魁偉の残像 を読んで
著者フリッツ・ピータース

この本を読了して強く思ったのは、小学生の高学年、もしくは中学生の頃にこの本に出会っていたかった、ということです。
グルジェフが少年に語りかける言葉は、内容に深みがありながらもシンプルであり、子供が持つ多くの疑問に対する答えや導きが沢山あると感じました。


私が初めてジョージス・グルジェフに会い、話を交わしたのは、1924年6月のある土曜日の午後、フランスのフォンテーヌブロー・アヴォンのプリオーレ館であった。当時11歳であった私には、そこにいた理由はあまりはっきりしてはいなかったが、この時の出会いの記憶は今でも鮮明である。
晴れ渡った、陽光に溢れる日であった。グルジェフは、縞(しま)模様のパラソルの下に置かれた、表面が大理石でできた小さなテーブルの傍に腰掛け、幾何学的に手入れされた広大な芝生と、花壇に面した本館に背を向けていた。面接に呼ばれるまで、しばらくの間、私は、グルジェフが背を向けている本館のテラスに座っていなければならなかった。実際にはこれより先に一度だけ、グルジェフとはその前年の冬に、ニューヨークで出会っていたのだが、「会った」というふうには感じられなかった。その時のことは、「怖かった」という記憶だけが残っている。グルジェフが私を見たとき、あるいは、見抜いたときの様子と、彼についての世評のためである。グルジェフは、少なくとも「予言者」の出現、最大限に言えば「キリストの再来」に近い現象かもしれないとさえ聞かされていた。
「キリスト級」の人との出会いであれば、どのような解釈によるキリストであろうと、そのような出会いは一大事であり、そうした人との邂逅(かいこう)を私は待ち望んではいなかった。その御前に引き出されるということは、私の興味をそそらなかっただけでなく、怖ろしくさえ感じた。
実際に会ってみると、恐れたほどではなかった。「救世主」であろうとなかろうと、私にはグルジェフが率直で、単刀直入に話す人のように思えた。後光に包まれてもいなかったし、強いアクセントのある英語ではあったが、聖書から想像していたより、遙かに単純に話した。私の方に向き、漠然とした身振りをしながら座るようにと言い、コーヒーを頼んだあとで、私がそこにいる理由を尋ねた。グルジェフが普通の人間らしいのを知って安心したが、この質問にどう答えたらよいのか戸惑った。重要な回答、つまり素晴らしい理由があるということを言わねばならないのは確かであったが、そのような理由がなかったので、事実を、つまり私がそこにいるのはただ連れて来られたからだということを答えた。
するとグルジェフは、なぜそこで、彼の学校で学びたいのかと尋ねた。もう一度私は、自分が決めたことではないと言う以外に回答のしようがなかった。私の意向が考慮されたわけではなかったし、いわば、その場に運ばれて来たような具合であった。偽りの回答をしたいという強い衝動があったが、グルジェフには嘘はつけないという同じように強い感じをもったのを憶えている。グルジェフは既に事実を知っている、ということがはっきりと感じられた。私がやや不正直な回答をしたのは、滞在して彼のもとで学びたいのか、という問いに対してだけであった。そうしたいと答えたのだが、そういう回答が絶対に真実であるとは言えなかった。そのように答えたのは、そのように答えなければならないということを理解していたからである。どんな子供でも私と同じように答えたであろうと、今の私には思われる。
プリオーレが大人たちに何を象徴していたにせよ(文字どおりのその学校の名は、「人間の調和的発展のためのグルジェフ研究所」というものであった)、私にとっては、高校の校長に面接されているのと同じ感じであった。子供たちは学校へ行くものであり、先生となる人に、学校へ行きたくないと答えるような子は一人もいない、という世間的な考えに従って答えたにすぎなかった。ただ一つ変わっていたのは、そのような質問を受けた、ということであった。
それから、グルジェフはさらに2つの質問を出した。

1 人生はいかなるものと考えるか?
2 何を知りたいか?

第1の問いには、次のように答えた。「人生とは銀のお皿に盛られて手渡された何かであり、それをどのように扱うかは本人次第です。」
この答えがきっかけで、「銀の皿に」という語句についての長い問答が交わされ、グルジェフは、洗礼者ヨハネの首についても言及した。問答の結果、私は退却し(退却という感じであった)、「銀の皿」という語句は、人生とは「授けられたもの」ということを意味する、と訂正すると、グルジェフは満足したようだった。
第2の質問に答えるのは易しかった。「あらゆることを知りたい。」と回答した。
グルジェフは即座に、「あらゆることを知ることはできない。何についてのあらゆることなのか?」と聞き直した。私は、「人生についてのあらゆることです。」と言い、そのあとで言い足した。「英語では心理学と呼ばれています。あるいは哲学かもしれません。」
グルジェフは溜め息をつき、おもむろに言った。「滞在してよろしい。だが、そういう回答は、私にとっては骨の折れる仕事となる。そういうことを教えるのは、私の他には誰もいない。仕事がまた増えた。」
私には、人に従い、人を喜ばせるという無邪気な目的があったから、彼のこの言葉にびっくりした。相手が誰であろうと、その人の人生をいっそう骨の折れるものにするなどということを望んではいなかった。(もともと人生はけっこう難しいもののように思えた。)
私が答えずに黙っていると、グルジェフは、「あらゆること」について学ぶだけではなく、言語、数学、様々な科学など、普通の課目を勉強する機会もあると言った。また、この学校が普通の学校ではないのがわかるようになろうと言い、「ここでは、他の学校が教えない色々なことが学べる。」と言った。そのあとで、グルジェフは私の肩を「思いやり深く」軽くたたいた。
私が「思いやり深く」という言葉を使うのは、そうされることが、当時の私には非常に大切だったからである。私は目上の人から承認されることを切望していた。そのような承認が、大人たちが「予言者」、「神秘家」、または「救世主」と呼ぶ人から、率直に、親しみを込めて与えられるということは予期していなかったので、胸がいっぱいになった。私は、喜びに輝いた。
突然、グルジェフの態度が変わった。拳で卓上を叩き、多大な集中力をもって私を見つめ、「私のために、あることを約束できるだろうか?」と言った。
そう語る声も、私を見る様子も、私を怯えさせたが、同時に奮い立たされ、追いつめられ、また挑戦されたことを感じた。私は、断固とした「はいっ!」の一語をもって応えた。
そう語る声も、私を見る様子も、私を怯えさせたが、同時に奮い立たされ、追いつめられ、また挑戦されたことを感じた。私は、断固とした「はいっ」の一語をもって応えた。
グルジェフは、我々の目前に広がる芝生に目を向けた。
G「芝生が見えるね。」
「はい。」
G「仕事をあげよう。この芝生を刈らなければならない。機械で、毎週。」
私は、無限に拡大してゆくように広がる目前の芝生を見つめた。まぎれもなく、私の全生涯をかけてもやり終えぬほどの仕事が、たった一週間に凝縮されている見通しであった。私はもう一度「はい」と答えた。
グルジェフは拳で卓上をもう一度叩いた。「自分の神に約束しなければならない。」 厳粛そのものの声であった。「何が起ころうとも、このことをすると約束しなければならない。」
かなりの畏れを感じながら、私は尋ねるように、うやうやしくグルジェフを見上げた。この時まで、芝生などというものは、目前の4つの芝生でさえ重要であると考えたことはなかった。「約束します。」私は熱心に答えた。
「ただ約束するだけではない。」グルジェフは繰り返して言った。「何が起ころうとも、誰かが止めるようにと言おうとも、これをすると約束しなければならない。人生では多くのことが起こり得る。」
一瞬、この芝生を刈ることについて、恐ろしい論争が展開する場面が浮かんだ。この芝生と私自身が原因となって、感情をゆさぶる劇的事態が生じるのを予感した。もう一度、私は約束した。その時、私はグルジェフと同じように厳粛であった。必要とあらば、芝刈りという作業を遂行中の死さえいとわなかったであろう。
私のひたむきな献身の思いを明らかに感じ取ったグルジェフは、満足したようだった。月曜に仕事を始めるようにと言い、面接が終わったことを知らされた。その時、私は自分の中に生じた新しい感覚に気がついたとは思わないが、面接から引き下がるとき、夢中になったという感情が伴った。
グルジェフにか、芝生にか、私自身にか、ということは問題ではなかった。私の胸は通常の肺活量を遙かに上回って拡大した。大人の世界では、歯車の一個の歯にすぎない存在である子供の私が、明らかに、決定的に重要な役割を遂行するようにと要請されたのである。


ほとんどの人が「プリオーレ」と呼んだ、「人間の調和的発展研究所」とは、何であったのだろうか? 11歳の私には、プリオーレはある種の特殊な学校で、その学校の指導者が、すでに述べたように、多くの人たちから夢想家、予言者、偉大な哲学者とみなされた人であったという単純な事実にすぎなかった。グルジェフ自身、プリオーレにおいて彼が試みていることは、より大きい外の世界を再現する小世界を創造することであり、そういう世界を創造する主な目的は、生徒たちを未来の人間、生、経験に対して準備することである、と説明したことがあった。言い替えれば、一般に読み書き、算術の技能を身につける、いわゆる学校と呼ばれるものではなかった。グルジェフが教えようとした、わりに理解しやすいことの一つは、現実の人生そのものに自己を準備するということであった。
ここで私は、少年の目で見、理解した「研究所」について書いている、ということを指摘しておく必要があろう。とりわけ、グルジェフの理論に接したことのある人たちに対してそうする必要があろう。私は、グルジェフの説く哲学に興味をもったとか、惹きつけられたという人たちに対して、研究所の目的や意義を定義しようとしているのではない。私にとっては、このことは確かだが、その学校は私が知っていたどんな学校とも異なる学校、つまり、たんに別の学校であり、基本的に異なったのは、「生徒」の大部分が成人であったという点にある。私自身と兄を除き、他の子供たちはグルジェフの親戚か、姪、甥、あるいは彼の「自然」の子供たちであった。子供たち全員合わせても、大した数ではなかった。総勢10人しかいなかったのを憶えている。
学校の日課は、いちばん小さい子供たちの他は、誰に対しても同じであった。朝6時の、コーヒーとドライトーストが出る朝食で一日が始まった。7時からは、それぞれがグルジェフに与えられた仕事を始める。昼間の仕事が中断されるのは、正午の正餐(たいてい、スープ、肉、サラダ、プディングの類)、午後4時のお茶、夕刻7時に簡単な夕食をとる食事時だけであった。夕食後8時半に、体操か舞踊の授業が「スタディ・ハウス」と呼ばれる建物で行われた。こうした日課が週6日、どの日も規則通りに繰り返されたが、土曜の午後は女の人たちがトルコ風呂へ行く日であった。上曜の宵には「スタディ・ハウス」で、上手に踊れる生徒たちによる舞踊の「公演」が、他の生徒や、週末にしばしば訪れる客たちのために催された。公演のあと、男性たちがトルコ風呂へ行き、風呂のあとで「饗宴」のような特別な食事が出る習わしであった。こういう遅い晩餐には、子供たちは食事客としては参加せず、給仕かキッチンの手伝いとしてだけ加わった。日曜は休息日であった。
生徒たちに与えられた仕事は、どれも、学校の現実的機能に関わっていて、造園、料理、掃除、家畜の世話、搾乳、バター製造などの仕事が、たいていグループ活動として行われた。私が、グループ作業の本当の意義を知ったのは後になってからであり、異なる性格の人たちによる共同作業という状態が、主観的な人間同士の対立を生じ、その対立から摩擦が生じ、摩擦から性格的特徴が現れ、現れた特徴を観察することが「自身」を見るということであった。
この学校が目指した多くの目的の一つは、「他人が見るように自己を見る」ということ、いわば、遠くから自分自身を見ること、そういう自己を客観的に批判することであった。だが、最初はただそれを見ることであった。身体を動かしているときは身体を観察することを目的とする訓練があり、「自己観察」または、「それに相反する私」と呼ばれる訓練であった。「私」とは意識(潜在する)であるから、「それ」は肉体、つまり道具である。
最初、こうした概念や実習のどれか一つが理解できるようになるまで、私の仕事と、ある意味では私の世界は、完全に芝刈りが中心であった。というのは、私の芝生と呼ぶようになったプリオーレ館の芝生は、予期したより、かなり決定的な意味をもつことになったのである。
私と面接した翌日、グルジェフはパリヘ出かけた。週2日パリで過ごすのが習慣であり、いつもきまって秘書のド・ハルトマン夫人を同伴し、ときには他の人たちを伴っていくということは、皆が了解していた。この時は珍しく彼は一人で出掛けた。
グルジェフが出発したのは日曜の夕方であったが、自動車事故に遭遇したという噂がわれわれ子供たちに達したのは、月曜の午後になってからのようであったと記憶している。初め、グルジェフは死亡したということであったが、後になって死亡したのではなく、重傷を負い生きる見込みはないと聞かされた。月曜の夕方、だれか権威ある人が、グルジェフ氏は死亡したのではなく、重傷を受け、病院で瀕死の状態であるということを正式に発表した。


(Gは)
将来達成しなければならないことで最もむずかしいことは、おそらく、最も重要だと思うが、「他人の不快な発現」と一緒に暮らせるように学ぶことであると言った。


翌朝、授業を受けに行ったとき、グルジェフはとても疲れているように見えた。夜通し仕事をしていたと言い、著述という仕事はとてもきつい仕事であると語った。まだ寝台の中にいたが、授業中ずっとそのままだった。
グルジェフは、我々みなに与えた訓練(前に述べた「自己観察」)について質問することから始めた。自己観察は非常に難しい訓練であり、全集中力をもって、できるかぎり常にこの訓練を怠らないように、と言った。彼はまた、私や他の生徒たちに今まで与えた訓練や、将来与える訓練のほとんど全部に関して、これらの訓練が難しい理由は、訓練を正しく行なうには結果を期待しないで行なうという点であると言い、自己観察というこの特定の訓練で重要なことは、自己を見ること、自己の機械的な、自動的に反応する行動を批判せずに観察し、そうした行動を変えようとしないことであると説明した。
「変えれば、決してありのままを見ない。変化を見るだけである。自己を知り始めると、変わる。または、好ましい変化を願うなら、変えることができる。」と語った。
グルジェフは続けて、彼の仕事はただとても難しいだけではなく、ある人たちにとっては非常に危険でさえあると言った。
G「この仕事は、すべての人のためにあるのではない。例えば、百万長者になることを願うなら、早くからその目的のためにだけ専念しなければならない。他のことは存在しない。僧侶や、哲学者や、教師や、ビジネスマンになることを願うなら、ここへ来るべきではない。ここでは、現代人、とりわけ西欧の人たちが知らない人間に、いかにしてなるかという可能性を教えるだけである。」と語った。
その後で、窓の外を見るようにと言い、何が見えるかと聞いた。私は、窓から見えるのは樫(かし)の木だけであると答えた。グルジェフは、樫の木に何が見えるかと聞いた。どんぐりが見えると答えた。
G「どんぐりが、いくつある?」
私が、わからない、とやや頼りなく答えると、彼はじれったそうに、「正確でなくてよい。そんなことは尋ねていない。いくつだか見当をつけなさい!」と言った。私は、おそらく数千はあるだろうと思うと答えた。
彼は同意し、数千のどんぐりのうち、いくつが樫の木になるであろうかと尋ねた。もしなるとすれば、5つか6つぐらいが実際に木に成長するであろうと私は答えた。
彼はうなずいた。
G「たぶん、たった一つ、たぶん、一つもならない。
自然から学ばねばならない。人間も有機体である。自然はたくさんのどんぐりを造るが、木になる可能性は少しのどんぐりだけにしかない。人間についても同じである。たくさんの人間が生まれるが、少数の人間だけが成長する。人々はこれを無駄だと思い、自然は無駄をすると考える。そうではない。残りは肥料になり、土中に帰り、もっと多くのどんぐり、もっと多くの人間、時たま、もっと多くの木、もっと多くの本当の人間となる可能性を創造する。自然はいつも与える。だが、可能性だけを与える。
本当の木や、本当の人間になるには、努力しなければならない。このことは理解できるであろう。私の仕事、この研究所は、肥料のために存在するのではない。本当の人間のためにだけ存在する。だが、肥料は自然にとって必要であるということも理解しなければならない。木と異なり、人間は多くの可能性を持っている。現在の人間は、偶然に成長する可能性をもっている。
(それはしばしば)誤った方向へ成長する。人間は、いろいろなものになることができる。たんなる肥料でもなく、本当の人間でもなく、いわゆる『善』とか、『悪』とか、人間にふさわしくないものになることができる。本当の人間は、善でも、悪でもない。本当の人間は、意識しているだけであり、ふさわしい発展ができるように、魂を獲得することを願うだけである。
私は集中し、最大限に努力して聞いていたが、12歳であった私の気持ちは混乱し、理解できないと感じた。彼が重要なことを語っているのは感じ取れたが、理解することはできなかった。これに気づいたかのように(そうであったに違いない)、グルジェフは言った。
G「善と悪を、右手と左手のように考えなさい。人間はいつも2つの手を持っている。自己の2つの面、善と悪である。一方が他方を破壊することができる。両手が一緒に働けるように目標を定めなければならない。第三のものを獲得しなければならない。第三のものは、両手の間、つまり、善への衝動と、悪への衝動との間に平和をもたらすものである。全部『善』である人間や、全部『悪』である人間は、全体ではなく一方に片寄っている。第三のものは良心であり、人は生まれたときに、既に良心を獲得する可能性を与えられている。この可能性は、自然がただで与える。だが、たんなる可能性にすぎない。本当の良心は仕事によって獲得され、自己を理解することを学ぶことから始まる。あなたがたの宗教、西洋の宗教にさえ、『汝自身を知れ』という言葉がある。自己を知り始めると、真の人間になる可能性をもち始める。それで、最初に学ばなければならないことは、この自己観察という訓練により、自己を知ることである。これをしないと、木にならないどんぐり、肥料になる。肥料は地中に帰り、いつかは人間になる可能性をもつ。



グルジェフがアメリカから帰ってきたのは週の半ばであったが、その週の土曜日に、プリオーレの全員が出席する初めての「総会」が、スタディーハウスで開かれた。スタディーハウスは別の建物で、もともと飛行機の格納庫であった。一方の端に、リノリウムを敷いたステージがあり、ステージの前に小さな六角形の噴水があって、様々な色のカラースポットが水にたわむれる電気装置がついていた。噴水が使われたのは、たいていピアノが演奏されたときであり、ピアノはステージの上、向かって左側にあった。ステージに対面するもう一方の端にある出口と、ステージまでの空間は、大きさの異なるオリエンタル・カーペットで敷きつめられ、その周りを低い柵が囲い、広い長方形の広間になっていた。長方形の周りに、柵に面して、毛皮のカーペットで覆われたクッションが置かれ、通常、大部分の生徒たちがそこに座った。柵の向こうの一段高くなったところには造りつけのベンチがあり、やはりオリエンタル・カーペットで覆われ、観客席になっていた。建物の入口のそばに、床から数フィート高い小区画があったが、そこはグルジェフがいつも座った場所であり、その上方にあるバルコニーはめったに使われず、使われたのは「重要」な訪問客を迎えたときだけであった。天井を横切る梁に、色彩をほどこした布が釘で止められ、柔らかいひだをなし、雲のような効果を与えていた。印象的な内装で、教会のような感じがした。この建物の内部では、たとえ誰もいなくても、ひっそりと話さなければ場違いに感じられた。
まぎれもないあの土曜日、グルジェフはいつもの小区画に座り、ミス・マジソンがそのそばの床に、えんま帳を膝に開いて座り、生徒たちのほとんどが、柵の外の高いベンチに席をとっていた。グルジェフは、ミス・マジソンが生徒全員のあらゆる「犯罪」について報告し、「犯罪者」には相応の罰が与えられようと発表した。子供たちはみな、おそらく特に私は、息を殺して、ミス・マジソンがえんま帳を読み上げるのを聞いていた。彼女のリストはアルファベット順ではなく、犯罪の回数順になっているようであった。彼女に警告されたように、リストは私を筆頭に始まり、私が犯した罪や反則が長々と読み上げられた。
グルジェフは無感動な様子で聞いていたが、時々犯罪者のあの顔、この顔に目をやり、注目すべき軽罪の報告に微笑したり、ミス・マジソンの報告を中断して彼自身で罰点を数えたりした。彼女の報告が終わったとき、かたずを飲んだ静けさが室内を満たしたが、グルジェフは深くため息をついてから、我々一同が、彼に大きな苦労をかけると言った。それから、犯罪の数にふさわしい懲罰を公表すると言った。一番初めに呼び出されたのが私であったのは言うまでもない。グルジェフは私に、彼の前の床に座るように指図し、そのあとで、ミス・マジソンに私の犯罪についてもう一度、詳細に読み上げるようにと言った。彼女が読み終えると、グルジェフは私に、リストを全部認めるかどうかと聞いた。私は、少なくとも部分的に、犯罪のいくつかについて反論し、酌量の余地を論じようとしたが、室内の静けさがそうさせなかった。声に出された一つ一つの言葉が、い並ぶ会衆の前に、鐘の音のように透明に響き渡った。私は、心に浮かんだ根拠の弱い弁護を口に出す勇気がなく、報告が正確であることを認めた。
もう一度ため息をつき、私を見て頭を横に振りながら、いかにもわざとらしく、グルジェフはポケットに手をしのばせ、ものすごく大きい礼束を取り出した。もう一度、私の罪を数えあげてから、罪と同じ数のお礼を丹念に抜き出した。正確にいくらだったかは憶えていないが(一つの犯罪につき10フランだったと思う)彼が数え終え、私に渡したフランの礼束は、かなりの大きさになった。こうした過程が進行中、室内は、沈黙のなかに悲鳴をあげていたのと変わりなかった。全員だれ一人として囁くことさえせず、私は、ミス・マジソンの方に目を向ける勇気すらなかった。礼束を私に渡し終えると、グルジェフは私を下がらせ、次の犯罪者を呼び出し、前と同じ過程を繰り返した。我々の数が非常に多かったし、彼の不在中に規則違反や何かをしなかった者は一人もいなかったので、この過程が終わるには長い時間がかかった。最後の人に渡し終えたグルジェフは、ミス・マジソンの方に振り向き、たぶん10フラン、つまり、「犯罪」一つに相当する小さな金額を「プリオーレの主任としての義務を良心的に履行した。」と言いながら手渡した。
我々一同があっけにとられ、完全に虚を突かれたのは言うまでもない。だがこの時、我々が共通して感じたことは、ミス・マジソンヘの我々の思いやりであり、みなが彼女に多大な同情を寄せたことであった。私には、この総会が、彼女に対して非常識なほどに残酷で、思いやりのない行為のように思えた。このような余興をミス・マジソンがどのように感じたかは、私にはわからない。礼束が私に渡されたとき、彼女はひどく紅潮したほか明白な反応は全然示さず、グルジェフが彼女に与えたわずかな報酬に対してさえ感謝した。
私は、もらったお金に驚いた。誇張なしに言って、それまでに一度もあれほどの金を持ったことはなかった。だが嫌悪も感じた。その金で何かしようという気にはなれなかった。この問題が再び話題にされたのは、数日たったある夜、グルジェフの部屋にコーヒーを持って来るように言われたときであった。彼と直に話すという意味では、私は、彼が帰って来てから一度も彼と個人的な接触をもっていなかった。その夜、グルジェフは一人きりで部屋にいた。コーヒーを出すと、彼は私に、どんな具合にやっているか、どのように感じたかと尋ねた。私は、ミス・マジソンに対する感じと、使うことのできないお金について、うっかり口をすべらせた。彼は私を見て笑い、あのお金を好きなように使ってはいけないという理由は何もない、と陽気に言った。あれは私のお金であり、冬の間に私がしたことに対しての報酬であるということだった。私は、仕事を引き延ばしたり、問題ばかり起こしていたのに、なぜ報酬を与えられなければならないのか理解できないと言った。
グルジェフはもう一度笑って、まだまだ学ばなければならないと言い、次のように語った。
誰もがトラブルメーカーであることはできないということを理解していないね。これは人生で重要である。パンをつくるのに必要なイーストのような成分である。トラブルや対立がないと、人生は死である。人々は現状維持の状態で生活し、機械的に、習慣だけで生きていて、良心をもっていない。いつも、一番ミス・マジソンを怒らせたから、一番たくさんの報酬を得たのだよ。ミス・マジソンにとって良いことだ。対立がないと、ミス・マジソンの良心が眠ってしまうかもしれない。このお金は、本当はミス・マジソンからのお返しで、私からのではない。ミス・マジソンが生きていることを助けたのだよ。」
私は、彼が重要なことを語っているのはわかったが、ミス・マジソンを気の毒に思うと言い、私たちみなに報酬が与えられるのを見ていた彼女には、過酷な経験であったに違いないと述べた。
彼は、まだ笑いながら、私を見て頭を振った。「お金をあげるとき、ミス・マジソンに重要なことが起こるのに気づいていないか、あるいは理解していないね。あの時、どう感じる? ミス・マジソンに同情するのではないかな? 他の人たちもみな、ミス・マジソンに同情する。」
私は、そうだったことに同意した。
人々は、学ぶことを知らない」、彼は続けて言った。「いつも、話すことが必要だと考える。頭で、言葉で学ぶと考える。そうではないのだ。感情と、感覚からだけ学べることがたくさんある。だが、人間はいつも話しているので(連想器官だけを使っているので)このことを理解しない。この間の晩にスタディーハウスで、ミス・マジソンが新しい経験をしているのがみなにはわからない。かわいそうな女性だ、人から好かれない、人々は彼女をおかしいと思う、彼女を笑う。
だが、この間の晩、人々は笑わない。私がお金をあげるとき、ミス・マジソンが居心地悪く感じ、当惑するのは本当である。たぶん、恥を感じる。だが、大勢の人が彼女に同情し、哀れみ、思いやり、愛情さえ感じる。彼女はこれを理解する、だが、すぐに頭で理解するのではない。あの時彼女は、彼女のもつこの感じを知ろうとさえしない。だが、彼女の人生が変わる。去年の夏、子供たちはミス・マジソンを憎んだね。もう憎まない、彼女をおかしいと思わない、かわいそうに思う。好きでさえある。たとえ彼女がこのことをすぐに知らなくとも、彼女にとってよいことである。子供たちが、彼女が好きであるのを隠そうとしても、隠せない、表れる。それで、今は彼女に友達ができた。以前は敵だった。彼女に私がしてあげる良いことである。彼女がすぐに理解するかどうかは、私は気にしない。いつか理解し、心を暖める。ミス・マジソンのように魅力のない、自分自身と仲のよくない性格にとって、これは稀な経験、これは暖かい気持ちである。いつか、たぶんもうすぐ、彼女はこの気持ちをもつ。大勢の人が彼女を哀れみ。思いやっている。いつか、彼女は私のすることを理解し、それで私を好きになりさえする。だが、こういうことを理解するのには時間がかかる。」
私は彼が言ったことを完全に理解し、彼の言葉にひどく感動した。だが、まだ終わりではなかった。
G「これは、子供にとっても良いことなのだよ。まだ若い、少年にすぎない、他人のことを考えない、自分のことだけ考える。だから、私がミス・マジソンにすることを悪いことだと考える。私が彼女に悪いことをすると考え、彼女を気の毒に思い、忘れない。だが、今はそうではないことを理解する。他人の感じることを感じ、ミス・マジソンのように感じ、彼女の立場に身を置き、自分のすることを後悔する。
他の人を理解し、助けることを願うなら、自身を他の人の立場に置く必要がある。これは良心に良いことであり、このようにすれば、ミス・マジソンを憎まないようになれる。人はみな同じである。愚かで、盲目なのが人間なのだ。私が悪いことをすれば、子供は自身だけでなく、他の人を愛することを学ぶ。」


「ラフミルヴィッチ事件」
(子供たちが散々嫌がらせをして、ラフミルヴィッチがプリオーレから出て行った事件)後に、グルジェフが初めてパリから戻ったとき、意外にも、彼はラフミルヴィッチと一緒だった。プリオーレを不在にしていたのは短期間だったが、ラフミルヴィッチの変わり様はひどかった。けんか早くて議論好きだった彼が、今は断念したように見え、時が経つにつれ、我々は、彼になんとなく愛情さえ感じ始めた。私は、彼が戻って来たことにとても好奇心をそそられたが、たまたま私がグルジェフと一緒にいたとき、この問題を明らさまに持ち出す無謀さは控えていたところ、グルジェフ白身がこの話を持ち出した。不意に、彼は私に、ラフミルヴィッチがプリオーレに帰って来たのを見て驚きはしなかったか、とさりげなく尋ねた。私は、とても驚いたし、どうしてそうなったのかということに興味をそそられるとも答えた。永久に出て行くと言った彼の決意は、非常にはっきりしていたのだが。
グルジェフは、ラフミルヴィッチの身の上話を始めた。この話によると、ロシア革命のあと、彼はフランスに亡命し、お茶、キャビア、そのほか主に亡命ロシア人たちに需要のある様々な品物を扱う商人になり、成功した。明らかに、グルジェフはラフミルヴィッチをずっと以前から知っていた(数年前に、グルジェフと一緒にフランスへ来た人たちの一人であったのかもしれない)。グルジェフは、彼の性格を、学校になくてはならない要素であると判断したのだと言った。
「憶えているであろう」とグルジェフは切り出した。「トラブルを起こす子供だと言ったのを。このことは本当だが、子供はまだ小さい。ラフミルヴィッチは大人。それで、子供のような悪さはしないが、彼が何をしようと、どこに住もうと、いつも摩擦を起こす性格をもっている。重大なトラブルは起こさない。だが、いつも人生の表面に摩擦を起こす。彼はこれを直せない。変わるには、年をとり過ぎている。
ラフミルヴィッチはすでに金持ちの商人だが、私は彼に金を払ってここにいてもらっている。驚くであろうが、そうなのだ。彼はとても古い友人で、私の目的に、とても重要なのだ。彼が誰の助けも受けずに、パリでお茶の商売を始め、財産をつくったのだが、そのようなお金を、私は彼に支払えない。それで、私が彼に会いに行くとき、私は自身を卑下して、彼に、私のために犠牲になることを懇願する。彼はそうすることに同意する。だから私は今、彼に生涯の恩義がある。ラフミルヴィッチがいないと、プリオーレは同じではない。私は彼のような人を誰も知らない。ただいるだけで、意識した努力なしに、まわりの人々全部に摩擦を起こす人は、他には誰もいない。」
この頃までに私は、グルジェフがすることには、いつも、「目にとまる」以上の意味をもっていると考える習慣を身につけていた。また、摩擦が衝突を生じ、衝突が人々を動揺させ、習慣的な、型にはまった行動に衝撃を与えるという彼の説もよく知っていた。またラフミルヴィッチにとって、プリオーレにいることからどんな報酬が、もっと正確に言えば、金銭以外の報酬が得られるのかということに思いをめぐらさざるを得なかった。これについてのグルジェフの回答は、ラフミルヴィッチにとっても、プリオーレにいることは特権であるというものだった。
G「彼の性格が、これほど役立つ仕事を果たせるところは、他のどこにもない。」
私はこの回答に大して感銘は受けなかったが、ラフミルヴィッチの動作がいちいち尊大であるのが目に浮かんだことは確かであった。私の推測では、どうみても奇妙な運命、つまり、彼はひっきりなしに騒動を起こしては、いつも激動の中に生きなければならない人としか思えなかった。


(G)は、鶏は重要ではない、非常に愚かな生きもの、だが、他の動物たちは大切に世話をするようにと言った。ロバはそれほど問題にはしなかったが、馬と犬を気にした。「馬と犬は、ときには牛についても本当であるが、特別な動物である。そういう動物には多くのことがしてあげられる。アメリカや西欧では、犬を笑いものにする。トリックや、その他馬鹿げたことを教える。だが、こういう動物は本当に特別であり、もはや、ただの動物ではない。」と言った。それから彼は、生まれ変わりということを聞いたことがあるかと尋ね、私は、あると答えた。輪廻(りんね)について様々な説を唱える人々、例えば仏教徒の中には、「動物が人間になることができたり、人間が動物に生まれ変わったりすることさえある。」と言う人たちもいると語った。こう語ったとき、グルジェフは笑って、「人は少し知っただけで、宗教について多くの奇妙なことをする。宗教に関して珍奇な話をつくリあげる。ときには少しばかりの真実を含んでいることもあるが、たいていは元々は真実であったことからきている。犬については、彼らの言う生まれ変わりが全部間違っているわけではいない。動物は2つの中枢部を持っているだけで、人間は3つの中枢部からなる存在であり、肉体、感情、知性、みな異なる。動物が第三の頭脳を獲得して人間になることはできない。だからこそ、第三の頭脳が獲得できないからこそ、いつも動物を親切に扱わなければならない。『親切』という言葉を知っているかな?」と言った。
私が知っていると答えると、グルジェフは、「決してこの言葉を忘れてはいけない。非常に良い言葉で、多くの言語にはない。例えば、フランス語にはない。フランス人は『シャンティー』と言うが、これは同じことを意味しない。親切という意味ではない。
親切は、親族、家族のような、同じようなものという語から来ている。親切は、自身と同じように遇することを意味する」と説明した。
彼は続けて、「犬や馬を親切に扱わなければならない理由は、他のすべての動物とは異なり、人間に接する犬も馬も、人間になることができない、人間のように第三の頭脳を獲得することができないのを知っていても、人間になることを願うからである。犬や馬を見ると、いつも動物の目にこの悲しみを見る。不可能なのを知っている。それでもなお、願う。不可能を願うということは、とても悲しいことだ。人間が原因で、このことを願うのだ。人はこういう動物を堕落させ、人は、犬や馬をほとんど人間のようにさせようとする。『うちの犬はまるで人間のようだ』と言うのを聞いたことがあろう。こう言うとき、人は真実に近いことを話しているのを知らない。ほとんど真実であるが、それでいて不可能なことなのだ。犬や馬が人間のようであるのは、この願いを持っているからだ。」と言い、「だから、フリーツ」(グルジェフはいつも私の名をこのように発音した)「この重要なことを忘れないように。動物を大事にし、いつも親切にしなさい。」と語り終えた。
そのあとで、グルジェフは、マダム・オストロボスキー
(Gの妻)について語った。妻への彼の仕事は彼を極度に疲れさせ、とても困難であると言った。「それは、妻には不可能に近いことをしてあげようとしているためであるからだ。妻は、一人だったなら、ずっと前に死んでいる。私の力で妻を生きさせ、生き続けさせている。とても困難なことだ。だが、非常に重要なことである。妻にとって、生涯で一番重要な時なのだ。妻は何度も生きる、とても古い魂であり、いま他の世界へ上昇する可能性を持っている。あと2、3ヶ月生き延びれば、戻って来て、再びこの生を生きなくてすむであろう。フリーツはもうプリオーレの家族、私の家族の一人であるのだから、妻のために、長生きではなく、適時の適切な死を強く願い、助けることができる。願いは助けることができる。他の人のために願うとき、祈りである。自身のためのときは、祈りも願いもよくない。自身のためには仕事だけがよい。他の人のために気持ちで願うときには、助けることができる。」
話し終えると、グルジェフはしばらくの間私を見つめ、あの愛情のこもった動物のようなやり方で、私の頭を軽く叩き、寝るようにと私を送り出した。


彼のユーモアの微妙な面は、いつも複雑で込み入っていたが、一風変わった表現をとった。その夏の初め、我々自身の楽しみから、幾人かで本館の地下の穴倉を探検していた。半マイル近くも探ったが、ネズミや、クモの巣や、カビ臭い湿気や、真っ暗闇のせいで、穴倉の果てまでは前進できなかった。世評によると、プリオーレ館は、ルイ十四世がマダム・ド・メンテノンのために建てたと言われていたので、この穴倉は、フォンテーヌブロー城に通じる地下道であったと噂されていた。
それはともかくとして、グルジェフは、我々が見つけたこのトンネルにひどく興味を示し、彼自身で調べに行った。トンネル発見後、一週間かそこら経ったとき、グルジェフは私に重要な仕事があると言った。彼は、かなり時間をかけてトンネルについて語ってから、私に、我々が当時1リットル8セントぐらいで買って食事のときに飲んでいた普通のレッドワインを一本持ってきて開け、中のワインを半分移し、その分だけペリエソーダ水を足すようにと言った。そのあと私はワインの瓶に元のコルクで栓をし、その回りを封ろうで密封し、瓶に砂とクモの巣(この目的にもってこいのトンネルのクモの巣)をかぶせ、彼が呼んだら、そのワインを持って行くことになっていた。
私が当惑したように見えたに違いなく、グルジェフは、翌週二人の著名な客が訪問することになっていると説明した。このワインは、その客たちのために特別に準備されたワインであったのである。
彼が私を呼び、「年代物の、特別なワインを一本」持って来るようにと言ったら、私がこの瓶と、栓抜きと、ワイングラスを2つ運んで行くことになっていた。こうした説明をしながら、彼は何回となく顔をほころばせた。彼が何かを計画しているときによく使った表現、「何かを目論んでいる」ことはわかったが、私は何も言わなかった。
二人の客が到着した。私はこの二人をよく知っていたし、プリオーレのだれもが世評によりこの人たちを知っていたので、二人は一般に「有名人」に与えられる機械的な賞賛と敬意を集めて(それに値いするかどうかは別として)迎えられた。私は二人(どちらも女性)をグルジェフの部屋へ案内し、呼び鈴のそばの待機所に引き下がった(私を呼び出すベルは2つあり、1つはキッチンに、もう1つは私の部屋にあった)。待ち構えていたベルが鳴ったので、グルジェフの部屋に飛んで行くと、「もともとは修道院であったプリオーレの廃墟を、最近の企画により発掘していたときに見つけた、あの特別な年代ものの珍品、まれなるワイン」を持って来るようにと言われた。こういう真に迫った誇張には、事実、根拠があったのである。プリオーレが十二世紀には修道院であったことを証拠だてる残骸がいくつかあった。もちろん、こういう残骸は、穴倉からのトンネルとは何も関係がなかった。元の修道院は、敷地の中のまったく違う場所に建っていた。
私は、言われたとおりにグラス2つだけと、泥と砂とクモの巣だらけのワインボトルと、気をきかせて、ウェイターのエレガントなタッチを添える、ワインを注ぐときのナプキンを持っていった。瓶を開けるようにと言う前に(私は2、3分その場にいるようにとだけ言われた)、グルジェフは二人の客に、これから出すワインについて話し始めた。
プリオーレは西暦900年に、ある修道会の僧侶たちによりその基礎が築かれ、彼らは他の修道僧たちのように、何よりもワインをつくったという、プリオーレ創始についての非常に不正確で長い話を始めた。「この特別な修道僧たち、とても知能が高い。こういう僧侶は、もはや地球には存在しない。そういう知能、」グルジェフは続けた。「そういう僧侶は、当然、とても素晴らしいワインもつくる。」
それから彼は、私が発するかもしれないいかなる笑いも制するかのように、素早く、厳しい目で私をちらっと見て言った。「私はプリオーレでたくさんの企画を持っている、すべてがとても重要だ。今年の企画の一つは廃墟の発掘である。」そう言ってから彼は非常に長々と、この企画に関わった人々の数やエネルギー、そして奇蹟的にも、いかにして正真正銘のこの知能の高い修道僧たちがつくった11本のワインに遭遇したかを話した。「今私に問題が起こる……だれがこういうワインを飲むのに値いするか? ここプリオーレを除き、もはや世界のどこにも存在しないワイン。このワイン、私には上等すぎる。私はすでにアルマニャックを飲み過ぎて、胃を壊している。それで私は、あたかも不可抗力(アウト・オブ・ゴッド)のように私に会おうとなさる、まさにあなた方レディースのことを考える。このワインを最初に味わうのに、まさに最もふさわしいレディース。」
私はワインを開けるように命じられた。ワインボトルをナプキンで包み、コルクを抜き、「ワイン」を少量だけ2つのグラスに注いだ。グルジェフは、強烈な集中度をもって私を監視していたが、私がワインを客たちに渡すと、同じように強烈な注意を二人に向け、期待でうずうずし、二人の反応が待ち切れないかのように見えた。
感動しきった二人の女性は、この重大な機会にふさわしく、グルジェフに向けて慎重にグラスを取り上げ、そっとすすった。グルジェフは自制できなかった。「おっしゃい!」彼は号令した。「コノワイン、イカナルアジ?」
二人とも、圧倒されたように、ちょっとの間口がきけなかった。やっと一人が、半分目を閉じたまま「すばらしいですわ」とつぶやくと、もう一人が、これに比較できるものは今までに一度も味わったことがないと相槌をうった。
当惑し、しかも二人の言ったことに恥ずかしくなり、私は部屋を出ようとしたが、グルジェフは身ぶりで堅く私を制止し、二人のグラスに注ぎ足さなければならないことをほのめかした。陶酔と恍惚の感嘆詞を連発しながら二人がボトルのワインを飲み干すまで、私は同席していた。グルジェフは私に、瓶とグラスを下げ、彼の部屋と同じ階にある、ナポレオンが寝たことがある部屋と、もう一つの、一時期には、ある王様の愛人が使っていた部屋を二人の客に準備して、準備ができたら彼に知らせるようにと言った。
部屋はもちろん朝のうちに準備されていたが、私は暖炉に火を入れ、ほどよい時間まで待ってから彼の部屋へ戻った。彼は私に、客を部屋へ案内するようにと言ってから、二人に、この驚くべきワインを味わったあとでは、休息しなければならないと言い、二人に敬意を表する、特別に準備された晩餐に備えるようにと言った。
あとで、彼が一人のときに会いに行くと、ワインのエピソードについては、ワインボトルの見栄えについて褒めてくれただけだった。私が、彼の「お芝居」は解読しているという様子で、意味深長な、知ったような顔で彼を見ると、グルジェフは、ちょっとしかつめらしく、しかし、かろうじて読み取れるほどに冷笑的な笑いを漂わせて、「どうやらこのレディーたちを判断してしまったように見えるね。だが、私が前に言ったこと、判断する前に、あらゆる面、あらゆる傾向を見る必要がある。このことを忘れないように。」と言った。

私には、グルジェフが抜け目のない漁師か、わな猟師のように思えることがあった。二人の女性と「謂れある年代もののワイン」のエピソードは、少なくとも私にとっては、彼が罠を仕掛け、あるいは釣針に餌をつけたあと、深々と椅子にもたれて、捕らえられた餌食が弱点を表すのを、興味しんしんと観察していた多くの例の一つにすぎなかった。これには悪意じみたものも感じられたが、救いは、たいていの場合、「餌食」には何が起こったのかわからなかったという事実にあったように思えた。人々との、この種の「遊び」が、彼には気晴らし以上の何ものでもなく、仕事による絶え間ない重圧感から気分を開放しているように思えることもあった。こういう経験を語るとき、彼はしばしば「シャボン玉破り」と呼んだが、標的になった人が往々にして「へこまされたこと」に気づかなかったので、そういう表現が特に適切であるとは思えなかった。
時がたつにつれ、グルジェフは、「祈祷師」とか、これよりはやや理解しやすい「奇蹟を行なう人」とかいった、おびただしい数の評判を得て有名になった。したがって、おそらく、日常茶飯事の「人生問題」とか「世俗的な」問題について、頻繁に助言を求められることは避けられなかったと思うが、彼自身は何度となく、彼の仕事というものは、こういう問題の解決とは何の関係もないということを繰り返し言っていた。にもかかわらず、前もって警告されていてさえ、非常に大勢の人々が、まさにそういった問題について彼に相談することを要求し、そして彼に相談を求めた人たちが、一般に知識人とかインテリとして知られていた人たち、少なくとも彼ら自身ではそう思っていた人たちであったことが、私にはとりわけ意外であり、いつも気まりの悪い思いをしていた。
莫大な旅費をかけ(彼らは金持ちだったので、たぶん意に介さなかった)、アメリカからプリオーレを一週間訪問し、グルジェフが、あれほど彼の領域ではないと言っていた。まさにあの種類の問題を相談しに来た女性のことを憶えている。彼女は到着すると、直ちに面会を要求したが、夕刻にならなければグルジェフには会えないと言われた。その女性には快適な部屋が当てられ、グルジェフの秘書から、部屋の使用料として毎日多額の金を払わなければならないと言われた。部屋代の他に、高額な「相談料」が請求されることも警告された。
グルジェフは、その女性と個人面接はせず、夕食に集まった我々みなのいる席で彼女に会い、歓迎した。彼女との予備的な会話の最中に、グルジェフは、彼女が重大な問題について、彼に相談しなければならないのを理解したと言い、彼の助言を得るために、あれほど長くて、高価な旅をしなければならなかったことに、ひどく感銘した様子を見せた。その女性は、ある問題にかなり前から悩んでいて、その前の冬にアメリカでグルジェフに会ったとき、彼こそ絶対に悩みを解決してくれるただ一人の人であると感じたのだと言った。グルジェフは、彼女を助けるように努力すると応じて、個人相談のアポイントメントを、彼の秘書に取ってもらうようにと言った。女性は、一堂に集合した我々全員の前でありながら、緊急な問題なのだと急き立てたが、グルジェフは、できるだけ早く面接するが、差し当たってその日の重要な仕事は、夕食をとることであると返事した。
夕食の席上、その女性はどう見てもひどく心配そうな様子で、次から次にシガレットを吸い、咳(せき)ばかりしていたので、みなの注目を浴びた。彼女がひっきりなしに咳をするので、グルジェフは話をしようとするのを諦めて、主賓がひどい咳に悩まされているようだともらした。女性は、彼の注意が向けられたことを快く思い、さっそく反応を見せ、相談したいと思っていた問題の一部が咳なのだと言った。グルジェフは不機嫌な顔つきで彼女を見て、何か言おうとしている様子であったが、いきなり彼女が口をきった。彼女が、夫と問題があり、シガレットを吸うのも、咳をするのも、彼女の見解では、その問題の「外面的現象」にすぎないと言って話に熱を入れ始めた頃には、我々の関心はみな(私は給仕していた)その話に集中していた。グルジェフはもう一度不機嫌そうに女性を見たが、彼女はおかまいなく続けた。シガレットは誰でも知っているように男根を象徴するが、シガレットを吸い過ぎたり、その結果咳をするのは、今言った夫との問題が生じるときにきまって発生する「現象」であると言い、さらに、彼女の問題はもちろん性的な問題であるとつけ加えた。
グルジェフは、いつもそうであったが、注意を集中して聞き、しばらく考え込んだあとで、どんな種類のシガレットを吸っているのか?と尋ねた。彼女はあるアメリカのブランド名をあげ、何年もそれを吸っていると答えた。グルジェフは、ブランド名の公開に非常に思いやり深くうなずき、暫く黙ったまま不安をもたせてから、治療、または解決は非常に簡単であると思うと言った。彼はシガレットのブランドを変えることをすすめ、たぶん「ガロアーズ・ブルー」が試すのによいブランドであろうと言った。差し当たって、その女性との会話は終わった。
あとで、広間でのやや儀式ばったコーヒーの時間になると、彼女が途方もなくグルジェフをほめちぎり、彼によって問題の解決が与えられたのはもちろんであり、彼の解決の仕方は例によって明白ではないが、彼女には彼の言ったことがわかると語っているのが聞こえてきた。
彼女は1日か2日プリオーレに滞在し、「ガロアーズ・ブルー」をものすごくたくさん買い込み(国外への持ち出しが許可されている量だけ)、それ以上面接を要求することもなく、グルジェフに彼の助言を理解したことを告げて、アメリカへ帰った。彼女が立ち去ったあとで初めて、グルジェフは彼女のことを「私に無意識の善意をもつ人との、天から与えられる偶然の出逢いのひとつ」と評した。彼はかなりの額の料金を請求し、女性は喜んで支払っていった。
このエピソードについて、そのとき私はグルジェフには何も言わなかったが、少し後になって、この時のことや、それに類似した他の偶発的な出来事にふれた。その時グルジェフは、プリオーレを維持したり、何も支払えない生徒たちの多くを扶養するために、金を集める彼のやり方について、大勢の人から、つまり「西欧の中産階級の道徳意識」をもつ人々から疑問を持たれたり、反対されたりしたと語った。グルジェフは怒ったように、我々の言う道徳とは金銭に基づく道徳であり、ああいう女性の場合について我々が気にするのは、明らかに彼が無理に金を出させ、代わりに何も与えなかったということについてだけであると言った。
「私の生涯を通し、」彼は力を込めて言った。
「私は、この仕事は誰もがする仕事ではないと言っている。宗教や、あなた方アメリカの精神科医が問題を解決できるなら、それがよい。人々は私の言うことを聞かない、いつも別の意味を見つける。私の言うことを勝手に解釈し、自己満足する。それなら、この満足感に対して支払わなければならない。何度も私は、私の仕事は普通の人生問題、性、病気、不幸、そういう問題を助けることができないと言っている。そういう問題が解決できないなら、そういう問題とは関係のない私の仕事は役に立たない。だが、私が何と言おうと、満足感を持つためにそういう人たちがここへ来る。たくさんシガレットを吸うあの女性は今、みなに、特に自分『自身』に、彼女の問題について私に相談し、私が答えを与えてもいないのに、与えたと言う。それであるから、そういう人たちは、多くの金銭問題を抱える私を助けることで、存在を正当化することができる。彼らの愚かささえ、よいことだ。私の仕事を助ける。そういう人たちには、これでもう充分な報酬である。
現代人の弱さは不運である。アドバイスを求めるが、助けられることを願わない。欲しいものを見つけることだけを願う。人々は、私の言う言葉を聞かない。私はいつも私が意味することを語る。私の言葉はいつもはっきりしている。だが、人々はこれを信じず、いつも他の意味を探す。彼らの想像の中にだけ存在する意味を。そういう女性、そういう人々がいないと、子供も、プリオーレの他の大勢の人々も、食べることができない。この女性が払うお金は食物のためのお金である。」
グルジェフが彼の立場から、彼のこのような行為を「説明」したり、または、「正当化」したことはめったになかったが、この時はその一つであった。


子供の仕事と呼んでいいほど子供たちに限られた「コンシェルジュ当番」が、楽しく、やりがいのある仕事だったのは、「門開け競争」があったからである。このゲームは、グルジェフが車を止めて、わざわざ門番に合図のホーンを鳴らさなくとも通過できるように、当番の子供がかなり注意して門を開ける待機をしていなければならないゲームだった。
この競争が難しかった一つの理由は、プリオーレに通じる入口が、鉄道の駅から下り坂になった長い丘のふもとにあり、ハイウェイがプリオーレの方にではなく、サモアの方向に大きなカーブを描いて曲がっているところに門があった上、その真ん前を、サモア行きの路面電車が走っていたためであった。電車の騒音で、丘を下ってくる車の音が聞き取りにくくなることがしばしばあり、ゲームを妨害した。また、グルジェフは、この競争に気づいてからは、ゲームが車のエンジンの音に助けられないように、たいてい惰力だけで丘を下ってきた。
グルジェフが不在のときには私につきまとったフィロス、つまり、あの犬に大いに助けられ、私はいつも遅れずに門を開け、彼が顔を大きくほころばせて帆船のように走り抜けられるようにした。
フィロスはどんな車の音にも耳をそば立てたが、グルジェフの車の音には飛び上がったので、フィロスを見守っていれば、たいてい成功した。
このゲームに興味をもったグルジェフは、あるとき私に、どうしていつも間違いなく、遅れずに門を開けることができるのかと聞いたことがあり、私はフィロスのことを話した。彼は笑いながら、協力の好例であると言った。
G「人は、たくさん学ばなければならないし、思いがけないところからたくさん学べるということだ。犬でさえ助けることができる。人間はとても無力であり、いつも助けを必要とする。」
その夏の終わり頃、グルジェフ氏が旅行に出かけようとしていたとき、私はコンシェルジュの当番をしていた。何かの理由で、その時の出発はとりわけ重要となり、出発寸前には、みなが車のまわりを取り巻いていた。私は残留組の一人であったので、彼が車のエンジンをかけ始めたとき、大きな門を開けに走っていった。焦ったために、つまずいて転んでしまい、門の片方を開けておくための地面に突き出た重い鉄の掛金で、片方の膝を打った。勢いよく転んだので、錆びついた掛金がやや深く突き刺さった。グルジェフが車で門を通り抜けようとしたとき、私に目を止め、脚から血を流しているのを見ると、車を止めてどうしたのかと聞いた。私が答えると、よく洗い落とすようにと言った。彼が出発してしまうと、私はすぐに言われたようにした。彼は昼頃出発したのだが、午後の半ば頃になると、脚はひどく痛み出し、膝は腫れ上がり、私は仕事を止めなければならなかった。その午後私に割り当てられた仕事は、寄せ木張りの床の掃除だった。床の古いワックスと、溜まった汚れをこすり落とさなければならなかったので、床の木の目に沿い、片足でスチールウールを前後に強くこする仕事であった。
夕刻までに、膝は恐ろしいほど腫れ上がり、夕食が食べられるほど気分はよくなかった。私は寝台に運ばれ、いろいろな手当てが施された。様々な人が、様々な手当てを提案したが、膝がひどく膿んでいるから、熱い玉ねぎの湿布がよいということに一致した。天火で焼いたか、たぶん茹でたかした玉ねぎを傷口に当てがい、その上から厚い透明な油布で包み、さらにその上に包帯を巻いた。目的は、もちろん化膿した膝から毒を吸い出すことであった。
プリオーレに居住する医者が手当てを監督し、絶え間ない注意と最善の看護を受けたが、脚はよくならなかった。翌日になると、膝は巨大に腫れ上がり、膝のかなり下から胴の方まで一面に小さい腫れ物が現れた。私は一日中意識が朦朧とし、湿布が取り替えられたり、いっそう頻繁に湿布の手当てを受けたときだけ、ときどき意識がはっきりとした。だが、どんな手当てを施されてもよくならなかった。
グルジェフが旅行から帰ってきたのは、その日の午後遅くになってからだった。帰ってからしばらくたって、彼は私のことを尋ね、私の状態について知らされると、部屋に様子を見に来た。彼は包帯と湿布を取り除き、近くの薬局へすぐ使いをやった。使いは、その当時「プラズムパッド」と呼ばれた明らかに湿布剤の一種である治療薬を持ち帰ったが、グルジェフに言われて部屋のストーブに火を起こし、湯を沸かした。湯が煮立つと、グルジェフは、その小さな四角い、中に何かが染み込んでいるパッドを熱湯に入れて取り出し、直ちに冒された膝に当てがい、その上から油布と包帯を巻いた。グルジェフは、パッドは熱湯から取り出したら直ちに当てなければならないと言い、私は、手当てを受けるたびに拷問にかけられるように苦しんだのを憶えている。グルジェフは、誰かが夜通し私に付き添って、この新しい湿布剤を四時間おきぐらいに塗布するようにと指示した。言われたとおりの手当てが施された。
翌日の午後になると、脚はかなり良くなり、外した湿布はゼラチン状の膿で真っ黒になっていた。その夜、グルジェフがまた私の部屋へ来た。土曜日だったので、スタディーハウスで公演が予定されていて、彼は、私も他の人たちと一緒に出席するようにと言って聞かず、行き帰りは彼の甥に私を背負わせると言った。我々がスタディーハウスに着くと、私は小さな区画に入れられ、公演中グルジェフの後ろに座っていた。終わると、背負われて私の部屋へ戻った。この手当て、または治癒には、特に驚くべきことは何もなかったが、私が一人立ちできるようになったとき、グルジェフには、これについて私に語らなければならないことがあったのである。
彼は、まだ少し包帯を巻いていた私の脚を見てみるようにと言い、治ったと断言したあとで、彼がプリオーレのゲートに到着したとき、いつもフィロスが彼の車を確認し、私の助けとなっていたことについて、彼がなんと言ったか憶えているであろうかと尋ねた。
私が、もちろん憶えていると答えると、この2つのこと、犬の助けと、私の膝の化膿には共通することがあると言った。この2つのことは、人間が、他の生きものに依存していることの一種の証明として説明されたのである。
G「犬は小さなことを助けるので、犬に感謝しなければならないが、私にはそれ以上の恩を受けている、おそらく命の恩人であろう。私がここにいないとき、みなが助ける、医者さえ、その脚を治そうと助けるが、悪くなるだけである。私が来て、私が脚を治す。私だけが、いまフランスにあるこの新薬について知っているからだ。私がこの新薬を知っているのは、私があらゆることに興味を持っているからで、生きるには、自身のために、すべてのことを知る必要がある。私がこの薬を知っていて、そして、遅れずに帰って来るからこそ、脚はもう良くなる。もう大丈夫だよ。」
私は、そのことを理解すると言い、彼がしてくれたことに感謝した。グルジェフは優しく笑い、私にしてくれたことに対して感謝するのは不可能だと言った。
G「生命に対しては感謝することはできない、充分に感謝することは不可能である。私が命を救わないことを願う時が来ることもあろう。フリーツはまだ若いから、死ななかったことを喜ぶ。こういう病気はとても危険であり、死にさえする。だが大人になると、生きていることをいつも喜ぶわけではない。たぶん私に感謝しない。死なせないので私を憎むかもしれない。だから、今感謝するのはよしなさい。」
グルジェフは続けて、人生は両刃の刀であると言った。
G「あなた方の国では、人生はただ楽しみのためにあると考える。あなた方の国には、『幸福の追求』という言葉があり、この言葉は、人々が人生を理解していないことを物語っている。幸福はとるに足りない、不幸の片面にすぎない。だが、あなた方の国でも、世界のほとんどどこでも、今、人々は幸福だけを求める。他のことも重要である。苦悩も重要である。苦悩も人生の一部であり、必要な一部である。苦しまないと、人は成長することができないが、苦しむとき、自身のことだけを考え、自身を哀れみ、苦悩することを願わない。居心地が悪く嫌なことから逃れたいと願う。人は苦しむとき、自己だけを哀れむ。本当の人間だったら、そうしない。本当の人間も時には幸福、本当の幸福を感じるが、本当の苦しみも感じ、自身の中にあるこの感じを止めようとはしない。本当の人間は、苦悩が人間にとって正常なことであるのを知っているから、苦悩を受け入れる。人間は、自身について真実を知るために苦しまなければならない、意志をもって苦しむことを学ばなければならない。苦悩が来るとき、意図して苦しまなければならない。存在全部で感じなければならない。そういう苦しみが、意識を持つことや理解することを助けるということを願わなければならない

フリーツは脚が痛むので、肉体の苦悩、身体の苦悩だけを持つ。この苦悩も、いかに自身に役立てるかを知っていれば、助けとなる。だがこれは、動物のような苦しみであり、重要な苦しみではない。他の苦悩、自
身全体で感じる苦悩によって、すべての人々がこのように苦しむということを理解する可能性が与えられる。生命は、自然や、他の人々や、すべてに助けられるということを理解する可能性を与える。人は一人では生きられない。一人であること、孤独であることではない。孤独であることはよくない。一人であることは人間にとってよいことであるが、一人だけで生きないことを学ぶのも必要である、本当の生命は、他の人間にも依存していて、自身だけに依存するものではないからである。今、フリーツはほんの少年にすぎず、私の言っていることが理解できない。だが、今言ったことを思い出しなさい。私が命を救ったことに感謝しないときに思い出しなさい。」

10
ある春の早朝、まだ暗かったが、地平線がやっとかすかに明るんだ頃、私は目を覚ました。その朝、何かが私の心を乱したのだが、何なのかはっきりしなかった。なんとなく落ち着かず、何か変わったことが起こっているのを感じた。いつもなら6時近くになるまで、怠惰に、心地よく、時間ぎりぎりまで寝台の中にいる習慣だったのだが、私は夜明けと共に起床し、しんと冷えきったキッチンへ降りていった。その日のキッチンボーイが誰であろうと、当番に当たった人の手助けを思うかたわら、私自身暖をとるために、大きな鉄の調理用ストーブに火を起こしにかかり、コークスを入れていたとき、私を呼び出すブザーが鳴った(ブザーは、私の部屋とキッチンで同時に鳴った)。グルジェフにしては早すぎたが、私の不安感に相応したブザーだったので、大急ぎで彼の部屋へ行った。グルジェフは、彼の部屋の開いた戸口にフィロスを傍らにして立っており、せき立てるように私を見た。「今すぐ、シャンボール先生を呼びに行きなさい。」と命じたが、後ろを向いて去ろうとする私を呼び止めて、「マダム・オストロボスキーが息を引き取った。そう言いなさい。」と言った。
私は大急ぎで本館を出て、養鶏場からあまり遠くない、シャンボール先生が住んでいた「街道沿いの宿屋」(おそらく、ずっと前にフランス人が名づけたのだと思う)と呼ばれていた小さな家へ走っていった。医者のシャンボール先生と奥さんと、幼い息子のニコライが、その建物の最上階に住んでいた。その他の階にはグルジェフの弟デミトリーと、彼の妻と、4人の娘たちが住んでいた。私はシャンボール家の人たちを起こし、知らせを告げた。シャンボール夫人は声をあげて泣き出し、先生は急いで身仕度を始め、私に、帰ってグルジェフ氏に彼(シャンボール)が来る途中であると伝えなさい、と言った。
本館へ戻ってみると、グルジェフは彼の部屋にはいなかったので、長い渡り廊下を越え、本館の反対側の外れにあるマダム・オストロボスキーの部屋へ行き、おずおずとドアをノックした。グルジェフが戸口に現れ、私は先生が来る途中であると告げた。彼は平静に見えたが非常に疲れた様子であり、とても蒼白であった。私に、彼の部屋のそばで待ち、先生に、彼がどこにいるか教えなさいと言った。数分後に先生が現れ、私はマダム・オストロボスキーの部屋へ案内した。先生が中へ入ってからわずか数分後に、グルジェフが部屋から出てきた。私は彼を待っていなければならないのかどうかわからず、決心のつかぬまま、廊下に立っていた。グルジェフは驚きもせずに私に目をとめ、彼(G)の部屋の鍵を持っているかどうかと尋ねた。持っていると答えると、彼の部屋に入ってはならない、また彼が私を呼ぶまでは、誰も部屋に入れてはならないと言った。そのあとグルジェフは、彼の後を追うフィロスと長い渡り廊下を越えて彼の部屋へ戻ったが、フィロスが彼と一緒に中へ入るのは許さなかった。犬は怒ったように私を見てから、グルジェフがドアに錠を掛けると、ドアを背にしておさまり、私に向かって初めてうなり声を出した。
長く、悲しい日であった。私たちはみなそれぞれに与えられた仕事をしたが、学校全体が憂いの思いで重く包まれた。その日は、年があけて最初の、本当に春らしい日であったばかりか、日の光も、いつにない暖かささえも、異常であった。みな、おし黙った静寂の中で仕事した。人々は囁き声で話し、館内全体に心許なさが漂った。おそらく葬式に必要な手配は、誰か、シャンボール先生かマダム・ド・ハルトマンがしていたのであろうが、たいていの人はそのことを知らなかった。誰もがグルジェフが現れるのを待っていたが、彼の部屋には人の気配がなく、朝食も取らず、昼食や夕食、またコーヒーを呼ぶベルも、その日一日中一度も鳴らなかった。
翌日、朝のうちに、マダム・ド・ハルトマンが私を呼び、グルジェフ氏の部屋をノックしてみたが返事がないので、鍵を渡すようにと言った。私は、鍵を渡すことはできないと言って、グルジェフに言われたことを説明した。ハルトマン夫人は私を説得するかわりに、マダム・オストロボスキーの遺体をスタディーハウスに移し、翌日の葬式までそこに安置しておかなければならないのが心配であり、このことをグルジェフ氏に知らせなければならないと思うが、彼が私に与えた指示を考えると、そっとしておいた方がよいと思うと言った。
その日の午後遅く、グルジェフからまだ何も合図がなかったので、ド・ハルトマン夫人はまた私を呼び、今度は鍵をもらわなければならないと言った。大主教(おそらくパリのギリシア正教会の)が到着し、グルジェフにそのことを知らせなければならないようであった。私は葛藤のすえ、ついに譲歩した。大主教の外観は、グルジェフが時によっては近寄りがたい外観を呈したのとほとんど同じように畏れ多く見え、私は大主教のおかしがたさに抵抗できなかった。
暫くして、ド・ハルトマン夫人はまた私を探し出し、鍵があっても部屋へ入れないと言った。フィロスが、錠を開けようとする夫人をドアヘ寄せつけないが、犬は私をよく知っているから、私からグルジェフ氏に、大主教が到着し彼を待っていると知らせるようにと言った。私は断念し、どうなることかと恐れたが、彼の部屋へ上がっていった。私が近づくと、フィロスはよそよそしく私を見た。前の日もその朝も、フィロスに食事をさせようとしたが、犬は食べようともしなかったし、水を飲もうとさえもしなかった。私がポケットから鍵を取り出すのを監視していたフィロスは、私が通り抜けるのを許すことに決めたようだった。犬はじっと動かなかったが、私がドアを開け、犬の上を跨いで部屋に入るのを許した。
グルジェフは椅子に腰掛けていた(寝台以外の何かに座っているのを見たのは初めてであった)彼は驚いた様子もなく私を見た。「フィロスが入れてくれる?」と言った。私はうなずき、邪魔を詫びた。「言われたことを忘れてはいないけれども、大主教が到着し、マダム・ド・ハルトマンが……」と言う私をグルジェフはさえぎり、「オーライ」と静かな声で、「大主教に会わなければならない」と言った。それから、ため息をつき、立ち上がって、「今日は何日?」と聞いた。
土曜日であることを知ると、彼は、トルコ風呂の火を焚く係であった彼の弟が、いつものように風呂の仕度をしているかどうかと尋ねた。私は、わからないけれども、聞いてみると答えた。グルジェフは、その必要はない、ただデミトリーに、いつものように風呂の仕度をするように言い、キッチンの係には、彼が夕食に降りてくることと、大主教をもてなす特別な食事をこしらえるように言いなさいと言った。それから、フィロスに食事を与えるようにと言った。私は、食事を与え、食べさせようとしたが、犬が食べるのを拒んだと話した。グルジェフは微笑した。
G「私が部屋を出れば食べるであろう。もう一度食事を与えなさい。」
彼は部屋を出て、ゆっくりと、考え込んだ様子で階段を降りていった。
私が死というものに関わったのはこの時が初めてであった。グルジェフはいつになく深い思いにふけり、それまでになく極端に疲労したように見え、ひどい変わりようであったが、私の知っていた悲嘆という既成概念には当てはまらなかった。悲しみも、涙もなく、ただ動くのに非常な努力をしている様子で、彼に異常な重たさが感じられただけであった。

トルコ風呂は3つの部屋と、燃焼炉のある小さな室から成っており、炉に火を焚くのは、グルジェフの弟、デミトリーの仕事であった。最初の部屋は更衣室、次の部屋は大きい円形の浴場で、シャワーが1つと、水道の蛇口が数カ所あり、壁の回りにベンチが並び、中央にマッサージ用のテーブルが1つ置かれていた。3番目の部屋はスチームルームで、木のベンチが何段か備え付けられていた。
最初の部屋には、部屋の一方にベンチが2列に長く並び、その反対側には、大きくて高いベンチが一つあった。グルジェフはいつもそのベンチに、他の男性たちと向かい合って腰掛け、彼らを見下ろしていた。私がプリオーレで過ごした最初の夏は、人数が多かったので、グルジェフは、トムと私に、ベンチに登って彼の後ろに座るようにと言い、私たちは彼の肩越しに、一堂に集まった大人たちをうかがっていたものだった。「重要」な客は誰でも、いつもグルジェフの真ん前に座らされた。学校改革以後、プリオーレにはあまり多くの生徒はいなかったので、風呂はそれほど混みはしなかったが、トムと私は、いつまでもグルジェフの後ろの場所を占有し続け、この習慣は、土曜の入浴に関連する儀式の一部となった。
我々みなが脱衣してしまうと、約半時間ほど、ほとんどの人がタバコを吸ったり、喋ったりするのだが、グルジェフは彼らに話をするようにと執拗にせまり、こういう時の話は、水泳プールでの話のように、たいてい卑猥で、きわどい類のものだった。我々がスチームルームヘ進行する前に、グルジェフは新来者たちを相手に、研究所の創設者であり、プリオーレ校の校長でもある彼の高貴な地位について、おきまりの長くて込み入った話を始め、話の中でトムと私は、「ケルピム」と「セラフィム」と呼ばれていた。
死について持っていた私の既成概念から、また、マダム・オストロボスキーが死去して36時間しか経っていなかったので、私は、月並みに、まさしくその土曜の夜の入浴儀式が、悲しみに満ち、哀れを誘う儀式であろうと思っていた。どんなに間違ったとしても、これ以上の思い違いはあり得なかった。
その夜、私は他の人たちよりやや遅く風呂へ行ったが、みな、まだ下着を着たままで、グルジェフと大主教が、脱衣することについて長い議論をたたかわせていた。大主教は、一切何もまとわずにトルコ風呂に入ることはできないと主張し、他の男性たちが真っ裸になることになっているのなら、入浴に参加することはできないと言った。二人の論争は、私が着いてから15分ほども続き、グルジェフはこの論争をとても楽しんでいるようだった。彼はいろいろな聖典からおびただしい数の例をあげ、概して、大主教の「虚偽の節度」をからかっているように見えた。大主教は頑として聞かず、一人残らず誰もが肌を覆えるものを探してくるようにと言い、誰かが本館へ使いに出された。明らかに、こういう問題が以前にもあったに違いなく、使いは、どこからかひっぱり出したモスリンの腰巻きをたくさん持ち帰って来た。私たちは一人残らず腰巻きを着用し、できるだけ控えめに脱衣するようにと言われた。やっとのことでスチーム・ルームに前進したが、いつもにない身なりのためにみな居心地が悪く、気まりの悪い思いをしていた。グルジェフが、大主教を彼の意のままにする様子で腰巻きを外し始めると、一人ずつみなが同じことを始めた。大主教はもう何も言わなかったが、頑なに、腰巻きを胴の回りに着けたままでいた。
スチーム・ルームから出て、体を流しに中央の部屋へ入ると、グルジェフの大主教にあてた長口舌が再開した。このように部分的に体を覆うことは、「虚偽の節度」の一形態であるのみか、心理的にも肉体的にも有害である。古代の文明は、最も重要な浄めの儀式が、いわゆる「陰部」に関わることを知っていた。その部分に衣服を着けていては適切に清浄できず、実のところ、以前の文明にみられる多くの宗教的儀式は、そのような清潔さを宗教上の聖なるしきたりの一部として強調していたと語った。グルジェフの長口舌の結果として生じたのは、譲歩であった。大主教は彼の論議には反対せず、私たちが望むようにすることに同意したが、自分の覆いは取らないと言い、実際に取らなかった。
人浴後、一番目の部屋、つまり更衣室で約半時間ほど続く「冷却期間」でも論争が続いた。スチームバスのあと、夜の冷気に当たる無謀を控えることにかけて、グルジェフは徹底していた。冷たいシャワーは絶対必要とされていたが、冷気は禁じられていた。更衣室での議論の中で、グルジェフは葬儀という問題を取り上げ、死者に対してさえ、彼らに敬意を表わす一つの重要な節度は、心身ともに浄めてから葬式に出ることであると語った。初めは卑猥であった彼の口調が、浴室で誠実さを帯びたが、最後には、なだめて説得する調子となり、大主教に無礼なふるまいをするつもりはまったくなかったということを何度も繰り返した。
二人の意見の相違が何であったにせよ、互いに相手を尊敬していたことは明白であった。饗宴と言えるほどの晩餐の席では、大主教が陽気で、ほどよい酒豪であることがわかってグルジェフを喜ばせ、二人とも同席の相手を楽しんでいるように見えた。

晩餐のあと、夜もだいぶ更けていたが、グルジェフは一同を大広間に集め、様々な文明にみられる葬式のしきたりについて、時間をかけて話した。彼は、マダム・オストロボスキーが望んだように、葬式は夫人の教会の定めに従って行われるが、と言ってから、
遠い昔の文明、現代人のまったく知らない文明に存在した、別のしきたりこそが当を得ていて重要であると語った。そうした葬式の一つとして、死者の親族や友人一同が、人の死後、三日間一堂に集まる一般的なしきたりがあったことについて詳しく語った。この三日間に、集まった人たちは、死者が生前に行なったあらゆる悪、または有害とみなされる行為、要するに死者が犯した罪について考えてから、集まった仲間にその話をする習慣があり、そうする目的は、死者の魂が肉体から脱け出て、別の世界へ行く闘いをするのに必要な対立を創り出すことであるという話をした
翌日の葬儀の間、グルジェフは沈黙したまま一言も言わず、まるで我々を置き去りにしたように、彼の肉体だけが哀悼者の中にいるような感じだった。彼は式のある時点、遺体がスタディーハウスから霊柩車に移された時に口を出しただけだった。棺に付き添う人たちが集まったとき、彼の妻と非常に親しかったある女の人が棺の上に身を投じて、悲しみに泣きわめき、むせび泣いた。
グルジェフはその人のところへ行き、静かに話しかけて棺から引き離し、葬儀が進行した。我々は棺の後につき、歩いて墓地に行き、彼の母堂の墓のそばにぽっかりと掘られた穴へ棺が下げられると、一人一人が、軽くひと握りの土を棺の上に投げた。式のあと、グルジェフと残りの我々みなが、母堂の墓と、やはりそこに埋葬されていたキャサリン・マンスフィールドの墓に黙祷した。

11
G「覚えているであろう?」と彼は続けて言った。「
人の善悪について、右手と左手のようだと話したのを? このことは男性と女性についても真実である。男性の本性は、能動、肯定、善である。女性は、受動、否定、悪である。あなた方アメリカ人の言う『不正』という意味の悪ではなく、非常に必要な悪、男性を善にする悪である。電灯のようである。一方の線が受動、すなわちマイナスであり、もう一方の線が肯定、つまりプラスである。そういう2つの要素がないと、明かりがつかない。

12
グルジェフの私に対する関係は、表面的には従来どおりであったが、一つの変化過程を経たことは明らかであり、私には、そうした変化が前のクリスマスに始まったように思えた。私は相変わらず彼の部屋を掃除し、コーヒーを運び、走り使いをしていたが、私たちの間に感じられた親子のような、気安い親しさが失くなっていくのは、彼が、私との間に一定の距離と慎みある関係を、意図して築き始めたからのように思えた。
それまでは、彼が私に話をしたときには、話の内容にかかわらず、私はまだ子供だから、彼の言っていることは大して理解できないと言われたものだった。私たちの関係が変わってからも、以前と同じように私によく話をしたことには変わりなかったが、話し方が慎重で、私を少年と呼ぶことはなくなった。私は、彼が私に独り立ちすること、私自身の頭を使うことを期待し始めたのだと感じ、要するに、私が成長することを奨励しているのだと思った。
グルジェフは頻繁に、人間関係全般や、男女の明確な役割や、人間の運命について論じ、こういう話題はたいてい、私だけを相手にするというより、私がメンバーであるグループを対象にして話した。他の人たちが聞いているところで、誰かに、何かについて話している場合は、彼の話していることは、聞いている誰にとっても有益であり、また有益であり得るということを我々が理解するように、彼はかなり気を配った。私たちの多くは、彼がある人に話しかけているとき、往々にして、その人にというより、むしろグループの誰にとっても、話題が自分自身にもあてはまると感じている人に話しているのだという感じを受けた。ときには、誰か他の人を媒介として、実は別の特定の人に話しているのだという感じを受けたこともあり、その人に直接話すのをわざわざ避けているようだった。
彼は何度となく、善と悪、能動と受動、肯定と否定のテーマに戻った。私にイアリングを取り戻す話をしたとき、マダム・シャンボールと彼自身について彼が言ったことは、この観点において感銘深く、私には、彼が繰り返し話してきた人間の二面性と、この2つを融和させる力を獲得すること、正確には、その力を生み出すことが必要であるというテーマの続きのように思えた。この力は、外面的な意味では、人々との人間関係においてつくり出されなければならず、「内面的」な意味では、個人の中に、その人自身の発展と成長の一部として、獲得、または生み出されなければならなかった。

グルジェフの見解、講話、講義、論議(誰もが個有の呼び方をしていた)の最も重要な要素の一つは、途方もなく聴衆を揺さぶる力であった。彼の身ぶり手まね、彼自身を発現する表現方法、声の抑揚と強弱の信じ難い幅、感情の使い分け、すべてが聴き手を魅了する、計算された演技のようであり、おそらく、当座は彼と論争できなくなるほど、相手をいやおうなしに魅惑するように演じられたのだ。グルジェフが話し終えたとき、紛れもなく、多くの疑問が聴き手の心に生じたのだが、疑問が起きる前に、深いところで永続する印象が聴き手の心に刻まれているのが常であった。我々は、彼が私たちに言ったことを忘れなかっただけではなく、たとえそう願ったとしても、彼の言ったことを忘れるのは不可能であった。
マダム・シャンボールとのイアリングのエピソードからしばらくして、彼はまた男性と女性についての問題、人生での男女の役割、さらに加えて、彼の仕事における両性の明確な役割、というよりむしろ、自己発展と適切な成長を目的とするすべての宗教的、精神的な仕事との関係における男女の役割を持ち出した。私は、その時も、またその後も何回となく、彼がこの主題について語ったとき、彼の仕事は「誰もがするため」にあるのではないばかりか、「女性には必要ではない」ということを繰り返したので、驚き、不可解だった。
グルジェフは、女性の天性は、彼の言う「自己発展」が女性には達成できない何かであるようにできているのだと言った。とりわけ、彼は次のようなことを言った。
G「
女性の天性は、男性の天性と非常に異なっている。女性は地から来ていて、発展の次の段階に登るのに(いわゆる天国へ行くのに)女性の望めることは、男性と一緒なら登れるということだけである。女性はすでに、何もかも知っているのだが、そういう知識は女性には役立たない。要するに、男性がいなければ、女性にとって知識は毒薬のようにさえなり得る。男性は、女性にはまったくないものを持っている。それは、あなた方の言う『大望』である。人生で、男性はこのもの(この大望)をいろいろなことに使うが、そうすることは人生にはまったく適さない、だが必要に駆られて使わなければならない。女ではなく男が山に登り、海底にもぐり、空を飛ぶのは、男性はそうせずにはいられないからである。男はそうしないわけにはいかないのだ。こういうことに抵抗できないのだ。あなた方の身の回りを見てごらんなさい。男性が作曲し、画を描き、本を書いたりする。こうすることが自己の天国を見つけることだと考える。
誰かが、科学や芸術は、とどのつまり、男性の世界だけに限られてはいないと反対した。グルジェフは笑った。
あなたが言うのは、女性の芸術家、女性の科学者のことだ。世の中は完全に混乱している、私は本当のことを言っている。本当の男、本当の女は、たんに一つの性ではない。男性とか女性とかであるだけではないのである。本当の人間は、こうしたものの組合せ、能動と受動、男性と女性の組合せである。あなた方でさえ、」彼は私たち全員を包むように、大きく身をゆり動かし、「ときどきこのことを理解する。ときどき、女のような感じ方をする男や、男のように行動する女を見かけて驚くことがあったり、自身のうちに、異性にふさわしい感情を感じることさえある。」と語った。

13
G「
我々はみな、我々が宇宙と呼ぶものの中に生きているが、非常に小さな太陽系、数ある太陽系の中の、一番小さな、しかも、少しも重要でない場所に生きている。例えば、男性と女性がいるが、それは、種の繁殖には2つの性が必要であるためであり、原始的な方法である。つまり、男の大望の一部を、人を殖やすことに使っている。高次の自己(ふさわしい天国)へいかに達するかを知ることのできる男性は、この大望を全部自己発展、あなた方のいう不滅の達成に使うことができる。我々が今存在する世界では、誰もこれをすることができない。不滅のただ一つの可能性は生殖である。子供がいれば、肉体は死んでも、彼のすべてが死ぬわけではない。世の中で、女は男の仕事をする必要はない。真の男を見つければ、仕事をしないで真の女になる。だが、言ったように、世の中は混乱している。今日の世界には、真の男は存在しない。それで女が男になろうとさえする。女性の天性に不適当な男の仕事をする。

14
マダム・オストロボスキーの死後しばらくすると、プリオーレの雰囲気が変わったように思えたが、その一部は、確実に夫人の死によるものであり(例えば、グルジェフは女の人と住んでいたが、その人は2、3か月後に妊娠した)、一部は、必然的に私が成長したからにすぎなかった。それまでは考えたこともなかった疑問が茫漠(ぼうばく)と私の心を占めた。こんな所で私は何をしているのであろうか、学校の目的は何なのであろうか、つまるところ、グルジェフはいったいどういう人物なのであろうか?
思春期の初めは、子供が、彼を取り巻く環境や、両親や、周囲の人々を評価し始める「ノーマル」な一時期だと思う。私がなぜそこにいたのかという問いに関して回答するのは容易であった。私をそこへ導いた、目的のない、でたらめな一連の成り行きは、私の記憶に新しかった。だが、私がそこにいるのを望むかどうかという問いは、その頃には別の問題に発展していた。その当時までの人生の成り行きについては、私にはどうすることもできなかったし、私という存在が、成り行きに影響を与えることもできなかった。13歳では、まだ自分の「運命」、つまり将来を自分で決めることはできなかったし、決める権利もなかったが、私は、将来を考えてみることは確かにした。
プリオーレでは、一時滞在者や、半永久的住人などのあらゆるタイプの人々が来たり去ったりしていたが、グルジェフに関して、また彼の仕事の目的と価値、あるいはその一方について、常に議論がたたかわされていた。多かれ少なかれ、波紋を投じてプリオーレを去っていった非常に多くの「生徒」たちがいた。ある場合にはグルジェフが、彼らが滞在することを望まなかったからであり、別の場合には、一個人としてのグルジェフに対するその人たち自身の受けとめ方と感じ方のせいであった。
私がそこで過ごした最初の2年間に私は、グルジェフが間違ったことをすることはあり得ない、彼がすることは何であろうと、それには目的があり、そうする必要があり、重要な意味があり、「正しい」のだと感じたり、考えたりする人たちがいるのを意識していたし、私自身も、確信をもってそういう見方に賛同していた。それまでは、彼について私自身で判断する必要は何もなかった。だが、私自身の立場に照らして彼を観るようになり、私自身が無意識に身につけた価値感で、彼や、生徒や、学校を評価しようとし始める時が来た。大部分は答えられない非常に数多くの問いが生じた。
その言葉が法則であり、誰よりも知識があり、「弟子たち」を完全に支配したこの人の力は、いったい何であったのだろうか? 彼に対する私の個人的な繋がりについては、何の疑問もなかった。私は彼を敬愛し、両親に代わって絶対の権威をもっていた彼に、献身的な忠誠と愛を惜しまなかった。たとえそうであったとしても、彼が私に及ぼした影響の大部分と、私を左右した彼の力は、彼を尊敬し崇拝していた他の人たちの感じ方と、さらに、服従したいという私自身の願望によっていたことは明白である。一方、私自身が彼に対して抱いた個人的な畏敬と尊敬の気持ちは、彼を恐れる気持ちほど重要ではなかった。彼を知れば知るほど、恐怖感は、議論の余地なく、本当の恐れになっていった。
彼が、オラージ氏の場合にやったように、人々をこてんぱんにやっつけるのを近距離で見ていた私は強烈な印象を受け、啓発され、面白いとさえ思った。だが、あの後まもなくオラージ氏がプリオーレを去り、戻らなかったということも、また含みのあることではなかったろうか? あの時以来オラージ氏は、ニューヨークでグルジェフ・「ワーク」を教えていたということ、そして、グルジェフが彼にどんなことをしたにせよ、必要があってそうしたに違いなかったということを聞いてはいたが、結論的に、だれがそういう判断を下すべきであったのだろうか?
グルジェフ自身は助けにならなかった。彼が語った忘れ得ぬことの一つであり、また、彼が何度となく繰り返して語ったことであるが、
人間の中に存在する、彼の言う「善」と「悪」は、共に均等に伸び、「天使」あるいは「悪魔」になる人間の潜在性は常に等しいという話であった。人間の本性にある「肯定」と「否定」、または「善」と「悪」の両面を公平に扱うために、自己の中に「融和力」を生み出すこと、言い換えるならば、「融和力」を獲得することの必要性について彼は何度となく話したが、この闘争、または「戦争」は決して終わらず、その闘争ができるようになればなるほど、生きるのが必然的に難しくなるであろうということも言っていた。見通しは、「知れば知るほど難しくなる」というものの一つであるようだった。この、やや厳しい行く手の見通しについて、たまに抗議の反撃を受けたときには、彼は、我々は個人としてもグループとしても明確に考えることができず、この見通しが人の将来についての適切で現実的な見通しであるかどうかを判断できるほど成長した人間ではなく、これに反して、彼は彼の話していることを知っているのだという、およそ反駁(はんばく:他の意見に反対し、論じ難ずること。論じ返すこと)できないことを言って回答とするのが定石のようであった。私に対する無能という非難を弁護し得る論拠は何もなかったが、彼の有能を証明する絶対に許容できる証拠もなかった。彼のもつ迫力、磁力、威力、能力、さらに叡知さえ、おそらく否定することはできなかったであろう。だが、こういう属性、というより特性の組合せが、そのまま自動的に、適切な判断という特性に繋がるものであろうか?
信じきっている人たちと論争したり、一戦を交わしえたりするのは時間の浪費である。グルジェフに関心を持った人々は、必ず2つのタイプのどちらかに終わるのが決まりであった。つまり、彼に賛成か反対かのどちらかであったのだ。プリオーレに留まったり、パリ、ロンドン、ニューヨーク、その他各地の「グループ」に通い続けた人たちは、グルジェフがある種の回答を握っていたということを、少なくとも適度に信じていたからであり、さもなければ、彼と彼の「ワーク」から離れていったに違いない。そういう人たちは、グルジェフがくわせ者であるとか、悪魔であるとか、あるいはもっと単純に、彼は間違っていると信じたからこそそうしたのであった。
聴衆が彼に好意的であったと仮定すれば、彼には信じられないほどの説得力があった。風采といい、物理的に人を引きつけるマグネティズムといい、否定できない特性があり、概して圧倒的であった。彼の論理(日常活動に関して)に反論するのは不可能であり、感情で色づけられたり、歪められたりしたためしがなく、その点では、日常の、まったく「普通の」問題に関して、彼が公平であったことは疑いようのない事実であった。プリオーレのような施設を運営していく間に起こった問題や論争をさばく場合、彼は、思いやりがあり、考え深い裁判官で、彼と言い争ったり、彼を不公平と呼んだりすることは、馬鹿げた、非論理的なことであったろう。
しかしながら、当時の年齢における私の心に痕跡を残したミス・マジソンとの様々な経験を振り返ってみると、グルジェフは彼女に何をしたのであったろうか?という疑問が生じる。彼女の命令を無視した人たち全部に報酬が与えられたとき、グルジェフは彼女にどんな影響を与えたのだろうか? なぜ彼女にあのような権限をもつ地位につかせたのであろうか? もちろんミス・マジソンがいたということが、こういう疑問への一つの回答となった。あれほどの信奉者、あれほどの忠実な弟子であったように見えた彼女は、グルジェフが彼女に対してしたことに、明らかに、疑問を抱かなかった。だが、長い目で見て、それが回答であったろうか? ミス・マジソンが、彼のマグネティズム、彼のプラスの力に圧倒された、たんなる証拠にすぎなかったのであろうか?
当時私は、グルジェフに対抗する、または、対抗できる人、あるいはそういう影響力を求めていたのではなかろうかという感じを持っていたが、40年近く経った今でも、そういう感じ、要するに、そういう考えを変える確かな根拠はもっていない。そのような好敵手は、もちろんプリオーレにはいなかった。あの年齢においてさえ、彼の信奉者、あるいは「弟子たち」の目もあてられない忠誠に、私は一種の軽蔑をもち始めていた。彼らは、グルジェフについて話すときは声をひそめ、彼の言ったことや、したことが理解できなかったときには、私から見ればあまりにも唯々諾々と、洞察力に欠けていたことを自責した人たちであった。要するに、彼の崇拝者たちであったのだ。
ある人物や、ある哲学を「崇拝する」人たちの集団がつくり出す雰囲気は、その当時でも、現在でも、自壊の種子を内包しているように思え、嘲笑の対象になりやすいことは確かである。私にとって不可解だったのは、グルジェフ自身が、彼を固く信じていた敬虔な信者たちを嘲笑したことであった(2人のレディーと「謂れある年代もののワイン」の件が証明するではないか)。私の子供じみた、単純な考えでは、彼にとって恰好な相手であれば、彼は誰であろうとその人を犠牲にしてまでも、「面白半分」に、どんなことでもするらしかった。
私の見るところでは、彼は生徒を相手にゲームを楽しんだだけではなく、ゲームはいつも彼に都合よく「仕掛け」られていて、面と向かって「羊」と呼んだ人たちと対抗し、おまけに、そういった人たちは、「羊」と呼ばれることに抗議もせずに、言われたままを受け入れた人たちであった。敬虔な信者の中にも、彼と矛先を交わして議論をたたかわせた少数の人たちがいたが、結果的には、最も「狂信的」というよりむしろ、「確信的」になった人たちであり、彼らにとってグルジェフと軽い冗談を交わすことは、彼となんとなく親しくしていることの証拠であり、彼の思想に完全に同意するために与えられた特権であって、いかなる意味においても、反抗の意志表示ではあり得なかった。反抗精神のある人は、冗談を交わすためにプリオーレに留まりはしなかったし、また、彼に挑戦したり、反対したりするために滞在することは許可されなかった。そして、「哲学上の独裁者」は、どんな反論にも我慢がならなかったのである。
13歳であった私を悩ませ始めた問題は、深刻で、しかも、少なくとも私にとっては、危険なものであった。私は何と関わり合っていたのだろうか? 彼は人々を笑いものにしていたようだったが、おそらく私も同じ程度にかなりかつがれていたであろうということは気にもしなかったし、彼がそうしたかどうかは、私にはわからなかった。だが、もしそうしていたのなら、私はその理由を知りたかった。グルジェフが大人たちを「すっぱ抜き」、嘲笑するのを見ることは、子供であった私には面白かったということは否定できないが、彼のそうした行為が何か建設的な目的に役立ったのであろうか?
あの年齢であってさえ、私は、おそらく悪が善を生むということを何となく意識していた。グルジェフが「客観的」道徳と「主観的」道徳について話した場合、彼の言っていることが全然わからなかったわけではなかった。
最も単純に解釈すると、しきたりが主観的道徳を支配するのに対して、グルジェフの言う「客観的」道徳は、本来の直感と、個人の良心にかかわる問題であった。道徳について論じた場合、彼はその人が住む社会に特有な道徳上のしきたりと風習に従って生活することを奨励し、「郷に入れば郷に従え」という諺を好んだが、伝統や、しきたりや、法律より、むしろ良心に基づく、個人の客観的な、その人自身の「道徳」が必要であることを強調した。結婚は、主観的な道徳上のしきたりを表す一つの好例であり、客観的には、自然も、個人の道徳も、そのような宣誓を必要としないと語った
グルジェフの最初の本の題名が、『ベルゼバブの孫への話』または、『人間についての、公平で客観的な批判』であると聞いたとき、私は特に動揺しなかった。悪魔、ベルゼバブを批評家にした着想は、私には気に入らなかった。グルジェフが、キリスト、釈迦、モハメッド、さらにこの人たちと同じような他の指導者たちが、結局は失敗した「神の使者たち」であったと述べたとき、おそらく今度は悪魔にチャンスを与える番なのだという、言わず語らずの論理を納得することができた。思春期の青年として私は、世の中について確かな意見を持ってはいなかったので、世界は「完全に混乱している」とか、「さかさまである」とか、あるいは、こういう彼の言葉を私自身の言葉に置き換えれば、「総じてめちゃくちゃ」ということなのだが、こういう彼の評価を認めるのは困難だった。彼が挙げた宗教家たちが何らかの理由で失敗したのだったら、今度はグルジェフ(またはベルゼバブ)が成功するという何らかの保証があったのであろうか?
何に失敗したり成功したりするのであろうか? 人類にはどこか調子の狂ったところがあるという論理は受け入れることができたが、どこが「狂っている」のか正確に知っていると断言する彼に対しては、一個人の立場から抵抗を感じた。また、受け入れることは自覚することではなく、治癒について真剣に論じるには、初めに病気であることを自覚しなければならないということが、論理にかなっているように思えた。ということであるならば、私は診断するために、「人間の状態」について、ある評価を下すように強いられたのであろうか? 私にはそうする能力はなかったが、そのように試みることに反対ではなかった。私が見いだし得たただ一つの答えは、どう考えても答えになっていなかった。
こうした思惑のすべてが、必然的に、人間グルジェフに帰着した。「自己自身」を知ることを公然の目標にした「自己観察」のような訓練を与えられたとき、私には議論する余地がなく、彼が指摘したように、彼にはあらゆる伝統的宗教に支えられた重みがあった。おそらく、相違はその方法自体にあったのであろうが、私は彼の方法の優秀さを評価する立場にはなかった。目標自体は、何も新しいものではない。
人間が自然より劣るという前提を認めるならば(そして私はこの前提を否定する立場にはなかった)、何らかの解決があると仮定してではあるが、グルジェフも人間である以上、必ずしもすべての回答を握っているとは限らないという可能性について、何の躊躇もなく考えさせられた。当時の年齢において私が理解した彼の哲学には、異論なく人を惹きつける魅力があった。それ以上の何かであったのだろうか? すべての「神秘的」概念は、神秘的であるということ自体、あるいは何かの点で謎めいているというこの上なく単純な理由で、詮索好きな人にとっては魅力的である。
こうした疑問は厄介であり、自信を喪失させ、人間の「存在理由」を根本から脅かしさえする。生そのもの、人間の存在理由についての疑惑と疑問は、同心円を描くクモの巣のように連鎖反応を起こし、つまるところ、グルジェフを鍵を持つ人として認め得るか、または認めるかという問題に尽きた。彼のいるところで暮らしているという単なる理由によって、他の宗教や、生に関する概念の説く「信条」や「信念」に隠遁(隠遁という言葉は必ずしも適切ではない)するのは不可能であった。
私は、宗教、哲学、またはもっと現実的な活動であってさえ、組識化された活動というものを拒否した彼に惹かれただけではなく、彼が、個人の真実、行動を支持するように見えたことに、さらに強く惹かれたのである。だが、私が恐ろしいと感じたのは、個人としても、集団としても、人間の生が無益であるという考えに必然的に帰着したことであった。樫の木のどんぐりの話は、子供であった私に強烈な印象を残した。人間の生が有機体のたんなる一形態であり、発達するかもしれないし、しないかもしれないという概念は、聞いたことがなかった。だが、グルジェフのワークが現実に、「樫」に成長するための適切な方法であったのだろうか? とどのつまり、私は悪魔と関わっていたのだろうか? 彼が何者であろうと、私は彼が好きだったし、確かに心を奪われていた。そうであっても、私がたった一度だけ真剣に自殺しようと試みたのが、その年のことだったということは、今でも深い意味をもっている。私は、心を苦しめてやまない疑問に呻吟(しんぎん)し、何らの回答も見いだせないまま、それ以上容赦なく問い続けることができなくなるほど苦悶した。私にとっては、明らかに、回答を握っているただ一人の人がグルジェフ自身であるかもしれないように思えたが、悪漢でもあり得たかもしれない彼に、直接聞くわけにはいかなかった。私は、小瓶に入ったメチルアルコールを飲んだ。表面的にはあまり断固とした企てではなかったが、真剣に意図した企てであった。瓶には、「毒薬」と書いてあり、私はそのまま信じた。だが、特に劇的な結末には至らなかったのである。胃がむかつき始めただけで、吐剤を飲む必要さえなかった。
自殺を試みたのは夜であり、翌朝、いつものコーヒーを持ってグルジェフの所へ行くと、彼は私をちらっと見ただけで、どうしたのかと聞いた。私は、私のしたことを話し、すぐに体がおかしな反応を示したことを、やや恥じらいをもって話した。その時私は、もう彼が悪魔かどうかということは気にかけなかった。彼は、間違いなく自殺するには、心から意図しなければならないと言っただけであった。なぜそうしたのかということは聞かなかった。あの朝、一対一で彼と向かい合っていた私は、互いに、全く公平に赤裸々であるという奇妙な感覚を持ったのを覚えている。

15
プリオーレの我々みなを少しばかり驚かせたことに、ヴィッシーでグルジェフが出会った例のロシア人家族が、彼の招待に応じて学校を訪問したのである。グルジェフ自身が家族を出迎え、午後のあいだ家族をもてなす人を手配したあと、彼はハルモニウムを持って部屋に閉じこもった。
その宵、「祝宴」のあとで、客たちは一定時刻に大広間に来るように言われると、彼らの部屋へ立ち去った。その間、グルジェフは残るわれわれ全員を広間に集め、家族の娘について行なう実験について、あらかじめ説明しておきたいと語った。彼は、娘が「特に催眠にかかりやすい」ということは、前に私たちに話していたということを思い出させ、それに加えて、彼女が特別な種類の催眠に敏感であり、彼がそれまでに出会った数少ない人の一人であると言った。そのあとで、彼は、催眠をかける前に、たいていの場合被験者がある物体に注意を集中するという、概して一般的な催眠術の形態について説明した。
そのあとで、一般に西洋では知られていないが、東洋では習慣的に使われている催眠方法があると言った。その方法が西洋では使うことができないのには確かな理由があった。音階、または和音の組み合わせを用いる催眠方法があるが、普通のピアノの「半音階」に反応する被験者を見つけるのは、西洋では不可能に近いということだった。両親と一緒にプリオーレを訪問中の若いロシア人の女性にみられる特殊な感受性は、半音の組み合わせに敏感に反応する感受性であり、この要因のために、その女性は変わっているのだと説明された。仮に、聴覚で識別できる十六分の一音を出せる楽器があれば、こうした音楽的方法で、グルジェフはだれでも催眠状態にすることができるということだった。
こうした説明のあと、特にこの日のために彼が午後の間に創作した曲を、ド・ハルトマン氏にピアノで演奏させた。その曲は特定の和音をもって一種のクライマックスに達し、グルジェフは、この和音が例のロシア人女性のいるところで奏でられると、彼女は直ちに深い催眠状態に陥り、完全に不随意的に、彼女自身は全然予期しないまま、催眠状態に入ると語った。
グルジェフはいつものように、大広間の一端にある大きな赤い長椅子に、入口に面して座り、ロシア人家族がやって来るのを見ると、ド・ハルトマン氏に演奏し始める時であることを合図してから、ピアノの演奏中に大広間に到着した客たちに、中へ入って、席に着くようにうながした。彼は娘に、部屋の中央にある椅子を指し示した。彼女はグルジェフと向かい合いに、部屋中だれからもよく見えるところにある椅子に腰をおろし、一心に音楽に耳を傾けていたが、非常に感動した様子であった。果たせるかな、あの特定の和音が鳴った瞬間、彼女は全身ぐったりとなり、頭を椅子の背にもたれ、あおむけになったのである。
ド・ハルトマン氏の演奏が終わるやいなや、心配して娘のそばに駆け寄った両親に、そばに立っていたグルジェフは、彼の実験と、娘の異常な敏感さについて説明した。両親はすぐに落ち着いたが、娘が意識を回復するには一時間以上もかかり、その後も、2時間ほど極度に感情的な、完全なヒステリー状態を続け、グルジェフに指名された人と一緒に、テラスを昇ったり降りたりしなければならなかった。その後グルジェフは、もう数日間プリオーレに滞在するように家族を説き伏せ、娘に取り返しのつかない害は何も与えていないということを確信させたのだが、そうさせるには、その夜の大部分を、彼は娘と、娘の両親と一緒に過ごさなければならなかった。
家族が滞在することと娘が同じ実験にあと2、3回応じることに同意したのであるから、明らかに彼はその家族を懐柔することに成功したわけである。実験の結果はいつも同じであったが、彼女が意識を取り戻したあとのヒステリー状態は、それほど長くはなかった。
こうした実験の結果について、もちろん、いろいろな話が交わされた。非常に多くの人たちが、娘がそれとなく協力していたのだと感じ、彼女がグルジェフと示し合わせていなかったという証拠は何もないと感じているようであった。そうであっても、また医学的な裏付けがなかったとはいえ、彼女が加担したとかしないとかにかかわらず、催眠術にかけられたことは疑いのない事実であった。
彼女はいつも完全なトランス状態になり、その結果、いつもまったく手に負えない病的興奮状態を発現したが、演技による発現でなかったことは確かである。
この時も、実験の目的は、何か他のことにあった。われわれには知られていない「科学」の一形態が存在することの劇的実演であったのかもしれなかったが、ある人たちにとっては、グルジェフが人々を手玉に取った「遊び」の一つにすぎないように思われ、グルジェフのワーク、大義、目的について、一連の疑問を引き起こした。概して、彼にある程度の異常な力と知識があるということを証明する実験のように思われたが、大部分の人にとって、そうした実験は決定的に必要ではなかった。自分自身が選んでプリオーレにいた人たちには、グルジェフが、少なくともただものではないということを証明するあのような実験は、ほとんど必要ではなかった。
この実験は、グルジェフについて私がもっていた疑問のいくつかを再燃させたが、何よりも私の中に、ある抵抗感を発生させた。こうした疑問が手に負えず、私を苛立たせるということに気づき始めたのは、この類の問題こそ、自己を喪失する領域へ私をずるずると引き込んでいく感じがしだしたためであった。あの年齢において私は、「奇蹟」を信じたり、人間の存在についてその理由や回答を見いだすことをずいぶんと願ったものだが、なんらかの具体的な証拠が欲しかった。グルジェフ自身のもつ、彼そのもののマグネティズムは、往々にして彼の高位の知識を充分に証明していた。
私にとって、概して彼が信用できたのは、彼は私が知っていた他のだれとも充分に「異なり」、納得できる「超人」であったからである。一方、私を苦悶させたことは、一見明白な事実と考えられる問題に必ず直面したことであった。つまり、だれであろうと、神秘的な意味での、または超世俗的な意味での指導者を名乗る人は、ある意味の狂信者であらざるを得ず、特定の大義を完全に信じ、その大義に献身する。したがって、どうしても社会に受け容れられ一般に認められた哲学や宗教と対立せざるを得ない、という点であった。グルジェフを相手に論争するのは困難であったばかりか、反論すべき点は何もなかった。もちろん、彼の方法やテクニックについて論争することはできたが、そうするには、彼の大義とか、目的に同意するという前提を認めなければならなかった。私は、彼の目標とする人類の「調和的発展」には、なんらの反対意見ももっていなかった。調和的発展という語には、反対し得る何ものもない。
私の疑問を満足させ得るただ一つの答えは、なんらかの結果、つまり実体のある、可視的結果が、グルジェフにではなく、生徒たちに存在しなければならないということであるように思えた。すでに言ったように、グルジェフについては、信じるに足りる事実を認めることができた。だが、彼の生徒たちはどうであろうか? 生徒の大部分が、彼の調和的発展という方法を数年間実践してきたのなら、目に見えるなんらかの結果が、彼らにも認めることができたのではなかろうか?
グルジェフの亡妻、マダム・オストロボスキーを除いては、生徒たちがいるという単純な事実をもって、どのような種類の尊敬にも値したグルジェフ自身の他には、そのような生徒は見当たらなかった。非常に多くの先輩格の生徒たちが、確かに共通して持っていたのは、私が「てらった落ち着き」とみなしたものであった。この人たちは、ほとんどいつも落ち着いていて、自制し、冷静であるように見えたが、決して本物の冷静さではなかった。彼らは外面的には自制しているような印象を与えたが、決して真実の響きを伴わず、グルジェフがそうしようと思ったなら、彼らの平衡をくつがえすのは簡単なことであった。その結果、上級の生徒たちのほとんどが、外面的な平静さと、異常な興奮状態との間を往復していた。彼らの自制というものは、抑制または抑圧(私はいつもこの2つの語が同意語だと感じていた)によって達成されたように思え、そのような手段を目標とすることは、社会的な見地を除いては、好ましいとも価値があるとも信じることはできなかった。グルジェフも、しばしば安らかな印象を与えたが、彼の場合は決して不自然には見えず、概して彼は、その時に発現したいと思ったことを発現し、それもたいてい理由があってそうしたのである。その理由を論じ、彼の動機を詳細に検討するのももっともであるが、少なくとも、理由があったのである。つまり彼の場合、自分のしていたことを知っているように見え、それに対して支配力を持っていたように見えたのだが、生徒たちの場合についてはそうではなかった。生徒たちは超然を装って、凡俗を脱しようとしているように見えたが、グルジェフはどんな時でも。静けさや「安らかさ」を表わすこと自体が目的であるようには発現しなかった。彼は生徒のだれにもまして、かっと怒ったり、一見抑制できない動物的衝動の発作を楽しみそうだった。私はいろいろな機会に、彼がみなのしかつめらしさ
(意味:まじめくさっていて、堅苦しい感じがする。もったいぶっている。)をからかい、円満に発達した人間には「楽しむ」ことが絶対に必要であるということを促すのを聞いていた。彼は、「楽しむ」という言葉を使い、自然の例を挙げ、すべての動物が、人間の知らない、毎日「楽しむこと」の価値を知っていると言った。それは「よく学びよく遊べ」というまったく単純なことのようであり、遊ばないということでグルジェフを非難するのは不可能であった。これにくらべて、先輩格の生徒たちは、悲しげで、むっつりとしていて、「調和的発展」のあまり納得のいく見本ではなかった。概して調和的であったなら、少なくとも円満な成長の一面として、ユーモアや笑いなども含んでいたはずである。
とりわけ、女の人たちはだめだった。男性たちは、少なくとも浴場や水泳プールでは、世間の溜まり場に見る人間の滑稽さとかかわり合い、それを楽しんでいるように見えたが、女性たちは全然冗談を言わなかったばかりか、「何々運動」とかいったことに夢中になるご婦人連におきまりの、だらりと垂れ下がった衣服をつけ、「弟子たち」の役柄を装っていた。外面的には、何かの宗派の女性聖職者か、見習い尼の感じだった。13歳の一個人にとっては、そのどちらもありがたくもなければ、もっともらしくもなかったのである。

16
私が「わな」と考えたことに対して目覚め始めた抵抗は、グルジェフやプリオーレそのものとは、ほとんど関係がなかった。私か自由行為者(それは、もちろん、少なくとも当然成人であることを前提とする)であり、グルジェフに彼の学校を去りたいと申し出たならば、彼は直ちに去るようにと言ったであろう。ラフミルヴィッチを除けば、グルジェフは誰に対してもプリオーレに留まるように頼んだり、説得したりしたことは一度もなかった。それどころか、滞在を許される特権として、多額の寄付をしたであろうと思われる、実に多くの人々さえ追い払っていた。ラフミルヴィッチの場合はおよそ適例とはいえず、ともかくグルジェフによれば、彼はプリオーレにいることに対して金を支払われ、「頼まれて」そこにいたのである。こうした理由から、私は、グルジェフは障害ではないと考えた。
私の考えでは、本当の障害はジェインであったが、彼女はまれにしかプリオーレに姿を見せず、たまに来ても一回に一日か二日しかいなかったので、私はトムの上に、彼女を投影するようになった。母と過ごすクリスマスを、私たち兄弟が違った気持ちと態度で迎えたことが、二人の間の相違をいっそう大きくした。グルジェフかジェインのどちらかが、その冬をプリオーレで過ごず私たちを同じ部屋に住まわせることに決めたのだが、そのために二人の仲が良くなりはしなかったのは言うまでもない。
私たちが一緒に過ごした成長期を通して、トムと私は異なる攻撃手段を用いることに慣れっこになっていた。私たちは二人とも衝動的で、気が短かったが、気性の表れ方が違っていた。二人がけんかすると、意見の相違はいつも同じ形をとった。トムは癇癪を起こして格闘した(彼はボクシングとレスリングを大いに賛美していた)が、私は格闘することを軽蔑し、皮肉たっぷりに罵倒する手に訴えた。一室に閉じ込められた私たちは、攻撃手段が入れ替わったような、奇妙な立場に立っていた。ある夜、彼はあくまでもジェインを弁護し、頑迷に私を非難し続けたので、私は彼を挑発し、ついに私をまんまと殴らせた上で、生まれて初めて(憶えているが、彼が最初に一撃をくらわさなければならないということが決定的条件であった)私は彼を思う存分、私の中に暫く時間をかけて集結しつつあるように思われた力を加えて殴った。その一撃はただ強烈であったばかりか、思いもよらぬほど強烈だったので、トムは寝室のタイルの床に音を立てて倒れた。彼の頭が床に打ち当たった音を聞き、頭から血を流しているのを見て、私は恐怖におびえたが、彼が実際に立ち上り、命は保っているようだったので、私はその場の優位を逃さず、もう一度文句をつけるようなことをしたならば、殺してやると言ってやった。私の怒りに偽りはなく、本気で(感情において)そう言った。彼が床に倒れたのを見たときにもった一瞬の恐怖は、彼が身動きしたとたんに消え去り、私は、この一回限りで、肉体的な恐怖感から永久に解放されたように、まさにその時、自分が、自信のある非常に強い人間であるように感じたのである。
2日後、私たちは別々にされ、それ以上同じ部屋に住むことはなくなり、私は大いに気が安まった。だが、これでこの問題が片付いたのではなかった。またもグルジェフを煩わすことになり、私は彼から諭された。彼は、知っているかどうかはともかく、私の方がトムより強く、強者が弱者を攻撃すべきではないと言い、また両親を敬うように、「兄弟も敬うべき」であると言った。母の訪問や、それに対するトムやジェインや、グルジェフの態度にさえ、まだ神経過敏のままだった私は、人を敬うことに関して忠告される必要はないと、怒気を含んで返答した。するとグルジェフは、トムは年上なのだから立場が異なると言った。私は、彼が年上であるということには私には何の関わりもありはしないと言い返した。グルジェフは怒って、彼の言っていることを私自身のために聞かなければならないと言い、聞こうとしないなら、私は「自分自身の神に背いている」ことになるのだと説教した。彼の怒りは、私自身の腹立った気持ちを募らせる一方で、私は、たとえ彼の学校にいるとはいえ、彼(G)を私の「神」だとは考えてはいない、彼が誰であろうと、必ずしもすべてのことについて正しいとは言えないと返答した。
グルジェフは冷たく私を見つめていたが、最後に、まったく冷静な態度で、どんな意味でも彼のことを「神」を象徴していると考えているのなら、それは思い違いであり、「私の言うことを聞かなくても、やはり自身の神に背いているのだ」と言い、聞こうとしないのだからそれ以上話しても無駄だと、口をつぐんだ。

17
9月の終わり頃、短期間だけ、私はまた芝生の仕事を与えられたが、今度は芝刈りではなく、芝生の端や境をまっすぐにしたり、刈りそろえたりすることであった。意外にも、私に助手が付けられ、私は、自分が信頼できる経験を積んだベテランであるかのように感じた。私の助手が、それまではたまの週末にプリオーレを訪れていたアメリカ人のレディーであるということを知って、ことさら驚いた。彼女が私に語るには、今回はまるまる2週間滞在し、その間ずっと、彼女の言う「本当のこと」について仕事する、「素晴らしく有益な経験」に加わりたいとのことだった。
レディーは初日、派手な、魅惑的な姿で仕事に現れた。オレンジ色の絹のスラックスをはき、グリーンの絹のブラウスにパールのネックレスを着け、ハイヒールをはいていた。私には彼女の服装がおかしかったが、まじめくさった顔をくずさずに仕事を説明し、その服装がまったく場違いであることをそれとなく言わなければならなかったときでも、笑顔は見せなかった。彼女は、私の言ったことは問題ではないと退けて、仕事に取りかかり、いくつもある芝生の境を熱意をこめて刈りそろえながら、私に、この仕事を自己の全存在をもって行い、もちろん、仕事中は自己を観察すること(かの有名な「自己観察」という訓練)が必要であると説明した。助手は、奇想天外な道具というか、器具のようなものを使っていたが、あまりうまく作動しなかった。その器具は、一種の柄の長いカッターで、一方に歯車があり、もう一方には小型の、ありきたりの車輪がついていた。
もちろん、歯車が実際に芝生の端を一直線に切りそろえ。もう一方の車輪が切断作業を助けると同時にバランスを保つ働きをし、この装置に力を与えるはずであった。この器具を使って仮にも何かを切るには強大な力を必要とし、刃があまり鋭くないため、力のある男性が使ったときでさえ、この機械で刈りそろえた芝生の端を、もう一度、柄の長い園芸用の大ばさみで、端や境を整えなければならなかった。
私は、彼女のこの仕事に対する取り組み方や、仕事の運び方に非常に興味を持ったので、私自身の仕事はほんの少ししただけで、彼女が働いているのを見ていた。彼女は非常に優雅に歩き、田園の空気を深く吸い込み、草花を賛えた上に、彼女が言うには、「自然の中に没頭し」、また働きながら自分自身のあらゆる動作を「観察」していると言い、私に、この訓練が有益であることの一つは、続けて実行すると、身体のあらゆる動きを調和させ、機能的にさせるから、したがって、動作が美しくなるのだと話した。
私たちは一緒にこの仕事を数日間続け、しまいには私が彼女の後について、私自身の手と膝を使い、柄の長い大ばさみで、端や境を全部切りそろえなければならなかったが、私はそうすることがとても楽しかった。プリオーレの仕事は、具体的な結果を出すことを意図するものではなく(もちろんキッチンを除く)、仕事は内面の存在、すなわち自己のためにするという理念を、私はずっと前に捨てていた。こうした目に見えない恩恵について集中することは非常に困難であり、単純に、想像力を用いずに、目に見える、明白な、具体的な仕事を達成することに努力する方がずっと容易であるのを、私は何度となく経験していた。芝生や花壇のふちを見栄えよく、まっすぐに仕上げることは、一つの喜びであった。このレディーにとってはそうではなかった。私が後について彼女の仕事をやり直していることに当然気がついた彼女は、私たちのしていることが、「自己」つまり「内面の存在」に有益であるかぎり、仕事を仕上げるのに一年かかっても問題ではなく、要するに、永久に仕上げなくても問題ではないのだと言った。
私はこのレディーにかなり好感を持った。彼女の一時的な「ボス」であることを確かに快く思ったし、彼女が芝生で立派に見えたこと、また、目に見えては何も達成しなかったように思えたが、彼女がたゆまず、規則的に仕事に来たということは認めなければならなかった。また、私の関知しないところで、レディーは彼女の「内面の存在」について、数々の有益な仕事をしていたのかもしれなかった。いわゆる、地上に見て取れる現実の結果は、大して重要でないという点では、彼女が明らかに論点を突いていたことを認めなければならない。未完のプロジェクトが散乱していた敷地がこのことを実証していた。木や、切り株の根を取り除く仕事や、造りかけの新しい菜園や、未完成のまま取り残された建築現場などが、具体的な結果は問題ではないという事実を立証していた。
芝生での私たちの仕事が終わったとき、私は残念に思い、この数日間に彼女が得た、あるいは得なかった恩恵についてはともかく、彼女と一緒に仕事したことは嬉しかった。この経験から私は、広い目で見た学校と、その目的について、何となく異なった視点を得たのである。仕事がなされる必要があるという単純な観点においては、どの仕事も一つとして重要であるとはみなされていないこと、さらに、かいつまんで言うと、別の目的があるということ、つまり、一緒に仕事する人たちの間に摩擦を起こすという目的に加えて、目に見え触知することのできにくい結果があり得るかもしれないということがわかったのだが、その反面、仕事自体が現実に達成されることにも、少なくとも、いくらかの価値があるように思われた。その時まで、私の仕事のほとんどが、現実に達成されなければならない仕事であった。例えば、私の「内面の自己」に有益であるかないかはともかく、鶏や他の動物に餌が与えられ、世話され、皿や鍋やフライパンがキッチンで洗われ、グルジェフの部屋が現実に毎日掃除されていたのだ。
こうした問題のすべてについて、また、レディーについて私がどう考えていたにせよ、約2週間後に立ち去った彼女は、「測り知れないほど心の豊かさ」を増したと感じていたようであった。結局はレディーが正しかったのであろうか? そうでなかったとすれば、彼女が滞在したという事実は、プリオーレとその存在理由をもう一度問い直してみなければならないという、私の欲求を刺激することに役立ったのである。

私に与えられた次の一時的な仕事は、大規模な仕事で、スタディーハウスの屋根の修理であった。屋根の組立ては、中心においてその先端と、天井との間に、約8フィートの空間をつくるように梁が渡されているといった、簡単な仕組みであった。梁は、縦・横約1ヤード間隔にめぐらされ、タール紙で覆われていたが、あちらこちらで雨漏りがし始めていた。その仕事はスリルがあり、やや危険を伴う作業であることがわかった。梯子で屋根に登り、その後は、梁の上だけを歩かなければならなかったのは言うまでもない。その上、ロール状のタール紙と、熱いタールの入った手桶やバケツを持って梯子を登らなければならなかった。4インチか6インチ幅の梁の上を歩くことを3日も続けると、みな、この仕事にかなり熟達し、熱いタールの入ったバケツを持ったり、タール紙を肩にかついでバランスを取ったりしながら、梁の上を競争して、技を競うテストのようなことまでやり出したのである。
プリオーレに初めてやって来た若いアメリカ人がいたが、彼は、たんに攻撃的で非常に競争意識が強かっただけでなく、プリオーレは「ナンセンスだらけ」だと言って批判的であった。その彼が、誰よりも勇敢で、熟達していて、その上大胆であろうと決意した。一週間も経つと、驚くべき身軽さを見せびらかし始めたので、誰もが彼とは競うのを控えたのだが、それでもまだ派手にふるまうことを止めず、これ見よがしに、我々一同に勝っていることを露骨に見せ続けた。彼の軽業は我々を苛立たせ、心配させた。事故が起こればよいと願うほど極端ではなかったが(屋根が高かったので、どんな事故が起こっても大事故になる可能性があった)、誰もが、本当に何かが起こって、彼の虚勢を張った無謀な行為が終わるように待ち望んでいた。
思ったよりも早く、予想していた以上の壮観さをもって、ついに結末が到来したのである。彼は、支えのないタール紙の上に誤って足を踏み入れ、屋根から墜落したのだったが、その時、言うまでもなく、彼は煮え立ったタールの入った手桶を下げていたので、それが致命的な結果を招いたようだった。小さなバルコニーに落ちたので、実際には15フィート以上は落下しなかったのが唯一の救いで、重傷を負うことを免れたのだった。だが、この墜落事故が苛酷で無惨なものになったのは、彼がタールのバケツを手離さなかったからであり、またシャツを着ていなかったためであった。彼は片半身に熱したタールを被り、ひどい火傷をした。
煮え立ったタールはズボンの内側へも流れ込んでいったので、歩行困難になった彼を我々の手で人目につかない場所に移し、その間に誰かがグルジェフと医者を呼びに飛んでいった。唯一の手当てというより、ともかく取られた処置は、一時間以上もかけて彼の体からタールをガソリンで拭き取ることであったが、彼にとっては、想像に絶するほどの苦痛であったに違いない。その青年は、大変な忍耐力と勇気を持っているように見え、こうした試練を男らしく耐えていたが、手当てが終わってすっかり包帯を巻かれると、次には、グルジェフが激しい怒りをこめて青年の愚行を痛罵した。青年は勇敢に自己を弁護していたが、大して道理をなさず、しまいにはグルジェフとその学校に対する立て続けの雑言に転じるていたらくで、二人の論争は、ほどほどに快復したら、さっさと立ち去るようにというグルジェフの言葉をもって、結末に至ったのである。
私は、そのアメリカ人に多大な同情を感ぜずにはいられず、他ならぬあの時に彼を罵ることは、苛酷すぎるように思えたが、それでも私は、グルジェフがまったく正しいと感じた。翌日、私が仕事から帰ろうとしていたとき、グルジェフが不意に私を呼び止めて、私が屋上の仕事をうまくやっていることを褒め、例によって思いもよらずお金を沢山くれたので、私は非常に驚いた。私は彼に、率直に言って、私は、屋上で仕事をしている中でただ一人成熟した大人でないのだから、他の誰よりもかなり少ない仕事しかしておらず、報酬を受けるには価しないと思うと答えた。
彼は奇妙な微笑を浮かべて私を見て、金を受け取るよう強く要求し、私が屋根から落ちたり怪我をしたりしなかったから報酬を与えるのだと言った。そう言ってから、そのお金で、他の子供たちみなのために何かすること(子供たちみなにとって大切なこと)を考えるという条件のもとに、私に金を与えるのだと言った。私は、ポケットに持ったお金に満足して彼のもとを去ったが、そのお金で、他のすべての子供たちに大切なことをするという点については、ひどく頭をひねった。
この問題を2日考えたあとで、結局、まったく等分ではないが、子供たちと金を分けることに決めた。理由がなんであれ、その金を「稼いだ」のは私だったのだから、私は大きな分け前を自分自身に取っておいた。
私が金をどのように処分したかについて彼に知らせるまでもなく、グルジェフは私を呼び、特別な関心がある様子で尋ねた。私の話を聞いたグルジェフはかんかんになって怒り、私を怒鳴りつけ、私が想像力を使わず、問題について考えず、結局は子供たちにとって大切なことは何もしなかったと言い、また、なぜ私が大きな分け前を取ったのかと詰問した。
私は、かなり冷静に、プリオーレでは何事も予想できないということを理解するようになったし、ものごとは決して「見かけ」のようではないということを常々彼
(G)からはっきり言い聞かされている、私はただ彼を見習っているにすぎないのだということを主張した上で、まったく思ってもいなかった多額の金を与えられたばかりか、おまけにその金の使い方の条件と問題までしょいこんだ、その金で何か「大切な」ことをするという点については何も思い当たらないので、問題を他の子供たちへ回してやり、子供たちには、その金を自分にとって大切なことに使うように言ってやったが、なぜ私が大きな分け前を取ったかという点については、子供たちが金の価値について重大な決定をする機会を与えられたのは私のおかげであるのだから、私が大きな分け前に値いすると感じたのだと説明した。グルジェフはこの話を中断せずに聞いていたが、鎮まるどころか、またかんかんになって、私が「お偉方」みたいに振る舞っているとか、ひどくがっかりさせられたとか、要するに、私は彼の期待を裏切ったのだと言った。
私自身驚いたのだが、私はひるまずに、私が「お偉方」のように振る舞っているとすれば、それは沢山ある手本を見習っているにすぎず、彼が私にがっかりさせられたのだったなら、人は、決して誰にも失望しないことを学ばなければならないと教えたのは彼ではなかったかということを思い出すべきであり、私はただ彼の忠告に従い、彼を手本にしているだけなのだと繰り返したのである。
そのとき彼は、私がこのように彼に話すということは、例によって、私は「自分の神に背いている」
のであると言いながらも、私自身の分け前として持っている金をどうするのか?と聞いた。私は、使うか、とっておくか、どちらかしかないと答えた。差し当たっては、着るものも、食べるものも、住まいも与えられているから、とっておくことにするが、必要なものや欲しいものが出てくれば、買うために使うということなのだと返答した。
グルジェフは、いま聞いたことから、私は典型的な中産階級のモラルを持ち、プリオーレにいるにもかかわらず、彼から何一つ学び取ってはいないことがわかると言いながら、愛想をつかしたように私を見た。私はやや怒りをまじえて、そういう可能性は充分承知している、学ぶということについては、まわりにいる生徒たちを見ても、誰も何かを学んでいるとは納得できない、実のところ、そこで何か学ぶことがあるということは、私には確かではないと応じた。この時までには完全に冷静になっていたグルジェフは、プリオーレの価値は必ずしも明白ではなく、そこにいることで、誰かが何かを学んだかどうかは、時が来ればわかるであろうと言った。そのあとで、私に話し続けることは無駄であり、私はスタディーハウスの屋上の仕事を続けることにはなっていないが、他の仕事を与えられるであろうと言った。

私の「他の仕事」は、いくつかあった。敷地のあちらこちらに生えていたイラクサを、手袋をはめずに除草する仕事や、私がプリオーレに初めて来て以来、一度も手をつけられたことのなかった造りかけの石の建物を、もう一人の生徒と一緒に組み立てる仕事があった。また、グルジェフの著書は部分的にフランス語へ下訳されていたが、意外にも、その下訳を英語へ翻訳するのを手伝うことも私の仕事の一つになった。
イラクサを引き抜く仕事を2、3時間も続けると、茎や葉を避けて、根元を引っ張れば、痛いほど刺されずに根こそぎにできることがじきにわかったし、また、まったく偶然に、イラクサですばらしいスープがつくれることもわかった。ともかく、私はまだあのアメリカ人のレディーが仕事の価値について漏らした言葉に思いをめぐらしていたので、イラクサを引き抜く仕事が私の「内面の存在」にどのように作用していようと、雑草が取り除かれた上に、スープを供給したのだから、確かに現実的な価値があるように思えた。
石造りの家を建てる仕事については、あのレディーが疑いもなく正しかったということを納得した。建物には目に見えた進度が何も認められなかったのだから、すべての発展が「精神的」であると仮定できた。建築の仕事では、私は助手で、私の「ボス」は、最初にしなければならないことは、建物から約15フィート離れたところに積み上げられた石の堆積を建物の隣に移す作業であることだと決めた。「ボス」によると、この作業を進める唯一の賢明な方法は、私が岩石の堆積のかたわらに立って、岩のように大きい石を一つずつ彼に投げ、そのあとで彼がそれらの岩石を建物のそばの新しい堆積に投げることだった。この作業が終わったら、移した石を使って、建物の内部の壁や仕切りを組み立てることになる予定であった。外側の壁は、3、4年前に建てられていた。この岩投げ作業には一定のリズムがあり、この作業の単調さを大いに軽減するそのリズムを守らなければならないこと、また、適切なリズムを続けるために、歌を唄わなければならないということを、私は前もって教えられた。我々が、歌いながら岩投げ作業をうまくこなしている時間がわずか2時間ほどにすぎなかったのは、私の相手である「ボス」が何かに気を取られて、私が投げた岩を捕らえそこなったために、こめかみに岩をくらって倒れたからだった。
私が、彼が立ち上がるのを助けると、おそらく、この打撲傷について医者に見てもらうためだったのであろうが、彼は本館の方向へよろめきだしたので、私は彼と一緒に歩いていった。
グルジェフは、テラスの前の、彼がいつも著述する場所にしていた椅子に座っていたので、すぐに私たちに目を止め、ことのいきさつを聞いてから私の相棒を調べたあと、危険はないと断言したが、我々は、あの建築の仕事を止めなければならないと言った。私の方に向いて、やや親しみのある笑顔をみせたグルジェフは、私は、どんな種類の仕事をしていても、いつもトラブルを引き起こし、私は生まれながらのトラブルメーカーであると言った。プリオーレで、過去において私が経験したことのいくつかを考え合わせると、この言葉が厳密には褒め言葉ではないまでも、少なくとも一種の賛辞であると受け取れた。
とはいえ私は、彼の著述にかかわる仕事に惹きつけられていった。著書のフランス語訳を大雑把な英語訳へ下訳する仕事が、ある英国人に与えられていて、私の仕事は、その下訳の朗読を聞くことと、読むことと、私がやはり読むことになっていたフランス語訳に、できるかぎり密接な日常語と、米語の使い方について意見を出すことであった。その章は、アフリカ大陸が主題であり、主として、猿の起源についてのグルジェフの説明にかかわるものであった。

18
その夏、私が、日中のどの仕事よりも興味を持ち始めたことは、夜ごとに開かれた朗読会でグルジェフの著書の断片が、たいていロシア語かフランス語で、ときには英語で(最新に完了した翻訳の言語による)朗読され、また、グルジェフの大義と目的に関する彼自身のコメントを聞くことであった。彼はたいていその夜に朗読された章の内容について、著書の中で伝えようとしたことを、最も簡明な表現を用いて、一種の概要、あるいは平易な形式に変えて話して聞かせた(コメントはいつも朗読の後に続いた)。
私が特に感銘を受けたのは、この著書を書く目的についてのグルジェフの説明であり、それは、
「宇宙の法則」に従った現実や生き方を理解することを妨げている、習慣的な価値感や概念を人々から永久に粉砕することであるというものであった。この著書の次に彼が書くことを予定していた本(注目すべき人々との出会い)は、新しい理解と価値観を得るための、いわば土壌をこしらえる、付随的な本であった。私が理解したように、プリオーレが既存の価値観を破壊するという目的のために存在していたのなら、その存在価値がもっとよく理解できた。グルジェフがあれほどしばしば言ったように、世の中は「さかさま」であるというわけだったのなら、彼がその学校で為そうとしていたことには、明確な価値があった。あのアメリカ人のレディーが私にそれとなく言ったように、与えられた仕事をしているとき、直ちに目に見える結果を求めるのではなくて、自己の存在の発展のために仕事するべきであるということは、まったく真実であったのかもしれない。たとえ私には、グルジェフが人間の生のジレンマ(ある人がそう呼んだように)について、すべての回答を持っていたとは確信できなかったとしても、彼だけでなく、誰か他の人も回答を持っていたかもしれないということは、確かにあり得た。彼がしたことは、少なくとも挑発的であり、予測できず、苛立たせ、そして、たいてい疑問や、疑惑や、議論を引き起こすほど興味深かった。彼の著書についての談話やコメントの途中で、朗読された主題が何であっても、彼はしばしば主題から離れて、彼が思いついたことや、生徒の中の誰かが持ち出した問題の、およそ何についても、一般的な用語で話した。その晩に朗読された章から連想して、ある人が、東と西の世界、および、東洋人と西洋人との考え方に相互理解を欠くという問題を持ち出したとき、グルジェフはかなり時間をかけて、そうした理解不足から生じる、東西の誤解について語り、少なくとも一部には、東洋のエネルギー不足と西洋の知恵不足に起因する問題であると言った。東洋が再び世界的に重要な地位に台頭し、彼によると、いかにも非常に強いが、また非常に若くもあるアメリカに支配されているという、西洋の圧倒的に強力で、圧倒的に優勢な、つかの間の新しい文化にとって、東洋が脅威となる日(これは軍事的にというよりは、主に精神的、思想的な面を指していると思います)が来ることを予言した。そのあとで、他人や自分自身を見るように、世界を見るべきであると言った。一人一人の個人が、一つの世界そのものであり、地球(我々みなが住んでいる大世界)は、ある意味において、我々一人一人の内側にある世界を反映した、あるいは拡大した世界にすぎないと言った。
あらゆる指導者、救世主、神の使者たちの目的には、一つの基本的な、非常に重要な目的がある。それは、人間の2つの面、したがって地球の2つの側が、平和に調和して共存できる手段を見いだすことである。時間は緊迫している。完全な大惨事を避けるには、この調和を可及的すみやかに達成する必要がある。哲学、宗教等の運動は全部、この大目標を達成しそこなった。この目標を達成する唯一の可能な道は、人間一人一人の発展を通して為される。一個人が、その人自身の未知な潜在性を発展させると、その人は強くなり、次には、もっと多くの人々に影響を与える。充分な数に足りる個人が、たとえ不完全でも、本当の、自然の人間、人間に適切な真の潜在能力を使える人間に発展できれば、そのような個人の一人一人が、他の百人もの人間を納得させ、説得することができ、その百人のそれぞれが発展を達成すると、別の百人に影響を与える
G「私は、時間は緊迫していると言ったが、まったく冗談ではなくそう言ったのだ」と、彼はぞっとするようにつけ加えた。さらに続けて、人間を個人の存在としてではなく、「全体として」扱った政治、宗教、その他の組織化された運動のどれもが失敗したことは、すでに歴史によって証明ずみであると語った。組織化された運動はきまって失敗し、世界中のそれぞれの人間の、個々の、個別の成長だけが、唯一の可能な解決を導くということなのだ
人がグルジェフを心から信じたにせよ信じなかったにせよ、彼は、個人の発展と成長が重要であることを支持するという、一つの説得力ある、熱烈な実例であった

19
思春期であったことやら、監督不足やら、興味不足やら、また、ただ単に怠惰であったことやらで、私は、薬草園の仕事はでぎるだけ少ししかしないようにした。キッチンへいろいろな薬草を持って行く必要があったとき以外は、キッチンへ行くのを避けていた。
薬草の質が目に見えて悪くなり、時々少しばかりの特定の薬草を供給することさえできなくなると、誰かが、あえて薬草園を調べて、その結果をグルジェフに報告したに違いない。
その結果、グルジェフ自身が、私と一緒に草園を調べ、小さな苗床の間をくまなく往復して、あらゆる薬草を検査した。調べ終えると、彼は、見たかぎりでは、仕事に関しては私は草園でまったく何もしていないと言った。私は、自分がちょっぴりしか仕事をしなかったことを認めなければならなかったが、時々草むしりぐらいはしたということを例にあげて、自分を弁護した。彼は頭を振り、草園の状態を考えると、少しも自己弁護しない方がよいのではないか?と言った。そのあとで、彼は、薬草園がちゃんとなるまで、数人の子供たちをよこして私と一緒に草園の仕事を手伝わせることや、うねの間を掘りおこすことや、一定の薬草の手入れや、他の薬草の根分けと植えかえなど、様々な薬草の手入れについて説明した。
子供たちは、私が自分の仕事をずるけたばかりに「私の」草園の仕事をしなければならないことに対して、非常に腹を立てたが、みな、すごい勢いで仕事に取りかかり、私たちは、グルジェフの命令をやすやすと、あっと言う間に成し遂げてしまったのである。草園は非常に小さな区画であり、我々の手を煩わすことは、一日か二日以上ということはあり得なかった。我々が仕事をすませたとき、グルジェフはためらわずに申し分ないと言い、仕事の出来ばえについて子供たちみなをほめてから、私とだけ話したいと言った。
彼は最初に、私が割り当てられた仕事を果たさなかったということは、私自身でわかることであり、私が顧みなかったために被った被害を直す彼の介入が必要だったと話した。そして、このことは、一個人がその人の義務を果たさないということが他の人たちの全般的な福祉に影響することを示す好例であり、フリーツは薬草は重要ではないと考えているかもしれないが、彼にとっては重要であり、キッチンで必要とされているということを述べた。また、いろいろな薬草を購入しなければならなかったために、わずかであっても、彼に不必要な出費をさせ、そういう出費は、私が自分の仕事をちゃんとやっていたなら必要ではなかったと言った。
さらに続けて、彼は、ある意味では薬草園は重要ではないということはほんとうであるが、重要なことは、責任を持つことと、自分の仕事をすることであり、その仕事が他の人たちの福祉に影響するような場合には、特にそうであると言った。しかしながら、与えられた仕事が何であっても、その仕事を達成することについてはなおさら重要な理由があり、それは、自己自身のためにする仕事のことであると言ってから、「自己観察」という訓練について話し、人間は3つの中枢部、または三つ脳の存在であるから、身体、または、「運動」中枢部だけでなく、3つの中枢部全部にとって大切な訓練をしたり、仕事をする必要があること、私が知っている「自己観察」は、自己の身体及びその運動と動作と発現から成っているという理由で、純粋に身体に関する訓練であると説明した。
彼の仕事の非常に重要な側面である「自己想起」と関係のある、様々な重要な訓練があるとグルジェフは言った。それらの一つは、自己の全集中力をもって、真剣に、その日一日中にしたことを全部、一つ一つ、映画の画面に見るように想起することであった。この訓練は、毎晩、寝る前にされることになっていたが、この訓練で最も重要なことは、連想によって注意をそらさないことであった。自己の映像に当てた焦点から注意がそれたら、それた度に、初めからやり直さなければならない、やり直しが避けられないということも警告された。
その朝、彼は非常に時間をかけて私に話し、人は誰でも人生で、たいてい、特定の、何度も繰り返される問題を持っているということを強調し、こうした特定の問題は、たいてい、怠惰の一形態をとると言った。薬草園の例に見られるように、かなり明白な物質的形態をとった私の怠惰という問題について、私自身が考えなければいけないと言った。誰かが気がつくまで、私は薬草園の仕事はどれもあっさりと引き延ばしていたのだった。彼は、私が自分の怠惰について真剣に考えるようにと言い、それは外形について考えるのではなく、(外形は重要ではない)怠惰が何であるかを見いだすことであると言った。
G「自分が怠惰であるということを知ったら、この怠惰が何であるか見いだす必要がある。いくつかの点で、何年間も怠惰であったのだから、怠惰が何であるかを見つけるには、なおさら多くの年数がかかるかもしれない。自分自身の怠惰に気がついたら、いつでも、『私の中にあるこの怠惰は何か?』と自身に問わなければならない。この問いを真剣に、集中して考えれば、いつかは答えを見いだすであろう。私は、この重要で、非常に困難な仕事を今あなたにあげよう。」
私は彼が言ったことに対して感謝し、草園で私の仕事を果たさなかったことを詫び、これからはちゃんと果たすということも言った。
彼は感謝の言葉をそっけなく拒絶して、詫びることは無用だと言った。
G「そうすることは、今では遅すぎるし、草園で立派な仕事をするのにも遅すぎる。人生では、チャンスは二度と来ない、チャンスは一度かぎりだ。草園で立派な仕事を自身のためにするチャンスが一度ある。だがそうしなかった。だからこの草園で今から一生働いても、同じことにはならない。だが、このことについて『後悔』しないことも重要である。後悔して一生を無駄にすることもできる。ときどき、大切なことがある、良心の呵責と呼ばれていることである。善くないことをして、本当の良心の呵責をもてば、これは大切なことになり得る、だが、ただ後悔して、これからはもっとよくすると言うことは、時間の浪費である。この時間は既に去っている、あなたの人生のこの部分は、もう終わっている。もう一度生きることはできない。いま薬草園で立派な仕事をしても、それは重要なことではない。間違った理由のために、仮にも直せない被害を直そうとするために、仕事するであろうから。これは重大なことだ。だが、もっと重大なことは、後悔したり、残念がったりして時間を無駄にしないことである、これは、もっと時間を浪費する。人生では、そういう間違いをしないことを学び。一度間違いを起こせば、その間違いは永遠であるということを理解しなければならない。」

20 愛についての談話
グルジェフの著書の朗読の途中や、特に朗読後に必ず続いた彼のコメントや談話の中で、彼はしばしば愛という主題について論じた。自己を知ることについての試みや努力のどれもが、常に身体と関係のあることから始める必要があることを指摘し、それは、身体が、人間の3つの中枢部のうち最も高度に発達した中枢部であるという単純な理由によるものであると言った。この理由により、「自己観察」はいつも身体だけを観察することによって始められた。身体は事実上何の指図も受けずに、自動的、機械的に成長するにもかかわらず、身体中枢部は、たとえ自動的にすぎないにせよ、それ自体の適切な機能を果たしているという理由により、感情や思考「脳」(または中枢部)よりは適切な発達を遂げている。大部分の身体的機能は、基本的に衝動的であるだけでなく、適度に理解しやすいので、それらを満足させることも、それほど難しくないと説明された。
身体についての観察を愛に関連させることにおいて、彼はまたも2つの手、または腕の例を用いて、愛を「片方の手が、もう一方の手を洗う」と説明できると言った。彼はまた、身体が適切に使われるとき、つまり両手が一緒に働くとき、身体はそれ自体の中に調和を達成でき、そこが、真にあるべき愛の意識や知覚を発達させ始めるための好機となるのであると言った。人々が一緒に働くことができるには、互いに愛し合い、同じ目標を愛することが必要である。この意味において、人が、その人の適切な人間性に従って、適切に機能するためには、その人を構成するあらゆる部分が互いに愛し合い、自己発展、自己完成という同一の目的のために一緒に働く必要があるのだが、困難なことは言うまでもなく、異常な習慣と教育のために、適切な発展、または「完全」ということがどういうことであり得るかについて、人々が本当の概念をまったく持ち合わせていないということであった。彼は、「完全」という語が誤解されやすいことを警告して、この語に対して我々が持っている連想(「完全」という状態について持っている我々の概念)は不適切であり、概して「発展」という表現を用いた方が好ましいと言った。

身体から学ぶことができる愛についての主な徴候、または手掛かりとなるものは、身体的形態の愛、つまりセックスである。元来、セックスの目的は生殖であり、生殖という語は実際に、創造という語に対する同意語にすぎない。したがって、愛は、どんな意味においても(肉体的であってもなくても)創造的でなくてはならない。彼はまた、「昇華」と呼べる性エネルギーの適切な形態があるということにも触れて、性はすべてのエネルギーの源泉であり、生殖に使われないときでも、他の形態による創造のためのエネルギーとして、昇華された上で使われるときには、同様に創造的な意味において使うことができると言った。誤ったしつけや、間違った形態の教育や、不適当な習慣から生じた性の乱用の一つは、性が、人間の交わりにおける、ほとんど唯一の不可欠な形態になっているということであった。
人々にとって、肉体以外の方法で「能動的に交わる」こと、すなわち、彼の言う「お互いの本質(エッセンス)に触れる」ことが可能であったが、人間はこの能力をずっと前(数十世紀も前)に喪失した。しかしながら、注意深く観察すれば、この、「本質に触れる」ことが、現在でも時たま二人の人の間に生じるのを認めることができるが、そのことが生じるのは、たんなる偶然であり、そうなったとたんにと言えるほど即座に、思い違いされたり、取り違えて解釈されたりして、たんなる肉体的形態に堕落し、一度使われてしまえば、価値がなくなるということだった
個人としての人間関係についてさらに話をすすめ、グルジェフは、性が、またしても「身体の最高の表現」であり、我々に残された唯一の「神聖な」自己表現であると言った。
自己の中に、他の形態の「神聖さ」を達成するためには、どの形態であっても、われわれの生の他の領域で、この「本質に触れる」過程を見習うように努力するのが有益であると言い、さらに、二人の人間が、完全にあけっぴろげに「共通の真実を分かち合う」ことは、ほとんど常に、衝動的な性交において「目に見える」と言った。しかしながら、たいていの人にとっては衝動的であるセックスさえ、二人一緒ではなく、独自の満足感、一人だけの充足感、または解放感のみが伴う単純な過程に堕落し、そのような場合には、二人の間に誠実さも公明さも認めることはできないであろうということに注意を促した。

人々の間(一人ともう一人の人と)の適切な、客観的道徳に基づいた愛について説明を求められたとき、グルジェフは答えた。
G「
他の人が、その人自身に必要なことをするのを助けることができるほどに、あなた自身を発展させる必要があり、たとえ、相手の人がその必要性に気づいていないときでも、また、あなたにとって不利なことになっても、助けることができなければならない。この意味においてのみ、道理に適切にかなった愛と言え、真の愛の名に値いする。たとえ誰にも劣らぬ心積もりでも、たいていの人は、積極的に人を愛することにかけてはあまりに憶病であって、相手に対して何かしようと試みることさえ恐れる。愛が恐るべき一面をもっていることの一つは、相手の人をある程度助けることはできても、その人のために実際に何かを『する』ことはできないということである。ある人が歩かなければならないときに、その人が転んだなら、起こしてあげることはできる。だが、その人にとっては、もう一歩踏み出すことが空気以上に必要であっても、その一歩は、その人が一人で踏み出さなければならない。その人に替わって、別の人がその一歩を踏み出すことは不可能である。」

21
自己発展や、適切な成長という彼の方法に関する談話の中で、グルジェフは頻繁に、発展の過程において必然的に遭遇する、多くの危険があるという事実を強調した。最も頻繁に起きる障害の一つは、ときどき、特定の訓練を実行することから(彼は、特定の個人に与えた個人的な訓練のことを話していた)、陶酔状態、または、至福を感じる状態が生じることであると言った。そうした陶酔状態は、そのような個人的訓練を正しく真剣に果たすことにかなってはいるが、この場合の危険は、「結果」または「進歩」についての我々の思い違いにあり、結果を期待してはいけないということを想起する必要があった。一定の結果を期待して訓練を実行することには、価値がなかった。だが、本当の幸福感というような、確かな結果が達成できても、また、たとえこの達成が、一時的結果としては適切に生じた場合であってさえ、いかなる意味においても、そのことをもって、永続する何かを「達成」したということにはならなかった。若干の進歩が達成されたのだと解釈することはできても、次には。そうした「結果」を自己の不変な一部とするために、それだけもっと仕事する必要があった。
グルジェフはしばしば、一種のパズルを引用した。子羊と狼とキャベツという、3つの互いに敵対する有機体を連れた男が川辺に到着し、一度に2人だけ(その男ともう一人の「乗客」)を乗せることができる船で川を渡らなければならない。彼らの一人が他の「仲間」を襲ったり、殺したりすることができない方法で、彼自身と「仲間」を対岸へ運ぶ必要がある。この話の重要な要素は、人間に共通する一般的な傾向が、「近道」を見つけようとするということであり、この話が教えていることは、近道は無いということである。乗客全員の安全と幸福を確保するには、必要な回数だけ往復することが、常に、絶対に必要であるということなのだ。グルジェフは、初めは、たとえ貴重な時間の浪費と思えても、起こり得る危険をおかすよりは、かえって余分の回数を往復することが、往々にして必要なのだと言った。しかしながら、彼の訓練と方法に慣れるにつれて、ゆくゆくは、正確に必要な回数だけ往復できるようになれ、しかも、どの乗客も危険に陥らないようになるということであった。男と子羊と狼とキャベツの場合は、時間の浪費に思えても、返り道には、乗客の誰かを連れて来ることが必要であるという事実も認めなければならなかった。
グルジェフは、同じ「パズル」を人間の「中枢部」または「脳」の例として引用し、男が、「私」または意識を象徴し、他の3つが、身体、感情、思考の中枢部を象徴していると説明した。この3つのうち、身体中枢部が最も発達しているということを強調することに加えて、彼は、思考中枢部は事実上、未発達のままであり、感情中枢部は部分的に発達しているが、まったく間違った方向に発達していて、完全に「野蛮」であると言った。我々は身体の要求に衝動的に応じているが、そうすることは、身体の習慣がよい習慣を持っているかぎり、適切なことであるとグルジェフは言い、自動車が唯一の「交通」手段であればその適切な手入れが必要であるのと同じ意味で、身体または「機械」の要求を満たす必要があると説明した。
感情中枢部に関しては、我々はその中枢部について無知に等しいから、問題はもっと困難であった。我々は感情を持たずに生きている上に、生まれた瞬間から不適当な感情の習慣を身につけているため、我々が人生で犯す重大な過失のほとんどが、感情に発生する間違いであるということであった。空腹、睡眠、セックス等の肉体の要求のように衝動的な感情の要求が存在するのだが、我々は、それらが何であるのか理解できず、そうした感情の「渇望」をいかに満足させるかということについて、全然何も知っていないとグルジェフは言った。最初の足がかりの一つは、感情というのは、我々の中にある一種の力であるということを理解することであった。彼はしばしばこのことを、気球、もっと正確には、パイプオルガンの機能を果たす中空のパイプになぞらえた。オルガンのパイプは、様々な感情を象徴し、それぞれのパイプが異なった名で呼ばれる。例えば、あるパイプは怒り、もう一つのは憎悪、別のは貪欲、また別のは虚栄、さらにまた別のは嫉妬、次のは憐憫といったように。感情を適切に使う道への第一歩は、オルガン奏者が一定の音を出すときに、一定の鍵を意識して叩くのとほとんど同じ方法で、与えられた情況において適切な、または妥当なパイプに貯蔵されている力、または「空気」を使えるということである。例えば、その時の情況や環境において怒りが妥当でない時に、何かの理由で怒りを感じたなら、怒りを表すかわりに、そのエネルギーを意識してその時に必要な、または適切な別の感情に転換させ得るようになるべきである。存在するあらゆる感情、あらゆる情緒には目的があり、さらに、それらが存在することや、それらの一つ一つの適切な使い道には理由があるのだ。だが、われわれは、意識も知識もなく、これらの感情を盲滅法に、衝動にまかせて、無知蒙昧に、何らの制御も加えずに使い、音楽的に言うならば、知識もなく、音楽も知らずに、手当たり次第に、動物がするようにパイプオルガンをかき鳴らし、そのようにして生じた結果と同一の結果を我々の情緒的存在にもたらしているのである。制御されない感情が非情に危険であるのは、自己自身と他の人たちに、概して「衝動」を与え、その衝撃の力が感情的であることだ。意識や知識がないことから、例えば、慈悲が適切な感情である時に、慈悲ではなく、機械的な怒りを感じたなら。荒廃と混乱のみが発生するだけである、と彼は語った。
人々の間のコミュニケーションと理解に関する問題のほとんどが、思いもよらない、まさにこのような感情的な衝撃に起因しているために、妥当性を欠くため、たいてい有害であり、破壊的である。この点に関して、より微妙な危険があり、その一つは、適切な感情を用いようとして、我々が往々にして「近道」を行こうとすることである。怒りを感じている反面、この感情を制御して、幸福とか愛とかいった類の感情を表そうとして、怒りを表さない。我々が気づいていようといまいと、見せかけの感情は、他人を気持ちの上では信じさせることができないから。外見的な現れがどうあろうと、どんな場合でも、本当の感情や気持ちでは怒っていると「見破られ」、正直に怒りを表わさなくても、他人はこの怒りを察知し感じるから、「近道を行くこと」は、相手に無意識的にせよ、疑いと敵意を起こさせ、それでなくても危険な関係がさらに危険になるということであった。

22
フリッツの母ロエスは、フリッツが1歳半の時に離婚していた。その後数年間継父がいたが、母が一年近く入院しなければならなくなった1923年に、有名ではなかったとしても悪名高かったといわれる「リトル・レビュー」の共同編集者、ジェイン・ヒープとマーガレット・アンダーソン(マーガレットとフリッツの母は姉妹である)に預けられ、さらに、将来のためを思って兄とともにプリオーレに預けられていた。
プリオーレにおけるグルジェフ・ワークの「理論的」側面に、私が初めて関心を持ち始めたにもかかわらず、こうした私の関心は、1928年のクリスマス寸前に受け取った二通の手紙によって、不意に中断された。一通はジェインからの手紙で、トムと私がクリスマスを彼女と一緒にパリで過ごすように手配したという知らせであり、私には、ジェインと私との間に和解が成立することになるのだと推測された。
もう一通は、シカゴの母からの手紙で、母は、私が米国へ帰る時期に達したということを継父に納得させることができたと知らせて寄こし、継父が私に帰ることを願い、私を扶養し、学校へやり、歓迎するということを保証する彼の手紙さえ同封されていた。私は少しも心の葛藤を伴わずに、即座に決めた。私はアメリカへ帰ることを望んだ。母の手紙には、母と継父が私から返事を受け取るまでは、ジェインには意見を求めることも、知らせることもしないと書いてあったので、私は、クリスマスが過ぎるまでは、フランスを去るかもしれないということには触れないでおくことに決めていた。
トムと私は確かに、クリスマスにパリヘ行き、ジェインと私は和解した。私たちの関係は、常に激情的本質によって特徴づけられていたため、非常に感動的に、いったん仲直りして過去を水に流してしまうと、私は決意したことを守り通せなかった。親しい間柄を回復した上では、私の考えや望みを偽るべきではないと感じた。新たに感じた彼女への善意のために、私は正直に、米国へ帰りたいということをジェインに話した。
私は、未成年者としての私が、保護者であるジェインのもとを離れることができず、少なくとも成年に達するまではプリオーレにいなければならないという事実を忘れていたのである。
その後の9ヶ月については、書こうとしてみることさえ、うんざりさせられる。私の側として、積極的に参加できたことと言えば、まさにその日、プリオーレを立ち去った方がましであったかもしれないということだった。私は、どんな仕事が与えられても、その仕事を散漫に果たしていたが、その全期間にわたる私の記憶は曖昧と呼べる以外の何ものでもなく、アメリカとパリからの手紙や、論争を続ける目的で、ジェインがプリオーレを訪れたことや、加うるに、彼女が論争に巻き込んだ大勢の先輩格の生徒から受けた説教や忠告だけが、克明に思い出される。その年の夏、私にとって特に意外だったことは、私の出発という問題に、グルジェフが積極的に加わらなかったことであった。初秋になって、やっと彼がこの問題に呼び入れられたが、そうなったのは、すでに私の切符まで用意していた母と継父の執拗な圧力のためであったと考えられ、2人が、何らかの法的手段を取る(私自身はこのことについて個人的には知らなかった)というほど強硬な挙に出てきたためであったように思われた。ともあれ、ジェインを私の出発に同意させる何かが起こった。彼女は論争の手を変えて、単純に真っ向から脅迫するのではなく、私の良識に訴える方式を取った。
プリオーレでグルジェフに会うかわりに、私はジェインに連れられてパリヘ行き、彼がパリにいるときはいつも「著述するカフェ」としていたカフェ・ド・ラ・ぺで彼に会った。私たちは夕方そこへ行き、ジェインは彼女の論拠を一部始終並べたてて、私の抵抗を嘆き、知識と教育のこの上ない機会が仮にも私に与えられている事実を、私が理解も認識もしていないということを長々と話し始め、また、彼女の法的身分についても話題にし、彼女の言い分にかなりの時間をかけた。
グルジェフはいつものように、話が終わるまで注意を傾けて聞いていたが、彼女が話し終えたとき、彼には大して言うことがなかった。彼は私に、彼女が話したことを全部聞いたかどうかと尋ね、また、この情況について私があらゆる点から考えたかどうかと質問した。私は、考えたと答えてから、私が決めたことは変わっていないと言った。そのあとで彼はジェインに、私の決めたことについて彼女が私と論争を続けることは大して役立たないと思うが、彼がこの情況を徹底的に考えてから、近い将来私に、直接話をすると言った。
私たちが彼のもとを去ってから、ジェインは私に、仮にもフランスを去るなら、私に関するかぎり養子縁組を破棄する必要があり(この問題はトムにはまったく関係がなかった)、そうするにはパリのアメリカ領事館を通さなければならず、縁組を破棄することは非常に難しく、不可能でさえあるかもしれず、私は生涯に一度の機会を放棄する上、みなに多大な迷惑をかけることしかしていないと言った。私はただ黙って聞いているほかなく、いったい彼女の怒りがおさまるものだろうかと思いながら、完全沈黙の手段を用いた。
グルジェフと私のどちらもがプリオーレに戻っていたときに、彼は、言ったとおり、私に話をした。彼から聞かれたことは、私の立場を母と、ジェインと、彼自身と、さらに彼の学校との関係において良心的に考え、評価したかどうか?ということであり、そうした上でなおアメリカへ帰りたいのか?と念を押された。私は、力の及ぶかぎり考え、評価したと思うと答え、すでに数年間ジェインとはうまくいっていない、グルジェフとプリオーレについては、特に学校や彼から離れたいとは思わないが、私自身の家族と一緒になりたい、私はアメリカ人であり、ともかく、生涯ずっとフランスにいるとは思わないと答えた。私は、本来なら自分はアメリカにいるべきだと思っていた。
グルジェフは私が言ったことのどれにも異議を唱えずに、去ることに反対ではないと言い、ジェインがこの問題について彼に相談に来たら、そのように話すと言った。
私が決めたことにグルジェフが反対でないという事実は、著しい効果をあげた。ジェインは降参しただけでなく、プリオーレに来て、切符やパスポートや、法律書類など、すべての詳細が手配されたことを知らせた。私は2、3日中に出発することに決まり、トムと、ジェインと、彼女の友達が、車で私をシェルボークに見送り、そこから私は船に乗ることになった。私は、本能的に、見送りは必要でないと感じたので、電車で行っても同じことだと反対したが、彼女は私と一緒に行き、乗船させるのだと言い張った。
私は、出発するその日の午後早く、グルジェフに別れを告げた。彼はパリに行くことになっていたので、私たちが出発する時刻には、プリオーレを空けていることになるはずだった。おきまりの生徒の群れが、本館の入口のところで彼の車のまわりに集合し、グルジェフがみなにさよならと言った。私は心も重く人垣の後ろで、いつ別れを告げようかと迷っていたが、彼は車へ入る直前に私を手招きした。私が前へ出ると、彼は私と握手を交わし、微笑を浮かべて、やや悲しそうに私を見たように私には思えた。
G「そうか、行くことに決めたのか?」
私は彼を見て、うなずくのがやっとだった。すると、彼は私を片腕で抱き寄せ、かがんで私の頬にキスし、「悲しんではいけない。いつか帰ってくることもあろう。人生では、何が起こるかわからないということを忘れないように。」と言った。
その瞬間、それまでの数ヶ月間に初めて、たった一回、私は私の決めたことを悔やんだ。プリオーレで何があったにせよ、何を経験したりしなかったり、学んだり学ばなかったりしたにせよ、グルジェフに対する私の愛情は、本質的に少しも変わらなかった。その場ですぐに気がついたわけではなかったが、仮に彼が、私がプリオーレを去るという問題を、私たちの個人的なつながりが終わるという、私だけに大切な感情という水準において提起したならば、おそらく、私は立ち去らなかったであろうということに初めて気がついた。彼は、そうしなかった。私が前に言ったように、彼はいつも公明正大であったように思えた。

23 プロローグ
子供として、私がグルジェフと暮らした数年間に、私はどういう影響を受けたであろうか? プリオーレで、私は何を学んだであろうか?
この問いに、私は、別の問いをもって答えてみよう。
あのような経験を、いかに評価できようか?
プリオーレには、いわゆる出世に役立つ教育や訓練は、何もなかった。私はカレッジに入学できるほど勉強しなかったし、高校の最終試験にすら合格しなかった。情け深く、賢い人間にはならなかったし、世間的に、より有能な人間にすらならなかった。より満ち足りて、より穏やかな人、というよりもっと正確には、より悩みの少ない人にもならなかった。だが、確かに学んだことがある。
そのいくつかは、
・生は、今、この瞬間を生きるということ、
・死という現実が不可避であるということ、
・人間は、当惑し、混乱し、不可解であり、宇宙の中の歯車の歯にすぎないということ。
こういうことは、おそらく、どこででも学べたであろう。だが、私は、たぶん、1924年に戻って、繰り返すであろう……
生存はどのようにも形容できるが、というよりもっと正確には、形容できるように思えるが、とにかく贈物なのだ。そして、あらゆる贈物のように……中に何か入っているかわからない……箱の中には奇蹟が入っているかもしれない……ということを。