注目すべき人々との出会いを読んで
著者:G・I・グルジェフ


序章
この序章が第30巻のために予定されていた当初は、『なぜ私が文筆家になったのか?』という題がついていた。その中で、私が人生の途上で経験し、現代文学の代表者たちについて現在いだいているあまり高からざる評価の元となった様々な印象を記しておいた。その一節に、前述したように、少年時代初めてペルシアに行ったときに、ある日ふとペルシアの知識人たちが現代文学を論じている集まりで耳にした話が紹介してある。
その日の主役は、私が初めの方で触れた年老いた聡明なペルシア人であった。それはヨーロッパ的な意味での知性ではなく、アジア大陸で理解されているところの聡明さ、つまり知識だけではなく実存にもとづく聡明さを備えた人であった。彼は高い教育を受け、特にヨーロッパ文化に通暁していた。 
彼は、話の中で、こんなことを述べた。

ペルシア人「我々が『ヨーロッパ文明』と呼びならわし、のちの世代の人たちももちろんそう呼ぶであろう文化の時代が、人類の完成に向かう過程上いわば空白の不毛な期間であるのは実に遺憾なことだ。これは、自己完成のおもな推進力である心の発達ということに関して、今日の文明のうちにある人々が子孫に何一つ価値あるものを残せないからである。
例えば、人間が心を発達させるおもな方法の1つは文学だ。現代文明によって生まれた文学が何を与えられるだろうか?
何もない。あるものといえば、いわゆる『言葉の身売り』だけだ。
思うに今日の文学のこの堕落の根本原因は、著作の焦点がだんだんとおのずから、思想の質やそれを伝える厳密さではなく、うわべの洗練、言葉をかえれば、様式美の追求に移ってしまったことにある。その結果が私の言う言葉の身売りだ。
実際、まる一日かかって分厚い本を読んでも作者が何を言わんとしているのかわからず、大変な時間を費やして読み終わる頃ようやく(その頃にはもうすでに生活に必要な務めを果たすこともできなくなっているわけだが)その妙なる調べがすべてごくわずかな、ほとんど無に等しい考えの上に構築されていたということを発見するのだ。
現代の著作物はすべて3つの部類に分けられる。第一は科学の分野、第二は物語、第三は紀行と呼ばれるものである。
科学書はふつう、もう誰もが知っているような仮説をいろいろと集めたものでしかない。ただし、仮説の組み合わせ方が違い、様々な新しい問題に応用されている。
物語、あるいは小説とも呼ばれるもの(これまた大変な量にのぼるが)の大部分が、詳細も示さず、何の何男が何の何子といかにして『愛』を成就したかで占められている。
愛、それは人々の弱さと意志のなさのために次第に退化してしまい、現代人においては今や完全に悪徳と化してしまっている聖なる感情。もともとそれが自然に芽生える可能性は、魂の救済と、多少なりとも幸せな人生を分かち合うために必要な人間どうしの道徳的支えとなるように、創造主によって我々に与えられたものである
三種類目は、旅や冒険や遠い異国の動植物を記述する本である。これらの書物は一般に、どこへも行ったことがなく、本当には何も見たことのない者たち、俗に自分の家の敷居もまたいだことがないとからかわれるような連中の手で書かれている。2、3の例外を別にして、彼らはただ想像にまかせるか、同じ手合いの他の夢想家たちによって書かれた本から様々な断片を寄せ集めるにすぎない。
このように著作物の持つ責任や意義をほとんど理解しないまま、今日の文筆家たちはひたすらに様式美を求め、彼らの言う調和の美を醸し出さんがために、ときとして信じ難いような言葉のごった煮をひねくり出す。そうして、ただでさえ意味の薄弱な文章を元も子もなくさせてしまうのだ。
奇妙に聞こえるかもしれないが、私の見るかぎり現代文学を害している大罪は文法にある。すなわち、私が現代文明の『一般的不協和音』と呼ぶものに加担している連中の用いる文法だ。
様々な言語にわたるそれらの文法は、ほとんどの場合人工的に構築され、真の生活や、そこから派生する人間関係のための言語に関して、まるで『無学』な輩によって弄ばれている。
ところが過去においては古代史が如実に示すように、文法は常に生活そのものによって少しずつ形成されてきた。それは人間の発達段階や、主たる生息地の気候条件や、食糧獲得の中心手段に左右される。
今日の文明における諸言語の文法は、話者の言わんとするところをあまりにも歪めてしまう。そのため読者、特に外国人は、違う表現がされていれば、つまりそんな文法がなければ、まだ理解できたかもしれないいくつかの些細な考えさえ掴めなくなってしまうのだ。
あらゆる地域で新しい世代の人たちがむりやり覚えさせられている今日の諸言語の人工的な文法こそ、現代ヨーロッパ人の中で、正常な人間精神を養うのに必要な3つの素材のうちのただ1つ(すなわち、彼らの言う思考)しか発達していない根本原因ではなかろうか。こうして、彼らの個性はこの思考に支配されているわけなのだが、正常な理性を備えた人間なら誰でも知っているとおり、感受性と本能なくしては真の理解は生まれえない。
今日の文学を要約するのに、『魂がこもっていない』という以上の表現はないだろう。
現代文明は、その恵み深い眼差しを向けて、他のあらゆるもの同様、文学の魂をも殺してしまったのだ。
私がかくも冷酷に現代文明の惨状を批判するのには、さらに理由がある。遙か太古から伝承されてた最も信頼すべき歴史的資料によれば、過去の諸文明における文学が、人間の心の発達に大きく貢献していたことははっきりしている。その発達の成果は、世代から世代へと受け継がれ、幾世紀を経たいまなお、うかがい知ることができる。
私の見るかぎり、1つの思想の真髄は、生活から生まれた寓話や諺によってうまく伝えられることがある。
そこで、過去の文明と現代文明における文学の違いを示すために、我々ペルシア人の間に広く知られている『二羽のスズメの会話』という寓話を例にとってみよう。
あるとき、背の高い家の軒先に一羽の老スズメと、一羽の若いスズメがとまっていた。
彼らは、当時スズメたちの間でもちきりになっていた話題について話し合っていた。判事の家の使用人が何日か前に、窓からスズメたちの遊び場へ何か残飯のおかゆのようなものを投げ捨てたのだが、実はそれが刻んだコルクで、未経験な若いスズメたちが試食したところ、もう少しでお腹が破裂しそうになったというのだ。
この話の途中、老スズメは突然羽毛を逆立て、顔をしかめながら翼の下のしつこいノミを探し始めた。ちなみに、このノミはふつう栄養不良のスズメにつくものである。それをつかまえると、老スズメは深いため息をついてこう言った。

『世の中も変わったものだて。わしらの仲間たちには食べるものさえないんじゃから。昔はこうして屋根にとまってうつらうつらしていると、不意に下の道路からガタゴト音がして、やがておいしそうな匂いが立ち昇ってきたもんじゃ。そうするとわしらの中にある何もかもが喜びで震えだす。音のした方へ降りてゆけば、きっと自然の要求が満たされると確信していたからの。
ところがこの頃のは、ガタゴトと音ばかりはやかましく、匂いも漂ってくるものの、それは我慢できないほどの匂いだ。たまに昔の習慣で、音がやんだところを見はからって飛んでいくと、いくら注意して探しても、胸の悪くなるような焦げた油か何かしか見つからんとくる。』

この話は、聞けばすぐわかるとおり、昔の馬車と現代の自動車のことを言っているのである。後者は、老スズメの言うように音ばかりやかましく、匂いも前者よりも強いのに、そのくせスズメの餌としては何の意味も持たない。そして、諸君もおわかりだろうが、食べものなしではスズメでさえ健康な子孫を残すことができないのだ。
この寓話は、現代の文明と過去の文明の違いを示すのにうってつけのものではなかろうか。
現代文明においても、過去の文明と同様、文学は本来人類全体の完成のためにあるのだ。ところが、この分野でも(現代のすべてがそうであるように)我々の本質的目標に役だつものは何一つ見あたらない。一切が外面的で、老スズメの語るとおり、ガタゴトという騒音と胸の悪くなるような匂いだけなのである
私のこの見解は、アジア大陸に生まれ育った人々と、ヨーロッパ大陸の現代文明のもとに生まれ、教育を受けた人々との感受性の発達度を公平にひき比べてみれば、誰の目にも確かだろう。
地理的条件その他によって現代文明の影響から隔離されている今日のアジア大陸の住民のすべてが、ヨーロッパ人よりも遙かに高度の感受性を発達させていることは周知の事実である。そして、感受性が常識の基盤であるために、これらアジア人種は、一般的な知識量の少なさにもかかわらず、現代文明のただ中にいる人々よりも、ものごとについていっそう正しい見解を持っている。
観察対象についてのヨーロッパ人の理解は、すべてに万能の、いわば『数学的情報』だけに頼っている。それに対してアジア人の大部分は、ときには感受性だけで、ときには本能的直観だけで対象を把握してしまうのだ。」
現代文学に関する談話の中で、この聡明な老ペルシア人は、さらに、現在多くのヨーロッパ人たち、つまり「文化の普及者」と称される連中の興味を集めている問題に触れた。
ペルシア人「アジアの人々は一時ヨーロッパ文学に大きな関心を示したが、やがてその内容の空虚さに失望して徐々に興味を失い、いまではほとんど目もくれないに等しい。
ヨーロッパ文学に対する興味の減退のおもな原因は、私の見るかぎり小説と呼ばれる一部門にある。
ヨーロッパの名高い小説は、先に述べたとおり、現代人に現れる病弊の1つを様々なかたちで延々と描写する。そのうえそれは、彼らの弱さ、意志力の欠如のおかげで、やたらに長いのだ。
いまだ母なる大自然からそう遠く隔たっていないアジア人たちは、男女双方に現れるこの精神状態を一般的に、特に男性には無価値なものと考え、そんなものに憂き身をやつす人間には本能的に軽蔑の態度をとる。
科学書、紀行文などヨーロッパ文学のその他の部門について言えば、ヨーロッパ人ほどは感受性を失っていない、つまり自然に近いアジア人は、筆者が真実についての知識を何一つ備えていないこと、自分が扱っている問題について本格的な理解を何一つ持ちあわせていないことを、なかば無意識のうちに直観してしまう。
こうした理由で、アジア人種は当初ヨーロッパ文学に多大な関心を示したものの、次第に何の注意も払わなくなり、現在では完全に無視するに到っている。ところが、ヨーロッパの公共の図書館や個人の書庫、書店の本棚は、日に日に増え続ける新刊書できしんでいるのである。
大部分の諸君は、いま私が言ったことと、アジア人の圧倒的大多数が文字どおり文盲であることとの矛盾はどうなのか?という疑問をいだくに違いない。
それに対して私は、現代文学に対する関心の欠如は現代文学そのものの責任であると答えよう。私自身この目で、何百人もの文盲の人々が、ひとりの字の読める人のまわりに集まって、いろいろな聖典や『千一夜物語』を読んでもらっているのを見たことがある。もちろん諸君は、そうした現象、特に『千一夜』のような物語は人々の生活そのものに根ざしており、理解しやすく、興味をそそるのは当然だと言うだろう。しかし、それは違う。これらの文献(特に『千一夜物語』だが)は、正真正銘の文学作品なのである。この物語を読んだり聞いたりすれば、その中に書いてあることがすべてつくり話だということは誰でもすぐわかるだろう。ただし、人々の日常生活とはかけ離れたエピソードからなっているにも関わらず、それらのつくり話は真理を映している。読み手や聞き手の興味が呼び起こされ、いやがうえにも高められてゆくのは、作者が、まわりのあらゆる階層の人たちの心をしっかりと理解しているからである。好奇心に駆られて少しずつ少しずつ後を追ううちに、実人生の些細な出来事が集まって一篇の物語が綴られてゆくのだ。

現代文明はもう1つ、ジャーナリズムという特殊な文学をも生み出した。
この新しいかたちの文学を黙って見すごすわけにはいかない。それが心の発達に何ら貢献しないばかりか、私の見るところでは、人間関係に及ぼすその破壊的な影響力によって、今日の人間生活の根本悪となっているからだ。
この文学形態が最近になってとみに蔓延してきたのは、それがほかの何にもまして人間の弱みや欲望につけこみ、意志力の欠如に拍車をかけるからだと私は信じて疑わない。そのために、かつてはおのれの個性を少しは認識するのに役だっていたもろもろの素材を得る最後の望みさえ、日ましに失われつつある。ところが、
自己完成の過程に必要不可欠な『自己を思い起こすこと』は、個性を認識することによって初めて可能なのだ
さらに、この無軌道な時事文学のおかげで、人々の思考機能はいやがうえにも個性を失い、以前はときおり目覚めていた良心も、いまでは彼らの思考にのぼることすらない。このように人間関係という点から見ただけでも、かつて人々の生活を多少なりとも満足のゆくものにしていた諸要素まで奪われてしまったのである。
我々すべてにとって不幸なことに、人々の生活の中に年々広がりつつあるこの報道文学は、ただでさえ弱い人間の心を、ありとあらゆる欺瞞や妄想に無防備にさらすことによっていっそう弱め、理性的な思考から遠ざけてしまう。その結果、人々の心の中には正常な判断力のかわりに、不信、怒り、恐怖、偽りの羞恥心、欺瞞、自惚れといったような無価値な感情が引き起こされることになるのである。
諸君に、この新しい文学形態が人々に及ぼす害毒について具体的に説明するために、新聞にまつわるいくつかの出来事を話して聞かせよう。これはたまたま個人的に関わったことなので、私にとってそれが真実であることは疑う余地がない。

テヘランにいたとき、あるアルメニア人の親友が、その死の少し前に私を遺言執行者に任命した。
彼にはひとり、いい年をした息子があったのだが、商売の関係で大勢の家族を連れてヨーロッパのある大都会に住んでいた。
ところがある晩の夕食後、この息子と家族全員の容体がおかしくなり、朝までに息をひきとってしまった。一家の遺言執行人として、私はこの悲劇のあった街へおもむく義務を負わされた。
調べた結果、この出来事が起こる前、この不幸な家族の長は何日か続けて、自分の購読する新聞紙上で、ある肉屋に関する長い記事を読んでいたことがわかった。記事によると、その肉屋では純粋な材料を使った特製のソーセージをつくっていた。
それと時を同じくして、あらゆる新聞にこの新しい肉屋の広告が載った。
とうとう最後に、彼も家族もソーセージを食べる習慣のないアルメニアで育ったため、誰もソーセージなど好まないにもかかわらず、彼はその製品を買いに行こうという誘惑に勝てなくなった。そして、さっそく夕食にそのソーセージを食べた結果、一家そろって食中毒にかかって死んでしまったのである。
この異常な事件に疑惑をいだいた私は、間もなく『私設秘密警察』の力を借りて次のようなことを探り出した。
ある大会社が、船便の遅れで出荷を拒否された輸出用の安いソーセージを大量に仕入れた。これをできるかぎり手早くさばくために、この会社は惜しげもなく金をつぎこんで記者を買収し、新聞にこの悪質なキャンペーンを展開させたのだ。

またこれは別な事件だが、私がバクーに滞在していたとき一度、甥の買ってくる地方新聞に、ある有名な女優の素晴らしい演技について紙面の半分近くを割いた長たらしい絶賛記事が載っているのを何日も続けて読んだことがある。
その記事のボリュームと巧みな筆に、年寄りの私までがいわば乗せられたかたちで、ある晩、仕事も養生もさしおいてその名演を見物に出かけた。
ところがどうだろう、新聞の半分を埋めた彼女の記事に書いてあったようなことは、これぽっちも見られない。
往年、私は演劇に関してはピンからキリまで大勢の役者の舞台を見、一時はその筋の権威と見なされていたこともある。しかし、私の芸術一般の見解は抜きにして、ただふつうの目で見ても、この『有名人』ほど才能のない、演技の初歩もわきまえない役者は初めてだった。
彼女の舞台にはまったく存在感が欠けており、どのような愛他精神を奮い起こしたところで、私だったら勝手女中にも採用すまい。
あとでわかったところでは、運よく富を築いたバクーの典型的な石油精製業者のひとりが、数人の記者にたんまりと賄賂を使い、自分の愛人を有名にしてくれたらさらに倍の礼をするという約束をしたのだった。彼女はもともとあるロシア人技術者の侍女で、それを石油業者が商売でこの技術者に会ったついでに誘惑したのである。

もう1つの例をあげよう。ドイツの大新聞の1つに、ときどきある画家について高尚な賞賛記事が載っていたのだが、それを読んだ私は、てっきりその画家を現代美術の雄と決めこんでいた。
ちょうどその頃バクーに新居を建てたばかりの甥が、結婚にそなえて豪華な内装を施すことにした。その年、彼は2度まで豊富な油脈を掘り当て、ひと財産転がり込むことは確実だったので、金を惜しまずにその有名な画家に依頼して家の装飾をまかせ、壁にフレスコ画を描いてもらうことを勧めた。そうすれば、すでに多額にのぼっていた出費は、少なくとも、このフレスコをはじめとするかの名画家の作品を受け継ぐ子孫を益することになるだろう、と。
甥はその勧めに従って、わざわざ自分からこのヨーロッパの大画家を招待におもむいた。やがてくだんの画家が到着してみると、なんと列車一台分の助手や職人、おまけに彼のハレム(もちろんヨーロッパ的な意味での)までが一緒について来たではないか。そして彼は、急ぐ様子など微塵も見せず悠々と仕事にとりかかった。
ところがこの名士の仕事の結果は、まず結婚式の日取りを遅らせねばならず、次に、すべてを元通りに直すのに少なからぬ金をかけなければならぬという始末だった。つまり、素朴なペルシア人職人たちの方が、ずっと純粋な芸術性のある装飾や絵画を製作できるということなのだ。
この画家の場合には、記者たちは(彼らに公平を期して言うと)ほとんど利害関係なしに、単なる同志、陰の協力者として、この凡庸な画家の名声を上げる手助けをしただけなのである。

最後に、今度はこの現代文学の中でもとりわけ悪質な部門を牛耳る、ある大立者が原因で起こった悲劇の話をしよう。
私がコラサンに住んでいる頃、ある日、友人の家で若いヨーロッパ人夫婦と知り合いになり、じきに親しい間柄になった。彼らは何回かコラサンに来たが、いつも短期間しか滞在しなかった。
2人そろって旅行しながら、夫の方はタバコに含まれる二コチンが人間の肉体と精神に与える影響を分析するため、いろいろな国のありとあらゆる情報を集めていた。
これに必要なデータの収集に、アジアの国々をまわったのち、彼らはヨーロッパに戻り、夫君はその研究の成果を一冊の大著にまとめる仕事を始めた。
ただし、若さと世間知らずのせいで、後々の備えをしておかず、旅行中に貯えを使い果たしてしまった若妻の方は、夫の仕事を支えるためにやむなくある大出版社にタイピストとして勤めることになった。
と、その事務所に出入りしていたある文芸評論家が彼女を見初め、恋とやらに落ちて、単に自分の肉欲の満足のために彼女と内密な仲になろうとした。しかし、妻としての貞淑をわきまえた彼女は、彼の誘いに乗ろうとしない。
ところが、この『あるヨーロッパ人の貞淑な妻』の中で道徳が勝利をおさめている間、かの忌まわしき現代人は、欲望の満足が得られない腹いせに、この手の人間によくある復讐の念をつのらせていった。そして、一計を案じて、何の理由もなく彼女の職を奪ってしまったのである。さらに、私の友人である夫君が本を書き終えて出版に漕ぎつけると、この現代の堕落者は恨みにまかせて、自分の執筆している新聞はもとより、ほかの新聞や雑誌にまで嘘八百を並べたて、こきおろしの記事を書き、まんまとその本を闇に葬ってしまった。すなわち、誰ひとりとしてその本に興味を持たず、買いもしなかったのである。
無原則きわまりない現代文学を代表するこの非道な人間のおかげで、実直な研究者と彼の愛妻は、最後には貯えも尽きパンを買う金もなくなって、とうとう首をくくってしまったのだ。
私の見るかぎり、もの書きとして、純真で騙されやすい一般大衆に大きな影響力を持つこれらの文芸評論家連中こそ、駆けだしの弱腰記者たちより幾層倍も悪質だと言える。
私自身、一生に一度も楽器らしい楽器に触ったことがなく、音楽に関して何ら実質的理解を持ちあわせていない音楽評論家を知っている。彼はそもそも音の何たるかも知らず、ドとレの違いもわからなかった。ところが、現代文明特有の異常さで、どういうわけか彼は音楽評論家のうちでも重要な地位を占め、ある大新聞の読者全員にその筋の権威として知られるようになったのである。
音楽というものは、真理の一面を理解するうえで標識燈のような役目を果たすのが本当なのだが、彼の無知蒙昧な論評のおかげで、読者の中には音楽に関する固定観念ができあがってしまった。
大衆には、書き手がどんな人かは決してわからない。表に出てくるのは、腕ききの商売人の手によって作られる新聞そのものだけである。
こういう新聞に記事を書いている人間が本当のところ何がわかっているのか、新聞社の喧噪の裏で何が起こっているのか、読者は何一つ知らないまま、紙面に書かれているすべてを額面どおりに受け取ってしまう。
いまでは石のように固まっている私の信念は(正当にものを考える人間ならば必ず同じ結論に達するに違いないが)次のようなものである。こうした報道文学があるために、現代文明なりの方法で自己発展を遂げようとする者は、大げさに言うならば、『エジソンの最初の発見』ほどの思考力を必要とし、感情の面では、ムラ・ナスル・エディンの言う『牛に負けないほどのこまやかな感受性』を発達させなければならないのだ。
現代文明の指導者たち自身、道徳的精神的発達度が低く、火遊びをする子どもたちのように無知で、こうした文学が大衆に与える影響力を軽んじている。
私が古代史から学んだところによれば、昔の文明の指導者たちは、けっしてこんな異常なものを放置しなかった。
私のこの見解は、さほど遠くない昔、我が国の支配者たちが日々の文芸に対してどれほど真剣にのぞんでいたかを伝える信頼すべき情報によって裏付けられるだろう。その昔とは、ペルシアが世界の大国の1つに数えられていた頃、つまり大バビロニア王国が文化の中心として地上に君臨していた当時の話である。
この情報によると、バビロニアにもパピルス版の新聞が存在していた。もちろんいまに比べれば発行部数は遙かに少ない。ただし当時は、そうした文芸部門にたずさわるのは、年嵩で地位も高く、徳や正しい生活で世間に知れ渡った人々だけだった。そのうえ、それらの地位につく人間を任命する法律があって、現在の宣誓陪審員や宣誓鑑定人と同様、彼らは宣誓協力者と呼ばれていた。
ところが昨今はどんな若僧でも、筆が立ち、文学的表現とやらが上手ければいっぱしのジャーナリストになれるのである。
新聞雑誌の類いを種々雑多な知ったかぶりで埋めるこうした現代文明の産物について、私がその精神構造を熟知し、その存在をだいたい秤にかけられるようになったのは、たまたま例のバクーの町で3、4か月間、毎日のように彼らの会合に出席し、意見を交わした経験によっている。
その詳細は次のとおりである。

あるとき、私がひと冬を甥のところで過ごそうとバクーへ出かけてゆくと、数人の青年たちがやって来て、甥がもともとはレストランにしようとしていた一階の大部屋の一つを『新文学ジャーナリスト協会』の会合に使わせてくれと言う。甥は2つ返事で承諾し、あくる日からその青年たちが集まって、彼らの言う定例会と学術討論会を開き始めた。会合はだいたい夕方開かれた。
それらの会合には部外者の出席も許されていたので、夜はおおかた暇で、部屋が彼らの集まる広間に近かったこともあり、私はちょくちょく議論を拝聴させてもらった。じきに何人かが私と言葉を交わすようになり、少しずつ友人関係ができていった。
彼らの大部分はまだ年若く、女性的な弱々しさがあり、何人かの顔には両親が酒乱か何か意志薄弱だったに違いないことが見てとれたし、その顔の持ち主自身、他人には言えない悪癖の数々を隠しているのがありありとわかる者もいた。
今日の大都会に比べれば。バクーは小さな町であり、そこに集まった若者たちもせいぜいが低空飛行の輩だったが、世界中どこでもおおむねこれと似たようなものと考えて間違いはないだろう。というのも、私はのちにヨーロッパを旅行して、この現代文学の一部門を代表する連中と接触することになったが、どれも似たりよったりの印象で、莢(さや)に並んだ豆粒のごとしだったからだ。
唯一の違いといえば、彼ら一人一人の重要度だけだが、それはどんな出版物に寄稿しているか、つまり、彼らが知ったかぶりをひけらかす新聞雑誌の評判や発行部数、言葉をかえれば、その出版物および彼ら文筆家全員を抱えている会社の景気によって左右されていた。
彼らの多くが、どういうわけか詩人と呼ばれている。今日のヨーロッパでは、どこの誰でも、
緑の薔薇
紫のミモザ
この世ならぬは乙女の姿
まといつく追憶に似て
といった程度の短いナンセンスをひねくれば、まわりから詩人の称号がいただけるのだ。中には、それを名刺に刷りこむ者までいる始末である。
これら現代ジャーナリストたちは、なぜか団結精神が堅く、互いに一生懸命支援し合い、何かにつけて過度に褒めそやし合うのを常としている。
彼らの影響力が広がり、虚構の権威が大衆に認められるのも、民衆がこんなつまらない連中に知らず知らずのうちに卑屈なへつらいを見せるのも、おもな原因はその団結力にあるようだ。確かな良識があれば、彼らの実体を知ることができるのにである。
先ほど触れたバクーの会合では、ひとりが演壇に上がって、いま例にあげたようなお粗末な一節を読みあげるか、でなければ、どこかの国の大臣がさる宴会の席でかくかくしかじかの問題に関してこういう言い方をしたのはどうしてか、といった話をする。そのあとで、多くの場合、司会者はだいたい次のような言葉で話をしめくくる。
『ではここで、現在学界の権威であられる何の何某先生に壇を譲ることにいたしましょう。先生は特別重要な用件でこの町に立ち寄られ、ご親切にもわれわれの要請に応えて今日の会合にお見えになった次第です。先生のお声をわが耳で聞けるとは、なんという光栄でありましょうか。』
そして、その名士は演壇上に現われると、こんな調子でスピーチを始める。
『紳士淑女の皆さん、私なんぞを名士呼ばわりされるとは、これ実に某君の謙譲の徳のなせるわざと申せましょう。』(ことわっておくが、司会者が何を言ったか彼に聞こえたはずはない。彼は閉まっていたドアの向こうの部屋から自分でドアを開けて出てきたばかりであり、その家の音響効果とドアの密閉度は私がよく知っていたからである。)
そうして、彼は続ける。
『実際には、彼に比べれば私などここに列席することさえはばかられます。名士は私ではなく彼であります。彼はわが大ロシア帝国ばかりか、文明諸国の隅々にまで知れ渡っております。後世、彼の名は感動をもって口にされ、学問と人類の福祉に残した彼の功績を誰ひとりとして忘れることはありますまい。
この真理の神がいまこの取るに足らない町におられるのは、けっして見かけどおりの偶然ではなく、彼にしかわからない非常に重要な理由によることは間違いありません。
事実、彼は我々などとはかけ離れた、古代オリンポスの神々と並ぶ存在なのであります。』云々。
こんな前口上を述べたうえではじめて、名士になったばかりのこの人物は、いくつかの馬鹿馬鹿しい説を唱える。たとえば、『シリキチはなぜパルナカルピに戦争をしかけたのか』というテーマについてである。
こうした学術会議のあとには、必ず晩餐が控えていて、安物のワインが二瓶開けられる。参加者の大勢がポケッ卜にソーセージか燻製ニシンをパンといっしょにくすね、運悪く見つかると、ふつうこんな言い逃れをする。
『ああ、これは犬にやろうと思ってね。やっこさん習慣で、遅く帰ると必ず、みやげを待ってるんだ。』
こんな夕食会の翌日は、この地方のすべての新聞に、会合のとてつもない誇張記事が載ったものだ。
スピーチの方はおおよそ正確に引用されるが、晩餐の慎み、言葉をかえれば、犬にソーセージを持ち帰ることの方には言うまでもなくこれぽっちも触れたりはしない。
こういう手合いが紙上にありとあらゆる『真理』や科学的発見について書きたてるのだ。そのおかげで、彼らの人となりを知らない純真な読者は、人生について病的で、経験不足で、無知以外の何ものでもない彼らの空虚な言葉を、すっかり信じこんでしまうのである。
ひと握りの例外を除いて、ヨーロッパの都会に住む著述家や新聞記者たちは全員、実に未熟で考えることにもまとまりがなく、遺伝的ないし固有の弱点をみごとに体現している。
私の考えでは、現代文明に見られる多くの異常現象の最大原因の1つは、このジャーナリズム文学が人々の心に与える不道徳的かつ悪質な影響であることは間違いない。驚くべきことに、今日の文明諸国のどの政府も、これに気づいていない。歳入の半分以上を警察、刑務所、裁判機構、教会、病院などにつぎこみ、聖職者、医師、秘密諜報員、検事、広報担当者を初めとする官公職に多額の給料を払って、市民の健全とモラルを維持しようと必死になっているのにもかかわらず、その根元にあるこのジャーナリズムという罪や誤解の原因を一掃することには、びた一文使おうとしないのである。」

こうして、この年老いた聡明なペルシア人の話は終わった。
さて、勇敢なる読者よ、この話を終えたところで、あなたももうすでに長靴に片足を突っこんでおられるかもしれない。この話を挿入したのは、私の見るかぎりこの中に述べられている考えが、人間理性の完成という面で、現代文明の方がいままでの文明よりもすぐれていると純真に思いこんでいる現代文明礼賛者にとって、とりわけ教訓的だと考えるからなのである。ここで序をしめくくり、この第2集のために用意した原稿の仕上げにかかろうと思う。
この著作に、誰にでも理解可能なわかりやすいかたちを与えようとして書き直し始めたときに、ある考えが浮かんだ。われらが偉大なるムラ・ナスル・エディンの賢明な人生訓に従って仕事を進めてはどうだろうという考えである。
いわく、「何ごとも常に他人のためになり、同時に自分も楽しめるように努めよ。」
われらが導師の賢明な教えの前半に関しては、私はまったく問題を感じない。この第2集で紹介しようとしている思想そのものが、それに沿うはずだからである。一方、私が楽しめるという条件を満たすために、以後この草稿に手を加え、それによって、私がものを書き始める前に会われた人々が私に感じられたよりも、肌ざわりのよいところをお目にかけたいと思う。
「肌ざわりがよい」という言葉で私が何を言いたいかを理解していただくには、次のことを申し上げておく必要がある。
アジアやアフリカの諸国は、様々な理由により、過去50年にわたって多くの人たちの興味を集めてきた。これらの国々を何度かにわたって旅行してからというもの、私はずっと呪術師として、また「超越的問題」に関する専門家として知られているのだ。
その結果として、誰もが、私に会えばそうした超越的問題についてのあまり意味のない好奇心を満足できる、あるいは、私の私生活や旅行談を聞き出せると信じこんでいる。
おかげで、どんなに疲れていても、私は何かしら答えなければならない義務を負わされてしまう。さもないと、人々は心証を害し、悪意をいだいて、私の名前が出るたびに何かしら私の活動を妨害し評判を落とすようなことを言うのである。
本書のための原稿を修正するにあたっては、個別の物語形式を用い、その中に、よく尋ねられる質問の答えになるような考えをはさむことにした。それは、もしまた厚顔無恥の輩を相手にしなければならなくなった場合、ただどこそこの章を見てくれと言うだけで、彼らの機械的な好奇心を満足させられるからである。また、そのおかげで、こうした連中の習癖である連想の流れだけによって、彼らと話し合うことが可能になり、ときには、私の一生の仕事を意識的に、良心的に成就するのにぜひとも必要な、能動的思索のゆとりができるであろう。
さまざまな階層の、私のことを知る度合いの異なった人々がしばしば持ち出す質問のうち、記憶するかぎり次のようなものが最も多かった。

私がどのような注目すべき人々と出会ったか?
東洋でどんな驚異を目撃したか?
人間に魂はあるか? それは不滅か?
人間の意志は自由か?
生とは何か? なぜ苦しみが存在するのか?
私がオカルト、あるいは精神科学を信じるか?
催眠術、精神誘導、テレパシーとは何か?
どうして私がこのような問題に興味を持ったのか?
どのようにして、私の名のもとに協会で実践されているいまのような体系を編み出したのか?

そこでまず本書の各章を使って、一連の質問の最初のもの、「どのような注目すべき人々に私が出会ったか?」にお答えしようと思う。それぞれの出会いについての話の中に、この第2集で公にしたいと思っていたすべての考えを、論理的序列に従ってちりばめ、同時に他の質問にも答えるつもりであるが、こうした考えは、初歩的な思索の材料としてお役にたてていただくためのものである。さらにこれらの物語は、いわば私の自叙伝としての輪郭が浮き彫りになるような構成で並べることにする。
先に進む前に、「注目すべき人」という表現をはっきり説明しておく必要があるだろう。明確な概念を示す言葉がすべてそうであるように、この言葉も現代人の間では、相対的、つまり主観的に理解されるのが常だからである。
たとえば、手品師は多くの人間にとっては注目すべき人だが、手品の種がわかってしまえば注目すべき人ではなくなる。
どんな人間が注目すべき人の名に値するかを定義するために、ここで、話を省略して、私が個人的にどういう人間をそう呼ぶかを述べることにしたい。
私の見解では、注目すべき人と呼ばれうるのは、機知に富む点で周囲の人々をしのぐ人間、本性の発露を自制することを心得ている人間、そしてまた他人の弱さに対して公正に、辛抱強く対処する人間である
その中の最初の人は、私の一生に影響を残している父であるので、まず彼から始めることとしよう。


私の父は、19世紀末から20世紀の初頭にかけて、通称アダッシュというアショーク(詩人兼語り部)として知れ渡っていた。彼は専門のアショークではなく素人であったにもかかわらず、当時のトランスコーカサスや小アジア諸国の民衆の間ではとても人気があった。
アショークというのは、アジアやバルカン半島の各地で、詩歌、伝説、民話や、様々な物語をつくったり歌ったりする吟誦詩人に冠せられた呼び名である。
このような天職に身を捧げた先人たちは、満足な初等教育さえ受けておらず、ほとんどが文盲に近かったが、いまなら注目や驚嘆の的になるに違いないすばらしい記憶力と醒めた心を持っていた。
彼らはしばしば無数の長大な物語や詩歌を暗誦し、それぞれの旋律を歌い分けただけではなく、自己流に即興で吟ずる場合にも、驚くべき素早さで適切な韻を踏み、リズムを変化させることができた。
現在では、これほどの才能を備えた人たちはもうどこにも見あたらない。私が幼い頃ですら、彼らの数はどんどん減りつつあると言われていた。
私自身、当時名を馳せていたアショークたちをこの目で見たことがあるが、彼らの容貌はいまなお強く印象に残っている。それは、父がそうしたアショーク詩人たちの競演会に、小さい私を連れて行ってくれたからである。ペルシアやトルコ、コーカサス、トルキスタンなどの国々から集まってきたアショークたちは、大勢の聴衆を前にして即興や吟詠の技を競い合った。
この競演会はふつう次のように展開した。まず、くじで選ばれた参加者のひとりが即興のメロディーで、相手に宗教的または哲学的テーマ、あるいは有名な伝説、慣習、信仰の意味や起源に関して問いを発する。それを受けた相手は、やはり自分なりの即興の歌でその問いに答える。そればかりでなく、こうした即興のメロディーは、音楽学で言う「アンサパルニアン的共鳴流」に従うことはもちろん、先行する和音にも常に対応しなければならないことになっていた。これらの問答は、主としてトルコ・タタール語の韻文で歌われた。それが当時、様々な言語を話すこの地方の人々の共通語だったのである。
競演会は数週間、ときには数か月にわたって繰り広げられ、衆議によって最優秀と認められた歌い手には、聴衆から寄せられた家畜や絨毯などが賞品として贈られてその幕を閉じた。
私はこれまでに3回、そのような競演会を見た。最初はトルコのヴァンという町において、2度目はアゼルバイジャンのカラバックという町において、そして3度目はカルス地方のスバタンという小さな町においてである。
私が子供の頃に一家が住んでいたアレキサンドロポルやカルスの町では、父はしばしば夕べの集いに招かれた。それは、大勢の知人たちが父の物語や歌を聞こうと設けたものであった。
そうした集会で、父は、その場の人たちの好みに応じて、自分の知っているたくさんの伝説や詩のどれかを吟誦したり、何人かの登場人物が交わす対話を歌ったりした。物語の中にはひと晩かかっても終わらないものがあり、そんなときには聴衆はまた次の夜、残りを聞きに集まるのだった。
翌朝早起きする必要のない日曜日や祝日の前の晩には、父は子供たちに古代の偉大な民族や優れた人たちについて、あるいは神や自然や神秘的な奇蹟についての話をしてくれ、最後にはそれを必ず『千一夜物語』の一篇でしめくくった。『千一夜物語』は父の十八番で、本当に千一夜の物語を全部話すことができるほどだった。
父が語ってくれたこのような話から受けた強い印象は、私の一生に大きな刻印を残しているが、その中に1つ、のちに少なくとも5回にわたって、不可知なるものを洞察するための〈霊的要因〉となったものがある。
後々の霊的要因となったこの強烈な印象が私の中で結晶化したのは、ある晩、父が「大洪水の前の大洪水」という伝説を吟誦した際、父とその友人のひとりがこれを巡って議論を戦わせた時のことであった。これは、生活の必要によって、父がやむなく大工を職としていた時期のことである。
この友人はよく父の仕事場に立ち寄ると、ときにはひと晩中、古代の伝説や格言の意味を父とあれこれ吟味していた。
父のこの友人こそ、まもなく私の最初の家庭教師となり、現在の私の個性の発見者および創造者となったカルス陸軍大聖堂のボルシュ司祭長にほかならない。彼はいわば〈私の内なる神の第3の面〉とでも言うべき人である。
この議論がもちあがった夜、仕事場には彼ら2人のほかに私がおり、近くの村で大きな菜園とブドウ園を経営していた叔父も居合わせた。叔父と私は仕事場の片隅の柔らかい木屑の上に腰をおろして、父がバビロニアの英雄ギルガメシュの伝説を歌い、その意味を説明するのに耳を傾けていた。
父が物語の第21歌、ウト・ナピシュティムがギルガメシュに向かって、シュルッパクの地の洪水による破壊を語るくだりを歌い終えたときに、議論は始まった。
この部分を吟じ終え、ひと息入れてパイプを詰めながら、父は次のような意見を述べた。ギルガメシュ伝説は、バビロニア人よりも古い民族であるシュメール人に端を発したものであり、この同じ伝説が旧約聖書におけるノアの大洪水の話の起源となって、キリスト教的世界観の基盤をなしたことに疑いはない。後世になっていくつか名前や細部が変えられたにすぎないのだ、と。
これに対して司祭長は、多くの反証をあげて異議を唱え、そのうち議論は大変な熱気を帯びて、2人ともいつものように私を寝床に追いやることさえ忘れる始末だった。叔父と私もその論争にすっかり夢中になり、とうとう明け方、父とその友人が議論をやめて別れを告げるまで、身動き一つせずおが屑の上に横になっていたのである。
その晩、幾度となく吟じられたギルガメシュの第21歌は、生涯私の記憶に焼きつくことになった。
それは、次のような歌である。

ギルガメシュよ、汝に
神々の悲痛に満ちた神秘を明かさん。
かつて、神々は一堂に会し
シュルッパクの地に洪水を招くことを定めたり。
叡知のエアは、その父アヌにも告げず、
かの偉大な主、エンリル神にも
幸福の使者ネムルにも
まして、冥界の王子エヌアにも告げず、
ウバラ・トゥトゥの息子(ウト・ナピシュティム)を呼びてかく告げり。
「汝、船をつくれ。
汝の近しい者たちと
汝の望む鳥や獣を引き連れよ。
神々はシュルッパクの地に洪水をもたらすことを定めたり。」

老境に達するまで比較的正常な人生を送ったこの2人の抽象的論議は、ありがたいことに、少年の私に強い印象を与え、それによって形成された資質は私の個性を形作るうえで大きな力となったが、私がそれを自覚したのはずっとのち、ヨーロッパ大戦(第一次世界大戦)の直前のことであった。それ以来、前述したような深い霊的要因として私を支えてくれたのである。
最初に私の心理的感覚的連想群に衝撃を与え、これに気づかせてくれたのは次のような出来事であった。
ある日、雑誌に目を通していると、バビロンの遺跡で、学者の鑑定では間違いなく4,000年前のものと見られる粘土板文書が発見されたという記事に出くわした。雑誌にはその粘土板の文と解読テキストが掲載されていたが、それがなんと、かの英雄ギルガメシュの伝説だったのである。
そのテキストが、かつて子供の頃に父から幾度となく聞いたものと同じ伝説だということを知り、とりわけそこに示された伝説の第21歌が、父の吟じたのとほとんど同一の構文であるのを目にしたとき、私は自分の将来がすべてこれにかかっているかのような深い内的興奮を覚えた。それにしても、この伝説がアショークたちの口伝によって世代から世代へ数千年の長きにわたって継承され、しかも今日にいたるまでほとんど変化を蒙っていないという当初は不可解な事実に、私は驚嘆の念を禁じえなかった。
この出来事があって、父の物語によって子供時代に形成された印象の好影響に遅まきながら気づいてからというもの(これが私の中で結晶化して、ふつうは不可知とされていることを理解するための霊的要因になったわけだが)私は、いまようやく理解できるようになった様々な古代伝説の重要性を認める時期を逸してきたことを、残念に思うようになった。
父から聞いたもう1つの伝説がある。それもやはり「大洪水の前の大洪水」の伝説で、このできごと以来、やはり私にとって大きな意味を持つようになった。同じく韻文で語られたその伝説によれば、ノアの大洪水に先だつこと70世代の遙か昔(1世代は100年とされていた)、現在海となっているところには陸があり、陸となっているところは水におおわれていたが、地球上には偉大な文明が栄えていた。
その中心が、いまはなきハニン島で、これは地球の中心でもあった。
私が種々の歴史的資料から推察するかぎりでは、ハニン島はほぼ現在のギリシアあたりに位置していたようである。
この最初の大洪水のあとの唯一の生き残りは、太古のイマスタン教徒たちである。彼らはまとまった社会集団を形成し、地球上の全域に広がっていたが、その中心はこの島にあった。
これらイマスタン教徒たちはいずれも学識に優れ、とりわけ占星学に精通していた。大洪水の直前、彼らは様々な場所から天体の現象を観測するため地球上の各地に散らばっていた。ただし、どんなに離れていても、彼らはテレパシーによってたえず互いのコミュニケーションを保ち、あらゆることを中央に報告していた。このためのいわば受信装置として、彼らは俗に言う巫女を使った。これらの巫女たちは、イマスタン教徒たちが方々から送ってくるメッセージを入神(トランス)状態で無意識のうちに受信記録し、情報源の方向別にあらかじめ決められた角度でそれを書き出した。つまり、島の東から送られてきた情報は上から下に書きおろし、南からのものは右から左へ、西から(かつてアトランティスが存在し、現在ではアメリカが位置する方角からであるが)のものは下から上へ、そして現在ヨーロッパが位置している方角からの情報は左から右へ書き出したのである


父への思い出に捧げられる本章で、執筆の論理的必然から、父の友人であり私の最初の師であるボルシュ司祭長について述べた以上、この2人の間に設定されていたあるやりとりについて記述しないわけにはゆくまい。正常な人生を送って老境にいたり、いまだ精神の培われていない少年であった私を責任ある人生へ旅立たせるための教育の義務を引き受けた2人は、私に対する誠実で公正な態度のゆえに、私の本質にとって〈内なる神の2つの面〉を表してくれていると言ってよい。
このやりとりは、心の発達と自己完成のための非常に独創的な方法である。ただしそのことは後年それを理解して初めて明らかになった。彼らがそれにつけていたカストウシリアという呼び名は、私の見るところ古代アッシリア語であり、父が何かの伝説から採ったものと見られる。
そのやりとりは、次のようなものであった。
ひとりが不意に、見かけはまったく場違いな質問を投げかける。するともうひとりはあわてるようすもなく、穏やかな真剣さで論理的にもっともらしい答えを返す。
例えば、ある晩私が仕事場で遊んでいると、この未来の師が突然入ってくるなり、父に「神はたったいまどこにおられるか?」と問いかけた。父は真剣この上もなく、「神はたったいまサリ・カミッシュにあらせられる」と答えた。サリ・カミッシュというのはロシアとトルコのかつての国境に近い森林地帯の名称で、トランスコーカサスおよび小アジア全域に知られた珍しく背の高い松の産地である。
父の答えを受けて司祭長はさらに、「神はそこで何をなさっているか?」と問う。父の答えは、神はそこで2つ折りの梯子をつくり、その上に幸福を結びつけて、個々の人間や国民全体が、そこを昇ったり降りたりできるようにしている、というものだった。
これらの問答は真剣な落ち着きのうちに交わされ、それはまるで、一方がその日の馬鈴薯の相場を尋ね、もう一方が今年は馬鈴薯が不作だと答えているかのようだった。しかし、私がこうした問答の裏にいかに豊かな思想が隠されているかを理解したのは、ずっとあとになってからのことである。
彼らはたいていこれと同じような心構えで会話を進めていたので、知らない人が見たら、気のふれた老人が2人、何かの手違いで精神病院から出てきているとでも思ったことだろう。
当時の私には無意味に見えたこれらの会話の多くは、後々に私自身が同様な疑問をいだくにつれて深い意味を持つようになり、これらの問答が2人の老人にとっていかに重要な意義を持っていたかを初めて理解するにいたったのである。
父は人生の目的に関し極めて単純かつ明快な見解を持っていた。私が若い頃、父はくりかえし、人間の根本目標は生きるにあたっての内的な自由を確立することと、幸福な老後に備えることだと教えた。父にとってこのような人生の目的は、明らかに不可避にして不可欠なものであり、利口であろうとなかろうと、誰もが衒(てら)いなく理解すべきものであった。ただし、この目的を達成するには、人は幼年期から18歳までの間に、次の四つの戒律を厳守する資質を養わなければならない。

1、両親を愛すること。
2、純潔を守ること。
3、他人に対しては、貧富、敵味方、力、宗教の差にかかわらず礼節を守りながら、内的には自由を保ち、けっして何ぴとをも何ものをも過信しないこと。
4、利益のためではなく、労働のための労働を愛すること。

長男である私をこよなく愛した父は、私に多大な影響を及ぼした。私たちの関係は親子というよりは兄弟に近かった。そして絶えざる会話と並はずれた物語によって、父は私の中に詩的想像力や崇高な理想を培ってくれたのである。
父はギリシア系の血を引いている。先祖はコンスタンティノープルに住んでいたが、同市征服に引き続くトルコ人による迫害を逃れて、祖国を離れた。
最初彼らはトルコ中部に居住の地を見いだしたが、のちにいくつかの理由により、とくに先祖からの莫大な財産の一部をなす家畜の群れに適した牧草と気候条件を求めて、黒海の東岸、現在ギュミュスハーネと呼ばれる町の周辺に移り住んだ。さらに彼らは、ロシア・トルコ戦争の勃発直前に、トルコ人による度重なる迫害を逃れてグルジアに移ったのである。
父はそこで兄弟と別れ、家族ぐるみアルメニアに来て、名称がトルコ名のグムリから変わったばかりのアレキサンドロポルの町に住みついた。一族の財産を分配してみると、父の手もとには、相当数の家畜を含めてその頃としては大変な身上がころがりこんだ。
ところが、アルメニアに移って2年と経たないうちに、父の相続したこの財産はすべて人知の及ばぬ災害によって失われてしまったのである。ことの次第は次のとおりであった。

一家と牧童、および家畜を引き連れてアルメニアに引っ越した時点では、父はその地方一の裕福な家畜所有者だった。まもなく、そのあたりの慣習によって、比較的貧しい家族が、シーズン中に一定量のバターとチーズの配当を受けるという条件とひきかえに、自分のところの少数の牛や羊を父に預けることになった。ところが、父の名義の家畜が、他人の家畜数千頭を抱えてふくれあがったところへ、アジアから牛疫が伝染し、トランスコーカサス一帯に蔓延したのである。そのときの伝染病の猛威は、2ヶ月あまりのうちにほとんどの家畜を全滅させ、ようやく命をとどめた少数も骨と皮というありさまであった。
家畜の世話を引き受けるにあたって、これもまたその地方の慣習で、あらゆる事故に対する保障(ちなみに、それにはかなり頻発した狼による被害まで含まれていた)の責任を負った父は、この災難で自分の家畜をすべて失ったばかりか、他人の家畜の損害賠償のために、やむなく残りの財産の大半を売却しなければならないという羽目に陥ったのである。その結果父は、富豪から一挙に貧民に転落してしまった。
当時私の家族は、父、母、老後を末息子のもとで送ることを望んだ祖母、そして長男の私と弟、妹の、計6人であった。私はその頃7つぐらいだった。
財産をなくした父は、さっそく何か商売を始めなければならなかった。これだけの一家を支えることからしてひと苦労であるうえに、それまでの豊かな暮らしに慣れた家族を維持するには大変な費用がかかったからである。そこで、かつての家屋敷から残った財産をかき集めた父は、まず材木置場の経営を始め、土地のしきたりに習って、その一角に、いろいろな木工品を製造する木工所を開いた。
だが、それまで一度も商売の経験がなかったために、父の材木置場は最初の年から赤字だった。結局父はそれを廃業し、小さな木工品を専門につくる木工所だけに専念しなければならなくなった。
この2度目の失敗は、最初の災難から数えて4年後のことであった。この間、私たち一家はアレキサンドロポルに住んでいたが、それはちょうど、その近くのカルスの要塞都市再建をロシアが急いでいた頃と時を同じくする。カルスの好景気に、すでにそこで商売を始めていた叔父の熱心な勧めも手伝って、父は木工所をカルスに移すことにした。まず彼が単身でカルスに赴き、追って一家全員が引っ越したのである。
このときまでに、私たちの家族には〈食物転換のための宇宙的な装置〉があと3つ加わっていた。とても可愛い3人の妹というかたちをとってである。
カルスに落ち着いたのち、父は最初私をギリシア系の学校へ入れたが、まもなくロシア自治領立学校へ転校させた。
もの覚えの早かった私は、予習復習にほとんど無駄な時間をかけず、余暇はすべて父の木工所を手伝った。ほどなく私は自分の得意客さえ持つようになった。初めは仲間に鉄砲や筆箱などをつくってやっていたのが、だんだんと本格的な仕事に進展して、よその家のありとあらゆる修理修繕を引き受けるようになったのである。
当時まだほんの子供だったにもかかわらず、私はその頃の家庭生活を細部までありありと覚えている。中でも記憶に残っているのは、相次ぐ不運の時期を通じてかたちに現れた、父の内的平静と無執着である。
いまにして思えば、ギリシア神話の〈豊饒の角〉から噴出してくるかのような、うち続く不運と必死に戦いながら、父は困難な状況にあっても変わらぬ詩人の魂を持ち続けていたのに違いない。そのおかげで、私の子供時代、貧乏暮らしにもかかわらず、一家には格別な調和と、愛と、相互扶助の精神があふれていた。
生まれつき人生の細かな部分にインスピレーションを見いだす力を備えていた父は、一家がどん底にあるときでさえ、私たち全員の勇気の源だった。心配ごとを気に病まない彼の自由さが、私たちにいま述べたような幸をもたらしてくれたのである。
父のことを記すにあたって、いわゆる〈超越的な問題〉を看過するわけにはゆくまい。この問題に関して、父はきわめて特異で、しかも単純な考えを持っていた。
最後に父に会いに行ったとき、私がそれまでの30年間、他人から意識的な注意を集めるだけの資質を身につけた注目すべき人々に出会うたびに用いていた特殊な問い方で、型どおりの質問をしたことを覚えている。すなわち、そうした場合必ず踏むことにしていた準備手続きをしたうえで、こう聞いたのである。
「なまじっかな哲学談議はさておき、人生の経験からごく簡単に言って、人間に魂はあると思いますか? あるならばそれは不滅でしょうか?」
「どう答えたらよいだろう?」父は口を開いた。
「世間の人々がその存在を信じ、死後も存続して転生するような魂があるとは、私は信じない。が、一生の間に人間の中で〈何か〉がかたちをとるのは確かだ。これは私にとって疑う余地がない。
私の考えでは、人間はある種の特性を持って生まれてくる。そして、この特性のおかげで、人生を過ごしていくうちにその人の経験のうちのあるものが、その人の中にある種の物質をつくり出す。この物質から次第に〈いわく言いがたい何か〉が形成されて、それがほとんど肉体から独立したものと言っていい生命を獲得するのだ。
人が死んでも、この〈何か〉は肉体と同時には分解せず、肉体を離れてからずっとあとになって分解する
肉体と同じ材質からできているにもかかわらず、この〈何か〉は肉体よりも遙かにきめが細かく、間違いなくあらゆる知覚においてより高い感度をそなえている。その感度がどれほどのものかと言えば、お前も覚えているだろう。お前があの少々間の抜けたアルメニア女のサンドを実験台にしたときのことだ。」
父の頭にあったのは、ずっと昔アレキサンドロポルに出かけたとき一度、私が彼の目の前で様々なタイプの人々に深度の異なる催眠術をかけ、催眠術師が感覚の具象化、あるいは遠距離における苦痛の転移と呼ぶ現象を解明しようとしたときのことである。
実験は次のような手順で行われた。
まず、粘土と蝋と細かい散弾を使って、これから催眠術をかけようとする霊媒に似せた人形をつくる。そして、霊媒を、太古から今日に伝わる一学派において意志の喪失と呼ばれ、現代のナンシー学派の分類では第三次催眠状態にあたる状態に導く。そうしておいて、私は霊媒の体の特定の部分にオリーブと竹の油でつくった軟膏をすりこみ、それを拭きとって今度は人形のそれにあたる部分に塗る。そのうえで、この現象の興味深い詳細をこころゆくまで観察したのである。
父を仰天させたのは、私が針で人形の油を塗ったところをつつくと、霊媒の体のその同じ場所がぴくっと動き、さらに針を深く刺すと、霊媒の体のその部分から血が滲み出してくることであった。特に父が驚いたのは、目を覚まされてそのことを聞かれても、霊媒が何も覚えていず、何一つ感じなかったと言い張ったことである。その実験に立ち会った父は、私の問いに答えてそのことを引き合いに出したわけである。
あれと同じように、この〈何か〉は、その人間が死ぬ前も死んだあとも、それが分解するまで周囲の動きに反応し、その影響を蒙るのだ。」

父は私の教育に関して、「たゆまざる試練」とも言うべき明確な方針を持っていた。
このたゆまざる試練の中で最もきわだっていたのが、後々の責任ある人生での様々な心の動きの源泉となる資質が形成される少年時代に、機会を見ては私のためにはからって、選り好みや嫌悪感、気難しさ、恐怖、小心さといった類いの心の動きを生ずるかわりに、ふつうならこうした心の動きをいざなうはずのあらゆるものごとに無頓着になるような躾(しつけ)をしたことである。これがよい結果をもたらしたことに疑問の余地はない。それは自分ではっきりと感じたことであるばかりでなく、真理を求めて地上の荒野の数々を遍歴したおり、私に接した人々が見て取ったことでもある。
父がこうした意図をもって、ときどき私の寝床にカエルやミミズ、ネズミなどの小動物を忍ばせたり、無毒のヘビを手に取らせて、それと遊ばせるというようなことをしたのはいまでも覚えている。
私に対するたゆまざる試練のうちで、母や叔母、年上の牧童たちなど周囲の者を一番心配させたのは、子供の眠りが特に快い早朝に父が私を叩き起こし、泉に行って全身に冷たい水を浴びさせて、裸のまま走りまわらせたことである。そのうえ、私がそれに抵抗の態度など見せようものならけっして許さず、ふだんは優しい息子思いの父が、情容赦なく懲罰を加えたのだった。このことは後年しばしば記憶に蘇ってきたが、そのたびに私は全身全霊感謝の思いに堪えなかった。もしこのような躾がなかったら、のちに多くの旅で遭遇した幾多の障害や困難を克服することはできなかったであろう。
父自身、ほとんど学究的とも言うべき規則正しい生活を送ったが、規律を守ることに関しては自分自身にも容赦はなかった。例えば、翌朝予定したことに早めに手をつけられるよう早寝をするのが父の習慣だったが、これは娘の結婚式の夜であっても例外ではなかった。
私が最後に父の姿に触れたのは、1916年のことである。父はそのとき82歳であったが、依然として申し分のない健康と活力にあふれていた。髭に白いものが2、3本出始めたのが、見えるか見えないかというところであった。
父はその一年後に生涯を閉じた。それも老衰によってではない。
父を知るすべての人々にとって、わけても私にとって、悲しく痛ましいそのできごとがあったのは、人類の周期性精神異常が最近における山場を迎えたときのことである。
トルコ軍のアレキサンドロポル進攻によって一家が避難を強いられた際、父は家屋敷を運命の手に委ねることを潔しとせず、家財を守ろうとしてトルコ軍の銃弾に倒れたのである。まもなく父は息をひきとり、その場に居合わせた数人の老人たちの手で埋葬された。
父が書き残したり筆記させたりした伝説や歌の数々こそ、私が思うに、最も彼にふさわしい形見になったはずである。しかし心ある人々にとって不運なことながら、それは我が家の受けた度重なる略奪のすえに失われてしまった。けれども、私がモスクワに残した荷物の中に、父が歌い、円筒形のレコードに収めた何百篇かの歌が、何かの奇蹟によって保存されていることがあるかもしれない。もしそれらのレコードが見つからないとしたら、民俗古典の価値を知る人々にとって、惜しむべきことであろう。
父が好んで会話にはさんだ〈主観的格言〉のいくつかを紹介すれば、読者の脳裡に、父の人格や知性がはっきりと描き出されるかもしれない。
これに関しては、私もほかの多くの人々も認める興味深い事実がある。それは、これらの格言を父が自分で会話の中に用いた場合には、誰の耳にもそれ以上適切で上手な言いまわしはないように聞こえるのに、ほかの者がそれを口にすると、まったく的はずれで、お話にならないナンセンスとしか思えなかったことである。
父のその主観的格言をいくつか拾ってみょう。

塩がなければ砂糖もない。
灰は火によってできる。
聖衣は愚者の隠れ蓑(みの)。
ひとりが沈めばひとりは上がる。
司祭が右を向いたら、教師は左を向け。
臆病風は勇気のしるし。
満足は満腹より無欲から。
真実は良心を安らかにする。
象も馬も不要、ロバにはロバの力あり。
暗闇の虱(しらみ)は虎よりたちが悪い。
もし人に〈自己〉があれば、神も悪魔も取るに足らない。
いったん担いでしまえば、それより軽いものはない。
地獄の象徴、粋な靴。
地上の不幸は女の知ったかぶりから。
利口者こそ馬鹿者。
おのが不幸に気づかない者は幸福である。
光をともすのが教師とすれば、馬鹿者は誰か?
火は水を熱し、水は火を消す。
ジンギス・カンはえらいが、失礼ながら、われらが警官はそれを上まわりますぞ。
亭主が一番なら、女房は二番。女房が一番なら、亭主はゼロになれ。これこそ家庭円満の秘訣。
金持ちになりたければ、警官と仲よくせよ。
有名になりたければ、記者と仲よくせよ。
満腹したければ、義母と仲よくせよ。
平和を願うならぱ、隣人と仲よくせよ。
安眠したければ、女房と仲よくせよ。
信仰を失いたければ、司祭と仲よくせよ。

父の個性をいっそう明らかにするために、その性向の一部を紹介することにしよう。それは現代人にはほとんど見られず、父を知る人々の驚嘆の的だったものである。財産を失い商売を始めなければならなくなった当初から、父の商いがうまくゆかず、友人や取引先から実際的でないと批判され、その方面ではあまり切れがよくないとまで思われたのは、みなこの性向のおかげであった。
事実、父が金銭を得る目的で始めた商売はことごとく失敗に終わり、ほかの人々が得るような結果をもたらしてくれなかった。しかし、原因は父が実際的でなかったからでも、その分野における才覚がなかったからでもなく、ただただこの性向を持っていたためである。
おそらく子供の頃に身につけたのであろう、こうした父の性向は、次のように表現することができる。
他人の純朴さや不運につけこんで、個人的利益を得ることに対する本能的な反発
言葉をかえて言えば、とても真っ直ぐで正直な心を持っていた父は、あえて隣人の不幸の上に自分の富を築くことができなかったのである。ところが、父のまわりの者たちの大半は、現代人の常として、父の誠実さにつけ入り、意図的に騙そうとした。そうすることによって彼らは無意識のうちに、〈われらすべての父〉が人間に賜わった戒律にかなう父の精神的特質を蹂躙していたのである。
父には、我々の日々の生活がいかに気狂いじみているかを示す、およそ次のような言葉があてはまる。数々の聖典に見られ、今日あらゆる宗派で実地に役だつ助言として用いられている言葉である。

叩けば叩かれない。
もし汝が叩かねば、他人が汝を打ち殺すであろう。シドールの山羊のごとく。

しばしば、人知を越えた災難の渦中にありながら、そして、ハイエナを思わせるような周囲の人々の汚濁にまみれながらも、父はけっしてハートを失わず、何ものにも同化せず、常に内的な自由と、自己を守り続けた。
外面的に周囲の誰もがよしとするようなものを持たなくとも、それが内的に父を煩わすことは微塵もなかった。パンと、日課とする瞑想のときの静寂さえあれば、父は満足することができたのである。父が最も嫌ったのは、夜、大空に向かって坐し、星を眺めるのを邪魔されることだった。
いま私が言えるのは、年をとったときに老境の父のようになりたいとひたすら願っている、ということだけである。
やむを得ぬ事情によって、私はまだ、愛しい父の眠る墓前に立ったことがない。おそらく将来も、その墓を訪れることはできないであろう。そこで、父に捧げられた本章を閉じるにあたり、私は、血を分けた息子たち、あるいは魂の息子たちの誰かにこう依頼する。もし折あらば、群生本能と呼ばれる人間の病いが主因で、環境の力によって見捨てられたその寂しい墓所を探し出し、次のような碑銘を刻んだ墓石を立ててほしい。

我は汝にして、汝は我なり。
彼は我らのものにして、
我らは彼のものなり。
隣人においてもかくあらんこと

ボルシュ神父

前章で述べたように、私の最初の師はボルシュ司祭長であった。当時彼はカルス陸軍大聖堂の司祭長を務め、ロシアに占領されて間もないその地区一帯の宗教上の最高権威でもあった。
彼は、まったくの偶然とでも言うべき事情によって、私にとっていわば〈人格の第2層を形成する要因〉となった。
私がカルスの自治領立学校に通っていると、生徒の中からこの要塞聖堂の聖歌隊員を選抜することになり、当時よい声をしていた私もその一員に選ばれた。それをきっかけに、私はこのロシア系の大聖堂へ歌の練習に行くことになったのである。
端正な顔立ちの老司祭長が新しい聖歌隊に興味をいだいた主な理由は、その年歌われる予定の賛歌の多くが彼の作曲になるものだったからだが、子供好きの彼はちょくちょく練習に顔を見せては、私たち少年隊員に何かと親切にしてくれた。
やがて、なぜか彼はとりわけ私に目をかけるようになった。もしかすると、子供の中できわだってよい声を持っていて、アルトの部では聖歌隊の中でもずば抜けていたからか、あるいはひどく腕白な私を、いたずらっ子が好きな彼が気に入ったからかもしれない。いずれにせよ、彼の私に寄せる興味はつのってゆき、そのうち学校の予習復習まで手伝ってくれるようになった。
その年の暮れ、トラホームにかかってまるまる一週間聖堂に行かなかったことがある。すると、それを聞いた司祭長神父は、わざわざ眼科の軍医を2人も連れて見舞いに来てくれた。
ちょうどそのとき父が居合わせ、2人の医者が診察を終えて(一日2回硫酸銅の焼灼をほどこし、3時間ごとに金色の軟膏を塗布するために看護人をよこしてくれることに決めて)帰ったあとには、父と司祭長の2人が残ることになった。まったく異なった条件で責任ある年齢への準備をしてきたにもかかわらず、それぞれ比較的正常な人生を送って老境に達し、ほとんど同一の信念を持っていたこの2人は、そこで初めて言葉を交わしたのである。
この最初の出会いから、彼らは無二の親友となり、以来、老司祭長はしばしば仕事場に父を訪れ、店の片隅の柔らかい木屑の上に座りこんで、父の淹れたコーヒーを飲みながら、時の経つのも忘れてありとあらゆる宗教的、歴史的問題について語り合うのであった。父はアッシリアおよびその歴史に精通していたが、その頃なぜかボルシュ神父の興味の的になっていたその問題に父が触れるやいなや、彼の顔がたちまち生気を帯びてきたことをいまでも覚えている。
ボルシュ神父は当時70歳であった。すらりと背が高く、端正な容貌をそなえ、健康は安定しなかったが、強靱な精神の持ち主だった。彼は知識の深さと広さによって知られていたが、周囲の人々と異なる生き方や考え方のゆえに変人と見なされていた。実際、彼の生活は外から見れば変わっていると言われても仕方のないものだった。多額の給与を受け、特別な宿舎に入る権利を持っていたにもかかわらず、大聖堂の詰所にある台所つきの一部屋に住んでいたところなどそのよい例だろう。彼よりもずっと給与の低い補佐役の司祭たちですら、いろいろな面で住み心地のよい6部屋から10部屋もある宿舎に住んでいたのにである。
彼はきわめて隠遁的な生活をしており、周囲の人々との交際もほとんどなければ、ふだんは知人を訪ねることもしなかった。当時、彼の私室に出入りすることを許されていたのは私と雑役夫の2人だけで、しかも雑役夫の場合は司祭長の留守中の出入りは禁止されていた。
定められた職務を誠実に果たしながら、彼は余暇をすべて科学、とりわけ天文学と化学の研究にあてていた。そして、ときおり骨休めに音楽をたしなみ、ヴァイオリンを弾いたり、聖歌を作曲したりしていたが、そのうちの何曲かはのちにロシアで親しまれるようになった。
私の目の前で作曲されたこうした賛歌の一部は、何年も経ってからたまたまレコードで聞いた。『おお全能の神よ』『静穏の光』『神に栄光あれ』などがそうである。
司祭長はしばしば父を訪ねて来た。たいていは2人とも仕事から解放された夕方、それも、彼の言葉を借りれば「ほかの人々を刺激しない」ために、人目を忍んでこっそりとである。彼の方は町でも高い地位についていて、町中の人たちが彼の顔を知っているのに対し、父は一介の大工にすぎなかったからだ。
ある日、いつものように父の仕事場で話しているうちに、話が私の教育のことに及んだ。
彼は、私の中には優れた才能があり、3学年程度の卒業証書をもらうために、8年も学校に通うのは無意味だと言う。事実、当時の自治領立学校の制度はまったく馬鹿げていた。1年に1学年ずつしか進めない8学年編成のうえ、卒業しても国立学校の3年終了にしか相当しないのである。
そこで、ボルシュ神父は父を説き伏せて、私に個人教育を受けさせることにし、自らもいくつかの学科を教えるという約束をした。彼によれば、もし後日私が卒業証書を必要とするような場合には、手近な学校に行って望む学年の検定試験を受ければすむというのだ。
家族協議のすえ、これは実現することになった。私は学校をやめて、以後ボルシュ神父が私の教育を担当し、彼自身いくつかの学科を教えるとともに、ほかの教師も派遣してくれたのである。
当初の教師たちのうちには、聖職志願のポノマレンコ先生とクレストフスキー先生がいた。彼らは神学校出身で、従軍司祭になる機会を待つ間、大聖堂の輔祭を務めていた。医師のソコロフ先生も勉強を見てくれた。ポノマレンコ先生は地理と歴史を受け持ち、クレストフスキー先生が聖書とロシア語、ソコロフ先生が解剖学と生理学、そして数学その他の教科は司祭長自身が担当した。
私の猛勉強が始まった。私は能力に恵まれていたので、勉強自体はごく楽だったが、多くの課目の予習復習に追われて、ほとんど遊ぶ暇もなかった。先生たちが別々な地域に住んでいたために、時間の大半はひとりの先生の家から別な先生の家に行くのに費やされた。歩いて一番遠かったのは、チャクマク陣地の軍用病院に住んでいたソコロフ先生の家で、町から3、4マイルも離れていた。
家族は最初私を聖職者にする意向だったのだが、ボルシュ神父は真の聖職者のあり方について独特の考え方を持っていた。
彼の見解によれば、聖職者は信者たちの魂を案ずるばかりでなく、彼らの肉体的な病いと、それを治す方法についても知りつくしていなければならない。
彼の考えでは、聖職者の職務は医者の職務も兼ねなければならないのである。彼はこう言う。

「患者の魂に触れることのできない医者が真の治療を行いえないのと同じように、よき聖職者は同時によき医者でなければならない。肉体と魂は互いに結びついていて、病気の原因が他の一方にあるときに、残りの一方を治すことは不可能な場合が多いからだ。」

彼は、私が医学の教育を受けるのに賛成であった。ふつうの意味の医学ではなく、彼の言う意味での、肉体の医者かつ魂の聴聞者になるための医学である。
もっとも、私自身はまったく別な方向に憧れていた。幼い頃から色々なものをつくるのに慣れていたこともあって、専門の技術者になる夢を持っていたのだ。
当初はどちらに進むかはっきりと決めていなかったので、私は聖職者にも医者にもなれるような勉強を始めた。両方に共通する課目もあったからである。そのうち自然ななりゆきで、能力に恵まれた私は両方並行して習得できるようになった。そのうえ、ボルシュ神父が与えてくれたり偶然手にはいったりしたものを併せて、様々な分野にわたる大量の本を読む時間もできてきた。
司祭長神父は、自分の受け持つ課目に心血を注いでくれた。授業のあと私をひきとめ、お茶をいれてくれることもしばしばで、ときには作曲したばかりの賛歌を私に歌わせて、各声部の譜を比べ合わせることもあった。
こうした課外時間に、私たちはいま終えた授業について、あるいは高度に抽象的な問題について、長いこと話し合うのが常であった。こうしてだんだんと私たちの間には、私が彼と対等の立場で話すような関係が育まれていったのである。
私はすぐに彼になじみ、最初に感じたようなはにかみはなくなった。彼に対する敬意は変わらなかったが、ときおり我を忘れて彼と議論をすることさえあった。それでも、彼は気を悪くするどころか、いま思うとかえってそれを喜んでいたようである。

会話の中で、彼はしばしば性の問題に触れた。
性欲に関して、彼は一度次のように語った。
「若者が成人に達する前に一度でもこの肉欲の味をしめると、生得権である生涯の幸福を、ポタージュ一杯のために弟のヤコブに売ったエソウと同じ身の上になるだろう。青年がたとえ一度でもこの誘惑に屈すると、本当に価値ある人間になる可能性を一生失ってしまうからだ。
成人前の肉欲の満足は、モラヴァリ産のマジャールにアルコールを注ぐようなものだ。一滴でもアルコールが入ったマジャールからは、ワインではなく酢しかできないのと同じように、成人前の肉欲の満足は若者を奇形化してしまう。けれども、いったん大人になったら好きなことをしてかまわない。ちょうど、マジャールがワインになれば、いくらアルコールを混ぜても駄目にならず、好みの強さに調合できるのと同じことだ。」
ボルシュ神父は、世界と人間について独自の考えを持っていた。人間とその存在目的についての彼の見解は、まわりの人々のそれとも、私がそれまでに聞いたり本で読んだりしたどんな考え方ともまったく異なっていた。
彼が人間というものをどう理解し、人間に何を求めていたかを示すために、その思想の一端を紹介してみよう。
彼は言った。
成人前の人間は、よくも悪くも、意図があってもなくても、自分の行為に何の責任もない。全責任を負っているのは、意識的にせよ偶然の状況によるにせよ、若者に責任ある人生への準備をさせる義務を引き受けた、まわりの大人たちなのだ。
青年期というのは、男女を問わずどの人間にとっても、母胎内での受精によって始まった発達がいわば完成にいたる仕上げにあてられた時期だと言える。これ以後、つまり発達の過程が完了してからは、人間はあらゆる意図的な、あるいは非意図的な自己発現に関して個人的な責任を負うようになる。
何世紀にもわたって、理性的な人々の観察によって明らかにされ、確かめられてきた自然法則によれば、この過程は、生まれ育った場所の地理的条件に従い、男性の場合は20~23歳、女性の場合は15~19歳の間に完了する。
過去の賢人たちが説くように、こうした年齢区分は、あらゆる自己発現に個人的な責任を持つ自立した人間を生み出すために、自然の法則によって定められたものなのだが、不幸なことに今日ではまったく認識されていないに等しい。そして、私の見るところでは、それは主に現代の教育が、万人の生活において最も重要な性の問題に対して怠慢な態度をとっているせいなのだ。
自分の行為に関する責任という点について言えば、現代人の大部分が、成年に達しても、あるいは成年を越えても、見た目は奇妙なことながら、自己発現についてまったく責任を持っていない。しかしこれも、私の見るかぎり法則どおりだと言える。
この愚かさの主因の1つは、成年に達した現代人がほとんどの場合、法則に則って自らの類型(タイプ)を完成するために必要な、ふさわしい異性を得ていないことにある。類型というのは、その人に元々あるのではなく、いわば大いなる法則とも言うべきものによって確かな形をとるのであり、それ自体では未完成なのだ。
しかるべき年齢になって、未完成な自分の類型を完成するにふさわしい異性が身近にいない場合でも、その人は自然の法則を逃れられず、性的欲求の満足なしでいることはできない。そして自分に合わない類型の相手に接触し、極性の法則によってその不相応な類型の影響下に置かれる結果、心ならずも知らず知らずのうちに、自分の個性の典型的発現のほとんどすべてを失ってしまう。責任ある人生の過程において、誰しもかたわらに自分にふさわしい類型の異性を得、お互いにすべての面で完成をはかることが必要なのはこのためなのだ。
幸いこのことは、過去のほとんどすべての時にわたり、我々の遠い祖先の間では他の事柄と共によく理解され、多少なりとも正常な集団的生活のための資格を得るためには、できるかぎり正確に異性の類型を選択することが最大の課題とされていた。
古代民族のほとんどに、男児が7歳、女児が1歳のときにこうした選定をする許婚(いいなずけ)の習慣があった。はやばやと婚約を交わした子供たちの家族は、そののち互いに協力して、性向や興味、嗜好など、成長の道程で身につけるすべての習慣がうまく合致するように努めたのだ
。」
また別なおり、神父が語った次のような言葉もよく覚えている。
「責任ある年齢に達したとき、人間が寄生虫ではなく真の人間であるためには、次の十原則にしっかりともとづいた教育がなされねばならない。これらは幼い頃から少しずつ子供に教えこまれてしかるべきものだ。

服従しなければ必ず懲罰を受けるという信念。
功あって初めて報酬を受けるという望み。
神への愛、しかし聖人への無関心。
動物虐待についての良心の呵責。
両親及び師を悲しませることへの恐れ。
悪魔、ヘビ、ネズミを怖がらない。
あるものだけで満足することの喜び。
他人の善意を失う悲しみ。
苦痛と飢えに耐える我慢強さ。
若くして己れの糧を稼ぐ努力。」

心苦しいことには、私はこの立派な、現代における注目すべき人の最期を見とどけて、地上で受けた恩を返すことができなかった。忘れ得ぬ師、第2の父。
彼の死から何年も経ったある日曜日、カルス陸軍大聖堂の司祭たちや会衆は驚いた。見知らぬひとりの男が、聖堂の敷地にただひとつ立つ見捨てられた寂しい墓の正式な葬儀を求めたからである。このよそ者が必死の思いで涙をこらえ、司祭たちに気前よく謝礼を払ったのち、誰とも顔を会わすことなく、御者に駅へ向かうよう命ずるのを、人々は目撃した。
安らかに眠りたまえ、親愛なる師よ!
私があなたの夢を叶えたか、あるいは叶えつつあるかはわからない。けれども、あなたから与えられた訓戒を、私はまだ生涯一度たりとも破っていない。

ボガチェフスキー
ボガチェフスキー、別名エヴリッシ神父はいまだ健在で、死海のほとりからさほど遠くないエッセネ派修道会の本山で修道院長の補佐を務めるという幸運に恵まれている。
この修道会は、一部の臆測ではキリストの生誕からさかのぼること1、200年の昔に創始されたと言われ、イエス・キリストが最初の入門儀礼を受けたのもこの修道会においてだったとされている。
私がボガチェフスキー、すなわちエヴリッシ神父に初めて会ったのは、まだうら若い彼が、ロシア神学校を卒業したのち司祭の職位を授けられるのを待っている間、カルス陸軍大聖堂の輔祭をしていたときのことであった。

(中略)
カルスで聖職を志願している頃から、ボガチェフスキーは独特の道徳観を持っていた。当時彼は私に、地上には2種類の道徳があると教えてくれた。1つは、幾千年もの間に生命そのものによって確立された客観的なもの。もう1つは、個人や民族、国家、家族、各種の集団などによって異なる主観的道徳である。
「客観的道徳は」と彼は言う。「生命そのものによって、そして預言者たちを通じて神ご自身が授けられる戒律によって確立され、徐々に人間の中に良心と呼ばれるものを形成する基盤となる。そして、この良心が逆に今度は客観的道徳を支えるのだ。客観的道徳はけっして変わることがないどころか、時とともに幅を広げるのである。それに対して主観的道徳の方は人間がつくり出したものであり、相対的概念でしかない。それは民族により、土地により、またそれぞれの時代を支配する善悪の観念によって異なる。」
「例えばこのトランスコーカサスでは、」ボガチェフスキーは続ける。「婦人が顔をおおわなかったり客人と言葉を交わしたりしようものなら、誰もが彼女を不道徳でわがままな、育ちの悪い女と見なすだろう。ところがロシアでは反対に、もし婦人が顔をおおったり、客人を歓迎する会話のもてなしをしなかったりすれば、みんなから、育ちの悪い、不作法な、つきあいにくい女だというふうに見られてしまう。
もう1つの例をあげよう。もしこのカルスで、男が週に一度か、少なくとも2週間に一度はトルコ風呂に行かないと、まわりから敬遠されて、しまいには体臭のくさい男だなどという根も葉もない噂を立てられかねない。ところが、ペテルスブルグではこれと正反対のことが起こる。男が風呂に行くなどということをほのめかすだけでも、無学無教養な田舎者と見られてしまう。そして、もしたまたま実際に風呂に行くことになろうものなら、悪趣味な人間と思われないように、その事実をひた隠しにするのである。」
「いわゆる道徳、あるいは道義心と呼ばれるものを相対的に理解するためのよい例として」ボガチェフスキーはさらに続ける。「先週このカルスの将校たちの間で大混乱を巻き起こした2つの事件を取り上げてみよう。
第一の事件はK中尉の公判、第二はマカロフ中尉の自殺だ。
K中尉は、靴屋のイワノフの顔をいやというほど殴りつけ、片目を失明させたかどで軍法会議にかけられた。軍法会議は、調査の結果、靴屋がK中尉に大迷惑をかけ、おまけに彼を侮辱するような噂を広めたことを知って、中尉を無罪放免した。
この事件に大いに興味を抱いた私は、軍法会議の立証に納得せず、不幸な靴屋の家族や知人の話を聞くことに決めた。K中尉の行為の真の理由を自分で確かめたかったからだ。
私の調べによると、中尉はまず一足、ついでもう二足の長靴をイワノフに注文し、代金は給料の入るその月の20日に送るという約束をした。その日に代金が送られてこなかったので、イワノフは当然受け取るべきものを請求に中尉の家まで出向いた。将校は翌日に払うことを約束したが、次の日になるとまた翌日に延ばし、結局長い間、俗に言う一日延ばしにすることになった。それにもめげず、イワノフは繰り返し足を運んだ。彼にとっては大変な額だったからだ。それはほとんど彼の全財産と言ってもよかった。彼の妻が洗濯女として長年こつこつ貯めた金を全部、中尉の長靴の材料費につぎこんだのだった。そのうえ、6人の子供を食べさせなければならないこともあって、イワノフはせっせと代金の催促に通いつめたのである。
しまいにK中尉はイワノフの催促に音を上げて、当番兵に居留守を使うように命じ、次には有無を言わさずにただ追いはらったり、監獄送りにすると脅迫させたりした。イワノフがそれでも懲りないので最後に中尉は、今度来たらこってり痛い目に合わせるようにと命令したのだ。
当番兵は根が優しい男で、上官の言いつけどおりイワノフを殴るような真似はせず、あまりしつこく足を運んで中尉を悩ませるな、と親切に説得しながら彼を台所に招き入れた。イワノフが椅子に腰かけると、当番兵は蒸し焼きにするガチョウの羽根をむしり始めた。これを見たイワノフはいきりたった。
『そうか! ご主人様方は毎日のようにガチョウの蒸し焼きを食べているくせに借金を返さず、おかげで家の子供たちが腹をすかせているというわけだっ!』
ちょうどこのときK中尉が台所に入って来ると、イワノフの台詞を耳にしてかんかんになり、テーブルの上の砂糖大根をつかんでイワノフの顔を、目玉が飛び出すほど手ひどく殴りつけたのだ。」
「2番の事件は」ボガチェフスキーは続ける。「いまの事件の反対だと言える。マカロフという中尉がマシュヴェロフという大尉に借金を返せなかったので、ピストル自殺をしたのだ。
このマシュヴェロフという男は賭博の常習者で、いかさまトランプ師でもあった。一日として人から金を巻き上げない日のない彼が、マカロフ中尉に対しても不正を働いたのは誰の目にも明らかだった。
ついこの間、マカロフ中尉はこのマシュヴェロフなど何人かの将校たちとトランプ遊びをして、有り金すべてを失ったのだが、そればかりでなく、3日以内に返すという約束でマシュヴェロフから大金を借りた。それが大変な額であったために、中尉は約束を果たすことができず、将校としての面目を汚すよりは死を選んだわけだ。
この事件は2つとも借金がもとで起こっている。かたや債権者が債務者に片目を潰され、かたや債務者がピストル自殺をした。
なぜだろう?
簡単なことだ。マカロフのまわりの連中は、彼が詐欺師のマシュヴェロフに金を返さなければみんなして非難しただろうが、靴屋のイワノフの場合は、たとえ彼の子供たちが飢え死に寸前まで追いこまれようと、それでよしとされた。将校としての面目は、靴屋に代金を払うかどうかといったことなんぞに左右されないからだ。
もう一度繰り返すが、
こうした行為は、ふつう、子供の中で未来の人格が形成されつつあるときに、大人たちがありとあらゆる因習を詰め込むために起こる。それによって、我々の祖先がこの種の因習に対して何千年にもわたって挑んできた苦闘から生まれた良心が、子供の中で自然に発達するのを妨げるのだ。」
ボガチェフスキーはしばしば私に、どんな因習をも受け入れないように諭した。身近なものも、他のどの民族に属するものもである。
彼はこう言う。
その人の中に詰め込まれた因習から主観的道徳が生まれる。しかし、真の人生には良心に基づく客観的道徳が必要なのだ
良心はどこへ行っても変わらない。ここでも、ペテルスブルグでも、アメリカでも、カムチャッカでも、ソロモン群島でも。いま君はたまたまここにいるが、明日はアメリカに行くことになるかもしれない。もし本当の良心を持ち、それに従って生きるならば、どこに行こうと常に健全な良心の持ち主でいられるだろう。
君はまだ若い。まだ人生に足を踏み出す前だ。もしかするとここの人たちはみな君のことを育ちの悪い子供だと言うかもしれない。君は正しいお辞儀の仕方も、作法にかなったものの言い方も知らないかもしれない。しかしもし大きくなって人生に踏み出したとき、君の中に真の良心、つまり客観的道徳の基盤ができてさえいれば、そんな作法などどうでもいい。
主観的道徳というのは相対的な概念だ。もし相対的概念でいっぱいだったら、成長したときに君はいつでもどこでも、自分の因習的なものの見方や考え方で行動したり他人を判断したりしなければならなくなる。君は、まわりの人たちの考える善悪ではなく、自分の良心に従って生きることを学ばなければならない。とらわれのない良心は必ず、すべての教師や書物を一緒にした以上のことを洞察してくれるはずだ。だが今のところ、君自身の良心が形成されるまでは、『汝の欲せざるところを、他人に為すべからず』という我らが師イエス・キリストの掟に従って生きるがいい。」
いまは老境に入っているエヴリッシ神父(ボガチェフスキー)は、神聖な師イエス・キリストが我々すべてに望まれたところに従って生きる、地上で最初の人々のひとりである。
願わくば彼の祈りが、真理に従って生きようとするすべての人々の力にならんことを!

ミスターX、あるいはポゴシャン船長
(中略)
わが青春の最初の同志にして友であったポゴシャンに捧げるこの章を閉じるにあたり、彼の精神を貫く高度な独自性に触れてみたいと思う。それは幼少の頃からきわだち、彼の個性の特色をなしていた。
ポゴシャンは常に何かに専念していた。常に何かに取り組んでいたのである。彼はけっして、「腕をこまぬいて座視する」ことがなく、仲間たちのようにごろりと横になって、何ら現実味のない雑多な本を読み漁ることもなかった。何もすることがなければ、拍子をつけて腕を振るか、足踏みをするか、手の指をありとあらゆる形に折り曲げるかしていた。
一度私が、そんな役にもたたない運動をしても誰ひとり金を払ってくれるわけではないし、休まないのは馬鹿げているじゃないか、と尋ねたことがある。
「そう、そのとおり」彼は答えて言った。「ぼくの愚行に金を払ってくれる奴など、いまはいないだろう。君や、同じ漬物樽の連中にとっては、これは愚行にすぎまい。でも将来、君か、でなければ君の子供たちが払うことになるよ。冗談はさておいて、ぼくがこんなことをするのは、仕事が好きだからだ。ただし、根っから好きなわけじゃない。根はぼくだってほかのみんなと同じで、有益なことなど何ひとつしたくない。ぼくが仕事を好むのは分別心から来ることなんだ。」
「気をつけてほしいのは」と彼はつけ加えた。「『ぼく』と言っても、それはぼく全体ではなく、ぼくの心を指しているにすぎないということだ。ぼくは仕事が好きなので、たゆまざる努力によって、理性だけではなく、ぼくという人間全体が心底からそれを好む習慣をつけることを課題にしたんだよ。
それにぼくは、この世で自覚をもってする仕事が無駄になることはないと信じている。遅かれ早かれ、それは報いられる。つまり、仕事をすることでぼくは2つの目的を遂げることになる。第一に、自分という人間に怠けないことを教えられるだろう。第2に、老後の蓄えをすることができる。君も知ってのとおり、両親が死んでも、ぼくが年をとって働けなくなったときに十分足りるだけの遺産を残してくれることなど期待できない。ぼくが仕事をするもう1つの理由は、人生でただ1つの真の満足は、強制によってではなく、自覚によって働くことにあるからだ。同じように日夜働き続けても、人間がカラバックのロバと違うのはそこなんだよ。」
彼の思想は、様々な事実によって十分に裏づけられている。彼は青春(人間にとって老後にそなえる最も重要な時期)を、いわば無益な放浪に費やし、一度として老後の蓄えをすることなど考えなかったし、1908年になるまできちんとした職業に就いたこともなかった。それにもかかわらず、彼は現在地上で最も裕福な人間のひとりになっている。しかも、その富は、疑いなく誠実に築かれたものである。
自覚をもってする労働がけっして無駄にならない、という彼の言葉は正しかった。彼はまさに自覚をもって、良心的に、あらゆる環境と条件のもと、生涯雄牛のように日夜働き続けてきたのである。
願わくば、いまこそ彼に、自らかちえた休息の与えられんことを。

アブラム・イエロフ
(中略)

イエロフには、アイゾール人に共通する1つの特徴がまったく欠けていた。彼自身短気であったにもかかわらず、けっして人に恨みを持つことがなかったのである。彼の怒りは冷めるのも早く、たまたま誰かを怒らせるようなことがあっても、平静に戻るが早いか、自分の言ったことを和らげようと最善をつくした。
彼は、他人の宗教に関しては慎重の上にも慎重であった。アイゾール人を自分たちの信仰に改宗させようと、ヨーロッパ各国からやって来た宣教師たちが繰り広げた激しい布教運動に関して、あるとき彼はこう言った。
「誰に祈りを捧げるかは問題じゃない。大切なのはその人の信仰だ。信仰とはすなわち良心であり、その土台は子供時代に築かれる。もし人が宗教を変えるならば、自分の良心をも失うことになる。しかし、良心こそ人間の中で最も重要なものなんだ。ぼくは人間の良心を尊重する。だからぼくにとっては、人の宗教を批判したり、それについて幻滅させたりして、子供時代にしか培われないその人の良心を破壊することは大きな罪悪に思えるのだ。」
彼がこんなことを言うと、ポゴシャンは待ってましたとばかりに混ぜ返したものだ。「それで、どうして君は将校なんかになろうっていうんだい?」 するとイエロフは、頰をぱっと紅潮させてこう怒鳴る。「地獄へ行きやがれ、この塩漬け毒グモ!」
イエロフは友人に対して並はずれて献身的だった。彼は、いわば一度好きになった人には自分の魂でも捧げる用意があったのである。イエロフとポゴシャンが友達になったときの彼らの親密さときたら、神があらゆる兄弟にかくあれかしと願われるほどのものだった。ただしこの2人の友情は、外から見ると一風変わった説明し難いものだった。
愛し合えば愛し合うほど、彼らはお互いに対して粗暴になっていった。しかし、この粗暴さの裏に隠された何とも優しい愛情は、見る者の胸を打たずにはおかなかった。それを知っていた私でさえ、何度か、思わず溢れ出す感動の涙を抑えきれなかったほどである。
例をあげれば、次のようなことが起こる。イエロフが誰かの家に呼ばれてキャンディーをもらうとしよう。普通なら、くれた人の気持ちを汲んでその場で食べるのが本当だ。ところが、キャンディーには目がないにもかかわらず、彼は絶対にそれを食べず、ポゴシャンのためにそっとポケッ卜に忍ばせる。しかし、それを渡す段になるとただではすまず、ありとあらゆるひやかしや侮辱的言辞を連発するのである。
彼は大抵こんなことをする。夕食の団欒の途中、まるで意外なようなふりをしてポケットからキャンディーを取り出すと、こう言ってポゴシャンに渡す。「あれっ、どうしてこんなゴミ屑みたいなもんがぼくのポケットに入ってるんだろう? ほら、この屑でも食らえよ。君は誰にも食えないような代物を飲みこむ名人だろう。」ポゴシャンはそれを受け取ると、負けずにやり返す。「こんな珍味は君みたいな豚の鼻にはもったいないよ。君なんぞ兄弟の豚どもと一緒にドングリでも貪ってりゃいいんだ。」一方、ポゴシャンがキャンディーを食べている間も、イエロフは軽蔑しきった調子でこう言う。「見ろよ、あのがつがつした食い方。アザミにむしゃぶりつくカラバックのロバみたいじゃないか! 今度からはあいつ、ぼくがこんな胸くその悪いゴミをやったからというだけで、子犬みたいにぼくの後を追いかけてくるに決まってるぜ。」そして、このあともこんなやりとりが続いてゆくのである。
イエロフは、本や著者に関しての知識に抜きん出ていただけでなく、のちに語学においても非凡の才を現した。その当時すでに18カ国語を話すことのできた私でさえ、彼に比べると駆けだし同然の気分だった。私がヨーロッパのどの言葉も知らなかった頃から、彼はそのほとんどすべての国の言葉を喋っていたが、話しているのが母国語ではないかと思われるほど完璧だった。例えば、次のようなことがあった。
スクリドロフという考古学者(彼についてはのちに取り上げる)が、あるアフガニスタンの聖宝を持ってアム・ダリヤ河を渡ろうとした。ところが、それは不可能に近かった。当時ロシア国境を越える人間に対しては、アフガニスタンの護衛兵と、なぜかその頃大挙して駐屯していたイギリス軍兵士の両者が厳重に監視していたからである。
そこで、どこかから古いイギリス軍将校の制服を手に入れてきたイエロフが、それを着用してイギリス軍の駐屯地へ行き、インドからトルキスタン虎を狩りに来たイギリスの将校のふりをした。彼がその巧みな英語力で面白い話をして兵隊たちの注意をそらしている間に、私たちは悠々と、イギリス軍に見つからずに、こちら岸から向こう岸へ必要なものをすべて渡すことができたのである。
イエロフは、他に色々なことをしながら一生懸命に学問を続けた。当初の計画とは違って士官学校には入らず、そのかわりにモスクワへ行き、優秀な成績でラザレフ大学の試験に合格した彼は、数年後、私の記憶が正しければカザン大学で言語学の学位を取得した。
ちょうどポゴシャンが肉体的仕事に関して独得な考え方を持っていたように、イエロフの方は知的な仕事に関して独自の見解を持っていた。一度彼はこう漏らしたことがある。
「使っても使わなくても、我々の思考は昼も夜も働き続けている。どうせならそれに、透明人間になる帽子だとかアラジンの宝のことを考えさせるよりは、何か役にたつことに専念させておいた方がいいじゃないか。思考に方向性を与えるには一定量のエネルギーが必要なのはもちろんだが、これに要する1日分のエネルギーなど一回の食事を消化する分にも満たない。ぼくが言語を勉強することに決めたのはそのためなんだ。思考が空転するのを防ぐためばかりでなく、馬鹿げた夢や幻想がぼくの他の機能を邪魔しないようにするためでもある。それに、言語の知識はときどき役にたつからね。」
この青春の友はいまなお健在で、現在は北アメリカの一都市に落ち着いて、快適に暮らしている。
戦争中、彼はロシアにおり、ほとんどモスクワで生活していたが、自分の経営する数多くの書店の1つを検分するためにシベリアへ行った際、革命軍に捕らえられた。革命の間に彼は多くの苦難をなめ、その全財産は地上から一掃されてしまった。
甥であるイエロフ博士がアメリカから彼のもとを訪れ、彼に向こうへ移住するように説得したのは、わずか3年前のことである。

ヴィトヴィツカヤ
ルボヴェドスキー公爵は次のような物語を聞かせてくれた。
「一週間前、私は義勇軍の艦隊の船でセイロン(現スリランカ)へ向かおうと、乗船まですませていた。すると見送りの中にいたロシア大使館の館員が、話をしているうちに、船客のひとりである見るからに立派な老人に向けて私の注意を促した。
『あの老人をごらんなさい。』彼は言う。『あんな人が白人奴隷貿易の大立者だなどということが信じられるでしょうか? ところが実はそうなんですよ。』
これはほんの話のついでで、船の上は大変に混雑していたし、私を見送りに来た人も多かった。その老人に大した注意も払わなかった私は、大使館員の話などすっかり忘れてしまった。
船は出航した。朝だ。天気は上々。私は甲板に座って本を読んでいた。そばではジャックが跳びまわっている(ジャックというのは公爵の愛犬のフォックステリアで、どこにでもお供していった)。
そのうち、きれいな娘が通りすがりにジャックの頭を撫でた。次に彼女は砂糖を持ってきたのだが、ジャックは私の許しなしには誰からも物をもらわない。そこでやっこさん、『いいですか?』とでも言いたげに私の方を振り向いた。私はうなずいて、ロシア語で『うん、いいよ』と答えてやった。するとその若い娘もロシア語を話すことがわかり、それぞれどこへ行くところか?というようなありふれた話題から会話が始まった。彼女はアレキサンドリアに行って、ロシア領事一家の家庭教師をするのだと言う。
話をしていると、港で大使館員が教えてくれたあの老人が甲板に上がってきて、その娘を呼んだ。彼らが一緒に立ち去ったあと、私は不意にその老人にまつわる話を思い出し、そうしてみると彼と娘の関係が不審に思われだした。私は記憶をまさぐり始めた。私はアレキサンドリアの領事を知っていたが、覚えているかぎり彼が家庭教師を必要とするはずはない。私の疑惑はふくらんだ。
船はいくつかの港に泊まることになっていたので、ダーダネルス海峡の最初の停泊地に着くと私は電報を2通打った。1通はアレキサンドリアの領事に宛てて、彼が家庭教師を必要としているかどうかを尋ね、もう一通は次の停泊地サロニカの領事に宛てたものである。私は自分の疑惑を船長にも打ち明けた。話をはしょると、サロニカ到着とともに私の疑惑の当たっていることがわかり、この娘はまんまと騙されて連れて行かれる途中であることがはっきりした。
私はこの娘に心を動かされ、身に降りかかる危険から彼女を救い出してロシアに連れ帰ることと、そのために何か手を打つまではセイロンに出発しないことを決意した。私たちはサロニカで一緒に船を降り、その日のうちにコンスタンティノープルへ帰る別の船をつかまえた。コンスタンティノープルへ着くと同時に、彼女を家に送り返そうとしたのだが、彼女には帰るような身寄りがないことがわかった。私がいままでここにいたのはそういうわけなんだ。
彼女の生い立ちは随分変わっている。ポーランド人としてヴォリネ県に生まれ、子供時代はロヴノからそう遠くない、某伯爵の地所に住んでいた。父親はその地所の管理人であった。兄弟は男2人女2人あったが、母親は子供たちが幼い頃に亡くなったので、年老いた叔母に育てられた。さらに、ヴィトヴィツカヤが14歳、姉が16歳のとき、父親が死去した。
その頃、兄弟のひとりはイタリアのどこかでカトリックの神父になる勉強をしていた。もうひとりの方は大変なやくざ者になり果てて、その前の年に大学から逃げ出し、噂ではオデッサのどこかに隠れていたらしい。
父親の死とともに、2人の姉妹と叔母はいままで住んでいたところから出なければならなくなった。
新しい管理人が雇われたからだ。そこで彼らはロヴノに移ったが、それから間もなく叔母もまたこの世を去ってしまった。苦境に立った姉妹は、ある遠い親戚の助言に従い、家財を売ってオデッサヘ行き、そこで裁縫師になるため職業学校に入った。
ヴィトヴィツカヤはたいそう器量がよく、姉に比べると浅はかなところがあった。彼女には崇拝者が多かったが、そのうちのひとりである行商人に誘惑されてペテルスブルグヘ駆け落ちすることになった。その際姉と口論した挙げ句、自分の受け継いだ財産を持って行くことにした。ところが、ベテルスブルグで行商人に身ぐるみ剝がれて捨てられ、見知らぬ街で無一文になってしまったのだ。
数多くの苦難と不運に見舞われたすえ、最後に彼女はある年老いた議員の情婦になった。が、しばらくすると彼はある若い学生に嫉妬し、彼女を追い出してしまった。それから彼女はさる結構な医者の家庭に拾われ、そこで独創的な方法で患者を増やすための訓練を受けた。
元はといえば、医者の妻がアレキサンドラ劇場前の公園で彼女を見つけ、その横に座って、一緒に来て自分たちのところで暮らさないかと説得したのが始まりだ。彼女は次のような手口をヴィトヴィツカヤに教えこんだ。
ネフスキー通りを歩いていて男に呼びとめられたら、拒絶せずに家までついて来させ、適当なことを言っておいて玄関のところで別れる。男は当然、門番に彼女のことを尋ね、彼女は医者である夫人の話し相手だ、と聞かされるだろう。この手口で医者は次々と新しい患者を獲得するわけだ。患者といっても、あわよくばいい目が見られると期待して、医者のアパートに出入りするために何かしらの病気をでっち上げるような輩だがね。」
「いままでヴィトヴィツカヤの性格を観察したかぎりでは」公爵は確信を持って言う。
「彼女はそれまでの不幸な生活を通じて無意識的にひどい抑圧状態にあったようで、よほど差し迫った理由があったからこそ、そんなことをしたのだろう。
ある日、いつものように患者を釣るためにネフスキー通りを流していた彼女は、まったく思いがけず、何年も顔を合わせていなかった弟に出くわした。彼はたいそう身なりがよく、裕福そうだった。弟とのこの出会いによって、彼女の陰鬱な生活にも一条の光が差しこんだ。弟はオデッサと外国を結ぶ何かの商売をしているらしく、彼女があまり豊かでないことを聞くと、オデッサに来ればたくさんつてがあるから、自分が何かいい話をつけてやろうと申し出た。彼女は承諾した。オデッサに着くと、弟は本当に将来性のあるすばらしい仕事を探してくれた。アレキサンドリアのロシア領事の家に住みこみの家庭教師の口である。
数日後、弟は、たまたまアレキサンドリアへ行くので喜んで同伴しようという、さる人品卑しからぬ老人に彼女を紹介した。そんなわけで、ある晴れた日、彼女はこの見るからに信頼のおけそうな紳士につき添われて船上の人となり、前途へ旅立ったのだ。
そのあとの話は知ってのとおり……。」

公爵の信ずるところによれば、彼女を破滅の淵にまで追いこんだのは、周囲の状況と不幸な家庭環境で、本性は穢れておらず、優れた素質をたくさん持っているという。そこで公爵は手を貸して、彼女にまっとうな道を歩かせようと決心したわけである。「それには」と公爵は言う。「まずこの不幸な娘を夕ムボフ県のぼくの地所に住む妹のところへやって、ゆっくり休養させるのが一番だろう。あとのことはそれからだ……。」
公爵の理想主義と優しさを知っていたとはいえ、私はこの計画に関しては懐疑的で、彼の助力も無駄になるだろうと懸念した。内心こうまで思ったのである
「一度荷馬車から落ちたものなど取り返しがつくものか!」
まだヴィトヴィツカヤを見もしないうちから、私の中にはなぜか彼女に対する憎悪のようなものが湧いていた。けれども公爵の頼みを断る気にはなれず、しぶしぶ、当時の私にはくだらないと思われた女性と同行することを承諾した。
最初に彼女と顔を合わせたのは、数日後、船に乗った時だった。彼女はふつうより背が高く、栗毛で容姿端麗だった。目は優しさと誠実さをたたえていたが、ときおりそれが悪魔のようにいたずらっぽく変わる。思うに、歴史に名高いサイス(アテネの遊女。アレキサンダー大王、のちにはプトレマイオス一世の妾)も似たようなタイプの女だったのだろう。ひと目で私の中には彼女に対して二重の感情が湧き上がった。憎悪と憐憫である。
こうして、私は彼女につき添ってタムボフ県へ行った。彼女は公爵の妹にたいそう可愛がられ、諸外国、特にイタリアに長逗留する際にもお供をした。そして、公爵の妹や公爵自身の影響を受けて、少しずつ彼らの思想に興味を持つようになり、やがてそれが彼女の〈本質〉にとって不可欠なものとなっていった。真剣に自己と取り組み始めた彼女の仕事の成果は、初めて会った人でさえ感じ取れるほどだった。
ロシアへ同行したのち、私は長い間彼女に会わなかった。まったくの偶然から、ユリ・ルボヴェドスキー公の妹のお供をしている彼女に再会したのは、少なくとも4年後、イタリアで次のような状況のもとでだったように思う。
あるとき私は、いつもながら変わらぬ目的追求のためにローマにおり、所持金が底をついていたところから、そこで知り会った2人のアイゾール人青年たちの助言と協力のもと、街の靴磨きを始めた。
はじめのうち商売はあまり上々とは言えなかった。そこで収入倍増をはかった私は、新しい独創的な方式を導入することにした。そのためにまず特製の肘かけ椅子を注文し、その下に外から見えないようにエジソン式蓄音機をとりつけた。それに今度は、イヤホーンのついたゴムのチューブを接続し、椅子に腰かけた人がそれを耳に差しこむと、誰にも気づかれずに蓄音機がまわるようにしたのである。
こうして客は、私が靴を磨いている間、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』や、オペラ調の歌曲を楽しめることになった。これに加えて、私は椅子の右肘に自作の小さな盆をとりつけ、その上にグラスと水差し、ベルモット、それに絵入りの雑誌を何冊かのせておいた。このおかげで、私の商売は大成功をおさめ、チェンテジモ(イタリアの貨幣単位。リラの百分の一)どころかリラが転がりこみだした。特に気前がよかったのは金持ちの若い旅行者たちである。
私の台のまわりには終日もの好きな野次馬が集まっていたが、その大半は自分の順番が来るのを待って私が靴を磨く間その肘かけ椅子に腰をおろし、前代未聞の楽しみを味わおうとするのであった。そしてついでに、一日中そこにたかっている同類の馬鹿な自惚れどもに見せびらかそうというわけである。
この見物人の中に、私はよくひとりの若い婦人を目にとめた。彼女にはどこか見覚えがあって私の注意を引いたのだが、忙しくて気をつけて見る暇はなかった。ところがある日、たまたま彼女が年上の女性にロシア語で「絶対にあの人ですよ」と言うのを耳にはさむと、矢も楯もたまらなくなり、なんとか客を片付けると、まっすぐ彼女のところへ行ってロシア語でこう尋ねた。「教えてください。あなたはどなたですか? どうもどこかでお会いしたことがあるような気がしてなりません。」
すると彼女は答えた。「私はね、昔にあなたが憎んだ女です。あなたの憎しみの圏内に飛びこんだ蠅は命を落としたでしょう。ルボヴェドスキー公のことを思い出してごらんあそばせ。そうすればおそらく、あなたがコンスタンティノープルからロシアまで同行なさった、不運な娘のことも思い出されますわ。」
その言葉を聞いて、私はたちまち彼女のことも、公爵の妹である連れの年配の婦人のことも思い出した。こうして、この2人がモンテ・カルロに発つまで、毎晩彼女らのホテルで時を過ごすことになったのである。
この出会いから1年半後、ヴィトヴィツカヤは、スクリドロフ教授に伴われて、私たちの大探険隊の集合場所に現れ、それ以後、私たちの巡礼団の常連になった。

ヴィトヴィツカヤ。一時は道徳的破滅の淵に立ち、その後、たまたま人生の軌跡を交差することになった見識ある人々の助けによって、今や全女性の鏡と言っても過言ではなくなった人。
その人の内面世界を描き出すために、私はここでその多彩な内的生活のほんの一側面だけを紹介しておこうと思う。
他の様々な興味に加えて、彼女はとりわけ音楽学に惹かれていた。この学問に対する彼女の真剣さは、私たちのグループのある探険行の時に交わされた次のような会話にはっきりと現れている。
中部トルキスタンを縦断するこの旅の途中、私たちは特別な紹介をしてもらったおかげで、ふつうなら入ることのできないある僧院に3日間の滞在を許された。この僧院を出発する日の朝、ヴィトヴィツカヤは死人のように青い顔をして、なぜか腕を包帯で吊って出てきた。長いこと自分の馬にもまたがれず、仲間と私が手を貸さなければならないほどだった。
キャラバン一行が出発すると、私はみんなより少し遅れてヴィトヴィツカヤと馬を並べ、しつこく尋ねた。彼女の身に何があったのか、どうしても聞き出したかったのだ。内心、仲間のひとりが獣性をむき出し、図々しくも彼女(私たち全員にとって神聖な存在となっていた女性)を辱めたのに違いないと踏んでいたので、その人でなしの名前を確かめ、馬上から無言のまま、山ウズラのごとく撃ち落としてやろうと思ったのである。
とうとう私の詰問に負けた彼女は、その理由は「あの忌々しい音楽」のせいだと答え、一昨晩の音楽を覚えているかと聞き返した。
その晩、ある儀式の際に僧院の一角にすわっていた私たちが、修道者たちによって奏でられた単調な音楽を聞いて、全員ほとんどむせび泣かんばかりになったことを私も覚えていた。しかし、あとでそのことについて長い論議を交わしたにもかかわらず、誰もその原因を説明できなかったのである。
少し間を置いたあと、ヴィトヴィツカヤは話し始めたが、彼女のその不思議な状態の原因にまつわる話は長い物語となった。その朝私たちが馬を進めていた土地の光景が名状し難いほど壮麗だったからか、あるいは何かほかに理由があったのかはわからないが、そのとき彼女がこの上もない誠意をこめて語ってくれた内容は、長い年月を経たいまもほとんど一言一句覚えている。一つ一つの言葉が強烈に脳裏に焼きついていて、まるでいまこの瞬間に彼女の口から聞いているような気がするのだ。
彼女は次のように話し始めた。

ヴィトヴィツカヤ「私が幼い頃に、音楽が内面に触れるようなことがあったのかどうかは覚えていませんが、音楽のことをどう思っていたかはよく覚えています。人並みに、私も無知だと思われたくなかったので、ただ頭で判断して曲を褒めたりけなしたりしていました。ある曲に全然関心がなくとも、意見を求められると、まわりの状況を見て是非の見解を述べたものです。
ときには、ほかの人が全員褒めているのに、私だけありったけの専門用語を使って反対意見を述べ、みんなに自分がただの凡人ではなく、何にでも見識を持った教養のある人間だと思わせようとしたこともありました。またときによっては、みんなと口をそろえて非難したこともありました。みんながけなすからには、その曲にはどこか私の知らない批判されるべき点があるに違いないと思ったからです。 一方ある曲を賞賛するときの理由は、その作曲家が誰であれ、音楽に一生を捧げた以上、賞賛に値しない作品を世に出すはずはないと思ったからでした。つまるところ、賞賛するにせよ非難するにせよ、常に自分にも他人にも正直ではなく、しかもそれについて良心の呵責を感ずることがなかったのです。
後年、あのルボヴェドスキー公の妹様という情け深い老婦人のお世話になったとき、あの方は私にピアノを習うよう説得なさいました。『教養のある知性的な女性なら誰でも』彼女はおっしゃいます。『この楽器の弾き方を知らなければいけません。』この愛すべき老婦人を喜ばせるために、私はピアノの練習に全力を注いだのですが、6ヶ月後には慈善コンサートに出演を頼まれるほど上達しておりました。
会場にいた知人たちはみな大喝采で、私の才能にびっくりなさっていました。
ある日、ピアノの練習を終えたところへ公爵の妹様がいらっしゃり、とても真剣に荘重な口調で、これだけの才能を神に授かったからには、それをないがしろにしたり、十分に開花させなかったりしたら大きな罪になるとおっしゃるのです。あの方はさらに、音楽の道に踏み出した以上、人並みの手習いで終わらせずに、本気でこの分野の勉強をすべきであり、そのためにはまず第一に音楽理論を学び必要とあらば試験を受けるべきだとおっしゃいました。
その日からというもの、あの方は私のために音楽に関するありとあらゆる本を注文し始め、わざわざご自分でモスクワまで本を買いに行くことさえしてくださいました。ほどなく私の書斎の壁には、音楽関係の出版物がぎっしり詰まった大きな書棚が並ぶことになったのです。
私は音楽理論の研究に専念しましたが、それは恩人の期待に添いたかったからだけではなく、自分自身この仕事に大きな魅力を感ずるようになっていたからで、音楽の法則に対する私の興味は日ましにつのるばかりでした。けれども、せっかくの本の山は何の役にもたちませんでした。音楽とは何かということについて、また、その法則が何に基づいているかということについて、書物には何一つ書かれていなかったからです。書物は、いろいろと異なった言いまわしで、音楽の歴史に関する情報を繰り返していたにすぎません。例えば、現在のオクターヴは7音階からなっているけれども、古代中国のオクターヴは五音階しかなかったこと。古代エジプトの竪琴はテブーニと呼ばれ、笛はメムと呼ばれていたこと。古代ギリシアの旋律はイオニア式、フリジア式、ドリア式など種々の旋法(モード)の上につくられていたこと。九世紀に現れた多声曲(ポリフォニー)は最初あまりにも不協和音的だったため、これを演奏するオルガンの突然の大音響を聞いて、教会に来た妊婦が早産する例さえあったこと。11世紀にグイド・ダレッツォという僧がソルフェージを考案したこと、等々等々。とりわけ多くのページをさいているのが、有名な音楽家にまつわる詳しい話や、彼らがいかにして名声を得たかについてで、中には、どこそこの音楽家はどんなネクタイをしめ、どんな眼鏡をかけていたかといったことまで書いてあるものもありました。
ところが、
音楽とは何か? それが人々の精神にどんな効果を及ぼすかについては何一つ述べられていないのです
このいわゆる音楽理論を学ぶのにまるまる1年を費やした私は、手元にある本はすべて読みつくし、結局そうした文献が何一つ与えてくれないことを確信するようになりました。けれども、音楽に対する興味はふくらみ続けたので、やむなく本を読むのは断念して、自分自身の思索に没頭することにしました。
そんなある日、退屈まぎれに公爵の書庫から取り出した『振動の世界』という題名の本が、音楽に対する私の考え方に決定的な方向を与えてくれました。この本の著者は全然音楽家ではないばかりか、目次から察するところ音楽に興味すら持っていないことがありありとしています。彼は技術者兼数学者でした。この本のある部分で、彼は振動に関する自分の理論の単なる一例として音楽に触れています。彼の説によれば、一定の振動でできた音楽が、人間の内側にある様々な振動に影響を及ぼすということについては疑問の余地がなく、人がある音楽を好んだり好まなかったりするのはそのためだというのです。私はすぐさまこれを理解し、その技術者の仮説にもろ手をあげて賛同しました。
その頃の私は寝ても覚めてもこうした問題で頭が一杯で、公爵の妹様とお話していても、音楽やその真の意味というようなことに話題を移すのが常でした。その結果あの方ご自身もこの問題に興味を持ち始め、一緒に考えを深めたり、またいろいろな実験をしたりするようになりました。
公爵の妹様は、実験のために犬や猫など、何匹かの動物を購入することまでなさいました。私たちはまた、召し使いたちをお茶に呼んで、何時間も続けてピアノを聞かせたりもしました。初めのうち実験は何の効果も現しませんでしたが、ついにある日、召し使いを5人と、以前公爵の領地だった村から農夫を10人招いたところ、その半分が私の弾く自作のワルツによって眠りこんでしまったのです。
私たちはこの実験を何度か繰り返してみましたが、回を追うたびに眠りこむ人の数が増えてゆきました。けれど、老婦人と私がありとあらゆる原理を応用して様々な効果を狙った音楽を作曲してみても、唯一の成果は客を眠りこませることだけだったのです。そしてとうとう、休みない音楽への専念と思索に私は痩せ衰え、あるときそれを注意深く観察して驚いた老婦人が、知人の口添えもあり、大急ぎで私を連れて外国へ旅立つ始末でした。
イタリアへ行き、そこでいろいろなものに気をまぎらせた私は、少しずつ健康を回復し始めました。
私が再び音楽の及ぼす効果について考えだしたのは、それから5年後、パミール・アフガニスタン探険行の途上でモノプシュケ教団の実験を目撃したときですが、そのときは、当初ほどの情熱はありませんでした。           ・
のちのち、音楽に関する自分の最初の実験を思い出すたびに、客が自分たちの音楽を聞いて眠りこんだといって大騒ぎした私たちのたわいなさに笑いを禁じえませんでした。その人たちが眠りこんだのは心地よさのため、つまりただ単に彼らが私たちのところでゆっくりくつろいだためにすぎないこと、長い1日の仕事のあとおいしい食事をごちそうになり、優しい老婦人から注いでもらったウォッカを飲んで、柔らかい肘かけ椅子に座っているのがとても気持ちよかっただけだということなど、私たちの頭には一度も浮かんでこなかったのです。
モノプシュケ教団の実験をこの目で見、説明を聞いたあと、私はロシアに帰ると、まわりの人たちを使って実験を再開しました。それにはまず、教団の人々から聞いたように、実験を行う部屋の気圧に合った絶対音の『ラ』を見つけ出し、その部屋の広さも考慮に入れたうえでピアノを正確に調律しなおします。さらに被験者も、既にいくつかの和音を繰り返し耳に入れている人たちの中から、その場所の特性と参加者一人一人の人種とを配慮して選びました。ところが、それでも私は同一の結果を得ることができません。つまりある同じ旋律によって、誰にも同一の経験を引き起こすことができなかったのです。
ただし、参加者がいま言った条件を完全に満たした場合には、全員に私の思いどおり、笑いや涙、敵意、優しさなどを引き起こせたことは事実です。けれども、人種が混じっていたり、精神がほんの少しでも普通と異なる人がいたりすると、結果は様々で、いくら私が頑張っても、同一の音楽によって全員に例外なく浸ってほしい特定の気分を引き起こすことができないのです。そこで私は再び実験を放棄し、いわば得られた結果だけで満足することにしていました。
ところが、一昨日のほとんど旋律のない音楽が、私たち全員を同じ境地にいざなったではありませんか。人種や国籍が違うだけではありません。性格やタイプ、癖、気質など似ても似つかないような人々です。これを群集心理で説明することは問題外です。最近の私たちの実験で証明されたように、一人一人自己に取り組む〈仕事〉に励んでいる私たちの仲間にかぎっては、群集心理などありえないのですから。ひとことで言えば、一昨日のあんな現象を引き起こせるような原因もなければ、それに何かしら説明を加えられるようなものもないはずなのです。そのため、あの音楽を聞いてから部屋に戻ると、私の中に再び、そのことで長年頭を痛めてきたこの現象の真因をつきとめたいという激しい欲求が湧いてきました。
私はひと晩中まんじりともせず、その真相が何なのかを考え続けました。昨日も一日中そのことばかり考えて、食欲もなくしてしまいました。そうやって飲まず食わずのまま、昨晩は絶望的になり、怒りからか疲れからかわかりませんが、危うくちぎれるくらい、力いっぱい自分の指に噛みついたのです。腕を吊っているのはそのせいなのですが、痛くて痛くて馬に乗っているのがやっとのことですの。」

彼女の話に深い感銘を受けた私は、何とかして手を貸してやりたいと心から願った。そこで私が話をする番になると、その1年前に私を驚嘆させた、同じく音楽に関連のある現象について語った。
子供の頃に私の先生だったエヴリッシ神父というさる人物からもらった紹介状のおかげで、私はエッセネ派の人たちと交わりを持ったことがある。彼らの大部分はユダヤ人だったが、非常に古いヘブライ音楽や詩を使って植物を半時間のうちに成長させた。私はヴィトヴィツカヤにこのことを話し、その方法の詳細を説明した。彼女は私の話に夢中になり、頬を輝かせて聞き入っていた。この会話の結果として、私たちはロシアに戻り次第どこかの町に腰を落ち着け、誰にも邪魔されずに本気で音楽の実験に取り組もうという申し合わせをした。
この会話のあと旅が終わるまで、ヴィトヴィツカヤはふだんの自分を取り戻していた。指の怪我にもかかわらず、彼女はどの絶壁も真っ先によじ登り、そのうえほとんど20マイルも先から進路の目印となる標識を見分けることができた。
ヴィトヴィツカヤは、ヴォルガ川を旅行しているときにかかった風邪をこじらせてロシアで亡くなった。埋葬されたのはサマラである。彼女が病に伏したという知らせを聞いて私はタシケントから駆けつけ、臨終の場に立ち会うことができた。
既に人生の半ばを越え、ほとんどあらゆる国を訪れて何千という女性を目にしてきたが、ヴィトヴィツカヤのような女性には会ったことがないし、おそらくこれからも2度とめぐり逢わないだろうというのが、私の正直な気持ちである。

ユリ・ルボヴェドスキー公
注目すべき並はずれた人物であるロシアのユリ・ルボヴェドスキー公爵は、私よりも遙かに年上だっだが、ほぼ40年間私の先輩であり最も親しい友であった。
人生行路で私たちが出会い、長年にわたる堅い友情の絆を結ぶことになった遠因は、彼の家庭生活を突如として分断した悲劇的なできごとにあった。青年時代、まだ近衛隊の将校であった頃、公爵は自分と性格のよく似た美しい乙女に激しい恋をし、彼女を妻に娶った。彼らはモスクワのサドーヴァヤ大通りにある屋敷に住んだ。
ところが、公妃は第一子を産み落とすと同時にこの世を去ってしまった。その悲しみをまぎらそうとした公爵は、はじめに、亡き愛妻の霊と交信することを願って降神術に興味を抱いたが、知らず知らずのうちに神秘科学の研究や生命の意義探求に魅かれていった。これらの研究にあまり没頭したために、彼の生活様式はそれまでとは一変してしまった。誰にも会わず、どこへも出かけず、ひとり書斎に引きこもった彼は、ひたすら神秘主義的問題に心を打ちこんだのである。
とりわけ研究に没入していたある日、世捨て人のような公爵のところへ、ひとりの見知らぬ老人が訪れた。側近たちが驚いたことに、公爵は即座にその老人を招き入れると、2人して書斎に閉じこもり長い間話し合った。
それから間もなく、公爵はモスクワを離れ、以後余生の大半をアフリカ、インド、アフガニスタン、ペルシアで過ごしたのである。ロシアに帰国することはごくまれで、それもやむにやまれぬ事情で短期間戻るにすぎなかった。
公爵は巨万の富を有していたが、全財産を探求のため、そして自分のいだいている幾多の疑問に対する解答が見つかりそうな様々な地域に特別な探険隊を引き連れてゆくことに費やした。彼はいくつかの僧院で多くの時を過ごし、関心を共にする大勢の人々と出会った。
中略(その後グルジェフがサルムング教団の僧侶に導かれてその本山に到着し、そこでルボヴェドスキー公爵と再会した)
私は、彼と顔を合わせなかったその2年間に自分の身に起こったことをかいつまんで話した。いくつもの偶然の出会い、ボッガ・エディンとの親交、そこから派生した様々なできごと、そして最後に私がどうしてここへやって来たか、などである。それから私は、彼がなぜ突然行方をくらましたのか、なぜずっと消息がなかったのか、なぜ私に、彼の身を案じたあげく、ついには2度と会うことはないものと痛恨こめてあきらめさせるようなことをしたのかと尋ねた。さらに私は、その功徳のほどを信じきってはいなかったのだが、万一のためになればと思い、費用を惜しまず彼の冥福を祈るミサを捧げたことも話した。
ついで、彼がどうやってここへたどり着いたのかと聞くと、公爵は次のように答えてくれた。

ルボヴェドスキー公爵「コンスタンティンノープルでわれわれが最後に会ったとき、私の中にはすでに一種の倦怠感、無関心のようなものが生まれていた。セイロンへの道中と、それに続く1年半の間に、この無関心が昂じて、いわばやるせない幻滅のようなかたちをとるにいたった。その結果、私の中に一種の空白が広がり、人生についての一切の興味が失せてしまったのだ。
セイロンに着いた私は、名高い仏僧Aと知り合った。度重なる真剣な会話の結果、我々はガンジス河をさかのぼる探険行を計画した。私と同様彼をも悩ませていた様々な疑問を一掃しようという希望のもとに予定を組み、ルートもくわしく設定した。
私自身にとってこの旅は最後の望みの綱だったから、それがまたしても単なる妄想の追求にすぎなかったということがわかったときには、とうとう私の中にあったすべてのものが崩れ、もう何をする気もなくなってしまった。
この探険行のあと私はまたカブールに舞い戻ることになったが、そこではすっかり東洋的無為に身をゆだね、何の目的も関心もない日々を送りながら、ただ習慣的に新旧の知人たちと会っていた。中でも旧友のアガ・カーンの家にはよく遊びに行った。彼のように冒険の経験豊かな人とつきあえば、カブールの退屈な生活も、気がまぎれるというものだ。
そんなある日、アガ・カーン家の主賓の席に、その家にはまったく似つかわしくないいでたちをした老タミール人がすわっていた。私を迎えたカーンは、私の困惑を見てとるとあわてて、この老尊者は彼の大切な友達であり、変人ながら一度は命を救ってくれたこともある大の恩人なのだと耳うちした。
その老人はどこか北の方に住み、ときどき親戚の人に会ったりほかの用事を足したりするためにカブールに出てくるのだが、そのおりには必ずカーンのもとを訪れて彼を喜ばせる。カーンの話では、生涯、彼以上の人には会ったことがないという。彼はその老人と言葉を交わしてはどうだと勧めてくれ、その場合には耳が遠いので大きな声で喋らなくてはいけないとつけ加えた。
私が入ってきたために途切れていた会話が再開した。それは馬の話だった。老人も話に加わっていたが、馬については通で、一度は大変な愛馬家だったことが明らかだった。そのうち話題が政治に移った。彼らは隣国のロシアやイギリスのことを槍玉にあげていたが、ロシアの話になると、アガ・カーンが私を指さしながら冗談めかしてこう言った。『どうか、あまりロシアの悪口は言わないでくれたまえよ。ロシア人のお客さんが気を悪くすると困るのでね。』
その言い方はふざけていたものの、カーンがロシア人に対する抜きさしならない弾劾を止めたがっているのが見てとれた。当時そのあたりではロシア人とイギリス人への憎悪がつのっていたのだ。
そのあと、共通の話は途絶え、我々は小グループで別々な話をし始めた。私はますます心を惹かれて、老人と言葉を交わした。彼は土地の言葉で、私がどこから来たのか、カブールにはどのくらいいるのかと尋ねた。私がそれに答えると、突然彼は訛りはきついがとても正確なロシア語を喋りだし、自分がロシアにいたことがあり、モスクワやペテルスブルグにも行ったことがあること、またブハラにも長い間住み、そこで大勢のロシア人に会ってロシア語を覚えたことを話してくれた。彼はさらに、実際にロシア語を話すことが少なく、そろそろ忘れかかっていたところだったので、またこの言葉を喋る機会に恵まれたことはとてもうれしい、とつけ加えた。
しばらくいろいろなことを話したあと彼は、もし私にその気があり、母国語をしゃべることで年寄りに敬意を表したければ、一緒にチャイハナ(茶店)へ行って少し腰をすえて話をしようと言う。彼が説明するには、カフェやチャイハナで時間をつぶすのは若い頃からの密かな楽しみで、いまでもカブールに来るたびに暇を見てはそうせずにいられないというのだ。騒音や混雑にもかかわらず、考えごとをするには最適で、『あの騒音と混雑こそ、頭の回転をよくするものに間違いない』と言う。
私は大喜びで彼に同行させてもらうことにした。もちろん、ロシア語を喋れるからではなく、何か自分でも説明できない理由があったからだ。私自身すでに初老に達していたというのに、この老人に対して、孫が大好きなおじいさんに対して持つような感情を抱き始めていた。
間もなく、来客が揃って引きあげだした。老人と私も連れだっていとまを告げると、あれこれ話をしながら歩いた。目指すチャイハナヘ着くと、表のテラスに席をとり、ブハラ産の緑茶を注文した。老人に対する特別な注目と待遇から、彼がこの店で知られ、尊敬されていることは明らかだった。彼はそれまでタジーク人たちのことを話していたのだが、一杯目のお茶を飲み終えると突然会話を中断した。
『しかし、こんなことはつまらん些事じゃ。的をはずれておる。』
そうしてしばらく私をじっと見すえると、横を向いて黙ってしまったのだ。
いきなり話を途切れさせたそのやり方も、射抜くような凝視も、私にはすべて奇妙に思われ、こう考えた。
『かわいそうに、きっと年のせいで思考力が衰え、心がさまよい始めたんだろう。』
そして、痛いほどこの老人が気の毒になってきた。
しかし、その気の毒な思いも、だんだん他人事ではないような気がし始めた。自分の心もやがてさまよいだし、思考を制御できなくなる日がそう遠くないという感慨にふけっていたのだ。そうした重苦しくはかない思いに没頭していた私は、目の前にいる老人のことすら忘れてしまった。と不意に、また彼の声が聞こえてくる。その言葉は私の陰影な想念をたちまち吹き飛ばし、心理状態を一変させてしまった。同情は、それまで一度も味わったことのないような驚愕に転じた。
老人『ゴーゴよ、ゴーゴよ! 君は45年の間、たえまなく刻苦勉励してきた。しかし、ほんの数ヶ月でも、一度として、知的欲求が心(ハート)からの欲求にまで高まるような決断をしたこともないし、そのための〈仕事〉の方法を知ったこともない。もしそれが達成できていれば、老境に入っていまのような孤独をかこつこともなかったはずだっ!』
彼が使った『ゴーゴ』という名前からして、跳び上がるほどの驚きだった。中央アジアくんだりで初めて顔を合わせたばかりのこのヒンドゥー教徒に、60年も昔、それも母と乳母だけしか使わず、それ以後は誰ひとり口にしたことのない、私の子供時代の愛称がどうしてわかったのだろうか?
私の驚愕のほどが想像できるかね? そのとき即座に思い出したのは、私がまだ若い頃、妻の死後一度モスクワの私のところを訪ねてきたある老人のことだった。私は一瞬、これはその同じ不可解な人物だろうかといぶかった。しかし違う。第一に、もうひとりの方は背が高く、この老人とは容貌も異なっていた。第2に、あれから40年以上も経っており、その人は当時すでに相当な年配だったから、とうの昔に亡くなっているに違いない。とにかく、この老人が私の経歴ばかりでなく、私しか知らないような内面の状態まで見通していることはどうしても説明がつかなかった。
私の内をこうした様々な想念が漂っている間、老人は深く考えに没頭しているようすで、私がようやく気力を奮い起こしてこう叫ぶと、われに帰った。
『そういうあなたはどなたです? どうして私のことをそんなによくご存じなのですか?』
老人『いまのいま、わしが誰か、何者なのか、君にとってはどうでもよいことではないか? 君の中には、一生をかけた労苦に実を結ばせない元凶である好奇心の虫がまだうずいているのかね? この期に及んでもなお、君の人となりについての私の知識を分析し、わしが君のことをどうして知っているのかを納得するためだけに全存在をかけるほど、その虫はしぶといのかね?』
老人のこの叱責は、私の最も痛い点を突いていた。『はい、尊師様、おっしゃるとおりです。』私は言った。『私のまわりで何がどうなろうと、私にとってはまったくどうでもよいことに違いありません。これまで幾多の本物の奇蹟をこの目で見てきましたが、私がそれからどんな洞察を得たでしょうか? いま私に言えるのは、自分の内面が空虚だということだけです。そして、おっしゃるとおり、私の内なる敵がなければ、またもしあっても、自分のまわりで進行することに好奇心を燃やして時間を浪費するかわりにこの敵と闘っていれば、これほど空虚になる必要はなかったということも、よく存じております。
しかし、もうすでに手遅れです! 私は自分のまわりで起こる一切のものごとに無頓着でなければなりません。ですから、たったいまお聞きしたことの答えも求めませんし、これ以上ご迷惑もおかけしたくないと思います。なにとぞ過去数分間の無礼をお許しください。』
こののち、私たちはそれぞれの思いにふけりながら長いこと座っていた。すると最後に彼がこう言って沈黙を破った。
『いいや、もしかすると手遅れではないかもしれん。もし本当に自分が空虚だと全存在で感ずるならば、もう一度だけ試みることを勧める。わずかの疑念もはいりこむ隙のないほどはっきりと、いままで自分が求めてきたあらゆるものが妄想だと感じ、認識するならば、ひとつわしが手を貸そう。ただしそれには1つだけ条件がある。その条件とは、君がいままで営んできた人生において意識的に死ぬということ。すなわち、習慣的にできあがっている一切の外的な生活と直ちにに訣別して、私の指定する場所へ行くということだ。』
実のところ、そのときの私にはもう訣別すべきものなどありはしなかった。そのような条件は、条件のうちにはいらなかったのだ。ひと握りの人々との絆を別にすれば、もう関心のあることは何一つ残っていなかったし、その絆にしても、少し前にいろいろな理由からそれらの人々のことを考えるのをむりやりやめてしまったところだった。
私はその場で、いまこの瞬間にも必要な場所へ行く用意があると告げた。彼は立ち上がると、私に身辺整理をすませるように言い、他には一言も残さず人混みの中へ消えた。
翌日、私は身辺をきれいに片づけ、いくつかの指示を残し、郷里に事務的な手紙を何通か書いて待機した。
3日後、タジーク人の若者がやって来ると、単純明快にこう述べた。『私はあなたの道案内に雇われた者です。旅はおよそひと月の行程で、次のようなものを用意しました。』そう言って、彼は用意したものを数えあげた。『ほかに何かご注文はありますか? キャラバンの集合日時、場所はどういたしましょう?』
旅に必要なものはすべて整っていたので、それ以外には何もいらなかった。そこで私は、必要とあらば次の朝にでも出発する用意があると告げ、出発地については彼の決定にまかせた。すると彼は、前と同じ簡潔な口調で、明朝6時、町の郊外オウスン・ケルピの方角にある隊商宿カルマタスで落ち合おうと言った。
翌朝、2人はキャラバン一行とともに出発し、2週間ののちにここに着いたというわけだ。以来私がここで見いだしたものについては、君も自分の目で確かめることになるだろう。
さあ今度は、君が共通の友人たちの話を聞かせてくれる番だよ。」

年老いた親友が話し疲れているのを見て、私はそれから先の話は次の機会にしようと提案し、何でも喜んで話すから、今日のところはゆっくり休んで早く回復するようにと言い聞かせた。
ルボヴェドスキー公が病床にいる間は、私たちが彼のいる第2区画へ出向いた。しかし、よくなって庵室を離れられるようになると、彼が私たちのところへやって来て、毎日のように2、3時間は語り合ったものである。
それが2週間ほど続いたのち、ある日、私たちは第3区画に呼ばれ、通訳を介して僧院の教主と面会した。彼は私たちの指南役として最古参の僧のひとりを任命してくれた。この僧は聖像のような容貌を持ち、ほかの門徒たちの話では齢275を数えるという。
これ以後、私たちはいわば修道生活に入り、どこにでも出入りを許されて、少しずついろいろなことを学んでいった。
第3区画の真ん中には寺院のような大きな建物がある。そこでは、日に2回、第2区画、第3区画に住む人々全員が集まって、尼僧たちによる神聖舞踏に見入ったり、神聖音楽を聞いたりする。
全快後のルボヴェドスキー公は、どこへ行くにも私たちに同行し、何から何まで説明してくれて、いわば副指南役というようなかたちだった。
この僧院のいろいろな詳細や、その意味、そこで何がどう行われていたかなどについては、おそらくいつか別な著書で詳しく述べることになるだろう。ここでは、そこで見たある奇妙な器具のことを特に取り上げて、それについてできるだけ細かく描写しておきたい。その仕組みのおおよその意味を知ったとき、私は言いようのない感銘を受けたものである。
私たちの副指南役となったルボヴェドスキー公は、ある日率先して、建物群のはずれにあって[女の区画]と呼ばれている第四区画を見学する許可を取ってくれた。そこは、日々中の院で神聖舞踏を踊る前述の尼僧たちが、弟子に授業を行うところだった。
私が〈人間の肉体と精神の動きを司る諸法則〉に多大な関心を抱いていることを知っている公爵は、この授業の間、若い舞踏尼志願者たちの稽古を補助する器具に特に注目するようにと言った。
この奇妙な器具は、一見して遠い古代の作だという印象を与えた。素材は黒檀で、それに象牙と真珠貝が埋めこまれている。使用されないとき、その器具がいくつもまとめて立ててある光景は、どの枝もみな同じ「ヴェサネルニアの樹」を彷彿とさせた。近くに寄ってよく調べてみると、どの器具も、人の背丈よりも高い滑らかな円柱を三脚台に固定してつくられているということがわかった。この円柱の7カ所から特殊な構造の枝が出ており、その一本一本がさらに寸法の異なる7つの部分に分かれて、胴体からの距離に反比例して長さと幅が小さくなっている。
それぞれの部分、つまり分節は、一個がもう一個の内側におさまった2個の空洞の象牙球によって隣接する分節とつながっている。外側の球は内側の球を完全にはおおっていない。枝上の分節の一方の端は内側の球に、隣の分節端は外側の球に固定されている。こうして、連結部は人間の肩の関接と同様な機能を果たし、どの枝の7つの分節も自由自在に動かせるわけである。内側の球には、ある種の記号が刻まれていた。
稽古室にはこの器具が3台あり、それぞれの脇に、同じようにある種の刻印のついた方形の金属板がぎっしりつまった小型の戸棚が置いてある。ルボヴェドスキー公の説明では、それらの金属板は複製で、純金の原板は教主が保管しているということだった。専門家の鑑定では、板も器具自体も少なくとも4,500年以上の古いものだという。公爵はさらに、内側の球に刻まれている印と板の印を対応させることによって、球とそれに連結した分節を適当な位置に合わせることができると解説してくれた。
球を全部、所定の位置に合わせると、器具の取る形と広がりが完全に定まり、若い弟子たちはこうしてできた型の前に何時間も立って、その姿勢を感得し、頭に入れる練習をするのである。
これら尼僧の卵たちが、年配の熟練した尼僧だけが踊ることを許されている中の院で踊れるようになるには、長い年月を要する。
僧院の人々は全員そうした姿勢の言語を知っていて、夕刻、中の院の大ホールで尼僧たちがその日の儀式にふさわしい舞踏を演ずるとき、信徒たちはその中に、何千年も前に織りこまれた真理のあれこれを読み取るのである。
これらの舞踏は、私たちの書物に相当する。現在それが紙面に印刷されているように、かつて、遠い昔の出来事についての情報は舞踏の中に記録され、幾世紀もの間、世代から世代へと伝承されてきた。これが神聖舞踏と呼ばれるものなのだ。
尼僧になるのはほとんど、親の誓願やその他の理由で、幼時から、神あるいは特定の聖者に奉仕するために遣わされたうら若い乙女たちである。彼女らは子供の頃から僧院に入れられ、この神聖舞踏をはじめ、必要な一切のことを教えこまれる。
初めてこの稽古を参観して数日後、本物の尼僧たちによる演技を見たときの驚きは大変なものだった。当時はまだ理解できなかった踊りの意味や内容は別として、彼女らが舞うその外的な正確さ、厳密さに胆をつぶしたのである。私はこの種の自動化された表現形式に意識的な関心を持ってきたが、ヨーロッパでもその他の土地でも、この演技の純粋性に並ぶものを見たことがない。

私たちがこの僧院に住み始めて3ヶ月ほど経ち、ようやくそこの諸条件になじみ始めたある日、公爵が悲しげな顔をして私のところへやって来た。その朝教主に呼ばれ、ほかの何人かの長老たちとも会ったと言うのだ。
「教主様がおっしゃるには」公爵は続けた。
「私の命はあと3年しかなく、この3年をより有効に使って私の生涯の夢を実現するには、ヒマラヤの北斜面にあるオルマン僧院で過ごした方がよかろうというご忠告なのだ。教主様は、もし私に行く気があるならば適切な指示を与え、そこでの滞在が実り多いものになるよう取り計らってくださると言う。私は順路なくそれを受諾し、3日以内に何人かの有資格者たちと一緒にその僧院へ向かうことになったのだよ。
そこで私は、残された数日をずっと、たまたま今生で最も近しい友となった君とともに過ごそうと思うのだ。」
この予期せぬ成り行きのすべてに私は茫然自失してしまい、長いこと口をきくこともできなかった。
ようやく少しばかり我に返ったとき、「本当ですか?」と尋ねるのが精いっぱいだった。
「そうなんだ」公爵は答えた。「余生を送るのにこれ以上の道はないだろう。もしかすると、自分に与えられていた可能性を長年にわたって無益に、無意味に失ってきたのを埋め合わせすることができるかもしれない。このことについてこれ以上話す必要はあるまい。それよりもこの最後の数日を、この瞬間においてよりいっそう本質的な事柄に使うことにしよう。そして君は、いままでどおり、私がもうとうの昔に死んだと考え続けてくれたまえ。君自身、ついこの間、私のためにミサを捧げ、少しずつ私を失ったという思いにも耐えることができるようになったと話してくれたばかりではないか? 偶然に再び相まみえたいま、また偶然に、悲しむことなく別れよう。」
おそらく公爵にとっては、これをかくも穏やかな口調で語るのはそう難しいことではなかったに違いない。しかし私にとっては、最も敬愛するこの人を失う、しかも今回は永久に失うことを納得するのは、大変な困難だった。
私たちは、残りの3日間をほとんどぶっとおしで一緒に過ごし、ありとあらゆることを語り明かした。けれども、その間ずっと私の胸は重く、公爵が微笑むたびにとりわけ痛んだ。彼の微笑みに私の胸が張り裂けんばかりになったのは、その微笑みが彼の善良さと愛と忍耐のしるしだったからである。
とうとうその3日も過ぎ、私にとっては悲しみの朝、この善き公爵を永遠に連れ去ってゆくキャラバンの積荷を自ら手伝った。彼は、ついて来ないでくれと言い、キャラバンが出発して山陰に隠れようとするとき、振り返って私を見ると、3度祝福の合図を送ってよこした。
高徳の人ユリ・ルボヴェドスキー公よ、汝の魂に平安あれ!

とあるペルシア人托鉢僧
タブリズにいる間に、途方もない奇蹟を行うというペルシア人托鉢僧の話を何度も聞いて、私たちは興味をそそられた。旅の少し先で、アルメニア大司祭から再びこの托鉢僧の話を聞いた私たちは、彼が予定の道筋から相当はずれたところに住んでいるにもかかわらず、ルート変更して彼に会い、いったい何者なのかを自分たちの目で確かめる決心をした。
ようやくこの托鉢僧の住む村にたどり着くまでに、私たちは13日間、夜は、ペルシア人やタルト人の羊飼いたちの小屋か部落に泊まりながら、骨の折れる旅を続けた。
教えてもらった托鉢僧の家は、村からかなり離れたところにあった。私たちはすぐさまそこへ行き、家の近くの小さな木陰にすわっている彼を見つけた。彼はふつうそこで、会いに来た人たちと話をするのである。
私たちが目にしたのは、ぼろを身にまとい、裸足で地面にあぐらを組んだ、かなりの年配の男だった。彼のまわりにはペルシア人の若者が何人か座っていたが、あとからわかったところでは弟子たちだった。私たちはそばへ寄ると彼の祝福を求め、ほかの人々と同じように地面に腰を下ろして彼のまわりに半円を描いた。そして、私たちの間に対話が始まった。
私たちが質問をすると彼がそれに答え、今度は反対に彼の方から私たちに質問をした。
最初、彼は私たちに対してどちらかというと冷たく、口も重かったが、そのうち私たちが特に彼と話をするために相当なまわり道をして来たことを聞くと、前よりは心を開いてくれた。彼の表現はとても素朴で、言葉も洗練されていなかった。はじめ、少なくとも私個人は、無学な人、つまりヨーロッパ的な意味での教養のない人という印象を受けた。
托鉢僧との会話はペルシア語で行われたが、特殊な方言だったため、私とサリ・オグリ博士、そしてもうひとりのあまり流暢でない人を除いて、一行の者たちには理解できなかった。その結果、サリ・オグリと私が質問をし、返答はすべて、他の人たちのためにその場で通訳することになった。
ちょうど夕食時で、ひとりの弟子がこの托鉢僧に食事を運んできた。瓢(ふくべ)の椀に盛られた米飯である。
それを托鉢僧は会話を続けながら食べた。朝早く起きて出発して以来何も食べていなかったので、私たちも背嚢を開いて食事を始めた。
読者におことわりしておくと、当時私はかの有名なインドのヨガ行者たちの熱心な追従者で、ハタ・ヨガと呼ばれるものの指示はすべて厳格に実行しており、食事に際しては食べものをできるかぎり完全に咀嚼するよう努めていた。そこで、老僧を含めて全員が食べ終わったあとも、私はゆっくりと、長いこと食べ続け、すべての規則に従って、咀嚼することなしにはただのひと口も飲みこむまいと頑張っていた。
これを見た托鉢僧はこう尋ねた。「見知らぬ若者よ、なぜそんな食べ方をするのか話してごらん。」
私はこの問いに(ひどく奇妙で、彼の無知を証明するもののように思われたのだが)すっかり驚いて、返事をする気も起こらず、自分たちは真面目に話をするにも値しないような人と会うために、たいそう無駄な大まわりをしたものだ、と内心あきれていた。彼の目を覗き込んだが、哀れなばかりか、同じ人間として恥ずかしくなってしまった。私は自信満々で、〈自分が食べものを注意深く噛むのは腸の中で吸収がよくなり、また周知のとおり、正しく消化された食物は人間のあらゆる機能に必要なカロリーをいっそう多く体組織に供給してくれるからだ〉と、その問題に関していろいろな書物から抜き出したことを受け売りした。
首を振りながら、老人はゆっくりと確信をこめて、ペルシア中で知られている次のような格言を口にした。

自ら知らずして、あえて神の王国への扉を他人に示そうとする者に、神が死をもたらさんことを。

そのあと、サリ・オダリの質問に簡単に答えると、彼はまた私の方を向いてこう問いかけた。
「見知らぬ若者よ、君は体操もやるのだろうね?」
事実私はその頃体操に凝っており、インドのヨガ行者たちの勧める技法は全部知っていたものの、自分ではスウェーデン式、ミューラー式に従っていた。そこで私は托鉢僧に自分がたしかに体操をやっており、朝夕2回の実践が必要だと見なしている旨を告げて、現にどんな運動をしているかを簡単に説明した。
「そんなものは、腕や脚など、概して外的な筋肉を発達させるにすぎない」と老僧は言う。「だが人間には、そんな機械的な運動にはまったく影響を受けない、内なる筋肉があるのだ。」
「はい、たしかにそのとおりです。」私は答えた。
「よろしい。ならば君の食べものの噛み方に戻ろう」と老僧は続ける。「もし健康やその他の目的であんな噛み方をしているとしたら、私の腹蔵ないところを言えば、君は最悪の道を選んでいることになる。あれほど用心して食べものを噛んだら、胃袋の仕事は減ってしまう。今はまだ若いからなんともないが、自分の胃に何もしない癖をつけているのだ。このまま年を取ったら、正常な働きの欠けた胃の筋肉は、いくらか萎縮してしまうだろう。こういう噛み方をしていれば、そうなることは避けられない。我々の筋肉や体が年を取るにつれて衰えることは君も承知のとおりだ。その自然な衰弱に加えて、君は胃袋を働かせなかったために自ら招く、余分なお荷物を背負わなくてはならん。それがどんなものか想像できるかね?
本当は、用心深く咀嚼するなどということはまったく必要ないのだ。君の年だったら、全然噛まずにできれば骨でもそのまま飲みこんで、胃袋に仕事を与えた方がいい。私の見るかぎり、君にこんな咀嚼法を教えたり、そういうことを本に書いたりするのは、世に言う『鐘の音は聞くが、その源は知らない』連中に決まっている。」
老人の単純明快で、筋の通った言葉は、彼に関する私の第一印象を完全に一変させてしまった。それまでは好奇心から質問を発していただけだったのが、その瞬間から本気で彼に興味をいだき、話の一部始終に最大の注意を払って聞き入ったのである。
不意に私は、自分がいままで確実な真理として受け入れていた色々な考え方が、必ずしも正しくないということを全身全霊で理解した。それまでは物事の一面しか見ていなかったことを悟ったのである。そうしてみると、沢山のことがまったく新しい光に照らし出された。咀嚼についても、何百という新たな質問が湧いてきた
托鉢僧との会話に夢中になって、博士も私も残りの仲間たちのことなどすっかり忘れ、話の内容を通訳するのもやめてしまっていた。私たちが興味津々になっている様子を見て、彼らは色々な質問を差しはさんでくる。「彼は何と言ったんだい?」「何を話しているんですか?」その度に私たちは後で何から何まで話すからと言って、一同を黙らせなければならなかった。
人為的咀嚼と様々な食物吸収法、そして法則に従って私たちの体内で起こる食物の自然の変化についての托鉢僧の話が終わると、私はこう述べた。
「教父様、いわゆる人為的呼吸法についても、どうかご意見をお聞かせください。それが有益だという信念のもとに、私はヨガ行者たちの指導に従って呼吸法を実行しております。つまり、空気を吸った後しばらくためておき、それからゆっくりと吐き出すのです。もしや、これもやるべきではないのでしょうか?」
托鉢僧は私の態度がすっかり変わったのを見てとり、前よりも好意を示して次のような説明をしてくれた。
「もし食物の噛み方で自分を害うことがあるとすれば、そんな呼吸法はその千倍も有害だ。書物で紹介されたり、昨今の密教派などで教えられているような呼吸法はすべて毒にしかならない。正常な思考の持ち主なら誰しも理解しなければならないことだが、呼吸もやはり一種の食物供給プロセスで、ただその食物の種類が違う。空気は、ふつうの食物と同様、体に入るとそこで消化され、諸成分に分解する。そして、お互いどうし、あるいはすでに体内に存在する物質のうちの対応する成分と結びついて、新しい化合物を形成する。こうしてできた必要欠くべからざる新物質が、人間の肉体の内の様々な生命の営みのために、絶えず消費されているのだ。
こうした新しい物質をきちんと得るには、その構成成分が正確な量的配合で結びつかねばならないということを頭に入れておく必要がある。
一番簡単な例をとってみよう。パンを焼くには、まず第一に生パンをつくらねばならない。しかし、生パンをつくるには決まった割合の粉と水がいる。もし水が少なすぎれば、生パンのかわりに、触っただけでぼろぼろに崩れてしまうようなものができるだろう。反対に水が多すぎれば、家畜の餌にするようなどろどろの粥にしかならない。どちらの場合も結果は同じことで、パンを焼くのに必要な生パンはできないのだ。
同じことが、有機体に必要なすべての物質の形成について言える。そうした物質を構成する諸成分は、質量ともに厳密な配分で結合しなければならないのだ。
ふつうの呼吸は機械的なものだ。本人にかかわりなく、肉体は空気から必要な量の物質を取り入れる。肺は一定の空気を処理するようにできている。ところが吸いこむ空気の量を増やすと、肺を通過する混合物の内容が変化し、さらに必然的に、体内の混合や平衡のプロセスが変わってしまう。
呼吸の根本法則をすみずみまで知りつくしていないかぎり、人為的な呼吸法の実践は、ゆっくりではあるが確実な自己破壊につながらざるをえない。
心得ておかなければならないのは、肉体に必要な物質のほかに、空気には、不必要で有害ですらある物質が含まれているということだ。
そこで、人為的呼吸法、すなわち自然な呼吸にむりな修正を加えた呼吸法は、生命に有害な物質の体内侵入を促し、同時に、役にたつ物質の量的質的なバランスを崩してしまう。
人為的呼吸法はまた、空気から摂取される食物と、ほかのすべての食物との配分も乱してしまう。このため、吸入する空気の増減に応じて、その他の食物摂取量も調節しなければならない。そのような正しい配分を維持するには、自分の肉体を完全に理解している必要がある。
だが、君は自分自身のことをそこまで知っているかね? たとえば、胃袋が食物を必要とするのは滋養のためばかりでなく、胃袋に一定量の食物を摂る習慣があるからだということを知っているだろうか? 我々の食事は主として、味覚を満足させ、胃袋にこの特定量の食物がはいっているときの、なじみのある圧迫感を得るためのものなのだ。胃壁にはいわゆる迷走神経というものが枝を出していて、ある一定の圧力がなくなると機能し始め、我々が空腹と呼ぶ感覚を引き起こす。空腹にいろいろな種類があるのはそこからくる。いわゆる肉体的、すなわち物理的空腹もあるし、こういう表現が許されるならば、神経性、ないしは精神的空腹というものもあるわけだ。
我々の諸器官はすべて、それぞれの本性や習慣に従って、特定の速度で機械的に活動している。
異なった器官の活動速度は互いに決まった関係にある。こうして、体内には一定の均衡が保たれているのだ。ある器官が別な器官に依存しながら、全部が結びついている。
人為的に呼吸を変化させると、まず肺の働きの速度が変わる。肺の活動がとりわけ胃の活動に結びついているところから、同じく胃の働きの速度が、最初はわずかに、次第にはっきりと変わってしまう。胃袋が食物を消化するには一定の時間がかかる。仮に食物が一時間胃に滞留しなければならないとしよう。ところが、胃の働きの速度が変わると、食物が胃を通過する所要時間もまた変わってくる。食物の通過時間が早すぎて、胃は、なすべき仕事の一部しかできなくなってしまうかもしれない。他の器官も同様だ。
だから、肉体をむやみにいじらない方が一千倍も価値があると言えるだろう。やり方も知らずに修繕しようとするよりは、故障したままにしておいた方がいいのだ。
もう一度繰り返すと、我々の肉体は非常に複雑な装置だ。その中には、速度も欲求も異にして働く多くの器官がある。変えるとすれば何もかも変えるか、でなければ何も変えないかということになる。さもなければ、益になるよりも害になる可能性の方が高い

この人為的呼吸法によって、いろいろな病気が起こる。多くの場合、心臓が肥大し、気管が収縮し、胃、肝臓、腎臓、あるいは神経がやられてしまう。
人為的呼吸法を実践する人間が回復不能の障害を起こさないことはごくまれだ。そうしたまれな例も、ある時点でその呼吸法をやめることからくるにすぎない。長い間やれば、誰でも必ず哀れむべき結果を招くのだ。
自分という機械のあらゆる小ネジ、あらゆる小ピンを知りつくしていて初めて、どうするべきかがわかるだろう。だが、ほんのわずかの知識で試行錯誤するには、あまりにも危険が大きい。機械がとても複雑だからだ。小ネジの中には、激しいショックを受けたら簡単に折れてしまい、そうなったらどんな店でも買い替えられないものがたくさんある。
だからして、君の質問に対する私の助言は、呼吸の練習はやめなさいということだ。」

欧米人とアジア人の比較①
この章をつづりながら、私たちがアジアで行なった様々な探険や放浪を記憶に蘇らせた私は、ヨーロッパ人の大半が、この大陸に関していだいている奇妙な考えのことを連想によって思い出した。
15年間継続して西洋に暮らし、あらゆる民族の人々とたえず接触した結果、私はヨーロッパの人はただのひとりとして、アジアのことを知りもしなければ想像もできないという結論に達した。
ヨーロッパやアメリカに住む人々の大部分は、アジアといえばヨーロッパに隣接した一種不明瞭にして広大な大陸で、たまたまそこに居合わせて野性化した野蛮人か、せいぜいよくて半野蛮人の集団が住んでいるくらいにしか思っていないのである。
その大きさに関する欧米人の概念も非常にあいまいだ。きまってヨーロッパの国々と比較しようとはするが、アジアがヨーロッパをいくつも合わせたくらい大きな大陸で、欧米人はもとよりアジア人自身も聞いたことがないような無数の民族で成り立っていることなど考えも及ばない。ところが、これら「野蛮人集団」の間には、たとえば医学、占星学、自然科学のような学問が存在し、半可通や仮定的解説を抜きにしたところで、ヨーロッパ文明が数百年後にようやく到達するかどうかという完成度に達して久しいのである。

欧米人とアジア人の比較②
こうした地域に住む人々の心のあり方は、ヨーロッパ人のそれとはまったく異なっている。後者の間では、頭の中にあることはほとんど必ずと言ってよいほど口に出る。ところが、アジア人の場合はそうではなく、彼らの精神の二重性は高度に発達している。この地域の人間は誰でも、たとえ外面的には丁重で親切であっても、内側では相手を憎んでいて、なんとか害を与えてやろうとあらゆる手管を考えているかもしれないのだ。
長年アジアで暮らしたヨーロッパ人の多くが、アジア人のこの特徴を理解せず、自分たちの基準で判断する結果、大きな損失を蒙り、不必要な誤解を生んでしまう。アジア人は自尊心と自愛に満ちている。その地位にかかわらず、彼らのひとりひとりが、自分の人格に対してすべての人からある種の扱いを受けることを要求するのである。
彼らの間では、本題は背景にしまってあり、それを持ち出そうと思ったら、話のついでのようなふりをしなければならない。さもないと、運がよくても、たとえば右に行くべきところを左へ行けと教えられてしまう。一方、もししかるべき手続きをきちんと踏めば、正確な道案内をしてくれるばかりか、できるものならその人自身で、目的地へ着けるよう一生懸命に手を貸してくれる。

ジョバンニ神父
渓谷から渓谷へと様々な部族に接触するうちに、私たちはとうとう、カフィリスタンの中心と見なされているアフリディスの中央居留地へやって来た。
道々私たちは、托鉢僧とザイドとしてやるべきことはすべてやった。つまり私がペルシア語で聖句を唱え、教授が曲がりなりにもタンバリンのリズムで伴奏をつけたあと、タンバリンの中に施しものを集めてまわるのである。
この旅のそれから先や、それにまつわる幾多の冒険に関しては、ここでは触れない。しかし、この居留地からそれほど遠くないところで起こった、ある人との偶然の出会いについては述べることにしよう。この出会いの結果、私たちの内面世界に新しい方向が示され、それ以後はそのおかげで私たちの予測も、意図も、計画自体もすっかり変わってしまったのである。
チトラルヘ向かうつもりで、私たちはアフリディスの居留地を出た。ところが次のかなり大きな村にある市場を通りかかったとき、土地の人の服装をした老人が私に、生粋のギリシア語で優しく声をかけた。
「どうかびっくりしなさるな。まったくの偶然で、わしにはあんたがギリシア人だということがわかるのじゃ。あんたが何者か、どうしてこんなところにいるのか詮索しようとは思わないが、一緒に語らって同胞のよしみを深められたらうれしい。生国を同じうする人間に会うのは50年ぶりじゃからのう。」
その声と眼差しから受けた印象で、私はたちまち、父に感じるのと同じ全面的な信頼感をこの老人に抱き、同じくギリシア語でこう答えた。「ここでお話をするのはうまくないと思います。私たち、少なくとも私は、大きな危険を冒さねばなりません。どこか自由に心おきなく話せるところを探しましょう。2人で考えれば、うまい方法かいい場所が見つかるはずです。いまはただ、私もあなたにお会いできて言葉にできないほど嬉しいとだけ申しておきましょう。何ヶ月もの間、血を分けない人々とのつきあいに疲れ果てているところですから。」
彼は黙って立ち去り、教授と私も用向きをすませに行った。その翌日、中央アジアでよく知られるある宗派の僧服をまとった男が、施しもののかわりに私の手に書きつけを握らせた。
私は、昼飯を食べに行ったアスカナ(食堂)でこの書きつけを読んだ。ギリシア語で書かれた文面から、前日の人が、その宗派でいわゆる「自己脱却を遂げた」僧のひとりであること、そして私たちが彼らの僧院を訪れてもかまわないことを知った。そこでは、あらゆる国と人種の平等な創造者である一なる神を求める者なら、国籍にかかわらず万人が尊重されるからである。
あくる日、教授と私がその僧院へ出かけてゆくと、何人かの僧侶が迎えてくれたが、その中にあの老人も混じっていた。しきたりどおりの挨拶を交わしたのち、彼の案内で私たちは僧院から少し離れた丘に登り、坂になっている小川の土手に腰をおろして、彼のたずさえてきた食事をごちそうになった。
そこへすわるなり、彼はこう言った。「ここなら誰の目にも耳にも入るまい。完全な静けさに囲まれて、こころゆくまで話ができよう。」
話の結果、彼は実際にはイタリア人なのだが、母親がギリシア人で、子供の頃はほとんどギリシア語ばかりを話すようにしつけられたためにギリシア語ができるということがわかった。
かつてはキリスト教の宣教師だったことがあり、長い間インドに住んでいた。ところが、布教の仕事でアフガニスタンに出かけた際、とある峠を越えたところをアフリディ族に捕まってしまったのである。
それからというもの、奴隷としてこの地域に住む様々なグループの手に次々と渡り、ついに、ある男の奴隷としてこの土地にたどり着いた。
これらの隔絶された国々に長く暮らす間に、彼はその地方で何世紀にもわたってかたちづくられてきた各種の状況を謙虚に認めて、それに従おうとする心の広い人間だという評判をとった。そのため、一生懸命に仕えた最後の主人の尽力で、土地の有力者と同じようにどこへでも好きなところへ行く自由を約束された。ところがちょうどその頃、彼が生涯夢見ていたのと同じことを目指す「世界同胞団(World Brotherhood)」の信徒たちと偶然の接触を持ち、そこへ入会を許されて、以来ほかのどこへも行かずに、彼らの僧院で共同生活をしてきたのである。

ジョヴァンニ神父。かつて一度カトリックの司祭だったことがあり、故国でこう呼ばれていたということを聞いてから、私たちも彼をこの名前で呼ぶことにした。
この人への信頼が深まってゆくにつれ、私たちは自分たちの正体を明かし、扮装の理由を説明する必要に迫られた。
私たちの話に心からの理解を示しながら耳を傾け、私たちの努力にもはっきりとした支持の気持ちを表した彼は、しばらく考えこむと、優しい、忘れ難い微笑を浮かべてこう言った。
「よろしい……、君たちの探求は我が同志たちにも有益だろうから、その目的達成のためにあらゆる手をつくして力添えをしてあげよう。」
この約束はまず、私たちがこの地帯で何をどうするかはっきりとした計画が立つまで、この僧院に滞在する許可を、その日のうちにしかるべき筋からもらってくれるというかたちで実現した。あくる日、私たちは僧院の宿舎に入り、何よりもゆっくりと休息をとった。何ヶ月にもわたる緊張のため、これは是非とも必要だったのだ。
私たちはそこで気楽に暮らし、僧院内を自由に歩きまわったが、ただ1つ教主が住まい、ある程度心境の進んだ信徒だけが毎晩訪れることを許されている建物には入れなかった。
ジョヴァンニ神父に従って、私たちは、初めて僧院を訪れたときに行った場所へほとんど毎日のように出かけ、長い会話を交わした。
そうしたとき、ジョヴァンニ神父は、そこの信徒たちの内面生活について、またそれに伴う日常生活の原理について、多くのことを語ってくれた。そんなある日、遠い昔アジアで結成された数々の教団の話をするうち、誰でもそれまでに属していた宗教にかかわりなくはいることのできるこの世界同胞団について、彼はさらに詳しい解説を加えた。
あとで私たちが確かめたところでは、この僧院の信徒には元キリスト教徒、ユダヤ教徒、回教徒、仏教徒、ラマ教徒ばかりでなく、元シャーマニズムの信者もひとり混ざっていた。そうした人たちが全員、真理そのものである神のもとに団結しているのである。
そろって共同生活をするこの僧院の信徒たちの睦まじさは、それぞれ異なった宗教的背景を持っているにもかかわらず、どの人が元々どの宗教に属していたのか、スクリドロフ教授も私も言い当てることができないほどだった。
ジョヴァンニ神父はまた、こうした様々な教団の信仰や目的についても言葉を惜しまなかった。真理や信仰や、内面で信仰を変える可能性についての話は、理路整然としていて説得力に富み、一度などスクリドロフ教授は驚嘆を抑えきれずにこう叫んだほどである。
「ジョヴァンニ神父様! 私にはあなたがこんなところで平然としておられるのがわかりません。あなたはヨーロッパ、少なくとも故国のイタリアへ帰り、いまあなたが私の中で奮い起こしてくださったすべてを貫く信仰の千分の一でも、そこの人々に与えてやるべきです。」
「ああ! 親愛なる教授よ」ジョヴァンニ神父は答えた。
「あなたは考古学を理解するほどには人間の精神を理解しておらんようじゃ。信仰は与えられるものではない。人間の中で信仰が生まれ、活動を増してゆくのは、機械的な学習、つまり高さや幅、厚味、形、重さなどの機械的確認によるのではない。またそれは視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚といった知覚によるものでもない。それは〈理解〉のなせるわざなのじゃ。
理解とは、意図的に学んだ情報や、様々な個人的経験によって得られるものの本質じゃ
例えば、いまこの瞬間に、愛する実の兄弟がやって来て、わしの理解の十分の一でいいから分けてくれと必死で懇願し、わしも心底そうしてやりたいと思うとしよう。ところが、わしがどんなに熱意をこめてそう望んでも、この理解の千分の一すら与えてやることはできない。やっこさんには、わしが人生においてまったく偶然に獲得し、生涯を生き抜いてきた知識も経験もないからじゃ。
いいや、教授。福音書の言うとおり、『ラクダが針の目を通る』ことの方が、自分の中に形成された理解を他人に与えるよりも何百倍も簡単なのだよ。
わしも昔はあなたのような考えを持って、万人にキリストへの信仰を教える宣教師の道まで選んだ。
イエス・キリストの信仰と教えによってわし自身が幸せになったのと同じだけ、みんなを幸せにしたかったのじゃ。だがそうするために、いわば言葉で信仰を接ぎ木するのは、人の顔を眺めるだけでお腹をいっぱいにさせようとするのと何ら変わりがない。
理解というのは、いまも言ったように、意図的に学んだ情報の全体と、個人的な経験とによって得られるものなのじゃ。それに対して知識とは、言葉を機械的に特定の順序で暗記することにすぎない。
人生の途上でいま述べたようにして形成される内的理解を、他人に分け与えることは、たとえ心からそう望んだところで不可能なのじゃ。そればかりではなく、わしが最近僧院の同志たちとともに確認したところでは、ある人がほかの人に何かを話すとき、それが聞き手の知識のためであっても理解のためであっても、認識されることの質は話し手自身の内に形成されている資質の如何によって異なるという法則がある。
このことを君が理解できるように、わしらがこの研究を始めるきっかけとなり、この法則を発見するもととなった事実に触れてみよう。
教団の中に2人の高齢の同志がいる。ひとりはアル修道士、もうひとりはセツ修道士と呼ばれている。
この2人は、わが派の全僧院を定期的にまわり、神性の本質の様々な面について説明するという仕事をすすんで引き受けておられる。
わが教団には4つの僧院がある。そのうちの1つはここで、2番目はパミール渓谷に、3番目はチベッ卜に、4番目はインドにある。そこでアルとセツ同志は、絶えず僧院から僧院へと旅して説教なさっているわけじゃ。お二人はここにも年に一度か2度お見えになるが、その到着は、我々の間では大きな出来事となっている。お二人のうちどちらかひとりでもここにいらっしゃるときには、我々全員の魂が、純粋な天上の悦びと慈愛を経験するからじゃ。
聖者としてほとんど優劣つけがたく、同じ真理を語っているにもかかわらず、この2人の同志の講話は我が同志すべてに、とりわけわしに異なった効果を及ぼす。
セツ修道士の話は、まったくのところ極楽鳥の歌のようじゃ。その話を聞くと、人はいわば内面をさらけ出したようなかたちで忘我境をさまよいだす。その言葉はさらさらと小川のように流れ、聞き手はもうセツ修道士の声を聴く以外何も欲しくなくなってしまうのじゃな。
ところが、アル修道士の話はほぼ正反対の効果を及ぼす。話し下手で、曖昧なのは明らかにお歳のせいじゃろう。彼がいくつになるのか誰ひとり知らない。セツ修道士も大変な老齢で三百歳とも言われておるが、まだまだかくしゃくとしておられる。それに比べて、アル修道士の老衰は目に見える。
セツ修道士の言葉を聞いた瞬間に受けた印象が強ければ強いほど、その印象は霧散してしまい、ついには聞き手の中に何一つ残らない。
しかし、アル修道士の言葉は初めはほとんど何の印象も残さないが、あとになって日に日にその骨子がはっきりとしたかたちをとり、全体が胸の中に沁み渡って、永久にとどまるのじゃ。
このことに気づいて、そのわけを見いだそうとした我々は、全員一致で次のような結論に達した。セツ修道士の話は彼の心から出て、我々の心に作用するが、アル修道士の話は彼の存在から出て我々の存在に作用するのである。
さよう、教授。
知識と理解はまったく違ったものじゃ。存在に通ずるのは理解のみで、知識は存在の中の束の間のありようにすぎない。知識は古くなれば新しい知識にとって替わられる。結果的に見れば、いわば虚から虚への移り変わりでしかない。
人は理解を求めねばならない。これこそ、われらの主なる神に通ずる唯一の道なのじゃ。
我々のまわりで法則に従って働いている自然現象や、それを超えて働く自然現象を理解するためには、次のことが必要じゃ。まず何よりも、客観的真理と、過去にこの地球上で実際に起こった出来事についての膨大な情報を、意識的に認識し、吸収しなければならない。そのうえで、あらゆる種類の意志による経験と、意志を超えた経験のすべての結果を、自己の内に宿さなければならないのじゃ
。」
ジョヴァンニ神父からは、このほかにも同様の、多くの忘れえぬ話を聞いた。
現代人の頭にはけっして浮かばないような沢山の問いが私たちの中に湧き上がり、ジョヴァンニ神父という、現代生活ではめったにお目にかかれない稀有な人物によって解明されていった。
私たちが僧院を離れる2日前に、スクリドロフ教授によって提起された問いに対する神父の説明は、思想の深さと、責任ある年齢に達している現代人に対して意義を持つ可能性のゆえに、誰にとってもきわめて興味あるものであろう。
この問いは、次のようなジョヴァンニ神父の話を聞いて、スクリドロフ教授の存在の深みから引き裂くようにして提起された。
神父によれば、より高い力の効果や影響のもとに本気で入ることを期待するならば、魂を持つことが絶対的に必要である。そしてそれは、意志による経験と意志を超えた経験を通して、過去の真正な出来事の意図的な学習による情報を通してしか得られないという。また、神父は説得力のある口調で、次のようにつけ加えた。これはまた、大自然から受け取ったしっかりした資質が、不必要でしかも不合理なことにまだ浪費されていない青年期にのみ可能である。そうした不必要でしかも不合理なことがまともであるかのように見えるのは、人々の生活の中でできあがった異常な状況のせいでしかないのだ、と
これを聞いて、スクリドロフ教授は深々と嘆息し、絶望の叫び声を上げた。「それなら私たちはどうすればいいのでしょう? どうして生きていったらいいのでしょうか?」
しばし沈黙していたジョヴァンニ神父は、スクリドロフの絶叫に答えて、一連の注目すべき思想を明かしてくれた。私はこれをできるかぎり一字一句再現することが必要だと思う。人間の存在全体において独立して形成された第3の部分であるこの魂に関する問題は、『人間の聖体、法則に則ったその要求と可能な発現の諸相』と題する章で取り上げるつもりである。しかしそれには著作の第3集を待たねばならない。
これはすでに決定し、読者に約束した同著作の2つの章を補うものである。その一章は、肉体、つまり人間の存在全体の中で独立して形成された第一の部分である肉体についての、高徳のペルシア人托鉢僧の言葉に捧げられる。次の一章は、人間の第2の独立形成部分である精神についての老エズ・エズーナ・ヴーランの解説に捧げられる。
この僧院に滞在中、ジョヴァンニ神父と話し合うと同時に、私たちは教団の他の信徒たちとも親交を結び、たびたび言葉を交わした。彼らと知己を得たのは、父親のように私たちを庇護してくれた神父のおかげであった。
私たちはこの僧院に6ヶ月間滞在したのち、いとまを告げた。それ以上滞在できなかったからでも、そうしたくなかったからでもない。私たちが受けた印象の総体が心の中で溢れ出し、最後にはもう少しで気が狂いそうになってしまったからである。
そこでの滞在で、私たちが関心を持つ精神的、考古学的疑間の多くに解答をもたらしてくれたため、少なくともしばらくは、それ以上何一つ求めることがなくなったかのように思われた。そこで私たちは旅を打ち切り、来た時とほとんど同じ経路を取ってロシアへ帰った。
ティフリスへ着くと、教授と私は別れた。彼はグルジア軍用路を通ってピアティゴルスクの長女に会いに、私はアレキサンドロポルの実家へ向かった。
その後、スクリドロフ教授とはかなり長い間会わなかったが、定期的に手紙のやりとりをした。彼と最後に会ったのは世界大戦(第一次大戦)の2年目、彼が娘を訪間中のピアティゴルスクでのことであった。
ベチョウ山の頂上で交わした最後の会話は、生涯けっして忘れることがないだろう。当時私はエッセントゥキに住んでいた。ある日、キスロヴォドスクで出会ったとき、古きよき日々を思い出した彼が、ピアティゴルスクから遠くないベチョウ山に登ろうと提案したのである。
この出会いから2週間ほど経ったある晴れた朝、食料をたずさえた私たちは、ピアティゴルスクを出発してこの山に向かい、険路の側、つまり麓に有名な僧院のある側から岩山をよじ登り始めた。
この山を登ることは、経験のある人々の間で大変に難しい事とされていたし、実際に生易しいものではなかった。しかし多くの旅で中央アジアの山々を一緒に登り降りした私たち二人にとっては、いわば児戯に等しかった。ともあれ、私たちは単調な都会生活の後のこの登攀(とうはん)で大きな悦びを味わい、すでに私たちの本領となっていたことを満喫した。
標高はさほどではないものの、この山は周囲の田園との位置関係がよく、山頂に立った私たちの目前には、実に稀有な美の大景観が広がった。
遙か南には、コーカサスの大連山を両袖に従える荘厳なエルブールズの雪嶺がそびえている。眼下には、ミネラル・ウォーターズのほぼ全域にわたる無数の居留地、町、村が小さく散らばり、北に向かうと、すぐ足もとにゼレズノヴォドスクの町のあちこちが見渡せる。
あたり一帯を静寂が支配している。山には他に誰もおらず、誰ひとりやって来る気づかいもなかった。というのも、山の北側から頂上を目ざす一般の楽なコースは、何マイルにもわたって掌中にあるかのようにくっきりと視野にはいり、そこには誰も見えなかったからである。私たちのやって来た南壁はといえば、あえてよじ登ろうとする者もまれなのだ。
山頂にはビールやお茶を売るらしい小屋があったが、その日は人影がなかった。
私たちは岩の上に腰をおろし、弁当を広げた。食べながら、二人とも景色の雄大さに打たれ、静かにそれぞれのもの思いにふけっていた。
そのうちふとスクリドロフ教授の顔に目をやると、彼は涙を流している。
「どうしたんですか、教授?」と私は尋ねた。
「何でもないんだ。」彼はこう答えると、涙をぬぐって言葉を続けた。「どうしたものか、この2、3年、潜在意識や本能の自然な発現を抑える力がなくなって、まるでヒステリー女みたいになってしまった。
たったいま起こったことは、この2、3年、何度も起こっている。われらが造物主の創造によって生まれたことに疑う余地のない荘厳なものを見たり聞いたりすると、私の中で説明し難いことが起こるのだ。そのたびに、目からひとりでに涙がこぼれる。私が泣くのは、つまりそれが私の中で泣くのは、悲しみからではなく、そうだ、いわば慈愛から来るのだ。君も覚えているあのカフィリスタン行で、ジョヴァンニ神父に会ってからだんだんとこうなったのだが、私の世俗的部分にとっては災難だったことになる。
あの出会い以来、私の内的、外的世界の全体が一変してしまった。一生の間に私の中に根づいた定まったものの見方に、価値の転換が起こったのだ。
あの出会い以前の私は、自分の個人的な興味や楽しみ、あるいは子供たちの興味や楽しみにまったく注意を奪われていた。四六時中、いかにして自分の要求と子供たちの要求を満たすかということで頭がいっぱいだったのだ。
それまで、私の全存在は利己主義に取り憑かれていたと言ってもいいだろう。私のすることなすことは、すべて虚栄心から出ていた。ところが、ジョヴァンニ神父との出会いが、それをことごとく抹殺してしまったのだ。以後、私の中で次第に、揺るぎない確信で全身全霊を満たすあの〈何か〉が湧き上がってきた。人生の虚栄以外に、多少なりともものを考える人間ならば誰でも目標にし理想としているに違いない、〈何か別のもの〉が存在するという確信。そして、通常の人生では、いつ何ごとにつけてもそれでいっぱいになっている架空の〈所有物〉ではなく、人間を真に幸福にし、人間に本物の価値を賦与してくれるのは、この〈何か別のもの〉にほかならないという確信だ。」

スクリドロフ教授の最期について
G:人生において責任を果たせるようになった時期の最初から、私にはもう一人の心底の友がいた。私よりずっと年長の考古学者スクリドロフである。彼はのちにロシアにおける精神の大激動の最中、何の形跡も残さず消えてしまった。
おそらく、ロシア革命の際に巻き込まれてしまったのだと思います。