グルジェフと共に、を読んで
ド・ハートマン夫妻共著

ド・ハートマン夫妻の残した言葉は、特に音楽や芸術に関わる人々、感情や心理面に重きを持つ人々、グルジェフの言う「人間第二番」(感情センターが重心の人間)の人々に深い感銘を与えてくれると思います。
ウスペンスキー氏は「人間第三番」(知能センターが重心の人間)、ノット氏は「人間第一番」(身体センターが重心の人間)に強い傾向があると思うので、それぞれ感じ方の強弱はあると思いますが、私は「人間第二番」に傾向があるので、特に感銘を受けました。
音楽家から近衛将校を経て、その後グルジェフと会い、古来より伝わる音楽に触れ、「音楽」の本当の目的を理解しようと奮闘する物語は、音楽を含む芸術を追究する方々にも感銘を与えてくれると思います。
特にグルジェフという大半の人間にとって不可解な人物に興味が無くても、トーマス・ド・ハートマンという「一人の注目すべき音楽家が、音楽を追究した、一つの生涯の物語」として読んでも興味深いと思います。
機会があれば、トーマスとグルジェフが残した音楽に触れてみてほしいと思います。


改訂版出版にあたっての序文
トーマス・ド・ハートマンとその妻オルガ・ド・ハートマンは、G・I・グルジェフの教えを伝える主要人物である。夫妻がグルジェフに出会ったのは、ペテルスブルグだった。以来、1918年にグルジェフが初めて「人間の調和的発展研究所」を開いたティフリスへと、師と行動を共にし、さらにコンスタンチノープル、ベルリンを経て、研究所が本格的に開設されたパリ郊外、フォンテーヌブロー・アヴォンのプリオーレヘと従った。夫妻は、1922年から1929年までプリオーレに居住し、グルジェフと共にかなり集中的な仕事を続けた。
この時代にトーマス・ド・ハートマンは、今日「グルジェフ/ド・ハートマン・ミュージック」として知られる音楽をグルジェフと合作する仕事を与えられた。グルジェフの音楽は、人間に可能な高次の感情を目覚めさせる手段として用いられ、彼の教えの重要な部分を占めている。したがってこの仕事は、ド・ハートマン自身の内的発展を助けるための目的も兼ねていた。妻のオルガ・ド・ハートマンは、グルジェフの秘書兼補佐となり、研究所という大世帯を切り盛りしたり、交渉ごとを任されたり、商談の通訳などの仕事を与えられたりした。
きつい肉体労働、グルジェフの著書の朗読や彼の講義、さらに内面の訓練や「宗教体操」のぎっしり詰まった日々が続いた7年間に、ド・ハートマンは300曲にのぼるグルジェフの音楽を完成させた。これらの曲はグルジェフ自身の創作した曲と、真理探求にかけた青年時代に彼が各地で聞いた音楽を素材とする曲とで構成されている。驚異的な記憶の宝庫を紐解きながら彼が断片的に口ずさんで聞かせた数々の旋律を、ド・ハートマンがその場で譜に書き取り、発展させ、和声をつけた。こうして完成された曲の多くは、宗教舞踏のための音楽である。その他の曲は、遍歴中のグルジェフが各地の寺院で聞いた古代の聖歌である。膨大な数にのぼるグルジェフの音楽は極めて多様性に富み、中には軽い風刺的な旋律のものも見られる。しかも完成された300曲のほかに、ド・ハートマンがプリオーレ時代に書き残したノートブックには、その他の断片的なメロディーや、未完成のままの小品がたくさん残されている。
こうした類例のない多数の作品が、前述したように「グルジェフ/ド・ハートマン・ミュージック」と呼ばれるコレクションにまとめられたのである。コレクションの大部分が、広く一般に入手可能となる日も間近い。トーマス・ド・ハートマン自身の演奏する4枚入りレコードアルバムが間もなくECMから発売される予定である。レコードとは別に、出版を想定しての楽譜の編集も進められている。グルジェフとの合作の様子や、合作の意味を述べたド・ハートマンの手記が増補されたこの楽譜集は、「グルジェフ/ド・ハートマン・ミュージック」の楽譜集決定版となるにちがいない。ド・ハートマン自身はグルジェフの音楽を、「覚醒の音楽」、人の内面の存在を宇宙的睡眠から目覚めさせ、高次なるものへ誘う音楽と呼んでいる。

1956年にド・ハートマンが死去したとき、『グルジェフと共に』はほとんど完成していた。その草稿にオルガ・ド・ハートマンが結語を加えただけで、草稿のままの内容による初版が1964年に出版され、その後1972年にペンギン・ブックスから再版された。
夫の死後も、オルガ・ド・ハートマンは少数の生徒たちと仕事を続けた。1979年に96歳で死去したとき、夫人自身が綴った回想録が書きかけのまま残された。手記のかなりの部分が、1917年から1929年までのグルジェフと共にした12年間について、新しい資料を提供していた。グルジェフの生涯と仕事をありのまま伝える話は、どれもみな例外なく、彼の教えを理解しようとする人たちの誰かを感銘させずにはおかない、と信じていたオルガ・ド・ハートマンは、手記が出版され、できるだけ大勢の人々に読まれることを切望していた。
回想録の内容が、すでに出版されていたトーマス・ド・ハートマンのそれとしばしば重複し、また、夫の手記から直接引用している部分もかなりあるので、夫人の手記を単独に出版することは不可能だった。しかしながら、トーマス・ド・ハートマン自身の回想録が絶版になっていたため、その原文に夫人の手記から新たに得られた資料を加え、2つの手記を組み合わせた増補改訂版を出すのに絶好の機会となったのである。
本改訂版では、トーマス・ド・ハートマンの綴った部分にはローマ字体を用い、オルガ・ド・ハートマンの部分にはイタリック体を用いた。
(このサイト上では異なる)
新しく得られた資料は、年代的に妥当な箇所に挿入し、旧資料と統合させた。このため、重複を避けたり、新旧のつなぎが自然になるように、編集上の考慮が若干必要だった。オルガ・ド・ハルトマンの希望に従い、人名はイニシャルだけでなく、わかっているかぎりフル・ネームを用いた。夫人の記述がトーマス・ド・ハートマンの記述とほとんど同一の場合には、原版の描写に精彩を加える語句を夫人の記述から採り入れた。もともと原版自体が、トーマスとオルガ・ド・ハートマンのジョイント・ディスカッションによる結果でき上がったものであったから、改訂版に加えられた編集上の考慮は、原版の意図に完全に沿うものと信じている。
本改訂版で夫妻の声が共により高らかに響けば幸いである。
トーマス・デイリー
1985年 モントリオール

グルジェフについて

ゲオルギー・イワノヴィッチ・グルジェフという名の謎めいた驚くべき人物が、初めモスクワに、のちペテルスブルグにその姿を現したのは1913年のことである。
この人物の過去については、ウラジミール・ポールが語っていること以外に何も知られていない。彼がモスクワでグルジェフに会ったのは、彫刻家のメルクロフの紹介によるものだった。メルクロフの家族は、コーカサス地方のアレクサンドロポールにあるグルジェフの両親の家の隣りに住んでいた。
P・D・ウスペンスキーが1915年にグルジェフに会ったときも、メルクロフを介していた。この出会いの結果、ウスペンスキーはインドへ戻るという計画を捨て、彼が探求していた「奇蹟」を、グルジェフから見いだそうという希望を抱いたのである。『奇蹟を求めて』においてウスペンスキーは、1915年から1920年にかけてのグルジェフの仕事の内容を、不完全ではあるが、克明に伝えている。この期間に帝政ロシアは崩壊した。
本書は、トーマス・ド・ハートマン(若年にもかかわらず、作曲家として一家をなし、すでに著名人の一人に数えられていた)が綴る、1917年から1929年までの、グルジェフと共にした・ド・ハートマンの生涯に関する詳細な記録である。
1917年、革命のためペトログラードで生活ができなくなると、少数ではあったが、グルジェフの仕事に共鳴した人たちが、彼に従ってコーカサス地方のエッセントゥキヘ向かった。この人たちの中に、P・D・ウスペンスキー、トーマス・ド・ハートマン、その妻たちがいた。グルジェフが1918年に初めて「人間の調和的発展研究所」を築いたのは、エッセントゥキだった。しかしこの内戦により、北コーカサス地方の生活も間もなく不可能になった。そこでグルジェフは、コーカサス山脈を越え、最終的にはグルジアの首都、ティフリスに到達するという危険な脱出計画を断行したのである。1919年のこの遠征団に参加した12人のうちたった5人が、その後も多年にわたりグルジェフと行動を共にした。5人の中にトーマス・ド・ハートマンとその妻がいた。
ティフリスでは、アレクサンドル・ド・サルツマン夫妻などの新しい人々がグルジェフのもとに集まったが、政情はグルジェフを再び移動させたのである。コンスタンチノープル(イスタンブール)とベルリンにそれぞれ約一年間ずつ滞在したのち、1922年7月14日に、グルジェフとその一行は最終的にパリに到着した。
グルジェフは、フォンテーヌブロー・アヴォンのプリオーレの屋敷を購入し、そこで初めて彼の研究所を本格的な規模で設立することになったのである。
1923年12月に、彼の教えの一側面を紹介する「宗教体操」と「音楽」が、生徒たちによりシャンゼリゼ劇場で公演され、翌1924年にはニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴでも公演された。
初の米国公演から戻ると、グルジェフは致命的な自動車事故で負傷し、回復するまでにかなりの期間を要した。この時期に、グルジェフは著述に着手し、1929年までに『ベルゼバブの孫への物語』と、「注目すべき人々との出会い」の草稿を完成させた。
グルジェフはいつも数人の生徒を連れてヨーロッパ各地を旅行したが、こうした旅行はたんなるレジャー旅行ではなく、生徒たちに特別な経験をさせる機会を与えることが目的だった。
この時期に至ると、研究所の共同生活を維持するのは困難をきわめ、人々は数人ずつプリオーレを去り、残ったのは最も献身的な少数の生徒だけだった。
グルジェフの教えは、
生徒が一定の段階に達したら実社会へ帰す、という原則に従っていた。だが、彼のもとを去ることをすべての生徒が望んだわけではなかったので、そういう生徒たちに対してグルジェフは、立ち去らざるをえない容赦ない状況を、あえてつくり出さなければならなかったのである。
1933年、グルジェフは生徒を一人残らず追いやり、プリオーレを売却し、自分自身はパリのアパートに落ち着いた。時が経つにつれ多数の新しい生徒が彼の周囲に集まり、何人かの元の生徒がリーダーとなって新しいグループが組織された。
グルジェフは数回にわたりニューヨークを訪れている。最後の訪米は第二次大戦後だったが、P・D・ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』の出版に同意し、同時に自著『ベルゼバブの孫への物語』を出版することに決めたのはこのときである。
グルジェフは、1949年10月29日に死去し、プリオーレに近いアヴォンに埋葬された。

トーマス・ド・ハートマンについて

「……芸術の種子が根付く土壌はわれわれの内面の世界であるということを、私はずっと前から知っていた。生の神秘が隠され、創造が可能となりうるこの種子がなければ……いかなる芸術も、いかなる音楽も存在しない。」
トーマス・ド・ハートマン(1885年―1956年)

トーマス・ド・ハートマンが1917年にグルジェフに出会ったとき、作曲家としての彼は、ペテルスブルグで名声を高めていた。パブロバ、フォーキン、ニジンスキーらが出演し、1917年にインペリアル・オペラ劇場で、ロシア皇帝を迎えて御前上演された四幕もの「ピンク・フラワー」は、ド・ハートマンの2つ目のバレー作品である。
ド・ハートマンは、ウクライナの旧家に生まれ、4歳にして音楽的才能を見せ、即興演奏で自己表現することを好んだ。幼少時から、お伽話に心をとらえられた。
4歳のとき父親と死別し、母親はド・ハートマンをペテルスブルグの陸軍幼年学校へ入れた。非凡な音楽的才能をもつこの少年は、校長から特別に目をかけられ、当時の有名な音楽教師、アントン・アレンスキーとセルゲイ・タナイエフの2人から音楽理論を、エシポワ・レシティツキーからピアノのレッスンを受けられるように、土、日は自由行動を許された。17歳でインペリアル・コンセルバトワールを卒業した。
指揮学を勉強しにミュンヘンへ行きたいと切望していたが、この願いは、ロシア皇帝の妹の宮殿で皇帝自身に謁見したとき、ついに実現した。皇帝は、音楽のために自由でありたいというド・ハートマンの願いを理解し、軍務から解放した。彼が21歳のときのことである。
ミュンヘンでド・ハートマンに最も強烈な印象を与えたのは、音楽家仲間ではなく、カンジンスキーの加わる画家のグループだった。ペテルスブルグヘ帰ると、音楽界と社交界に名を馳せ、いくつかの本格的作品を書き始めた。政府高官の娘、オルガ・アルカディエフナ・ド・シューマシャーと結婚し、新妻と共にミュンヘンへ戻った。
第一次世界大戦勃発と同時に、彼はペテルスブルグヘ呼び戻され、すぐに前線へ送られた。
彼の大叔父、エドゥアルド・フォン・ハートマンは、『無意識の哲学』の著者であり、トーマス・ド・ハートマンをグルジェフへと導いた彼の「未知なるもの」への渇望は、おそらく、この大叔父から受け継がれたものと思われる。
『グルジェフと共に』は、1917年から1929年にかけて、ド・ハートマンがグルジェフと過ごした年月の体験記である。
1929年にド・ハートマン夫妻はプリオーレを去り、パリの近郊、ガルシェに移った。
ド・ハートマンが作曲したシンフォニー、コンツェルト、その他の管弦楽は、一流指揮者のバトンで演奏され、ラジオ放送された。とはいえ、ロシア革命で全財産を失ったため、仮名で映画音楽も作曲しなければならなかった。第二次大戦中は独軍に家屋を没収されたので、夫妻は持ち主のないあばら屋に住んでいたが、ピアノはあったので、ロウソクの明りのもとで作曲を続けた。ヴェルレーヌ、プルースト、ジェイムス・ジョイスに感動し、彼らの詩に作曲した。こうした作品はどれもパリとロンドンで演奏され、のちには米国とカナダでも演奏された。
ド・ハートマン夫妻は、建築家のフランク・ロイド・ライトからアリゾナのライト研究所に招聘され、人文科学の相互関係を研究するこの研究所で作曲を続けたり、研究所の生徒たちに講義したこともある。
ド・ハートマンは晩年の5年間をニューヨークで暮らした。彼の作品がコンサートで演奏されたり、また自作自演によるピアノ曲がラジオで放送されたりした。
1956年に、ニューヨーク市のタウンホールで彼の主要作品を演奏するコンサートが予定されていたが、その直前にド・ハートマンは急死した。だが、コンサートは中止されなかった。
後年、ニューヨークを始め、米国の各都市やパリで、ド・ハートマン・コンサートが何回も催された。作曲とピアノの分野で、彼に教えを受けた生徒の数は、ロシア、フランス、アメリカ、カナダにわたり、かなりの数にのぼっている。

忘れないように、あなたのために書き残そう。
トーマス・ド・ハートマン


私の最大の願いは、本書の読者が自分の生きている時代をただちに忘れ、50年以上も前の別の時代、生活環境のまったく異なった時代、場合によっては、もうまったく信じられないという時代に飛び込んでくれることだ。
1917年のロシアは、戦争と革命に引き裂かれていた。
グルジェフは不可知の人物、神秘であった。彼の教えも、彼の生まれも、また、なぜモスクワとペテルスブルグに現れたのかも、誰にもわからなかった。
だが、彼に接した人は誰でも彼について行くことを願い、夫のトーマス・ド・ハートマンと私もそう願ったのである。
オルガ・ド・ハートマン





トーマス:
ずっと前から私は、グルジェフと共に過ごした1917年から1929年までの年月について書きたいと思っていた。この期間、私は彼と時たま会っていたのではなく、日夜を彼と共に暮らしたのである。その後はもう彼に会うことはなくなったが、グルジェフが生涯私の師であったことに変わりはない。
だが、書けなかった。あまりにも個人的な記録になりはしないかと気づかったためだ。今、私が書かなければならないと考えるのは、あの時期におけるグルジェフの仕事に最初から従ってきた生存者が、私と妻を除けば皆無に等しい状態になってしまったからだ。また、彼に関することはどれも、たとえ小さなことでも測り知れない価値があり、そのためにもこの手記を残さなければならない。
私がこの手記を書く理由を理解しない人もいると思うが、それは問題ではない。私が言わねばならないことを書いておかなければ、永久に失われてしまう。
グルジェフを知らない人たちのことを考えて、できるだけ忠実に、ありのままのゲオルギー・イワノヴィッチ・グルジェフを描写しよう。
とはいえ、難題に直面してしまう。つまり、どうやってありのままのグルジェフを描写したらよいか? ということなのだ。表面に現れたグルジェフの行動は、その時どきで非常に異なる。相手が誰であるか、またその人のレベルによっても異なり、さらにグルジェフが、相手のどの側面に触れたいかということも場合によって異なったため、その都度グルジェフは豹変するように見えた。だが、そうではないのだ。彼は、いつも同じだったのである。彼がことさらつくり出した印象が異なっただけなのだ。
グルジェフは、人間の内面にある、人が今まで意識しなかった「何か」に生命をもたらすことを願った。おそらく、そうすることが彼の高次の使命であったのだ。
彼がどのようにその使命を果たしたかは、彼の仕事からのみ理解することができるが、それについてはあとで述べよう。さしあたっては、彼の用いた「神業のような演技」が、私と妻が彼に出会った1917年以来首尾一貫して、いわば衣装は異なっても、仕事の一定の線に沿っていた、ということを強調しておきたい。
であるならば、いかにして彼を描写したらよいだろうか?
これに対する唯一の解答は、ゲオルギー・イワノヴィッチ・グルジェフ自身を描写するのではなく、彼が我々と共に仕事した方法を語ることだと思う。なぜなら、彼と共にした私たち自身の経験を語ることにおいてのみ、ゲオルギー・イワノヴィッチの仕事と、さらに彼の仕事と人間の関係について、何らかの概念を伝えることが可能になるからである。それが、この手記を書く目的である。
彼と過ごした私たちの生活を回顧すると、少しずつ、彼が言ったことや行ったこと全部が心に浮かんでくる。こういう記憶を今初めて得た新しい理解に照らして、はめ絵のように一つずつ繋ぎ合わせると、彼の考えが一つずつ明確に掴め、最後には、とても大きい全体が見えてくる。
しかし
グルジェフの概念は、自己について積極的に仕事しない人たちが考えたところで、「行為の伴わない信仰は不毛である」というキリストの言葉に表された真理と変わりない。ここに言う「信仰」とは、無分別に信じることではなく、合理的な何かと理解されなければならない。また、「行為」(ワーク)という語については、普通に解釈されている「善行」というより、信仰という概念との関係において、能動的で、進化に向かう創造的な仕事という意味に解釈される。グルジェフにとっては、あらゆるものが生きていて、活動しているのだ。彼の概念は、生命から切り離せない
彼自身が生命であり、進化である。彼が彼の仕事である。さらに私は、人々と共にする彼の仕事に、具体化された彼の概念を見たのである。
こうした年月を経たあとで、初めて彼の仕事の全貌を知り、その意味を理解し始めた。同時に、我々の内面に新しい理解を芽生えさせ、生への新しいアプローチを浸透させるために、彼がいかに膨大な努力を払わなければならなかったか、ということも理解し始めたのである。
私自身の解釈が絶対に正しいかどうかは、私にはわからないし、誰にもわからない。グルジェフと同じ水準の存在の人だけが、彼の仕事を本当に理解し、完全に理解することができるのである。
ゲオルギー・イワノヴィッチはもうここにはいない。
だが、「なぜここへ来たかを想起せよ。」と言った彼の言葉を忘れないかぎり、我々人間と共にする彼の仕事は続いていく。


トーマス:
はじめに、グルジェフと出会うまでの私自身の人生について、簡単に述べることにしよう。
私は作曲家である。自分にとって音楽は新約聖書に出てくる「才能」に当たるもので、私は神から与えられたこの「才能」を発展させ、不断の努力を重ねるように運命づけられてきた。グルジェフに会うずっと前から、自分の創作活動を発展させるには何かが必要であるということをはっきり知っていた。しかしこの「何か」は、自分には説明できないより偉大なもの、あるいは、高次のものである。この「何か」を手に入れることができさえしたなら、さらに前進でき、自分の創作から何らかの本当の満足が得られ、自らを恥じずにすむであろうにと、焦燥の思いに駆られていた。
音楽は、哲学や科学より高次の啓示である。」と言ったベートーベンの言葉がしばしば心に浮かんだ。また、作曲中に必ず思い出されたことは、ロシアのお伽話で語られる不思議な言葉だった。
「行き先を知らずに行け、何であるかを知らずに持ち帰れ、道は長い、行く手は未知である、一人では到達できない、高次の力の導きと、助けを求めなければならない……。」
私の生涯は探求の連続にほかならなかった。
探求初期の数年間については、多くの「道」に接し、稀にしか遭遇できない人々にも出会ったが、どれ一つとして、また誰一人として私の捜し求めていたものではなかった、と言うにとどめよう。だが、こういう一人にアンドレイ・アンドレヴィッチ・ザハロフという人がいて、彼との出会いが、グルジェフとの邂逅(かいこう)へ導いたのである。
ザハロフは高度の教養を身につけたこの上なく気持ちのよい人で、私と妻の大親友になった。数学者だったが、私たちが話したことといえば、共に最大の関心を寄せている探求の話に決まっていた。
時代は、第一次大戦中の1916年に遡る。ロシア近衛連隊予備役将校として、私が常駐していたツァースコイ・セロに、ザハロフが訪ねてきた。その年の秋に、「真の指導者に出会った。」とうち明けてくれたものの、その人の名も、出会った経緯も明かしてはくれなかった。
ある日、ザハロフを駅へ見送る途中で、我々の求めるものへ解答を与えるかもしれないというその教えについて彼が語り始めたのである。
「要するに」とザハロフは続けた。「普通の水準の人間は、破壊することのできない不滅の魂をもっていないが、自己についてある仕事をすれば、不滅の魂をつくることができる。そうなると、この新しく形成された精神体は、肉体の法則に従属せず、肉体の死後も存在し続けるんだ。」と語ってから、かなり間をおいて、こうつけ加えた。「だが、驚かないでくれ。つまり、一般に高次の知識は無償で与えられるものと考えられているが、この話の場合は、仮に君と奥さんがこの仕事に加わるとすれば、一定の金額を払わなければならないんだ。」彼はその金額をあげた。確かに大きな額(1,000ドル)だったが、当時の私たちには支払える金額だった。
過去において私は、何度となくこういう話に幻滅していた。妻は彼の言うことをまじめに聞いてはいなかったので、私はザハロフとだけ話し始めた。彼の出会った指導者について妻は何も知らなかったので、私自身がその人物に会うまでは内緒にしておくことに決め、ザハロフに、いつその人に紹介してもらえるのか?と何回か聞いてみたが、その都度、「約束したじゃないか、時が来れば教えるよ。」という手応えのない返事をするだけだった。
12月の中旬にザハロフから、もしまだ「例の人物」に会いたいと思っているのなら、次の日曜の夕方、18時から19時のあいだにレストラン・パルキンヘ来ているようにと知らせてきた。指定されたレストランは、ペテルスブルグの目抜き通り、ネフスキー街の角にあるとても大きなレストランだったが、近衛将校ともあろうものが行くような場所ではなかった。ザハロフがレストラン・パルキンヘ私を迎えに来て、グルジェフに引き合わせるという。
私は出掛けていった。やっとザハロフが現れ、連れ立って、同じネフスキー街にあるニコライエフスキー・ヴォクサル駅へ向かった。ザハロフは、ある家の前で急に立ち止まり、カフェのある2階へ私を案内した。ごく控えめに言っても、案内されたその店は、日夜ネフスキー街を徘徊する種々雑多な群衆が集まるカフェだった。そこへ行ったのを誰かに見つけられでもしたならば、私は連隊から除名されたに違いない。
2人して中に入りコーヒーを注文し、待った。
しばらくすると、社交の席で前に会ったことのあるシャンボール医師と、黒い外套(がいとう)を着た2人の男が、こちらの方に歩いてくるのが見えた。2人とも目も口髭も黒々とした典型的なコーカサス人だ。非常に良い身なりをしているが、どちらもコーカサス人丸出しである……私は、どちらが例の人物かな? と考えた。実を言うと、彼らから受けた第一印象は、エクスタシーとか崇拝とかいうものではなかったのである。
3人がこちらへ来て、みなそれぞれ握手を交わした。どちらが彼であろうか? だがこんな疑問は一方の男の目でたちまち解消した。「その目」の男がテーブルの正面に座り、彼の右側にシャンボール医師ともう一人の男、左側に私とザハロフが座った。一瞬、座は静まりかえった。あまり清潔でない取り外しカフスに目を向けざるをえなかったが、すぐそのあとで、話さなければならない、と思った。ありったけの勇気を奮い起こし、思いきって、彼の仕事に入れてもらいたいという気持ちを述べた。
グルジェフはその理由を尋ね、人生に不満を抱いているのだろうか、それとも他に特別な理由があるのだろうか? と言った。私は、何不自由のない身分であり、幸せな結婚をしており、働かずに暮らせるだけの金があり、その上音楽があり、音楽が私の人生の中心であると答えた。しかし、これだけでは満足できないということをつけ加え、「内面の成長なしには、自分にとって人生はないに等しく、妻も私も発展の道を捜し求めているのです。」と言葉を結んだ。
こう言い終えた私は、グルジェフの目の例えようもない深さと鋭さに気がついた。「美しい」という言葉で表現できるものではなく、それまであのような目に接したこともなければ、あのような眼差しを感じたこともなかったとしか形容するほかはない。
話を聞き終えたグルジェフは、その問題は後日に譲ると答え、シャンボール医師に、「さしあたって、今までみなに話してきたことを全部ウスペンスキーから聞かせなさい。『真理を垣間見る』も読ませなさい。」と言った。
かなりの決断力を要したが、彼の仕事のための資金を調達することが許されるであろうか?ということを聞いてみた。「時期が来れば、持っているものを全部出すように言われたとしても、あなたは喜んでそうするであろう。さしあたり、今のところは何も要らない。」とグルジェフは答えた。
これで話が終わり、ザハロフとその場を去った。
しばらくのあいだ、口がきけなかった。受けた強烈な印象とグルジェフの目について話せるようになったのは、リティナイア通りに着いてからだった。「そうなんだ」とザハロフはうなずき、「わかるよ、あのような目は二度と見ることはあるまい。」と答えたのである。
以上がグルジェフとの邂逅のあらましであるが、これについて別のこと、つまり、この出会いは明らかにグルジェフ自身がお膳立てしたのだということについて触れておきたい。レストラン・パルキンに始まり、カフェへ行き、そこで、「いつもここには、もっと売春婦がいるんだが」とグルジェフが口走ったことなど、私の嫌う状況を設定したのは彼だったのである。こうした下劣な言行や、その他あらゆることが、新来者を惹きつけるのではなく、追い払うためか、追いやらないまでも、少なくとも障害を克服させ、どんなことがあっても目的を忘れさせないように意図されたことだったのだ。
この出会い以後、私の人生はまるでお伽の国の物語のように発展していった。私は小さいときからお伽話が大好きで、話の意味が心に焼きついていた。前進すること、本来の目的をけっして忘れないこと、障害を克服すること、願いが真実にかなっているなら、未知の筋から助けが得られること。さらに、一つの大目的に努力を傾ければ、思いもしなかったものまで余分に勝ち取りさえすること。だが、逸脱したり、卑劣なものに誘惑されたりすれば、災いあれ、というのがお伽話の教えである。
グルジェフと出会って以来、彼と共にありたいという願いが、私にとっての唯一の現実となった。それまで現実であった普通の生活は続くには続いたが、架空のように思われてきた。そこで、私は第一歩を踏み出したのである。
まずウスペンスキーを捜さねばならなかった。彼はネフスキー街からほど遠くない、トロイツカヤ通りに住んでいた。ベルを鳴らすと、鼻眼鏡の男がドアを開けた。
その人がウスペンスキーだった。軍隊に動員されたが、近視のために軍務を免除されていた。軍服を着る必要のなくなる日も間近であろう。
一度会っただけでも強く印象に残る人で、飾り気なく、礼儀正しく、近づきやすく、とりわけ、聡明な人物という印象を受けた。会うとすぐ、のちに彼の著書となった『奇蹟を求めて』に記録された事柄について語り始めた。驚くべき簡潔さと明快な方法で、グルジェフの教えの一側面である世界、惑星、宇宙などの複雑な体系について、誰にでも、相手が真剣な関心をもっているかぎり、消化吸収できるように説明してくれた。
話し終えると、「ある人」とグルジェフとの最初の出会いについて生徒の一人が書き取ったというタイプ原稿をくれたが、これが『真理を垣間見る』のストーリーだった。
ツァースコイ・セロに帰ると同時に、妻にこの原稿を読むように渡した。読み終えると、「こういう人にお会いしたいわ!」と妻は感嘆して言った。自分は既にその人に会っていると、、、やれやれ、妻は本当に怒ったのである。私たちはこれまでにかなり多くの人たちに会ってきたが、どの人も期待はずれではなかったか。それで、今回は失望させたくなかったのでまず私自身で確かめることにしたのだと説明してやった。
この指導者に会いたいという妻の気持ちが他のいかなる感情より強烈であったのは言うまでもなく、グルジェフがペテルスブルグに戻り、2人して一緒に会いに行けるかもしれない日を、私たちは辛抱強く待ち望んだ。だが2月の初めになってもグルジェフはモスクワから戻らず、一方、私はその月末には前線へ立つ予定だった。革命がじわじわと広がっていたことは疑いの余地なく、市内の知人たちはみな平常どおり暮らしていたが、郊外では小規模な暴動が散発していた。
待ちに待ったグルジェフが到着した。私たちは、ウスペンスキー夫妻のアパートで開かれるミーティングに来るように言われた。このミーティングには、わりに少数の人々しか出席していなかった。みなソファの前に並べられた椅子に席を取り、ソファにはあとでグルジェフが座った。この人たちは既に、現在では『奇蹟を求めて』に記録されているグルジェフの概念に通じていた。この宵のミーティングは講義ではなく、話も大してなかったが、妻も私も、内面を探求する強烈な雰囲気に心を打たれた。静寂の中に時おり短い質問が発せられる。当時流行したオカルトに興味をもった人たちの、なまぬるいムードではない。内面の問題に解答を見つけること、実在への道を見いだすこと、自己について積極的な仕事をすることが、真に人生の中心となっている人たちだった。このミーティングから妻がどんな印象を受けたかについては、妻自身に語らせよう。

オルガ:
1917年2月に、私たちが皇帝の公邸であるツァースコイ・セロに住んでいましたのは、夫が予備役将校として連隊に呼び戻され、同月末に前線へ立つことになっていたためです。寒い冬の日でした。2人とも書斎でそれぞれの仕事をしていましたところ、夫からタイプ原稿を見せられ、読みたくはないか? と聞かれました。原稿を受け取り、すぐ読み始めましたが、自分自身以外には誰もその人に伝授することはできない、という語句に接したので私は本を置き、「こういうことを語った人を見つけることができたなら、喜んでその人の教えについていきますわ。」と言いますと、夫は、その人を見つけただけでなく、会ってもいたと答えたではありませんか! 私は夫の幸運を喜ぶどころか逆に憤慨し、黙っていたことを責め立てました。夫と口論したのはこれが初めてでした……。
でも、この人物についてさらに知りたいという気持ちから怒りもおさまり、落ち着きますと、その人が間もなくモスクワから戻れば、夫と一緒に会いに行けるのだということがわかったのです。
とうとうその日が参りました。ミーティングは宵の8時半に、私がまだお会いしたことのないウスペンスキー夫妻のアパートで開かれることになっていました。その日はちょうど妹の誕生日で、妹のための舞踏会が実家で開かれ、もちろん夫婦で出席しなければなりませんでした。ですから、その宵はずっと舞踏会用のドレスを着たまま、その上に毛皮のコートを羽織っていました。初めて出席するミーティングだったので、私たちはグループから少し離れて座りました。部屋はたいして大きくありませんでした。トルコ式ソファを前にして、15人ばかりの人が椅子にかけているだけで、お会いしたいと待ち望んでいた方は、部屋にはいらっしゃいませんでした。何もかも奇妙に見えたほか、集まった人たちが誠実で簡潔な話し方をするのに心を打たれました。グループのリーダーと思われる医者のシャンボール先生が、この前の質問にどう答えることができるだろうか?とみなに問いかけました。
その質問というのは、自己発展を妨げる最大の障害は何か?という内容でした。何人かが回答しました。お金である、という人もあれば、名声という人もあり、また別の人は愛であると言いました。
まったく突然、黒豹のように、東洋的風貌の、私がかつて一度も見たこともないような男性が入ってきました。彼はソファの上に東洋風に脚を組んで座りました。何について話しているのかと尋ねる彼に、シャンボール先生が質問と回答について報告し、愛の問題を挙げたのですが、先生が話し終える前に、グルジェフが「そうだ。愛が人間の発展にとって最大の障害である、ということは真実だ。」と言いました。
その瞬間に私は、また同じだわ、やっぱり別々にならなければいけないんだわ、自己発展と夫婦が一緒に暮らすということは不可能な考えなんだわ、という思いにとらわれ、完全に動揺しました。
でも、グルジェフはこう続けたのです。「
しかし、どういう種類の愛であろうか? 異なる種類の愛がある。自己本位の愛や手前勝手な愛、また一時的な魅惑は妨害となる。そういう愛は人を束縛し、自由を奪う。それぞれが相手を助けることを願う真の愛は別である。夫婦が2人とも私の教えに関心をもてればそれに越したことはない。2人が互いに助け合うことができるからだ。」
私はうつむいたままでしたが、グルジェフがこちらを見ているということがはっきり感じられ、特に私に対してあのように言ったのだと、今では確信しています。そしてとても不思議な状態に引き入れられ、言いようもない幸福感に満たされました。私たちは舞踏会へ行くためにおいとましなければなりませんでした。実家の舞踏場に入ると、もうみな踊りの最中でした。急に、何かが私の胸を叩いたような感じが確かにしました。そして、
踊っている人たちが操り人形のように見えてきたのです

次にお会いしたときは、グルジェフだけと話をする機会が得られました。彼から期待するものは何か?という質問が出されると言われていたので、個人面接に行きたいという気持ちはあまりなく、ためらっていましたが、結局行くことに決めました。こちらが何も言い出さないうちにグルジェフから、この前ミーティングから帰宅した時どのように感じたか? と聞かれました。あの経験をどのように言い表したらよいかわかりませんでしたが、舞踏場へ入ったときの、不思議な感じについて話しました。彼は、それは本当である、あるいは、それを聞いて嬉しいとか言いましたが、要するに彼が満足したこと、そして、会いたければ、彼がペテルスブルグに来たときは、いつでも夫婦で会いに来なさいと言ってくれたことだけしかよく覚えていません。夫が前線へ立たねばならないので、この土地にはもう長くはいないということや、許されるかぎりどこまでも夫について行きたいということを話しました。前線へ行くことは避けられないものだろうか?ということも聞いてみました。「避けられませんよ」とグルジェフは答え、「狼の中で暮らすときは、狼のように吠えなければならない。だが、戦争という精神病に支配されてはいけない。内面では、こういう外的な問題から、遠く隔たっているようにしなさい。」と言われました。
「大体のところ、来たいと思っているのですか? 何を期待しているのですか?」彼から聞かれたことは、これだけでした。私は、答えられない、と言いました。笑われるでしょうから、と。すると、子供に話しかけるような驚くほど優しい声で、「言いなさい。笑いはしませんよ。たぶん、助けることができるでしょう」と続けたのです。それで私は、「たった一つの願いは、夫と一緒にいる幸せをスポイル(意味:損なわれる)されたくないということなのです。」と答えました。グルジェフは笑わずに、「あなたは7部屋あるアパートを持っているかもしれません。だが、あなたのご主人をここへ惹きつける問題にあなたも関心をもったならば、107部屋あるアパートが持てます。たぶん今より幸せになるでしょう。」と言いました。私は、夫との幸せがスポイルされない。私の視野がずっと広がるだけだということを直ちに理解しました。部屋の隅に梯子がありました。グルジェフは梯子を指して言いました。
「一段ずつ登り始めれば、一番上まで来ます。そうすれば落ちることはありません。あなたの発展も同じです。一段ずつ進まなければならない。直ちに梯子のてっぺんに到達できると空想してはいけません。」

次の機会にグルジェフと話したときは、前ほど彼を恐れずに話せました。
「梯子についてずいぶん考えました。でも私には、てっぺんに登るだけの力もなければ、登りたいという気持ちもありません。それで、あなたや夫がどれほど梯子のてっぺんへ登りたいと思っているか、自分にはよく理解できますから、私は後押しをして、2人をお助けした方がよいのだと決めました。」
グルジェフはこのように語った私に少しも怒らず、次のように答えただけでした。
「あなたが利己主義者でないのでたいへん嬉しい。自分自身のことより私たちのことを思ってくれている。だが、2段から3段、3段から4段へと後押ししてくれることはできても、あなた自身は私たちのいるところから遠ざかってしまう。だから、私たちを高く押し上げるには、あなたも1段か2段登らなければならないんですよ。」
このエピソードを思い出し、グルジェフがいかに賢明だったかに思い当たります。本を読みなさいとか、努力しなさいとか、他の人たちに与えた訓練をしなさいとか言われたなら、私は何もしなかったでしょうし、たとえやったとしても本気ではしなかったにちがいありません。彼はそんなことは言わずに、私が下に残ったまま夫が上に登っていけば、夫のあとを追うことも、一緒になることも、理解することもできなくなるという状態を絵に描いたように見せたのです。私は恐怖を感じました。だからその場でありったけの力を出し、ありったけの理解力を集めて、グルジェフに言われたことに従おうと努力したのです。

トーマス:
私自身の話を続けよう。妻と共にキエフへ発つ数日前、もう一度ペテルスブルグでグルジェフに会った。キエフへ出発するのは、そこから前線へ向かう為だった(私たちが乗った列車は皇帝在位中最後のペテルスブルグ発の列車となった。変転する事態を知らぬまま、私たちはキエフに5日間滞在した。その間に皇帝が退位し、臨時政権ができたことを知った)。
グルジェフと別れる前に、兵役について助言を求めた。「あなたは将校であり、前線へ行かなければならない。だが、戦争の狂気にとらわれることがあってはならない。自分自身を想起しなさい……自己想起を忘れてはいけない。この数日中に本格的な革命が勃発し、すべてが終わる。軍事的観点に立つと、前線に留まることは無意味である。そうなったらさっさと立ち去り、私のいるところへ来なさい。」しばらく間を置いてから、同席していたシャンボール医師の方を向き、グルジェフが言った。「彼を巻き込まなければならない。巻き込みなさい、先生!」それからまた私に話しかけた。
「自己を想起しなさい。自己想起を忘れてはいけない。」
自己想起はグルジェフの教えの中核概念である。「巻き込む」について説明するならば、もう一つの概念、すなわち、
彼の教えに信仰は不要だという概念につながる表現と言えよう。実のところ、信仰とはまったく反対のことが要求されるのである。師は絶えず生徒を指導し観察しているが、同時に進路を変え、方向転換し、明らかに矛盾する行動をとって生徒を挑発し、生徒が自分自身で真実を突き止めざるをえないように仕向ける。生徒が自己の内部に、試練に耐えるという強烈な衝動をもち、いかなる障害にも挫折しない熱烈な願望をもてば、初めて自分自身で真実を見いだすことができるのだ


トーマス:
(中略)
グルジェフがペルシアへ行くという奇異な状況を設定した理由は、克服すべきあらゆる種類の心理的、肉体的困難を設けて、生徒たちに障害という梯子を一段ずつ登らせ、我々自身の内にある最初の小さいド、つまり自己発展という音階のドに到達するように指導することにあった。
この最初の音階は、グルジェフがあれほどしばしば口にした「いくつもある音階の中の音階」である。音階を文字どおりの音階として捜すかぎり、その音階は見つからない。一個人の現世における生涯は、おそらく一つの完全な音階を構成するものではなく、一つの音階の一部分にすぎないのかもしれない。しかもその一部分は、通過しなければならないミ-ファの半音を伴う非常に多くの小さな音階から成立していると言えよう。
そこで、最初の小さな音階が完結し、私たちのグループは別の音階に達したわけだが、その新しい音階については、次章で述べることにしよう。
この最初の遠征は、一年後のもう一つの遠征のちょっとした先だめしにすぎなかったのである。


トーマス:
アウチ・ダリで木の扉を開けると、楽園のような光景にうたれたが、そこで楽しむ暇もなく、新しい仕事の旋風に投げ込まれた。
与えられた部屋に荷物を収めると、私とザハロフは物置小屋を片付けるように言われた。物置小屋は2つあり、一つは馬屋で、もう一つはまぐさを貯蔵する小屋だった。言われた仕事は小屋のロフトヘまぐさを投げ入れる作業だったが、まぐさによる手足の傷が気にならないほど集中し、猛烈な速度で作業を進めた。日没前にまぐさを全部ロフトヘ移し終えた。母家へ戻る途中、みごとなハンガリー原産のスモモの木が目に止まった。ハンガリアン・プラムはとても甘く、実のなかの種は簡単に抜き取れる。数日前にグルジェフから果実についての注意を与えられ、プラムは避け、ナシを食べるようにと聞かされていた。近所にチフスが流行していたので、市場で売っている果物について注意したのだとばかり思い込み、木から落ちる熟した果実なら安全だと思っていた。
翌日、グルジェフと一緒に10マイルほど歩いて鶏を買いに出かけたが、籠がなかったために、鶏を手に掴んで持ち帰らなければならなかった。これもまた絶えず注意を集中していなければならないひどい仕事だった。逃げ出そうとして引っきりなしにもがいているやつもあれば、実際に逃げてしまう鶏もいた。そうなると、追いかけて捕らえなければならない。鶏の脚を握っていた手は間もなく鶏糞だらけになった。実に気味悪く感じただけでなく、全身から急に力が抜けていくようだった。家に帰ると、グルジェフは自分の手で鶏を絞め、下ごしらえをした。いつでも機会さえあれば彼のそばにいたいと思っていた私は、かたわらに立ち、手助けできるように待機していた。
夜中にひどく気分が悪くなり、割れるような頭痛と下痢に苦しんだが、グルジェフに言われたように、病気を気にせず次の日もいつものように仕事した。かなり経って病気から回復したときグルジェフから言われたのだが、仕事を続けていたからこそ重病を克服する一種の力を貯えることができたのだという。その日彼と一緒にソチヘ果実を買い出しに行き、2人して昼食はソチですませた。
帰り道になると、とても起き上がっていられないほど具合が悪くなった。どうしたのか?と尋ねるグルジェフに、私は体の具合を説明してから、心のなかで自分自身を彼に結びつけようとした。すると彼は、「そうだ、トーマ、そうだ」と言ったのである。
その夜は一睡もできず、翌日になると高熱で頭が焼けるように熱くなり、妻は、近くに家を見つけて私を隔離しなければならないという事態が発生したことに気がついた。あれほどの病状では、大きな寝台がたった一つあるだけで、ほかには何一つ病身に必要なもののない部屋に臥(ふ)せ続けるということは論外だったし、家が見つかれば、まだトゥアプシにいた女中のマフォーシャを呼ぶこともできた。
幸運にも妻は空き家を見つけてきた。有名な医学者ボトキン教授の別荘であるという家は、通りの向こう側に、バラの花のなかに埋もれたように建っていた。小ぢんまりと洒落た屋敷で、緑の苔に覆われた石段が海辺まで敷かれ、糸杉の並ぶ小路があった。屋敷へ移ったとき私は意識不明に近い状態だったが、咲き乱れるバラの花が記憶に残り、それ以後ひどい頭痛におそわれるたびに、楽園のようなこの美しさを思い出すようになったのである。屋敷の手入れをする管理人もいたし、間もなく女中も到着した。私は意識不明になり、このあとのことは3週間後に意識を回復したときに聞かされた妻の話から想像するほかはない。それによると、引っ越した翌朝グルジェフが来て、私の病状が悪化したことを知ると、妻にマフォーシャを連れて食料品を買いに行くようにと言い、留守中グルジェフが私に付き添っていたという。
買い出しから帰ってきてみると、グルジェフはベランダに座っていたが、その顔色たるや彼の着ていた白衣のように血の気を失っていたそうだ。心配した妻にグルジェフはこう答えたという。「眠っていますよ。頭痛はもう心配しなくてよいが、入院させなければならない。ここには何もない、体温計さえない。それに、入院させてよかったということが、今にわかりますよ。」そして、「病院を捜しにソチヘ行ってくる、あとで私が病院へ連れて行く。」と言ったそうだ。
グルジェフは出かけていった。私は目を覚ましたが……そのあとで大変な騒ぎになってしまった。錯乱状態の私が逃げ出そうとして暴れ出し、熱湯の入っていたワイン瓶で妻を殺そうとしたという。また、妻が私の上半身を支えて寝台の背にもたせかけると、その腕を捕まえて折ろうとさえしたそうだ。妻が隣室へ何かを取りに行った隙に、逃げ出そうとして、低い窓から上半身を外に突き出していたので、妻は私の体を引きずって寝台へ連れ戻さなければならなかったという。
夕方になると手がつけられないほど暴れ、ザハロフ、管理人、妻、マフォーシャの四人かかっても私を寝台のなかに押さえつけておくことができなかったという。途方にくれた妻は絶望的な気持ちで、いつまで経っても帰ってこないグルジェフを待ちわびていた。彼の姿が見えはしないかと、ザハロフが何度となく通りへ出て行ってみると、真夜中頃になってついにグルジェフが姿を現した。私は眠っていたそうだが、彼が部屋に入ってくるとすぐに目を覚まし、自分の体を投げつけるように彼を目がけて突進したという。ロウソクが灯っていたテーブルをひっくり返し、グルジェフが床に倒れそうになるほどの思いもよらない勢いで向かっていったそうだ。ところが、彼の手が私の額に当てられると、すぐにおとなしくなり、再び眠りこんだりはしなかったが、平静な状態を取り戻したという。
グルジェフは、夜が明け次第私をソチヘ連れて行くことにし、「荷馬車は私が駆る。道のくぼみをよけながらゆっくり車を進ませよう。」と言った。もう一台雇い入れた荷車には荷物が積まれ、女中のマフォーシャが乗った。
妻と女中が荷物を車に積み、私に軍服を着せ、出発の準備をしてグルジェフを待った。朝の5時に荷車と共に彼が到着した。体をのばせるように、荷車のなかにマットレスを敷き、グルジェフが私を抱えて荷車に乗せてから、頭を馬の方に向けて寝かせ、物干しロープで私の体を縛った。彼が御者となり、妻が私の足もとに座った。私がもがくたびに、私の額に手を当てて、「トーマ、トーマ」とグルジェフが呼びかけると、静かになったという。とはいうものの、一度はロープが切れるほどもがいたそうだ。ソチヘ向けて22マイルの道程をゆっくり前進する車に、通行人のなかには花を投げ入れる人もあったという。唇が紫色に血の気を失い、軍服のまま硬直している体を死体だと思ったのである。
チフスが蔓延していたため、ソチのどの病院にも空いたベッドがなく、グルジェフが見つけたベッドは回復期の将校が過ごす療養所の一室だった。私がチフスに感染していたということに、まだ誰も気がついていなかったのである。療養所で一夜を過ごし、朝になると医者たちが患者をみに来た。私を診察した医者は、チフスにかかった伝染病の患者を療養所に置いておくことはできないと妻に言った。事態はにっちもさっちもいかなくなったが、医者の一人がソチから7マイル先の小さな病院に空いているベッドを見つけてくれたので、そこへ行く他はなかった。ちっぽけな病院で、3人の患者と同室ということも避けられなかった。
病院に収容されると、グルジェフはすぐに立ち去ったが、妻はそこに残って私に付き添った。高熱を下げるために入浴させられ、そのあとで必要な手当てを受けた。
医者は妻の付添いを認めず、緊急の場合の連絡先を尋ね、ここには妻の使える部屋も椅子もないだけでなく、伝染病患者を収容する病院には患者以外は滞在できないということを何度も言って聞かせた。だが、頑として言うことをきかない妻に手こずった医者は、好きなようにさせ、しまいにはスツールを持って来て私のベッドのかたわらに置きさえした。グルジェフは立ち去る前に、4日間も睡眠を取っていない妻に、ホテルを予約したから少しでも寝るようにと言い聞かせたが、その言葉にも従わず、妻は病院に留まったのである。ずっとあとにグルジェフが言ったことであるが、これ以来妻を見直したという。
投薬のあとで私は昏々と眠った。夜の11時頃、脈拍が非常に弱くなり、カンフルを打つ必要が出てきたため、助手が至るところに電話して医者を捜したが居所がわからない、ということを妻は聞かされた。事態はまたも絶望的になった。
助手は、「カンフルさえあれば私が打つのですが」と言いながら遠くの木の間にちらつく明かりを指差して、「あれは軍の病院です。カンフルがあるに決まっていますが、今勤務中で病院を空けるわけにはいきません。できたらあそこへ薬をもらいに行ってはくれませんか?」と妻に頼んだという。戸外は南部にありがちな濃い闇に包まれていたが、妻はそのなかを走っていった。軍の病院は妻の説明を聞いたものの、他の医者のもとにある患者の治療に手を貸すことはできないと拒否した。狂気のようになって懇願する妻の様子から、これは生死にかかわる事態だと気づいた彼らは、看護婦の同行と、必要ならば彼女に注射を打たせることを許可したという。看護婦がカンフル注射の必要を認めたのは言うまでもなく、こうして私は命を取りとめたのである。
翌朝医者がやって来ると、妻は前夜助手に必要な指示を与えずに病院から消えてしまったことを責めたてた。医者は、私の命があと数時間しかもたないと見通して妻の付き添いを許したのだと説明した。こんなことがあって、彼は私たちと親しくなり、いろいろと手を尽くしてくれるようになった。
妻は回復期にある同室患者に、ホテルの一室に移ってくれるように頼みこみ(妻はそのために一週間分のホテル料金を前払いした)、妻も病室が使えるようにし、さらに女中を呼ぶことまで手配した。こうする必要があったのである。というのは、同室の他の三人の患者のうち一人はジフテリアであり、もう一人は猩紅(しょうこう)熱患者であり、他の一人は私のようにチフス患者だったからだ。戦時中のため、小さな病院では思うような予防措置がとれず、藁のマットレスを覆うシーツも不足し、必需品さえ入手困難な状態だった。あらゆる店を尋ねたあげく、妻は中国人の行商人からシルクの布を買い入れ、シーツと枕カバーを作った。暑かったので毛布の必要はなかった。
グルジェフ、シャンボール医師、それにモベイス(ペテルスブルグ以来のグルジェフの生徒だった海軍将校)が見舞いに来てくれた。看護のために十三夜も眠っていなかった妻が睡眠を取れるように、グルジェフはモベイスに、その夜は私に付き添うようにと言った。
朦朧とした状態にあったにもかかわらず私は眠ることができず、夜どおし「昼か夜か?」とか、「何時か?」といったことを口走っていたという。グルジェフは彼自身の処方箋を口述し、それをシャンボール医師に書き取らせてから、妻に薬局へ行ってその薬を入手してくるようにと言った。妻から手渡された処方箋をぽかんとした表情で見つめていた薬剤師は、処方箋には特にどの薬ということが指定されておらず、丸薬に砂糖をまぶすようにと書いてあるだけだとつぶやいた。グルジェフの意図を理解していた妻は、そのようにしてくれと頼んだ。病院に戻った妻がこのいきさつをグルジェフに話すと、彼は笑った。丸薬はてきめんな効果をあげたのである。
私は悪夢にうなされ続けた。赤い音符が部屋のなかを駆け回り、絶え間なく私を苛(さいな)んだ。妻は何度となく私に、部屋のなかには何も心配するものはないと言って聞かせたそうだが、一向に効き目がなかった。すると、急に女中のマフォーシャが妻に向かって、「奥さま、部屋中が赤い音符でいっぱいじゃありませんか。」と非難するように言った。驚いた妻は、「まあ、マフォーシャまで気が狂ってしまったのかしら?」と思ったそうである。それには構わず、マフォーシャは片手でエプロンをつかむと、もう一方の手で架空の音符をかき集め、エプロンのなかに入れて出て行き、部屋へ戻ってから、「赤い音符は全部捨ててしまいましたから、安心してお休みになれますよ。」と言ったのである。私は安眠し、赤い音符を見ることはなくなった。文盲に近い田舎娘が、妻より優れた理解力を見せたのだ。
錯乱という分裂状態を経験するのは興味深かった。ある意味では、赤い音符が架空にすぎず、マフォーシャも音符があるふりをしているだけなのだということはわかっていたが、機転をきかせた彼女のふるまいが私をおとなしくさせたのである。
この期間のことは、どれも夢のなかの出来事として思い出せるにすぎないのは言うまでもない。だが、グルジェフが見舞いに来てくれた時、いかに幸福感に満たされたかは、記憶に鮮明である。彼が来るたびに私は、額に手を置いてくれと頼んだのだった。
間もなくグルジェフはトゥアプシの屋敷へ行ってしまい、重症の私をかかえたまま一人ぼっちにされた妻には試練の日々となった。
ある日、妻が買物から帰ってくると、私は別人のような声で、「私はどこにいるんだ?」と尋ね、その時から回復し始めたのである。おそろしく痩せ衰えた私の体を抱きかかえた妻は、「骨と皮ばかりの小さな鶏のようだ。」と言いながら、向きを変えた。栄養のある食品がなかなか手に入らなかったので、体力回復に時間がかかったが、砂糖入りのお茶とビスケット2つの朝食をおいしく味わえるほど通常の状態に戻った私は、妻とその喜びを分かち合った。
だが、一難去ってまた一難とはこのことであろうか、ド・ハートマン家の管理人から手紙が来て、ボルシェビキ革命が起こり財産を没収されたため、今までのように毎月送金することができなくなり、これが最後の仕送りだと知らせてきた。
その日の郵便物のなかには、白軍の工学管理局からの文書もあり、軍部に受理され、すでに使用に供されている私の発明品に対する報酬として何を希望するかと言ってきた。何たる皮肉であろうか! この文書を受け取ったとき、白軍はもはや存在せず、ボルシェビキが私にびた一文も出さないのはわかりきっている。
小さな田舎病院に取り残された私と妻は途方にくれ、歩行回復もおぼつかぬまま、心もとない思いにふさぎ込んでしまった。この先どうなるというのだろうか? 早晩グルジェフと一緒になるというたった一つの考えしかなかった。ということは、歩けるようになり次第、トゥアプシヘ行くというわけだ。
私が辛うじて立ち上がれるようになった日、郵便局から戻った妻は、ソチ発のトゥアプシ行き最後の列車が3日後に出るという知らせを持ち帰ってきた。夏期が過ぎると、この沿線は岩崩れや雪崩で運転不能な状態になることが多いのだ。
まだまだ衰弱していた私を心配した医者は、あまり急激なことをしないように重々気をつけなさいと言ってくれたが、最後の列車をやり過ごすわけにはいかない。妻は、私が横になれるように座席を予約しに行った。無理な相談だったが、ついに郵便局員が折れ、乗客たちが駅へ来る前、朝5時に来ていれば郵便車両に郵便袋で寝台をこしらえてくれると約束した。言われた時間に駅へ行ったのは言うまでもない。局員たちは私を車両のなかへ運び、横になるのを助けてくれさえした。彼らも助けの手を差し延べてくれた大勢の善意に満ちた人の一員だった。
トゥアプシに着くとホテルへ直行し、幸いにもたった一つ残っていた空室を確保できたが、ベッドは一つしかなかった。妻とマフォーシャは床へ寝なければならなかったが、それでさえ2人にとっては宮殿にいるように感じられたのである。
翌日、グルジェフを捜し出したところ、「旅が続けられるようになり次第エッセントゥキヘ行きなさい。」と言われた。エッセントゥキには友人もいるし、必要な医者や薬にも不自由しないと思われたので、数日後エッセントゥキヘ発った。だが、悪夢と呼ぶにふさわしい旅程となったのである。
列車は二度乗り換えなければならなかったし、トゥアプシを発った時はゆったりしたコンパートメントに身を置くことができたが、最初の乗り換え駅であるアルマヴィルに着き、ミネラルニ・ヴォディ行きの列車に乗ってみると、なかは兵士たちで満員だったのである。一等車はなく、ごった返していた。私が将校であるということが知れるとまずいのではないか?と思ったが、幸い、非常に親切な女兵士がいて、他の兵士たちに、「病気の『同志』に席を譲れ!」と命令口調でうながした。ミネラルニ・ヴォディに着いた時はすでに暗く、駅でエッセントゥキ行きの列車を3時間も待たなければならなかった。妻とマフォーシャが駅のベンチにベッドをこしらえ、夜はかなり冷え込む季節だったので、私の体を妻のミンクのコートで覆った。翌朝やっとエッセントゥキに着いたものの、ここでも前と同じ問題に直面した。エッセントゥキのホテルというホテルはペテログラードから脱出してきた人たちで超満員となり、空室は一つもなかった。私たちは、なんとか個人の家に一室を確保した。軍からもらった休暇はとっくに切れていたので、当局から書類の提出を求められたら、ということに気がつき、入院をしつこく勧めたグルジェフがいかに先見の明に富んでいたか、ということに思い当たったのである。病院の書類には、チフスの後遺症としての心臓衰弱と診断され、6ヶ月の休養を要すると書かれていた。一年後エッセントゥキの委員会から軍務を解除されることになったのは、この書類のおかげだった。私は軍服を焼き、民間人となり音楽家に戻ったが、軍刀だけは手元に残した。


トーマス:
グルジェフは夕刻になるとよく我が家に訪ねてきた。シャンボール医師が一緒のこともあり、やがて話は興味ある内容に発展していった。ある晩グルジェフはかなりの時間をかけて、人間の言語の不正確さを説明し、思想や哲学的概念を伝えたり、互いにコミュニケートするには不可能に近いほど正確さに欠ける言語だと語った。のちにウスペンスキーがこの概念を巧みに展開させ、我々の言語というものは連想的思考に基づいているため、どの言葉も個人の主観的イメージ、感覚、思考で歪められているという事実を強調した記録を残した。モスクワやペテログラード時代にはノートを取ることを厳禁されていただけに、グルジェフの解く概念を正確に伝えたウスペンスキーの努力には、感嘆のほかはない。
エッセントゥキとティフリス時代に入ると、グルジェフは彼の談話を書き取らせた。また、宿題を出し、研究所に適切と思われる名称を考えさせたり、研究所の目的を定義させたりした。こういう宿題は徹底的に考えることを強いる仕事であり、言語の不正確さについて語った彼の言葉を、私たちは嫌というほど知らされた。最も興味深かったことは、研究所の目的を明確に定義しようと長時間にわたる努力を重ねた結果、正確な言語とはどういうものかを知り始めたことだった。正確な言語を使いこなすことはできなかったとはいえ、少なくとも、言葉では表せない概念や思考や感覚があるということを理解したのである。    
ある宵、ちっぽけな我が家を立ち去る前に、グルジェフが何気なく言った。「あなた方のところへ来るのは今夜が最後ですよ。間もなくシャンボール先生との仕事にかかりきりになる。」
私が受けた衝撃たるや、誰にもわかるまい! シャンボール先生とまたとないエソテリック・ワークが始まるというのに、仕事においてはまだ「子供にすぎなかった」私は仲間外れにされたのだ。次の日も一日中心をかき乱され、抑えきれずに、新しい仕事に参加させてもらえない悲しさをグルジェフにうち明けた。
「悲しい? それなら追いつきなさい」という言葉が返ってきた。
このときのように切実な思いをこめて対面すると、仮面を捨てたグルジェフの顔が現れ、彼とのあいだにすでに結ばれた深い内面の絆が感じられるのだった。絆は、年と共に強まっていった。断じて呪縛という絆ではない。
彼の教えの一切が、暗示からの解放へ導く教えである。この内面の絆〔人を惹きつける紐(マグネティック・タイ)と呼ぼう〕は、彼とつながる目に見えない絆であり、そのつながりをもったとき、その人にとってグルジェフが本当の意味で最も身近な人となる。そのとき人は「実在」のグルジェフを見る。そのグルジェフは、付き合いやすかったりにくかったりする「日常」のグルジェフ(何度となく逃げ出したいと思いながらも、仕事のよりどころであるばかりに、思い留まって一緒にいなければならないという彼)ではなく、永久に一緒にいたいという願いを起こさせるグルジェフである。
人の内面に目覚める魂は、磁気の絆で肉体につながれる、と言った彼の言葉を思い出す。弟子との仕事を介して、一時的に彼が弟子の魂の場を占め、弟子と彼とをつなぐ磁気の絆が形成されなければならないのだ。弟子は絆が形成されたことを知り、さらに絆から生ずる親近感を体験する。

ある朝エッセントゥキの中心街を通りかかったとき、スペシャル・イヴニングを宣伝する社交クラブのポスターが目に止まり、私はクラブの片隅に身を置いて、ダンスを楽しむ人々を心静かに眺めたいという気持ちにとらわれた。その日もかなり経ってからグルジェフとシャンボール先生と連れ立って歩きながら、うかつにもクラブのことを話題にした。
「先生、お耳に入りましたかな? 今夜クラブへ招待してくれるそうですよ。何ですって? 夕食にご招待? 行こうじゃありませんか、先生、ご招待ありがとう!」
大失策だった! インフレ時の夕食はべらぼうに高価であったばかりか、私にはもはや月々の送金が途絶えてしまっていた。だが断わる勇気がなかったので、彼のプランを進めざるをえなかった。その夜私は500ルーブル(従来なら、最高級のレストランの夕食でさえ2ルーブル半以上にはならなかった)を用意してクラブへ出かけた。クラブはがら空きに等しく、ダンスなんかやってはおらず、レストランだけが開店しているような始末だったのはまだしも、これからが愚者の窮地に追いつめられる顛末記となるのである。グルジェフは、苦い経験を必要とする子供のように私をあしらった。「さあ先生、彼のおごりなんだから大いにやろうじゃありませんか。まずウォッカとオードブルからいきましょうか。そのあとは……」という次第で、次々と注文したのである。彼がオレンジを注文したのを今でもはっきり覚えている。というのは、そのとき、用意した500ルーブルではとても勘定が払いきれないということを悟ったからだ。私にはグルジェフに、金が足りず、帰宅するまでいくらか貸してほしいと言う勇気がなかった。この窮地を切り抜けるには? 考え抜いたすえ、ウェイターにチップをやり、妻からもう少し金を都合してもらうように、彼を使いに出すことにした。夜分戸口を叩かれた妻はびっくりした。ともかく使いが金を持って引き返したので、その夜の支払いを済ませることができたという次第だった。約1,000ルーブルにもなる勘定だったが、私の世帯を半月は賄える金額だった。
翌朝グルジェフが我が家へ来て、前夜使った金を返してくれた。またも惨憺たる思いをさせられたが、ただ恥をかかされたというだけでなく、自分がいっぱしの男としていかに行動すべきかを心得ていないということに気がついたからである。グルジェフからそれまでに何回となくこの事実を諭されていたが、このとき初めて彼に言われたことを身をもって知ったのである。その朝のグルジェフは前夜とはうって変わり、責める様子も、冷やかす様子もなかった。前夜のことは私を思ってのことなのだ、と言っただけだった。


トーマス:
ある夕方、なかにたくさん仕切りのついた大きな箱を持ってきたグルジェフは、「トーマ、明日、キスロウォックに絹糸を売りに行きなさい。」と言った。「しかし」と私は躊躇しながら答えた。「キスロウォックにはぺトログラード時代の知人が大勢いるので、あそこへ行商に行くわけにはいきませんよ。」
G「いや、その方がかえっていいんだ。たくさん知人がいれば早く売りさばける。」
という次第で、翌日私はキスロウォック行きの列車に乗り込んだのである。黄昏時に着いたが、絹糸など必要としない友人たちのところへは行かなかった。何よりも、噂を立てられるのが嫌だった。暗闇にまぎれ、こっそりと小さな店ばかり当たってみた。最後に大きな構えの店に足を踏み入れてみると、家主が営む店だったばかりか、グルジェフがなかに立っていたのである。家主はたくさん絹糸を買ってくれた。「さあ、帰ろう」とグルジェフが言ったときの安堵たるや……。
グルジェフにまたも弱点を突かれたこのときの経験は生涯忘れられない。自分には克服し難いほど根強い階級意識があるということに、私はそれまで気づいてなかった。自尊心から、絹糸を行商するなんて恥だと感じたのである。この当時は誰もまだ、ロシアでは何もかも逆さまになりつつあるという事実に気がついていなかった。後日私は、これはグルジェフが与えてくれた実にすばらしい教訓だったということを悟ったのである。私の属していた階級からも、やがてこうした屈辱的な仕事をしなければならない人たちが大勢出てきたが、自分の場合はグルジェフから与えられた仕事として受け入れたのであり、必要にかられての仕事ではなかった。これ以後グルジェフからキスロウォックヘ絹糸を売りに行けと言われたことは二度となかった。

革命が本格化し始めると、今のうちにマフォーシャ夫婦をウクライナの屋敷に帰した方がよいのではないかとグルジェフにうながされた。屋敷には夫婦の子供2人とマフォーシャの母親が残っていたので、帰れるうちに帰しておかなければならなかった。非常に悲しいことではあったが、できるだけの金を与えてマフォーシャ夫婦を送り返した。
彼らが去ってしまうとグルジェフは、私たち夫婦も大きな家に移り、みなと一緒に住んではどうかと言い出した。私と妻は、2人だけの住まいだった小さな家をグルジェフに明け渡したが、彼の望んだのは家屋ではなく、私たちが他の仲間たちと一緒に暮らすことだったのはわかりきっており、言われたように、2階の大きな一室に移った。
グルジェフは年中部屋の模様変えをするので、そのたびに家具やカーペットを全部2階へ上げたりまた下ろしたりしなければならず、慣れた環境に執着する人にとっては、余計に堪らなかった。
間もなく「宗教体操」(セイクリッド・ジムナスティック)が始まり、簡単な訓練から次第に自分の全存在から結集した注意力を吸収してしまうほどの集中と記憶を要する複雑な体操に進んでいった。こうした訓練のいくつかは非常に体力を消耗し、男性だけの体操だった。グルジェフはこの種の訓練を疲労の極に達するまでやらせたので、終わるとリラックスせよと言われるまでもなく、みな例外なしにカーペットの上に袋のようにへたりこんだ。
男性全員がうずくまり、腕と脚を絡ませて蛇のようにのたうち回る体操があった。突然「ストップ!」とグルジェフが号令する。そして、誰か一人を自分の脇に立たせ、そこに展開する光景を眺めさせるのだった。たとえ彫刻家であっても、だしぬけにかけられる「ストップ」から生じる美しく、複雑で、創造も及ばぬ人体の綾に感動するチャンスを得たためしは、まずあるまい。
当時は私も「宗教体操」に参加できたのだが、それはグルジェフ自身が伴奏の音楽をギターで弾いたからだ。楽器は家主からの借り物だった。ピアノを用意するということは不可能だった。グルジェフはとてもギターが上手で、練習曲を弾くこともあった。やがて彼は音楽過程の拡充に集中した。

私は元来音楽家であり、数年間士官学校に在籍するあいだに、無味乾燥で退屈きわまりないばかりか憂鬱で機械的でもある教練を毛嫌いするようになっていた。だがグルジェフの教える「宗教体操」は退屈どころかまったく新鮮で、「体操」の決定的な目的が理解でき、しかも彼と共に仕事するたびにインスピレーションが得られたのである。
グルジェフは、いかにして人を通常の状態から高次の水準へ引き上げるかを知っていた。そうした状態においては、富や贅や、また美食や酒や女に対する世俗的な欲望というものが実に無意味で、存在しないも同然と言えるほど非現実的に感じられるのだった。何かを失うという喪失感とは無縁の状態に入れたのは、新しい光にうたれ、グルジェフの連れて行こうとするゴールが、手を差し出せば触れることさえできそうに思えたからである。
とはいえ、グルジェフは一瞬にして豹変し、世俗的なものに欲望を抱く男のようにふるまうのだった。すると、再び、つまらぬものと思えたはずの快楽が頭をもたげ、恐ろしいことに、自分を圧倒しようとさえするのだった。
こういう瞬間に、彼があのように彼自身を発現させたのはなぜかという考えが一度として浮かばなかったとは、いったいどういうわけであろうか?
エッセントゥキで彼が語った言葉を思い出す。
「私は一瞬にしてあなた方を天国へ連れて行くことができるが、そこから失墜するのもあっという間であろう」「水は百度に達しないと沸騰しない」
自己を発展させるには、自分自身の理解を深めつつ、沸騰点に至らなければならないのだ。さもないと、自己の内に何ものも結晶しない。温度が一度でも不足していると、元のところへ失墜する。
我々は、人格と本質の役割を次第にはっきり理解するようになっていった。グルジェフがしばしば語った言葉を引用しよう
「人格にとって善であるものは、本質にとっては悪である」
とはいえ、
彼は人の内面に存在するものを何一つ破壊しようとはせず、すべてを本来あるべき場所に置き換えただけだった。特定の悪を演じる仮面をつけた場合の彼は、真に迫る誘惑者だった。誘惑の真意はエソテリック・スクールに由来し、誘惑とは仕事のために人為的に創造されたにすぎず、そこでは師という指導者のもとに人の本質の発展が可能となる。人格に苦悩が与えられると「発酵」という作用が起こり、この「発酵」、「スパーク」、「火」が本質を成長させるから、苦悩を避けてはいけない。
「人格にとって善でないものは、本質にとって善である」
こういうことを本当に理解するのは不可能と言えるほど難しかったが、人は、心の深層部では、自分の耐えうる範囲の試練のみ与えられるということを知っている。真剣に仕事することを求めるならば、試練を受け入れるほかはない。
相手がグルジェフなら、その要求に正しく応じることができなければならなかった。「自己が存在している」「私である」という意識を実感として持てれば、そうすることが可能となる。


トーマス:
あらゆる絆を断ち切ること、つまり、夫や妻や両親や子供や友人に、盲目的な愛着を寄せないということが要求された。
互いに愛着し合わないとは、いったいどういうことなのか? あらゆる絆を断ち切れという師の言葉に、妻も私もひどく動揺し、考えさせられた。互いに愛着しないとはどういう意味なのか? 互いに気にかけないとは?
新しい理解に達しようと、2人して考えを深めなければならなかった。この当時私は、グルジェフの行くところならどこであろうと、彼の要求することなら何であろうと、考えもせず、ただ従おうとしていたが、慎重に考慮した上で一歩一歩を進めなければならない仕事では、このような態度は全く要求されてはいなかったのである。
妻は仕事に深く投じていたが、何よりも大切なのは夫への愛であり、私の内面の仕事のために別れなければならないのなら、そうする覚悟をもっていた。だが、グルジェフの決まり文句がある。
「2人とも必要だ。さもなければ、どちらも要らない。」
そのうち、すべての所有物を手放せ、持ち物全部を目録にせよという案内が掲示された。物質的なものに大して重きを置かなかった私には、言われたようにすることは容易だったが、妻はこのとき激しい内的闘争を経なければならなかった。それについては妻自身に語らせよう。

オルガ:
夫が不用意にも何もかも手放してしまったので心配でした。将来ひょっとして私たち2人とも、あるいは私だけでも師の元を去ることに決めたならば、生きる糧を得る術を見つけるまで、2人とも一文無しということになりかねません。避暑地に暮らしている友達が大勢いることはいます。グルジェフから離れるためということであれば喜んで助けてくれるでしょうが、よほどのことがないかぎり、彼のもとを去るなんていうことは考えられません。それで、グルジェフに率直に話すことにしました。行ってみますと、シャンボール先生と話をしていたので、一人のとき相談しようと思い、戻りかけますと、何の用事で来たのかその場で話しなさい、と言ってききません。仕方がないので、無一文であるばかりにここにいるという事態が生じないように、渡す金額から3,000ルーブルだけ手元に残しておきたいという気持ちをうち明けたのです。するとシャンボール先生の方を向き、わかったという口調で、「ああ、そのことだったのですか。よろしいですとも、けっこうですよ。欲しいというものを返してあげてください。」と言いました。
ところが2、3日すると、女性は宝石類を一つ残らず出すように言われたのです。ウェディングリングと時計だけは持っていてよいということでしたが、実にひどいショックでした……どうしたらよいのでしょうか? 持っている宝石類といえば、実母か夫の母から受け継いだものばかりで、かけがえないことは言うまでもなく、私は自分の宝石類にひどく執着していました。手放すなんてことはしたくなかったのですが、そうしなければ、ここから出て行く以外にありません。夫は少しも躊躇しませんでしたが、私にとっては悲運との対決と言ってもよく、グルジェフのもとを去るなどとは考えてもみないのに、宝石を手放すのは嫌でした。ジレンマに陥った私は、試練とはこのことかと、夜通し泣き悩んだのです……。
そのうち、グルジェフが以前に語った言葉が浮かびました。
「人は死んだらこの世で持っていたものを何一つ持って行けない……だが、あるものを発展させれば、それを持って行ける」
もうどうでもよくなった宝石を箱に入れ、翌朝グルジェフの家へ行き、扉を叩いてなかに入りました。
片手で頭を支え、テーブルのところに腰掛けたまま、「何の用事ですか?」とグルジェフが言いましたので、宝石類を渡すようにということなので、持って来たのですと答えますと、彼は姿勢を変えずに、片隅にある小さなテーブルを指しながら、「そこへ置いていきなさい」とポツリと言いました。テーブルの上に箱を置き、ちょうど庭のゲートをくぐろうとしたときに、後ろから呼ぶ声がしたので戻りますと、こう言われたのです。「持って帰りなさい……。」
何年もあとのことですが、ある人が私に騙されたと言うので、「なぜ?」と聞き返しますと、「私に聞かせてくれた宝石の話を覚えているでしょう? だからグルジェフさんから何か貴重品をよこしなさいと言われたとき、そのまま渡したんだけど、返してくれないのよ。」ということでした。
私たちは、すべての宗教、すべての修道院で要求される物欲を捨てる過程を経なければならなかった。だが、捨てなければならなかったのは、物に対する誤った執着心だけだった


トーマス:
ある日「体操」のあとで、グルジェフは懺悔、真の懺悔について語り、エソテリック・スクールにおける懺悔のしきたりを説明してくれた。人が自分の欠点を罪悪としてではなく、自己の発展を妨害するものとして理解しなければならないというのが真の懺悔の本質であるから、教会での懺悔とは関係がない。
エソテリック・スクールには、人間の本性をあらゆる側面から研究した結果、高度の発展を遂げた人々がいる。こうしたスクールの生徒は、自己の存在を発展させたいという強い願いをもつ人々である。内面の発展を求める彼らは、いかにして自己の目標に到達するか、いかにこの問題と取り組んだらよいかということや、また途中で妨害となる自己の特徴などについて包み隠さず誠実に話す。こうした真の懺悔をしに行くには、特別な心構えが必要だ。つまり、自分の本当の欠点を理解し、その欠点について話すという覚悟である。懺悔に不可欠の覚悟であり、人が自分の決定的特徴を理解し、その特徴を中心に(軸として)、その人にありがちな愚かで突飛なすべての二次的欠点が回転しているということを理解するには、絶対に欠かせない決意なのだ、とグルジェフは語った。
この決定的弱点(チーフ・ウィークネス)については、仕事の初期段階から聞かされた。自己の決定的弱点に気づき、それを認めるということは非常に辛いことであり、耐え難いと感じるときさえある。前述したように、エソテリック・スクールにおいて生徒に自分の決定的弱点に目を開かせる場合、細心の注意を払うが、その理由は、自己について真実を知ると、時には自殺しかねないほどその人を絶望させるからである。こうした悲劇を防ぐのは、師との霊的絆である。
右の頬を打たれたら左の頬を向けよという聖書の言葉は、人が自己の決定的欠点に気がついた瞬間を語っているのだ。決定的欠点(チーフ・ディフェクト)を直視する苦痛は、平手打ちをくらうショックに相当する。この苦痛を回避せず、あえてもう一方の頬を向ける、つまり、自己についてさらに真実を知り、その事実を受け容れるだけの強さを自己の内に見いださなければならないのである

ある日グルジェフは、いろいろな生徒を別々に彼の部屋に招じ入れた。私たち夫婦が彼と向かい合ってカーペットの敷かれた床に座ると、自分自身を誠実に直視しうる自己の深層部にいかに達したらよいかということを話し始めた。
彼はいつにない思いやりと優しさをこめて私たち2人に接した。彼の顔から日常の仮面が剥がれ落ちると、この世で最愛の人の面影を見る。こうした場合には、彼との霊的絆の強さに打たれ、その力がひしひしと感じられるのである。
翌週また幾人かの人々が個人的に呼ばれたが、どういうわけか私は呼ばれなかった。グルジェフはその日一日中私を避けているようだった。話さなければならないと感じた私は、大きなテラスに彼が一人きりのとき、思いきってこう聞いてみた。
「グルジェフさん、ペトログラード時代に、最初はたった5コペイカ(ペニーに相当するロシアの硬貨)を賭けるだけでよいとおっしゃったでしょう。つまり、あなたの教えを実践し始めるには、最小限の信念をもつだけでよいというわけです。けれども、あなたの言ったことが正しく、また役立ったということが証明されたなら、10、いや20コペイカ以上も賭けなければならないと言われました。つまり、ますますあなたを信じなさいということになります。それなら、あなたを信じきり、あなたの言うことなら何でも無条件に従わなければならないのでしょうか?」
彼は頭を軽く横に振り、一瞬ためらってから、「もちろんです。概して言えばそういうことだが、仮に私がマスターベーションを教え始めたとしても、私の言うことを聞くのかな?」と答えただけで、一言も言わずに行ってしまった。
「仕事(ワーク)」の本質を突くこうした言葉は非常に重要である。盲目的に服従するのではなく、自分の目的を常に想起していなければならない。本当の道と信じている道から生徒を逸脱させるなんてことは、たとえ師がわざとそうさせようとしても無駄なのだ。
ずっとあとになって、人は良心に従って行動しなければならず、良心は誰もが本質的にもっている、とグルジェフは語った。良心を獲得する必要はなく、我々が目を覚ましさえすればよい。
だが、誰も自分の良心に目覚めることはめったにない


以前に断食についての話があったが、グルジェフは私たちに断食させる時期になったと判断し、今までに聞いたことのない特殊な条件が出されたのである。女性は2階へ行き、男性は階下へ移るようにと言われ、週に一時間だけ誰かと一緒に外出を許されたとき以外は、断食中話をしてはならない、ということになった。別居しなければならなかっただけでなく、規律というものは一切性に合わない妻にとって、これは大きな試練だった。私はと言えば、9歳のときから陸軍幼年学校で訓練されていたので、妻ほどには苦にならずにすんだ。
数日経ち、妻と外出し話ができるはずだったが、約束の時間寸前にザハロフと非常に興味深い話を始め、話に夢中になってしまったために、再会を心待ちにしていた妻を待ちに待たせてしまったことがある。妻のところへ駆けつけると、悲痛な言葉を浴びせられた。妻は、私の仕事に干渉したくない、仕事がいかに2人のあいだを引き裂いているかがわかる、別れた方がよいと思うと言った。
この言葉自体は重要ではない。重要なのは私たち2人が分かち合った苦悩である。やがてみじめな会話のやりとりが最高潮に達したとき、魔術でも使ったようにグルジェフが町かどに姿を現し、苦りきった様子で、「2人別々なら要らない。2人とも一緒か、さもなくばどちらも必要でない。」とぶっきらぼうに言って、私たちを驚かせた。
帰宅したときはもう暗かった。私も妻も悲嘆にくれたまま、妻は2階へ行き、私は階下に残った。
その夜しばらくすると、みな自分の部屋へ戻りなさいと言われた。私たちは狂喜した。妻は、このままずっと別々に暮らすことになるのだと観念したが、時おり私に会うため、またグルジェフのもとで仕事を続けるために、研究所に留まることに決めていたと語った。
このエピソード自体が、害を与えずに本当の苦悩を経験させうるというグルジェフ流の方法の顕著な例といえよう。こういう苦悩を意識して自主的に受け容れるなら、自己の内に真の「主人」を創造する可能性を獲得する。当時の私たちは、グルジェフから出される様々な要求が相互に関連しているということを、まだ理解していなかった。彼が意図してこしらえた状況であるということがわかっていながら、同時に現実として受け取っていたのである。

毎週日曜日には哲学、神秘学(ミスティシズム)、秘学(オカルティズム)の講演が催され、一般の人も参加できるという新しいスケジュールが発表された。小さな紙片(紙は極めて入手困難だった)に講演の日時を書くのはぺトロフの役目だった。この紙片をエッセントゥキの主な電柱に張る仕事がある青年に与えられ、2人の若い女性が糊とブラシの入った小さなバケツを持ち、彼について行った。バケツは古いブリキ缶でこしらえたものだった。
最初の講演会の数日前に、グルジェフは我々全員を集め、「仕事」
(通称グルジェフ・ワークと呼ばれるものだが、グルジェフ自身が言うように古代より伝わる様々な手法から取り、発展し組み合わせたものである)の起源について知っておくようにと、次のような話をした。エジプトの、あるピラミッドの麓で前もって打ち合わせておいた会合があった。これがそもそもの始まりである。伝授のセンターがまだ存続していた各地で、それぞれ別々な「仕事」に長年を費やした3人の男が集まった。
このうちの一人は科学者で、奇蹟と思われるあらゆる現象を、西欧の知識を用いて科学的に証明したり評価したりする能力をもっていた。
2番目の人は、あらゆる宗教と宗教史に通暁していた。
3番目の人は、「存在の人」と呼べるような人だった。
三者会合の結果、適切な場所と適切な状況におけるグループが組織された。例えば、エッセントゥキにおける我々のグループ、つまり、「国際理想社会」のような団体が形成されたのである。エッセントゥキ・グループの真の目的を理解するには、魂の結晶化という概念に注目しなければならない。食物、つまり普通の食物と空気だけでなく、印象という食物がないと、結晶化という重要な仕事を達成することはできない。これを達成するには、独自の努力だけではめったに成功しない。必ずといってよいほど、偉大な知識をもつ人、つまり師が生徒のそばにいなければならない。生徒の内部に生じる結晶化という変化(トランス・フォーメーション)を師が助けるには、印象という食物から得られる特殊な物質が生徒の内部に蓄えられていなければならないのである。生徒自身の努力で集めるこの物質が十分蓄積されるためには、ある種の隔離された「貯蔵庫」が必要である。さらに、その「貯蔵庫」に特殊な状態がなければ、この物質は蓄積されない。
以上の談話から、グルジェフが彼のヨーガを「ハイダ・ヨーガ」と呼んだ理由が、よく理解できるように思える。ロシア語の「ハイダ」という意味は、有無を言わせぬ呼び出しのことであり、例えば、誰かがある命令を出し、その命令が超特急で遂行されることを指す。したがって、「ハイダ・ヨーガ」は「敏速(クイック)ヨーガ」と呼ぶことができ、短時間にたくさん学べる可能性のある方法と言える。幸、不幸、悲しみ、喜びといったあらゆる種類の印象を得るには、人生から得られる経験だけに依存している必要はない、というのがグルジェフの見方であり、あらゆる印象を意識的に与えることができる特別な環境をつくり出したいと考えていたのである。仕事は、いわゆる「神の国」が我々自身の内部に築かれること、つまり、人間を動物と区別する聖なる特質が人の内部に成長するように助けることなのだ。
ワークはこうした変化を目指して、生徒の内面にあらゆる種類の印象を創造するという前提のもとに成立していたため、グルジェフは師としての役割を演じなければならなかったのである。例えば、ある生徒に対して不正を経験させたいと思った場合、グルジェフは不正な男を演じる必要があった。しかも見事にその役を演じたのである!
そういうとき、生徒は怒りをじっと堪え、むやみに反応しないように努力しなければならなかった。あるとき、私は彼に腹を立てていたが、ほとぼりが冷めると、私のために辛い思いをしたと言われた。要するに、自主的に苦しみを受け入れなければならない立場に私を立たせたのである。
「わざとやったということがわからないのか」と言われてしまったならば、仕事の意味は完全に失われてしまう。
講演会の前日になると、みな「三人の男」について作文しなさいと言われた。その夜グループ全員の前で、2人ずつ自分の原稿を朗読することになった。作文という課題に取り組んでみて初めて、書くという仕事がいかに難しく、いかに思うように書けないか、ということを誰もが痛感した。
夕刻になると2階の通路に鉄製の寝台が用意され、その上にマットレスがたくさん積み上げられた。みなその上に登って脚を組んで座り、各自の作文を朗読した。私の妻は「存在の人」について書いたが、そのエッセイが最優秀作として選ばれたのである。

オルガのエッセイ:
25年前、エジプトのピラミッドの麓で3人の旅行者が偶然に出会いました。話を交わしているうちに、3人ともほぼ同じ世界観をもち、人生の意味と目的も3人が同じように理解していることがわかりました。
彼らの一人はロシアの貴族
(ユリ・ルドヴェドスキー公)、もう一人は考古学者(スクリドロフ教授)、3人目の人は若いギリシア人(G)のガイドでした。ロシア人は金持ちで、由緒ある家の出でした。若くして妻と死別した悲しみから世を捨てて心霊術に耽り始めた彼は、各地を遍歴しているうちに、秘教の教義を極めた人々にも出会いました。数回にわたりインドへ赴き、各地の寺院に逗留するなど、妻を失った悲しみを癒すためにいつも旅に出ていたのです。こうして、考古学者とギリシア人に出会ったのは、2回目にピラミッドへ行ったときのことでした。
考古学者をピラミッドへ導いたのは、科学以外の何ものでもありませんでした。
ギリシア人ガイドがピラミッドへ来たのは、それまでの自分とは異なる存在になりたいという強烈な願いをもっていたからです。
この3人が同じ結論、つまり、絶対的な「何か」が存在するのだが、その「何か」を理解しうるだけの知識を持ち合わせていないという考えに達していたのは、ピラミッドで出会う前にそれぞれが何年間も探求し続けていたからです。しかし、知識がなかったために、決まって難局に乗り上げていたのです。ということは、まず第一にこの知識(生のあらゆる側面に関わる知識)を獲得することがどうしても必要だということが証明されたわけです。3人がそれぞれこの知識を求めて同じように報われない努力をしてきたのですから、探求方法を本質的に変更する必要があるということに気がつきました。最初に目的を理解しなければならない、そして初めから知識を求めて探求を開始しなければならない、ということに気がついたのです。
すべてを知るということは、たった3人の手におえる仕事ではありません。あらゆる宗教、あらゆる歴史、生に関するあらゆる特殊な知識を捜し求めることは、短い人生では達成できるはずがなく、たとえ3人が出会ったとはいえ、前途遼遠の仕事でした。しかしこの知識がなければ、探求が挫折してしまうことは明白です。
そこで3人は、専門分野の知識をもつ人々を引き寄せようということに思い当たったのです。ところが、またまた別の問題が持ち上がりました。新しく集まった人たちが、高次のものについて同一の関心と目的をもっていなければ、彼らの特殊な知識さえ役立たないからです。同一の目的がなければ、多様な分野の専門知識があっても、何も得られはしません。
3人は、この目的に必要な人々を見つけ、その人たちの物質、精神両面の生活をみてやり、助言を与えながらやがては同じ目的に向かわせるための計画を立てました。
こうした目的をもって3人は別れ、それぞれの道へ旅立ちました。その結果、15人ほどの人が集まりました。正統派のキリスト教徒、カトリック教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒から成る力学、化学、園芸学、天文学、考古学、哲学の分野の専門家たちでした。女性も何人かいました。各人が専門分野をもつように義務づけられました。
計画どおり、全員がペルシアへ行きましたが、そこで積み重ねた知識を携えて、1899年に幾人かのメンバーがカシミール、チベット、セイロンを経てインドへ行き、他のメンバーはトルコ、アラビア経由でパレスチナへ向かいました。全員が再会する場所は、アフガニスタンのカブールに決まりました。多くの年月が経ち、15人のうち客死した3人を除く12人が再会しました。
再会したメンバーは、チトラルヘ行くことに決めました。出発の直前に例のロシア人が死亡し、その後、旅の途中、山越えの際に2、3人のメンバーが土地の蛮族に奴隷として捕らえられてしまったのです。この人たちは自分で決めた目的を達成できませんでした。
その後しばらくして、初めの12人のメンバーのうちたった4人の男性が、それぞれの目的を達成し、チトラルに到着しました。3年後、彼らはカブールへ帰りました。
この4人はカブールに滞在し、もう一度彼らに共鳴する人たちを集めてコミュニティを形成しました。これが現在の研究所の起源となったのです。短期間のうちに他の人々が集まり、参加した人はみなそれぞれ独自の探求がいかに困難だったかを、全員の前で語りました。
5年後にこのグループはロシアに移動して活動を始めましたが、政治状況が原因でグループの仕事を続けることは不可能でした。
カブール以来、彼らは一緒に生活する必要があったのです。それは、物質的な理由のためではなく、一人一人がまったく別個に他の人たちと関係なく努力するよりはるかに敏速に高次の「何か」に到達する手段として、そうする必要があったのです。

トーマス:
講演会の初日になった。グルジェフは家の一階にビュッフェを用意し、砂糖で軽く甘味をつけたお茶、サッカリン入りの甘ったるいお茶、めったに得られない自家製の小さなスイートロールなどを並べた。
その日、グルジェフは最愛の生徒の一人、ペトロフに、ひどい内的ショックを経験させたのである。日頃は元気旺盛なペトロフが、講演会の始まる30分前に私たちの部屋へ来ると、我を忘れて泣き出した。私と妻が懸命になってなだめたものの、ベランダに面した窓の向こうでは、すでに聴衆が集まり始めている様子がカーテン越しにうかがえた。
最初の講師はP・D・ウスペンスキーだった。予想以上に大勢集まった聴衆を魅了する見事な講演だった。次いで「創造の光」について、ペトロフが自分で書いた原稿を朗読した。彼の内面がどんな状態だったかは容易に察せられたが、素晴らしいできばえだった。
その夜の聴衆のなかに、ロシア正教会の分派信徒たちが行く教会の補祭がいた。おそらく、反キリスト教的言論でも耳にするのではないかと確かめに来たのであろう。非常に注意深く聞いていたが、満足したとみえ、その後の講演会には姿を現さなかった。
弁論の技にかけては敏腕を自負する士官学校の教授たちがいるが、その一人であるツァー直属の幕僚長官も聴講に来ていた。講演会を賞め、彼の言葉を借りれば、「無味乾燥な哲学的題材」でありながら、聴衆にあれほどの興味を起こさせたぺトロフの手腕に驚嘆していた。その夜、グルジェフはペトロフをレストランへ連れて行った。当時グルジェフと単独で話ができるということは、特別待遇とみなされていた。強烈な試練を与えたあとで、生徒がその試練に敢然と立ち向かった場合、グルジェフは一度としてその事実を見過ごすことはなかった。このときも例外ではなかったのである。

次の講演会は翌週の日曜と決まり、みながその日を待ちわびていた。グルジェフ自身が講演すればよいのだがと期待し、まだ聞いたことのない主題、もしかすると超自然現象について何か聞かせてくれるかもしれないなどと思いをめぐらせていた。この当時私たちはまだ魔術といった類の現象に興味をもっていたのである。希望を寄せながら講演会を待ち焦がれた……だがグルジェフはそのときもまた、我々の目的と、なぜここへ来たかということを想起せざるをえないように計らったのである。
木曜日になると、かの悪名高き「ブラック博士」の講演を宣伝するポスターがエッセントゥキのいたるところに張られた。要するに、国際的にいかがわしい人物の講演会ということになる。いかさま師「ブラック博士」の評判は、そのころ出版された風刺的詩集の小冊子でよく知られていたが、一度も姿を現さなかったのだから、おそらく実在してはいなかったのだろう。
なぜこんなことをするのだろうか?
ペトログラード時代にもグルジェフはウスペンスキーに、ミーティングは名流婦人の客間で催されると言い、2人でその手配をしておきながら、当日になると学校の教室で会合するようなことをしたが、何の理由があったのだろうか?
ウスペンスキーに対し、なぜこのような口実を設ける必要があったのだろうか?
私と最初に会ったときも、ネブスキー街のいかがわしいカフェにしなければならなかったのはなぜだろうか?
今度の「ブラック博士」はなぜなのか?
将来生徒になるかもしれない人たちとの最初のミーティングに、どうしていつも胡散くさいことをするのだろうか?
こういったことはすべて私たちに仕事(ワーク)をさせること、真の目的を想起させること、真剣に仕事を求めるなら師のいかなる行為によっても生徒の心はぐらつかないということを教えるためのグルジェフの意図と解する以外に説明できない。概して師と呼ばれる人たちは初心者に好印象を与えようとして、非常にもったいぶって接するものだが、グルジェフの場合はまさにその逆だった。反発心や恐怖心を起こさせることばかり演じたのである。新参者はグルジェフと面会し、話を交わす機会を与えられたにもかかわらず、克服しなければならない障害に直面する。とはいえ、真面目な質問を携えて面会し、自分にとって真に重要な問題について話した人を手ぶらで帰すようなことは一度としてなかった。

日曜日になり、ウスペンスキーが講義した。お茶の出る休憩時間に、長いひげを生やした老人がグルジェフのところへ来て、ヨーガ行者について質問した。ヒンドゥー教にちょっとばかり興味をもっているタイプの人である。グルジェフは、様々なヨーガの修行法など一度も聞いたことがないようなふりをしていた。するとこのインテリ風の老人が、「ハタ・ヨーガ」や何かを尊大ぶって説明し始めた。グルジェフは、「私のは『ハイダ・ヨーガ』と言います。」と応じてさっさとこの会話を切り上げてしまった。新しいヨーガの方法を聞いたこのインテリがいかに驚嘆したかは書くに及ぶまい。この男は何一つ理解しなかった。グルジェフのこの言葉には傾聴に価する概念が含まれていたのだが。
間もなく、内面の訓練に関わる新しい仕事を始めるという案内が掲示された。一日は時間ごとに区分され、毎時間内面の訓練に当てられることになった。みながずっと前から待ち望んでいた訓練だ。
だがこのときもまた、みなに散々な幻滅をなめさせるのがグルジェフの意図するところであった。
彼はペトロフに忍耐ぎりぎりの試練を与えていた。ついに耐え切れなくなったぺトロフは我を忘れ、怒りにまかせて師に言葉を返してしまったのである。
グルジェフは背を向けて家から出て行ってしまったが、一時間すると戻ってきて、上級生の一人が師に向かってあのような態度を示したからには、今後の仕事はだれかれの区別なく、いっさい中止すると言った。
一人残らずひどく良心の呵責を感じた。いかに詫びようとも、事態は変えられないということは明白だった。内面に目を向け、ここへ来た目的を常に忘れずにいたかどうか、この目的を何よりも大切にしていたかどうかを自問しなければならなかった……グルジェフは、我々の内面に彼が望んだものを生み出すことに完全に成功したのである。みな痛烈な情緒的危機を経験した。


トーマス:
ある日グルジェフは、シャンダロフスキーにエッセントゥキ評議会宛に手紙を書かせてから、自分自身で評議会の下院へ出かけていき、コーカサス山脈のインダク山域へ科学遠征を組織するための援助を正式に申請した。
この遠征には2つの目的があった。インダク山近くの川で金塊を捜すことと、コーカサス山脈全域に点在する不思議な巨石の建造物、ドルメンを捜し当てることだった。古代においてドルメンが特別な意味をもっていたという考えにはいくつかの理由があり、その意味を解明することは科学的関心の大きな対象となりえたのである。遠征内容は好評を博し、申請書類は、この遠征に必要な物質的援助を与える権限をもつピアテゴルスクの評議会に転送された。
これと同時にピアテゴルスクの新聞に遠征の目的を説明した記事が掲載されたのである(グルジェフの工作だったに違いない)。その記事は遠征隊員の一人を記者がインタビューするという形式で書かれていた。内戦であるというのに、どうやって遠征を進めるつもりなのか?という微妙な質問を、記者はまるで二次的問題のように扱っている。質問を口述しているグルジェフの姿をありありと目に浮かべながら、私は次の回答を読んだ。
「遠征隊は内戦による戦火の届かない奥地の荒野を目指して進む。したがって、この科学的探検とその結果得られる発見は妨害されえない。」
隊員の忠誠心とか政治的信条などの点については一言も触れていない。
遠征に必要な装備品がさっそくピアテゴルスクから到着し始めた。大きな防水布のロール一個、将校用の大きなテント2つ、隊員全員に渡される手斧、小型のシャベルとつるはしなどだったが、グルジェフはこれらを直ちに男女全員に分配した。まだほかに一つあった。消防夫が締める赤と黒の大きなベルトだ。出発の日にグルジェフはこのベルトを締めた。
ウスペンスキーは遠征には加わらなかったが、準備には積極的だった。グルジェフに、金塊を洗うにはアルコールが必要で、しかも少量ではないと言った。グルジェフはその意味を察し、直ちに適当な嘆願書を口述して書類をシャンダロフスキーに渡した。なんと、当時ほとんど入手不可能だった純粋アルコールが数ガロンと、変性アルコールが配達されたのである。アルコールは全部またたく間に小瓶に移され、各人に分配されてしまった。いくつかの瓶が「コレラ治療薬」と記され、残りの瓶は「マラリア治療薬」と記された。前者の瓶には純粋アルコールが入っていた。後者には変性アルコールが入っていた。後者のアルコールは飲めるように、熱したパンと焼いた玉ねぎで濾過しておいた。
遠征の準備が続いた。グルジェフは、いかに早く処理するか知っていたが、絶好のチャンスが来るまで、必要とあれば長時間待つことも知っていた。このときもまた、彼の判断が正しかったことが証明されたのである。
パスポートや許可証や推薦状や身元証明書などを取り寄せなければならなかった。持って行く全装備品に加え、馬やラバも連れた私たち一行が乗る鉄道貨車を手配する必要があった。
我々のパスポートがどうやって入手されたかの経緯から、グルジェフの先見の明、つまり将来必要となるあらゆるものや、普通では入手できないものを見通した上で計画を立てるグルジェフの能力が説明できると思う。
前述したが、エッセントゥキを出発する約6週間前に、グルジェフがシャンダロフスキーに、ソビエト当局へ行って法科出身者を必要とする政府の職を志願するようにと言い、我々をぞっとさせたことがある。シャンダロフスキーは辣腕家だったので、職を得ただけでなくすぐに昇進し、間もなく旅券その他の関係書類を発行する課の課長になっていたが、「教師」「庭師」「引退者」または一介の「労働者」といったエッセントゥキの市民であることを記載したソビエトのパスポートを、我々全員に手配するようにグルジェフから指示されていたことは言うまでもない。医師、エンジニアー、近衛将校等々の身分を証明した帝政ロシアの書類だけで国境地方の奥地に行けば、共産党員から「人民の敵」とみなされ、ただちに銃殺されてしまう。
全員のパスポートが整い、準備万端でき上がると、グルジェフはシャンダロフスキーに、2週間の休暇をもらってくるようにと言った。休暇はわけなく与えられた。翌日、我が遠征隊はエッセントゥキを出発し、シャンダロフスキーは二度とその地へ帰らなかった。
持って行ける物は全部背負わねばならなかったので、婦人たちは手持ちの布でリュックサックをこしらえた。夏服のほかに社交の場で着る服も持って行かなければならない。ありとあらゆる可能性や成り行きを考える必要があった。男性は70ポンド、女性は50ポンドを背負わねばならない。それだけの荷を背負えるようにするため、グルジェフは規定の重量の石を詰めたリュックを我々に背負わせて、夕刻に庭を往復させることもあった。また、婦人たちのなかに星座を知らない人がいたので、主だった星座や北極星を見つける方法も教えた。言うまでもなく、遠征には必要な知識である。
また別の夕刻には、彼の言う「意識して歩くこと」も教えた。「山中の夜は真暗闇だ。絶壁から墜落したり、思わぬ危険にでくわすことがある。」と語ってから、歩き方を説明した。片足、例えば左足に体重をかけ、右足で前の地面に触れる。地面が堅く感じられたら体重を右足に移し、今度は左足で地面の感触を探りながら歩くのだ。この歩き方は練習しなければならなかったが、のちに山中でいかに役立つかが証明されたのである。遠征をひかえての準備は物的側面にとどまらず、心理作戦にも及び、参加者全員にとって過酷と言えるほど厳しいルールを敷いたグルジェフの訓話をもってその頂点に達した。
彼はいつものように食卓のまわりを歩きながら、「行くことを決意する前にめいめいがきわめて慎重に考えなければなるまい。遠征隊員はもはや夫婦とか兄弟、姉妹ではない。遠征期間はリーダーである私に絶対服従を守れ。命にかかかる危険を伴う探検だ。あらゆる命令は厳密に遂行されなければならない。違反すれば、死という処罰も免れない。」と言いながら、大きな連発銃を食卓の上に置いたのである。
前の年に彼と小規模な遠征をしていた私には、こういう絶望的とも言えるルールは例外なく、これから遭遇する障害をありありと想像させるためなのだということがわかった。彼がみなを無事に山越えさせ、一人も重傷を負う目に会わせたりしないということや、隊員に課せられた服従はエッセントゥキでの経験に共通するということもわかっていた。こうしたルールに従うことを私は少しもためらわなかったが、一つだけとても気になることがあった。革命以来のあらゆる事件、例えば長期に渡った私の病気などで、妻が疲れ果てていたということなのである。私は妻を思いやった。妻は何も言わずに、遠征にそなえて力をつけるために一、二週間2人きりでどこかへ休養に行かせてもらうようにグルジェフにお願いしてくれないか?と切なそうに言うだけだった。私は彼に話に行った。表通りだったのを覚えている。
「グルジェフさん、あなたがなさることや要求することは何もかも私たちを思ってのことであり、私たちが発展するための手段なのだということはわかっています。しかし妻は現在とても疲れているんです……。」私は休養したいという妻の気持ちを伝えた。彼は怒らずに、たいそう優しく私を見つめて答えた。
G「私があなた方に要求することはどれもあなた方のためであるのがわかっていると、今言ったばかりじゃありませんか。そんなことを言い出すとは。」
妻にまた大変な努力が要求され、まだ休養する時期ではないということが言い渡されたわけである。その後、妻には十分なエネルギーがあったということが証明された。
遠征に備えてグルジェフが準備したのは人間だけではなかった。表通りで、研究所の鹿毛馬に長い綱をつけている彼を見かけたことがある。綱のもう一端で腹を打たれた馬は、後足で立ち上がった。なぜそんなことをするのか見当もつかなかったが、のちに赤軍兵士たちが馬を徴発に来たときにその理由がわかったのである。我々の生命がかかっている馬だというのに、グルジェフは庭のベンチに泰然と腰掛け、何も言わずに成り行きを見ていた。2頭の馬が連れて行かれるのをただ黙って見ている彼に、妻は怒りさえ感じたほどである。
一、二時間すると、危険きわまりないと言って赤軍兵士らは馬を返しに来た。馬はまったくうまく仕込まれていたのである。兵士が一頭の馬に近づいて手綱を握ったとたん、馬は後足で立ち上がり、兵士を宙づりにしたということだった。もう一頭は兵士の腹に噛みついたという。2頭とも兵役不適格として返された次第である。そればかりか、グルジェフはこういう馬を手なずけ、使いこなす、少なくとも必要なことをさせうるように私たちに教えたのである。
出発の前夜は忘れられない。私たち夫婦がグルジェフと行動を共にしたのは、過去が完全に崩壊したとか、彼を媒介としてボルシェビキから逃れようとか考えたためではない。そんな考えや思いは一度として心をかすめたことすらなかったということを、ここで釈明しておきたい。ロシアでボルシェビキが権力を維持するなどということは、当時誰も夢想だにしなかった。妻も私も、前首相とか、コブネツェフ伯爵とか、どこかで安楽に暮らそうと誘う権力者たちを大勢友人にもっていた。
グルジェフと共にいることが、私たち2人の心からの願いだったのである。とはいうものの、出された条件を全部受け入れなければならない時点が近づくにつれ、遠征参加希望者たちに与えられた警告を注意深く検討せざるをえなかった。妻は、グループ全体にかくも危険や災難をもたらしかねない遠征に参加すると誓う覚悟はできていないと感じていた。自分は遠征をあきらめ、私を自由に彼について行かせようというのが妻の偽らざる気持ちだった。2人して夜通し話し合い、結局妻も行くことに決め、他の仲間たち全員と同じように、条件を全部受け入れるとグルジェフに誓ったのである。
あわただしい最後の準備が始まり、残していく物は全部トランクに詰めた。私たちの持ち物はペトログラードから移動したとき盗まれたものもあり、ほとんどが衣類やシーツなどで数個の重いトランクのなかに入っていた。トランクは地下室へ移し、材木の下へ隠すことにした。グルジェフはそのトランクの一つを軽々と背負い、地下室へ運んでいった。

(中略)

出発は、1918年8月6日に決まった。女性5人、男性7人、それに14歳と12歳の子供2人が総勢の遠征隊だ。その朝、全員が遠征服に身を固めた。女性はスカートとブラウス、男性はチューニックのようなリンネル製のロシア式シャツを着用した。ベルトには「薬」の入った2つの瓶を入れた袋と、斧、小さい調理鍋などをぶら下げた。グルジェフもリンネルのシャツを着て、消防夫のベルトを締めた。手荷物や手押し車や馬と共に一行は鉄道の駅へ向かい、割り当てられた2台の貨車に乗る段取りだった。
出発までにまだ一時間ほどあり、グルジェフはみなに公園を散歩してよいと言った。人々が大勢やって来る音楽の時間だった。公園でブルガリアのラドコ・デミトリエフ将軍と、今にして思えば悲痛な出会いをすることになったのである。ブルガリア・トルコ戦争の英雄だった将軍とはその冬に知り合ったばかりだが、旅装姿の私に目を止めた将軍は、どこへ行くのか?と興味深そうに話しかけてきた。科学遠征に出かけるのだと答えると、「もう少し若かったら、私も一緒に連れて行ってくれと頼んだろうに。」と残念そうだった。エッセントゥキがパニック状態に陥った3週間後に、ラドコ・デミトリエフ将軍、ラスキー将軍をはじめ、多数の近衛将校が逮捕された。近くの山へ連行された彼らは穴を掘らされ、銃殺され、息のあるうちに穴へ投げ捨てられ、土をかぶせて埋められたという。私は近衛将校だったので、エッセントゥキに留まっていたなら、彼らと運命を共にしていたことは間違いない。
我々はついに2台の貨車でエッセントゥキを出発した。一台は隊員用、もう一台には馬を乗せた。のろのろとした貨車だ。アルマヴィルに着いたのは翌日だった。到着すると、貨車は別の線路へ移されることになった。アルマヴィルには母の姉にあたる叔母が住んでおり、これが最後であるのはわかっていたので、叔母に会いたいと思った。翌朝まで発車しないと言われていたので、グルジェフは私と妻に出かける許可をくれた。町はボルシェビキに掌握されていた。交通の便は何もなく、歩いていかねばならない。兵士たちがパトロールしている。私たちはわざと手の爪を汚し、コートを裏返しに羽織り、妻は頭からショールを被り、私は労働者の帽子を被ってパトロールの目を惹かないようにした。手鼻をかみ、ポケットにはヒマワリの種をいっぱい入れ、グルジェフから教わったように、労働者風に種を噛んでは吐き出した。こうして無事に叔母に会い、駅へ戻ったのである。ところが貨車は消えうせ、妻も私も恐怖におののいたが、あまりいろいろと尋ねることは避けた。貨車が別の線路に移されたということがやっとわかったが、誰もどこに移されたのかは知っていない。なんという恐ろしさだろうか。一行と離ればなれになってしまった。私には数時間にも感じられたが、実は数分のうちに私たちを捜しているシャンダロフスキーの姿を見つけた。当時、砂糖はなかなか手に入らなかったが、彼は人民委員として、近くの店から大きな袋詰め砂糖を2つも購入する許可を得ていたのである。私は一緒に店へ行き、砂糖袋を2マイル以上も離れた貨車へ運ぶことなど少しも苦にならないほど安心した。こうして夜遅く貨車へたどり着いた。
ロウソクの明かりを頼りに、グルジェフは直ちに砂糖の塊りを分配し、みなそれぞれ50個ずつもらった。こうした遠征に砂糖は貴重品である。
翌日、一行はマイコプに到着した。グルジェフは医者のシャンボール先生に全員の書類を持たせ、その地区のソビエト当局へ行き、旅程を進める許可を得るように使いに出した。先生は出かけたままなかなか帰ってこなかったが、やっと戻った彼は、マイコプではカザックと赤軍が交戦しており、この先へ前進するのは不可能だというニュースを持ち帰った。ソビエト当局は我々一行にマイコプから2マイル離れた無人の農場にしばらく留まるようにと提案した。この上もない提案だ。我々は貨車から荷物を下ろし、農家へ案内された。美しい農場で、家の持ち主はずっと前に出て行ってしまっていたが、母屋も他の建物もちゃんとしていた。がらんとした馬屋と牛小屋があり、納屋には干し草が山高く積まれ、その上で寝ることさえできた。農場は森の外れにあり、美しいホワイト・リバーに通じる小路が森を通り抜けている。川には跳び込み台のついた水泳場さえあった。
遠くで銃声が轟き、我々の頭上をヒューッと飛び交う弾丸が川向こうの山に当たり、岩石が川に落下することもあったが、みな気にしなかった。ああした非常時には、天国のオアシスともいうべき場所だった。海洋では暴風雨の最中でも波風一つ立たない穏やかな場所がある、とグルジェフがエッセントゥキで語ったことがあった。革命の最中でもそうなのだ。人々が平穏に暮らせる場所があり、そこには動乱の波紋は及ばない。革命の渦巻く数年間、グルジェフは私たち一行を次々と平穏な地点へ導いていった。誰もそのことに気づかなかったが、事実はそうだったのであり、後日改めて彼の果敢な指揮に感嘆したのである。さしあたり、これから先の真の「戦場」(内面の闘争)が始まるまで、一行はこの美しい場所で3週間ほどくつろいだ。
北コーカサス山脈をひかえるこの地域は、ロシアで最も肥沃な地帯である。素晴らしい気候に恵まれ、夏は暑くからっと晴れ、人々の暮らしも豊かであり、市場には欲しいと思う食料品は何でもあった。
最初から、グルジェフは我々一行を4、5人の小グループに分けた。どのグループにも食物を購入し、調理を担当する人がいた。私たちのグループでは妻にその役が与えられた。炊事はキャンプ・ファイアーの上に立てた三脚に鍋をつるしての野外調理だった。間もなく私はグルジェフと食事するように言われたので、妻は自分自身と他の2人の男性のためにだけ料理しなければならなくなった。そのうち、もう一人の男性もグルジェフと食事するように言われたので、最後に残ったのは妻が特に好感をもたなかった男性だった。数日後にはこの男も別のグループに入れられ、妻はたった一人になってしまった。一日中農場で働いていた我々が一緒になれるのは食事時だけだったので、妻にとって一人で食事するのはさぞ辛かったことと思う。
毎夜誰か2人が夜警に当てられた。いくらグルジェフが早起きであるとはいえ、翌朝彼が起床するまで目を閉じずにいるのは、一日中きつい仕事をしたあとではいかにも辛かった。夜警で重宝したのは小さな角砂糖である。節約して大切に消費することも覚えた。だが、南部ロシアの夜の美しさを知ったのもこのときである。空が時計だった。星座を見て真夜中が過ぎたとか、午前2時になったとか、間もなく日の出になるということがわかった。やがて起床する人たちのためにキャンプ・ファイアーを起こしてから納屋へ行き、正午まで眠ったものだった。
夜警の当番でないときは、グルジェフから一任された婦人の監督のもとに馬の手入れをすることで朝が始まる。馬には手こそ触れないものの、馬の手入れを完璧に保つのが彼女の責任である。私たちが力いっぱい馬をこすってやっていると、監督官が来て「ここがまだこすり足りない」とか。「あそこをもうちょっと」とか言われたものだ。私たちを苛立たせるための計算された行為であり、私は苛立ちを表さないようにじっと堪えた。それだけでなく、この時期の生活が実に素晴らしかったので、怒るということはできなかったと言えないこともない。
このころ一風変わった人たちに出会ったが、その一人はインドから祖国フィンランドへ帰る途中の仏教徒だった。何かの宗派の指導者で、近くの山荘に弟子たちと住んでいた。背が高く、長いひげを生やした中年の男で、踵まで届くシャツを着て、腰にベルトを締めていた。訪ねると、たいへん丁重に迎えてくれた。トマトやその他の野菜を細かく刻み、樽に入れて塩をふることに余念のない様子だった。彼らは菜食主義者である。
もう一人、並はずれて風変わりな人もいた。裸足で、すり切れたケープをまとい、膝までしかない破れたズボンをはき、非常に上品な脚を露わにしていた。背が高く、縮れ毛が顔を囲むように生え、かなり長いひげをつけていた。彼はたいへん率直に自己紹介した。近衛師団の将校だったということだから貴族であったわけだが、放浪者としての生活を選び、昔の生活に戻りたいという気持ちはまったくないという。この人が正直で善人であることに間違いはないという感じを受けたので、彼を連れて農場へ帰った。ソチに着くまで我々一行と起居を共にしたが、ソチから先は単身で彼自身の道を行った。この男が何者であったにせよ、ぼろを着ていたとはいえ、堂々たる風采の人物だった。
不愉快な経験は一度しかなかった。鞍に将校の肩章をぶら下げて馬に乗った兵士が来たときだ。勇猛果敢な革命兵士のように見せたかっただけなのか、それとも実際に将校を殺害したばかりだったのかはわからない。何者か?とか、なぜこんなところにいるのか?などと尋問したのち、すぐに馬を疾駆して立ち去ったきり何事も起こらなかったのだから、我々の回答に満足したのに違いない。
マイコプが白軍に占領されたので、また遠征が続けられるようになった。例の仏教徒が恐怖におののきながら語った話では、マイコプヘ様子を見に行ったところ、市内へ入ってすぐ目にしたのは死体がいくつもぶら下がっている絞首台だったという。彼は目撃した光景の恐ろしさに身を震わし、心の底から残虐行為に対する怒りをぶちまけ、フィンランド人のアクセントも露骨に、「ほら、彼らは絞殺するんだ、あそこで絞殺するんですよ……」と言った。
白軍が前進してきたことを知ったボルシェビキは、近隣の男を一人残らず徴兵し始めた。わが一行の男性たちが取られないように、グルジェフは男性メンバーを馬の隠し場にしている川の堤防へ送った。丈の高い草が群生する隠れ家で我々男性は一日中身をひそめ、女性たちが食事を運んでくれたのだった。
白軍がマイコプを占領したときに私は市内へ行ってみた。幸いにして絞首台はなかったが、キャンバスで覆われた二輪の荷車があり、覆いの下は戦闘で死んだ人の肉塊や骨の断片や、ずたずたになった死体の山であることが識別できた。町の大きな広場に建つ二階家のそばでは、それまで隠れていた50人ほどの白系ロシア人が集まっている。好奇心からその家へ入ってみると、なかも大勢の人でいっぱいだ。カザック帽を被った将校が私のそば を通り過ぎた。たぶん市を占領した連隊の指揮官であろう。彼はあっという間に人々に取り囲まれ、戦況や軍の命令などについて質問攻めになった。
私は外に出た。かなりの危険を冒したことに気づいたのはそのときである。労働者のシャツの上に、ベルトを締めていただけなので、容易にボルシェビキに思われかねなかった。身分証明書を持っていなかったし、たとえ持っていたとしても、ああした興奮状態では役立たなかったであろう。無事だったとは、ありがたい。急いで農場へ帰ったが、途中、赤軍から解放された兆しがいくつか目に止まった。
帰ってみてわかったのだが、我々一行が白系ロシア人として通過できる通行許可証を入手するために、グルジェフはいつものように医者のシャンボール先生を使いに出していた。当局は一行のパスポートを承認したがらず、先生が思案にくれていると、その場にペトログラード時代からの旧友である海軍大将が現れたので、すぐに一切の手配がととのい、ピストルや銃を所持する許可もくれたということだった。
翌日、お茶に招待された海軍大将が農場に到着した。グルジェフは愛想よく迎え入れ、自家製のチョコレート入りビスケットをふるまった。大将からグルジェフの話を聞かされた数人の中年婦人も一緒に来た。この人たちは神智学協会のメンバーだった。大きな樫の木の下で、熱心に傾聴する婦人たちに囲まれたぺトロフの姿が、今でもありありと目に浮かぶ。内戦のただなかでは奇妙な会合だった。
2日後の夕食時にグルジェフは、夜が明け次第農場から出発すると発表した。夕食後、テントに必要な長い棒を入手するため、彼はみなを連れて材木工場へ行った。彼が渡すテント用の棒を受け取ろうとした際に、そのうちの一本が私の手から滑り落ち、いやというほどの重さで自分の足の親指に当たった。あとになって気がついたのだが、爪が2つに割れていた。
翌朝、我が一行は荷物をまとめて前進した。きわどい出発だった。次の日マイコプはまたもボルシェビキに掌握されたのである。だが、一行は無傷のまま動乱の地をあとにしていた。
だだっ広い道が、刈り入れのすんだとうもろこし畑のなかを曲がりくねって通り抜けている。ある場所では内戦を物語る2列に並んだ浅い塹壕を越えなければならなかった。その次は腰までつかってホワイト・リバーを渡った。川床の石に荷車がはまり、外そうとして車を押している最中に、私は大切な手斧を落としてしまった。やがて裕福そうな大きい村にさしかかった。シャンボール先生が一行の書類を持って役人のところへ行くと、すぐに通過させてくれた。ところが、数マイルほど進んで小休止していたときに、小銃を構えた数人のカザック人がこちらを目がけて遠くから全速力で馬を走らせてくるではないか。非常時の場合こうした光景を目にすると、ひどく不安を感じるものだ。つまり、相手が誰なのか、本当のカザック人か、それともボルシェビキなのか、皆目不明なのである。書類を見せる場合必ずまずグルジェフを見て、彼がどちら側のひげをひねるか、右か左かを確かめてから書類を出すということを仲間うちで前もって決めていた。遠征隊員はみな帝政ロシアの書類と、ボルシェビキから特別入手した例の書類を持っていた。そういうわけで、一行はそのままの状態を続け、シャンボール先生だけがカザック人たちに会いに行き、グルジェフのところへ案内した。彼の身振りからボルシェビキではないことがわかるのに大して時間はかからなかった。みな白系の書類を出すと、彼らは邪魔した詫びまで言いながら立ち去った。
夕方にまた大きな村に着き、その夜は空き家となった村の学校で過ごす許可を得た。みなへとへとに疲れていた。傷ついた足の親指がひどく痛み始める。横になれたらさぞ楽だったろうが、仲間たちや馬のために手桶で水を運ばなければならない。水をいっぱい張った手桶を両手にしたとき、腕が抜けそうになったのを覚えている。こうした超人的努力をする場合、肉体の疲労から生じる心理的抵抗を制しなければならない。私は、いわば外側から自分を見ているように自分自身を眺め、声を立てて笑った。効果てきめん、笑い声により、ここでもう踏ん張りすることがいかに重要であるか理解できたのである。それでもやはり、途方もない努力のように思えた。
こうしたときに「怠け者、努力を厭うな!」と一喝されたなら、怒り心頭に発するであろう。自尊心を傷つけられ、相手に食ってかかるだろう。この疲労の極を、誰がわかるものかと感じるにちがいない。真の「私」、愛と許しを想起しなければならないのは、まさにこうしたときである。真の私は怒らない。

(中略)

翌朝、日の出の時刻にペトロフとCが遠方に見えたが、グルジェフの姿は見えない。病に倒れたのである。ペトロフたちは先発隊の到着した村の農夫2人を連れている。急いで馬に荷を積み、リュックサックを背負って彼らについて行く。一時間ほど後に、美しい流れに沿った小さな空き地で休息した。私と妻はまたとないほど平穏な心で空き地に腰をおろし、ぺトロフとCが持って来てくれた食物を食べた。
間もなく小銃の音が数発聞こえてきた。羊飼いが野生の山羊を狩っているのだろうと思い、誰も気に止めなかった。すると、さらに数発が鳴りわたり、銃弾が道に当たるのが見えたが、みな、羊飼いに違いないと思っていたので、銃弾の方に向かって叫んだ。
「やめろ! 人間なんだ!」
だが、またも銃弾がこちらの方に飛んでくる。我々を目がけて撃っているのだということに初めて気がついた。妻に、岩の後ろに隠れ、リュックをその上に置くようにと叫ぶと、みなそうした。こちらにはたった一丁の壊れかけた連発銃と、子供の小銃があるだけだった。逃れられるチャンスはまずない。この小さな空き地を囲む山の両側に、こちらに銃口を向けた数人の、正体不明の姿が見え始める。私は連れていた少年に、こちらからは発砲しないという合図として、小銃を投げろと言った。合図に応えて2人の男が岩陰から現れ、近づいてきた。他の2人は山の上から照準を当てたまま動かない。近づいてきた2人の顔はまっ黒に煤を塗っているので見分けられない。2人とも大きな連発銃を手に、肩から真新しい弾薬筒のベルトをつるしている。コーカシアなまりの卑猥な言葉で、農夫たちに山の向こうへ消え失せろとおどしてから、我々には道の真ん中へ出て両腕を上げて立てと言った。そうしたあとで、一人一人の身体を探ったのである。彼らに小銃を奪われたくなかったので、私はすきを見て脇へ投げ捨てた。妻も、スカートの内側に下げていた小さな宝石袋を、魔法瓶や手斧や鍋をつるした大きなベルトで支えられるように、着ていた胴着のなかに隠してしまい、袋がずり落ちないように固く筋肉を張りつめていた。みな、手を挙げて銃口の前に立った。その場で撃ち殺されるかもしれないと思ったが、恐怖は感じなかった。グルジェフと一緒だから恐ろしいことは起こりえない、と心の奥深くで固く信じていたのだと思う。あとで妻は、この数分間に浮かんだ思いといえば、才能に恵まれたうら若い私がこのまま命を失ってしまうのではないか、ということだけだったと語った。
「タバコを吸ってもいいかい?」と仲間の一人が叫んだ。
これが緊張感をほぐしたらしく、盗族たちは銃を構えたまま、「腕を下ろして空き地の一番外れへ行け。」と言った。だが、妻には、「そこに残って荷を全部開けろ。」と脅した。そう言われた妻は、荷を開けるだけでなく、宝石袋が地に落ちないように体を張りつめていなければならなかった。盗賊たちはもう一度妻の体を探ったが、小さな袋には気がつかなかった。彼らは魔法瓶を解体したが何も見つからないので、「金銭はどこにある? ずっとあとをつけてきた、金銭を隠していたのも知ってるぞ!」とすごんだ。妻は、金銭を持ち歩くような馬鹿げたことはしない、村に置いてきたと答えた。すると盗賊たちは、我々になくてはならないブーツやレインコートなど、欲しいものを手当たり次第にかき集め始めたのである。妻は渡すまいとしていちいち彼らと言い争っている。私が前線へ発つとき、部下たちからもらった銀細工の小さな革製の化粧道具セットを見つけた彼らは 「こんなものを持っているのはブルジョワだ!」とわめき立てた。妻は、自分は歌手であり、村の劇場へ巡業に来る場合は身なりを整えなければならないのだと説き伏せてしまった。盗賊たちは、「セットは持ってないな。」と諦めた。彼らが馬のところへ行き、馬の背の荷物を開け始めた隙に、妻は高々と積み上げられた掠奪品の山から、私にとってなくてはならないレインコートやその他の物を取り戻してしまった。すっかり荷物を調べ終えた盗賊どもはすぐにも立ち去りたいらしく。「さあ、早く仕度しろ! 山の下でもおれらの仲間が待ち伏せているぞ!」と言い残し、山を登り始めた。ところが、妻は彼らを追いかけ、小さな紙きれを差し出して、役立つものは全部持って行ったということを書いてくれと頼んだのである。一人が何やら走り書きを残し、みな一斉に逃げていった。
我々は手早く荷造りして出発したが、みな手足が震えていることに初めて気がついた。行く手は見通しがきき、盗賊がいるならば、我々一行を撃つのは簡単だった。だがそれ以上賊に会うこともなく、何事も起こらなかった。あとで気がついたのだが、妻の拉致という事態さえ起こりえたのである。幸いにも、妻は棒切れのようにやせていた。この地方の男は太った女性しか好まない。

石楠花(しゃくなげ)の密生する藪を通り抜けてから、初めてみな深々と呼吸した。一秒を惜しむ不休の前進を続け、3時間後にはグルジェフと先発隊が待っている村へ着いた。グルジェフは少しも関心のない様子で事件の報告を聞いていた。そればかりか、何も言わなかったのである。このために妻はひどく感情を害された。とはいえ、庭の梨の木の下に張られ、中にはカーペットまで敷いてあるたいへん結構なテントに案内されたので、大部屋で他の連中と雑魚寝することは免れた。この村に数日間滞在し、休息した。
グルジェフが大型四輪馬車を借り、個人の携帯品は全部馬車の上に縛ったので、肩にくい込む荷の紐から解放された。一行は、夾竹桃(きょうちくとう)の咲き乱れる森を抜けてゆく美しい道を進んだが、足の親指が化膿し始めた私にとっては、歩行することは辛かった。その上、私も妻も有毒の草で脚に水泡ができ、痛みに悩んだ。
これほどの辛苦に耐えられるだろうか?
もちろん耐えられる。私たちの目的はありきたりな生活に満足することでもなければ、生命をながらえることでもない。なぜここへ来たのかということを想起するかぎり、どんなことでもできるのだ。
真の信仰(宗教にみる地獄の苦しみを恐れての信仰ではない)について、グルジェフがエッセントゥキで語った言葉を思い起こす。
「信仰とは、感情という名の知識である」
この知識は危機に際し、燃焼し、光を発す。遠征中にこの言葉が真実であることを私たちは体験したのである。
翌日、ババコフという村に着いたときはひどい土砂降りだった。グルジェフは一行の荷を積んだ馬車を疾駆し、先に行ってしまった。はるか後方に取り残された我々は、木の下にかたまって荒れ狂う豪雨から身をかばった。村に着くと出迎えがいて、グルジェフのところへ案内してくれた。
グルジェフは、一目で好感のもてるポーランド人技師の家に部屋を借り、我々の到着を待っていた。のちに、技師は一行に加わった。蒸し風呂があることもわかり、風呂が用意され、婦人たちのあとで男性が入浴したが、みな満喫した。寝台は一つしかなく、言うまでもなくグルジェフが使い、我々はみな満足して床に寝た。
エッセントゥキを発つ前に、山中でドルメンがいくつか見つかるだろうということをグルジェフが言っていたが、彼は百姓たちとの話から、そういうドルメンの一つを猟師が知っているということを聞き出した。翌朝、彼と一行のうちの何人かが猟師たちと一緒に出かけ、わけなくドルメンのある場所に来た。そのあたりは何年か前に人が住んでいたように見受けられたが、猟師の話によると、以前、百姓たちがドルメンを鶏小屋にしていたという。このドルメンは、一個の岩をくり抜いた、7、8フィート平方の四角い箱状の重い石だった。箱の蓋は、一枚の大きな平たい石で、ドルメンの側面に、直径10インチか12インチほどのまん丸な穴があった。妻が、どうにかこうにかこの穴の中へ入ってみたが、中は空だった。私はこの穴が東南側に位置していたのを覚えている。ドルメンは祭壇であるという説もあるが、かなり疑わしい。グルジェフは、ドルメンは入門(イニシエーション)の場所を示す道路標識であったのかもしれないと語った。彼は猟師たちに、この森の中でまだほかにもドルメンを、たとえ壊れているものでも見かけなかったか?と尋ねたが、ほかにはないということだった。するとグルジェフは何かを測定し、進行方向を決めた。道々細い木切れにハンカチーフを結び、道しるべにするようにと言った。鬱蒼とした原生林の中へ入っていくには手斧を使わなければならなかったが、すぐドルメンに行き当たった。草や灌木で覆われているが、原形を保っている。3つ目のドルメンも見つかったが、壊れた石の蓋が傍らに散らばっていた。このドルメンの中も空だった。この地域を隈なく知っていると自慢していた猟師たちは言うに及ばず、私たちも計算に基づくグルジェフのドルメン発見に少なからず驚いた。
ドルメンの点在する場所から下降するには危険な急傾斜を下らなければならなかった。ガイド役の猟師たちは森の一番深いところから連れ出してくれたものの、その先には道らしい道もなく、山は45度に傾斜している。どうやって下山するのか?と聞くと、ガイドは大真面目に、尻をつけて滑り降りるという意味のことを言ったが、実は活字にするにはいささかはばかられる表現だったのである。グルジェフが嫌みなく大笑いしたこの言葉は遠征隊員の合言葉となり、その後困難に出くわすたびに何回となく使われた。
翌日の夕刻、一行は黒海沿岸の美しい町ソチに着いた。町はサーカシア人たちが取り戻していた。グルジェフに、「去年瀕死の私をこの町の病院まで運んでくれましたね。またここへ来ましたが、今回は確かに生きていますよ。」と言った。
「どうやって恩返しする?」という彼の言葉に、「ワークを理解することで。」と答えたのである。

10
トーマス:
ソチに着いた一行は2、3の最高級ホテルに分宿し、それぞれ黒海を見晴らす部屋に旅装を解いた。みな夕食前に洗顔し、手持ちの晴れ着を着て、グルジェフが宿をとったホテルの応接間に集まった。ピアノを指しながらグルジェフは、2ヶ月にわたる徒歩旅行をすませたばかりの人だということも気にしない様子で、私の妻にラクメの「鐘の歌」を聞かせてくれないかと頼んだ。
優雅とさえ言えるこうした雰囲気の中で、長期間の窮乏状態と対蹠する豪華なディナーを満喫した。
さて、寝台のなかで惰眠をむさぼれる、という快い思いに満足しながらダイニング・ルームを出ようとしたときである。「トーマス・アレクサンドロヴィッチ!」とグルジェフから呼び止められた。
彼が私をこのように呼ぶときはかしこまった場合に決まっていて、しかもその後に良いことなんて続いたためしがない。「明朝早く、6時前に起きて広場のホテルへ行きなさい。あそこに馬をつないでおいた。燕麦と水をやってくれ。」と言われてしまった。月光のもと、静かにきらめく海面を眺望する窓辺で、しかも本物の寝台に体を延ばせる心地よさを想像し、私は長時間ぐっすり眠りたいという強烈な欲望にかられていた。その欲望を充足させることもあたわず、早朝に起床し、片足をブーツに、もう一方の、爪先が化膿した足には寝室用のスリッパをつっかけて、馬のつながれている所へ行かねばならぬ羽目となったのである。だが、あらゆる障害を克服したのち初めてゴールに到達するというお伽話の発想が、幸いにも私の内に深く根を下ろしていたので、少しもむっとならなかった。いかに疲労の極にあろうとも、必要とあらば自分自身を叱咤激励し、とるべき進路へ努力を向けると、内なるエネルギーが嵩を増し、新たな力の噴出を体験する。そうなると、さらにいっそうの努力がしやすくなるものだ。
次の日、一行の馬と犬はホテルの前にある小屋に移された。動物の世話は相変わらず私の役目だった。着古したコート、けったいな履き物という姿で、両手に桶を下げ、毎朝ホテルのキッチンへ餌を取りに行った。馬の手入れをすませ、桶を下げてホテルへ戻ると、テーブルを囲んで朝のコーヒーを楽しむ上流社会の人たちのあいだを通り抜けた。そのなかには知人も大勢いたが、キスロウォックヘ絹糸を売りに行かされた時のような恥ずかしさを感じないのは不思議だった。
雑用を終えた私は、妻が朝食の用意をしているあいだに着替えした。ズッコフが来たのでみな一緒に朝食を取る。砂糖を添えたお茶、コーン・ブレッド、それに軽く炒めなければ食べられないほどばさばさしたコーカサス・チーズの朝食だ。この旅行中に、私たち夫婦はズッコフととても親しくなっていた。

何の前ぶれもなく、「遠征は終わった。」とグルジェフが言った。メンバーを扶養する資金が尽きたから、これから先の生活設計は各人が立てるようにと言う。私はその場で、どんなことがあっても私たち夫婦は彼のもとを離れないことに決めた。さしあたってグルジェフはソチに留まるというので、我々もそこで暮らす方法を考えなければならなかった。モスクワのメンバーは、ボルシェビキから白軍に奪還されていたエッセントゥキに帰ることにした。このメンバーのうち2人がエッセントゥキに母親を残している。ザハロフはモスクワのメンバーと行動を共にした。今でも心の痛む思いに苛まれるが、これ以後彼らと再会することはなかったのである。ザハロフは天然痘にかかってロストフで死亡し、残りのメンバーはマイコプヘ行き、ペトロフはそこの国立学校の校長になった。ティフリスに移動したとき、グルジェフはペトロフに、ティフリスへ来るようにと連絡したが、来なかった。北コーカサス全域が再びボルシェビキに占領されると、ペトロフはモスクワに帰ったが、間もなく音信不通になってしまった。
モスクワの仲間が行ってしまうと、夫婦で家を捜しに市内を歩き回った。庭のある、洒落た2階家の前を通りかかると、妻が自分たちに格好な家だとつぶやいた。翌日、妻はまたその家を見に行ったが、2階のベランダ付きの部屋が空いていたので、すぐ借りてしまった。家主の家族はみな親切だった。家事をしたことのない妻に、家主の奥さんが料理やアイロンのかけ方などを教えてくれた。ズッコフもこの家の一室を借りた。シャンボール先生夫婦は近くの友達の家に住まわせてもらった。
グルジェフもこの近所にいるいとこの家に住むことになった。この時も、まるで何もかも前もって手配されていたとしか考えられない具合だった。馬小屋がかなり離れていたので、私は毎朝遠くまで餌をやりに行かねばならなかった。別の仕事もあった。遠征に使った2つの大きいテントの縫い糸をほどき、青い縞模様のカンバスを市場へ売りに行くように言われたのである。カンバスは農民たちがズボンに欲しがる布地だ。グルジェフに高い値で売るようにと言われた私は、何のためらいも感じなければ恥ずかしいという気持ちにもならなかったが、ただ、高くは売れないかもしれない?と不安だった。市場へ来てみると、目抜きの場所は他の商人たちでいっぱいだ。商いにかけてはずぶの素人の私は、市場の外れの草原にカンバスを広げ、客が来るのを待った。みな通り過ぎていくだけで、誰も見向きもしない。やっと一人が立ち止まった。また一人増える。2人ともカンバスを眺めているだけで値段を聞きもせずに行ってしまったが、引き返して来て、いくらか?と訊く。グルジェフに言われた値を言うと、客は信じられない様子だ。高すぎるのだろうか? それとも、そんなふりをしているだけなのだろうか? 私は、言い値より安く売りたくなかったが、次々と人が来ては行ってしまうので、思い切って値を下げた。すると、すぐに一人が買い、2人目が買い、3人目も買い、またたく間に小さな端切れさえ残さずに、全部売れてしまった。売上げをグルジェフに渡すと、「ちゃんとした値で売ってこなかったね。」と言いながらも、満足したようだった。
次の日は防水布を売りに行かされた。大きく、重いターポリンを肩に担いで市場の中央へ出かけた。私はすでに「いっぱし」の商人である。500ルーブルで売ってくるようにと言われたが、そんな値段では誰も見向きもしないだろう。そのうち、山高帽の男が立ち止まったので、急いで「お買いなさい」と呼びかけた。客は言い値を受けたが、家まで運んでくれと言う。私はターポリンを担ぎ客と一緒に歩き出した。ちょうどその時、「ハートマン、いったい何をしているんですか?」と呼びかける声がした。見上げると、昨年ここの病院でチフスの手当てをしてくれた医者だった。再会を大いに喜び合ったことから私が何者であるかを知った山高帽の男は、少なからず驚いた。彼は私たちにたいへん好意を寄せ、後に2頭の馬も買ってくれた。
妻もこの時期に大した経験をした。グルジェフのいとこは肺結核の末期だった。シャンボール先生が病床に付き添っていたが、数夜にわたる寝ずの看病で疲れていた。グルジェフから「一晩だけ付き添ってはくれないか?」と頼まれた妻は、そうしましょう、と言って、その夜を病人の傍で明かしたが、それが最後の夜となったのである。咳き込みの苦しさを安らげようと、妻が病人の背を支えてやっているあいだに息を引き取った。かつて人の臨終に居合わせたことのなかった妻には、明りが消えるときのような驚くべき印象だったという。

ソチで新しい生活が始まり、市場へ物売りに行くという性に合わないことはもうしなくてすんだ。私は音楽家の生活に戻り、妻も歌手として収入を得るようになった。2人の音楽活動がヒットしたのだから、音楽を「断食」していたことは有害ではなかったわけだ。グルジェフとの仕事においては、断食も労働も大して長くは続かなかった。どの段階も果てしなく続くのではないか?と思えたが、いつも意外なほどすぐに終わってしまった。
グルジェフは、遠征に上等な服を持って行け、と念を押したが、その意味がやっと解けたのである。大の音楽愛好家であるソチの郵便局長と、ズッコフが親しく交際し始めた。郵便局には大コンサートホールがあり、ホールには2級のピアノを据えた大きなステージがついていた。局長がこのホールを私たちに自由に使わせてくれたところ、ものの一月もしないうちに「興行主」のズッコフが妻の演奏会(もちろん本名は使わなかった)を宣伝するポスターを印刷させた。
私はといえば、可愛いお嬢さんたちにピアノのレッスンを始めたが、みな本気で学ぶようになった。
クリスマスにズッコフ企画のコンサートが再度催されたので、暮らしはかなり楽になったし、美しい環境や温暖な気候も、この時期の生活を幸せなものにした。このころグルジェフは「サーカシア人将校クラブ」へ日参した。クラブは、我々一行がソチヘ着いた当日、彼がたった一泊だけした大きなホテルの中にあった。将校とは別に、ペトログラードやモスクワから南部へ逃れてきた豪商や金持ちもクラブを使っていた。彼らは当時流行したトランプ遊びに夜な夜な興じていたのである。トランプでもグルジェフは玄人だったが、かくもトランプに熱した理由が政局を知るためだったとわかったのは、しばらくしてからのことだった。近くに白軍がいたのでソチは一触即発の危機にさらされており、あわや撃ち合いという時は、未だ旧政権下にあったティフリスへ向けて発つ、というのが彼のプランだったのである。当時の状況下でティフリスへ行くには、船でポティまで行き、そこから列車に乗る以外に手がなかった。
風吹きすさび、海荒れ狂う厳寒の一月中旬にグルジェフが来て、「船の警笛が聞こえたら一時間以内に棧橋に来るよう、荷物をまとめなさい。」と言った。翌日警笛が聞こえたが、吹雪のため船は埠頭に入れなかった。2日後にまた警笛が鳴った。海は依然として大荒れで、小さなボートさえ岸に近寄れない。私たちはボートから差し出された細い板の上を渡らなければならなかった。こうして乗船したものの、小さな船はすぐ満員となり、ノミやシラミに悩まされた。雨にさらされながら2階のデッキでまる一昼夜を過ごすと、翌日は晴天、向かい風の凍てつくような寒さになった。遅延すなわち燃料枯渇という危険をおしてついにポティの埠頭に船を入港させた船長は、さすがに嬉しそうだった。ポティはソチから大して遠くなく、しかも南寄りの位置にあるのだが、ひどい霜だった。棧橋で客を拾うタクシーの運転手が駅まで行く私たちにべらぼうな料金をふっかけたが、やむを得ず乗客となった。ティフリス行きの列車は翌朝まで出ないので、駅で一夜を明かす。想像を絶するほど汚く、一般人や兵士たちでごった返していたが、幸運にも親切な駅員がいて、夜が明けるまで空車の中で過ごさせてくれた。
翌朝8時に厳寒のティフリスに着いた。グルジェフは親戚の人たちに出迎えられ、妻と私はティフリスの中心街の安ホテルへ案内してもらうように頼んだ。7年前に泊まったオリエンタル・ホテルが手の出ないほど高いことはわかっている。オペラハウスの近くにある並のホテルに入った。以前だったらとても耐えられないホテルだが、ストーブに火が燃え、部屋の中は暖かい。妻も私も夏のコートを着ていたので暖かいのが何よりだ。鉄のベッドも藁のマットレスも大して気にならない。食べる物を買いに外へ出た。コーカサス産の見事なりんごとパンを買い、ティフリスで最初の2人きりの食事をした。
翌日グルジェフに会いに行く途中、旧友の作曲家ニコラス・チェレプニンにばったり出会った。ティフリスで再会とは、彼も驚いていた。
この地域はまだ旧政権下にあったので、チェレプニンは相変わらずロシア帝国音楽協会付属のコンセルバトワールで総長をしていた。
私がティフリスに着いたばかりであるのを知ると、「作曲を教える教授の地位についてくれないか?」と言う。私は勧めを喜んで受け、2日後には大きなクラスを受け持った。ティフリスのコンセルバトワールにはコーカサス全域から生徒が集まり、2,000人の学生がいた。担任した作曲のクラスには、とび抜けて才能のある生徒が12人いたが、その中にチェレプニンの息子、アレクサンドルも入っていた(今日彼は有名な作曲家である)。ティフリスはなかなか文化的な都市で、パリのオペラ・コミックにひけをとらないほど大きいオペラ劇場と、回転ステージ付きの劇場があるほかに、サーカシア人クラブや、アルメニア人クラブがあり、こうしたクラブには演劇用のホールが完備されていた。かいつまんで話すと、着いて間もないよそ者の私がチェレプニンのおかげで、芸術や演劇を中心とするティフリスの文化的サークルの一員となったのである。間もなく、国立オペラの監督からオペラ劇場の芸術委員会に加わるように勧められた。そのころオペラ劇場では、カルメン役を演じる一流歌手をペトログラードから招いての特別ショーを企画していた。オペラ劇場のオーケストラも指揮していたチェレプニンが、一度も劇場で歌ったことのない私の妻にミカエラ役をやらせる案を出し、「とうとう本当に娘らしく見えるミカエラが出せる。」と言った。
特別ショーの舞台は誰がデザインするのか?と尋ねると、ド・サルツマンという有名なアーチストが担当するという答えだった。この名前を聞かされると、フィーリックス・モットーについて指揮を勉強していたミュンヘン時代の記憶が甦り、当時、アレクサンドル・フォン・サルツマンという有名な画家がいたのを思い出した。サルツマンのフルネームを尋ねたところ、ほかならぬこの画家だということがわかったので、早速彼に会いに行ったのである。それ以来、彼とは劇場で毎日顔を合わせることになったが、彼の家へは一度も呼ばれなかった。後日わかったのだが、ド・サルツマンが妻君に私たち夫婦のことを話すと、「連れていらっしゃい。でも奥さんは駄目よ。」と言われたそうだ。ド・サルツマンは、「いや、そうはいかないんだ。2人一緒に呼ばなけりゃどちらも来やしないよ。」と答えたという。
当時我が家に彼を招待するわけにはいかなかった。家に人を呼ばなかったのは、グルジェフがそうすることを嫌ったからである。何週間かするとド・サルツマンが私たち夫婦を彼の家へ呼んでくれた。初めての出産を控えた夫人は外出しなかった。みな働いて生活を支えなければならない時勢だったので、ド・サルツマン夫人もダルクローズ・システムの舞踏を教え、授業にはうらやましいほどよいピアノのある陸軍士官学校のホールを使っていた。ティフリスのダルクローズ・スクールはサーカシア政府が後援していたので、夫人はオペラ劇場での発表会を計画していた。
ド・サルツマン夫妻と回を重ねて会ううちに、やがて話題はグルジェフの教え(彼の名は伏せたまま)に及んだ。あるとき、道案内、つまり、師の必要性について話がはずみ、「実はそういう人にめぐり会えたんだ。」と洩らしてしまうほど私の胸は軽く興奮していた。相手が話題の人物をつきとめようと本腰を入れてきたので、グルジェフに話してみると、2人を連れて来てもよいと言った。そこで、復活祭の日に彼らを連れ、グルジェフを訪ねることにした。その時の話は記憶に焼きつくほど、とりわけ興味深い内容だった。夫妻が去ってから、グルジェフにどんな印象を受けたか聞いてみると、こう言った。
「なかなか立派な人物だ。奥さんは、賢い。」

エッセントゥキで教えられた「宗教舞踏」の話をすると、ド・サルツマン夫人はグルジェフに、授業を見に来てくれと頼んだ。彼は私たちと一緒に授業を見学に行った。生徒はみなギリシア風の衣装を着けた綺麗なお嬢さんたちで、広々としたホールの中央に円をなして立っていた。グルジェフはみなに挨拶したのち興味ありげに見ていたが、ものの5分か10分で立ち去った。数日後また見学に来た彼は、すぐ生徒たちに「整列!右へならえ!左へならえ!」と軍隊調で号令した。
そのあとで一列横隊に並ばせた生徒の前で、「“宗教体操”を始めるには、まず最初にターンの仕方を学ばなければならない。」と語ってから、私のピアノの和音を伴奏に、軍隊式にターンしてみせた。こういうことは私にとってはまったくの驚異だった。私と妻がエッセントゥキに着いた日に、ウスペンスキー夫妻や他の連中が軍隊式行進をしてみせても驚きはしなかった。しかし、優雅なギリシア舞踏に憧れているはずの年若いダルクローズの踊り子たちが内心何と思ったかは、想像に難くない。とはいえ、何の悶着も起こらず、授業が無事に終わっただけでなく、この体操が直ちに正課として教えられることになったのは意外だった。そんなことがあって、生徒の公演会のー部として「宗教体操」と「宗教舞踏」も上演してはどうかと、ド・サルツマン夫人がグルジェフに提案した。
初演が成功すると、グルジェフはもう一度公演することにした。実は、今度はみんなに別の経験をさせたい、というのが彼の真意だったのである。2回目の公演にはダルクローズ・ダンスは上演されず、舞台装置についてもド・サルツマン夫人は一切口を出さないということになった。大部分の生徒から、夫人とダルクローズを無視したことに対して抗議が出たのは言うまでもない。そればかりか、グルジェフは、彼の「体操」を舞台で公演するのだから生徒に少額の金を支払うと夫人に言ったのである。こうなると、生徒たちは金を支払われることを拒否し、軽蔑したように抗議し始めた。ド・サルツマン夫人はひどく心をかき乱された。グルジェフの仕事が意図する目標からこっそり抜け出し、彼女の自尊心と虚栄心を満足させる方が、はるかにましだったろう。だが、夫人は実に賢明だった。侮辱された様子は少しも見せず、教師としての威厳を保ち、グルジェフの仕事の正しさを生徒に納得させ、新しい「体験」(エクササイズ)を得る絶好の機会だと説得し、集中訓練のあとで公演を実現させてしまったのである。
劇場は満員ではなかった。だが、公演の目的は大勢の観客を集めることではなく、新しい経験をさせるための状況を創造することにあり、おそらく、何よりもまずマダム・ド・サルツマン自身のためにそういう状況をつくるということに、グルジェフの意図があったのではなかろうか。
このころ、妻と私は音楽活動に集中していた。生徒の数や演奏会の予約を増やすために、もっと大勢の人々に知られる必要があった。私たちはそれまで借りていた一室よりましな部屋を見つけた。
応接間にピアノがあり、家人も親切でピアノを自由に使わせてくれたので、練習や作曲に専念できた。室内楽のコンサート用の曲目を準備したり、妻の演奏会に予定された歌をコーチしたりしなければならなかった。
あるとき、こうしたコンサートの一時間半前だというのに、グルジェフはド・サルツマン夫人の生徒に「体操」の授業を与え、その伴奏を私に弾かせたことがある。コンサート・アーチストにとってはまったく異例な経験だ。その上、エッセントゥキで習った難しいエクササイズも、生徒たちのためにやって見せるように言われた。その一つは、体重を両手にかけ両足を非常に速く動かすエクササイズだった。グルジェフが授業を終わらせたときには、市の公会堂で開かれるコンサートの開演まで、30分しかなかった。
着替えをした生徒たちは、グルジェフとド・サルツマン夫人に連れられ、一人残らずコンサートへ向かった。難しい体操をして見せた直後に会場でピアノを弾く私を見て、お嬢さんたちは感嘆したのである。私には、グルジェフと共に仕事する人が多様な面で必要な機能を果たせるということを、彼がお嬢さんたちに見せたかったのだということはわかっていた。これは、自分に与えられた一種のテストだった。
いったい私はどういうピアニストだったのだろうか?
間もなく、ミカエラ役を歌う妻にもテストの番が回ってきた。劇場で歌ったことのない妻には試練だった。開幕直前に高熱を出した妻は落ち着かない。

オルガ:
衣装を着けたカルメンの舞台稽古はたいへんうまくゆき、そのあとで舞台をセットしたままミーティングが開かれました。ステージの片側に監督を先頭にしてチェレプニン、ド・ハートマン、ド・サルツマン、主役のソプラノ(その歌手がいなければ、このオペラの公演は成立しなかったのですが)、私の順に席につきました。私はオペラ歌手とはみなされず、ド・ハートマンの妻にすぎないと思われていたのです。ほかの歌手や出演者は、ステージのもう一方の側に腰掛けました。すると、リハーサルでは少しも気がつかなかった一種の嫉妬が、この人たちから感じられたのです。
開幕前になるとド・サルツマンさんが、あとでメーキャップを手伝いに来てくれると言い、衣装をつけて、髪はババリアの山の娘のように2つの長いおさげにしなさい、と教えてくれました。指揮者のチェレプニンはリハーサル中たいへんやさしく気を使い、舞台はないものと思いなさい、と幾度も注意してくださり、「指揮者である私のバトンだけを見ていなさい。ステージでは間違いということがよくあるから、オーケストラとバトンに気を配っていなければいけませんよ。」と言われましたが、感謝の気持ちでいっぱいです。
上演中、ドン・ホセとの二重唱の場面で、彼がリハーサルの時とは違う台詞を歌い始めたではありませんか。急いでチェレプニンを見ると、彼はにやっとうなずき、そのまま続けるようにと手で合図しました。それで私はドン・ホセなんか目の前にいないといった気持ちで歌い続けたのです。私が舞台に立ったのはこれが初めてでしたから、相手役の間違った台詞のために、わけなく混乱させられ、間違っているのはこちらなのだと考えたかもしれません。
休憩時間にチェレプニンが来て励ましてくれました。「さあ、最後の幕ではミカエラが一人で山の中にいるだけです。相手役を気にしないですみますよ。だから、自分が感じるように歌えばいい。私はそれについていきますから。」
第四幕になると、会場の後方に黒い点のようなものが見えました。聴衆の中に黒い帽子をかぶった人はいないのを知っていましたから、グルジェフだということがわかり、おかげでたいへん心強く思えました。彼が前もって言ってくれた言葉があります。
G「おびえたら、ただ一点を見ていなさい。そこに私がいますよ。会場の、ほかの誰のことも考えずに歌いなさい。」
ミカエラの祈りは実にすばらしく歌えました。ひざまずき、高オクターヴのドをピアニシモで歌い出し、感情をこめて、ずっとその音を出し続けたのです。思いがけず満場の拍手が起こり、しばらくのあいだ鳴りやみませんでした。
のちに私はミカエラ役を何回かやらされ、そのほかにリゴレットのギルダの役も勉強しました。
とはいえ、私は健康がすぐれず、日に日に弱っていったのです。ド・サルツマンさんが、彼の知っている著名な医者に連れて行ってくれました。医者は、「あなたは肺に疾患がある。すぐに高原のサナトリウムに行かなければ、今後健康についての相談は受けられない。」と言いました。医者はオーストリアの大きなサナトリウムを勧めてくれましたが、行けるだけの余裕がないので、グルジェフに相談しました。
彼から毎朝ベーコンを食べるようにと言われ、また赤ワインを一本持って来るように頼まれました。数日過ぎると彼はワインを私に返し、そのワインを小さなグラスに一杯だけ食前に飲むようにと言いました。冬でしたが、毎日戸外のテラスで安静にしていなければなりませんでした。
家にあるだけの毛布をかけ、毎日12時から13時まではテラスで横になっていました。こうしてグルジェフから言われたことは全部守りました。3週間後にド・サルツマンさんと一緒にまた医者のところへ行ったのです。診断が終わると、医者は、「肺の中にあった感染部分はほとんど失くなっている、私の勧めに従ってサナトリウムに行ってくれてよかった。」と言うのです。私は、「サナトリウムには行きませんでしたが、他の治療を受けていました。今こういう診断結果を聞いてとても嬉しい。」と返事しました。
このころグルジェフは大きなホールを見つけ、運動のクラスとミーティングを始めたのですが、私には健康上の理由から運動はやらせてくれず、会計係にさせられ、クラスに来る人たちから金を集める役をまかされたのです。

トーマス:
この頃になるとコンセルバトワールでの私の授業は順調にいっていた。個人教授も始めたので、暮らしはずっと楽になり、例えば、毎日私がレストランから家へ買って帰る正餐は、それまでのように一人前ではなく、二人前になった。朝と夕方はコーンブレッドと、りんごでつくった「お茶」ですませた。寒い冬でも夏服しかなかったが、グルジェフと一緒であるかぎり、大して恐ろしいことは起こらないと信じていた。
音楽活動の範囲が拡大し始めた。新聞に寄稿した最初の論文で、アルメニアの作曲家コミタスの伝記を紹介し、彼の合唱曲と独唱のための声楽曲を論評した。それ以来コミタスの作品を曲目とするコンサートがある度に、彼について講演した。妻もコミタスの声楽曲を原語で習い、こうしたコンサートで歌った。アルメニア人自身がこの優れた作曲家を知らず、彼らの文化に占めるコミタスの地位をあまり理解していない。
アルメニア音楽に加え、サーカシア人たちも彼らの民俗音楽を編曲してくれと頼みに来た。この仕事に私は毎日2、3時間費やした。私たち夫婦は毎晩のようにオペラ劇場の監督と、ド・サルツマンと、民俗音楽の専門家と夕食を共にした。次シーズンに私が指揮することになっている演奏会の話が尽きず、劇場の監督と私たち夫婦は親密の度を深めていった。

11
トーマス:
間もなくグルジェフは、私と妻に新しい仕事を与えた。アルメニアの首都エリヴァンヘ行き、コンサートを何回か開くように言われたのである。私の名がアルメニア人たちに知られていることと、アルメニアの作曲家コミタスについて書いた論文のおかげで、この仕事が果たせた。冬のあいだに妻がコミタスの歌曲を原語で学んでいたので、アルメニアの曲目にも西洋音楽の曲目にもこと欠かなかった。トルコとの戦いが終わったばかりだったため、列車による旅行自体がただ事ではすまなかった。客車の座席は退却する軍隊の手で散々荒らされていた上、チフスをうつされるおそれのあるシラミやナンキンムシを避けるために、床に殺虫剤をまかなければならない始末だった。
道々、ひどく荒廃した場所を通過した。トルコの侵略により、アルメニア人たちは餓死状態だった。
アルメニア共和国の首相から聞かされたが、たった一ヶ月前には、数百人もの人々が路上で餓死していくありさまを彼自身が目撃したという。私たちが着いたときにはアメリカから小麦粉が送られ、大規模な飢饉はなくなっていたが、列車が市場を通過した際、死体のように座ったまま、じっと死を待つ数人の浮浪者が見えた。
駅から市内へ行く交通の便がないので、一マイル半の道のりを歩いた。ホテルにも部屋がなかったが、ここでまた、異国の人たちの人情深さが苦境を救ってくれたのである。知り合ったばかりの他人が、将校たちが立ち退いてちょうど空室となったアパートを見つけてくれた。たった一つある家具は、細板を何枚か乗せた鉄の寝台だけだった。6月の初旬なので非常に暑く、ノミやシラミを恐れ、床や、板や、寝台にケロシンをまいた。私は床に寝なければならないので、寝る場所にケロシンで魔法の輪を描いた。妻は板の敷いてある寝台に寝た。ケロシンを撒いたのだが、虫が壁を伝って天井に這い上がり、私たちの上に落ちた。
車中の惨憺たる一夜にも劣らぬ状態の夜を明かすと、コンサートの準備に追われた。案内状を夕イプしたり、著名人を訪問したり、そのほか細々したことが沢山あった。だが、こういったことはどれも、果たさなければならないと同時に果たしうる「特別なワーク」として受け入れれば、苦にならない。
3つのコンサートを準備した。一番目は西洋音楽とロシアの音楽、2番目はコミタスについての私の講演と、彼の歌曲を妻がアルメニア語で歌うリサイタルからなり、3番目はいろいろなプログラムのコンサートにした。当時アルメニアには英軍が駐屯していたので、2番目のコンサートに英国人の将校が一人聴きに来ていた。演奏が終わるとこの将校が舞台裏に来て、こんな時勢にどうやってティフリスからエリヴァンに着いたのかと聞き、いつ帰るのか教えてくれればもっとましな交通の便宜をはかると言ってくれた。

最終日にはサルパザン・ホーレン大主教からお茶に招待され、大司教とその宵を過ごすことになった。大主教の家はエリヴァンの最高部にあり、ザンガ河を見下ろす垂直に近い絶壁の上に建っている。地平線まで広がる緑の草原のかなたに、アララット山の2つの峻峰(高くそびえる峰と、やや低めの峰)が沈む太陽の光線に照らし出されていた。夜の帳がおりると、満月の光が生暖かい南部の大気を染め、アララット山は霞に包まれた。忘れえぬ光景だった。こうした眺めを背景に中近東音楽が流れた。ターというアルメニアの弦楽器の名手である大主教の身内の人が招待されていたのだ。「バヤティ」旋法を基調とする多様な形態の歌と踊りのための狂想曲が演奏された。
グルジェフは、エリヴァンヘの旅を通して私たちが本場の音楽とその演奏家たちに接することにより、彼自身の音楽について理解を深め、その解釈や楽譜による表現方法を研究させたいと考えて、この機会を与えてくれたのである。こういう経験の真価を知るには、グルジェフと生活を共にして自己の注意力を発達させ、不必要な連想によって気を散らさずに印象を強く吸収できるようになっていなければならない。
帰途に際しては例の英軍将校が列車に特別客車をつけてくれたので、その中におさまった私たちは楽々とティフリスに戻れた。

夏期の劇場公演はティフリスからボルジョムヘ移動し、私たちも2、3週間ほどそこで過ごした。
ボルジョムは、稀に見る美しい高原のリゾート地で、ティフリスから列車で約10時間かかり、ビシー水のように有名な鉱泉水の泉がある。グルジェフもボルジョムヘ来た。コンサートを中心とする生活が始まり、私は指揮に没頭し、妻も時々、私の指揮するコンサートで歌った。ある日、グルジェフが彼の外套(がいとう)を持ってきて、「外側は擦り切れ色褪せているが、内側はまだ立派に使える。外套を裏おもてに仕立て直せるだろうか?」と妻に言った(当時ロシアでは何も買えなかった)。裁縫をしたことのない妻は自信がなく、あえてやってみたとしても、グルジェフには外套が一着もなくなるということになりかねないと恐れた。すると彼は、「とても易しい」と言った。
「ほどく前に縫い目に沿って白糸でしるしをするだけだ。そのあとで縫い目を引き裂くようにほどき、ほどきながらアイロンを当てなさい。古い折り目を平らにし、新しい折り目をつけるんです。裁縫上手の秘訣は丹念に白糸に沿って縫うことと、アイロンの当て方ですよ。」彼は、どうしても仕立て直しが必要だと言う。しかも、手で縫わなければならず、アイロンは石油コンロで温めなければならない……たいへん骨の折れる仕事だったが、ついに妻は仕立て直しを完成させた。のちにグルジェフはこの外套を何年も何年も着用したのである。彼がしばしば言った言葉を挙げよう。
「一つのことを上手にする方法を知っていれば、あらゆることができる」

秋にはみなティフリスへ戻った。ティフリスでグルジェフはエッセントゥキ時代のようなワーク・センターを開いたが、ティフリスの生活環境に相応した形態をとった。まだ暑かったので、我々メンバーが住んでいた家のテラスでスタートした。シャンボール先生と、ド・サルツマン夫妻と、私たち夫婦がいた。グルジェフは、彼がティフリスに創立したいと願っている研究所について概要を説明した。そのあとで、「こういう研究所にどんな名前をつけたらよいだろうか?」と質問した。みな、彼が語り終えた話の内容を全部つなぎ合わせる名前を考え出そうとした。我々が出した名前は、ことごとく没になった。最後に、歯みがきのチューブをしぼるようにして考え出したのは、「調和的」(ハーモニアス)という語だった。
あとになって私にははっきりわかったのだが、グルジェフはこの名前にすることにしばらく前から決めていたのである。だが、既成の語を与えるかわりに我々の努力でその語を見つけるようにしむけ、奮闘させ、この語がみなの頭に浮かぶまで主題と取り組ませたのだ。こうして最後には彼の望んだ名前が研究所につけられたのである。
「人間の調和的発展研究所」と命名された。
大きな部屋が見つかった。グルジェフがピアノを購入したが、よいピアノではない。彼は言う。「よいピアノなら、誰だって弾ける」と。
必修訓練で始まる「体操」が再開され、ピアノを弾く必要のないときは私も「体操」に参加した。単純な動作による最初の運動は次第に複雑さを増し、腕と足と頭にそれぞれ異なる運動をさせ、同時にカノンを復唱する込み入った運動に発展する。私はこういう運動をよく知ってはいたが、実際にやってみると非常に難しい。頭で理解しただけではできないということを認めざるをえなかった。多量のエネルギーと集中した注意力が要求される訓練だ。初めのうち私はあどけない子供のように、いつになったらチベットの寺院で伝授される秘伝の訓練を教えてもらえるのだろうか、と思いめぐらしたものだった。そのうち、訓練の価値はその起源を知ることではなく、訓練を通して得られる内面の経験である、ということに目が開かれたのである。
人の数が増し、「体操」に使われている部屋が狭すぎるようになった。「よい家を見つけてあげる」とサーカシア政府が約束したが、約束は果たされなかった。グルジェフは時間を浪費するようなことはしない。オペラ劇場の監督が融通してくれた部屋で、『魔術師たちの闘争』のテキスト口述が始まり、その日の夕方にはこのバレーを上演する下稽古に移り、同じ生徒たちが、白い魔術師の美しい舞踏と、黒い魔術師の醜い舞踏の両方を演じた。

私の生活についてグルジェフは、音楽も個人教授もコンセルバトワールも、何もかも放棄せよと言い出した。そうすべきではないという事と、この要求を満たすことは不可能だということは、私には明白だった。そんなことをすれば一銭の収入もなくなる。そこで、彼の仕事に私が必要な場合はいつでも来る、障害となるものは一つもない、ただしそれ以外の時間は自分にとって必要なことに使う、と答えた。一日中拘束される劇場の仕事は止めなければならなかった。コンセルバトワールの授業と個人教授は7時には終わってしまう仕事なので(グルジェフが8時前に私を必要としたことは一度もない)作曲家としての地位を維持することができる。行く先何が起こるかはわからない……何もかも放棄することは適切な行為ではあるまい。私は彼が前に言ったことを思い出した。
「マスターベーションをするように言われても、私の言うことを聞くのかな?」
自分の判断が正しかったということが、後になって証明されたのである。
仕事は継続していったが、政府が約束した研究所の為の家は依然としてたんなる口約束にすぎなかった。グルジェフはティフリスでの仕事を止めると言い出した。すると、ド・サルツマンが猛烈に精力的になったのである。政府の高官たちをあしらうコツを知っている彼は、サーカシア人の読んでいる「悪魔の鞭」という風刺雑誌に漫画を描き始め、間もなく彼の描いた風刺画がその雑誌に掲載された。エリヴァン・プレイスと呼ばれるティフリスの大広場に、ありとあらゆる家具や、皿や鍋や釜が古びたストーヴの回りに散乱し、その中央にグルジェフが生徒に囲まれ、みな外套を着てうずくまっているという絵だった。「連中は、やっと引っ越せた」という見出しがついていた。効果てきめん、市の役人たちは一階に大きなホールのある川向こうの2階家を、すぐに融通してくれた。次の問題は、家具をそろえることだった。まず最初に「体操」のためのホールを用意しなければならない。ピアノはあったが参加者全員が座れる何かが要る。数人の仲間が材木場へ行きベンチにする木を運んできた。グルジェフがどこからか、ハンマーと石目やすりと鋸を持ってきた。その場で大工仕事が始まった。グルジェフ自身があらゆる仕事に手を下し、専門の大工であることを証明してみせた。5、60人が座れるベンチがつくられ、塗装され、壁の回りに配置された。ベンチは講義のときにも座席として使われた。こういう仕事がきわめて短期間に完了してしまった。

グルジェフがこの家に引っ越してくると、まだ幼い娘さんを抱えるド・サルツマン夫婦にも同じ家に住むように、と言って譲らなかった。エッセントゥキで私たち夫婦にしたことと同じだ。
土、日を除く毎夜8時に「体操」が始まる。一時間前にサモワールを温め、砂糖を添えたお茶と小さな甘いパンが出されたが、私たち夫婦には食べたくとも手をつけるわけにはいかないご馳走だった。というのは、グルジェフが茶菓にとても高い値段をつけ、ティフリスでたった一軒残っているカフェと同じ値で売ったからだ。彼は、誰がそんな贅沢に金を出すかを知りたかったのだ。とはいえ、売上げが研究所を助けたことも確かである。
何回かサーカシアの国立劇場から50人ほどの生徒が「体操」のクラスに送られてきた。彼らは知識階級に属す人たちではないが、舞台に憧れる気のよい単純な青年たちだ。グルジェフは特別に考案した訓練をやらせたが、簡単なエクササイズだった。
生徒たちの収入は研究所の支出に満たなかったが、誰も余分の金を稼ぐ時間がなかった。そういうわけで、グルジェフはクリスマス前夜にド・サルツマン夫妻と私たち夫婦を招いてくれたが、彼の注文したものといえば、蜂蜜とドライフルーツ入りの伝統的なライス・プディングと、そのほかのクリスマス用料理2、3品にすぎなかった。品数も量も少ない質素な夕食に加え、食事の場所もがらんとした寒い部屋だったが、グルジェフと一緒の食事がいつもそうであるように、このときも十二分に満たされる食事だった。この宵を、物のあり余るぬくぬくとしたクリスマス前夜と交換したいとは思わなかった。
『魔術師たちの闘争』の集中訓練がいつ始まるのかということが、初秋以来ずっと私の気にかかっていた。春に上演するのなら、仕事の速度を上げなければならないということは、それまでの私の舞台経験からはっきりしていた。グルジェフから、「第一幕の音楽は好きなように作曲しなさい。」と言われていたので、そうしたのは言うまでもない。ある夜、彼が食事から戻ったところを私にせがまれ、とうとう第二幕の曲を口笛で聞かせてもらった。私は無我夢中で五線紙に略式記号で書き取った。しかし彼とのこれまでの経験から、上演間際になって全部変更ということになりかねないことも承知の上だった。
グルジェフは彼自身の姿を描いた第一幕の舞台をド・サルツマンにデザインさせた。第二幕のデザインもあった。舞台装置にはありとあらゆる材料が必要だが、針一本さえ買えない時代だったので、釘や針金などはどこにもなかった。竪型ピアノがあるというのに、グルジェフはぼろぼろに壊れたもう一台のピアノを運んできた。私はこのピアノを弾かせられるのかとぞっとしたが、「舞台に必要な鉄線や、木や、釘や、スクリューなどの宝庫ではないか。」と言われて平静を取り戻した。
舞台装置に使われるものは種々雑多で、その中には無数の小さな穴から電燈がきらめく紙の人形があった。グルジェフがつくった人形だ。電燈の光は調光器で調節され、その調光器も彼の手製だった。ある夜、どうやって電燈を点滅させるか実演して見せてくれた。

オルガ:
『魔術師たちの闘争』を上演する段取りが決まると、生徒たちも手伝って、全員の手で舞台に使われるデコレーションをつくりました。私の仕事は、黒い魔術師の霊が出てくる大きな壺をつくることでした。その壺は、観客には見えないように工夫されていますが、実はたくさんの小さな電線で覆われていました。
ある朝、ホールの入口へ来てみますと、グルジェフが斧でデコレーションを片端から壊しています。あれほど苦労し、工夫を凝らしてつくった美しい壺も例外ではありません。彼が発狂してしまったのだと思い、中へ入るのをためらいました。ガラスのドア越しにこちらを見たグルジェフは、「中へいらっしゃい」と呼びかけ、「なぜそんなに驚いてるんですか? やり上げてしまったのだから、もう要りません。ダンプ場へ持って行くだけですよ。」と言いました。後日初めて理解できたのですが、あれは、グルジェフの教えの中でも重要な原則の一つだったのです。全注意力と勤勉の要求される不可能に近い仕事をさせたのち、完成したものを破壊する。
なぜなら、
必要なのは仕事にかけられた努力であり、でき上がったものそれ自体ではないからです。

トーマス:
「『魔術師たちの闘争』が国立劇場で上演される。」とグルジェフが言ったとき、私には冗談のように思えた。コスチュームをつくる材料さえ不足していた時代である。だが、彼がこう言わなかったなら、生徒は彼の望んだ集中度をもって仕事しなかったと思う。『魔術師たちの闘争』は、真の仕事に必要な口実だったのだ。当時の我々は、グルジェフとの仕事が唯一の目標である、という理解に達しておらず、公演という表面的な魅力を必要とする段階にいたのだ。

春たけなわのころ、研究所は徐々に解散していった。グルジェフが彼の仕事の一時期を終えようとしていることは次第にはっきりしてきた。実は、彼はまた移動することを考えていたのである。
私を冷たくあしらい始め、モスクワ・アート・シアターとの仕事を嫌っているようだった。私はこの劇場から依頼されて、クヌート・ハムサンの一戯曲のための音楽と、タゴールの『ザ・キング・オブ・ダーク・チャンバー』の音楽を完成したばかりだった。グルジェフは「あの劇場は正しい方法を理解していない。真の劇場の概念に矛盾した劇場だ。」と言った。しかし私としては、グルジェフと共にいるための手段として稼いでいるにすぎなかった。この2つの戯曲用に書いた音楽は好評を博し、とりわけ劇場のアーチストたちに評判がよかった。とはいえ、こうした成功をかち得るには、忍耐を要したのである。
ある夏の夜に、ティフリス劇場の近くでグルジェフに出会った。彼は理由もあげずに、「すぐコンスタンチノープルヘ行く手はずをしなさい。」と言う。いったいどうやってコンスタンチノープルヘ行き、しかもそこで生活する手段を見つけろというのだろうか? 私はティフリス劇場に所属する作曲家バランチンから、彼の書いた音楽をオーケストラ用に編曲する仕事を依頼され、その前払い金として、かなりの金額を受け取っていた(バランチンの息子はパリでバレーの振付け師として有名になり、のちにニューヨークでも成功した)。依頼された仕事を仕上げる時間がなくなったからには、金を返さなければならない羽目になった。妻にはアストラカンのコートがあったが、あるときグルジェフから、「小さなコーカサス帽をいくつもつくりたいからそのコートをくれないか?」と言われたことがある。幸いにも、妻はコートを渡さず、のちにたいへんよい値で売り払い、グルジェフにも私にも内緒でその金を隠しておいた。
ティフリスにいる友人、TとMが、この地を去るという私たちの計画を知ると、私の作品を演奏する別れのコンサートを催すことにした。演奏会場として、ペルシアの一著名人のために同国人の建築家が設計したホールが選ばれた。ホールには細かい鏡を張りつめた細長い柱がたくさんあり、この種の美術を理解していた2人の友人は、電燈を使わせずに、長いロウソクに火をともさせた。小さな鏡に映る無数の光で、ホールは意外なほどの美しさに包まれた。ピアノには、豪華なペルシアのショールが掛けられ、ペルシアの花を絡ませた2本の大きなロウソクが楽譜を照らした。椅子のかわりに、ペルシア絨毯を敷いたベンチが客席として使われた。ティフリスのインペリアル・シアターに所属するテナーの名歌手と私の妻が、私のピアノ伴奏で歌った。モスクワ・アート・シアターの人たちが大勢聴きに来ていたが、会場にいたグルジェフはたいへん満足していた。

何日かすると、グルジェフも一緒にコンスタンチノープルヘ行くと言ったので、不安な気持ちは一掃された。コートを売って蓄えていた妻の金で、私たち2人の切符代と、グルジェフの切符代の一部が支払えた。
一週間後にバトゥムヘ行き、そこからコンスタンチノープルヘ向かうことになった。この旅行を知ったアルメニア人の友人から、バトゥムでコミタスのコンサートをしてくれと頼まれたので、この演奏会からの収入も旅費の足しになった。
バトゥムで、私は実に思いがけない喜びにめぐり合わせたのである。妻がコンスタンチノープル行きの切符を買いに行くと、予約制であることがわかったので、私たちの氏名と住所を残してきた。帰宅後、切符発売所から使いの者が来て、2人のクリスチャン・ネームを尋ねていった。その5分後に、想像を絶する驚きとはこのことであろうか、私の姉が現れたのである。姉はバトゥムの切符発売所長として生計を立てていたのだ。その会社の社長も私たちの友人のロシア人だった。出発まぎわに彼から多額の現金をコンスタンチノープルヘ持っていってくれないか?と頼まれた(国外への送金や持ち出しは違法だった)。妻は頼みを引き受け、預かった金を胴着の中に隠し、誰の目にもわからないように服を整えた。
数日後に出航し、ロシアをあとにしたのだが、これが二度と帰らぬ旅だとは思ってもみなかったのである。だが、グルジェフが一緒だった。

ボルシェビキがコーカサスにも潜入し始めていたので、せっぱつまった出発だった。穏やかな海を行く旅路は、ソチからポティへの旅とは比較にならなかった。
一等船室を予約する金がなかったので、最初はみなデッキに寝なければならなかったが、グルジェフには船長がスクリーンを持ってきて、プライバシーが保てるようにはからい、妻と私には、船客たちに音楽を演奏した返礼として、船長の作業用キャビンを使わせてくれた。そういうわけで、私たちは三晩とも快適に過ごせたのである。ところがコンスタンチノープルに上陸する前に、別の船で検疫を受けなければならないかもしれないということを知らされたので、預かってきた多額の金が心配になった。妻は、検疫の際に脱衣しなければならない、そうすれば見つかってしまう、と言って恐怖の思いに沈んでしまった。思い余った妻は預かってきた金のことを船長に話した。グルジェフも含めた他の乗客全員が検疫を受けているあいだ、私と妻は鍵のかかった船長室に閉じ込められ、検疫を逃れたのである。預かった金が無事だったので、妻はすぐ銀行に預けてしまう、と言いながら安堵のため息をついた。
ある晴れた朝、世界で最も美しい都、コンスタンチノープルに入港!
船長は私たちが住まいを見つけるまでもう数日キャビンを使わせてくれた。ケーブルカーで市のヨーロッパ側にあるペラヘ行った。どの駅でもトルコ人がオレンジジュースを売っているので買ってみた、うまい。ギリシア人の店でグルジェフと一緒に肉入りケーキを食べた。ティフリスの窮乏生活のあとでは何もかもが素晴らしい。市場にはあらゆる種類の食べ物が並び、トルコ人や占領軍の物資の豊富な生活に目を見張る。ロシアではコルチャック将軍が敗北し、ランゲル将軍の指揮下に、生き残った白軍がクリミアからコンスタンチノープルヘ撤退した。
着いたとき、私たちのポケットにはトルコの通貨でたった8リラしかなかったが、私は幸運な偶然を信じていたし、ここでもまた生活の糧を稼ぐことをすぐに学んだのである。
町なかを歩いていると、「小部屋貸します」という張り紙が目に止まった。親切なベルギー人の後家さんとその息子が家主だった。「内金としては8リラしか持っていませんが、残額は宝石を売って翌日払います。」と言うと、家主の女性は、「先に仕事を見つけなさい、そうすれば宝石を売らずにすむかもしれませんよ。」と言ってくれた。またも幸運に巡り合わせたのである。部屋は小さいながらも清潔で、場所はペラの中心だった。着いた翌日、私たちはウスペンスキー夫妻が市から船で30分ほどのプリンキポに住んでいることを知った。ウスペンスキーはYMCAに講座を開き、大勢の聴衆を集めていた。人間の霊的成長に関するその講座のために、彼はYMCAに日参していたが、グルジェフの研究所へ送る生徒育成が講座の目的だったのである(研究所は秋になるまで開設されなかった)。それはさておき、グルジェフ自身は治る見込みなしと言われて彼のところへ紹介されてきた精神病患者を治療し始めた。
 『魔術師たちの闘争』の仕事が再開された。第一幕に出る回教の修道僧の歌をグルジェフが歌ってくれた夜をまざまざと思い出す。この夜のことはウスペンスキーの『奇蹟を求めて』に記録されている。
3、4日後に、また私たち夫婦を驚かせることがあった。このときは妻の姉がロシアを脱出して、家族共々コンスタンチノープルにいることがわかったのである。2年前にペトログラードを離れてから姉家族とは音信不通だった。
私は、YMCA(灯台と呼ばれた)の校長と、その補佐と知り合いになった。校長は非常に親切なアメリカ人で、補佐はロシア人だったが、2人から一日5リラ(5ドル)で毎日音楽の講義をしてくれと頼まれた。間もなくコンサートが催されるようになり、妻もコンサートで歌い、これも収入源となったので生活は安定した。
しばらくするとYMCAで、ペテルスブルグのインペリアル・シアターの舞台監督に出会ったところ、妻が、『椿姫』(ラ・トラビアータ)の主役ソプラノが歌えるので、この歌劇を上演しようではないかという話になった。この当時コンスタンチノープルにはペテルスブルグから逃れてきた音楽家が大勢いたが管弦楽用の楽譜がなかったので、ピアノの楽譜を頼りに、ほとんどそらで演奏しなければならなかった。私はピアノを弾くと同時に指揮した。しばらく前にYMCAでは、貧しい人たちの衣服とするためのダーク・グリーンの布地をたくさん受領していた。布地が裁断される前に、我々はその布地を舞台の幕に利用した。衣装は現代風にした。(ベルディ百年祭のとき、トスカニーニ指揮のラ・トラビアータがそうだったのをイタリアで見ていた。)
いよいよ舞台稽古になると、妻は白いドレスを着た。その日まで貧弱な普段着姿の妻しか見たことのなかったステージ・マネージャーの驚きたるや、私の妻だということがわからなかったらしい。私のバトンによる即興のオーケストラも、何もかもすべてが完璧だった。売上げの半分がYMCAに、残りの半分が演奏家たちに支払われ、私たち夫婦の手に入った分け前は300ドルだった。2人で大喜びした。
翌日、グルジェフから、「その金でプリンキポに行って暮らしなさい。」と言われた。健康状態の思わしくない妻には、太陽と休息が必要だった。プリンキポでの「下宿先」は、トルコの元高官の邸宅で、間もなくグルジェフもやって来て同じ邸宅に住んだ。私たちはゼロからスタートしてラ・トラビアータ上演を実現させ、メンバー60人の優秀なオーケストラを築き上げ、そのオーケストラで2ヶ月に一回のコンサートが開けるようになったのである。当時のトルコの社会的習慣では、女性は公共の場に出なかったので、コンサートを催すたびに女性たちのための特別演奏も加えた。私のレパートリーが、ロシアとフランスの一流作曲家の作品と、ベートーベンとワグナーの作品だったのは、こうした管弦楽曲の完全な資料をフランス領事館の屋根裏部屋で見つけるという驚くべき幸運に行き当たったためだ。
しばらくするとフランス人の将軍が2人、私たちの部屋(狭いながらもピアノと寝台とキッチンの設備がある)に訪ねてきて、終戦記念日に私のオーケストラと妻の独唱によるフランス音楽のコンサートを開くように勧めてくれた。
グルジェフのあとを追う生徒たちがティフリスから来たので、彼は研究所を再開するプランを立て始めた。家はすぐ見つかった。一階は大きいホールでベンチがある。2階は彼の住居で、3階には生徒たちが住む。よい竪型ピアノを賃借りした。ウスペンスキーが背の高い青年たちを送り込んできた。彼らは驚くべき熱意をもって「体操」のクラスに日参した。
グルジェフはティフリスでやらせた訓練をそのまま続けて教えたが、新しい訓練も加えた。エッセントゥキでもそうだったが、ここでも仕事は注意力の強化に集中された。あるとき、いつものようにピアノを弾きながらクラスを見ていると、グルジェフから、彼の手書きによる高音部のメロディーを記した小さな紙片を渡された。私一人では両音部のメロディーが弾けなくなると、ド・サルツマン夫人が低音部を弾くように言われ、私が高音部を弾いた。こうして修道僧の舞踏が出来上がったのである。踊り手の修道僧が次第に数を増してゆくこの舞踏は、舞踏者が増すにつれ、この舞踏のもつ迫力と美しさが高まり、あらゆる宗派の修道僧に共通の、神秘的な力の盛り上がりが最高潮に達するのである。この舞踏の音楽を研究したり、書き直したりする仕事は実に興味深く、左手で弾く六度低いテーマ・メロディーをグルジェフが口ずさむと、その場で私がすぐ音楽に展開させた。弱音で弾く高音部の伴奏と、低音六度が融合し、調和した全体に発展形成していくさまは、感嘆のほかはない。高音部の次に、また小さな五線紙の切れ端を渡されたが、基調に異様な変記号がいくつもついていた。始めから終わりまで、単調なリズムの低音部のメロディーが続く。このメロディーが修道僧の舞踏のテーマをなす運動を表している。この舞踏がパリのシャンゼリゼ劇場で上演されたとき、グルジェフは何人かのオーケストラ・メンバーに、低音部と同じ音階の第二声部を弱音でつけ加えるように言った。第二声部は、舞踏の中で動かずに、単調に響く祈りを低く唱えている修道僧たちを表している。第二声部を加えたため、舞踏全体が著しく効果的になったのである。
しばらく経つと、赤いトルコ帽をかぶった高官が私に会いに来て、とても丁重な態度で、「トルコの報道機関は資金難に苦しんでいます。ついては、コンサートを開いてお助け願いたい。」と言った。私はその場で、トルコに滞在させてもらっているのだから、自分にできることなら何でも、報酬を無視して協力する、と約束した。グルジェフに話すと、東方のダンスと音楽を上演してはどうかと言われた。成功したので、その後何回かコンスタンチノープルだけでなく、近隣の町でも再演した。
しばらくすると、同じ高官がグルジェフと私たち夫婦をペラの回教寺院の祭司に紹介した。この寺院では金曜ごとに、祈祷旋舞の修道僧の礼拝がある。彼らが旋回するのを何回か見たあとで、祭司はグルジェフと私を寺院の地下室へ案内した。暑い日でも冷やっとする、カーペットの敷かれた地下室に座り、私たちはトルコ・コーヒーを飲んだ。礼拝の音楽を終えたばかりの楽士たちが笛と太鼓でトルコの古典音楽を演奏した。この音楽を譜に書き取りたかったのだが、聞くだけにしなさいと言われたので、注意を集中して聞き、帰宅するとすぐに記憶に留めたことは一つ残らず譜に書き取った。修道僧楽師の中でも最も優れた楽師やトルコ古典音楽の専門家は、みなメヴレヴィ修道会に属している。この教団は妻帯を認めている。私たちを連れて来てくれた高官はメヴレヴィの人だった。このとき聞いた音楽は、回教寺院そのもののように美しく、私の心に深く刻まれた。妻は高いバルコニーの鉄格子の向こうから修道僧たちの奏でる音楽を聞いたり、旋回する舞踏を見たりした。女性が男性と同じ権利をもっていなかった時代である。

オルガ:
夫とグルジェフが祭司と共に座っているホールへ、修道僧たちが一人一人静かに入場し、回り始めました。15人か20人ほどいる修道僧の中央に、長い杖を持った長老がいます。水平に広げた僧たちの腕が少しでも下がると、僧の肩に長老が杖を当てます。後年、メヴレヴィ修道僧たちがモントリオールやニューヨークに公演に来ましたが、同じ儀式とは思えないほど違っていて、宗教的な儀式というよりショーのような感じを受けました。外観ではなく、本当の礼拝を見ていた自分を幸運に思います。

トーマス:
ティフリスのときのように、今度はコンスタンチノープルでも、グルジェフは私に音楽活動を止めるようにと言い出した。ティフリスでは、言われたようにしなかったことに満足しているようだったが、今回は諸条件を勘案すると、止める必要があるように思えた。多くの時間を取られる指揮者の活動を諦めたため、すかんぴんになることもあった。妻が病気で金が要るのに、小銭しかないという日があったことを覚えている。終戦記念日に催したコンサートの謝礼にもらった花瓶があったので、売ることにした。花瓶には自分の名前と価格が付いたままだった。25リラ、店主はビター文も払いたがらない。おそらく私のファンと思うが、店にいた婦人が、2リラならと言った。必需品ぐらいは買える額なので、未練なく花瓶を手放した。名声の空しさとはこのことか。またもグルジェフに感謝したのである。
春になるとグルジェフは、ステージの上でムーヴメンツができるようにホールを劇場のように仕立てた。催眠術、遠隔操作、思考転移などのあらゆる超自然現象の仕事も開始されたが、コンスタンチノープルではこのプログラムに着手しただけで終わり、プログラムの進展をみたのは、フランスのプリオーレであった。この種の仕事の内容と意義については後述に譲るとして、ここでは、それが最大の注意力と敏速な理解力の要求される仕事であり、彼の言う「発展という仕事」の広義な意味において重要な目的をもつ、と言うに留めよう。
ある日、誰にも金がなくなると、みなホールに集まり、グルジェフを囲んでどうすべきか相談した。私にかなりの借金のある妻の弟が当時ニューヨークにいたので、彼に送金させるように電報を打っては?と妻が案を出した。数日後に300ドル送金されてきた。すぐにその金をグルジェフのところへ持って行くと、「何はともあれ研究所の家賃を心配するとはこの上ない。」と言ってから、私たちの家賃を払っても、当分のあいだ暮らせるだけの金を戻してくれた。
コンスタンチノープルの生活が急テンポで悪化し始めたので、グルジェフはベルリンへ移動することにした。妻と2人で別れのコンサートを催したところ、切符代を含めても優に一年はベルリンで暮らせるほどの、かなりの実入りだった。
最後の日に、グルジェフは私を騙した。これについては書いておかねばならない。
彼が、「トーマ、金がない。一日前にコンサートを開いたじゃないか……。」と言う。妻なら、彼が本当に困っている時とそうでない時の声の違いを知っているので、一銭も出さなかったに違いないが、私は騙されてしまった。我々一行が貨車に乗車しようとした時、ハマル(トルコのポーター)が熊の肉の入った袋をグルジェフのところに運んできた。「ありがとう、トーマ。おかげで、旅行用にこの肉が買えたんだ……。」と言ったものの、臭いをかぐと、袋を放り出した……。
この時も、グルジェフのあらゆる行為が、生きた知識を授けたいがための生徒を思っての演技なのだ、ということに思いを致したのである。

グルジェフと彼の妻、私の妻の姉家族、そして私たち夫婦の一行はベルリンへ向かった。貨車だったので床に座り、床に寝た。2日目の夜ソフィアに着いた。その夜、一行は線路の近くにある山の麓の林で過ごした。翌朝、同じ貨車で旅を続け、夕方ベオグラードに到着した。床に寝起きした二泊三日の旅でみんなひどく疲れており、ホテルが見つかればよいが?と思いながら列車から出ようとしたときである、「ロシア人はだめだ。入国を禁止されている! どこかほかへ行け!」と鉄道の警備員が叫んだ。だが、前もって手紙を出しておいたロシア領事をしている友人が出迎えに来ていたので、問題は解決した。
翌朝一行は、清潔さと快適さで戦前と変わらないドイツの二等車に乗り換えることができた。
その夜ブダペストに着き、翌日丸一日をそこで過ごしたが、グルジェフは朝からまた私に嫌な思いをさせたのである。みんなで市の中心へ出て、有名なワイナー・カフェと美術館へ行くというのが私の望みだったのだが……そういったことは一つも起こらない。グルジェフは通りをぶらつき、ある店の前で立ち止まり、ショー・ウィンドウの縫い針やボビンを眺めだしたのである。自分のプランにすっかり夢中になっていた私は、内心かっかとしていた。
ドイツの国境では我々がロシア人だとわかると、税関の人たちは一行の荷物も開けず、意外なほど好意的だった。

オルガ:
ベルリンに着き、私たち夫婦はたいへん素敵なアパートを見つけました。グルジェフは彼の旧友のロシア人たちと住み始めましたが、私たちを訪ねては居間のソファで夜を明かすこともしばしばでした。
夫が、ドレスデンの友人ヴァルヴィツ伯爵からぜひ訪問してくれという手紙を受け取りましたので、2人で行くことにしました。
駅では旧式な6頭立ての馬車が待っていました。赤い礼服の御者が2人ずつ、それぞれキャリッジの前と後ろに立っていました。夫と伯爵は革命以来会っていなかったので、再会をたいへん喜び合い、どこに住んでいるか、何をしているか、そして、グルジェフについて一部始終を話しました。伯爵家には、伯爵の義妹であり夫の名付け親でもあるガガーリン公爵夫人が呼ばれていました。2人から、次に訪問するときはグルジェフをお連れするようにせがまれました。帰りの車中、夫と2人で、「さて、どうしたものか?」と考え合ったものです。招待されているということをグルジェフに伝えなければならないのは確かで、また、おそらく招待に応じるでしょうが……六頭立ての馬車や、礼服や、正餐のとき一人一人の後ろに侍(はべ)っているバトラーを見たら、「なんだってこういうでくの棒が後ろに突っ立っているんだろうか!?」と言いかねません。
夫は、こう返事しました。「そうだねえ、ともかく招待しなくちゃ。彼がどうふるまうかは、余計なおせっかいだよ。友達をなくすことになったら? うーん、どうしようか?」
翌週またグルジェフをお連れするようにと念を押されましたので、一緒に訪問することになりました。格式ばった上流社会でも、グルジェフは生まれながらの貴族のようにふるまいました。伯爵も、ガガーリン公爵夫人も、グルジェフにすっかり心を奪われたようでしたが、ロシア語を話す公爵夫人は特に惹きつけられた様子でした。ヴァルヴィツ伯爵はドイツ語以外は話さないので、夫と私が通訳しました。ディナーがすむとグルジェフは帰りましたが、私たちは伯爵邸で一週間休養するために残りました。翌日、グルジェフから手紙が来ました。「疲れたので休養に出る、留守を頼みたいから長逗留はしないように」という内容でしたが、「私が戻ったら、あなた方が休養しに行く番ですよ。」とも書いてありました。彼か私たちがいなければ、生徒が困るのはわかりきっています。

私にとってはたいへん辛いことをグルジェフが考え出しました。彼は海辺の瀟洒(しょうしゃ)な家を借り、女性はみなその家に行って少なくとも一週間、場合によっては一週間以上そこで暮らすように言われたのです。グルジェフの妻をはじめ、ド・サルツマン夫人、フランク・ロイド・ライト夫人、ズッコフ夫人、L夫人、それにもちろん私も、みな行かなければなりませんでした。
男性はみな、私たち夫婦のアパートに住み、ド・サルツマンさんがキッチンを受け持たされました。夫を残したまま、いつまで別居していなければならないのか?という不安な気持ちは、容易に察してもらえると思います。フランク・ロイド・ライト夫人と海辺に腰をおろし、悲しさを噛みしめ、早々に就寝した最初の晩は記憶から拭えません。
3、4日後の朝8時でした。みなまだ眠っていましたが、誰かがドアを叩きました。グルジェフでした。仕度して家へ帰るように言いに来たのでした。

トーマス:
1921年の春から、翌1922年7月13日まで滞在したベルリン時代を考えてみると、この期間は、フランスへ移動するための準備期間だった、ということに思い当たる。グルジェフがついに大規模な「人間の調和的発展研究所」を実現させたのはフランスである。ベルリンに着いたとき、そこで何が起こり、どちらへ向けて努力を傾注すべきかについては、グルジェフ自身でさえ確かでなかったことは否定できない。彼はいつも、次の段階への機が熟すまで待機することにしていた。
コンスタンチノープルからあとを追ってきた生徒たちが「体操」の訓練を受けられるように、ホールが賃借りされた。グルジェフに言われ、みな寸暇を見つけてはフェラポントフから英語を習った。私も英語の勉強を始めたが、自習だった。妻は子供のときから英語を話していた。間もなく、グルジェフ自身も英語を習い始めたのである。5カ国語を話す妻は、この頃からグルジェフの秘書になり、彼が一日の大半を過ごすカフェで妻もかなりの時間を費やし、彼がロシア語で書いた言葉を英語に訳した。彼の学習方法は、裁縫業や他の商売を主題に選んだり、または日常会話を中心に英語で話をするというものだった。彼自身の英語と私の英語の相互チェックとして、ロシア語のリストを私に渡して英訳させ、次には英訳されたリストを彼がロシア語に訳し返すこともやった。
なぜ英語を習うように言われたのかみな不思議がったが、ほどなくその理由がわかったのである。コンスタンチノープルに残っていたウスペンスキーのところに、彼の著書『ターシャム・オーガナム』が英訳され、英米両国で出版されて大成功した、という思いがけない知らせが寄せられたのである。ウスペンスキーはロンドンへ行き、直ちに「ザ・ニュー・エージ」を編集していたオラージをリーダーとするサークルを組織し、グルジェフの伝える概念を解説し始めた。このサークルは短期間にして拡大し、グルジェフ自身に会わせてもらいたいという受講者からの要望は高まる一方となった。
まだ英語もフランス語も話せなかったグルジェフは、私の妻を同伴してロンドンへ行った。その結果、英国から送金される基金で、フランスに研究所を開くことにしたのである。
ベルリンへ戻ったグルジェフはいろいろなものを買い込んで、みなを不審がらせた。コーカサス山脈へ遠征したときのように、彼の心には未来の研究所の細部まで描かれていたのかもしれない。グルジェフと一部の生徒が7月13日にパリ行きの列車で出発するまで、「体操」のクラスが続けられた。私たち夫婦は、1922年7月14日、フランス革命記念日の祭りで賑わうパリに着いた。

12
トーマス:
パリの停車場ではド・サルツマンがグルジェフ一行を出迎えた。私たち夫婦は、妻のいとこにあたるたいへん裕福なフランス人に、ヌイリーにある別荘へ案内された。快適という点で、これほど完璧な別荘はあるまい。それぞれに浴室のある2つの豪華な部屋が私たちのために用意されていた。いとこは、最高級レストランや劇場など、パリを案内してくれた。何年間も物にこと欠き、気ままのできない暮らしをした後で、いきなりこうした贅沢を与えられるとは、驚くべきことだ。グルジェフが案配した悦楽と休憩ではあるまいか?とさえ思われた。数日すると招待主の家族はマーリーにもっている夏の別荘へ行ってしまったので、私たちは彼らの豪邸でのびのびと暮らしたのである。
間もなく新しい仕事が与えられた。パリ近郊に土地付きの大きな家を見つけることが妻の仕事となり、私の仕事は、グルジェフの使う仮住まいをパリの中心地に捜すことだった。部屋と台所と浴室があり、専用の入口がなければならない。捜しあぐねた後に、周旋屋からそういうアパートがミロムスニル街にあると聞かされたが、手付け金を置かなければ番地は教えてくれない。私には金がないので、手付け金は払えない。だが言われた通りは知っているし、時間はある。そこでミロムスニル街の家を一軒一軒あたってみることにした。10軒目の家で私の捜しているアパートにぴったりなのがある、と門番が言う。電話さえついている。当時パリでは、どんな部屋であろうと見つかることはまずなかったので、嬉しさのあまり見るも聞くも上の空だった。グルジェフのところへ飛んでいき、必要なものが全部揃っているアパートが見つかった、と知らせた。彼はまったく無関心な様子で聞いていたが、最後に一言、「ガスレンジはあるのかな?」と言った。私はそこまでは気がつかなかった。アパートを見つけたことに感謝もしないで、そんなつまらぬことを聞くなんて、実に嫌な人だと思った。
このときの教訓は、どれほど嬉しくてものぼせ上がってはいけない、注意を失ってはいけない、ということだったのである。グルジェフは彼の流儀でアパートを見つけた私に感謝したのだ。
ロンドンから大勢の人が来るようになった。グルジェフは、彼との接触が保てるようにミシェル・アンジュ街にアパートをいくつか借り、彼らを一カ所に住まわせた。ありとあらゆる生地や、糸や、針や、はさみや、指ぬきや、ミシン一台は既に購入している。グルジェフ自身が『魔術師たちの闘争』に使う様々なコスチュームを裁断し、手伝える人はみな手伝った。哲学的な講話は一つもなく、裁縫の仕事だけだった。ウスペンスキーの受講者だった英国人たちにとってはまったく新しい経験だったが、みな仕事に参加し、こうした仕事の意味のよく理解できない人たちですら手伝った。グルジェフの生徒のなかに、パリのオペラ座の振付け師で、ダルクローズ・スクールでも教えているパワーズ夫人がいたが、彼女のとりなしでダルクローズ・スクールの一室が使えるようになり、「宗教舞踏や体操」が続けられただけでなく、コスチュームをつくったり、舞台の小道具を刷毛やスプレーで塗装する仕事もそこで進めることができたのである。
ある日、我々に必要な家としてまたとない、家具付きの美しい家が、パリから40マイルのフォンテーヌブローにあるのを妻が見つけた、という知らせが伝わった。だが持ち主の言う値段がべらぼうに高く、買えるだろうとは誰も思っていなかった。ところが、グルジェフはその物件(アヴォンのプリオーレと呼ばれる屋敷)をまだ見ぬうちに買うことに決めてしまった。彼は、私の妻に持ち主と条件を交渉する仕事を与えた。妻はベルリン時代から彼の秘書兼補佐として訓練され、同時に内面の仕事や彼の知識体系についても教えを受けていた。例えば、いかにして機敏な注意力を保ち続けるか、いかにして記憶力を発達させるか、いかなる状況においても自己を忘れずにいるにはいかにすべきかなど、精神集中の手法を授けられていた。そして今度はプリオーレの持ち主、マダム・ラボリーを相手にいかに行動したらよいか、相手から入手したいと願うものを意識から離さず、たとえ話題が他のことに移っても、片時もこの願いを忘れずにいるにはいかにすべきかを教えられたのである。グルジェフから受けるこうしたアドバイスは、彼と共に本気になって仕事してきた人たちにとっては、まさに黄金のアドバイスだった。
プリオーレを買うには100万フランを都合しなければならない。この不動産はドレフュス事件で活躍した名弁護士、ラボリーの未亡人のものだった。ラボリーヘの報酬として、ドレフュス家はプリオーレを渡したのである。プリオーレは、十七、八世紀の大邸宅を改築したもので、一時期には修道会の役員の僧院として使われた。修道院分院と呼ばれるのはこのためである。噂によると、別の一時期にはマダム・ド・メンテノンの邸宅だったこともあるという。
それはさておき、妻は、購入のオプション付きでプリオーレを一年間借りるという条件を、マダム・ラボリーに同意させなければならなかった。そして、同意させてしまったのである。

13
トーマス:
プリオーレの日課が始まった。朝6時に生徒の一人が小さなベルを鳴らしながら回廊を駆け抜けると、みな起床し、急いで食堂へ下り、小さな一片のパンとコーヒーの朝食を手早くすませ、仕事場へ直行する。グルジェフは一刻も無駄にせず、いかに仕事を分配するかを知っていた。特別企画の仕事に男女の生徒を呼び入れ、「何もかもこの仕事に投入せよ。」と言うこともあった。すると数時間後には、大規模な仕事が完成してしまうのだった。早朝から夕方7時、または日暮れまで続く戸外の仕事が中断されるのは、昼食時の休憩だけだ。タバコを吸ったり、雑談したり、食堂に長居する人々を、グルジェフは不快そうに見ていた。大きなベルが鳴ると、肉に豆かじゃがいもを添えた料理にコーヒーとパンの出る夜の正餐が始まる。正餐前に作業服からさっぱりしたスーツやドレスに手早く着替えなければならない。8時には客間に集合し、「宗教体操」の訓練を受ける。グルジェフが談話を与えることもあった。彼は新しい体操をいくつか考案した。どれも大して複雑ではないが、注意力を発達させることを目的としていた。例えば、数をかぞえながら頭と腕と脚にそれぞれ独立した同時運動をさせる体操があった。こうした驚異的な組み合わせのムーヴメンツをこなすには全注意力を結集する必要があり、そのため、機械的な連想から解放される。
全員が客間に集合する夜間に、グルジェフが談話を始めることがしばしばあった。例えば、感情中枢部の仕事を始めると言ったとき、誰も彼の言っていることが理解できない様子だったが、私や他の幾人かにとっては、なぜ理解できないのか意外だった。ところが、翌日私がちょっとしたへまをしでかすと、彼から「バルダ!」(間抜け)と怒鳴られた。そのとき私は、はっとなった。それでもひどく傷つけられ、すぐには気がおさまらなかった。
その夜グルジェフは私にこう言った。「トーマ、君も今日何かを感じたであろう。」
私は感情の仕事が始まっていることに気がつき、おかげで、内面にくすぶっていた重苦しい気持ちが氷解してしまった。怒りに燃え始めたら、その怒りと内面で闘い、外へは表さない、というのが与えられた仕事であることに、このときもまた理解を深めたのである。グルジェフはいつだったかこの時のことにふれ、「仕事では馬鹿者呼ばわりされてもけっして怒るな、薬と思え。」と言ったことがある。とはいえ、彼が私たちに与えた衝撃は実に強烈で、真に迫る仮面をつけた彼の前では、「反応してはならない、私たちのためを思ってのことなのだ。」と自分自身に言い聞かせてはいるものの、実際に経験させられると、彼がいかにも冷酷で邪悪な人のように思わずにはいられなくなるのである。こういう場合、かっとなり、肝に銘じていたことも忘れて彼に食ってかかると、グルジェフの顔は豹変するのだった。普段の表情を取り戻し、だがこの上なく悲しそうに、一言も言わずに行ってしまう。すると生徒は、ひどい自己嫌悪の気持ちに苛まれる。なぜここへ来たか、ということを「想起せず」、来た理由を「忘れ」てしまい、生徒にあるまじき反応を示してしまった、という挫折感に苛まれる。
仕事の目標は外的結果を追求することではなく、内的闘争に向けられている、ということは仕事におけるあらゆる活動からはっきりしていた。例えば、あるとき誰もがキッチン・ガーデンの土を掘り起こす仕事をさせられたが、のちにガーデンは放棄された。彼は、あの仕事もこの仕事も急いで仕上げなければならない、とせき立てることがよくあった。せき立てられる圧力が刺激となったことは確かだが、同時に我々の内部に無意識の同一化を起こさせた。「同一化している、同一化している。」と言うグルジェフを思い出す。つまり、完全に仕事に呑まれてしまった、という意味である。一方、別のときには、本気で仕事するには「同一化」が必要だが、仕事しながら自己を観察するだけの注意力を、少しは残しておけとも言った。
グルジェフは生徒たちの仕事ぶりを注意深く観察していて、度を超すようなことはけっしてさせなかった。例えば、とても力の要る仕事をしていた時のことだったが(私の心臓には過重な仕事だったのかもしれない)、不意にグルジェフから、「トーマ、もうその仕事は止めて、草を燃しに行きなさい。」と言われた。

14
プリオーレに訪れた英国人による質問
問1:グルジェフ氏の教育方式により、彼が発展させたいと願うタイプの人間が今までに形成された例がありますか?
Gの答え:この短期間に、この研究所で生徒が達成した結果について、まず最初に挙げられることは、(1)健康の向上である。つまり、生徒のかかっている慢性病が除かれ、将来の健康を向上させる基礎が築かれたことだ。例をあげるならば、肥満体が改善され、薄弱な記憶力が強化され、無秩序な神経系統に秩序が与えられたことが指摘できる。(2)2番目は、生徒の視野が拡大したことである。一般に、人々は非常に狭い人生観しかもっていない。まるで目隠しされているみたいだ。ここでは、様々な新しい状況における仕事や、その他の諸条件のおかげで、まるで新しい地平線を獲得したように視野が広がる。(3)新しい関心が生まれたことが挙げられる。ここへ来る大部分の人たちは、人生に興味も関心も失っている。これは、彼らの狭い人生観に起因している。ここでは、彼らにとって新しい関心が生まれる(この新しい関心が生まれるという結果こそ最も重要視されなければならない点である、とグルジェフが言った)。
ここでの滞在から得られる結果は枚挙にいとまがないが、その大部分は、今挙げた3つの基本的なものから派生する。したがって、それらを列挙することは重要でない。当地における研究所の存在期間が極めて短いので、私の要求に応える生徒が出てきたのはごく最近である。概して、自己発展には限界がなく、達成はどれも一時的な状態にすぎない。外的な生は、研究所によって拘束されない。どんな社会的役割を果たしてもよく、どんな仕事をしてもよく、どんな職業についていてもよい。独自の人生をもつと同時に仕事(ワーク)している人が大勢いる。腕のよい靴屋だった人が研究所の生徒になって学び続ければ、別の靴屋になり、牧師だった人は別の牧師になる。

問2:研究所の生徒の中には初めのうちみじめに感じる人がいますが、このみじめさをどう説明されますか?
答え:これから話すが、研究所には原則がある。これを聞けば、みじめな期間がどういうことなのかはっきりするであろう。
人間は、たいてい「本質とは無関係」の心で生きている。人は、自分自身の見解をもたず、他人から聞かされることにいちいち影響されている(誰かの悪口を聞かされたばかりに、その人に悪意を抱く人の例が挙げられた)。
研究所では自分自身の心で生きることを学ばなければならない。積極的に自分自身の心をもち、自分自身のものを発展させなければならない。大勢の人が「本質とは無関係」に抱く関心から研究所へ来る。彼らの本質は仕事に少しも関心がない。
そのため、研究所に新入生が来ると、わざと難しい状況をつくり、あらゆる類の問題を発生させて、仕事への関心がその人自身のもつ関心なのか、それとも、人から聞かされた関心にすぎないのか、自分自身でこの点を明確にさせるように仕向けるのである。自分のためにつくられた難しい外的条件をものともせず、自己の主目的とする仕事を続けられるだろうか? この目的が自分自身の内に存在するだろうか? こうした必要性がなくなれば、意図的な状況はつくらない。
(←「つくられない」じゃないかな?とも思いましたが、グルジェフがそういった状況を「つくらない」という意味なのかもしれません)
人が人生でみじめに感じる一時期も、これと同じ状況から発生する。人は、外的影響により偶然自己の内部に形成された「本質とは無関係」の心で暮らしている。そういう生活が続くかぎり、人は満足している。ところが何かのきっかけで、外部からの影響が存在しなくなると、人は関心を失い、みじめになる。
自分自身のもの、自分から取り去ることのできないもの、常に自分のもの、が存在していない。これが存在し始めるとき初めて、このみじめさがなくなる。

問3:グルジェフ氏は研究所を実験的なものと考えていますか? つまり、グルジェフ氏の目的の一つは、研究所を通して何らかの知識を得ることですか? それとも、この知識体系は、あなたの人生において既に獲得されたものですか?
答え:この知識体系は私の人生において獲得されたものである。だが、同時に他の目的もある。

問4:なぜグルジェフ氏は肉体労働をあれほど強調するのですか? 一時的な強調ですか、それとも恒久的なものですか?
答え:一時的である。研究所へ来る人たちの中には、さしあたり肉体労働が絶対に必要な人々がいる。だが、仕事という構想全体の中の一時期にすぎない。

問5:超自然的発展(オカルト・ポシビリティー)を獲得することは、この知識体系における「全段階」中の一段階ですか?
答え:真理は一段である。超自然的発展は常に存在し、宇宙そのもののように古い。遠い昔に真の知識があったが、政治、経済、その他あらゆる状況のため、この知識は失われ、かけらしか残っていない。こういう破片を、私は他の人たちと一緒に収集した。我々はこの知識を人々から学んだり、古文書や風習や文献や、さらに、我々自身の行った実験、比較などから学んだり、見いだしたりしたのである。

問6:この知識体系は何に由来していますか? グルジェフ氏自身が体系の創始者ですか、それとも、あなたに伝授された体系ですか?
この質問に、グルジェフは答えなかった(彼は、質問を回避しようとして黙っていたのではない、ということを述べておきたい。彼が、この問いに対してはすでに別の言葉で回答した、と感じていたのは明白である)。

問7:グルジェフ氏がヨーロッパでやりたいと思っていることは何ですか? 西欧の知識をどう評価しますか? なぜパリを選んだのですか?
答え:パリを選んだのは、パリがヨーロッパの一中心地であり、ここにも研究所が必要だと、ずっと前から考えていたためである。2年間もそうできなかったのは、ひとえに政治状況によるものであった。
西洋からは、東洋にない知識を得たいと思った。東洋から理論を学び、西洋から実行を学んだ。東にあるものは西になく、西にあるものは東にない。片方だけでは価値がない理由がここにある。両方が一緒になって互いを完全にする。

問8:なぜグルジェフ氏は生徒を選ぶのですか? 生徒の中から師を育成しようと考えていますか? 生徒が、グルジェフ氏のようになってゆくことができますか?
答え:各々の生徒が、その人より下にいる人の師である。私が苦しんだように苦しみ、私が働いたように働くことを願えば、誰でも私のようになれる。

問9:この仕事に関係しているのはグルジェフ氏だけですか、それとも、あなたは、既存のグループの活動の一端を担っているのですか?
答え:私だけである。私の活動は全部、私自身から発している。以前に一緒だった人たちは世界各地に散り、私は彼らとの接触を失った。

問10:グルジェフ氏のもつ知識は、彼の言う「偉大な教え」の一部分として存在するのですか? この知識の上に築かれた文明が、どこかに存在していましたか? 例えば、グルジェフ氏の言う「偉大な教え」の実践を理想とする階級に託された政府が、インドにありましたか?
答え:あった。例えば、10年前のチベットでは、統治は僧の掌中にあった。当時、私の知識体系を実行することはできなかった。というのは、私の教えは私自身の仕事につながるあらゆる古代の真理から収集したもの全部を、一つにまとめる教えだからである。

問11:死の不可避性と、自由意志について、グルジェフ氏の教えはどのように言っていますか? 一般民衆が永遠の生命を獲得できますか、それとも、少数の人だけが獲得できるのですか? 不死を獲得していない人はどうなりますか? 彼らに輪廻や回帰のようなことが起こりますか?
答え:イエスとも言えるしノーとも言える。魂をもっている人は不滅であるが、誰もが魂をもっているわけではない。人は魂をもたないで生まれ、魂を獲得する可能性だけをもっている。魂はその人の人生で獲得されなければならない。
魂を獲得しなかった人には何も起こらない。生きて、死ぬだけだ。人は死ぬが人を構成している原子は死なない。宇宙に存在するものは何一つ死なない。
だが不滅の魂でさえ、いくつかの異なる段階において存在する。完全に不滅の魂は、ただ一つしかない。(概して、グルジェフが私たちに与えた談話では、彼は「魂」という言葉を一度も使わなかった。特別な「あるもの」と呼ぶにすぎなかった。だが、新入生たちの質問に答えたこのときは、彼らに理解できる言葉で話す必要があったので、「魂」という語を用いたのである)。

15
オルガ:
毎夕、食事をすませるとみなスタディ・ハウスに集まりました。あるときグルジェフはホールの中央にある細い通路を行ったり来たりしていましたが、だしぬけに怒鳴り始めたのです。
「私の金が湯水のごとく使われている理由がやっとわかった……キッチン・ガーデンの大切な野菜を使わずに腐らせているからだ! そんなことをした人は、ステージの上で両手を広げて半時間立っていろ!」
グルジェフの妻とマダム・ウスペンスキーだったなんて、想像もつきませんでした!
2人とも、キッチン・ガーデンから運ばれてくる野菜を使わずに、豚に与えていたのです。我々ロシア人が食用にしない野菜だったためです。キッチン・ガーデンは2人の英国女性に任されていました。こんな浪費にぞっとしたガーデン担当の英国人女性がグルジェフのところへ行き、「こんなにおいしい野菜を腐らせるなんて、恐るべき浪費だ。」と報告していたのでした。マダム・オストロボスキーとマダム・ウスペンスキーがステージに立つと、その英国女性は、見るにしのびないほど哀れな様子で、あの2人ではなく、自分を立たせてくれるようにグルジェフに頼んでくれ、と私に言いに来ました。
これは、告げ口する人を懲らしめるグルジェフ流儀の一例です。他人のことをとやかく言うことは絶対に許されませんでした。

トーマス:
夏になると2人いたシェフが疲れ、ある日グルジェフがスタディ・ハウスで、「今のシェフはもう役に立たない。誰かほかの人にこの仕事を回す。」と言い出した。誰にその役が回されたかって? 私が仰せつかったのである!
G「今後は君がキッチン担当者だ。」と言われてしまった。キッチン担当期間については何も書きたくない。もちろん長くは続かなかった。グルジェフはいつもそうだったが、この時も短期間だけこういう仕事をさせたのである。
シェフを任された期間、私は朝5時に起床しなければならなかったが、昼食後には「ムーヴメンツ」のピアノも弾かなければならない。グルジェフはパリの大きな劇場で公演する計画を立てており、「ムーヴメンツ」の集中稽古が始まっていたのである。暑い季節だったのでピアノを戸外へ運び芝生でリハーサルした。そんなある日、私は、頭がピアノにもたれかかり、そのまま寝入ってしまうまでピアノを弾き続けた……。
1923年の12月初旬に公演したいというのがグルジェフの希望だった。それで、私は夏のあいだに「ムーヴメンツ」の音楽をいくつも管弦楽用に編曲したが、まだ手をつけずにいるものがたくさんあった。この先どう続けるつもりなのか、グルジェフの意向を聞きにある朝スタディ・ハウスヘ行ってみると、そこにいた彼は私を見るなり、「何もすることがないなら、壁の割れ目を修理しなさい。」と言った。その仕事を既に何日かやっていた私は、割れ目を直すのは誰でもできるから、自分は管弦楽の編曲を続けることにした。
グルジェフが毎朝のように新しい「ムーヴメンツ」を創作したので、作曲の仕事がますます増えた。公演は12月末に実現されたが、その前の三晩、私は一睡もできなかった。
シャンゼリゼ劇場でオーケストラを使って演奏する場合、オーケストラ・メンバーの数は普通なら100人だが、私には35人の奏者しかいない。このために管弦楽への編曲がさらに困難になった。弦楽器奏者の少ないオーケストラでは、トランペットはあきらめなければならなかった。ドレス・リハーサルのあとで、親友のロシア人作曲家チェレプニンと、やはり作曲家である彼の息子から、とても美しい音色だと言われ、実に嬉しかった。
ドレス・リハーサルの前夜、スタディーハウスから、カーペットや、山羊の皮や、マットレスや、2つの噴水など、ありとあらゆるものが劇場へ運ばれた。劇場のロビーが東洋の宮殿に一変した。ありとあらゆる異国の珍味を並べ、噴水には水ならぬシャンペンを満たしての客寄せぶりだった。舞台に出ない生徒たち(その中には英国の外交官もいたが)は、『魔術師たちの闘争』のコスチュームを着け、劇場の入口に並んだ。「ムーヴメンツ」は好評だったが、最も観客の関心を集めたのは、両腕を広げたまま舞台を歩き回る女性出演者たちだった。あれほど長く両腕を広げたままでいられるのが理解できない観客は、「もうたくさんだ、もうたくさんだ。」と叫び始めた。
公演が終わり、私はグルジェフに聞いてみた。「万事どんな具合にいきましたか?」彼は笑顔を見せたが、何も言わなかった。そのとき私がはたと思い当たったことは、こういう類の仕事では、賞賛や励ましの言葉は求めない、ということだった。仕事をできるかぎり立派に果たすことが要求されているのであって、誉められるかどうかということは気にしてはいけない、ということが目標なのだ。グルジェフが何度となく言った言葉がある。
「けっして結果を考えるな、ただやりなさい」
別の公演で「ムーヴメンツ」が終わる寸前に、グルジェフが「ストップ!」をかけたときのことに触れよう。ステージの生徒たちは「ストップ」がかけられたときの姿勢をかなりのあいだ保ち続けた。グルジェフは幕を下ろさせたが、「ストップ」が終わったとは言わなかった。幕が下りると、生徒の一人が「ストップ」状態を止めた。グルジェフはその生徒をひどく叱り、こう言った。
「『ストップ』は観客や幕とは関係ない……『ストップ』はワークであり、師が言うまで止めてはならない、劇場が火事になっても続けなければならない。」

(中略)

これらの訓練のすべてに共通する特徴は、そのいずれもが全注意力を要求する訓練であることだ。人は誰でも絶えず連想にとらわれ、多かれ少なかれ、悲しい思いやとりとめのない空想や、またあるときは性的な愚劣きわまりない妄想に、思考、感情、感覚のエネルギーを浪費しているが、そういう連想の歯止めとなる注意力の集中に向けられた訓練である。
無意識に起こる連想に歯止めをかける「意識した労働と意図した苦しみ」は生命を延長させる、とグルジェフはよく言っていた。注意力を集中する仕事をし、その仕事から生じるエネルギーを連想との闘いに用いる人、要するに「自己想起」を忘れない人にとっては、注意力が生の中心となるだけでなく、生を延長させる要因として作用する。

(中略)
オルガ:
シカゴからニューヨークへ戻り、1924年4月初めに米国最後の公演をカーネギー・ホールで催した。
大勢見に来ました。ド・ハートマンとフェラポントフが、グルジェフのロシア語を通訳し、それをオラージが観客に伝えました。
夕演後、私はグルジェフに言いました。「観客席を見渡しましたら、半分は関心がなさそうで、眠っているようでした。なぜこういう人たちに見せるのですか? 関心のある少数の人だけに見せた方がよいのではありませんか?」
するとやや怒りさえ混じえて彼はこう答えたのです。
「そんなことを判断できるのか? 今日眠っているように見える人たちの内面に、20年後に何かが目醒めるかもしれない。今あんなにも熱心な様子の連中が、10日のうちに忘れるかもしれない。あらゆる人に聞かせなければならない。結果は、時が来ればわかる。」

16
トーマス:
1924年7月5日、グルジェフはいつものように午後5時にプリオーレに戻るはずだった。パリから帰ったときは、私と音楽の仕事をするのを楽しみにしていたので、私は帰りを待っていた。
彼ではなく巡査が現れ、グルジェフが自動車事故に遭い、意識不明のまま救急車でフォンテーヌブローの病院へ運ばれた、と知らされた。
私は医者のシャンボールとすぐ病院へ駆けつけた。彼と2人でその夜を病院で明かし、翌朝まだ意識不明のグルジェフをプリオーレに運んだのである。

(事故後、グルジェフの容体が安定した後)

オルガ:
ある日、グルジェフはその夜に彼が予定していたスピーチを私に書き取らせました。夕食後、みなサロンに集合するように言われました。サロンで彼はたった二言話すと、私に、昼間の口述を読むようにとうながしました。

私の容態はたいへん悪かった。神のおかげでだいぶよくなったし、これからもよくなり続ける。
私に何が起こったのか、またいかにして起こったのかはわからない。何も覚えていない。事故の場所へ行き、どんな具合に起こったのか想像してみた。ああした事故のあとでみなとこうして話せる人はそれほど沢山いない。本当なら私は死んでいたはずだが、偶然生き続けたのだ。
もう健康を取り戻したが、記憶力だけがまだ弱っている。最初は何一つ思い出せなかったが、少しずつ記憶が戻ってきた。初めのうちは、歩いたり、話したりしたことを全部忘れた。それで、あの期間にもしも私が不愉快なことをやったり、誰かを怒らせたりしていたならば許してもらいたい。やっと数日前から、前のように生き始めたばかりである。私に記憶が戻ったので、動物としてではなく、今までのように生きられる。それで、もう一度繰り返すが、私から不快なことを言われた人は、誰でもそのことを忘れなければならない。私は、自分のやったことも全部忘れてしまった。思い出せるようになったのは、まだ3、4日前のことだ。
我に返ったとき、いちばん最初に頭に浮かんだのは、『私は死んだのか、死ななかったのか? 一体全体どうなるのだろうか? 研究所はどうなっているのだろうか?』ということだった。
私は、自分が生きていることを知ったが、幾多の理由から研究所を閉鎖することにした。
まず第一に、理解力のある身近な人たちが非常に少ない。私は、この仕事のために全生涯を投じてきたが、大多数の人たちからは望ましい結果が得られていない。だから、少数の人が彼らの生活をここで犠牲にする必要はない。また、自分が今までやってきたようにはもうやりたくない。私は生涯を通し、私財を投げ出して人々を助けてきたが、もう研究所を閉めることにした。許してくれ。これからは自分自身のために生きたい。研究所は閉鎖したのだ。
私はこの屋敷を整理する。今大勢の人が住んでいるが、これからは客として住まわせる。私はいつも2週間にかぎり客を迎えたが、この家も今後は2週間だけ解放する。そのあとはみな家から出て行くようにしてほしい。とはいうものの、仕事を全部放棄することはできない。誰もが考えなければならない。明日出て行きたいのか、それとも2週間後か? 私はいつも人々を助けてきた。今度もみなの個人的な問題が片付くように助けてあげる。
とりあえずここに残る人たちは、たんなる客であるが、従来の規則は全部守らなければならない。今現在もそうしなければならない。そうしない人は、今すぐ出て行かなければならない。
2週間後に新しい仕事が始まる。滞在を許可された人々の名が掲示される。その他の人は去らねばならない。
今現在もここの生活が続けられ、私から任された人々によって必要な任務が果たされることになる。
他の人たちについては、仕事することを願うなら、庭園や、キッチン・ガーデンや、林で働けるが、それには私の許可がいる。客として住まわねばならない。
今までは、私がすべてを監督してきた。もうそうすることはできない。すべてに気を配ることはできなくなった。これからは何もかもあらかじめ書くことにする。私がここにいるときは、書かれた事項について自分が監督する。
マダム・ド・ハートマンが私の補佐となり、家事についてはマダム・オストロボスキーが監督する。明日、誰が責任者となるか発表するが、さしあたりドクター・シャンボールとミスター・ド・ハートマン、その他数人が責任者となる。各人が、滞在を望むか否か自分自身に問わねばならない。私の話を聞いて、前より心を決めやすくなったであろう。
繰り返して言うが、研究所は閉鎖したのである。私は死んだのだ。理由は、あれほどつくしてあげた人々に幻滅したためだ。私への彼らの支払いぶりがいかに『よかった』かも見てきた。私の内部は、もう空っぽだ。
これが第一の理由である。第二の理由は、私は自分自身のために生きたい。休息が必要なのだ。すべての時間を自分自身のために使いたい。もう、従来のようには続けたくない。私の新しい主義は、すべてを自分自身のために、ということなのだ。今日から研究所は存在しない。私は、別の仕事をする。招かれなければこの仕事には参加できない。明日、残りたいかどうか一人一人私に知らせに来ることになるが、今は、これだけ話したのだからもう充分であろう……。

トーマス:
事故後のグルジェフの回復期間は、みなにとって実に大きな試練となった。彼はあらゆることができ、あらゆることを知っているという我々の気持ちは少しも変わらず、そういう人に対して、どうしなさい、と言うことは馬鹿げていた。
しかしながら、私たち夫婦にも、またグルジェフの妻にも、彼がまだ回復しきっておらず、以前と同じではない、何かがまだ彼に戻ってきていない、ということは明白だった。彼の視力も損なわれていた。我々のすることは間違っているかもしれないが、それでも彼を保護しなければならないと感じたのである。彼の本当の状態は、我々にはわからない。いかにして知りえようか? だが、彼を健康人と做して何でもやらせる(例えば、すぐに車を運転させる)ことは避けなければならなかった。彼がそうしたがるのを止めさせなければならないと同時に、誰にも気づかれない方法でそうする必要があった。また、彼がまだ実際には回復していないのなら、こういう私たちの意図に気がつかないだろうということも考えられたのである。
間もなくグルジェフはスタディ・ハウスヘ行き、新しい訓練を教え始めた。ありありと思い出す訓練がある。非常に複雑なばかりでなく、極めて厳密な訓練で、健康人にとってさえ、グルジェフがしてみせたようにすることはとてもむずかしいだろうと思われる訓練だった。
彼がプリオーレにいるときは、私と一緒に膨大な量にのぼる音楽の仕事をしたが、「ムーヴメンツ」のための音楽ではなかった。この種の音楽はたいへん難しく、苦しい仕事だった。東洋のメロディーはどれもみな最初は単調に聞こえるが、実は非常に複雑である。グルジェフはそうしたメロディーを口笛で吹くか、一本指でピアノを鳴らしたりして私に聞かせることがあった。その旋律をとらえ、西洋音楽の表記法に従って書くということは、一種の名人芸を要した。その上、仕事をさらに難しくさせるためか、彼はしばしば同じ旋律を、やや違えて弾き返すのだった……。
グルジェフの音楽はきわめて多様性に富んでいる。最も感動的なのは、遍歴の時代に彼が中央アジアの奥地の寺院で聞き、記憶していた音楽である。そういう音楽を聞くと、誰でも心の最深層まで感動させられる……。

以下からの文章はすべてオルガ:
ここで、夫、トーマス・ド・ハートマンの手記が突然終わっている。夫は自分が書き留めたものも読まずに急逝した。
その前夜、夫は、2週間後に予定されていたコンサートに出席できない音楽関係の友人を集め、P・D・ウスペンスキーの『四次元の概念』に献じた自作のピアノ・ソナタ第二番を、驚くべき力をこめて弾いた。
私の手に、未完の原稿が残された。序文からうかがえるように、夫が非常に重要だと感じていた原稿である。初めの四章において、夫はグルジェフの仕事の一時期を詳述している。その時期の生存者は、私一人になってしまった。私は、夫の手記を未完のままにしておいてはいけないと感じているが、続けるには、私自身の経験を述べるしかあるまい。
公正であること、一人よがりにならないこと、さらに、できるかぎり誠実であろうとすることは、私にとってはことのほか厳粛に立ち向かわねばならない仕事(タスク)である。これから続ける話は、私たち夫婦がグルジェフと共にした最後の数年について、彼の弟子の一人としての目で見た記述でなければならない。他人の意見を気にせず書けるように、グルジェフが助けてくれることを願う。
彼とその教えを、私は深く尊敬する。したがって、たとえ主観的であろうとも、自分の目で見た真実を率直に述べよう。

17
外面から見るかぎり、プリオーレの生活は事故前と変わりなかったが、もはや従来と同じではなく、非常に憂慮された。何よりも、グルジェフの回復が初めに予想されたほどはかばかしくなかったことを挙げねばならない。マダム・オストロボスキーの健康もすぐれなかった。さらに、私たち夫婦にとって重荷となったのは、私の両親と妹が到着したことだった。両親は、プリオーレの活動に加わるには年老いていて、2人ともそのことを気に病んだ。前にも述べたが、両親が来たのは、事故の朝グルジェフが私に、両親に手紙を出し、すぐプリオーレに来るように知らせなさい、としつこく言い続けたためである。ペトログラードで何が起きるかを彼が予感していたのは確実である。両親の部屋が、「修道僧の回廊」にある私たち夫婦の部屋の隣に用意された。父母は、1929年までそこに住んだ。父母にとって最も耐え難かったのは、我々に話しかけるグルジェフの態度だった。彼の態度は弟子たちでさえ恨みに思ったほどだが、弟子たちは理由があってそこにいるのだということを自覚していたので我慢したのである。
ある朝、グルジェフと父が庭園のベンチに腰かけていた。私は、グルジェフにまったく簡単なことを聞かねばならなかった。その問いに答えて、彼は私を叱り飛ばすように怒鳴りつけた。傷つけられた父はその場を去ろうとした。すると、グルジェフは父に向かって言った。「お父さん、あなたが私にこうさせるのがおわかりであろう。あなたは自分の娘を一度も怒鳴ったことがない、だから私が怒鳴らなければならないんですよ。人間にはあらゆる印象が必要だ。それで、私があなたに代わってこうしなければならないんです……。」
父の態度が変わり、その表情から、グルジェフが私たちにすることは何もかも、新しい経験をさせるためなのだということを理解した様子がうかがえた。
プリオーレでも、パリのアパートでも、回復期のグルジェフは夜よく眠れなかった。不眠症を除けば健康人に近い状態にまで回復していたが、ド・サルツマンとド・ハートマンが交互に彼の部屋に来て、眠り入るまで一緒にいることもしばしばだった。ド・ハートマンに番が回ってきたときは、私はそのことを知っていたので、コーヒーを持って行くことにしていた。
収入が乏しくなったので、私財を持っていたただ2人の弟子、シャンボール先生とド・ハートマンが、ありったけの金を全部グルジェフに渡した。そのため、研究所を維持する金を稼ぎに、ド・サルツマンとド・ハートマンがパリヘ仕事に行かねばならなかった。ド・サルツマンはカフェの壁画を描き、ド・ハートマンは映画音楽を作曲した。
ある夜、グルジェフにコーヒーを持って行ったとき、「ド・ハートマンとド・サルツマンは2人とも翌朝早く起床して仕事に行かなければならないんですよ。」と教えると、グルジェフは、「これから口述することを書き取ってくれないか? とても眠いのかな?」と言った。
「はい、そうしましょう。眠くはありません。でも、速記はできませんよ。」と答えると、「かまわない。ノートブックを持って来なさい。」と言った。
彼がロシア語で口述したのは、3人兄弟が互いに話し合うといったメロドラマ風の物語だった。三頁ほど書き取らせると、口述を止め、「この話が気に入るかな?」と尋ねた。私は、自分の思ったとおり正直に、実に嫌な、ひどい感じを起こさせる話だ、破り捨てたい、と答えた。
グルジェフは、たいへん静かな声でこう言った。「よろしい。紙くず入れに捨てなさい。別の話を書こう。たぶん今度は気に入るであろう。」
私は少しもためらわず、書き取った三頁を破り、くず箱へ捨てた。
グルジェフは改めて口述しだした。「世界創造後、123年目のことであった……宇宙船カルナックが、宇宙空間を飛行した……。」
私が三頁書き上げ、別の次元にいる自分を見いだすまで、彼は口述し続けた。
「今度は気に入ったかな? 続けようか?」と尋ねる彼に、私は一言も答えられなかったが、こちらに目を向けたグルジェフは、私がこの物語に惹きつけられていることを理解した。
口述は、1924年12月16日、ペレール通り47番地で始められたのである。その夜、グルジェフはこの物語を『老いた悪魔と若者の会話』と呼んだ。
こうして『ベルゼバブ』が生まれ、最初の草稿の第一頁から最後の頁まで、パリのカフェ・ド・ラ・ぺの丸い大理石のテーブルで書かれた。グルジェフは私だけと仕事した。
この期間にグルジェフの母堂が亡くなった。その後間もなくマダム・オストロボスキーの健康状態が気づかわしくなった。癌であることはもはや疑いの余地なく、手術もどんな治療法も効果がなかった。医者たちの勧めにより、グルジェフは妻をプリオーレに連れ戻した。彼は一日の大半を「リッツ」回廊の外れにある妻の部屋で過ごした。大きな美しい部屋だった。病身の妻が安らぐよう、グルジェフはあらゆる手を尽くした。彼女は音楽が好きだった。竪型ピアノが部屋の中に据えられ、彼女に頼まれて、ド・ハートマンがピアノを弾いてあげることが何度もあった。グルジェフがパリに行って留守だったとき、ド・ハートマンは彼女から「グルジェフさんがいませんので、ショパンを弾いてくださいませんか?」と頼まれた。
マダム・オストロボスキーは、自分が余命いくばくもないことを知っていたにちがいなく、私の夫に、ロシア語のできるポーランド人の牧師を捜してきてくれと頼んだ(彼女はポーランド生まれだった)。夫も彼女の死期が迫っているのを知っていたので、すぐパリヘ行き、牧師を捜してきた。
2人の若い生徒がマダム・オストロボスキーに付き添ったが、私たち夫婦も絶えず彼女の部屋へ様子を見に出入りしていた。
グルジェフは、病身の妻の部屋の窓ぎわに置かれた肘掛け椅子に座っていたが、私に、コップに水を半分入れてくれと言った日を、今でもはっきり思い出す。彼はコップの水を飲まずに、5分ほど両手で抱えてから、マダム・オストロボスキーに飲ませなさいと言ってコップを私に渡した。私は、水さえ受けつけないでしょうと言ったが、彼は、「飲ませなさい」と譲らなかった。マダム・オストロボスキーは苦痛を感じずにその水を飲み干した。その後数日間、流動食さえとれるようになったが、こうした好転が永久に続くことは無理というもので、グルジェフの妻は間もなく昏睡状態に陥った。2、3日後の朝4時に、病人の室内や回廊にいた人たちは、シャンボール先生から彼女が息を引き取ったと知らされた。
エッセントゥキ以来マダム・オストロボスキーを知っていた私たちは、「仕事」の決定的なつなぎを失った。彼女はけっして目立った存在ではなかったが、それでいて、いつもそこにいる、という感じを与える人だった。ド・ハートマンとロシア語で話をするのを楽しみにしていた彼女は、そういう機会にあまり知られていない彼女の身の上話をするのだった。2人は、互いに知り合って以来共にした年月について、思い出話をした。私は、彼女が苦難に満ちた生涯を送った人だということを感じていたが、晩年の数年間に、彼女が驚くべき変化を遂げたことは、誰もが目撃していた。

18
すばらしく晴れわたった朝、いつものようにみな早く起床し、私は美しいライムの並木道へ出て行った。自然の美しさに圧倒されそうな喜びに満たされ、私は思わず両手を高々と空へ向けて差し上げた。ちょうどそのとき、グルジェフが声をかけた。「何をしているんですか?」
私は彼が後ろにいるとは知らなかった。彼は私にこう説明した。「それは、高次の力を引き寄せるために、聖餐式前に祭司のする動作だ。祭司たちはこの動作の意味を忘れてしまい、今ではただ機械的にそうしているだけだが、実際に高次の力を下へ引き寄せる動作なのだ。人間の指は一種のアンテナなのだ。」
それから、こう言ったのである。「今の動作を無意識にやってはいけない。」

グルジェフはいかに人の内面を理解し、たとえ離れていてもいかに人の心を察するかということを説明すると思われる、ちょっとした出来事を述べよう。
冬の夜更けに私たちは旅行から帰る途中だった。彼はやたらに車を飛ばし、無謀な運転をしているように思えた。車の中には夫もいたので、いらいらする私の気持ちに拍車がかかった。グルジェフはそのことをちゃんと知っていた。私が耐えられずに、もう少し注意して運転してくれと頼むと、「私のすることに口出しするな!」と荒々しく叱り飛ばされた。私は、自分が正しいと感じていたので、彼の言葉を冷静に受け止められず、われを忘れて、師に対して取るべき態度でない口調で彼に言葉を返した。グルジェフは車を止めた。私が降りると、夫も降りた。グルジェフは車を走らせた。寒い冬の夜だったが、私たちは暖かいコートを着ていなかった。通りがかりの車を止めて送ってもらおうかと考えていると、グルジェフが戻ってきた。みな黙りこくってプリオーレヘ帰った。翌日も私はまだ怒りに震えていたので、彼を避けた。2日経ち、私は考え始めた。「自分の師に対して、どうしてあのようにふるまえたのだろうか?」 一種の後悔を感じ始めた。私以外はほとんど誰も入れない「リッツ」回廊にある部屋へ行き、正座して、自分自身をまったく新しい観点から見るように、深く考え始めた。ちょうどそのとき、部屋のドアが開き、グルジェフが入ってきた。私を咎めたり、あの一件を思い起こさせる様子は、彼の声にも動作にも少しも感じられなかった。そしてこう言った。
G「あなたを捜していたんだ。タイプの仕事がたくさんある。早くいらっしゃい……。」

みながスタディ・ハウスにいるとき、一人だけ本館に残ってドアマンの役をつとめなければならない人がいる。ある夜、ドアマンが来てグルジェフに何かささやいた。グルジェフは私を呼び、「本館へ戻り駅から電話しているウスペンスキーに、プリオーレに来てもらいたくないと伝えてあるはずだと答えてくれ。」と言った。年下の、しかも女の私が、年上のウスペンスキーに、たとえグルジェフからの伝言であろうととてもそんなことは言えないので、私はひどく慌てた。そこで、本館へはまっすぐ行かず、牛小屋の前を抜け、遠回りしながら、そのあいだに回答を用意できないものかと考えてみた。
本館に着いてみると、誰もいない。電話にも誰も出ていない。ウスペンスキーに何も言わずにすんだことを喜びながら、私は、スタディ・ハウスヘ駆け戻った。まったく意外にも、グルジェフとウスペンスキーが隣り合わせて座っていたのである。しかもグルジェフは上機嫌で、口ひげをひねりながらこちらに目を向けた。私はあいた口も塞がらず、黙ったまま座った。あとでなぜあんな難題を出したのかと尋ねると、グルジェフは、「私だけの知ったことだ。」とぽつんと言った。だが、私がどうするか知りたかったのだということはわかっていた。

別の機会に、マダム・ウスペンスキーがフォンテーヌブローに来ていて、プリオーレからあまり遠くないホテル・ド・ラ・フォーレに泊まっているという知らせがあった。どういうわけか、グルジェフから、その夜にかぎり彼か私のサインがなければ誰も外出させてはいけないとドアマンに教えておきなさい、と言われた。ふつうなら、外出を認められていない5人の少年を除き、10時以後は誰でもしたいことができた。
夫と私は、1917年から知り合っていたマダム・ウスペンスキーにとても会いたかったので、10時過ぎると2人でプリオーレの林へ散歩に出かけた。本館からずっと離れたところの壁をよじ登り、彼女に会いに言った。長居をせず、帰りも同じ方法で屋敷に入った。
帰ると間もなく、誰かが私たちのドアを叩き、グルジェフが私を呼んでいると教えに来た。夜更けだったが私は彼のところへ行った。彼は私をひどく叱った。「ドアマンに、誰も外出させるなと言ってあるのに、あんた方2人が外出し、彼に規則違反をさせたのか?」
私は、ドアマンに規則を破らせるようなことはさせなかったと答えた。グルジェフは、「あんたと旦那は今夜どこにいたんだ? 捜していたのに。」と続けた。
私は、2人でマダム・ウスペンスキーに会いに行ったのだと答え、どうやって出て行ったか説明した。グルジェフは笑い出した。

ある日私は、グルジェフが書き直している原稿をタイプしなければならないので、彼を待っていた。ハエが飛んできて、プリオーレの居間の大テーブルの上を回り始めた。ハエを追いかけて叩こうとしたが、うまくゆかなかった。私は、グルジェフに聞いてみた。「回教では、虫を殺してはいけないということですが、本当ですか? もし本当なら、人間はどこにいればよいのでしょうか?」
グルジェフは、それは本当であり、コーランには、補うことができなければ、誰もハエを殺すことはできないと書かれている、と答えこういった。「これについて考え、理解したら私に話しなさい。」
私にはコーランのこの言葉の意味が全然わからなかったが、グルジェフと話をするいろいろな大人の様々な話題を通訳しているうちに、あるとき急に思い当たったのである。ハエに関するあの言葉は寓話か象徴であると考えれば、その意味が理解できるのではあるまいかと。まったく新しい観点からこの問題を考えた末、やっと気づいたことは、何も破壊することは許されない、替わりのものを与えることができなければ、信仰さえ破壊することは許されない、という意味なのかもしれない、ということだった。
グルジェフに、「そうでしょうか?」と聞いてみると、彼は私が理解したことを喜んだ。

1927年12月、グルジェフが『ベルゼバブ』を口述し終えたとき、彼と私はカフェ・ド・ラ・ぺの小さな円いテーブルの前に腰掛けていた。実を言うと私は、『ベルゼバブ』の最後の行が辛うじて書き取れたほど感動していた。彼は私の興奮状態を察し、「もう一冊、別の本を書かなければならないのだから、落ち着きなさい。」と言った。その日が終わるか終わらぬうちに、別の口述が始められたのである。今度は、彼の父や、最初の師であるボルシュ神父や、そのほか青年時代の遍歴途上、各地で出会った注目すべき人々の話だった。
というわけで、筆記や、タイプや、タイプし直しの仕事が始まったが、『ベルゼバブ』よりずっと易しかった。『ペルゼバブ』には私の理解できないことがたくさんあった。ジョバンニ神父の段になると、グルジェフはしばらく口述すると、「そのままにしておきなさい。あとで続けよう」と言った。私は言われたとおりその頁をとっておいたが、彼の言った「あとで」は続かなかった。こよなく大切にしているそのページが、私の手元にある。

19
オラージの強い要請により、1929年にグルジェフは再度ニューヨークへ渡航した。だが、このときは「宗教舞踏」を公開することを望まず、彼の著書、『オール・アンド・エブリシング』という題名をつけられた『ベルゼバブ』を広く一般に知らせるプランを立てていた。その結果、夫と私だけが彼に同行した。私たちにとっては、22人の生徒を連れて行った1924年の最初の航海より、はるかにくつろげる楽しい航海だった。このときも「パリ」で横断した。
乗船第一日目から、グルジェフはド・ハートマンに、プリオーレを離れ、パリで独立した生活を立てて作曲に専念する時期が来た、と話して聞かせた。夫は、その前年から仮名を使って映画音楽を作曲していた。プリオーレの為や私たち自身の為にも収入を得なければならなかったのである。
ニューヨークではオラージが待っていたので、着くとすぐ講話を始めることができた。グルジェフに会いたがる新しい人たちが大勢いた。面会の場所は、たいていチャイルズ・レストランだった。
グルジェフと面接する番を待つ人たちが、たくさんテーブルを占めることもあった。グルジェフの執筆とその翻訳の仕事が続けられ、彼の著書を読みたがる人たちが、昼間私たちのアパートに来た。私と夫はパーク・アベニュー・サウスの、グルジェフが仮住まいした家の2階に住んでいた。一定の購読料を払った人に、その場で読むようにテキストを渡すのは、私の役目だった。夜は、大勢の人々がグルジェフのアパートに招待され、彼自身が料理した夕食を出した。
グルジェフが夫にも私にも、無理や難題の拍車をかけてきたので、私にとっては極端に難しい時期だった。何もかも放り出して、逃げ出したいと思うことが度々あった。グルジェフは、くどくどと、パリヘ帰ったら私たちが独立して暮らせるように手配するという話を繰り返し、小さな家を見つけて私の両親と一緒に住むことを強いた。彼に言われたようにすることは、問題となるに決まっていた。私たち夫婦と両親とは、まったく異なる生活をしていた上、父母は2人ともかなり年とっていた。2人とも、ロシア人の老人ホームに住みたいと言っていた。そのホームはたいへん立派な造りで、居住者の中には両親の知人が大勢いた。私の妹は既に結婚していた。それでもグルジェフは、彼の言ったようにしなければだめだと言い通し、いずれ彼に感謝することになろうと言った。その後、両親は私たちと一緒に9年間住んだのである。グルジェフの言ったとおりだった。父母と一緒だったことを、私は今日でも感謝している……。

ニューヨークから戻ると、私たちがパリで生活できるよう手配するということを、グルジェフは2度と言い出さなかった。だが、彼がプリオーレの屋敷の中を変えたので、両親は一時パリにいる私のいとこの家へ移った。2人が行ってしまうと、私たちは住む家を捜し、ヌイリー郊外のクールブボアに手頃な家を見つけた。グルジェフと私たち夫婦のあいだの緊張感は高まる一方だった。
それでも、夫と私があれほどの年月を、あらゆる苦難に耐えて彼に従ってきた事実を考えると、彼が本当に私たちに出て行ってもらいたいと思っているとは信じられなかったが、ついにグルジェフは、私たちがいたたまれなくなるような状況をこしらえた。ある日、彼と私たち夫婦のあいだに、極度に張りつめた、解決しにくい話が交わされ、私と夫は出て行かざるをえなくなったのである。
私は、非常にみじめに感じ、激しい不安感に襲われた。私よりずっと敏感で、生まれつき個性の強い夫は、神経衰弱になりかかるほど苦しんだ。
いったんプリオーレを去ると、夫は2度と戻るまいと決意したが、グルジェフとその教えに対する彼の態度は少しも変わらなかった。のちにある人が夫の前で、グルジェフについて思いやりに欠けたことを言ったところ、夫がその人の肩を両手でつかまえて激しく揺すぶったので、相手は恐れをなして逃げ出してしまったことがある。夫は、私がプリオーレに通い続けることには反対しなかった。とはいえ、彼の健康が思わしくなかったので、定期的に通うことはできず、プリオーレで私が果たしていた義務の多くは、他の人たちにやってもらわねばならなかった。
私たちは新居で平和に暮らしていた。ある日、誰かが私たち夫婦の部屋のドアを叩いた。母が現れフランス語で、すぐ裏庭か屋根裏部屋へ行くよう夫に言いなさいと私に言う。母は、グルジェフが入口のところに立っているのを見かけたのだった。
私はグルジェフに会いに行った。母もたいそう快く彼を迎えた。私はコーヒーを出し、両親と一緒に静かに座っていた。まったくだしぬけに、グルジェフが両親にこう言ったのである。「プリオーレに戻ってらっしゃい、この家から出なさい。そうした方があなたがたのためにどれだけよいかわかりませんよ。」
母は、「私たちはもうこの家に落ち着いたんですよ。何もかも娘がやってくれます。年をとっていますからプリオーレの生活には入りにくいのですよ。」と答えた。
グルジェフは前の調子を変えずに、「一週間以内に来なければ、この部屋に棺桶が運ばれて、その中にあなたの娘さんが入るんですよ。」と言った。
父は顔面蒼白になった。私は父の手をつかみ、気にしないようにと言ったが、父にとっては、とても我慢のできることではなかった。母が口を切った。「グルジェフさん、なぜそんな馬鹿げたことをおっしゃるんですか? 私たちは子供じゃないんですよ!」こう言ってから、母は笑い声を立てた。グルジェフも笑い出し、元どおりに話が続いた。
あとで私は父に言った。「グルジェフさんは時々ああいうことをしますが、それは、理解をもたずに信じてはいけないということを教えるためなんですよ。」
私も母も彼の言ったことを気にしなかった。

秋に、私はグルジェフと一緒にベルリンへ行くことができたが、このときも試練の旅となり、非常にみじめな思い出となった。
ベルリンから帰ってから、ある夜私はプリオーレヘ行った。グルジェフは私に、してはならないと思えるようなことを頼んだ。私は自分の部屋へ引きこもった。しばらくするとグルジェフが来て、彼が頼んだことをしなければ、夫に不吉なことが起こると言った。電話がないのでパリにいる夫と連絡がとれない。終電が出た後だから帰ることもできない。いずれにせよ、意外な時刻に帰ったら夫を心配させるだけだ。絶望的になった私は、言われたことをすべきか、すべきでないかと考えた……この闘争の最中に、グルジェフがあれほどしばしば繰り返した言葉を急に思い出したのである。
「自己の内部の高次のもののみを信じなければならない」
こう気がつくと、この言葉をしっかり心に留め、外部から来る何ものも、自分の師から来るものでさえも、恐れなければ、不吉なことは何も起こらないという感じが心の深くにもてた。師は、私が忘れてしまったことを想起させようと試しているだけなのかもしれない。理性でこう考えたにもかかわらず、理解が閃いたにもかかわらず、私は猛烈に苦しんだ。
翌朝の始発で帰宅し、寝台の中で安らかに眠っている夫を見た。のちに『ミラレパ』を読み、チベットの師たちは、しばしば弟子たちにこうした難題を与え、師の言うことを何から何まで信じてしまわないようにさせるということを知った。

1929年12月末に、グルジェフは幾人かの生徒を連れて、またニューヨークへ行かなければならなかった。
彼から、出発の前夜にはプリオーレに来て、全部手はずを整えてくれと頼まれた。そういう依頼を断ることができないのは言うまでもない。彼のかわりに私がいつも持っていた、小さな引き出しの鍵を渡すようにと言われた。彼は引き出しを開け、手紙やパスポートや、中にあったものを一つ残らず暖炉に投げ入れて燃やしてしまった。手ざわりから、書類と一緒にいくつかのパスポートのあることがわかったが、正確には何だかわからなかった。なぜパスポートを捨てるのかと尋ねると、彼はこう言った。「鍵を持っていたのに、引き出しの中に何が入っているか一度も見なかったのかね?」
私は、そんなことはしたことがないと答えた。
G「だからあなただけに鍵を預けることができたんだ。幸せなことに、あなたには好奇心というあのとんでもない素質がなかった。」
悲しいことや辛いことがたくさんあったが、グルジェフが私を信じて疑わなかったということがとても嬉しかった、ということは言っておかなければならない。
彼がニューヨークへ発つ日、私は言われたように朝早く彼のアパートへ行き、最後の仕度を整え、彼と話をしたが、稀にしかもてないようなすばらしい会話だった。
それから停車場へ行き、カフェに入った。グルジェフは、彼が要求したことを自分からそうしたいと思わないかぎり絶対にしないという人は私だけだった、と言った。そのとき私は彼の言っていることが本当だと思い、非常に嬉しかった。ところが急に、ニューヨークで彼がいかにド・ハートマンと私を必要とするか、私たちのようには誰も役立たない、一週間以内に夫が彼と再会できるようにしなさいと言い出したのである。それはできない、と私はその場で即答した。夫の健康がまだ少しもよくないことは明白だった。「たぶん夫は、行けと言うでしょうが…。」と私はつぶやいたが、彼を一人で残すのは嫌だった……。
発車の時間が迫り、私たちは黙ったまま列車に向かってプラットホームを歩いた。グルジェフが長期間行ってしまうのでたいへん悲しかったが、それ以上に悲しかったことは、夫の状態を知っていながら彼に無理強いするようなことを、グルジェフがよくも言い出せたということだった。
乗車を知らせる最初のシグナルが鳴った。グルジェフは食堂車のステップに足を掛けた。幸いにして、彼と一緒に渡航する人たちは誰もいなかった。彼は車輛の入口で立ち止まった。私は駅のプラットホームに立ったまま、彼と共にした数々の旅のことを思い浮かべていた……。
すると、突然グルジェフが言った。「旅行に必要な書類を手配し、一週間以内にド・ハートマンと一緒に米国へ来なさい。あなたがた2人が必要だ。」
私はこう言う彼に、「そんなことはできません。夫がまだよくないのをご存じでしょう?」と答えた。
グルジェフは、声も冷やかに素っ気なく繰り返した。「一週間以内に来なさい。さもないと、私に二度と会えなくなる。」
私は、「よくもそんなことが……無理だということがおわかりでしょう。」と言い返したが、彼は冷たく繰り返すのだった。
G「じゃあ、もう私に会えませんよ。」
私は落雷に撃たれたような衝撃を受けたが、内なる声に従い、繰り返した。「では……もうお会いしません。」
列車が動き出した。グルジェフは身動きせずに私を見つめていた。私は彼の顔に目を据えたままだった。永久の別れだということを痛感しながら……。
電車が見えなくなるまで立ち続けた。私の脳裏には、プリンス・ルボヴェドスキーがグルジェフをあとにして去っていく光景が浮かんだ。グルジェフが『注目すべき人々』のこの章を口述したとき、彼の生涯におけるこの悲劇的な瞬間がやたらに私の心をとらえ、いつか自分もそうなるのではあるまいかと恐れていた。
あのように言ってしまった以上、すべてが終わったということを噛みしめながら、私はゆっくりと家へ向かった。あのように答える以外にどう答えることができただろうか?
私の師は、何を言っているのか承知の上でああしたことを言ったにちがいなく、私としてはあのように答えざるをえなかったのである。
ものすごい頭痛を口実に、私は自分の部屋へ入り、カーテンをおろして寝台へ行った……。このとき克服しなければならなかった内的経験は筆舌につくし難い。夫を苦しめたくなかったので、彼には何も言えなかった……。私が力を取り戻し、通常の生活を回復するには4日かかった。

私たちがプリオーレを去ってからの数年間、生活費を稼ぐために、夫は仮名で映画音楽を作曲した。彼の母の旧姓にちなみ、トーマス・クロスという名を用いていた。生活費が入るようになると、夫は自分自身の作曲に専念し、最初に書き終えた交響曲は、その年にラモー管弦楽団によりパリとブリュッセルで初演された。これに続いて完成した管弦楽曲は、どれもみな幾つかの管弦楽団がパリで演奏した。夫はチェロ・コンツェルトも書き上げ、ボストンで演奏された。彼自身の演奏するピアノ・ソナタのいくつかがラジオ放送されたこともあった。声楽曲については、彼のコンサートで私が歌うこともあった。夫は、著名な音楽家たち数人に、作曲と管弦楽編成法を教えた。グルジェフの生徒が何人かレッスンを受けに来た。夫の作品がプリオーレの大サロンで演奏されたりしたので、関係が断絶したことは一度もなかったのである。私たちはできるだけ頻繁に、マダム・ド・サルツマンに会うようにしていた。
1933年にプリオーレを売り払ったグルジェフは、パリに住みついた。彼は何回か使いをよこし、私たちに戻るようにと言ったが、どれほどそうしたくともそうすることはできないし、またしてはならないというのが夫と私の動かし難い気持ちだった。それでも、グルジェフへの私たちの態度は変わらなかったのである。グルジェフはいつまでも私たちの師であり、夫も私も彼の教えにいつまでも忠実であった。

20
それから20年近くの歳月が過ぎ去った。私たちはパリに近いガルシェに住んでいた。1949年10月のある雪の夜更けに、パリのアメリカン・ホスピタルにいるマダム・ド・サルツマンから電話があり、グルジェフが重病で入院したところだと知らせてきた。夫人は、私たちが病院に来たいのではないか、と思って電話したのだと言い、また一緒にいてもらえたらよいのだがと洩らした。私たち夫婦はどれほど感謝したことか……。
夫は持病の心悸昂進の発作で床のなかにいたが、知らせを聞くと飛び起き、当時使っていた古びた車、パンハードを出すようにと言った。私たちは直ちに病院へ向かった。グルジェフが極端に衰弱していたため、面会はできなかった。だが、誰も彼の死がそれほど急に来るとは考えていなかったのである。私たちはその夜遅く帰宅し、翌日早く病院へ行って彼に会えればよいが、と念じていた。ところが、翌朝9時にマダム・ド・サルツマンから電話があり、15分前にグルジェフが死去したと言った……。
夫と共に病院へ駆けつけた。グルジェフの遺体は病院の小さなチャペルに安置されていた。平和と美をたたえた彼の顔はすばらしかった……宗教上の理由から、遺体は4日間チャペルに安置されたままだった。昼も夜もチャペルは人で埋まった。
埋葬の当日に遺体が柩に移され、ダル通りのロシア教会へ運ばれた。祭司が行う短い祈祷式に参列する人々が集まった。祈祷式が終わると祭司が祭壇のなかに入り、幕を閉じた。その瞬間に電燈が消えた。みな、祭司が電気のスイッチを消したのだと思った。急に真っ暗になった教会のなかイコンを照らすのは、数々の聖像の前に燃える小さなキャンドルだけだった。ほの暗い教会のなかは深い集中と平和に満たされ、5分ほどみな立ったままでいた。
埋葬式では、故人の徳をしのぶ追悼文を読むということを祭司が言っていたので、マダム・ド・サルツマンと私たち夫婦が祭司の家へ行った。祭司は、祭壇の幕を閉じた瞬間に、どういうわけか電燈が消え、追悼者たちを暗闇のなかに立たせたことを詫びた。
彼がおかしなことを言ったりしてはまずいと案じたド・ハートマンは、自分で用意しておいた追悼文を祭司に渡した。夫はロシア教会のしきたりをよく知っているので、グルジェフの柩の前で唱える最後の言葉が、『魔術師たちの闘争』からの引用で終わるように書いておいた。

「神とすべての天使たちが、いつでもどこでも自己を想起するように人々を助け、悪行から守ってくれている」