G.I.グルジェフについて

まずは、グルジェフという人物の人となりを「知る」のに最適と思える文章を載せます。
物質的問題について-『注目すべき人々との出会い』より
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グルジェフとの出会いについて
私はある時期に、「真実を追究した個人、もしくは集団、もしくは特殊な特性を身につけた、あるいは引き継いだ人が残した、現代文明では辿り着いていない内容が含んだ文献や書物が残っているのではないか? 現代の人々は目の前の生活に浸りきり、そういったことには興味がないようだ。欧米文明が根本的な真実を探求しているようにはみえない。(目立たないだけで実際には多種多様な団体や集団があるのですが)しかし、長い歴史でそういった知識が残されていないとも考えられない。今までの経験で、ある程度見極める能力は身につけたつもりだ。いずれにしても何らかのヒントはえられるはずだ。」など、おぼろげながら考えていました。

ある時、ネット上での論争から出てきていた「注目に値しそうな人」の名前からその人物を一人一人調べていて、最終的にグルジェフに行き着きました。まだ先があれば最終ではないですが。(彼を超えるものがもしあれば、という意味で)
実際、私自身それまでにグルジェフの名前を聞いたこともなく、全く知りませんでした。
それが今では、私自身不思議に思うのですが、わざわざ日本からフランスに彼のお墓参りに行ったほど、全くの個人的な感謝の気持ちがあります。
それは、私自身幼少の頃から「世界」について疑問を持ち続け、その答え(や導き)を探していたからに他なりません。
「なぜこういった疑問を、みんな持たないんだろう?」と子供の頃から思っていましたが、こういった方面に関しては、残念ながら私の親や親類など、身の回りに導いてくれる人はおらず、ともに探求をするような仲間にも出会えませんでした。

ヨーロッパで発祥し拡大した近代文明が、私が生まれ育った日本という国を過去に飲み込み、私もその影響下で教育を受け(そのつまらなさにあるとき嫌気がさして、途中から真面目に取り組みませんでしたが)育ったので、自然と、近代欧米文明の限界が人類の限界だと思っていました。
ですがそれ以外に、長く秘密裏に引き継がれてきた別の文明、秘教学派があることを知り、グルジェフ自身が学んだそれらの「知識」を、後世に残してくれたことには感謝してもしきれません。
もちろん今はグルジェフはこの世におらず、残念ですがその影響力も年々失われてきているようです。

急に一人の東洋人である私がグルジェフに関して大騒ぎを始めているので、一部の人々(主にグルジェフを知る人々)にとっては、大いに疑問に思うかもしれません。
実際は、グルジェフ本人に対して、というよりも彼が方々で学び、それを残してくれた「内容」(教え)が私にとってはかけがえのないものなのですが。
もちろんそれは、「探し求めてきた人、今まで個人でワークを続けた人にしかわからない」内容だとは思うのですが、同じように「求め、探し、追求して」きた人にとってかけがえのないものになると考えます。
何かを「信じる」ためではなく、「現実への理解を深める」ために探求してきた人に。

私自身はとくに、彼の活動の再興とか新興グルジェフィアンとして活動したり、新興グループを率いたりなどの考えはありません。
とある別の方法を用いて、とある影響力を作り出そうとはしているかもしれませんが。

グルジェフは元々「大義」というか、一種の理念や「立派だった時代の」宗教性を持っていたように思いますが、私は別に誰かに教えたりしたいとか、導いたりしたい等の気持ちはありません。
むしろ、「どうせ自分自身で『望まないと』わかるものもわからないし、『もし望むなら』自分だけの方がむしろやりやすい」とさえ考えます。
グルジェフのレベルに到達した師と適切に組織されたグループがあれば別かもしれませんが、今現代に秘教学派を除いて、グルジェフが組織したような適切に組織されたグループが現代にあるでしょうか? もしあれば知りたいものです。
もしあるとすれば秘教学派にあるかもしれませんが、それを見つけ出すことは夢のまた夢で、彼らが受け入れてくれる可能性などほぼないですし、むしろ自分たちの集団以外の人間とは出来る限り関わりたくないはずです。また、もし奇跡的に受け入れてくれたとしても、そこで幼少期から特別な訓練を続けてきた人と自分を比べて絶望するだけだと思います。
結局はグルジェフの提唱する「第四の道」を選択する以外にはないのかもしれません。

実際のところ、私なんぞが彼を扱うのは、彼の名声や偉業を損なってしまうのではないか?という危惧を持っていますし、そうならないように意識しています。
グルジェフが残した数々の教えを大切にしていますが、私がそれを扱うのにふさわしい段階にいるとは思っていません。彼のようなレベルに至った人にしかわからないことが沢山あると感ずることは多々あります。
また、彼が意図した教え方(彼の著作森羅万象シリーズを順番に読む事とか)に沿えなかったり、誤った解釈を広めてしまったり、明らかに秘密裡な存在でいたい秘教学派の名前をいたずらに広げてしまうのではないか?等々、彼の教えを扱うに当たっての心配事は多くあります。
その他、多くの責任は生じると思いますが、「彼」を含む多くの賢人の教えを「ある程度」は受け取ってしまった以上、ある種の別の責任を負っているという気持ちが拭えないので、私なりにやってみようかという感じです。
まあ、彼がかつて言ったように「結果はそのときが来ればわかる」という言葉を意識してもいます。
「彼を絡めて金にする」ような形にはしたくないですが、私自身の大切な多大なる時間を費やしているので、足を進めることを躊躇する時も少なくありません。
どうせ無駄になるとは思っていますが、自身のワークとして「他人に教えることで自分も学ぶ」というワークを意識している部分もあります。実際、これは非常に多くの労力を使いますが、学んだデータを再確認するのには最適なワークだとも思っています。

彼の残したものは、物事の本質を見極める点においても多大なる助けになると思いますが、行き詰まりを隠せない現代文明の現在と未来を考える上においても、彼の残した「内容」はとても有用になると考えます。
グルジェフの残した教えが人類に多大なる恩恵をもたらしうることは疑いありません。


ここからは、一度私がやっておきたかった事、つまりは、彼の足跡を年代順に追ってみたいと思います。
それと同時に、彼の活動をことごとく邪魔し困難にさせた世界情勢も併せて比較していきたいと思います。

・出生、少年時代、青年時代(19世紀後半)
1877年12月28日(異説あり)、ソビエト時代、連邦に含まれていたコーカサスのアレキサンドロポルに生まれる。
母はアルメニア人、父はギリシア系の血を引いている方で、生活のための本業以外にアショーク(詩人兼語り部)でもあったようで、吟遊詩人のような人であったようです。
古代の歴史などの研究もしていた方みたいで、主にグルジェフが一種の特別な能力や使命を持っていたのも、遺伝的にも、成長過程においても、この父の影響が強かったのかな?と思います。
地理的にも、多様な文化環境であったようで、この地域はトルコとの国境を間近にひかえ、古くから無数の民族と文化が混淆(こんこう)していたようです。自然、宗教的にも錯綜(さくそう)をきわめ、キリスト教(ギリシア正教)、イスラム教、ゾロアスター教、仏教、土俗シャーマニズムなどが入り混じって、独特の宗教的風土をかもしだしていたようです。
その後、彼の第二の父であるボルシュ神父に出会い、その後、学校や家庭で学ぶことと身の回りで起こる超自然現象のギャップなどにも翻弄され、次第に未知の世界への探求に惹かれていったようです。

・当時の世界情勢(19世紀後半)
ビルマとイギリスの戦争が1回目に1824~26年、2回目が1852~53年、3回目が1885年~86年にありました。
1840年~42年にはアヘン戦争、1853年~56年はクリミア戦争、インドのセポイの乱は1857~59年、南北戦争は1861年~65年になります。
その頃日本では、1853年にペリーが来航し、1867年に明治維新が起こり700年に及ぶ武家政治が終わりました。
当時の裏歴史を『ヘブライの館』(http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd200.html)から拝借すると、19世紀末に南ウクライナで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に発生し、シオニズム運動が活発化します。
その後、諸勢力の様々な目的や思惑が絡み合った第一次大戦、第二次大戦が発生します。
グルジェフにとって不幸だったのか、もしくは、激動の中でしか得られないものがあったことが幸いしたのかはわかりませんが、2020年の今から見るとまさに激動の時代を生き抜かなければならなかったように見えます。

・出生から青年時代については『注目すべき人々との出会い』に詳しく書かれていますが、青年時代から壮年にかけて、ポゴシャンやイエロフ、カルペンコ、スクリドロフ教授、サリ・オグリ博士、ルボヴェドスキー公、ヴィトヴィツカヤ、ボッガ・エディン、ソロヴィエフ、エキム・ベイら『真理の探究者たち』と共に巡った場所などの詳細な記録がないのは少し残念です。(どこかにはあるのかもしれませんが)
グルジェフ関連の書籍で書いてある主立った場所のまとめ
「ペルシア、アフガニスタン、トルコ、チベット、インド、アジアやアフリカの奥地等々」(編集予定)

その旅の途中で出会った注目すべき人々は、『注目すべき人々との出会い』に書かれており、さらに詳しい部分は『ベルゼバブの孫への話』に編纂したのだと思います。
私が謎だと思うのは、べルゼバブに記された世界観、宇宙観等々はどこから学んだのか?なのですが、『注目すべき人々との出会い』の内容から推測するには「サルムング教団」と「世界同胞団(World Brotherhood)」からなのではないかと思います。

1898年の少し前に『サルムング教団』に行く機会を得、教えを受けたと同時に、ロシアのユリ・ルヴォドスキー公爵と最後の別れをします。

『真理の探究者たち』と共に、時にはバラバラなグループで、アジア、近東を旅し、おそらく1910年頃にグルジェフ個人として協会を開設しようとします。
グルジェフが33歳頃。この頃には妻がいたようなので、おそらく30歳前後に結婚したということでしょうか?
協会開設の一連の流れに関しては「グルジェフと共に」に詳しく記されています。
帝政ロシアの混乱から逃れ、グルジア、ドイツをめぐり、最終的には1922年にフランスに移動し、フォンテーヌブローのプリウーレ館で開設することになります。

実際のところ、グルジェフが発足した協会をその後どのように発展させようと考えていたのかはわかりません。グルジェフの意図通りの結果を生み出せなかったことからも、謎は残ったままです。
グルジェフがスクールを、もしくはグループを作る動機として語っていたものがこちらです。
「具体的に言うと、本性の機械的な発現と良心との避け難い摩擦によって、人々に絶えず自分の存在の意義と目的を思い起こさせるような状況を、自分の周囲につくり出したかったのである」

1924年にアメリカ公演が行われる。フランスに帰国後、同年7月5日にグルジェフが交通事故を起こす。
私が残念に思うことであると同時に関心があることとして、もしグルジェフの予定通りにロシアで協会を発足させることができていたらどんな結果を残せたのだろうか?とよく考えます。
資金として、現在の日本円で約20億円も用意したのに、ロシア革命のために無駄な苦労をしなければならず、しまいには過労がたたって居眠りで大木に追突するという自損事故を起こし、半死半生から復帰したもののフランスで立ち上げた協会をたたむ方向へ舵を取らざるを得なくなったわけです。もし交通事故がなければ、計画されていた支部を増やすこともできたようですし。
ウスペンスキーが「この計画の組織自体の中に、多くの破壊的要素が含まれ、それは分裂せざる得ない」と書き残していますが、実際、グルジェフが弟子たちに期待した理想は果てしなく高かったと思います。その時代においてかなり優秀な人々が集まっていたと思いますが。
グルジェフが、幾多の災難に遭いながらも献身的に弟子たちを育てようとしたことに深い敬意を持たざるを得ないというか、彼が願った思いの強さや重さを、私自身苦しさを持って感じます。これは、彼の教えの重さ、願いの重さを感じられる人にしかわからないと思いますが。

事故後グルジェフは著述に着手し、1929年までに『ベルゼバブの孫への物語』と、「注目すべき人々との出会い」の草稿を完成させる。

1933年には協会を解散して、パリのアパートに住むようにります。その後も一部の弟子たちとは交流をしていたようです。歴史上において数々の思想団体や宗教団体があると思いますが、グルジェフが本物だと特に思うのが、彼が全くの個人で協会を設立し、見切りをつけたらあっさりと跡形もなく協会を閉じたことです。
それはもちろん、中途半端な形で団体が残り続けてもろくなことにならないからであり、彼は彼の著作で未来に希望を託したのでしょう。
まあ、彼が組織した一時的な協会を、思想団体や宗教団体と呼ぶことには抵抗を覚えますが。私なら「古代から秘密裏に伝承されてきた手法を元にグルジェフがアレンジしたメソッドで、人間に秘められた真の発展を達成しうるスクール」とでも呼ぶでしょうか?
実際に名付けられたのは「人間の調和的発展のための学院」ですが。

1949年10月29日、グルジェフは死去し、プリオーレに近いアヴォンに埋葬されました。