ったばかりでなく、それをごみ捨て場まで運んで行く荷車を雇わなければならないことであった。さもなければ衛生委員会に知れて、罰金を払わされるのだ。
彼が話している間に、私の思考はその頃習慣となっていた性癖どおりに動きだし、こんな事態からでも何らかの組み合わせで利益を引き出せないものかと自問した。
私は計算を始めた。
『彼は20樽の腐ったニシンを捨てようとしている。しかし、樽だけでも少なくとも一個1ルーブルはする。金をかけずに中身を空けさえすればいいのだ! さもないと、荷車賃が樽代ぐらいかかってしまう……。』
そこへ突然、ニシン、特に腐ったニシンは、間違いなく良質の肥料になるという考えが閃いた。そして私は、こんなにいい肥料をただで手に入れるためなら、百姓は樽を取りに来て中身を空け、よく洗った上で、樽だけを工房に届けてくれるに違いないと踏んだ。それを煙で燻せば、樽は需要が大きいからたちまち売れるだろう。こうすれば、私は半時間のうちに20ルーブル儲けられるわけである。そのうえ誰も損をしないばかりか、反対に全員が得をする。商売で損をしたグルジア人さえ、少なくとも荷車代は浮かせられるのだ。
考えをまとめた私は、グルジア人に向かってこう言った。
『もう少しベッドをまけてくれれば、樽を無料で運び出してあげましょう。』
彼は同意し、私はこの汚染源を翌朝さっそく処分する約束をした。
私はべッドの代金を払って自分の荷馬車に乗せ、ついでに開けていないニシンの樽も、百姓に見せるために一個積みこんだ。工房に帰ると、積み荷はすべて使用人たちの手を借りて物置きに入れた。
ちょうどそのとき、私のところで働いている少年たちの父親の老ユダヤ人が店にやって来た。息子たちと喋ったり、ときには仕事を手伝ったりするのが毎日の習慣だったのである。
裏庭に座って煙草を一服しているとき、ニシンを豚に食べさせてみたらどうだろう?という考えが浮かんできた。もしかすると喜んで食べるかもしれない。別に何も説明しないまま、私は老人に樽を開けるのを手伝ってもらった。
蓋が開くと、老ユダヤ人は中を覗き込んで匂いを嗅いだが、たちまち顔を輝かせて叫んだ。
『これこそ本物のニシンというもんだ! こんなニシンには長らくお目にかからなんだ。このろくでもない国に来てからはいちどもじゃ!』
私にはわけがわからなかった。ニシンを食べる習慣のないアジアでの生活がおもだったので、たまに食べることがあっても、上等なものとそうでないものとの見分けがまったくつかなかったのだ。ニシンといえばすべて同じ胸くその悪い匂いがした。そこで私は、老ユダヤ人の大げさな宣言を信用せざるをえなかった。彼が以前、ロシアのロストフの町に住んでいた頃肉屋をしており、魚も扱っていたのだからなおさらである。
けれども、まだ確信はなかったので、彼にそれは間違いではないか?と尋ねてみた。ところが、彼は芯から気を悪くしてこう答える。
『何だと? これぞ正真正銘の塩漬け○○○ニシンじゃ!』(彼がこのニシンを何という名で呼んだかは覚えていない。)
依然として半信半疑だった私は、偶然このニシンを大量に買いこんだこと、そして商売人の間では、品物を開いたときにいくらかでも即座に売れれば、それはその商いがすべてうまくゆく吉兆だとされている、ということを彼に話した。だから、朝を待たずにいますぐ、2、3本でもよいからニシンを売るべきだと言って、彼に早速それを実行に移すようにと頼んだ。
これによって老人の言ったことが本当かどうかを確かめ、それに従って行動しようとしたわけである。
工房の近所には大勢のユダヤ人が住んでおり、その大半は商人だった。もう日が暮れていたので、ほとんどの店は閉まっていた。幸い、工房の真向かいに、時計屋でフリードマンというのが住んでいた。最初に呼ばれて、彼は即座にまるまる一ダースを一本15コペイカの言い値で買い取った。
2人目の買い手は角の薬局の店主で、たちまち50本を買っていった。
買い手たちの嬉々とした口調から、老人の言葉の正しいことが読み取れた。あくる日の夜明け、私は荷車を雇うと、すでに口の開いていた2樽を除いて、全部の樽を自分のところへ運びこんだ。その2樽だけはすっかり駄目になっており、あのひどい悪臭はそこから来るものだったのだ。これはすぐに町のごみ捨て場送りにした。残りのニシン18樽は、上物どころか極上物だということがわかった。
明らかに、将校食堂の買いつけ係もティフリス生まれのグルジア商人も、ニシンなど口にしないところで育ったため、私以上には、つまり何も知らなかったのだ。あの独特な匂いを腐ったものと決めこみ、グルジア人は損失を仕方のないものと諦めたのである。
それから3日のうちに、一本につき半コペイカの分け前をもらって大喜びの老ユダヤ人の協力で、ニシンは卸しと小売りを合わせてすっかり売り切れてしまった。
それまでに私は一切の用事を片づけた。そして出発の前の晩に、このグルジア人を含めて大勢の知人たちをお別れの夕食に招待した。その席で、ニシンの商売がどんなにうまくいったかを彼に話し、ポケットから金を引っ張り出すと、利益を分配しようと申し出た。ところが、トランスコーカサスやカスピ海対岸地方の住人の間で堅持されている商いの原則を守って、彼はその金をどうしても受け取ろうとしない。
彼が言うには、私に品物を渡した時点では、それがまったくの無価値だということを信じており、もしそれが見込み違いだったとすれば、それは私の幸運にして彼の不運であり、今更私の親切心につけこむのは公正でない、と言うのである。おまけに、翌日マーヴヘ向けて発つとき、馬車に積んだ荷物の中には、このグルジア人からの羊の皮袋に入ったワインが混じっていたのである。

この風変わりな工房のエピソードのあと、数年が過ぎた。この間に私は、人生の根本目標を達成するのに必要なすべてのことに備えて、たえまなく〈仕事〉を続けていたが、それと並行して、しばしば各種の資金づくりにも励まねばならなかった。
この時期における数多くの冒険や思いもかけぬ事件は、心理学的にも実際的な観点からも、皆さんにとって興味あることかもしれないが、今夜の問題から脇道へそれたくないので、いまは触れずにおく。特に、この頃を含めた私の生涯の一時期については、そっくり一冊の本にまとめようと考えているので、割愛することとしよう。
ここでは、一定額の資金をつくることを自己課題とするようになる前から、十分な経験と自信をつけていたとだけ、申し上げておこう。そこで、この目的のために私が自分の全能力を傾けたときは(人間の努力のこの面自体は、一度も私の興味の的にならなかったが)その成果は、アメリカいちのドル経営専門家も羨むであろうほどの目覚ましいものであった。
いままでに、ほとんどの事業に手を染めただろう。ときには大事業もあった。例えば、鉄道や道路の修復、建設を、個人、あるいは官営で請け負ったこともあるし、数多くの店やレストラン、映画館を開き、経営を波に乗せては売却した。様々な地方事業を組織したり、カシガルやほかの国々からロシアへ家畜を追ったりしたこともある。油田や漁業にも手を出した。そのうえ、ときにはこうした事業を同時にいくつも進めた。しかし、私がほかの何にもまして好んだ事業で、そのうえ、定まった時間を犠牲にすることも、決まった場所や住居を持つことも必要としなかったのは、絨毯と骨董品の売買であった。
4、5年間のいわば熱病的な活動ののち、ついに諸事一切に片をつけた。そして、1913年の暮れにモスクワへ出て、自分が聖なる課題としてきたものを実現にかかったときには、100万ルーブル
(現代で考えると約20億円)の貯えのほかに、2点のこの上もなく貴重な収集品を手に入れていた。一点は古い珍しい絨毯で、もう一点は七宝焼きの磁器である
その時点では、これだけの資本があればもう財政的な問題に頭を悩ませる必要はなく、すでに私の意識の中ではっきりとしたかたちを取っていた協会の基礎となるべき諸理念を、自由に実現できるかに見えた。
具体的に言うと、本性の機械的な発現と良心との避け難い摩擦によって、人々に絶えず自分の存在の意義と目的を思い起こさせるような状況を、自分の周囲につくり出したかったのである
それは世界大戦(第一次大戦)の一年ほど前のことであった。
モスクワ、ついでペテルスブルグで、一連の講義を行った。それには多数の知識人や科学者たちが集まったが、その結果私の思想に関心を寄せる人々の輪が広がり始めた。
その後、総合的な計画に従って、さらに協会の設立へ乗り出した。
私は少しずつ、この計画の達成に必要なことをあれこれ整え始めた。特に、地所を購入し、ロシアで手に入らないものはヨーロッパ各国に注文し、器具や必需品を買い揃えた。そのうえ、自分の新聞を発行する手筈までした。
ところが、この組織づくりの真最中に例の戦争が勃発したため、私は、政治情勢が落ち着き次第続行する望みを抱きながらも、すべてを中断しなければならなくなった。
それまでに、集めた資金の半分は準備作業に消えていた。
戦争が泥沼状態になり、早期和平の望みが薄れたので、私はやむなくモスクワを離れ、コーカサスに行って戦争の終わるのを待たざるをえなくなった。人々の心が政治的な事柄に独占されていたという事実にもかかわらず、私の仕事への関心は社会の一部で広がり続けた。本気で私の思想に興味を持つ人々は、その頃私が腰をすえていたエセントゥキに集まり始めた。その中には近郊ばかりでなく、遠くペテルスブルグやモスクワからやって来る者もあった。こうして、モスクワへの帰還を待たず、その地で組織を形成することが必要な状況となった。
ところが、じきにここでも事態が悪化し、〈仕事〉はおろか、生き延びることすらおぼつかない状態になってきた。誰もみな、明日をも知らぬ身の上だったのである。
私たちの住むミネラル・ウォーターズ郡は内乱の中心になり、住民は文字どおり2つの砲火の狭間に立つことになった。
町々は毎日のように、違った勢力の手に渡った。今日はボルシェヴィキかと思えば、明日はコサック騎兵隊、あくる日は白軍か、新しくできた一派のどれかという具合である。
ときには、朝起きても、いったいその日はどの政府の支配下にあるのかわからず、道に出て初めて、いかなる政策を標榜すべきかを知るようなこともあった。
私個人にとっては、ロシアで過ごした期間中、このときが最大の精神的緊張の時期であった。
ほとんど入手不能となっていた最低限の生活必需品を獲得する思案と心配に明け暮れなければならなかった。そればかりでなく、私が世話をしている何百人という人々の命について、絶えず気にかけなければならなかったのである。
一番の心労は、私の生徒(彼らは自分たちをこう呼び始めていたのだが)のうちで兵役年齢にある約20人の境遇であった。若者は言うに及ばず、中年の男たちまでが、毎日のように、今日はボルシェヴィキに、明日は白軍に、その翌日はまだどこか別なところに徴兵されていった。
こんな持続的な緊張には、それ以上耐えられなかった。どんな代価を払ってでも、何とか脱け道を見つけ出さねばならない。
銃声がいつになく激しいある晩、隣りの部屋から伝わってくる仲間たちの不安そうな会話を聞きながら、私は真剣に思いをめぐらせ始めた。
窮境を切り抜ける道を考えているうちに、かの賢明なムラ・ナスル・エディンの格言の一つを、連想によって思い出した。これはそのずっと以前から、私にとって一種の固定観念にまでなっていたもので、次のような言葉である。
『人生のいかなる状況にあっても、常に有益なるものと、意にかなうものを結びつける努力をせよ。
ここでひとこと触れておくべきなのは、私がそれまで長年にわたって、数々の考古学的問題に関心を抱いていたということである。ついては、ある疑問を解明するため、ドルメンと呼ばれる遺跡群の位置や配列パターンを可能なかぎり調べあげる必要があった。これらの遺跡は大昔から残存していて、今日ほとんどどの大陸においても、特殊な場所に行けば見ることができる。
私はそうしたドルメンがコーカサスの各地に散在しているという確実な情報を握っていた上、科学文献によって、そのうちのいくつかは大体の場所まで知っていた。
そうした場所に体系立った踏査の手を伸ばす暇は一度としてなかったものの、コーカサス及びトランスコーカサスの山々を越える頻繁な旅のまにまに、私の根本的な目的追求に差し障りのないときを選んでは、そうしたドルメンを見に行く機会を逃さなかった。
それまでに私自身が調べた結果、黒海の東岸からコーカサス連山にかけての一帯、特に私がまだ足を踏み入れていないいくつかの峠のあたりに、大変興味深い特殊な形式のドルメンが、単独、あるいは小グループを成して存在するということがはっきりしていた。
そこで、世間から断絶し、活動を中止する状況に迫られていた私は、この機に乗じて、コーカサスのそうした地域でドルメンを探索調査する特別探険隊を組織し、それによって同時に、私と私が世話をしている人々の身柄の安全をはかる決心をした。
翌朝、思いきって全財産を処分した。そして、半ば意識的であれ無意識的であれ、ともあれ私に身を捧げ、この時期の権力者たちに何らかのつながりを持っていた数人の力を借りて、コーカサス山脈に科学調査隊を出す公式許可証の取得にかかった。
この許可証の取得に成功すると、あらゆる方策をめぐらせて、この種の旅に必要なもの一切を入手した。その上でさらに、生徒の中からミネラル・ウォーターズ郡にとどまることが最も危険な者たちを主に選んだ。そうしてあとに残る人々の生活のそなえをしたのち、私たちはある場所で落ち合う約束で、2班に別れて出発した。
この科学調査隊のうち、ピアティゴルスクから出発した第一班は12人編成、エセントゥキ出発の第二班は、私を含めて21人編成だった。
公式には、この2グループは互いにまったく独立したもので、何の関係もないことになっていた。
当時この国を支配していた諸条件を知らなければ、こんな時節に科学調査隊、まして公式のものを組織するというのがどういうことであったのか、大体のことを知るにも人一倍豊かな想像力が必要であろう。
私はまず、エセントゥキを出て、トゥアプセにほど近いインドゥール山の居住区域を通り、黒海の沿岸から25~60マイル入った地帯を、南東方向に探査するつもりだった。旅の出だしにあたっては、時の権力を握っていたボルシェヴィキ政府から、大変な苦労のすえ鉄道貨車を二両借り出すことに成功した。部隊がたえまなく移動していたため、手ぶらのものがひとりで鉄道旅行をすることすらほとんど考えられない時期のことである。
その二両に、21人全員と馬2頭、ラバ2頭、二輪馬車2台を始め、テント、食料、各種の道具や武器など、探険用に購入した大量の装備をすし詰めにして、私たちは出発した。
マイコプまではこうして旅を続けた。けれども、その前日『緑軍』とやらを名乗る新しい反乱グループが、そこから先の線路の道床をすっかり破壊してしまっていたため、探険隊は徒歩と荷馬車で前進することを余儀なくされた。それも予定のトゥアプセ方面ではなく、ホワイト・リバー峠という名で知られるところに向かうことになったのである。
無人地帯にたどり着くまでに、私たちはいくつもの居住地域を通過し、ボルシェヴィキと白軍との戦線を5回以上も越えなければならなかった。
そうしたほとんど名状し難い苦難を思い出すたびに、もうすべてが終わった過去の記憶でしかないにもかかわらず、私はそれを無事に克服したことに心の底から満足を覚える。まったくの話、その期間中ずっと、私たちのために奇蹟が起こったかのようだった。
周囲の人々を総なめにした狂信と憎悪の病いも、私たちには触れもしなかった。私と仲間たちは、超自然的加護のもとにあったと言ってもいいだろう。
どちらの側に対しても、この世ならぬほどの公平な態度で臨んだため、私たちに対する向こうの態度も同様で、私たちを完全に中立のものと見なしてくれた。実際に中立だったのだが。
些細な獲物のために、いつでも相手を八つ裂きにしようとしている激昂した獣のような者たちに囲まれながら、私は何一つ隠しだてしたり、ごまかしの手口を使ったりせず、この渾沌の中を公然と大胆にかき分けて通っていった。さらに、『徴用』という名の略奪が最高潮に達していたのにもかかわらず、私たちは何一つ取り上げられずにすんだ。ひどい品不足で誰もが羨む2樽のアルコールさえ、その例外でなかった。
いま皆さんにこの話をするにつけ、今は大部分この世の人ではないであろうボルシェヴィキ及び白軍の義勇兵の面々に、賛辞を述べずにはいられない。このような事件に巻きこまれた人々の精神を理解した上での、正義感に基づいた賛辞をである。たとえそれが無意識的、あるいはまったく本能的なものであったにしても、私の活動に寄せた彼らの善意は、私のこの危険な企てに好運な結果をもたらす一助となった。
まったく、あの文字どおり地獄としか言いようのない状況から、無事に脱け出すことができたのは、こうした精神異常状態にある人々の心理的弱みのうちにわずかな変化を読み取り、それを利用する私の練達の才によるばかりではなかった。こうした事態にあっては、日夜、最大限の積極的警戒をしたとしても、思わぬ出来事のすべてを予測して、それ相応の手を打つことはできなかったのだ。
私の見るかぎり、私たちが無事脱出できたのは、そうした人々(理性の最後のかけらも消え失せるような精神状態に駆りたてられていた人々)の存在全体の中で、客観的に善悪を区別する人間の遺伝的本能が、完全には欠落していなかったためであろう。そのため、私の諸活動から、人類に真の幸福をもたらしうる、唯一の聖なる推進力の生きた萌芽を本能的に感じとった彼らは、できるかぎりの手をつくして、私がこの戦争の遙か以前から取り組んできた目的を達成する後押しをしてくれたのである。
ボルシェヴィキとの交渉においても、白軍義勇兵たちとの交渉においても、私が何らかの脱け道を見いだせない状況は一度もなかった。
ちなみにここで、もし将来いつの日にか人々の生活が正常に復し、あの当時ロシアで起こったような出来事を研究する専門家が現れたときのために、私がとっておいた書類の一端を紹介しておきたい。これらは私の事業や所持品を守るために、互いに相反する2勢力から発行されたものであり、こうした集団的精神異常の際に生ずる驚くべき出来事について、実に教訓的な証拠を提供してくれるであろう。
例えば、こうした無数の書類の中に一通、片面にこう書かれた文書がある。

 所持者、市民グルジェフは、どこへでもピストルを携行する権利を有する。
  口径○○○○
  製造番号○○○○
   右、署名捺印をもって証明する
    秘書官 シャンダロフスキー
    兵士および労働者代理人総代 ルーカッゼ
                 発行地 エセントゥキ
                 発行年月日○○○○

ところがこの文書の裏にはこう書いてある。

 グルジェフ某が、裏面に記載された製造番号のピストル一丁を携行する権限を認める。
  右、署名捺印をもって証明する
    デニキン将軍代理 ヘイマン将軍
    参謀長 ダヴィドヴィッチ・ナシンスキー将軍
                マイコプ発行
                日付 ○○○○

すさまじい努力によって、数々の予期せざる障害を乗り越えた私たちは、荒れ果てたコサックの村々を通過し、コーカサス山脈の荒地へ入る前の最後の居住地であるクミチキにようやく到着した。ここから先は通行可能な道路はない。
クミチキで、まだ入手可能な食料を急いで片っ端から調達し、荷馬車を放棄して馬とラバに荷物の大半を積んだ上、残りは私たち自身で担いで、延々と続く山々を登り始めた。
最初の峠を越えたところで初めてひと息つき、最大の危険を後にした喜びにひたった。ところが、旅の本当の苦難はまだ始まったばかりだったのである。
この探険行において、コーカサス山脈の荒地を渡り、クミチキからホワイト・リバー峠を越えてソチヘ出る部分、すなわち不思議な、異常とさえ言える冒険に満ちた約2ヶ月間の旅については、ここでは触れないことにしよう。私のところへ達している情報によれば、これらの山々のほとんど通行不能な荒地を抜けたわれらの『地獄の中心からその縁へ』の脱出行、およびドルメンをはじめこの地域の有形無形の文化財に関する私たちの実りある調査については、この無類の科学探険隊に参加し、その後ロシアに戻って今は他の世界と隔絶されているメンバーたちによってすでに書きおろされ、間もなく出版されるはずだからである。
この旅で私のまわりに集まった一団は、まったく思いがけないことながら、これ以上探険の目的にふさわしいものは望みえないほど、様々な専門にわたる様々な種類の人たちで、ドルメンに関する問題を解くのに大きな力となった。その中には、科学の各部門において熟達した技術者や専門家がいた。鉱山その他の技師や、考古学、天文学、動物学、医学をはじめとする様々な学問分野の専門家たちである。
ここでは、この旅の途上で受けたすべての印象のうち、クミチキからソチにかけての一帯の景観、特に峠から海を見おろす景観が、最も卓越したものであったとだけつけ加えておこう。これこそ実に、いわゆる知識人たちがしばしばコーカサスの他の地方に当てはめる、『地上の楽園』という大げさな形容に値するものである。
この一帯は、農耕地帯及び行楽地として最適な条件をそなえ、人口密集地からもそれほど遠くないのに、この種の土地の需要が高まりつつある今も、なぜか無人で未開発のまま残されている。
以前はチェルケス族の居住地であったが、40~50年前に彼らがトルコへ移住してからのちは、見捨てられたまま誰ひとり足を踏みこむ者がないのである。
旅の途上、ときどき、よく耕されたかつての農地やすばらしい果樹園に出くわした。育ち放題に野生化しているものの、依然として何千人もの人々を養うに十分な実りを見せていた。
さて、2ヶ月あまりのち、疲労困憊し、ほとんど食料の尽きた私たちは、ようやく黒海のほとりにあるソチの町にたどり着いた。
探険隊の一部メンバーは、『ゴルゴタの道』とも言うべきそれまでの行路に耐えられず、私たちの前途に掲げる高邁な目標にふさわしからぬ性質を表していた。そのため、私は、ここで彼らと袂を分かって、残りの一行と旅を続ける決心をした。そこからは普通の道路を通って、グルジア人のメンシェヴィキ民主主義者たちによる支配のもと、あの騒々しい時期にあって比較的秩序を保っていたティフリスの町へ向かった。
モスクワで協会設立に着手してからティフリス到着までには、4年の月日が流れていた。時とともに金も消えていた。この時期の終わりにかけて、協会の仕事ばかりか、当初の計算にはなかった多くの名目で出費がかさんだため、その速度はなおさらであった。問題は、ロシアにおける破滅的な事件と、途方もない変動、戦争、内乱によって、人々の日常生活が根底から覆されたため、何もかもが混乱し逆転して、昨日は裕福で安泰だった者が、今日はまったくの貧苦をかこつ身になったことだった。これはほかでもない、すべてを捨てて私の思想に従い、誠実さとそれに見合った行動によって、この時期に私の近親同様になった多くの者たちの身の上でもあった。そこで私は、今や200人近い人々の生活の手段を講じなければならない羽目になっていたのである
こうした私の困難に拍車をかけたのは、親類縁者の多くが人一倍ひどい状況に置かれており、私がその経済的援助はもとより、彼らの家族全員にねぐらを与えなければならなかったという事実であった。内乱とトルコ軍によって完膚なきまでに荒され、略奪されたトランスコーカサスの各地に、彼らのほとんどが住んでいたからである。
一般に浸透していた恐怖を思い描いていただくため、私が目撃した無数の光景の一つを皆さんにご紹介しよう。
これは私がまだエセントゥキにいた頃、生活がまだ比較的平静だったときの話である。
私は、自分の親戚と私の思想の追従者たちのために、2つの『共同住宅』を維持していた。一つはエセントゥキにいた85人のため、もう一つはピアティゴルスクにいた60人用である。
すでに高騰していた生活費は、さらに毎日のように上がってゆく。そのため、多額の資金をもってしても、2つの家に食料を供給するのはますます難しくなり、やっとのことで食いつなぐという有様だった。ある雨の朝、窓のところに座って外の道を眺めながら、あれもこれも手に入れるにはどうしたらいいものかと思案に暮れていると、おかしな恰好をした乗りものが2台、玄関の前に着いて、中から黒々とした影がいくつもゆっくりと現れた。
最初はそれが何なのかまったく見当がつかなかったが、心の乱れが鎮まるにつれて、だんだんとそれらの影が人間だということがわかった。いやもっと正確に言えば、目だけをらんらんと光らせ、ボロや屑をまとい裸足を一面傷だらけにした人間の骸骨である。一行は全部で28人、そのうち一歳から九歳までの子どもたちが11人だった。
その人々はなんと私の親戚で、6人の幼な児を連れた実姉まで混じっている。
彼らは、2ヶ月前にほかの場所同様にトルコ軍に襲われたアレキサンドロポルに住んでいたのだ。郵便も電報も不通になっており、町々は互いに孤立状態にあったために、襲撃の知らせをアレキサンドロポルの住民が聞いたのは、すでにトルコ軍が市街から3マイルのところに迫っているときだった。当然この知らせは言語に絶する大混乱を引き起こした。
疲労と緊張の極限ぎりぎりにあるときに、自分たちの軍勢よりも強く、装備の勝った敵が間違いなく町に攻め入り、土地のしきたりで男たちはもちろん、女、老人、子どもたちまで容赦も見境もなく虐殺するとなったらどんな気がするものか、皆さん自身で思い描いていただきたい。
そんなわけで、ほかの人々と同じく、ほんの一時間前にトルコ軍の接近を知った親戚たちは、取るものも取りあえず、混乱におちいって命からがら逃げ出した。
うろたえきってでたらめに飛び出した彼らは、最初、見当違いの方向へ逃げた。くたびれ果ててそれ以上進めなくなったときに、初めて幾分我を取り戻し、間違いに気づいてティフリスに向かったのである。
飢えや寒さと戦いながら、ほとんど通行不能に近い山々を、ときには四つん這いにまでなって越え、長く苦しい20日間ののち、半死半生でようやくティフリスにたどり着いた。
私がエセントゥキにおり、交通がまだ閉ざされていないことをその地で聞いた彼らは、友人たちの力添えでなんとか幌つきの荷馬車を2台雇った。そして、いわゆるグルジア軍用道路をやっとの思いで通り抜けて、いま言ったように、誰が誰だか見分けもつかないような状態で私の家の玄関に立ったのである。
そんな光景を目にして、当時の極端な難局にもかかわらず、彼らにねぐらを与え、服を着せ、面倒を見て独り立ちさせてやれるのは、事実上自分だけだと考えた男の立場をお察し願いたい。
こうした予期せざる出費の数々に、探険の費用、ミネラル・ウォーターズの町々に残した者たちの生活費が重なって、私が多勢を引き連れてティフリスに着くまでには、さしもの貯えもすっかり底をついていた。持ち金が消えていたばかりではない。休む間もない移動の間ずっと妻と私が持ち運んできた貴重品までなくなっていたのだ。
長年にわたって収集したそのほかの貴重品については、一部は、ロシアでの混乱が始まった頃、2つの首都におり、のちに家族もろともエセントゥキの私のところへ身を寄せた生徒たちの手によって処分された。前述した2点の珍品を含む残りは、すべてペトログラードとモスクワに置き去りになったまま、どうなったのか見当もつかない。ティフリスに着いて2日目には、私はポケットに一銭もないという事態におちいった。そこで、やむなく一人の生徒の妻君に、およそ一カラッ卜半のダイヤモンドがはめこまれた彼女の最後の指輪を貸してくれるか、でなければいさぎよく寄付してくれるように懇願し、さっそくそれを売却して、その晩全員が食べものを口にできた。
昼と夜で途方もない温度差があるコーカサスの山中で、私が病気にかかったため、事態はいっそう困難になった。べッドで休むどころか、40度の熱を出しながら、なんとしてでもこの絶望的状況を打開するために町中走りまわらなければならず、容体は悪化する一方だった。
土地の商業事情を一通り調べて、トランスコーカサス全域に及ぶ一般的な不景気にもかかわらず、新旧の東洋風絨毯の取引だけは依然として繁盛していることを見てとった私は、直ちにこの商売に身を投ずる決心をした。
一緒にやって来た人々と、長いことそこに住んだことのある親戚の者たちの中から何人かそれにふさわしい者を選び、彼らに補佐の仕方を教えこむと、私は即刻、本気で絨毯業を始めた。
助手のうちの何人かはティフリスとその周辺の町々をまわり、あらゆる種類の絨毯を探しては買い上げた。第二班はそれを洗い、掃除し、第三班が修繕を引き受ける。それがすんだ絨毯を選り分けて、あるものは小売りに、あるものは卸売りに出す。地元の取引もあったし、コンスタンティノープルへ輸出されることもあった。
三週間目を迎える頃には、この絨毯業は私たち全員が生活していけるばかりか、さらに大金が残るほどの収入をもたらし始めた。この利益と、明らかにそれを上まわる商売の見通しによって、平和が回復してモスクワへ帰るのを待たず、この地で一時的に協会を設立しようという欲望が私の中に湧き上がってきた。ティフリスに協会の支部を開く気持ちはずっと持っていたから、それはなおさらであった。
そこで絨毯業のかたわら、私は協会設立にとりかかった。しかし、当時のティフリスの大変な住宅難からして、援助なしで私の目的にかなう住居を見つけることは不可能だということがすぐにはっきりしたので、グルジア政府に協力を要請した。グルジア政府は私に歩み寄って、私が『大衆的意義を持つかくのごとき重要な施設にふさわしい』建物を見つける援助を惜しまないように、そしてそれが見つかったら完全に私の自由にさせるように、とティフリス市長に命じた。市長自身と、私の仕事に関心を寄せる市議会のメンバー数人が、必要な建物を探すために大変骨を折ってくれた。しかし彼らの善意にもかかわらず、なかなか適当な建物は見つからず、結局、すぐにより適切で恒久的な場所に移るという約束で、一時的な住居をいくつか提供してくれることになった。
こうして、私は3度目の協会の組織に着手し、まず初めに、必要な家具や設備を揃えるというお決まりの仕事にかかった。
ここティフリスの住民たちの多くが、生活条件の変化に大きな影響を受けて、ほかの価値を求める必要を感じていた。その結果、協会の開設から一週間も経たないうちに、一時的に家屋で始まった特別クラスはすべて満員になり、もっと大きな建物が見つかり次第始めようと考えていたクラスにも、定員の2、3倍に及ぶ予約名簿ができていた。
どう見ても不都合で、極めて忍耐を要するこれらの家屋において『自己にかかわる〈仕事〉』が活気を帯び始めた。生徒を別々なグループに分け、時間も朝、午後、夜、そしてときには深夜と振り分けて、数ヶ月間学習が続いた。
ところが、政府は毎週毎週、約束の建物の件をはぐらかし続け、不適当な家屋で仕事を続行することにだんだんと無理が生じてきた。そこで、ボルシェヴィキのグルジア進攻によって日常生活の厄介さが倍増し、グルジア政府自体も危なくなったのを潮時に、私はとうとう周囲の状況との葛藤に時間とエネルギーを浪費するのをやめた。ティフリスにおける一切合財を整理するばかりでなく、そのときまで私をロシアに縛りつけてきたすべてと訣別し、国外へ移住して、どこか他の国で協会を設立する決心を固めたのである。
私はティフリスの協会のために入手したあらゆるものを二束三文で売り払い、あとに残る者たちに出来る限りの備えをした上で、大変な困難の末、30人の人々を連れてコンスタンティノープルへ発った。
ティフリスを離れるまでに、絨毯の売り上げは相当な額に達していた。私の計算では、後に残る人々に生活費を渡し、旅費を差し引いても、コンスタンティノープルに着いてしばらくは十分やっていけるはずだった。
ところがなんと、私たちはグルジア人という奴を忘れていたのだ! 彼らのおかげで、私たちは文字どおり額に汗して稼いだ金を使うことができなかったのである。
そのわけは、当時この地方の通貨は国外価値がなく、どこに持って行っても交換できなかったことにある。そこで外国へ出る者は、通貨のかわりにダイヤモンドか絨毯を携行した。私もそれにならって、金のかわりにいくつかの宝石と20枚の珍品の絨毯を持って行くことに決め、輸出に必要なすべての公式手続きをすませたのち、同行する人々にそれを分配した。
ところがバツーミを発つところで、関税その他一切が支払いずみだという証明書があるのにもかかわらず、特別グルジア分遣隊とやらが、何のかんのと口実をつけて、私が一行の間に分配しておいた絨毯のほとんどを、一時預りという名目でまったく不法に押収してしまった。あとになってコンスタンティノープルでそれを取り戻す手続きを踏んだときには、バツーミはボルシェヴィキに占領されており、不埒な分遣隊は上官もろとも蹴散らされて、むろん絨毯の行方などつかみようもない。20枚のうちで無事だったのは、フィンランド領事館が協会のフィンランド人メンバーに委託して、外交便で送ってくれた2枚だけだった。
そんなわけで、コンスタンティノープルに着いた私は、結局、ティフリス到着時とほとんど同じ状況に立たされていたのである。
私の手元にあったのは、小ぶりのダイヤモンド2個と、残った2枚の絨毯だけだった。それをいい値で売ったとしても、これほどの一団がそう長いこともちこたえられる金は期待できなかった。全員が服を必要としていたからなおのことである。ティフリスでは服が手に入らず、どれもこれもボロボロになっていた私たちの衣裳は、多少なりとも生活が正常だったコンスタンティノープルでは着て歩けるような代物ではなかった。
しかし、幸運が味方した。さっそく、いくつかのうまみのある商取引にぶつかったのである。
とりわけ、旧友、および同郷人と共同でやった大量のキャビアの転売が当たった。それに、ある船の売却にも加わった。こうして、私の財政はいま一度好転したのだ。ティフリスにいる間に、私はロシアを協会の活動の恒久的な本拠地にするという考えをきっぱりと捨てていた。しかし、ヨーロッパの生活状況をまだ十分知らなかったため、どこに落ち着くかについてははっきりした計画がなかった。けれども、地理的な中心であること、及び、しばしば聞かされていた文化レベルの高さから、ドイツが私の目的に最もふさわしい国ではないか?と考えていた。
しかし、『アメリカに叔父を持たない者』の悲しさで、金という永遠の問題によってコンスタンティノープルに足止めをくらった私は、さらに数ヶ月の間、ありとあらゆる取引に専念して、旅を続行するための現金をつくらなければならなかった。その間、一緒について来た人々が〈仕事〉を継続できるように、コンスタンティノープルのヨーロッパ人の大勢が集まっているペラという区域に、ただ一つ空いていた大きな家を借りた。そして商売の暇を見ては、ティフリスで始めた聖体操のクラスを教え、生徒たちが部外者の前であがらないように、毎週土曜日には公開実演を行うことにした。
実演を見に大挙して集まってきた地元のトルコ人、ギリシア人たちは、聖体操やその伴奏として私が作曲した音楽に、また生徒たちがドイツでの協会の仕事にそなえて取り組んでいる様々な活動に、多大の関心を示した。そのため、参加の許可を求める訪問者たちの要請が絶えなかった。しかし、それと同時に、ヨーロッパ全般の不安定な状況は私の計画を脅かし続けた。政府間の不信が外国への査証取得を非常に難しくし、また換金レートにも日々大幅な変動があったからである。
そこで私は、コンスタンティノープルで活動範囲を広げることに決めた。そのためには基本理念のいくつかの面を解説する公演を計画し、それぞれ科学と関わりを持つ聖体操、音楽、絵画という、人間の表現の3分野を研究する講座を開いた。こうして私は再び熱病的な活動のさなかに飛びこんだ。資金づくりの方は、コンスタンティノープル、及びボスポラス海峡を挟む対岸のカディコイで、あらんかぎりの方策をつくしたが、そのためには毎日のように船で海峡を渡らなければならなかった。残りの時間はすべて、今やおびただしい数の新入生が参加する各クラスに捧げた。おかげで、特別に訓練した生徒たちに読ませる連続公演の草稿は、渡し船の行き帰りか、市電の中でしか書く暇がない有様だった。
この熱病的活動は、待ちに待った査証が到着するまで約一年続いた。それまでに、金の流出によってできた慢性的なポケットの穴は、ようやくなんとかふさがり、何がしかのものが折り目にたまり始めるようになった。
ちょうどトルコ人の反抗分子たちの半可通が鼻につきだしたこともあり、そうした半可通に付随して現れる様々な楽しみを待たずして、私は五体満足なうちに一行共々早々に引きあげる決心をした。そこで、すばやくクラスをカディコイに移し、生徒のうち最も優秀な者たちを指導的な地位につけた上、私はドイツへ発った。
ベルリンに着くと、同行の全員をホテルに分宿させ、同市のシュマーゲンドルフという一画に〈仕事〉を続けるための大きなホールを借りた。そうしてすぐさまドイツ国内を周遊し、知人たちが協会の建物にと探してくれたところを見てまわった。
いくつかを見た結果、最後に、ドレスデンの町に近いヒレラウにあるかなり大規模な家を選んだ。これは最近話題のダルクロッツ・システムと呼ばれる新しい文化運動のために、特別に設計設備されたものであった。
この家と施設が、協会本部の設立や後々の発展にほぼふさわしいと見たので、これを確保する決心をした。ところが、持ち主と交渉を進めているところへ、私の思想に興味を持つイギリス人グループから、協会の本部をロンドンに置かないか?という申し入れがあった。そのうえ、設立に関する費用や実務はすべて彼らが処理してくれるというのである。
各国における持続的危機によって引き起こされ、私にも、私に関係を持つ人々にも同様な影響を及ぼしていた不安定な経済状況に鑑みて、私はこの申し出に惹かれた。そして、この目で現地の状態を確かめるためロンドンへ渡った。
ベルリンで指導している〈仕事〉の進展が私にとって大きな重要性を持っていたため、長期間留守にすることは好ましくなかった。また、イギリスからの申し出に関する問題のすべてを短期間では解決できなかったことから、私は2、3週間に一度、何日かロンドンへ通うことにした。そして、そのたびに違ったルートを使って、ヨーロッパのほかの国々についても知ることができるようにした。
こうした旅の観察によって、協会設立に最適の地は、ドイツでもイギリスでもなく、フランスだという結論に達した。
フランスは、当時、政治的にも経済的にも他よりも安定した国だという印象を受けた。それに、地理的な中心という点ではドイツに劣るものの、その首都パリは世界の首都と見なされていた。つまりフランスこそ、地球上のあらゆる人種及び国家の交差点だと思われたのだ。したがって、私の目にはこの国こそ、私の諸理念の普及に最もふさわしい基地のように見えた。
島国のイギリスには、そのような発展の可能性はない。そこに協会を設立しても地方組織という狭隘(きょうあい)な性格をまぬがれなかっただろう。
そういうわけで、何度目かにロンドンを訪ねたとき、私はその地に中央機関を設立することをきっぱりと断った。ただし、協会のイギリス支部ができるまで、特別に養成した指導員や一定数の生徒たちをイギリスに送りこんで、滞在させるという約束をした。
話を省略すると、私たちは1922年の夏にフランスへ到着した。
そこで旅費の残りを数えてみると、私の手元にはわずか10万フランしかない。
パリで生徒たちのための宿舎を手配したのも、私は〈仕事〉を続けるための一時的な会館として、ダルクロッツ研究所を借り、その上で家と、協会設立の資金を求め始めた。
長い調査のすえ、パリ近郊で検分したたくさんの家のうちで最も適当なのは、有名なフォンテーヌブロー城にほど近いプリュウレ館だということになった。
高名な弁護士からこれを受け継いだものの、多額の維持費に音を上げてできるだけ早く処分したがっていた家主は、貸すよりは売る方を望んだ。何人か買い手の見込みがあった彼女は、私との交渉を長びかせ、昨今の気象学者なら『雪または雨、もしくはほかのどれか』とでも表現するであろう傾向を示した。私の方はおわかりのとおり、その時点における資金の涸渇から、購入の可能性はなかった。
延々と遠まわしな話をして、たくさんの条件をつけたあげく、最後に家主は、地所の売却を一年間延期し、その期間中、邸宅を6万5千フランの家賃で私に提供することと引きかえに、買い取るかどうかを決断するまでに6ヶ月の猶予をくれることを承諾した。それ以後は、彼女が別な相手に地所を売る権利を持ち、売れた場合、私はすみやかに立ち退かなければならない。プリュウレ館をこうした条件で賃借した私は、さっそく翌日、50人の生徒たちと共にこの屋敷に引っ越した。1922年10月1日のことである。その日以来、私にはまったく馴染みのない特殊なヨーロッパ的状況のもとに、人生で最も気違いじみた時期の一つが始まった。
プリュウレ館の門をくぐったときには、年老いた門番の後ろから、『深刻な問題』という名の女性が迎えてくれたような気がした。私の10万フランはすでに最後の1スーまで、一部は家賃に、一部はこれだけの大所帯が3ヶ月間パリで暮らす生活費に、風と散っていた。そのうえ今度は、この一団を養い続けるほかに、内装や設備に巨額の金を注ぎこまなければならないという差し迫った必要に直面しなければならなかった。館内の家具もその他の備品も、これほど大人数の住人用には揃っていなかったからである。ロンドン支部がまだ開設していなかったため、イギリスからも多数の生徒たちが合流することになっていたのだ。
そのうえ面倒だったのは、パリ到着時、私が西ヨーロッパの言葉を一つも話せなかったことである。
言葉の問題は、バツーミを発つ時すでに私を悩ませ始めていた。しかし、コンスタンティノープルでは何の心配もいらなかった。主としてそこで使われているトルコ語、ギリシア語、アルメニア語は、みな私のよく知っているものばかりだったからである。けれども、コンスタンティノープルを離れてベルリンに着くとともに、この面で大きな困難が生じ始めた。そしてここパリで、またしても途方もない出費をまかなう方策を見いだす必要に迫られるにつけ、ヨーロッパ各国語を知る欲求を私はいままで以上にひしひしと感じたが、いかんせん言葉を覚える暇など、片時もなかった。通訳つきで商売をするのはほぼ不可能に近かった。特に、相手の気分を察知し、その人の精神状態につけこまなければならない商取引では、それはなおさらである。どんなにうまい通訳がついても、せっかくの効果を、翻訳に必要な長い間合いが台なしにしてしまう。そうした交渉において常に重要な役割を果たす、声の抑揚をつけることなど望むべくもない。
それに、私にはいい通訳がいなかった。この問題に関して、私の力になってくれるはずの人々がみな他国の出身で、外国人、特にロシア人一般の程度にしかフランス語を知らなかったからである。つまり、いわゆる客間の会話に間に合わせるのが関の山だったのだ。それもフランスの客間ではない。ところが、この時期全体にわたって、真剣な商談のための完璧なフランス語を私は必要としていた。
フランスにおける最初の2年間、自分の言ったことが正しく通訳されていないと感じたときに浪費した神経的エネルギーの総和は、ニューヨーク株式取引場に立った皆さんの新米ブローカーの100人分に優に匹敵するものであったに違いない。
プリュウレ館に移り次第、すぐには稼ぎきれない相当な額の内装費が早急に入り用になるという事実に鑑みて、私は差し迫った必要を満たすための借り入れ金のあてをたずね始めた。私の考えは、協会の仕事を、当面のところ、私が時間の半分を資金づくりにまわせるように組織して、借り入れ金を少しずつ返却しようというものであった。
この借り入れの話はロンドンでまとまり、かの地で私は協会に関心を寄せる様々な人々から金を借りた。それに先だつ15年前に私は自分自身に対して基本原則を課したが、それに外れたのはこの時がはじめてだった
その原則とはすなわち、外側からいかなる物質的援助も受けず、仕事の完遂に自ら全面的な責任を取るというものである
莫大な出費や、自分の過失ではなく当時の政治経済状況がもたらした失敗や損失にもかかわらず、そのときまでに、私は誰に一銭の借りもしなかったとはっきり断言できる。何もかも、私自身の労働のなせるわざだったのだ。友人たちや、私の思想に関心を持ったり共感したりする人々が、金銭的援助を申し出てくれたことは数知れなかった。しかし、私は窮地にあるときでさえ、原則にそむくよりは、自分自身の努力で障害を乗り越えることの方を選び、いつもそれを辞退してきた。
この借り入れ金によって、プリュウレにおける目前の困難が緩和されたので、私は猛然と仕事にとりかかった。この時期の私の務めは、まったく超人間的なものだったと言ってよかろう。ときとして、私は文字どおり24時間ぶっ続けで働かねばならなかった。夜どおしフォンテーヌブローで、そして日中はずっとパリで働いた。あるいは、その逆である。列車で往復する時間すら、通信や交渉に当てなければならなかった。
こうして仕事はうまくいったものの、8年間にわたる不断の労働に引き続く、何ヶ月もの過度な圧力は、健康が著しく脅かされるほど私を衰弱させた。必死の願望と努力にもかかわらず、そうした激務をそれ以上持続することはできなくなった。
数々の障害が私の仕事を妨げ、制限した。惨めな健康状態、言葉を知らずに商売上の交渉を進める難しさ、昔からの法則どおり、
友の数に正比例して増えた敵の数である。それにもめげず、私は最初の6ヶ月の間に、予定の大半の仕事を達成しおおせた。
皆さん方アメリカ人の大部分にとって、特に現代では、思考の流れを刺激する唯一の効果的なイメージは、おなじみのバランスシート(貸借対照表)だけである。そこで、私はせめてここで、プリュウレ館に入ってから、今回皆さんのアメリカへ出発するまでの間にまかなった出資を、簡単に列挙してみたいと思う。
支出の大要は、次のとおりである。

 広大な地所の土地代半分と、隣接した小さな地所を買うための相当額。
 協会の当初の内外装および設備費の全額。それには次のようなものが含まれる。
   修理、改造、地所の整備
   種々雑多な材料、道具、農機具、および医療部門のための器械、装置などの購入
   馬、牛、羊、豚、家禽類など家畜の購入

このすべてに加えて、特に聖体操と実演を目的とする建物の建設、内装、備品にかなりの費用がかかった。ある者はこの建物をスタディ・ハウスと呼び、ある者は劇場(シアター)と呼んだ。
最後に、私はこの間、協会の来客や生徒たちの必要をまかないながら、契約のどおり借り入れ金の一部を返済することに成功したのである。

この時期における最大の収入源の一つは、アルコール中毒と薬物中毒の難治患者に施した心理学的治療であった。私はこの分野で最高の専門家の一人として広く認められ、不幸な患者たちの家族は、時として私の治療に大層な額を支払ってくれた。とりわけ、不治と診断された息子を託した裕福なアメリカ人夫婦が、その治癒に感激して約束の2倍の謝礼を払ってくれたのを覚えている。
それに加えて、私は何人かの実業家と共同で、いくつもの金融投機を企てた。例をあげると、ある石油株をまるまるひと組、思いもよらない高値で転売し、かなりの利益を得た。
そのほかに、共同経営者と一緒に、相次いで2つのレストランをモンマルトルに開いて、いい儲けを上げた。これは2、3週間で開業し、うまく軌道に乗ったところですぐ売却したものである。
いま思えば、あの時期の様々な努力の結果を、これほどやすやすと列挙できるのは不思議なくらいである。当時はそのどれをとってもみな、全身全霊をかき乱し、私の諸力にすさまじい緊張を要求する内的経験を伴っていた。
この間、朝の8時に仕事を始めると、夜の10時か11時になるまで休む間もなかった。そのあと、夜の残りの時間はモンマルトルで過ごした。それは例のレストラン事業のためばかりでなく、毎晩その一画で酔っ払うが、治癒を望まず大変な苦労をさせたあるアルコール中毒患者の治療にあたる目的もあった。
夜な夜なモンマルトルに出没していたこの時期の私の外面生活は、私を知っていた、あるいは私のことを見たり聞いたりしていた大勢の人々に、ゴシップの好材料を提供したことを申し上げておこう。ある者は陽気なお祭り騒ぎのできる私の身分を羨み、ある者は非難の声を上げた。私に言わせれば、あんなどんちゃん騒ぎは、親の敵を懲らしめるためにでもご免蒙りたかったところだ。
つまるところ、私には、プリュウレの財政問題に確実な解決を見いだす早急な必要性と、こうした慢性の物質的配慮から自由になろうという願い、そして自分の本来の仕事、つまり協会の基盤である思想や方法論を教える仕事に完全に没頭したいという願いがあった。何ともし難い様々な状況によって、年々成就が延期されてきた願いである。こうしたすべてのことが、災難を招きかねないという事実を度外視して、私を超人間的努力に駆りたてた。
ところが、中途でやめることをいさぎよしとしない気持ちに反して、私はまたしても、それさえ整えば協会の基本的課題達成が可能になるはずの準備が完全に上手くいくのを目前にしながら、すべてを中断せざるをえなくなってしまった。
この時期の最後の数ヶ月にかけて、私の健康状態は惨憺たる有様となり、労働時間を短縮せざるをえなくなった。そのうえ、それまでに一度もかかったことのないような病気に冒され始めた。これには正直なところ私も心配になって、精神的なものも肉体的なものも含めて、活動的な仕事は一切やめる決心をした。ただしそれでも、ある日ひどい風邪のおかげで、いやおうなしに何もかも中止させられるまではずっと引き延ばしていた。
そのときの状況は描写に値する。
ある晩私は、いつもより早目に10時頃パリで仕事を終えた。翌朝は技師が来て、私の計画していた特殊な蒸し風呂の設計と見積りについて話し合う予定があり、どうしてもプリュウレに帰っていなければならなかったので、私は思いきってまっすぐプリュウレヘ戻り、ぐっすり眠ることに決めた。そこで、どこへも寄らず、市内のアパートも素通りして、フォンテーヌブローへ向かった。
それはジメジメした日で、私は車の窓を閉めきった。道々、気分は大変爽快で、長年の夢だった古代ペルシア式の製陶窯を協会につくる計画を練り始めたほどだった。
フォンテーヌブローの森に近づきながら、私は心の中で、天気の悪い日によく霧のかかるところをもうすぐ通るな、と思った。時計を見ると、11時15分である。私は大きい方のヘッドライトを点け、その場所をすばやく通り抜けるためにアクセルを踏みこんだ。
それからあとは、どう運転したのか、何が起こったのか、まったく覚えていない。
気がつくと、次のような光景が目に入った。私は路上に停まっている車の中に座っている。周囲は森で、太陽がさんさんと輝いている。車の前には干し草を積んだ大きな荷馬車が停まっていて、御者が窓を外から鞭でゴツゴツ叩いていた。この音で目が覚めたのだ。
どうやら、夜、時計を見たあとで私は一キロほど走り、それから自分の意志に反して眠りこんでしまったらしい。そんなことは生まれてこのかた初めてだった。そうして、そのまま朝の10時まで寝ていたのだ。
幸い、車はフランスの交通法規にほぼ合致した場所に停まっていたため、朝の車の流れも私の眠りを妨げずに通り過ぎたに違いない。ところが、この荷馬車だけは大きすぎて、御者が私を起こさなければならなかったのだ。
そんな奇妙な状況でぐっすり眠ったものの、その夜引きこんだ風邪はいまでも影響を残しているほどひどいものだった。
それ以来、押しても叩いても、自分の体に無理をさせることはできなくなってしまった。
そのため、否応なく、一切の事業を中断しなければならなくなり、おかげで協会は極端な危機に立たされた。必要不可欠な債務を果たすことが不可能になったばかりではない。すでに達成ずみのものまですべて、この破綻によって脅かされたのである。手形の支払い期日が来ても、誰ひとり私にかわってそれを処理する力がなかったのだ。何とかしなければならなかった。
ある日、外国人の間でよく知られているグラン・カフェのテラスにすわって、現状について、また自分の健康がそれにどんな影響を及ぼしているかについて思案しながら、次のように考えた。
『いまの状態では、これほど大変な課題をこなすだけの激務はできないし、しばらくはそうすべきでもない。むしろ反対に、一時的にでも体を休めなければいけない。だとしたら、完全に準備が整うのを待たずに、いますぐ予定のアメリカ行きを実現したらどうだろう?
北アメリカの各州を巡れば、持続的な旅と環境の変化によって、日常的状況から離れ、常に新しい印象を受ける。その旅が、私の確固たる主観性に合致する完全な休息の必要条件を整えてくれるだろう。
それには、現在の関心が集中した場所から遠ざかることによって、また野蛮な国々を頻繁に旅した時期における度重なる経験を通して知りつくしている、自分の性格のある一面からしばらく自由になることによって、拍車がかかるに違いない。四つ足であれ二本足であれ、神の創りたもうた者たちから〈優しい仕打ち〉を受けるたびに、打撃がどんなにひどくとも、ほんのわずかでも回復すると、私の性格のこの一面が私を駆りたてるため、何とかして必死で立ちなおり、すぐさま手元の問題に飛びこんでしまうのだ。』

アメリカ行きの準備完了を待たない、という言葉の意味を皆さんに理解していただくには、フランスで協会が最初に組織されて、私が協会の根本理念や、その理念の様々な分野への応用を公開する、 一連の講義を用意し始めた時のことをお話しておくべきだろう。その分野とは、心理学、医学、考古学、芸術、建築、及び各種のいわゆる超自然現象である。
そのうえ、ヨーロッパ及びアメリカ巡遊で披露したいと思っていた一連の実演のために、生徒たちを訓練し始めていた。私の目的は、これによって、こうした理念の趣旨を人々の日常生活の経過に導入し、その実際的な成果を示すことにあった。それは、普通の人たちが行くことのできないアジアの各地で私が集めた資料に基づく諸理念である。
グラン・カフェのテラスでこのように考えた結果、私は、すでに用意のできている資料だけを持って直ちに出発する危険を冒すことに決めた。
そのうえ、フランスを出てから戻るまで、本格的な仕事は何一つせず、よく食べ、たっぷりと眠り、ムラ・ナスル・エディンの噺の精神や性格に則った内容と文体を持つ本しか読まないことを誓った。
私がこれだけの冒険をする気になったのは、もう私の手を煩わさなくとも、アメリカでの様々な講義や実演を、生徒たちが自分たちで組織する能力ができた、と思ったからであった。
私の健康回復と、私が信じ難いほどの困難のもとに身ごもり、そして産み落とし、ようやく自分の力で呼吸し始めたばかりの寵児である協会の、財政調整という2つの目的を持ったこの突然の決定を実行に移すにあたって、一つの大きな危険があった。それは、これを成功させるためには、少なくとも46人の人間を連れて行かなければならないという事実に由来していた。この人たちは、もちろんフランスにおいてと同様に、アメリカにおいても全面的に私が世話をすることになる。
苦しい物質的間題を解決するには、これが唯一の方法だったが、失敗したら状況はなおさら悪化するばかりか、ことによれば全面的破局につながりかねないということを計算に入れないわけにはいかなかった。
46人の人たちを連れてアメリカへ渡るということが財政的に何を意味していたか、この大陸からヨーロッパヘ足繁く旅行する情熱をお持ちの皆さんなら、討論などしなくても容易に理解していただけるだろう。さらに、皆さんが旅行するときはドルをフランに換えるのだが、私は反対にフランをドルに換えなければならないという単純な事実を考えに入れていただければ、この向こう見ずな試みの重さをはかることがいっそう容易になるに違いない。
これを決定する時点で私の手元にあった唯一の金は、プリュウレ館購入の証書に最終的にサインする2月15日の支払い用にかき集めてとっておいた30万フランだけだった。それにもかかわらず、この金を旅行に使う危険を冒す決意をして、とり急ぎ出発の準備にかかったのである。
これだけの遠征に必要な準備、つまり切符を買い、査証の手配をし、衣服を購入し、舞踊の実演のための衣裳をつくることなどを進めている間、私は自分の注意をすべて聖体操のクラスに集中し、すでに完成していたスタディ・ハウスで行う下稽古の回数を増やした。そして、部外者を前にすると演技者たちがいかにあがってしまうかに再び気づいた私は、航海の直前、パリのシャンゼリゼ劇場で何回かの公演を行う決心をした。
この土壇場の企画がかなりのものにつくことはわかっていたが、まさか総額があそこまで跳ね上がるとは思いもよらなかった。
(おそらくは収入になったということでしょうか?)
ところが、パリ公演、汽船の切符、緊急を要する支払い、ヨーロッパに残る人々の生活費などのほか、目に見えない予想外の出費が重なって、頼みの30万フランは出発する前にきれいさっぱり消え失せてしまったのである。
おかげで、最後の瞬間に、私は無比の悲喜劇的状況に置かれることになった。出発の準備が何もかも整っているのに、船に乗れなくなってしまったのだ。それだけの大人数を連れて長旅に出るにあたり、いざというときの予備の現金を持たないということは、もちろん問題外であった。
この事態は、船の出港三日前に輝かしき全貌を明らかにした。
ところが、人生の危機において一度ならず起こったように、私の身の上にまったく予期せざる出来事が生じたのである。
それは、意識的に思考する能力を持った人々が(今日においても、また、とりわけ過去においても)常に〈高次の力〉の摂理のしるしと見なしてきたものであった。さらに私に言わせれば、それはあるはっきりとした目的達成を目指して意識的に設定した人生の原則に、自分の行為のすべてを添わせようとする人間の、揺るぎない根気強さに基づく、法則どおりの結果だった。
この出来事は次のようにして起こった。
私がプリュウレの私室に座って、この信じ難い状況から脱出する道はないものか?と心中をまさぐっていると、突然ドアが開いて、私の老母が入ってきた。彼女はつい数日前、私がロシアを出たあとコーカサスに残った数人の家族と共に到着したばかりだった。大変な苦労の末、私はようやく彼らをフランスに迎えることに成功したのである。
母親は私のところへ歩み寄ると、小さな包みを手渡してこう言った。
『どうか私をこれから解放しておくれ。年中こんなものを持ち歩くのには、ほとほと疲れ果てたよ。』
最初、私は彼女が何を言っているのかわからず、機械的に包みをほどいた。しかし、中に何が入っているかを見たときには、嬉しさのあまり跳び上がって踊りださんばかりだった。
絶望の淵にあった私をそれほど狂喜させたこの品物が何であったかを説明するためには、まず皆さんに次のことをお話しておく必要がある。私がエセントゥキに移った頃、すべての多少なりとも分別のある人々の意識の中には、ロシア全土に広がった精神的動揺が、来たるべき不吉な出来事についての予感を生じさせていた。そこで私も、当時アレキサンドロポルにいた母親を呼び寄せたのだ。その後、前述の科学調査に出たおり、彼女の身柄をエセントゥキに残った人々に預けたのである。
もう一つお話しておくべきは、その年、1918年、ロシアでもコーカサスでもルーブルの価値が一日一日と下落したため、金を持っている人々はこぞって宝石、貴金属、珍しい骨董品など、普遍的で安定した価値を持つものを買い求めたということである。私もそれにならって、財産をすべて貴重品に換え、常に身につけておいた。
ところが、調査隊がエセントゥキを出発する時点では、各地で捜査や徴用という名目の略奪が猛威をふるっており、こうした貴重品を身につけていては大きな危険を招きかねなかった。そこで私はその一部を同行する仲間たちに分配し、たとえ略奪を免れなかった場合でも、誰かが何かしらを無事に持っているという可能性に望みをかけた。そしてさらに、残りをエセントゥキとピアティゴルスクにとどまる人々の間に分けたのだが、その中のひとりが母だったのである。
母に渡した品物の一つは、その少し前にエセントゥキで早急に金を入用としていたある皇女から買い取ったブローチで、それを預けるときに、大変な値打ちものだから特に大事にするようにと頼んでおいたのだ。
私は、必要に迫られた家族が、私の出発後間もなくこのブローチを売ったものと思いこんでいた。さもなければ、あちこちと動きまわっている間に盜まれたに違いない。当時はどの町も、誰であれ何であれお構いのない略奪強盜団のなすがままだったからだ。それでもなければ、20回以上にわたる旅の途中でなくなっていたかである。
要するに、私はこのブローチのことなどすっかり忘れ去っていて、それを計算に入れることなど、頭の片隅にも浮かんでこなかったのだ。
ところが、それを母親に託してくれぐれも大切にするように頼んだとき、彼女は何かの記念として個人的にとても貴重なもので、私に返さなければいけないと思ったらしい。そうしてこの間ずっと、宝物のように守り、家族の誰にも見せず、小さな袋に縫いこんで、どこへ行くにもお守りのように持ち歩いていたのである。今度こそようやく私に返し、絶えざる心配の種を処分することができて、彼女は大喜びだった。
このブローチの正体を思い出し、即座にそれを役だてる方法を思いついたときの私の安堵がご想像いただけるだろうか?
あくる日、ポケットにこのブローチを忍ばせた私は、ある友人から2,000ドル借りられる身分になっていた。ただし、パリでは2万5,000フランの値しかつかなかったため、私はこれをアメリカに持って来た。私の見るかぎり、その値段を遙かに上まわる価値があったからだ。これは、ニューヨークで売って、間違いでないことがわかった。」


話がここまで進んだところでグルジェフ氏は間合いを置き、彼独特の笑顔を浮かべながら煙草を吸い始めた。すると、部屋を支配する沈黙の中をH氏が席を立ってグルジェフ氏に歩み寄り、こう切り出した。
「グルジェフさん。物質的問題に関するあなたの冗談めかしたお話の数々を拝聴しておりますと、今日のあなたのお話の特別な筋によるものか、私のうぶさ、あるいは暗示にかけられやすさによるものか見当がつきませんが、こんな気持ちになりました。いまこの瞬間、私は疑問の余地なく、あなたが自発的に引き受けられた途方もない重荷を軽減するためなら、私の全存在をもって、何でもする用意がございます。
この衝動は、あなたのお話の間中ずっと受け続けた鮮明な印象から来るものと申せば、いっそう真実に近くなりましょう。その印象と言いますのは、あなたが普通人の能力の限界を越えた高邁な任務を遂行されるにあたって、いままで常にまったく孤独でいらっしゃったということです。
いま現在私の手元にある全額にあたるこの小切手を、あなたに差し上げることをお許しください。また同時に、私はいまここにご会席の皆さん方全員の前で、これから先死ぬまで、あなたがどこでどんな環境におられようと、毎年同額のお金を喜捨することを誓います!」

H氏が話し終わり、感動をありありと見せながらハンカチで額の汗を拭いていると、グルジェフ氏が立ち上がった。そしてH氏の肩に手を置いて、私自身がけっして忘れえない、人を射抜くような、しかも優しい、感謝に満ちた眼差しで彼を見つめた上、簡潔にこう言った。
「ありがとう。今日からは天与の兄弟です。」

しかし、グルジェフ氏の物語によって引き起こされた深い感銘の最大の証拠は、ちょうどニューヨークを訪問中、R氏の招待で顔を見せていたL夫人の宣言だった。彼女は突然、誠意のこもった口調でこう言った。
「グルジェフ先生。私が、あなたの協会のニューヨーク支部開設を祝うこの集まりに出席し、興味深いお話をうかがうことができましたのは偶然のおかげです。けれど、いままでにも一度ならずあなたの活動や、あなたの協会の母胎である有益な思想のことをお聞きする機会がございました。そのうえ、あなたがプリュウレ庭園のスタディ・ハウスで毎週公開なさっていた実演の一つを見学して、あなたの成就された驚くべき実例をこの目で確かめる幸運にも恵まれました。ですから私が、いままで幾度となくあなたのお仕事に思いを馳せ、何らかのかたちでお役にたちたいといつも願っていたと申しましても、びっくりはなさらないことでしょう。そしていま、あなたの疲れを知らぬ努力の物語をお聞きし、あなたが人類にもたらそうとなさっている真理を女の直感で感得いたしまして、あなたの活動が、今日の人々の原動力となっているもの、つまりお金の欠乏によって、どんなにひどい麻痺状態におちいっているのかよくわかりました。つきましては私もやはり、あなたの〈大業〉にお力添えいたしたいと思います。大方の人々と比較いたしますれば、たしかに私の財力は小さなものではなく、相当な額を提供させていただくのが本当でしょう。けれども現実には、私の社会的地位相応に、決まった生活の必要を満たすに十分なものでしかありません。お話をうかがいながらひと晩中、何か私にできることがないかと考えてみましたところ、まさかの時のために少しずつ銀行に積み立ててきたお金のことに思いあたりました。それ以上のことができるまでの間、とりあえずこのお金の半分を、無利子であなたにお貸しすることにいたします。将来のことはわかりませんから、いつこの貯金を役だてなければならない深刻な事態が来ないともかぎりませんが(そんなことがないといいのですが)それまでは自由にお使いください。」

L夫人の真情にあふれた話の間、グルジェフ氏は優しく真剣な面持ちで、注意深く耳を傾けていた。そうして、話が終わるとこう言った。
「ありがとう、尊いL夫人。私は、ことにあなたの率直さに打たれます。もし、現在の私の活動にとって大きな助けとなるに違いないそのお金を受け取るとなれば、私の方もやはり率直にあなたに語りかけるべきでしょう。この際、特に未来のヴェールを上げてみれば、私は格別な感謝をもって、このお金をきっかり8年でお返しできると断言しておきたい。その時点であなたは、健康の方は完璧ながら、先ほどいみじくも言われたとおり、今日人間生活の進行全般の原動力をなしているものを、大いに必要とするようになるはずです。」

そうしてグルジェフ氏は、重苦しい思索にふけるかのごとく、長い沈黙を守った。顔には急に疲れが見え、その目はしばし、私たち一人一人の上に止まった。


『注目すべき人々との出会い』の終わりの文

私(グルジェフ)はいま、ニューヨーク市の五番街と56丁目通りの角にあるチャイルズという名前のレストランにすわって、私の生徒たちの覚え書きをもとに、この原稿を校訂している。これは、過去六年間に著述を行ってきたのと同じ条件である。その中にはカフェ、レストラン、クラブ、ダンスホールといった各種の公開の場所が含まれる。それは、私の本性とは相入れない、この手の場所につきものの、人間の名に値しない様々な徴候が、私の仕事の能率に好影響を及ぼすらしいからである。さて、ここで一つの事実をご紹介しても、あながち余計なことではあるまい。それを純然たる偶然ととるか、あるいは超自然的摂理の結果ととるかは、皆さんの自由におまかせしたい。その事実とは、私自身がまったく意図することなく、おそらくは著述家としての仕事において、私が常に厳密な秩序を守るからにすぎないのだが、同じ街で、たったいま記述された晩からきっかり7年後に、今日この本文の校訂を了(しま)えたということである。
この物語を締めくくるにあたり、第一回のアメリカ旅行に関して一言簡単につけ加えておこう。企画は、控えめに言っても危険としか言いようがなかった。ポケットに一セントも持たず、また土地の言葉を一言も話せない一座を連れて来たのだが、予定の実演プラグラムは未完成の上、アメリカではとりわけお決まりになっている前宣伝一つしなかったのだ。それにもかかわらず、協会の〈仕事〉の成果を披露するための実演旅行は、私の期待を遙かに上まわる大成功だった。
思いきってこう言ってもかまわない。もしも、フランスに帰って数日後に容易ならぬ自動車事故が起こらず、6ヶ月後に計画どおりアメリカへ戻ることができさえしたら、私が同行の人々の協力を得てこの大陸で成し遂げたことによって、あらゆる借金の返済が可能になったばかりか、すでに活動中のものも、翌年に開設を予定していたものも含めて、『人間の調和的発展のための協会』の全支部の、将来における存続を保証することができたであろう
しかし、こんなことはいま話してもしかたあるまい。
私の人生のこの時期について記すにあたり、記憶の中には、思わず我らが親愛なるムラ・ナスル・エディンの言葉が浮かんでくる。
「服役囚の美しい頭髪を、悲嘆をもって思い出すべからず!」

私がこの句を書いていると、誰かが来て私のテーブルに座った。
私の知人たちは全員例外なく、私と話しに来る場合、誰でも守らなければならない約束を知っている。それは、私が書くのをやめて自分の方から会話を始めるまで待たなければならないというものである。ちなみに述べておくと、この約束は一応きちんと尊重されてきたものの、私がしばしば感知したところによると、この要請に手堅く応えながら、一部の者たちは、いますぐにも最新流行の薬をちょいと盛って、私を亡きものにしたいぐらいに歯ぎしりしていた。
書き終わって新来者の方を向くと、彼が最初の言葉を口に出したときから、私の中に一連の考察や推論が始まり、それが一体となって、私を断固とした決意に導いた。まさに締めくくりの言葉を述べようとしているいま、この断固たる決心と、その誘因となった考察について語らなければ、この物語全体に赤糸のように走っている根本原則にそむくことになるだろう。
いまこの時点における私の状況を理解していただくには、テーブルのところへ来て座り、必要な指示を受けて立ち去った人物が、骨董品の卸売業での私の陰の協力者だということを知っていただかねばならない。「陰の」と言うのは、私の側近の中でも、誰ひとり私のこうした商売上の関係を知る者はなかったからである。
私が彼と関係を持ち始めたのは、いまから6年前、あの事故の数ヶ月後のことだった。当時、私はまだ肉体的にはひどく弱っていた。しかし、通例の思考機能が回復すると共に、アメリカ行きの莫大な費用と、母と妻の重病で背負いこんだ出費による、その時期における自分の物質的状況を赤裸々に認識し始めた。いつまでもベッドに寝ていることが、次第に耐え難い精神的苦痛となってきたため、私は車で方々へ出かけ、様々な考えを取り入れることによってこの苦しみを和らげ、ついでに当面の私の状態にふさわしい商取引を嗅ぎつけようと試みた。そこで、常に私と共にいた何人かの人々を連れて、私はありとあらゆる場所、主にパリのロシア人亡命者の溜まり場をまわり始めた。
そんなある日、私がパリのある有名なカフェにいると、男が近づいてきた。誰であるかすぐには思いあたらなかった。しかし、会話を交わしているうちに、彼がコーカサスやトランスコーカサス、カスピ海対岸地方の町々で、何度となく顔を合わせた人だという記憶がようやく蘇ってきた。その地方の国々を町から町へと旅しながらありとあらゆる骨董品を売買していた彼が、骨董品の専門家、および絨毯、磁器、七宝焼きを扱う有能な商人としてほとんどアジア全域で知られていた私に出会うのは、自然の成り行きだったのである。
彼はその話の中で、ロシアの惨禍からようやくいくばくかの資本を救い出したこと、そこで英語の知識を生かして、ヨーロッパで同じ商売を始めたことを話してくれた。
商売に関して、ヨーロッパにおける最大の問題は、ありとあらゆる模造品が市場にあふれていることだとこぼしたが、そのうちに突然こんなことを言いだした。
「ところで、親愛なる同郷の先輩。骨董の鑑定と見積りだけでいいから、私と手を組みませんか?」
話し合いの結果、4年間彼と事業提携するという協定を結んだ。骨董品購入にあたっては、必ず私のところへ鑑定に持ちこむという約束である。そしてもし、たまたま著作の必要上、私が訪れる予定の地域に品物があれば、私が自分で調べに行き、あらかじめ示し合わせた方法で彼に意見を伝えるということにした。
これがしばらくの間続いた。彼は一年中ヨーロッパをまわって、ありとあらゆる珍品を掘り出しては買い取り、それをアメリカへ持って来て、主にニューヨークを中心とする骨董屋に売る。私の方は、鑑定役としての協力者にすぎなかった。
ところが昨年、私の物質的危機が絶頂に達した。一方、数多くの販路が見つかり、しかもヨーロッパにはこの手の商品があふれていて、商売がうまくいっていたので、私はこの商売で財政を立てなおそうと考えた。そこで、私の協力者の事業規模をできるかぎり拡張することに決めたのだ。
このため、体力を消耗する旅の前後に、近年の習慣になっていたような休養を取ることを諦め、余暇を返上することにした。そして、私に信頼を寄せ、私と何らかのつながりのある人々から借金をする算段を始めた。こうして何百万フランかをかき集めて、その全額をこの商売に投資したのである。
事業の発展と相当な利益の見込みに励まされて、我が協力者は苦労をいとわず商品調達に努めて、約束どおり仕入れた品をそっくり持って、今年、私のやって来る6週間前にアメリカに到着した。
ところが運悪くその間に全般的な不況が襲い、この商売はとりわけそのあおりをくらって、私たちはもう利益はおろか資金の回収さえ望めない状態に追いこまれた。彼が知らせに来たのは、まさにそのことだったのである。
たった今、去年の窮境が絶頂だったと述べたばかりのところへ、こんな不測の事態におちいった私の気持ちを、どう説明したらいいだろう?
これについては、ちょうどいま思い出したムラ・ナスル・エディンの言葉以上に、うまい表現は見つからない。
「うーん、村一番のオールドミスと悪党ムラの間に、ハゲの娘が生まれても不思議はなかろう。でも、南京虫に象の頭と猿の尻尾が生えれば、これは本当に驚いたことだ!」
さて、私の物質的状況が、なぜ、またしてもこのような窮地におちいったかを理解していただくのには、大学教育は必要あるまい。
昨年、アメリカでの骨董業を大きく拡張することを最初に思いついたとき、私はこの企画のもたらす利益が、積もる借金を一掃してくれるばかりか、誰にも依存することなく著作の第一集(それまでには完成させるつもりだった)を出版し、ついで第二集にとりかかることを可能にしてくれると計算し、確信した。
ところが運悪く、今日という今日は、アメリカのこの思いがけない恐慌のおかげで、私はムラ・ナスル・エディンなら「長靴の底」とでも呼ぶであろう深みにはまって、一条の陽光も見えない有様なのだ。
6年間というもの、計画している三部作の資料を揃えるために、私はいついかなる状況にあっても「自己を思い起こ」し、またそれを達成することによって人生の意義と目的を正当化しようと望んできた自己の務めについて、思い起こさなければならなかった。
そのためには、あらゆる感情を経験しながらも、ひるむことかく真剣な内的活動を維持して、何ものにも自己同化しないように努めねばならなかった。さらには、自分自身に対して容赦のない姿勢で臨み、この頃に集中していた思考テーマが必要とする知的、感性的連想の機械的な流れの進行に、わずかな変化も起こらぬよう、抵抗を続けなければならなかった。そしてさらには、まとまって私の著作の実質となるべき無数の独立した思想のつながりのどれかに関連したり、論理的に呼応したり、矛盾したりするものがあれば、それを一つとして無視したり除外したりしないよう努力しなければならなかった。
自らの思想を他人に納得のゆく形で表そうと考えた私は、精神的集中のあまり、異例なほどの長時間にわたって、自らの欠くべからざる要求さえ忘れることが度重なった。
しかし、こうしたすべての中で私にとって一番苦痛だった客観的な不当さは、現在ならびに将来の人々に真の知識を伝えようと全力を傾けていたこの期間中、しばしばその集中状態をむりやり中断し、激務の合い間に懸命に蓄積した最後の予備エネルギーを使って、あれこれの支払いを延期したり誰それの借金を処理するにはどうしたらいいかと、いろいろ複雑な操作を案出しなければならないことであった。
この6年間に疲労困憊の極に達したのは、私の文庫用に特別にあつらえた地下室を埋める原稿の山を書いてはなおし、それをまた校訂するとい作業によるものではなく、増え続ける借金をやりくりするために可能な組み合わせを頭の中で全部、周期的にひっくり返してまわらなければならなかったからである。
これまでのところ、私が本当に時間を費やさなければならない問題に比べて重要性の劣る物質的問題で他人の援助(「金」という言葉で具体的に表わされる援助)を必要とした場合、それが得られなくとも諦めがついた。私の活動の意義が、万人に理解できるものではないことがわかっていたからである。しかし、過去6年間の成果によって、ありがたいことに、私の諸活動の意義と目的がすべての人々に認識されてきた現在においては、もうそれを諦めるつもりはない。反対に私は、一点の曇りのない良心をもって、人種、信仰や、物質的、社会的地位の別なく、私に接近するすべての人々から、宝のごとく大切に保護されることを求め、自らの個性にふさわしい活動に力と時間を注ぎこむ権利があると見なしている。
さて、陰の協力者がチャイルズ・レストランを出たあとの真剣な考察の結果であり、原則に則った、前述の断固たる決意とは次のようなものである。
アメリカにおいて、先の大戦(第一次世界大戦)の激動を味わっていない人々に囲まれ、もちろん彼らの意図するところではないとしても、彼らのおかげで相当な損失を蒙る間に、いま一度、他人に主導権を握らせず、私ひとりで、いつか良心の呵責を覚える羽目になるような手段にはもちろん頼らずに、子ども時代の正しい教育のおかげで私の中に形成された才能を生かそう。そして、借金のすべてを一掃し、さらにヨーロッパ大陸に帰って2、3か月は不自由なく暮らせるだけの金を稼ぐことにしよう。そうすることによって私は再び、〈われらの共通の父〉が人間に定めたもうた至上の満足を経験するに違いない。モーゼの最初の師であったエジプト人の司祭は、それを次のような言葉で表している。
明確な分別による認識のもとに、才覚をもって目的を達成することから来る、自己の満足感。」
今日は1月の10日である。3日後の真夜中には旧暦の新年を迎えることになるが、それは私にとってはこの世に生まれ出た記念すべき時刻である。
子どもの頃からの習慣で、私は毎年その時刻を境に、はっきりとした原則に基づいて、あらかじめ考えておいた新しい計画に従う生活を始めてきた。その原則とは、あらゆることに際して、出来る限り自己を思い出すということ、そして他人の行いに対する自己の反応を含めて、自己の行いを来たるべき年の目標達成にふさわしい方向に意志的に導くということである。今年は、私というものの中に存在するあらゆる能力を傾けて、3月中旬に予定されているアメリカ出発までに、借金をすべて一掃するに足る必要額を、自力でつくり出すことを課題としよう。
そうしてフランスに戻ってからは、著作を再開するつもりだ。すでにある尺度が確立されている、私の生活の流儀に必要な物質的状況についての心配から、その時は一切自由になっているというのが唯一の条件である。
しかし、もし何らかの理由でその課題を達成することに失敗したならば、私はこの物語に述べられた思想の全般、及び私自身のとっぴな想像力の非現実性を、いやでも認めなければなるまい。そうすれば、私は自らの原則に従って、股の間に尻尾を巻き、ムラ・ナスル・エディンの言うように、「いままで人が汗臭い足を突っこんだ中で一番深い古長靴」の底に潜りこまねばならなくなるだろう。もしそんなことになったら、私はいさぎよく次のようなことを実行するであろう。
出版には、先日最終的に校訂をすませたばかりの原稿、つまり著作の第一集、および第二集のうちの二章だけをまわし、あとはけっして筆を執らないこととする。そして、家に帰り次第、私の部屋に面した芝生の真ん中に大きなかがり火を焚いて、残りの原稿を全部くべるのだ。
そうしたところで、自分の持つ能力をただ個人的エゴイズムの満足のためだけに用いる、新たな人生に踏み出すこととしよう。
そのような人生でどんな活動をするかは、すでに私の向こう見ずな頭の中で計画ができつつある。
瞼には、たくさんの支部を持つ新しい「協会」を組織する私の姿が浮かんでくる。ただし、今度は「人間の調和的発展」のためではなく、いまだかつて知られていない、様々な自己満足の方法を教える協会である。
そういう商売なら、間違いなく、油の効いた車輪のような大躍進をするであろう。