いくつかの言葉の真の意味について

G:我々は多くの事柄の歴史や起源をまるで知らないのだ。
G:君たちはいまだに言葉を信じているのだ。
G:言葉は言葉に過ぎない

・進化
人間の進化の法則を理解するには、ある点以上ではこの進化は全く不必要であること、つまり自然の発展の一時点においては、人間の進化は自然にとって必要でないことを把握しなければならない。もっと正確に言えば、人類の進化は惑星の進化と相応しているが、惑星の進化は、我々には想像もできないほど長い時間の周期の中で進む。
大半の人々にとって「進化」という言葉は、「何か新しい、良い方向へ変化した」という意味で捉えられていると思うのですが、人間であれ惑星であれ上昇と下降は法則内でしか起こりえないので、私としては「成長」という言葉を使うべきかな、と考えております
もし「進化」という言葉を使うなら「法則内における進化」という言い方をしないと、正確に認識できないと思います。
対義語として「退化」という言葉もありますが、こちらも「法則内における退化」と認識しておくべきだと考えます。
ですが、大半の人々はその法則を知らず、どういう状態に変化することが進化に当たり、もしくは退化に当たるかどうかわかりません。
例えば、生物が環境に適応するために変化する場合にも、「その生物は進化した」という表現を使うことがありますが、そのことが法則的に見て「上昇」しているわけではない場合にも「進化」という言葉を使っている場面が多々あるので、そのたびに私は違和感を感じます。

・愛
愛、それは人々の弱さと意志のなさのために次第に退化してしまい、現代人においては今や完全に悪徳と化してしまっている聖なる感情。もともとそれが自然に芽生える可能性は、魂の救済と、多少なりとも幸せな人生を分かち合うために必要な人間どうしの道徳的支えとなるように、創造主によって我々に与えられたものである。

愛と呼ばれるものさえ助けにならないのだ。なぜかといえば、言葉の真の意味においては、機械的な人間は愛することができず、彼においてはそれが愛する、またはそれが愛さない、という具合になっているからだ。

人間第一番、第二番、第三番は機械として存在しており、それらは機械であることをやめることはできるのに、いまだにやめていないのだ。

愛という聖なる衝動を喚起するデータも、これと同様に異常な形で彼らの体内に形成されている。
現代の人間たちの体内には彼らが愛と呼んでいるあの奇妙な衝動も芽生え、存在しているが(どの程度かは想像におまかせしよう)、彼らのこの愛は、まず第一にあの器官クンダバファーの特性から生じたものが結晶化した結果生まれたものであり、また第二に、彼らのこの衝動は彼ら一人一人の生きるプロセスの中で完全に主観的に湧き起こり、そして活動している。
実際あまりに主観的で各人各様なので、もし彼らの10人がこの内的衝動をどのように感じるかと説明を求められたならば、10人全員が(もちろんどこかで読んだり他人から聞いたりしたことでなく、彼ら自身の本当の感覚を誠実かつ率直に打ち明けてくれたらの話だが)違ったように答え、10通りの感覚を述べることであろう。
ある者はこの感覚を性的な意味で説明し、またある者は憐憫という意味で、別の者は服従への欲求という意味で、また別の者は外的なものに対する一般的熱狂という意味で説明する、という具合である。しかも10人のうちのただ一人として、ほんのわずかでも真正の〈愛〉の感覚を説明できる者はいないであろう。
それに誰一人そんなことをしようとも思わないだろう。それというのも、この地の普通の人間の中では、すでに長い間、真正の愛という聖なる衝動のほんのわずかな感覚さえ失われているからである。そしてこの〈味〉を知らなければ、全宇宙のあらゆる三センター生物の体内にあるこの至福をもたらす聖なる衝動をほんのぼんやりとさえ述べることはできない。この衝動は偉大なる自然の神のごとき先見の明に従って、あるデータを我々の内部に形成するのだが、それを経験して初めて我々は、自己完成という目的のために我々が行なった賞讃に値する労働から至福のうちに身を引いて安らぐことができるのである。
近年この地(地球上)では、もしこのような三脳生物の一人が誰かを〈愛する〉とすれば、それは相手がいつも自分を励ましてくれたり、不相応なまでにお世辞を言ってくれたりするためであるか、または自分の鼻が相手の女性ないしは男性の鼻とそっくりで、〈両極性〉あるいは〈タイプ〉という宇宙法則のおかげで彼または彼女との関係がいまだに壊れずにうまくいっているためか、あるいは相手の叔父が実業界の大立者で、いつの日か自分を後押ししてくれるだろうという期待のためにすぎない。
つまりここの人間たちは、真正の公平無私かつ非利己的な愛で愛することは決してないのである
この地の現代人の内にあるこういった愛のために、器官クンダバファーの特性から生じるものが結晶化するための遺伝的な素地は現時点では何の障害もなく結晶化し、ついには彼らの本性の中の合法則的な部分として固着してしまったのである。

2種類の愛がある。1つは、奴隷の愛であり、もう1つは、仕事によって獲得されなければならない。第一の愛にはまったく価値がなく、第二の愛、すなわち、仕事を通して獲得される愛だけに価値がある。これが、あらゆる宗教の言う愛である。
(機械的に)「それ」が愛するときに愛するのでは、その愛はあなたに依存せず、何の価値もない。それは、我々が奴隷の愛と呼ぶものである。あなたは愛すべきでないときでも愛する。状況があなたに機械的に愛させるのである。
真の愛はキリストの愛、宗教の愛である。この愛を持って生まれてくる人はいない。この愛のために、仕事をしなければならない。ある人はそれを子供のときから知り、他の人々は老年になってから知る。誰かが真の愛を持っているとすれば、その人はその愛を人生において獲得したのである。
だが、学ぶことは非常に難しい。人間について直接学ぶことは不可能である。あらゆる人が他人の弱点に触れ、あなたを抑え、試みるチャンスを非常に少ししか与えてくれない。
愛は異なる種類の愛であり得る。どの種類の愛について話しているかを理解するには、これを明確にする必要がある。
今我々は、生命に対する愛について話している。生命のあるところ、つまり植物をはじめ(植物も生命を持っている)、動物の生命のあるところ、愛がある。各々の生命は神の代表者である。
代表者を見る人は誰でも、表象された神を見る。あらゆる生命が愛に敏感である。花のような、意識を持たない、動く機能のないものさえ、あなたがそれを愛するか否かを理解する。意識を持たない生命さえ、それぞれの人に相応して反応し、その人の反応に応じて作用する。
あなたは蒔いた種を刈り取る。小麦を蒔けば小麦を得るということだけではない。問題は、いかに蒔くかである。小麦は文字どおり、藁に変われる。別の人が同じ土壌に同じ種を蒔いても、結果は異なる。だが、これはたんに種の話である。自己の中に蒔かれたものについて、人は種よりも、確かに敏感である。動物も人間ほどではないが、非常に敏感である。以前に某氏が動物の世話をまかされたところ、多くの動物が病気になって死に、めんどりは少ししか卵を生まなくなった。雌牛でさえ、あなたが愛さなければ乳を少ししか出さないであろう。違いは、まったく驚くほどである。
人間は雌牛より敏感であるが、無意識にそうであるだけだ。あなたが他人を嫌ったり憎んだりするということは、ただ、誰かがあなたの中に何か悪いものを蒔いたためである。隣人を愛することを学びたいと願う人は誰でも、植物や動物を愛するように試みることから始めなければならない。
誰であろうと、生命を愛さない人は神を愛さない。直ちに人を愛そうと試みても、他人もあなたのようであり、非難の言葉で応えるから、不可能である。しかし動物は口がきけず、悲しそうに断念する。それであるから、動物に愛を実行することから始めるのが容易である。

普通の愛には憎しみが伴う。私はこれを愛し、あれを憎む。今日あなたを愛していても、来週、いや、1時間後、1分後にはあなたを憎む。真に愛することができる者は存在することができる。存在することができる者は、行為することができる。行為することができる者は、存在している。真の愛について知るためには、愛に関するすべてを忘れ、さまよわなければならない。私たちは存在するのと同じように愛することはできない。私たちは、自分の中の何かが相手の放射物と結びつくゆえに、愛するのだ。愛によって心地良い結合が始まる。おそらく、本能的センター、感情的センター、あるいは知的センターからの物理化学的な放射物が原因だろう。あるいは、外的な形態のエネルギー、もしくは感情が原因なのかもしれない。あなたが私を愛するゆえに、あるいは、あなたが私を愛していないゆえに、私はあなたを愛する。他にも、主観的・利己的なものも含め、優越感、憐れみなど、様々な理由が挙げられる。私たちはいろんな影響にさらされている。私たちは自分の感情を他者に投影する。怒りは怒りを生む。私たちは与えたものを受け取る。すべては引き寄せるか、はねつけるかのどちらかだ。通常、男と女の『愛』として知られている、性愛というものが存在する。
(性愛で結ばれた2人は)これがなくなると、もう男と女は互いに『愛』さなくなる。反対のものを呼び覚まし、人間を苦しめる、〈感情という愛〉も存在する。意識的な愛については後で語ろう。」
他の質問に答えて、彼
(G)はこう言った。「あらゆる生命は愛を必要としている。飼い主が愛していれば、牛はよりたくさん乳を出し、鶏はよりたくさん卵を産む。種を播(ま)く人間が異なれば、異なる結果が生まれる。力の強い人間は憎しみによって植物をしぼませ、他の人間にも危害を及ぼす。まず植物と動物を愛さなければ、あなたは人間を愛するようにはならないだろう。」
「確かにそうですね。」と質問者が言った。「でも、愛とは何なのですか? 私たちはいつも愛について語っていますが、自分にそれが何なのか?と問い掛けてみても、自分にはわからないということがわかるだけです。たぶん、ある人物のためになるようにと考えたり、相手の幸福を望んだりすることが愛することなのでしょう。でも、相手にとって何が幸せかなどということがわかるでしょうか? たとえ自分の子供についてだとしてもです。相手によかれと思って骨を折っても、結果的にそうはならないことがよくあるものです。」
G「自分がわかっていないということがわかれば、もうそれで充分だ。あなたがグループに入れば、後でこのことについて語ることがあるだろう。」
問「男性が、自分を苦しめる女性にしばしば惹き付けられるのはなぜですか? また、女性も同じように男性に惹き付けられるのはなぜですか?」
G「私が〈感情という愛〉について述べたことをよく考えてみなさい。」

人々にとって、肉体以外の方法で「能動的に交わる」こと、すなわち、彼の言う「お互いの本質(エッセンス)に触れる」ことが可能であったが、人間はこの能力をずっと前(数十世紀も前)に喪失した。しかしながら、注意深く観察すれば、この、「本質に触れる」ことが、現在でも時たま二人の人の間に生じるのを認めることができるが、そのことが生じるのは、たんなる偶然であり、そうなったとたんにと言えるほど即座に、思い違いされたり、取り違えて解釈されたりして、たんなる肉体的形態に堕落し、一度使われてしまえば、価値がなくなるということだった。

人々の間(一人ともう一人の人と)の適切な、客観的道徳に基づいた愛について説明を求められたとき、グルジェフは答えた。
G「他の人が、その人自身に必要なことをするのを助けることができるほどに、あなた自身を発展させる必要があり、たとえ、相手の人がその必要性に気づいていないときでも、また、あなたにとって不利なことになっても、助けることができなければならない。この意味においてのみ、道理に適切にかなった愛と言え、真の愛の名に値いする。たとえ誰にも劣らぬ心積もりでも、たいていの人は、積極的に人を愛することにかけてはあまりに憶病であって、相手に対して何かしようと試みることさえ恐れる。愛が恐るべき一面をもっていることの一つは、相手の人をある程度助けることはできても、その人のために実際に何かを『する』ことはできないということである。ある人が歩かなければならないときに、その人が転んだなら、起こしてあげることはできる。だが、その人にとっては、もう一歩踏み出すことが空気以上に必要であっても、その一歩は、その人が一人で踏み出さなければならない。その人にかわって、別の人がその一歩を踏み出すことは不可能である。」

愛に関しては私自身長く考え続けてきましたが、結局のところ例の人間を7つのカテゴリーに分けることで、愛の種類も分けることができると思います。
人間第一番から第三番は機械的な愛であって、第四番からの愛が意識的な愛と呼ばれうるのだろうと思います。
第一番は肉体的な愛、第二番は感情的な愛、第三番は思考的、理性的、知的な愛と呼ぶべきでしょうか。
第四番からは、グルジェフ研究の法則性の部分でなんとなくわかるとは思いますが、大半の人には理解しがたいかもしれません。
つまりは、第四番からは意識的な修練でその人自身が変わらなければ、それ以上の愛の発露はできないということなのでしょう。
男女間の恋愛については、私自身様々な例を注意深く観察してきました(実体験は少ないですが)が、結局のところ男性側であれ女性側であれ、人間性が重要なんだなと思います。
世間では、肉体的に相性が良くて結ばれる場合があったり、感情的な燃えるような恋が成就したりする場合が主に「愛」という意味で使われる場合が多いと感じます。
男女間の知的な愛というのは、大衆にとってはあまり魅力がないようですが、知的な趣味で意気投合して結ばれたり、頭を主に使う学習に勤しんでいる男女で結ばれる例を思い浮かべると、それらが第三番に当てはまるのだと思います。
第四番からは、やはりある程度第三番以下から脱却できていないと、その愛を感じることも放射することも難しいので、男女間でそういった例を提示することは難しいのですが、意識的な人間という言葉がなにを意味するのかを学べれば、なんとなく把握できると思います。
男女間であれ、親子間、兄弟間、親族間、動物との関係、植物との関係であれ、その人自身が発する放射物(俗に言うオーラというものを思い浮かべるとわかるかなと)の質が重要であって、同種の、もしくは同質の放射物が交わると一種の達成感を感じるのでしょう。
一方的な客観的な愛というものも存在すると思うのですが、これは、「思いやり方」という意味で考えるとわかりやすいかな、と思います。
つまりは、人間1番~3番しか知らない人は、主観的にしか誰かや生命を思いやれないですが、4番目以降を知っている人は「思いやり方」が明らかに違います。
わかりやすくいえば、酸いも甘いも知った人生経験豊富な老人の助言と、たいした経験も無く、たいして学ぶ機会にも恵まれなかった若者の助言の違いを比べてみてください。
神道でも語られる「細部に神が宿る」という言葉の意味は、まさにグルジェフのいう宗教から学びうる「愛」であり、「あらゆる生命に対するとるべき態度と捉え方」といえるでしょう。
(以後編集中)

・自由
・主観と客観