「回想のグルジェフ」を読んで
著者C・S・ノット

この本は、C・S・ノットというイギリス人がグルジェフに出会い、グルジェフの教えを受けて、内的、外的共に学んだことや変化を書き記しているものです。
私が特に参考になったのは、このなイギリス人がキリスト教に関して疑問に思っていた部分を、徐々に理解していくという点でした。
他にも興味深い点は多々ありますが、欧米の白人の心理をかなり理解する事ができたことが私にとっては大きな収穫でした。
私自身はキリスト教と関係を持ったことはなかったし、興味もなかったですが、現代のキリスト教と、(グルジェフの)キリスト教の対比から多くの教えを受け取ることができました。


オレイジによる「ベルゼバブの孫への話」の総括←リンク

まえがき
私が初めてグルジェフ・システムと出会ってから、もう35年もの歳月が過ぎようとしている。1924年から始まるこの手記は、G・I・グルジェフとA・R・オレイジと共に行った、ごく初期のワーク(1923年~1928年)に関する、断片的な記録にすぎない。本書はグルジェフ・システムを解説したものではなく、日記と何百ページにも及ぶメモをもとにした、この2人の男の言行に対する私の個人的な体験の記録である。本書は、年代記風というよりは回想記風に書かれているので、似たような話が、時には長い間隔を置いて繰り返し現れ、異なる側面から、異なる形式で再現される。
私は、この手記をまとめるに当たって、ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフの思想に関心を寄せ始めたばかりの人々のことを念頭に置いた。彼の教えに不慣れな人々は、使われている用語や表現のいくつかに戸惑いを覚えるかもしれないが、しかし本書には、自分の今の在り方に不満を感じている人々を惹き付けるものが存在する。そのような人々の中には、グルジェフ自身の著作『ベルゼバブの孫への話・人間の生に対する公平無私なる批判』へと読み進もうとする者も出てくるだろう。
初めてグルジェフとオレイジに出会ったとき、まだ私は未熟で無知で、真の思想というものについて何の知識も持ち合わせていなかった。だから、初期の頃のグルジェフの寛大さや、彼の高弟たち、特に、後には私の親友となりいわば兄のように接してくれた、A・R・オレイジやスジャーンヴァル博士、トーマス・ド・ハルトマンの導きには、いまだに感謝してもしきれない。私はもう若くはない。私は、変化に富んだ生涯の中で、通常の人生において与えられなければならないほぼすべてのもの、「善」と呼ばれるものと「悪」と呼ばれるものの双方を経験してきた。そして今ではこう考えることができるようになった。自分の人生や知性のために私が何を成し遂げていようと、現実について私が何を認識し理解できていようと、それらはみな、グルジェフと、彼のシステムと、彼の手法に負っているのだと。これらのものは私に力の拠り所と真の目的を与えてくれた。そしてパウロにならって私もこう言うことができる。「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」[訳注:「コリントの信徒への手紙二」第九章十五節」。
宇宙論と宇宙発生論、宇宙の創造と展開、〈三〉と〈七〉の法則、人間の堕落の原因とその贖罪の方法、終末論-四終【訳注:キリスト教で死・審判・天国・地獄の四つを指す。】。こうしたことについての詳しい説明は、第一級の客観芸術作品[訳注:グルジェフは芸術を客観的なものと主観的なものに分類し、意識の源泉から生じる「客観芸術」を重視した。】である、グルジェフの三部作『オール・アンド・エブリシング』(特に『ベルゼバブの孫への話』)の中に見いだすことができるだろう。P・D・ウスペンスキーの『奇蹟を求めて――知られざる教えの断片』は、客観芸術の範疇には属さないが、それでも、ロシアでのグルジェフの言葉を客観的に伝える好著ではある。これは、決して単なるグルジェフ・システムの解説書ではない。しかし、『奇蹟を求めて』は知識だけしか与えてくれない。もっともそれはずいぶんと高度な知識だが。一方、『ベルゼバブの孫への話』の研究は、知識と「知性」の両方を与えてくれる。
大雑把に言うと、グルジェフ・システムは、著作、神聖舞踏、ムーヴメンツ、エクセサイズ、音楽、そして内的な教えから成り立っている。グルジェフの著作は3つからなる。一冊目は『ベルゼバブの孫への話』、二冊目は『注目すべき人々との出会い』、三冊目は『生は「私が存在」して初めて真実となる』である。最初のものは1950年に出版され、2番目のものは現在英語版ではなくフランス語版が入手可能であり、3番目のものはまだ出版されていない。音楽作品のうちのいくつかは公表されている。
グルジェフは、近東やアジアにおいて、膨大な数の神聖舞踏、民俗舞踊、エクセサイズを収集した。そして彼自身数多くの舞踏、ムーヴメンツを創作し、それらの多くはエニアグラムというシンボルに基づいている。彼はまた無数の音楽を作曲・収集し、それらは彼の監督のもとにド・ハルトマンによって編曲された。こうした舞踊や音楽作品の多くは客観芸術である。
グルジェフ・システムの理論については書物から知識を得ることができるかもしれない。実際、真摯な探究者ならばみな『ベルゼバブの孫への話』や『奇蹟を求めて』を読むべきだ。しかし、「手法」という実践的なワークを含む内的な教えは、長い期間激しいワークに身を置いた教師によって、特別なグループにのみ教授されうるのである。
本書の第一部は主にグルジェフとのワークの記録からなり、第二部はニューヨークでのオレイジによるコメンタリー、そして第三部は、一種の後日談と全体の総括である。
C・S・ノット



私はハートフォードシア(イングランド南東部)の村で育ったが、物心ついたときには、大人たちの振る舞いの中に、どこか奇妙で滑稽とさえ呼べるものをしばしば感じていた。彼らは人前ではお互いに無難に振る舞うが、一歩家に入れば他人の陰口をたたき始める。それは幼い私には、納得のいかないことだった。私は成長するにつれ、理想的な生と現実の生の間に横たわるギャップを、少しずつ意識するようになっていった。やがて、当然私はそのギャップを受け入れざるを得なくなった。「たぶん、間違っているのは、世間でも大人たちでもなく、自分なのだろう。」
しかし、それでも私の中には、これを全く認めようとしない何かが燻(くすぶ)っていた。少年の頃の私は、自分が満足できる場所がきっとどこかにあるはずだと思い込んでいた。それは仕事に、あるいはメソディスト派以外の宗教に、満足を見いだすようになるだろうと想像していた。私は家族と両親を愛してはいたが、満足することは滅多になかった。それが、遺伝的なものによるものなのか、それとも、受胎や誕生の折の星の巡り合わせによるものなのか、あるいはその2つが交じり合ったせいなのかは、私にはわからない。しかし、日々感じる内的な不安や不満は、私に内的な平穏を与えてはくれなかった。常にぼんやりとした疑問がわだかまっていた。
「人生は、何のためにあるのだろうか?」
6歳のとき、私は初めて本を買った。それは「ジョニーの探究」という、その後の自分の生き方を暗示させるようなタイトルだった。
私は、文字通り何一つ学ばないまま(というのも、教わらなくても私は読み書きができたから)13歳で学校を退学し、常に人生とは何のためにあるのか?という問いを抱きながら職を転々としていった。18歳のときには、牧羊場や農場で働いたり、様々な肉体労働に従事しながら、タスマニア、ニュージーランド、オーストラリア、カナダを放浪していた。1914年に第一次世界大戦が勃発したときには、ブリティッシュ・コロンビア沖に浮かぶ小さな島にいた。私はすぐに軍隊に入隊し、この巨大なカタストロフによって掃き捨てられる無数の若者たちの一人となった。
そして1917年、フランスの塹壕(ざんごう)で負傷を負った。私が人生の意味について真剣に考え始めたのはこの時である。
私は宗教的な教育を受け、青年時代には日曜学校の教師や助修士を務めたこともあったが(その頃は文字通り「神を畏れる」若者だった)、組織化された宗教はもはや私には何の満足ももたらさず、戦争で受けた幻滅から沸き起こる疑問に、納得のゆく答えを与えることもできなかった。しばしば戦争では、人間の生死が、たまたま権力をつかんだうぬぼれた愚昧(ぐまい)な人間の気まぐれに左右される。日常生活における多くの愚行や不条理は、戦争における巨大な愚かさを前にすれば無に等しい。戦争では何千もの命が他人の虚栄心や高慢さの餌食になる。私はよくこう自問した。
「なぜ人間はこんなに苦しまなければならないのだろう? なぜ政治家や新聞は嘘をつくのだろう? なぜ人生は嘘に取り囲まれているのだろう?」
私は、戦争というのは死のビジネスで、〈戦争や生命に対する普通の人間の態度には、間違ったものがある〉ということをいさぎよく認めた唯一の人間である。
ジョージ・バーナード・ショーと出会い、幾度か話を交わす機会を持った。
彼に言わせれば、私たちは精神病院で暮らしているようなものだ。
私の問いにはっきりと答えてくれる人が、あるいは教えが、存在するに違いない。私はそう感じていた。そして戦争が終わった年のある日、私はその教師と教えを見つけ出す。いや、探し出さなければならない。それはたぶん、極東で見つかるはずだという確信が生じた。休戦後に私は旅に出、2年間にわたって世界中を巡り、アメリカ、日本、中国、マレー半島、ビルマ、インド、エジプト、そしてイタリアを訪れた。多くの興味深い体験をし、あらゆる類の人間や宗教と出会い、素晴らしい景観をたくさん目にすることができたにもかかわらず、心の奥底から私を満足させてくれるような教師や教えを見つけ出すことは、結局できなかった。
まだ塹壕熱や砲火で受けた傷に悩まされてはいたが、私はいくらか元気になってイギリスに戻った。金銭的な成功が、ウィーンでの事業を通してもたらされ、私は1年の大部分をウィーンで過ごした。金は簡単に手に入り、私は若いプレイボーイのように振る舞うことができた。また、社会改革にも興味を持ち、トインビー記念館【社会運動家のアーノルド・トインビーを記念して建設された隣保館。福祉、教育事業や法律相談などが行われた。】の住人になった。そしてロシアのウクライナで隣保団とともに働く機会を得て、そこで、農民とともに生涯最良の一時期を過ごした。というのも、私か滞在した地域はまだ、共産主義という病に侵されていなかったからだ。イギリスに戻ると、私はすぐに文学と書物の世界に入り、上流社会に出入りするようになった。そして、名声、有力者の支援、金銭、地位といった、野心に燃えた若者が求めえるすべてのものを手にした。ある意味でそれは満足を与えてくれたが、その満足感とともに深い空疎感をも私は味わっていた。まるで袋小路に行き当たったようだった。それまでの私の経験はすべて無意味で、それは単なる書割に過ぎない、とさえ感じるようになった。ロシアのおとぎ話に登場する〈魔法の書〉を〈魔法の指輪〉を〈黄金の枝〉を、人生の意味を知る手掛かりを与えてくれる何かを、私は見つけ出さなければならない。
そんなとき私は、自分の精神的な状況を代弁してくれているような、バルネイブ・バーンズのソネットに出くわした。そこには私の心情があまりに鮮やかに描かれてあったので、私はそれを百回は読み返した。それは「パルテノフィルとパルテノフェ」(1593年)に収められている。

おお、芳(かぐわ)しき〈満足〉よ! 汝の温かき住まいはいずこにありしか?
羊飼いと逞(たくま)しき牧夫とともにありしか?
彼らは丘辺で歌い、笛を吹き鳴らし
野に家畜たちを追う

おお、芳しき〈満足〉よ! 汝はいずこでやすらぐのか?
天使の舞う、天国においてか?
天使は誉め讃える
霊と心を造り、治めたまう者を

おお、芳しき〈満足〉よ! 汝の港はいずこにありしか?
信徒たちが集う、教会にか?
彼らは幾重にも祈りを捧げて神々を喜ばせ
港について想いふける

汝が天国に現れようと、地上に現れようと
汝のいる場所に、汝は碇(いかり)を降ろしはしないだろう

突然、無茶苦茶かもしれないが、私はイギリスでの暮らしをあきらめた。つまり私は、偶然の出会いによって目覚めた、私の中にある何ものかに突き動かされた。そして1923年の10月、ニューヨークに渡り、書店での職を得た。私は最終的にはその地に自分の書店を構えるつもりだった。その「時計回り」(サン・ワイズ・ターン)という書店は、一種の文化センターになっていて、当時の若い作家や画家、詩人、音楽家の溜まり場だった。週末になると、決まって私はハドソン川のクロトンに出かけて知的な友人たちと共に時を過ごし、世界がどうあるべきかということについて盛んに議論を戦わせた。しかし、私の状況や精神状態はロンドンの時と全く同じだった。
多くの人と出会い、多くの新しい考えを吸収しているうちに、私は、自分が教えを、新しい道をしていたことを忘れていった。しかしどこへ行こうと、何をしようと、私たちはシンドバッドの「海の老人」【アラビアンナイトでシンドバッドの背中に何日もしがみついていた老人。なかなか追い払えないものの象徴。】を背負っている。私たちはこの老人のことを忘れてしまう時があるかもしれないが、しかしそれは決して私たちから離れることはない。なぜなら、彼は自分自身の一部だからだ。
だから、ニューヨークで様々な活動や仕事を休みなく3ヶ月も続けると、私は再び精神的な空虚さを感じはじめた。A・R・オレイジというあるイギリス人との明らかに偶然の出会いによって、すべてが変わったしまったのは、ちょうどそんな時のことだった。


(講演にて)
オレイジ:弟子は2種類に分けられます。主にシステムの理論に興味がある者と、理論だけではなく手法によるワークや訓練に興味がある者の2つです。
訓練のシステムは、次のような考えに基づいています。現代人の人生は非常に複雑で、人間は本来の類型(タイプ)から逸脱してしまっています。
類型というのは周囲の環境、生まれた国や育った環境、文化に本来従属します。こうした状況によってその人間の発展の方法と基準とすべき類型が決定されるのです。
しかし、私たちの文明は、人間のあらゆる面に影響を及ぼし、その人間が基準とすべき状況において生きることをほぼ不可能にしてしまいました。
確かに文明は、人間に新たな知識と科学の地平を拓(ひら)かせ、物質的な生活水準を引き上げ、人間の世界認識を広げ、人間を全般的に、より高次のレベルに引き上げはしました。しかしそれは、ある者に対しては有害となる機能を発達させたに過ぎません。つまり、文明によって完全に破壊されてしまったものもあるのです。私たちの文明は、人間からその本来の類型の持つ、自然で本質的なものを奪い取ってしまいました。それは新しい類型の調和的発展のために必要なものを、人間にもたらしてはくれませんでした。文明は、〈その人間にふさわしく、またその人間にとって真の故郷である自然や環境に適応した、個々の完成された人間を産み出した〉のではなく、〈充分な生を不可能にするものから造られた存在を、その人間に生来の内的な生にとっては奇異な存在を産み出した〉のです。
グルジェフ氏の心理学的なシステムは、こうした見方に基づいています。このシステムは、実験によって、〈現代の人間の世界認識や生活習慣は、その人間全体の意識的な表現ではなく、その人間の3つの部分のうちの1つの無意識的な顕現にすぎない〉ということを証明します。
こうした面から見ると、〈世界を認識し、その認識を表現するときにおける私たちの精神的な生〉は、私たちの認識の貯蔵庫や表現の源泉として機能する、統一的なものではないのです。反対に、それは3つの異なる実体に分けられ、それらにはほとんど共通の部分がなく、本質も機能も異なっています。
こうした3つの独立した異なる部分は、グルジェフ・システムでは、それぞれ思考センター、本能的行動センター、感情センターと呼ばれています。それらは人間の知的、本能的、感情的生の源泉であり、それぞれは個々に割り当てられた一連の機能をすべて感知することができます。
人間の真に意識的な知覚や表現は、3つのセンターすべての同時的な協働の結果でなければなりません。そして、3つのセンターのそれぞれが、総体的な働きに寄与しなければなりません。つまり、それぞれが協働の役割分担を果たさなければならないのです。どんな場合でも、完全な統覚というものは、3つのセンターがすべて一緒に機能したときにのみ可能となります。しかし、現代人は様々な力によって阻害されているため、センターの働きは、ほぼいつも散漫な状態に陥り、知的、感情的、本能的機能は、お互いに補い高め合うことができずにいます。それらは別々の道を進み、滅多に出会うこともなく、したがって真の意識が行われることは、ほとんどありません。
3つのセンターは、このために協働していないのです。
1人の人間の中には、言わば3人の異なる人間が存在しているのです。1番目の人間はただ考えるだけ、2番目はただ感じるだけ、そして3番目の人間はただ本能と行動の機能によってのみ生きています。したがって、私たちは、論理的人間、感情的人間、肉体的人間の3人の人間を抱え込んでいるようなものです。この1人の中の3人は、決してお互いを理解し合うことがありません。しかし、意識的であれ無意識的であれ、彼らは、それぞれの考えや意思や働きについて、お互いに干渉し合います。そして各々は、それぞれが機能した瞬間に力を持ち、『私は~』と喋り始めるのです。
もし私たちがセンターの働きを観察するならば、それらが反目し、対立し合っている様がわかるはずです。そして、自分のセンターの働きを制御できないゆえに、人間は自己の主人にはなりえないということが明らかになるでしょう。自分のセンターのうちのどれが次に機能し始めるのかということは、自分にはわかりません。私たちは、自分の複数の『私』を統合するものが存在するという幻想を抱いているので、このことに気づいていません。
もし私たちが現代人の精神を正しく観察するならば、
人間は決して自分の意志や理性に基づいて行動しているのではなく、行動によって、外的な因子によって、彼の心理過程にもたらされた変化を表現しているにすぎないということが、はっきりとわかるでしょう。人間が思考しているのではないのです。人間の中にある何かが思考しているのです。人間が行動するのではありません。何かが人間を通して行動するのです。人間が創造するのではありません。人間の中にある何かが創造するのです。人間が成し遂げるのではありません。何かが人間を通して成し遂げるのです。
このことは、それぞれのセンターによる内外の諸力の知覚プロセスを理解できれば、はっきりわかります。そしてこの知覚から、反応が生じるのです。
生まれたばかりの赤ん坊のセンターは、何も刻まれていないまっさらのレコードに例えることができるかもしれません。そのレコードには、生まれた日、あるいは生まれた瞬間から、内的および外的世界双方の印象が刻まれてゆきます。記録された印象は、3つのセンターのそれぞれに、それらが最初に受け取られたのと同じ順番(それはしばしば不条理に映りますが)、かつ同じ関係のままで、保存されます。思考、理性、判断、記憶、そして想像のプロセスは、単に、偶発的な刺激を受けて様々な方法で結びつく、記録された印象の結果にすぎないのです。レコードの内容はこのようにして連想のセンターとなり、そしてそのレコードは、その同じ刺激によって、様々な速さで回転します。異なる刺激が与えられれば、別のレコードが回り出し、さらに異なる連想や異なる一連の思考、感情が呼び起こされるでしょう。そして、個々のセンターは、他のセンターにおいて形成されたものに自分の持っているものを付け加えることはできません。その結果、人間の世界認識は、その存在の一部のみの産物となってしまいました。言い換えれば、人間は知覚のプロセスについて3つの異なるモードを持っていて、そのどれもが互いにほとんど接することがなく、偶発的にも部分的にも触れ合うことがないのです。したがって、人間が達するどんな結論も、どんな判断も、その実体のほんの一部の働きに過ぎず、彼が蓄積してきたもののごく一部分の表現にすぎないのです。つまり、人間の判断や結論は常に不完全なもので、間違っているものなのです。
これまで述べてきたことからすれば、人間の調和的発展のための最初のステップは、3つのセンターの働きを彼の精神的な機能に採り入れる方法を、その人間に示すことだということになります。3つのセンターが同じ度合いで同時に協働することができれば、人間という機械の3つの主要な車輪が滑らかに回転し始め、お互いに妨げ合うことはなくなるでしょう。それらは現在のように気まぐれに作用することはなく、それぞれの役割において最善の機能を発揮するでしょう。また、意識の度合いについて言えば、それを調節することが可能になりますが、通常の生活においてはそれは決して不可能なのです。
それぞれのセンターにとって可能な発展の度合いは、人によって異なります。そのため、記録される印象もまた異なります。したがって、ワークにおける個々の人間の教育や訓練は一人一人で厳密に違うものでなければならないのです。
時間がたつにつれて、通常、人間という機械には機能障害が増えてゆきます。しかし機械は、欠陥との長い苦闘を経て、スムーズに動くようになるのです。人間はこの闘争を独力で続けることはできません。また、(自国で産み出されたものであれ、東洋から移入されたものであれ)流行の自己訓練や人格開発といった方法を利用することもできません。こうした方法は見境なく様々な体系やエクセサイズを推奨しています。
肉体的なエクセサイズ、瞑想のエクセサイズ、精神集中のエクセサイズ、呼吸のエクセサイズ、ダイエットや断食、誘導体験等々といった具合です。こうした方法は、個々の要求や能力に関係なく、どんな人に対してもあてがわられ、個人の特性は無視されます。それらは役に立たないだけでなく、有害でさえあるかもしれません。壊れた機械をよく理解しないまま修理しようとする人は、何らかの変化をそれにもたらすかもしれませんが、しかしその変化は、未熟な人間では予測することも警戒することもできないような、別の変化を引き起こすことになるでしょう。人間という機械は、スムーズに動いていようがいまいが、常に機械的な均衡状態を得ようとします。したがって、ある場所での変化は別の場所の変化につながります。そして、この変化は前もって予測される必要があるのです。
人間が独りでワークを始める場合、好ましくない結果を避けるためには、学院で採用された特殊で厳密な、個人的な手法によって定められた規律に従うことが、重要になります。私たちの目的の1つは、古いものを変えて整理する、新たなプロセスを発達させることだと言えるかもしれません。言い換えれば、このワークにおいて私たちは、日々の生活においては得られない、新たな機能を発達させなければならないのです。そして人間は、この機能を独力で伸ばすことはできませんし、またありきたりの手法を実践しても発達させることはできないのです。
その人間の教育や人生だけでなく、生物的、精神的状況のすべての面が考慮されたときになって初めて、この種の厳密に個人的な訓練の手法の使用が可能になるのです。こうした状況を見極めるためには、長い時間が必要です。なぜかというと、それはまず第一に、
教育を施される人間は、ごく幼い頃から外的な仮面を被り、彼の真の類型とは一切関係を持たない外的な類型だけを見せているからです。成長するにつれてこの仮面は分厚くなり、そして最後には自分でも本当の自分が見えなくなってしまいます。
個人の特性(仮面の裏側に本当にあるもの)を見いだすためには、彼の類型の特徴や能力を顕(あら)わにさせる必要があります。そのためには、仮面を剥ぎ取らなければなりません。これには時間がかかります。しかし、仮面が剥ぎ取られて初めて、私たちはその人間自身を、つまり、彼の真の類型を探り、観察することができるのです。」


(公演にて)
オレイジ「今晩行われる舞踏は、古代の東洋のもの、例えば、トルコやチベット、アフガニスタン、カフリスタン(アフガニスタン東部・現在のヌリスタン)、チトラール(パキスタン北部)といった土地の特殊な寺院に伝わる、行法や宗教舞踏、宗教儀礼を元にした、人間の肉体の様々なムーヴメンツから主に構成されています。グルジェフ氏は、『真理の探究者たち』のメンバーとともに、何年にもわたって近東・アジア地方を探検し、東方には太古に与えられた深遠な意義(宗教的・学問的な意味での意義)をいまだに失っていない舞踏が残っていることを探り出しました。宗教舞踏やポーズ、ムーヴメンツは、常に、東洋の秘教的な学院において教授される重要な科目の1つだったのです。
これらは2つの目的を持っています。1つは、ある特殊な知識を伝えるということ、もう1つは、存在の調和的状態を獲得することです。人間の耐久力は、人為的で後天的なムーヴメンツが結びつくことによって、増大します。そして、そうしたムーヴメンツを演じることによって新たな感覚が得られ、新たな意識の集中力や注意力、新たな精神の方向性が得られるのです。そのすべては、ある1つの明確な目的に向けられています。東洋において舞踏は、西洋とは全く異なる意味合いをいまだに持っています。古代において舞踏は、真の芸術の1つであり、高度な知識や宗教のためのものでした。ある分野に習熟した人間は、私たちが書物を通じて知識を広めてゆくように、芸術的なワーク、特に舞踏を通してその知識を伝授してゆきました。初期のキリスト教徒の間では、教会での舞踏は祭儀の重要な部分を占めていました。古代の宗教舞踏は、単なる芸術表現の手段ではなく書物、あるいは言うなれば、ある特定の知識を含んだ文字だったのです。しかしそれは、誰もが読みえる書物ではありません。何年にも及ぶ宗教舞踏や特殊なムーヴメンツやポーズを詳しく研究することによって、それらが人間の調和的発展に対して重要な役割を果たしていることがわかってきました。人間のあらゆる能力を同時に発達させることは、グルジェフ氏の基本的な目的の1つです。氏のシステムにおけるエクセサイズや行法は、弟子たちの道徳力を養い、その意志や忍耐力、思考力、集中力、聴力、視力、触覚力といったものを発達させる方法の1つとして使われます。
今晩のプログラムは、主にグループ舞踏から構成されています。これは学院において、独りで演じられることの多いとても複雑な個々のムーヴメンツの前に行われます。また、私たちはこの他にも、『超常現象』というものをみなさんの御覧に入れます。これは、グルジェフ・スクールで研究されているテーマの1つで、後ほど簡単にご説明いたします。なお、拍手の必要はありません。」
しばらく経ってから、ド・ハルトマン氏が楽団を率いて入ってきた。由緒ある旧家の出であるトーマス・ド・ハルトマンは、ロシア皇帝の宮廷に仕えていた人物だったが、人生を音楽に捧げるために宮廷での生活を放棄した。彼は優れたピアニストであり、作曲家だった。彼のバレエ「薄紅の花」は、ディアギレフがモスクワで最初に上演したものの1つで、観客の前ではじめて踊ったのはニジンスキーである。ド・ハルトマン夫人は、20代の頃は有望な若手オペラ歌手として活躍していた女性だった。彼らはモスクワでグルジェフに邂逅(かいこう)し、ロシア革命が起こると、文字通りすべてを捨て、彼に従って山を越えティフリスに逃れた。
奇妙なことに、ド・ハルトマン氏は、ピアノの席に着くと、そのままじっとしていた。楽団員は落ち着かない様子で、私たち観客はキョロキョロしながら戸惑いがちに囁(ささや)き合っていたが、ハルトマンは身じろぎもせず、相変わらずじっとしていた。
やっと弟子たちが舞台に出てきて整列した。彼らは白い上着とトラウザ(中近東地方ではくゆったりとしたズボン)をまとい、女性の上着は長く、男性のは短かった。女性の髪は金色のリボンで結わえられていたが、男性のはそのままだった。続いて演じられた東方の舞踏では、男も女も煌びやかな衣装を着ていた。それはグルジェフによってデザインされたもので、その原型は20世紀の初め頃まではまだ東洋でも着られていて、そのいくつかを私自身も実際に目にしたことがある。
「ルキ・ストーン(ルキ・ヴ・ストロヌ)」という号令がかかると、弟子たちは両腕を左右に真っ直ぐに伸ばした。音楽が始まると、彼らは腕を伸ばしたまま足で複雑なリズムを鳴らしはじめた。彼らは、腕を伸ばしたまま、これを15分くらい続けた。それが終わると今度は「機械グループ」が現れた。このグループのムーヴメンツは、何かの機械の動きを表現しているように見えた。2、3人あるいは2、3のグループが、それぞれ異なってはいるが、全体としては調和して見える、ムーヴメンツを演じた。
ファースト・オブリガトリー・エクセサイズの後には、セコンド・オブリガトリー・エクセサイズが演じられた。「オブリガトリー(必修)」というのは、弟子たちは、このエクセサイズを履修しなければ、舞踏や複雑なムーヴメンツを演じることが許可されなかったからだ。これらは合わせて「体操(ジムナスティック)エクセサイズ」と呼ばれていたが、しかし普通に「体操」と呼ばれているものとは全く違っていた。6つの姿勢からなるファースト・オブリガトリー・エクセサイズの場合、3つはチベットのある寺院に由来するもので、他の3つはカフリスタンの〈予言者たち〉と呼ばれる秘教学派に由来している。私は、こうしたエクセサイズやムーヴメンツ、音楽に激しいショックを受けた。まるで、以前に見たことがあるような感じだった。それらは新鮮だけれども親しみやすく、私は、自分でもそれらを演じてみたいと強く思うようになった。
これらの後には大人数のグループによって、「真理の探究者たち」と呼ばれる神秘劇の一部である〈女司祭のイニシエイション〉が演じられた。それはムーヴメンツやポーズ、ジェスチュア、舞踏を交えて進んでゆき、次第に宗教的な儀式のような様相を帯びていった。音楽は私の心を深く打ち、他の観客たちも同様なようだった。ホールの空気に異変が生じているのがわかった。グルジェフの妻がこのグループで女司祭の役を演じていた。
この後には、特殊な衣装を着てダルヴィーシュ・ダンスが演じられた。それは次のような舞踏から成っていた。キオス島の〈ホ・ヤー・ダルヴィーシュ・ダンス〉、〈自由者〉と自称し、人々からは〈隠遁者〉と呼ばれた修道僧団の〈大いなる祈り〉、アフガニスタンの〈キャメル・ステップ〉、〈ラクムのヴェールを被った修道僧〉教団の祭儀ムーヴメンツ、テルシュザス(中東の地名か?)のスバリ修道院に伝わる死んだダルヴィーシュのための葬礼。また、〈戦闘ダルヴィーシュ〉の舞踏や〈旋回ダルヴィーシュ〉の祭儀ムーヴメンツも含まれていた。
ダルヴィーシュ・ダンスは男性の弟子たちによって演じられたが、しかし1、2人女性が登場するものもあった。そのリズムと動きは力強く活力があり、男性的だった。現実の生きたエネルギーを目にしているような感じだった。
その次には巡礼が演じられた。そこでは次のようなことが語られた。
「アジア、特に中央アジアでは、祝福を受けるためには苦行を厭(いと)わないという誓いをした人々によって、変わった巡礼が行われます。彼らは、宙返りや後ろ歩き、あるいは膝歩きといった、奇妙で面倒な方法で聖地を旅します。例えば、コーカサスとトルキスタンには共通した巡礼法があります。それは『体で道を測る』と呼ばれるものです。巡礼の道のりは時には非常に長く、800マイルに及ぶこともあります。巡礼者は、雨が降ろうと雪が降ろうと毎日聖地へと進みますが、その荷物は100ポンドに及ぶこともあります。そしてまた、たいてい、寺院に寄進される割れやすい物を携えています。こうした巡礼は、西洋的な概念で言う敗血症に至る怪我をしばしばもたらしますが、不思議なことにこうした怪我は必ず翌日には治っています。」
2、3人の弟子が舞台に現れて跪(ひざまず)き、それから大の字に寝そべった。そして脚を曲げ手の指で立ち、舞台の上を動き回った。女でありながら男たちの王であった有名なスーフィーの聖女ラービアは、この格好で家から数百マイル離れたメッカまで巡礼したと言われる。
〈ピティア〉はチトラール(パキスタン北西部)のフダリカの聖地で行われた祭儀の断片だった。それは、催眠術を掛けられたある女司祭を描写したもので、彼女は新年の晩に聖地にいる人々に向かってその年に起きることを予言する。
女性たちの舞踏は、様々な修道院の新入りの尼僧のための予備的なエクセサイズや、その祭儀に含まれるムーヴメンツだということだった。私はそれと似たものを北インドや中国で見たことがあったが、東洋であろうと西洋であろうと、これほど美しく優雅で魅力的なものを見たことはない。これらの舞踏には〈神聖鵞鳥(がちょう)〉〈失われた愛〉〈祈り〉〈ワルツ〉といった名前が付けられていた。ダルヴィーシュ・ダンスでは男性の行動的な面が表現されていたが、女性たちの舞踏には女性の受動的な面、慈愛や女らしさが表現されていた。音楽もまた美しい旋律によって深い印象を与えた。
その晩の公演で私に最も強烈な印象を与えたのは、〈ビッグ・セブン〉あるいは〈ビッグ・グループ〉と呼ばれるムーヴメンツだった。それはアララト山付近を拠点とする宗教結社〈アイゾール〉に由来するもので、この結社はスーフィズムの影響を受けたキリスト教の一派である。このムーヴメンツは非常に古い起源をもつシンボル〈エニアグラム〉を元にしていて、紀元前数世紀頃に形成されたエッセネ派のムーヴメンツと同じように、数学的に構成されたものだった。
その晩は絶え間なく私の中で様々な思考や感情がうごめき、鮮やかな感情的な体験の連続が私の記憶を呼び覚ました。インドや中国で出会った男女の舞踏、寺院に響くたおやかな女性の歌声、太鼓の音、タージマハール宮殿、スフィンクス、ピラミッド、仏像、復活祭の日の古い聖堂に響く聖歌やオルガンの音、宗教や音楽・・・。芸術において私を深く揺り動かしたあらゆるものが、徐々に目覚めていった。〈ビッグ・グループ〉の音楽が、荘厳な調べに乗って、何かを予兆するかのようにして奏でられはじめた。やがて音の波が大きくうねり、至福の感覚が私を満たした。同時に、私の心は弟子たちの複雑なムーヴメンツに釘付けになった。至福感には、哀しみとは違う、深く荘重な感覚が混ぜ合わされた。まるで私に何かが告げられているかのようで、私は、自分が読み解こうとしている文字を理解しようとした。そのとき、音楽は壮麗なクレシェンドを迎え、灯りが消えた。
私は思った。「これこそ自分が探し求めていたものだ。ここが世界の果てだ。ここが私の遍歴の果てなのだ。」 それは疑念の余地のない明晰な確信で、今にいたるまで、この確信に対していかなる疑いも私は抱いたことがない。
〈ビッグ・グループ〉が終わって休憩時間に入っても、私はしゃべる気がしなかった。観客たちももう無為なおしゃべりをしようとはしなかった。彼らは黙りこくってしまった。彼らもまた、これまでの舞踏の範疇には収まりきらないムーヴメンツを目の当たりにして、いささか面食らっていた。
しばらくしてオレイジが舞台に戻ってきて、ストップ・エクセサイズについて話しはじめた。
彼は言った。「このエクセサイズでは、弟子は、『ストップ』という号令とともにあらゆる体の動きを停止させなければなりません。この号令は、いつどこで掛けられるかわかりません。何をしていようと、ワークの最中だろうと、休憩中であろうと、食事中であろうと、弟子はすぐさま停止しなければなりません。筋肉の緊張は維持され、表情、笑み、視線は、この号令が発せられたときと同じ状態を保たなければなりません。精神的なワークの初心者は、意志力を発達させながら知的なワークを速めるのにこのポーズを利用します。ストップ・エクセサイズには新しいポーズは1つもありません。それは単に動作を一時停止するだけです。通常、私たちは無意識のうちにポーズを変えているので、ポーズとポーズの間がどんな状態なのかということに関心を払いません。ストップ・エクセサイズによって、変容するポーズは2つに分けられます。唐突な号令を掛けられた肉体は、それが今まで決して留まったことのない状態に留まることを強いられます。これによって人間はよりよく自己を観察できるようになります。彼は異なる感覚を身につけ、異なる自分を感じ、そして機械化という悪循環を断つことができるのです。
私たちのムーヴメンツはでたらめに見えるかもしれませんが、それは違います。グルジェフ・システムが主張しているような心理学的な分析や精神運動機能の研究によって、私たちの動作のどれもが、随意的なものであれ不随意的なものであれ、ある機械的なポーズから別の機械的なポーズへの無意識的な移行であることが明らかにされています。人間は、自分が利用できるポーズの中から、そのパーソナリティに合うものを取り出しますが、そのポーズの数はごくわずかです。私たちのポーズはすべて機械的なものです。私たちは、運動、感情、精神という3つの機能がいかに密接につながっているかということを理解していません。それらは互いに依存し合い、お互いに因果関係にあり、絶えず作用し合っています。1つに変化が起これば、他の2つにも変化が生じます。
肉体のポーズは感情と思考に照応しています。感情に生じた変化は、精神的な態度と肉体的なポーズにもそれに照応する変化を引き起こすでしょう。したがって、もし感情や思考の癖を変えたいと思うなら、私たちはまず肉体的なポーズの癖を変えなければなりません。しかし、通常の生活を送っている場合は、新しい肉体的なポーズを獲得することは不可能です。思考プロセスの機械化や習慣的な動作がそれを妨げるのです。単に人間の思考、感情、運動のプロセスがつながっているだけでなく、言わば、3つそれぞれが一様に機械的な習慣的ポーズという閉ざされた円環の中で作用することを強いられているのです。人間の調和的発展のための学院の手法は、人間を機械化から独力で解放させるためのものです。ストップ・エクセサイズがそうです。不慣れな状態を維持した肉体は、つまり感情と思考の精妙な実体は、別の形態に展開することが可能なのです。
意志を働かせるためには外部からの命令が必要で、それがなければ人間は移行中のポーズを維持することができません。人間は自分に『ストップ』と命令することはできません。なぜなら、3つの機能が複合されたポーズは、意志が動くには重すぎるからです。しかし、外部から『ストップ』という命令が掛けられると、それは精神や感情の機能の役割を果たし、普通はそれによって肉体的なポーズが決まります。そして肉体的なポーズは、精神や感情のポーズに隷属せずに、弱められ、次には他のポーズを弱体化します。これによって私たちの意志は、しばらくの間自分の機能を制御することができるようになるのです。」
そのとき、壇上にグルジェフが現れ、私は間近に彼を観察することができた。彼は黒い背広に黒い中折れ帽という格好だった。体はがっしりとしていて、堂々としていた。彼は微笑を浮かべながら観客に目を向け、その射るような黒い瞳で私たち全員を一瞥(いちべつ)した。彼は、私には全く未知のタイプの人間だった。明らかに、「神秘的」なタイプでも、ヨーギでも、哲学者でもなかった。中央アジアに遠征する考古学者に見えた。
舞台の一方の端に弟子たちが集まっていたが、グルジェフが何かを空中に投げると、それを捕らえようと一斉に走り出した。するとグルジェフが「ストップ!!」と叫んだ。魔法に掛けられたかのように、彼らはとりどりの格好で彫像のように立ち尽くした。数分が経った。「ダヴォルナ」とグルジェフが言うと、全員動き出して舞台から立ち去った。このエクセサイズは数回繰り返された。
次は〈コロヴォッズ〉が行われた。これは民俗舞踊で、ド・ハルトマン夫人が、それぞれが踊られる前に舞台にやってきて簡単な説明をした。
「アジアのほとんどの民族は固有の舞踏を持っています。学院ではそうしたものを200以上収集しました。最初にお見せしますのは、普通少女によって踊られるもので、トルコのクムラーナ地方に由来しますが、その起源は古代ギリシアにまで遡り、踊り手のポーズは古代の壺や瓶に描かれたものと非常によく似ています。」
彼らは実際に踊り出し、軽快な旋律がパン神の笛から奏でられているかのようだった。この後には複数の男性と、1人の婦人と、それを取り囲んだ少女たちによって、収穫舞踏が演じられた。これはケリヤ(中央アジアの地名)のオアシスに伝わるものだった。
トランスカスピア(カスピ海東岸の広い範囲を指す歴史的地名)のティキン族の舞踏は、〈絨毯祭〉の際に行われるものだった。ティキン族には、その年の間に織られた絨毯を町に持っていってお祝いをするという風習があった。絨毯は梳(くしけず)られ、圧せられ、綺麗な羊毛の繊維だけが見えるようにされる。圧しつける方法はまちまちだ。例えばコラーサーンでは、駱駝レースが広げられた絨毯の上で行われる。
ペルシアでは、通りに広げられ、人間や駱駝、驢馬たちがその上を歩いてゆく。ティキン族の絨毯は非常に高級品とされているが、ティキン族は音楽に合わせて絨毯を広げ、踏みつけた。民俗舞踊の後は、〈手仕事〉が行われた。
ハルトマン夫人は言った。「このエクセサイズは、学院で行われるリズミカルなワークの一部です。つまり、手仕事がリズミカルに演じられるのです。これは東洋では普通のことで、いろいろな手仕事が行われている間、生産性を上げるために、音楽が演奏されます。碑文から明らかなように、古代の東洋の巨大な建築物の多くは音楽の伴奏を受けながら建設されました。こうした風習は、ピアンジェ(アジアの地名か?)の源流やケリヤのオアシスなどでは、いまだに残っています。農作業ができなくなると、村人たちは冬の間中、村で一番大きな建物の中に集まり、音楽に合わせて手仕事をします。グルジェフ学院でリズミカルな音楽に合わせてグループでワークを行ってみたところ、1人で作業した場合に比べて、生産性が5倍から20倍向上することがわかりました。ここで次の3種類の手仕事をお見せしましょう。」
       
1.羊毛梳きと糸紡ぎ
2.靴縫いと靴下編み
3.絨毯織り

ワーク・ムーヴメンツが、弟子たちによる音楽と一種のハミングに合わせて行われ、私はそれにいたく興味を誘われた。というのも、デヴォンシアの手袋工場で、低いハミングに合わせて民謡を歌う女工たちを見たことがあったからだ。日本と中国では、歌を唱和しながら単純労働をしたり、荷物を引いたり、杭を打ったりする労務者をよく見掛けた。彼らはみんな本当に楽しそうに働いていた。また、私はそれを、ニュージーランドで何週間にもわたって穴掘りや肉体労働といった、きつい仕事に就いたときによく使った方法と比べずにはいられなかった。リズミカルなワークは、50年前までは世界のどこででも行われていた。イギリスも例外ではない。船では、蒸気とともに囃(はや)し歌が吐き出された。第一次世界大戦前のドイツでは、工場で試験的に音楽が流され、イギリスではラジオの音楽で試みられた。しかし、この場合は生産性の向上には至らなかった。リズムがなかったからだ。私の父の工場では手で作業がなされていたが、女工たちの歌声がどこからともなく響き出すと、決まって仕事がはかどったものだ。今ではこういったことはすべて効率化や機械化の影響でなくなってしまったようだ。本能的で感情的な労働における人間のリズムは、機械やコンベヤベルトの無機的なリズムに押しのけられてしまったのだ。強い本能的な欲求が取り残され、そしてこのことが異常性や犯罪の温床を産み出している。
2回目の休憩の後、プログラムの最後となる「トリック」「セミ・トリック」「真の超常現象」が始まった。オレイジは言った。
「これから学院でも研究されているいわゆる『超常現象』のいくつかをご覧にいれましょう。グルジェフ氏はこうした現象を3つに分類しています。トリック、セミ・トリック、そして超常現象です。トリックは人為的なもので、演者は、それが自然の力によって生じたかのように見せ掛けます。セミ・トリックは手先で細工するものではなく、目隠しをして隠された物を探し出すような類のことです。3つ目が本物の現象で、公式な科学では説明されていない固有の根本原理のようなものを持っています。
例えば、隠されたものを見つけるというよくある場合を考えてみましょう。目隠しをされた者が、隠された物を、ある1人の観客の手を握ることによって見つけ出したとします。この場合、観客たちは、目隠しをされた人間が手を握った者の思考を読み取ったと信じます。しかし、それは嘘です。こうした現象は演者が何もトリックを講じなくても実際に起こりえますが、しかしこれには思考の伝達は介在しません。それは、感情的体験における筋肉システムの反射作用を通して処理されます。弛緩(しかん)的なものであれ萎縮的なものであれ、物質的肉体のどんなに微細な動きに対しても筋肉反応が生じるので、訓練すれば非常にかすかな動きでも感覚することができるようになります。
そしてこうした非常にかすかな動きは、その人間が特別にそれを抑えようとしても、わずかではあれ生じるのです。目隠しをされた人間が握った手は、その手の持ち主が持つ隠された場所についての知識を、無意識のうちに伝えています。その微妙な、ほとんど目に見えない変化は1つの言語であり、それを人間は、秘義に精通していれば意識的に、その原理について無知ならば本能的に解釈し、それによって隠された場所を推測するのです。
その原因と考えられるものとは異なる原理によって産み出され、かつ本質的には人為的ではない、このような現象を、グルジェフはセミ・トリックと呼んでいます。
現象の3番目の段階は、公式な科学では説明されていない原理をその表現の基礎としているもの、つまり真の超常現象を含んでいます。これは、スピリチュアリズムや幽霊といったものとは関係ありません。それは、高次の力の衝撃に反応した、低次の力の試行です。あるいは、高次レベルから与えられたものに対する、低次レベルでの人間の反応です。現象のこの段階の研究は学院では非常に真剣になされていて、西洋科学の手法に則(のっと)って行われています。しかしすべてのメンバーや弟子がこの研究に加われるわけではありません。
この研究に加わるには3つの状態が必要になります。最初はある特別な分野に対する広く深い知識です。2番目は忍耐強く懐疑的な精神です。3番目が最も重要なもので、将来信頼の置ける人間になるだろうという見込みがその弟子に対して明確に持てることです。これによって、利己的な目的のために知識を濫用されないことが保証されます。
トリックに関して言えば、その研究は、純粋な現象の将来の研究者と学院のすべての弟子たち双方のために、必要であると考えられます。トリックへの認識は人間を多くの迷妄から解放するだけでなく、完全に公正な態度と既成の概念にとらわれない判断力を要する、真の現象の研究に必須な批判的観察能力を人間にもたらすのです。
現在の弟子たちの中には、長い間ワークを行って、すでにこうした現象に親しんでいる者もいます。また、まだまだこうした現象を理解できない若い弟子もいます。しかし実験には全員が参加しています。
今晩お見せする現象は、すべて本物であるように見えますが、しかし実際にはそれはトリック、セミ・トリック、真の超常現象の3種類から成っています。しかしどれがどれであるかは、みなさんの判断におまかせします。」
「最初は、」とオレイジは続けた。「記憶した言葉を想起するエクセサイズです。これから何人かの弟子がみなさんのところへ行って言葉を集めます。何語でもかまいません。私たちは一度に400語まで記憶し暗唱することができますが、退屈するといけませんので、今回はとりあえず40語にしておきましょう。これによって、ごく短時間で記憶力を発達させられることがよくわかると思います。グルジェフ・システムでは教えが直接授けられることは滅多になく、ほぼいつも間接的に授けられるということを覚えておいてください。
あらゆるエクセサイズは精神と注意力を鋭敏にさせることを目的とし、さらに、弟子の調和的発展を根本的にその目的としているということを心に留めておいてください。記憶力の発達のために特別なエクセサイズが行われることはありません。記憶力は一般的なワークとエクセサイズによって得られるのであり、それが全体的な人間の発達を助けるのです。」
約40の言葉が観客から集められ、1回舞台の弟子たちの前で読み上げられた。それから弟子たちがそれを復唱した。私に聴きえるかぎりでは、その言葉の多くは聞き慣れないものだったが、ほとんどの弟子は正確に復唱していた。それから、観客たちの間に座っていたド・ハルトマン夫人が言った。「どなたか私に数字を仰っていただければ、私はそれを暗示によって弟子たちに伝達します。」
彼女が舞台の上にいる弟子たちの方を向くと、数分後に彼らはその数字を復唱しはじめた。彼女は続けた。「次のエクセサイズは、遠くにある物の名前や形を想念によって伝達するものです。みなさんの間に座っている弟子に、みなさんが身につけている物を見せたりその名前を教えたりしてみてください。その物の名前や形を、その後、舞台にいる弟子たちが当ててみせます。」
私の懐中時計の鎖には小さな珍しい緑玉(ティキ)が付けられていて、それはニュージーランドで手に入れたものだ。私はそれをド・ハルトマン夫人に示すと、弟子たちはそれをはっきりと描写してみせた。
これが終わるとド・ハルトマン氏は言った。「今度は、同じ弟子に、何でもかまいませんから、オペラの名前を告げてください。弟子はそれを私に伝送し、私はその一部を演奏します。その間は、前の列にいらっしゃる方はなるべく静かにしていてください。」
彼はそれからオペラの一部を演奏したが、その中には私がこれまで一度も聴いたことがないものもあった。
この間ずっと、観客の関心は、舞台に惹きつけられたままだった。私たちは完全に煙に巻かれていた。やがて、ド・ザルツマン氏が画架と白い大きな紙を何枚か持って現れ、再びド・ハルトマン夫人が観客たちの間に座った。オレイジが言った。
「同じように、細菌でも動物でも、絶滅したものでも、魚でも肉でも鶏でも、構いませんので、何か生物の名前をみなさんの傍に座っている弟子に告げてください。その弟子はそれを舞台の画家に伝送し、画家がそれを描き出します。」
すると、ド・ザルツマン氏は動物などの絵を、凄まじい勢いで正確に描き出した。ほぼ4時間近く続いたその夜の公演は、これで終了した。
トリックとセミ・トリックはすっかり私を困惑させた。ショーとしては、私がこれまでに見たプロの奇術師が行った多くのものよりも、それらはずっと複雑なものだった。弟子たちは奇術の講座でも受けたのだろうか。しかし私は、ロンドンの〈1917年クラブ〉で私と一緒に会員になっていた2人の人間を弟子たちの中に見つけて、いささか安堵した。というよりはむしろ驚いた。魔法に掛けられているようだった。実際後で私が発見するように、それは魔法、本当の魔術だった。
席を立ちながら、真の現象が実演されなかったことを私は思い出し、なぜだったのか?といぶかった。実際には真の現象がそのとき非常にはっきりと示されていたことに私が気づくのは、多くのことを学んだずっと後のことである。


私は、クロトンのインテリの友人の中で一人しか学院の思想について関心を示さなかったので、がっかりした。その唯一の例外はボアードマン・ロビンソンという画家だった。左翼とはそうはっきり対立していたわけではなかった。しかし左翼は、人間の内的状況の変成を目的とする思想に常に反対する。彼らが変えたいのは外的な状況、外的な結果だ。
「政府の形態を変えれば万事うまくゆく。最善なことは存在することだ。」
(左翼の主張として?)
彼らにとって、幸福は未来にある。しかしホープ【Alexander Pope.1688-1744.イギリスの詩人】はこう言っている。

人間の胸の中で永遠に春を望みなさい
人間は決して祝福されるものではなく、常に祝福されるべきものなのだ


なぜこんなことを言うのかというと、私はこのときまで「インテリ」たちの間で暮らし、彼らと同じように考えて、陳腐な思想に共鳴する頭の堅い知識人になりかけていたからだ。


1924年1月の半ば、オニール・スタジオでの集会の折、私が着いたときには、すでに大勢の人々が席に着いていた。彼らはみな裕福な人間で、現代美術や現代音楽、現代思想に関心を持っていた人々だった。集会は9時に始まることになっていたが、グルジェフが現れた頃には10時を過ぎていた。彼は他の部屋からやって来て、グレーのコートを羽織り、毛織りの古いスリッパを履き、大きなベークド・ポテトを手に持っていた。みんなとまどいがちに押し黙った。彼は私たちの正面にある低い壇の端に腰掛け、ポテトを食べはじめた。彼はまるで芝居を打っているようだった。パーティーでの善良な中年紳士といった役どころだ。彼はジョークを言い、するとやや堅苦しい雰囲気がほぐれて笑い声にまぎれた。2、3の注意をした後、彼は表情を変えて言った。G「誰か質問は?」
最初の質問はこうだった。問「〈3の法則〉について説明していただけませんか?」
グルジェフは言った。
G「簡単な例を挙げてみよう。例えばパンだ。小麦粉と水がある。それを混ぜる。3番目に必要なのは熱だ。これでパンができる。他もすべて同じだ。3つの力、3つの原理が必要だ。それによって結果が産まれる。」
他の者が言った。問「くだらない質問かもしれませんが、男性と女性の違いについてはどうお考えですか?」
G「
一般的には、男は精神に優れ、女は感情に優れている。男は論理的で、女は非論理的だ。男はより多くのことを感じることを、女はより多くのことを思考することを、学ぶべきだ。あなたがたは、それが自分にとって現実のものとなりうる前に、事象を思考し、感じ取り(feel)、感覚(sence)しなければならない。感覚について言うと、あなたはがたは一体何が『感覚すること』なのか理解していない。あなたはしばしば感覚を感情に、感情を感覚に取り違えている。あなたがたは、自分がいつ思考しているのか、いつ感じ取っているのか、いつ感覚しているのかということがわかるようにならなければならない。これには3つのプロセスが必要であり、さらなるワークが必要だ。」
問「苦しみとは何ですか? 肉体的な痛みのことではなく、感情や精神にのしかかる苦しみのことです。あるいは、はっきりとした理由もない時の感情的・精神的な苦しみのことです。」
G「苦しみにもいろんな種類がある。一般的には、誰もが苦しんでいる。しかし、あなたがたの苦しみのほとんどは機械的なものだ。人生には2つの川がある。最初の川では、苦しみは受動的で無意識的なものだ。2番目の川では、苦しみは『任意』的なもので、非常に特別で大きな価値を持っている。すべての苦しみには原因と結果がある。現在のあなたがたの苦しみのほとんどは、自分のせいであり、あるいは他人に傷つけられたせいである。2番目の川へと至るためには、あなたがたはすべてを捨てなければならない。」
問「あなたのシステムの中で愛がどんな役割を果たしているのか、教えていただけませんか?」
G「普通の愛には憎しみが伴う。私はこれを愛し、あれを憎む。今日あなたを愛していても、来週、いや、1時間後、1分後にはあなたを憎む。真に愛することができる者は存在することができる。存在することができる者は、行為することができる。行為することができる者は、存在している。真の愛について知るためには、愛に関するすべてを忘れ、さまよわなければならない。私たちは存在するのと同じように愛することはできない。私たちは、自分の中の何かが相手の放射物と結びつくゆえに、愛するのだ。愛によって心地良い結合が始まる。おそらく、本能的センター、感情的センター、あるいは知的センターからの物理化学的な放射物が原因だろう。あるいは、外的な形態のエネルギー、もしくは感情が原因なのかもしれない。あなたが私を愛するゆえに、あるいは、あなたが私を愛していないゆえに、私はあなたを愛する。他にも、主観的・利己的なものも含め、優越感、憐れみなど、様々な理由が挙げられる。私たちはいろんな影響にさらされている。私たちは自分の感情を他者に投影する。怒りは怒りを生む。私たちは与えたものを受け取る。すべては引き寄せるか、はねつけるかのどちらかだ。通常、男と女の『愛』として知られている、性愛というものが存在する。
(性愛で結ばれた2人は)これがなくなると、もう男と女は互いに『愛』さなくなる。反対のものを呼び覚まし、人間を苦しめる、〈感情という愛〉も存在する。意識的な愛については後で語ろう。」
他の質問に答えて、彼はこう言った。「あらゆる生命は愛を必要としている。飼い主が愛していれば、牛はよりたくさん乳を出し、鶏はよりたくさん卵を産む。種を播(ま)く人間が異なれば、異なる結果が生まれる。力の強い人間は憎しみによって植物をしぼませ、他の人間にも危害を及ぼす。まず植物と動物を愛さなければ、あなたは人間を愛するようにはならないだろう。」
「確かにそうですね。」と質問者が言った。「でも、愛とは何なのですか? 私たちはいつも愛について語っていますが、自分にそれが何なのか?と問い掛けてみても、自分にはわからないということがわかるだけです。たぶん、ある人物のためになるようにと考えたり、相手の幸福を望んだりすることが愛することなのでしょう。でも、相手にとって何が幸せかなどということがわかるでしょうか? たとえ自分の子供についてだとしてもです。相手によかれと思って骨を折っても、結果的にそうはならないことがよくあるものです。」
G「自分がわかっていないということがわかれば、もうそれで充分だ。あなたがグループに入れば、後でこのことについて語ることがあるだろう。」
問「男性が、自分を苦しめる女性にしばしば惹き付けられるのはなぜですか? また、女性も同じように男性に惹き付けられるのはなぜですか?」
G「私が〈感情という愛〉について述べたことをよく考えてみなさい。」


講話や公演は、自分がどれだけ深い眠りの中にいるかということを私に教えはじめた。実際に何かが私の潜在意識に影響を与え、何かが私の中で変わりはじめていることが、夢の中で最初に暗示された。
1917年以来、ソンム川(フランス北部の川。第一次世界大戦の激戦地)の前線の塹壕(ざんごう)で負傷してから、私は数日おきに夢にうなされるようになった。夢の中で私は再び軍隊に入っていて、激しい戦闘の最中にいた。しばしば私は、銃で撃たれ、倒れるところで目を覚ました。たいていこういった場合には、「もしまた、出口のないあの恐ろしい状況に放り込まれたら・・・」という憂鬱と絶望と悔恨とが入り混じった、高揚した感情が伴った。恐怖、悲嘆、絶望といった感情は、すべて目を覚ます直前の瞬間に凝縮して現れた。その夢は現実よりも生々しく、夢とわかって、ホッと胸をなでおろすまでに数分は掛かった。金の掛かる精神分析をしばらく受けたが、結局何の効果も得られなかった。確かに、分析医と一緒にいる間は楽になれた。自分の苦しみを医者に転移するにからだ。しかし医者の元を去ると、恐怖心が戻ってきた。精神分析の結果わかったことは、夢は恐怖や不安によって引き起こされ、金銭欲と食欲は性欲によって引き起こされる、ということだった。通常、精神分析は、たわめられた鋼を手にとってそれを真っ直ぐにのばそうとするようなもので、手を放せばたいていは元の状態に戻ってしまう。もう一度鋼を鍛え直す過程が必要なのだ。グルジェフシステムは、鍛え直すための技法であるように私には思えた。


ムーヴメンツや舞踏の公演は、ネイバーフッド劇場やバウァリ街聖マルコ教会、カーネギー・ホールでも行われた。ネイバーフッド劇場では、「『ベルゼバブの孫への話』の著者より」の草稿が朗読され、その中で彼は「人生の河」について語った。こんなことがあった。公演の題目の1つが終わって、弟子たちが舞台を去ろうとしたとき、グルジェフが一人の若い女性を呼び止めた。綺麗な魅力的な踊り子だった。グルジェフはみんなにも聞こえるような大きな声で彼女を咎(とが)めた。
G「君は私のワークを台無しにした。君は私のためではなく、自分のために踊っている。」
彼女が弁解しはじめると、彼は手振りで何かを示して、出て行ってしまった。


2月、私はオレイジとボストンへ行き、そこで公演の準備をすることになった。そして、できればそこにグループを作るつもりだった。私はできるだけ役に立とうと思っていた。というのも、私はボストンやマサチューセッツのケンブリッジの有力な人物を知っていたからだ。1919年にケンブリッジにいたとき、私はイギリス文学と心理学の学位を取るつもりでいた。しかし、戦争で受けた幻滅や不安感に苦しんでいたので、なかなか研究に打ち込むことができなかった。ある日ワイドナー図書館(ハーヴァード大学の巨大な図書館)の中で、心理学に対するこんな考えがふと思い浮かんだ。1つの大学を修了するのに3年はかかる。しかし、1つの大学では人間の心理のたった1つの側面しか勉強できない。あらゆる有名大学で勉強して人間を完全に把握しようとするなら、何年もかかるだろう。でも、その時、私は自分について、そして他人について、より多くのことを知ることができているだろうか?
いや、そうはならない、という声がどこからか聞こえてきた。文学の学問的な研究についても同様だった。文化それ自体は、もう私の興味を惹き付けることはなかった。私はハーヴァードで研究するという考えを諦めて、世界の巡礼を再開した。それでも、私にはチャールズ・タウンゼント・コープランドという友人ができ、彼とはこの私の2回目のアメリカ滞在のときに旧交を温め合っていた。彼は大学教授であり、かつ著名な人物で、頼りになる人間でもあった。私はオレイジに、彼は非常に頼りになる人物だ、と話した。
すると、「どうかな?」と彼は言った。「これまで会った中で本物の思想に興味を持っていた大学教授は、フランスのデニス・ソレ教授ただ1人だよ。
大学教授や学者や作家なんかより、ビジネスマンのほうがよっぽどこういうことに関心が深いもんさ。
私が話した「有力な人物」の中には、グルジェフに些(いささ)かでも興味を示した人物は、誰一人としていなかった。彼らはみんな、グルジェフのことを、〈ヨーロッパからやってきた変わり種の哲学者〉ぐらいにしか考えていなかったのだ。
オレイジとのボストンでの滞在は、グルジェフについて語り、グルジェフについて詳しく知る機会を与えてくれた。グルジェフのアメリカ訪問の目的について尋ねると、彼はこう答えた。
「公演や集会、講話は、網を投げているようなもんだよ。観にきた何百という人間のうち、自分や人生に不満を感じているほんの数人の人間だけが、〈自分が探し求めているものをこの人たちは持っている〉と感じる。べつに僕は、この数人の人間が『不幸』な人間なんだと言っているつもりはないよ。彼らは行動的な人生を送ってきたかもしれないし、裕福かもしれないし、恵まれた境遇にあるのかもしれない。しかし、ある人々は通常の存在界の他にも、何かが存在すると感じる。言い換えれば、魔術的なセンター、あるいはその萌芽を持っている人間が確かに存在するということだよ。それらの人々は、ワークを行うことができる人たちだ。他の人間は、何も求めず、何もしない。僕らは、人生に目的を持つ機会を、苦痛(彼らが感じる不満)を利用する機会を、みんなに良かれと思って実際に提供しているのさ。どれだけの人間がわかってくれるかね? まあ、そのうちわかるよ。」
「グルジェフと出会ったとき、自分と人生について不満を感じていたんですか?」と私は尋ねた。
オレイジ「もちろん。1914年以前に僕のところに来たウスペンスキーに出会ったとき、僕は純粋に文学的で教養主義的な生活にすでに嫌気がさしはじめていた。『ニュー・エイジ』に、毎週記事を書くのも段々やっかいになってきた。西洋文明の中で最高で最良のあらゆるものと結ばれた僕の知的な人生が、僕をどこにも連れて行ってくれないということがわかって、愕然としたんだ。よく言うように、『私は神を見いださなかった』わけだ。」
ノット「グルジェフと会う前にウスペンスキーを知っていたんですか?」
オレイジ「ああ。僕は、彼とは彼がロシアのジャーナリストだった頃から文通していて、彼は1914年に東洋からロシアへ戻る旅の途中で、僕に会いに来たんだ。ロシア革命が起こったとき、僕は彼をエカチェリノダル(ロシア北コーカサス地方)のイギリス政府代表だったP・S・ピンター氏に引き合わせた。ウスペンスキーは金に困っていたようだったので、ピンターは彼を自分のスタッフにしてあげた。イギリス政府はウスペンスキーの給料を支払いたくなかったようなので、多分、ピンターが自腹を切っていたんだろう。ウスペンスキーが2度目にイギリスに来たときも、彼は僕に会いに来た。僕は作家や医者、心理学者らと連絡をとり、セント・ジョン・ウッドのロザミア夫人のスタジオで集会を開いた。ウスペンスキーは、僕が探し続けていたものを見つけていた。でも、ウスペンスキーのグループにグルジェフが初めて現れてからは、グルジェフが教師であることが僕にはわかったんだ。
結局、僕は『ニュー・エイジ』を売り、文壇とウスペンスキーのグループを捨て、フォンテーヌブローに向かった。プリオーレでの最初の数週間は、本当に苦難の連続だった。『地面を掘れ』と言われても、僕は何年もの間まともな運動をしてこなかったから、くたくたになって、とにかく独房みたいな自分の部屋に戻って泣き喚(わめ)きたくなったよ。誰も、グルジェフさえ、僕に近づこうとしなかった。
僕は自分に問い掛けた。『こんなことのために俺はこれまでの人生を捨てたのか? あの頃は俺は少なくとも何かを持っていた。でも、一体今は何がある?』 もうこれ以上ないというくらいの深い悲しみに陥っているとき、僕はもうひと踏ん張りしてみようと決めた。するとちょうどその時、自分の中で何かが変わった。それからは辛い労働も楽にこなせるようになり、1週間後に、グルジェフが僕のところにやってきてこう言った。『さあ、オレイジ、君はもう充分地面を掘ったようだね。カフェに行ってコーヒーを飲もう』 この瞬間から物事が変わりはじめた。これが僕の最初のイニシエイションだった。それ以前のことはどこかに行ってしまったんだ。」


ボストンでのオレイジとのもう1つの対話は、私の言葉で始まった。
ノット「あなたは、ニューヨークで秘教団体を始めるつもりなんですか? もしそうなら、私も弟子にしてください。」
オレイジ「いや、秘教的(エソテリック)でも超秘教的(メソテリック)でも何でもない。そんなものは僕らとは全然関係ない。顕教(けんぎょう)的な団体を始めるなら、うまくゆくだろうね。」
ノット「でも、プリオーレのは秘教学院ではないんですか?」
オレイジ「そう、秘教学院だよ。しかも、おそらく現代の西洋世界で唯一のね。でも、プリオーレで生活しても、そのことには全く気がつかないかもしれない。
プリオーレからは、自分がワークに与えたものと同じ分量しか受け取ることができない。つまり、現実の努力次第というわけさ。プリオーレにいながら、いまだにその場所を私立病院程度としか考えていない人間もいるよ。」
「たぶん、」と私は言った。「私とあなたは両極端にいたんですね。私はほぼあらゆる類の肉体労働に従事し、いろんな職について生計をたててきました。私は20もの国を旅したりそこで暮らしたりしてきました。でも、自分の心を使ったことは一度もなかったんです。毛を刈るハサミを前にした羊が押し黙るように、私は知識人の前では、ものが言えなくなってしまうんです。私には、体を使う仕事はたやすいのですが、心を使う仕事は難しいのです。深く考えることができないんです。ただ感じるだけです。」
「そう?」と彼は答えた。「確かに僕が普通の人よりも流行(はや)りの思想についてよく知っていると言うことはできるかもしれない。だけど、グルジェフとワークをはじめたとき、すぐに自分はほとんど何も理解していないと悟ったんだ。僕はもう一度初めからすべてをやり直さなければならなかった。このシステムの中では、僕らはみんな振り出しに戻ってから始まる。でも、編集者としての僕の経歴を、このワークでうまく活用することもできる。」
彼はさらに続けた。「確かに君は感情で考えている。君は心で考えることを学ばなければならない。ワークの目的の1つは、人間が自分から感覚し、感じ取り、考えることができるようになることだ。僕らはみんな、センターの1つか2つが未発達なままという異常な状態にある。だから、グルジェフは自分の学院を『人間の調和的発展のための学院』と名づけたんだ。」
「私たちがみんな異常だというのは本当ですか?」と私は尋ねた。「例えばバーナード・ショーはどうです?私は彼と何度も会いました。彼は正常な人間だと、てっきり思っていましたが?」
「ショーの家族のことなら、何年も前からよく知っているよ。」とオレイジは言った。「彼が今の奥さんと結婚する前に、僕は2人とよく一緒に過ごしたんだ。ショーは心で感じているが、『感情的な知性』が不足している。以前、ショーと僕がある女友達と一緒に食事をしたとき、話が感情と知性のことになったんだ。その女が彼にこう言った。『でも、ショー、あなたには感情的知性が足りないわね。』
『どういう意味だい? 私はちゃんと感情的知性を持ってるよ』と彼は反論した。
そうしたら『あら、違うわ。オレイジは持ってるけど、あなたにはないわ。』と彼女は言ったんだ。ショーは不機嫌になったよ。彼にはそれが事実だと認めることができなかったんだ。後で、彼が席を立ったとき、彼女はこう言った。『可哀想なショーさん。随分傷ついたみたいね。問題は、彼の脳味噌が彼の頭に頼っているということだわ。』」
「私はがっかりしているんです。」と私は言った。「ケンブリッジやボストンの私の友人は誰一人としてグルジェフの思想や舞踏の公演に興味を示さないんです。1919年にハーヴァードにいたとき、ケンブリッジの洗練された人々の生活は、当時探しうるものの中ではおそらく最高のものだろうと私は思っていました。つまり、19世紀と20世紀という暗黒の時代が押し寄せる前の、18世紀イギリスの洗練された生活に匹敵しうるものだと。」
「そうだね。」とオレイジは言った。「でも、
グルジェフによれば、文化はバックグラウンドを作るかもしれないが、個々の人間の内的な発展は文化には依存しないんだ。反対に、文化は、発展した個々の人間、というよりはむしろ共同でワークを行っている人間の集団に依存する。ゴシック聖堂の建築、ルネッサンス、シェイクスピアの演劇といった、歴史的に時おり起こる文化の隆盛は、明らかに意識的にワークをしている人間集団の業績の典型だ。それから、君は知的な議論をしてもグルジェフ・システムの健全さを人に納得させることができないだろう。でも、僕らは人々を確信させたり回心させたりするつもりはない。僕らはそれが必要だと感じている人間に救いとなる方法を指し示すだけだ。健康な人間には医者はいらない。グルジェフは、プリオーレは壊れた自動車の修理屋だと言っているよ。」

10
私は、舞踏やグループに積極的に関わりたいという気持ちになってニューヨークに戻ったが、何かが私を押し留めた。言わば、私は2つに分裂してそれらが互いに争い合っていた。一方が「頑張れ、やるんだ。」と言うかと思うと、もう一方は「待った。一体どうなるかわからないじゃないか。」と止める。実際に私を押し留めていたのは、恐怖と小心さと愚鈍さとが入り混じったものだった。大切にしていたもの、私が執着していた漠然としたものをあきらめなければならないかもしれないという恐怖。だから、ムーヴメンツのクラスには積極的に関わらずに、私はただ見学するだけだった。当時の私には、他には何もできなかった。
〈機械は機械のように振る舞うことしかできない〉
特に私は、ニューヨークで書店を開業するという私の夢が叶えられなくなるのが怖かった。願望や欲望は、合理的なものであれ、非合理的なものであれ、たいてい自分には未知の原因から生じる。非合理的なもの、有害なものは抑圧されなければならない。無害なものは満足させられなければならず、さもなければ、私たちには平穏がもたらされないかもしれない。
「君のたわいない夢を満足させるのはいいが、でもそれを育てちゃいけない。」とオレイジは言った。「このワークでは君は何かをあきらめる必要はない。物事は、君と関係がなくなれば、自然と去ってゆく。いずれにしろ、君は生活のために何かをしなきゃならない。本屋じゃ駄目なの?」
「プリオーレに行きたい。」と私は言った。
オレイジ「へぇー、じゃあ両方やったらどうだい? 夏は学院で過ごして、後はニューヨークに戻って自分のビジネスを始めればいい。でも、なぜ本屋を開きたいの?」
ノット「なぜって、本が好きだから・・・。」
オレイジ「本が好きだから本屋になりたいっていうのは、動物が好きだから肉屋になりたいというのと似たようなもんだね。」
実は他にも問題があった。ロシアで私は、ある若いアメリカ人女性と出会った。私たちは別れてそれぞれの道を進んだが、ニューヨークで再会した。私たちは互いに大いに通じ合うものがあって婚約までしたが、この頃にはすでにその共通の関心が薄れつつあった。彼女は、私のグルジェフ・システムヘの関心を、あまり良からぬことと感じている様子で、最初の公演以降は、もう集会に参加しようとはしなかった。彼女は、グルジェフがロシア革命に反対していたこと、そして、私がすでに、2人が目指していた「社会改革と他人の幸福」への関心を失いつつあることに不満だった。私が彼女に、自分はプリオーレに行くつもりだと話し、一緒に行こうと頼むと、彼女は「いやよ!グルジェフか私か、どっちかを選んで!」と迫った。
このことをオレイジに話すと、彼はこう言った。「ロンドンの僕の知人も君と同じような境遇にあった。彼はある女性と恋愛していた。ちょうどそんな時、彼が非常に望んでいたものが彼の前に現れた。それは彼にとって重大なことだった。彼がこのことをその女性に話すと、彼女は妨害しはじめた。2人がそのことについて議論を重ねるにつれ、彼女はそうしないでくれ、と激しく頼み込むようになった。最後には目に涙を浮かべるようになった。もう彼は反論しなくなった。しかし、彼が彼女に、もう自分の計画を諦めると告げた途端、彼女は彼の臆病さを侮蔑し出した。結局、2人の関係は終わってしまった。彼は決して自分を赦(ゆる)さなかった。そして彼は、自分の本来の、しかし変更されてしまった計画を実行するために、無駄な努力を払わなければならなかった。」
この話は私に深い印象を与えた。なぜなら、オレイジは知らなくても、彼は数年前の私自身の人生での出来事を語っていてくれたからだ。私もまた、自分を決して赦さなかった。そして、オレイジの忠告がなければ、私は同じ過ちを繰り返していたかもしれない。
「君は気をつけなきゃいけない、」とオレイジは続けた。「
アメリカの女性はことの他甘やかされている。もちろん、どんな女性も自分の思い通りにしたがるものだが、アメリカ社会で悲劇的なことの1つは、女性が男性を支配してしまうほど我がままを通すことができるようになったということだ。受動的な力が能動的な力になった。重要なのは、ここではヨーロッパに比べて離婚の数が非常に多いということだ。グルジェフは、アメリカの女性が堕落したのは男の責任だと咎めている。しかし、奇妙なことに、アメリカ人は離婚を『進歩』の証しと考えている。
中央ヨーロッパの農婦でさえ、沢山いるアメリカの知的な女性よりも、あるいはイギリスの女性よりも恋愛術について本能的によく理解している。相手の男が子供のままだと、女性は内面的な成長に失敗する。女性は、本当は支配されることを望んでいる。でも、女性を支配するには男が必要だ。ヨーロッパの男たちはそれなりの大人になるために何千年も掛けてきた。アメリカ人は、ヨーロッパ人の経験を引き継がずに、少年時代に、少なくとも青年時代に戻ってしまった。しかし、これは大きな欠点でありながら、可能性を秘めてもいる。子供を使って何かをすることができる。
グルジェフは、アメリカ人は他のどの民族よりも幸福になれる可能性があるが、しかし、ヨーロッパからもたらされ、結局歪められた誤った理想(それは権力やお金に容易に結びついたけれど)に振り回されて、果実を実らせる前に腐ってしまうかもしれない、と言っている。本当の文明においては、女性は自分の機能を理解し、女性を超えたものになろうという望みを持たない。
私は私の若き女主人に、自分はフォンテーヌブローに行くことを選んだと告げた。
この年の冬の間、私は数日おきに新しい経験をしていたが、ある女占い師と知り合うことがあった。私は彼女の噂を友人を通して聞いていて、その友人の言葉に従って、私はフルネームと誕生日を手数料を添えて彼女に書き送った。数日後、ぎっしりと書き込まれた4枚の便箋が送られてきて、そこには私の基本的な性格と可能性、運勢、そして私が近々に出くわしそうな事柄のあらましまでもが書かれてあった。彼女が私自身について述べたことのいくつかは、意外なものだった。運勢も、私が全く思いもよらないものだった。彼女はまた、私がまだ出会っていないが、後に私の人生に関わってくる人間の性格まで描写していた。
彼女はニューヨーク州北部の小さな町に住んでいて、私は彼女に会いに行った。彼女は物静かで好感の持てる小柄な女性で、私が以前ロシアの村で出会った「女占い師」に似ていた。昔のロシアには、どの村にも女占い師がいて、彼女たちは〈その民族の潜在意識的な知恵〉が異常なまでに豊かで、農民たちは占い師の元へ行ってアドヴァイスを求め、悩み事について相談していたのである。彼女は、普通のスピリチュアリストが言う意味での霊媒ではなかった。私は彼女に、どうして見たことも聞いたこともない私のことについて、あんなに沢山のことを知っているのか、と尋ねてみた。
彼女はこう言った。「わかりません。あなたが送った手紙を手に取り、いくらか考えてからタイプライターの前に座り、自分を落ち着かせると、自然に湧き起こったんです。最初の頃は、私はよく、相手に起こりそうだと私が思ったことを直接話していました。でも、これだと沢山のことが絡んできて、よく間違えてしまい、それで、やめてしまったんです。今ではただ記述するだけです。でも、良いことでも悪いことでも、その可能性を占うことによってその人間を救うことができると、私は考えています。」
彼女は、一人きりのときだけ、書くことによって、人物について占うことができた。喋ることによってではなく、スピリチュアリストたちがサイコメトリーと呼ぶ(あるいは誤って呼ぶ)才能を使うことによって占うことができた。それはまるで、〈人生という映画が私たちが誕生したときに作られていて、ある状態にいるある種の人間はその断片を前もって垣間見ることができる〉というようなものだった。もし自分の「未来」について教えられたら、私たちはそれに主観的な解釈を加え、良いことばかりを願い、嫌なことを恐れて、エネルギーを浪費する。
私たちは親しくなり、私は彼女を公演に連れて行った。「これだわ。」と彼女は言った。「これは本物よ。グルジェフ氏は本当の宗教の意味を理解している人だわ。彼は神を見た人間よ。」
「汝自身を知れ」と言うだけでは充分ではなく、自分の闇の部分について教えられることには、常に驚きが伴う。私たちはそれを見ることを望まないからだ。「グルジェフのシステムは1つのテクニックを提供する。」とオレイジは言った。「君は自分の過ちをいつまでも反省することができる。でも、もし自分でしかるべき努力をしなければ、君は同じ状態のままだろう。彼のシステムには、本には書かれていない手法があり、その手法によって、自分を知るためにはどう努力すればよいかということを君は少しずつ学ぶことができる。しかし君は長い間、おそらく何年もの間ワークを行う覚悟をしなければならない。そして、何も起こらず、自分の中で何も変わらないように思えるまでには、長い時間が掛かるだろう。」

11
G「人々はくだらないことには何にでも金を払う。しかし、通常の生活においてすら、本当に必要なことには、払おうとしない。」

12
オレイジはこう言った。「私たちはグルジェフと同じようにお金にはナイーヴなんだ。個人でも国家でも、私たちはみんな、お金という概念、ずっと昔から続いてきた概念によって催眠術に掛けられている。経済学の権威であるモンタギュー・ノーマンが、『通貨制度を変えなければならない』と言ったせいで、現在(1924年)イギリスでは、何千人もの人々が破産し、何百万もの人が職を失っている。
いつの時代にも迷信があり、いつの時代も人間は偽りの神々、偽りの概念の生贄になる。
グルジェフは、金銭に対する態度は、夢の中の状態に似ていると言っている。目を覚ませば、夢はすぐに変わる。グルジェフのお金に対する態度は、私がこれまでに出会ったどの人間の態度とも違っている。お金がなければ、重要なことは何もできない。少なくとも、イエスの伝道の1つは、裕福な女性たちによって資金が賄われたんだ。グルジェフがお金を無駄遣いしているように見えるかもしれないが、彼は、ある非個人的な目的のためにちゃんと計算してそれを使っている。
2、3日前、ある男が『偉大なワーク』の代金として百ドルの小切手を彼に渡した。彼なりに、好意を示したかったのだろう。グルジェフは深く彼に感謝して、次の日、レストランのディナーに彼を招待した。私たちの方からも10人が同席した。ウェイターが勘定書を持ってくると、グルジェフは何かでツケにしたことを忘れていたと言ってそれを返し、ウェイターは勘定書を持って引き返した。
彼が勘定書を持って戻ってくると、グルジェフはそれを見て支払い、ウェイターに充分なチップを与え、テーブルの上に勘定書を置いて、寄付してくれた男が見えるようにした。私は彼の隣に座っていた。ちょうど百ドルになっていたよ。」

13
「あなたのシステムには自由意志はどこにあるんですか?」と尋ねた者がいた。
「普通の人間は、」とグルジェフは答えた。「意志を持っていないし、自分自身のことを相手にしていない。意志として見なされているものは、単に強い欲望にすぎない。強い人間は強い欲望を持つ。弱い人間は弱い欲望を持つ。人間は自分の欲望に、自分の欲求に、あちこち引きずり回されている。彼は真の願望を持たず、欲求をたくさん持っている。人間は欲望をたくさん持つことができるが、1つの欲望がその人間を支配することもある。そしてその人間は、欲望の実現のために自分の人生を捧げる。彼はすべてを犠牲にする。そして人々は、彼は意志が強い、と言う。『自我』を持っている人間だけが意志を持つことができる。『自我』を持つとき、人間は自己の主となることができ、自由な意志を持つ。それは、食料や人間、環境、セックスと交換可能な、自分の周囲にあるものを必要とする、欲求や欲望ではない。真の意志は、自発的な行動によって、意識的な意志とともに現れる。しかし、おそらくあなたがたは何年も、何百年もワークをしなければならないだろう。私たちは私たちの中に〈主人〉を持っているが、この〈主人〉は眠っている。まれに意志と呼ばれるものが、積極性と消極性の間を調整する。例えば、心は何かを求めているが、感情がそれを求めていない場合がある。もしこの場合、心が感情よりも強いと、人間は自分の心に服従する。もし2つがほぼ拮抗していると、複雑で曖昧であやふやな事態になる。これが、普通の人間において自由意志と呼ばれるものだ。彼はある時は心によって、ある時は感情によって、ある時は肉体によって、もしくは多くの場合は性センターによって支配される。」
集会の後、誰かがオレイジにこう尋ねた。「グルジェフ・システムは自由意志を得るためのテクニックを提供しているのでしょうか? それから、グルジェフ・システムについてのわかりやすい説明書やパンフレットはないのでしょうか?」
オレイジは答えた。「この質問は2つに分けられます。まず1つ目について言うと、自分でワークを実践するための明確なテクニックや手法が存在します。また、ロンドンのウスペンスキーによって教えられたような、理論的な側面も存在します。プリオーレではその両方が教えられていますが、新人の場合のワークはたいてい実践的なものです。グルジェフは、〈実践的な手法と理論の両方が少しずつ教えられてゆけば、それらは一旦バラバラに混ぜ合わされてからほどよく組み合わせられるようになる〉と言っています。『しかし、糊を作らなければならない。糊がなければ何もくっつかない』と彼は言います。意志を獲得することは、秘奥の神秘です。これまで誰も意志を見たことがありませんが、私たちは、それを持っている人間の中に、その徴(しるし)を見ることができます。例えば、グルジェフは巨大な意志を持っています。それは行為のためのパワーです。」
「でも、」と他の者が声を上げた。「意志を得られるテクニックをどうやって口で説明するつもりなんですか?」
「まず第一に、」とオレイジは言った。「間違った意志を得ることもできる、ということを知っておかなければなりません。例えば、ある人間が、自身の物質的な目的のために人々を支配しようと望んだとします。しばらくすると、彼の中で何かが結実しますが、それは悪質なものでした。手法は次のような言葉でまとめることができます。
自発的な苦悩と意識的な労働
自発的な苦悩は、他人の不愉快な言動に耐えることを自らに強制することです。意識的な労働は、自己を感じ、記憶し、観察しようと努力することです。それは瑣末(さまつ)なことを意識的に実行することです。努力は、有機体の惰性やメカニズムに抗(あらが)います。それは、個人的な利益のためのものではなく、運動や健康、スポーツ、娯楽、学問のためでもありません。ましてや、不満や好き嫌いによるものでもありません。自己想起は決して習慣にはなりません。それは意識的な努力の結果であり、初めはごく小さなものですが、努力することによって大きくなってゆきます。自己想起の瞬間は意識の瞬間であり、すなわち自己意識の瞬間です。ありふれた意味ではなく、真の〈自己〉の意識です。それは有機体(肉体・感情・思考)の意識と共にある『自我』なのです。」

14
ある女流作家が集会の折にグルジェフに言った。「私は、原稿を書いているときの方が意識がはっきりしていると、ときどき感じます。実際そうなのでしょうか? それとも私がただ勝手に、そう思い込んでいるだけなのでしょうか?」
彼は答えた。「あなたは夢の中で生きていて、夢について書いている。あなたは、何百冊もの本を書くよりも、せっせと床を磨いていた方がよかった。」

15
問「苦しんででも、意識を開き続けるようにする必要はありますか?」
G「すでに教えたように、苦しみにも種類がたくさんある。それは両端のある棒だ。天使へと導く苦しみと、悪魔へと導く苦しみがある。人間は非常に複雑な機械だ。良い道の脇には必ず悪い道が走っている。ある物は必ず他の物と並んでいる。いくらか良い物がある場所には、いくらか悪い物がある。非常に良い物がある場所には、非常に悪い物もある。非常に能動的な物がある場所には、非常に受動的な物があるだろう。しかし、非常に悪い物がある場所に、非常に良い物もあるというわけではない。苦しみを利用すれば、悪い道を自分で見分けることは簡単だ。苦しみは容易に喜びに変化する。多くの人は苦しむことを喜んでいる。最初に打たれときは痛がっても、2度目に打たれたときは、あなたがたはそれほど痛がらない。5回目に至る頃には、もうあなたがたは打たれることを望んでいる。
眠っていてはならない。いつも目を光らせていなさい。さもなければ、あなたがたはどぶに落ちてしまうだろう。

16
4月、私はロンドンに向けて旅立った。遠ざかるニューヨークのビル群を見やりながら、私はこの半年間の出来事や体験を振り返った。人生において、人は時には感情の砂漠を、何一つ起こらない不毛の土地を行き過ぎるものだ。かと思うと、いろいろな体験や印象が重なり合う時もある。オアシスにいたかと思うと、野獣がのさばる密林の中にいる。数ヶ月のうちに、数週間のうちに、あるいは数日のうちに、何年分もの生を送ることもある。今の私の場合は、感情的体験と精神的体験が溢れんばかりの豊饒(ほうじょう)な土地に住んでいた。
私が他でもないニューヨークで教師と教えを見つけ出したというのは、意外なことだった。というのも、私はこの土地で何らかの精神的な価値があるものを見いだすことを、全く予想していなかったからだ。1919年の最初の訪問の折、この土地の人間には好感を持ったけれども、生活の場としての街は、私をはねつけた。2回目の訪問のときも、私は同じ感触を持った。ニューヨークは、世界中の他のどの大都市よりも、北京よりもさえ、いまだに私にはよそよそしかった。しかし、都市としては今でも私はニューヨークを好まないが、ニューヨークのことを感謝の念を持たずに考えたことは一度もない。私はニューヨークのおかげで実に多くの有益な体験をしているからだ。グルジェフがよく言ったように〈どんな棒にも両端がある。一方は善で、もう一方は悪〉だ。
ニューヨークは危険な街であり、すべての大都市と同じように、緊張の中枢だ。大都市は、発電機(ダイナモ)のようなもので、何百万もの人間からエネルギーを吸い取り、自然は膨大な数の人間を、まるで巨大な塚に群がる蟻や白蟻のように、地球上の特定の場所に集めさせる。そしてそれらはすべて、ある1つの宇宙的な目的を持っている。白蟻は、国家のために、視覚も、セックスも、自由も犠牲にし、〈ニューヨーカーやロンドンっ子が自分たちの街が一番だと吹聴するように〉当然の如く自分たちの住む街の大きさを自慢する。
フランスとイギリスは、アメリカに対して、〈古代ギリシアの草創期のローマに対するそれと同じような関係にある〉と言うことができるかもしれない。ローマが大きな権勢を持つようになってから数百年経っても、ギリシアはローマに対して、そしてヨーロッパの新興民族に対して、大きな影響力を持ち続けたのだ。


17

夜、ムーヴメンツを行っていると、私はこれまで味わったことのない肉体的、感情的、精神的な至福を感じた。それは中央ヨーロッパやロシアで農民と民俗舞踏をした時にも味わったことのないものだった。この踊りには新しい何か、民俗的なものでもなく古典的なものでもなく、その2つが混ざり合ったものでもない何かがあった。
大好きで得意でもあった社交ダンスやジャズは、今では馬鹿げた、意味のない、くだらない代物に見えた。やがて私はムーヴメンツや舞踏について少しずつ学んでゆき、それにつれて古典舞踊や民俗舞踊、バレエを好み、「現代的な」踊りを嫌うようになっていった。このことは、私か潜在意識的に失うことを恐れていた些細なことの1つだったのかもしれない。ちょうどそんなとき、私がプリオーレに滞在して1ヶ月ほど経った頃に、ロシアで一緒に働いたことのある私の古い友人が私をモンパルナスのキャバレー・パーティーに誘ってくれた。
いろいろな人と知り合えてそれはそれで楽しかったが、その場の雰囲気や踊りに対して私は、肉体的な嫌悪感を抱いた。


18

グルジェフは、かつてギリシアの格言を引用してこう言った。
「奴隷になるのではなく、自分から奴隷になりなさい。」
この言葉は、いまいちわかりづらいかもしれない。言い換えるなら、目的(や人生)に対して従属的、追従的になるのではなく、自主的に、積極的に取り組みなさいという意味ととらえると、わかりやすいかもしれない。

19
誰かが「自由」について質問をしたことがあった。グルジェフはそれにこう答えた。
「自由は自由へと導く。それは、引用符付きではなく、本当の意味で真実だ。真実は理論ではないし、ただの言葉でもない。それは認識されうるものだ。私が話している自由は、あらゆる学校の、あらゆる宗教の、あらゆる時代の目的だ。それは非常に大きなものだ。誰もが、意識的であれ無意識的であれ自由を望んでいる。
自由には〈小さな自由〉と〈大きな自由〉の2種類がある。〈小さな自由〉を得なければ〈大きな自由〉を持つことはできない。〈大きな自由〉は外的な諸力からの自己の解放だ。〈小さな自由〉は自分の内部にある諸力からの解放だ。
私たち初心者にとっては、〈小さな自由〉は非常に重要な問題だ。それは外部の諸力には影響を受けない。内的な奴隷性は様々な原因から生じる。それは多くの独立した原因に依拠していて、場合によって異なる。非常に沢山あるので、もし私たちが、自己を解放するためにそれぞれに対して別個に闘わなければならなかったとすれば、人生の半分を費やしても足りなかっただろう。だから私たちは方法を、ワークの手法(メソッド)を見つけなければならない。そして同時にその手法によって、私たちは、こうした原因を産み出す私たちの中に潜む敵を、可能な限り多く破壊することができるのだ。
こうした敵の中には、主なものが2つある。それは〈虚栄心〉と、〈自己愛〉もしくは〈自尊心〉だ。ある教えの中では、これらは悪魔の使いとか悪魔の代理人と呼ばれている。そしてどういうわけか、それらは〈マダム虚栄心〉と〈ミスター自己愛〉と言われている。前にも言ったように、こうした内的な敵はたくさんいる。しかし、私はこの2つしか触れない。この2つが特徴的だからだ。内的な敵について、今すべてを語り尽くすことはとてもできない。
こうした悪の権化はいつも間口に立っていて、良い力だけでなく悪い力も入ってくるのを妨げている。それは、良い面と悪い面の両方を持っているのだ。
内的な敵は見張りのようなもので、私はあなたがたに、〈それについて知ったかぶることに時間を費やすのではなく、自分自身と素朴にかつ積極的に論じ合うことによって内的な敵に対処する〉ことを勧める。例えば、〈自己愛〉もしくは〈うぬぼれ〉を例に挙げてみよう。それは私たちの人生の時間の半分を占めている。誰かが、もしくは何かがこれをいじると、私たちはすぐに、そしてしばらくの間、傷つく。傷ついた感情は、惰性で扉を閉め、生を締め出してしまう。
私は生きている。生は外部にある。私は、外部と結ばれたとき、生きる。もし生が私の内部にだけ存在すると仮定するならば、これは生ではない。しかし、私は自分一人だけで生きることはできない。私は外的な世界と結ばれていて、みんなも同じだ。」
ここでグルジェフは立ち上がって、2人のロシア人、マースルキンとイワノフの間に座った。彼は続けた。
「例えば、今私はマースルキンとイワノフの間に座っている。私たちはここで一緒に生きている。ここで、マースルキンが私のことを馬鹿と呼んだとしてみよう。するとすぐに、私は考えはじめる。私は不愉快になり、傷つく。イワノフが、まるで軽蔑しているかのように私を怪しげに見た。再び私は傷つく。そしてそれはしばらく続く。私は内的に考え、自己を忘れる。誰でもいつもそうだ。そして、この体験が去っても、すぐに次のものが生じる。
私たちは、自分という機械には、同一時間に様々な体験をしても、処理できる場が1つしかないということを忘れてはならない。私たちの中には、体験が起こりうる場は1つしか存在しない。もしこの場がある種の体験によって占められ、そしてその体験が望ましくないものであっても、その場が同時に別の望ましい体験によって占められることはありえない。
さて、マールスキンが私を馬鹿と呼んだ。しかし、なぜ私は傷つかなければいけないのか?実際には、私個人について言えば、私は傷ついていない。それは、私が自尊心や自己愛を持っていないからではない。多分私は、あなたがたの誰よりもそれをたくさん持っている。しかし、おそらく私の自尊心は、自分への侮辱を自分に感じさせようとはしない自尊心なのだ。私はあれこれと考え、推論する。私は自問する。
『もし彼が私を馬鹿と呼ぶなら、彼は頭が良いということになるのだろうか? 多分彼自身が馬鹿なのだろう。彼の振る舞いは子供のようだ。子供に賢明さを期待することはできない。多分誰かが私について彼と噂をし、それで彼は馬鹿な考えを持ったのだろう。間違っているのは彼だ。この場合、私は私が馬鹿ではないことを知っている。だから私は不愉快にはならない。もし馬鹿が私のことを馬鹿と呼ぶなら、私は内的に傷つくことはない。』
逆に、私は本当に馬鹿なのかもしれない。この場合私は、自分が馬鹿のように振る舞っていたことを自分にわからせてくれたことに対して、彼に感謝すべきだ。どちらの場合でも、私は傷つかない。
イワノフの場合について言うと、彼が私のことを不愉快な目つきで見ていると仮定しよう。しかし、彼は私のことを横目で見るので、私は傷つくどころか逆に彼のことを気の毒に思う。何かが、あるいは誰かが彼を狼狽(ろうばい)させた。しかし、彼は本当の原因を見いだすことができるのだろうか? 私は自分自身を理解し、自分自身を公正に判断することができる。たぶん誰かが私のことを彼に喋り、それで彼は私について何らかの印象を抱いたのだろう。私は、彼がそんな奴隷であることを気の毒に思う。彼はもう1つの目で私を見るべきなのだ。彼の目つきは、彼自身が存在していないということ、彼が奴隷以外の何者でもないことを示しているだけだ。
あなたがたもすべてそうだ。みんな同じだ。しかし、能動的な推論の基礎として、私はこの2つの例を挙げる。あらゆる問題は、私たちが自己を持たず、真の誇りを持っていないという事実にある。真の誇りは大きなものだ。不幸にも、私たちはそれを持っていない。誇りは、自分自身について持っている意見の、一種の尺度だ。もしある人間が真の誇りを持っていれば、それは、彼が存在していることの証(あか)しだ。誇りはまた、大きな敵であり、私たちの希望や行為に対する巨大な障壁であり、地獄の使いの武器でもある。
誇りはまた、霊魂の属性でもある。誇りによって私たちは魂を見分けることができる。誇りは、その所有者が天国に属していることの証左だ。誇りは『私』であり、『私』は神だ。誇りは地獄であり、誇りは天国だ。この2つは同じ名前を持ち、外的には同じものだが、しかし異なるものであり、正反対のものだ。普通の思考や観察では、この2つを区別することはできないだろう。
『真の誇りを持つ人間は、すでに半ば自由になっている』という格言がある。しかし、私たちは誇りで溢れんばかりになっているが、私たちが自分自身に対する自由を欠片(かけら)も持っていないということを認めなければならない。
私たちの目的は、真の誇りを持つことでなければならない。そのときになって初めて、私たちは私たちの内部に濳む無数の仇敵から自由になるだろう。そして私たちは、〈マダム虚栄心〉と〈ミスター自己愛〉と呼ばれるこの2つのものから、自分自身を解放することもできるかもしれない。
どうすれば真の誇りを、うぬぼれから区別することができるか?
他人の誇りを区別することは難しい。自分のを区別することはその百倍も難しい。」
彼は一呼吸置いて周りを見て、薄笑いを浮かべて皮肉っぽく付け加えた。
「私にはあなたがたがこう言うのが聞こえる。『ありがたいことに、ここに座っている私は2つを混同していない。私がここにいて、自分のワークを行っているという事実は、当然、私がうぬぼれを持っていないということなのだ。だから、私は区別する必要がない。』と。」
いつもの声の調子に戻して、彼はこう結論付けた。
「どんな場合でも、あなたがたは能動的に推論することを学ぶようにしなければならない。あなたがたはそのための訓練をしなければならない。一人一人が、過去であれ現在であれ、誇りを傷つけられた時のことを思い出さなければならない。そして一人一人が、他者を交えて、それについて論じなければならない。後で私は、あなたがたのうちの何人かに、自分の場合について話してもらうよう頼むつもりだ。その話は実際のものであって、架空のものであってはならない。」

20
G「
あなたがたは理解しなければならない。通常の憎しみも、通常の愛も、共に機械的なものなのだということを。後で、あなたがたは真の愛について何かを理解するかもしれない。」

21
グルジェフは絶えず人や状況を操り、摩擦が生じてみんなの間に否定的な感情が生まれ、みんなが自分自身を見つめる機会を持つようにさせていた。彼はオレイジに、ロシア語から翻訳された講話を、正しい英語にするように命じたことがあった。このとき、グルジェフは講話をド・ハルトマン夫人にも訂正してもらい、このことをオレイジに知らせるように誰かに命じた。オレイジは、このことを伝えられたとき、しばらく困った顔をしていたが、そのうち笑いはじめた。
幼年期、そしてそれ以後も、両親から軍隊の上官に至るまで、様々な人間が、あれを考えろ、これを感じ取れ、あれをしろ、と常に私に命じていた。外的には私は彼らの考えを受け入れていたが、内的にはそれを疑っていた。彼らが直接的な体験に基づいた内的な確信によって話しているようには思えなかった。しかし今私は、私の誤りや弱点について、自分自身の体験に基づいて注意していると確信できる人間に出会った。彼は、彼自身の努力によってこうした弱点を克服し、そして私に欠けているものを完全に理解していた。システムに関する質問に答えてくれた年長の弟子たちも、自分自身の直接的な体験にのみ基づいて話していた。
前に記したように、プリオーレでの普通の肉体労働は、そういうことを全くしたことがない人々、金持ちやインテリたち以外の人間には、そう大してつらいものではなかった。また、食事は簡素で、貧弱で、スパルタ式だと聞いていたが、プリオーレでの私の普段の食事は、豪勢で美味しかった。そしてグルジェフの客の場合は大ご馳走だった。朝食はトースト、パンにバターとコーヒー。昼食は野菜シチューとプディング。4時半にお茶とパンにバター。夕食は少量の肉と野菜、そしてパイだった。雨の日や寒い日はロシア式食堂で、晴れた日は外の小さなテーブルで食べた。「ロシア式」食堂は薄暗く、大きなテーブルと長椅子の他には家具がなかった。グルジェフは、しばしば訪れる来客がいる場合以外は、私たちと一緒に食事をした。
来客は「イギリス式」食堂で年長の弟子たちと一緒に昼食や夕食を摂った。たいてい、新米の弟子も何人か招かれた。この食堂は独特の家具が置かれた広い部屋だった。ここでマントノン妃は彼女の小さな宮廷を楽しみ、ルイ14世をもてなしたのだ。25人は座れる大きなテーブルがあり、20人ほどが座れるサイドテーブルが2つ置かれ、合わせると70人以上は食事ができた。グルジェフの席は窓に面した大きなテーブルの真ん中だった。彼の後ろのマントルピースの上には、彼の父親の写真が飾ってあった。髭を生やし、アストラカン帽を被った、柔和そうな老人だ。毎週土曜日のトルコ風呂の後の晩は、イギリス式食堂でみんなで食事をした。年長の弟子や来客が大きなテーブルについた。サイドテーブルの1つには若い人間が、もう1つには子供たちが座った。この土曜日の夕食と特別な祝いの席は、家父長的な宴会になった。最初のうちはみんな大人しく座っている。やがて会話が始まるが、それは決して騒がしくはならなかった。グルジェフは、自分がアメリカやイギリスで食わされたまずい食事にどんなに苦労したかを、新参者や来客によく話した。彼はテーブルの上の食べ物について説明し、それが、胃の健康を維持し必要なエネルギーを胃に供給させる活動的な要素をすべて保つために、どのように調理されたかを話した。ときどき彼は、みんなに聞き耳を立てさせるような声音で誰かと喋り始めることがあった。というのも、彼の言葉が、語りかけられた人物に向けられたものなのか、それとも他の誰かに向けられたものなのか、わからなかったからだ。いずれにしろ、帽子が合えば、喜んでそれを被った【「その言葉に思い当たることがあれば、自分のことだと思った方が良い」という意味合いの諺を掛けている】。
百回は聞かされた非常にありふれた主張がみんなによって機械的に繰り返され、今ではそれが意味を持つようになっていた。例えば、以前私はこんな言葉を掛けられた。
「あなたは過去に生きている。過去は死んでいる。もしあなたがこれまでのように生きれば、未来は過去のようになるだろう。ワークをしなさい、自分の中の何かを変えなさい。そうすれば、おそらく未来は違ったものになるだろう。」
彼がこう話すとき、彼の眼には閃光が走り、聞く者は、初めて真理を耳にしたような気持ちになった。それは体に染み込んだ。他のことであっても、「これは誰それに向けられたことだ。」ではなく、「これは私に向けられている。」と自分に言い聞かせた。彼がある特定の人物に何かを伝えようと望むと、その当人は決してそれを受け損ねることがなかった。過去に生きることに関する先の彼の発言は、もちろん大勢の人間に当てはまったが、とりわけ私に当てはまるように私には思えた。このことについて考えていると、私の欠点の1つが、絶え間ない過去の想起であることに気がついた。戦争や学校時代などのような不愉快な過去に対する反撥(はんぱつ)や恐怖、「過ぎ去りし日々」への憧れ。不愉快な過去の回想を厭(いと)わず、楽しかった過去への憧れを禁じる状況に自分を追いやることは、ある種の人間にとっては厄介な仕事だ。
私の祖父はよくこう言っていた。「水車は昔の水で廻ることはできない。」
ある詩人は言った。「我々は前と後ろを見ている。そして存在しないものにため息をついている。」
私は世界中を旅したが、プリオーレの夕食ほど美味しい食事は他になかっただろう。食材は世界中から集められていた。スープ、スパイスの利いた肉、鶏肉、魚、とりどりの野菜、最高のサラダ(私たちはそれを野菜ジュースにして飲んだ)、プディング、パイ、豊富な果物、東洋の珍味、香ばしいスープ、生の王ねぎ、セロリ。年長者はカルヴァドス(フランス・カルヴァドス地方産のリンゴで造るブランデー)やスリヴォヴィッツ(東欧産の杏実ブランデー)を飲み、若者や子供たちはワインを飲んだ。圧巻は肉料理の後の羊の頭で、コーカサス風に調理され、すばらしい味だった。グルジェフは、東洋では羊の目玉は一番美味しい部分とされているとよく客に話し、羊の目玉を分けてその客をもてなした。もっとも、ほとんどの人は断ったが。食料や調理はすべてグルジェフによって監督され、彼のレシピは無尽蔵にあるように思えた。彼自身が優れたコックであり、何百もの東洋風料理が調理できた。しかし彼自身は、決してそうたくさんは食べなかった。私は、これが理想のディナーなのだ、とよく思った。夢中になったり無関心になったりすることなく、食事を味わい、楽しむことができる。
ときどき彼はこう言うことがあった。
「食べなさい!食べなさい!イギリスの人は少ししか食べない。彼らは自分たちが何を食べているのか全くわかっていない。なぜだかわかるか? 彼らは良い食料をすべて輸出して、自分たちはマーガリンとオーストラリアの冷凍の羊肉だけを食べて生きている。新鮮な食料を全く食べないのだ!」
夕食が終わると彼は立ち上がり、客間に移った。そこではコーヒーと酒が出された。そして彼は話した。彼の話にはほぼ必ず講話が含まれていた。そしてコーヒーの後、ハルトマンがピアノを弾いた。
グルジェフのディナーは、昔のロシアやアイルランド、フランス、あるいは18世紀までのイギリスのディナーと似通ったものがあった。食事を楽しみ、人が手間暇を掛けて準備してくれたことに感謝することができる。それは、絶えずお喋りをすることが規則だった。これは、食事に対するコメントを無作法と考える、ロンドンやニューヨークの上流階級のディナーとは大違いだった。私の農家の親戚の間では、食物の栽培がおのずと生活のほとんどを占めた。彼らの家や私の家では、食事の際には話が尽きることがなかったが、食料の調理には1日の大部分が費やされた。しかし、調理に比べて、何と膨大な時間が食物の栽培に費やされることか! そして、調理に比べて、食事に費やされる時間が何と短いものか! そして、有機体から老廃物を排出するのに掛かる時間はさらに短いのだ。
プリオーレでは、誰もがボーイやメイドになり、そして経験者がコックになった。ボーイの仕事が求人に出されることはなく、それは自己発展の手段でさえあった。ボーイの仕事は朝5時から夜11時までということになっていて、ムーヴメンツや音楽、グルジェフの講話には参加できなかった。延々と続く皿洗い、鍋の掃除、床磨き、錆落とし、そして、様々な人間がコーヒーを温め直したり、つまみを取りに引っきりなしに現れる。
私が初めてウスペンスキー夫人と出会ったのは、私がボーイだったときだ。そのとき、彼女はコックの当番で、大公国の雰囲気を漂わせていた。実際、彼女は目立つ女性だった。グルジェフは、しばしば彼女のことを愉快気にからかった。ときどき、彼とのこぜり合いの後、彼女は客間から憤然として歩いてきて、こう言ったものだ。
「ニエット、ニエット、ゲオルゲヴァニィッチ!」(ノー、ノー、グルジェフ!)

22
ある日、スタディーハウスでグルジェフがこう言った。
「あなたたちの中には、あなたたちが『連想センター』と呼ぶものについてはっきり理解していない者がいる。それはセンターではなく、1個の装置なのだ。それは複数のセンターと結ばれたいくつもの機械から成り立っている。
あるセンターからの刺激はその連想器官を経由し、もし連想された思考や感情、もしくは感覚が強烈なものであれば、それらは別のセンターで照応する連想をはじめる。センター間の連想は連想器官を通して運ばれる。センターは言わば霊化された質料からできているが、連想器官は違う。それは生まれつき私たちが持っている機械なのだ。」
彼は様々な部門、それに社員とセンターを持つ工場を例に挙げた。秘書を担当する総合事務所がある。私たちの場合、総合事務所は連想器官にあたり、秘書は私たちの受けた教育(私たちが機械的に獲得したものの見方)である。部門や社員などの外部からのメッセージは、すべて事務所に送られ、秘書によって様々な指示とそれに関連する情報を加えられて伝えられる。しかし秘書には怠け癖があり、しばしば昼寝をむさぼる。彼女は間違ったボタンを押し、混乱したメッセージを得る。私たちの連想器官もこれと同じだ。
この講話は、そのうち私に多くのことを明らかにしてくれた。私たちはこの秘書に頼っている。偶発的な刺激が私たちの内部に何らかのものを流させ、そして私たちは喋ったり、あるいは書いたりするのだ。繰り返されるレコードのように、絶え間なく喋り続ける人間がいるが、祭りや市場の客引き、インテリ、政治家だけでなく、多くの善良な人間も、絶えず言葉の流れを吐き出しているのだ。

23
プリオーレにしばらく暮らしているうちに、私は自分の祖父のことを考えはじめるようになった。切っ掛けはグルジェフの父親の肖像だった。彼についてグルジェフは、彼の本の第二集である「注目すべき人々との出会い」の中で書き記している。私の祖父とグルジェフの父親は外見が非常によく似ていて、私の祖父は生粋のイギリス人であったにもかかわらず、晩年の頃はロシア人の司祭のような雰囲気を持っていた。祖父は無教育の人間で、農夫だった。「天路歴程」と聖書などのいくつかの古典を除いて、ほとんど本を読まなかったが、古くから先祖に伝わる膨大な知恵を有していた。彼は商売人ではなかったので、彼の兄のように金持ちになることは決してなかった。彼は百姓だった。彼は、他人の弱みにつけこむような真似は絶対にしなかった。また彼は、あちこちで聴き集めた格言を沢山憶えていた。幼い頃そうした格言を聞かされても、それが私に強い印象を残すことはほとんどなかったが、潜在意識は少なからず影響を受けていたに違いない。というのも、そうした格言が当時の自分に当てはまったので、私はそれを少しずつ思い出すようになっていたからだ。祖父はジョージ・ハーバートからそれを引いていたのではないかと、私は思っている。格言の中には次のようなものがあった。

行為によって私たちは学ぶ。
他人を哀れむ者は自分を忘れない。
神、親、そして教師は決して報いられることがない。
神は四つの家を禁じた。金貸しの家、博徒の家、病院、監獄。
法律家の家は、馬鹿の頭の上にある。
医者は患者のおかげで生活をしている。患者は医者にただお金を支払うだけだ。
袋から取り出せるのは、その中にあるものだけだ。
二度考えない人間はよく考えない。
世界の半分は、もう半分がどうなっているか知らない。
他人の荷の重さは誰にもわからない。
今日与えられたものは、明日取り上げられる。
優しい人間は、誰もがそうだと考える。
三人が互いに助け合えば、六人分の荷を背負うことができる。
隣人を愛しなさい。ただし、自分の家の生け垣を壊してはならない。
常に愚かな人間は一人もいない。しかし、誰もがときどき愚かになる。
高く登る猿ほど、間抜け顔をさらす。
誰に対しても、結婚と戦争を勧めてはならない。
片方の手は、もう一方の手を洗う。両手は顔を洗う。
結婚の前は目を大きく見開いておきなさい。結婚してからは半分閉じなさい。
小さいものがなければ、大きいものもない。
狐(きつね)が説教を始めたら、目を鵞鳥(がちょう)に向けなさい。
水曜日になったら一週間は半分過ぎている。
お金を沢山持っていると怖くなるが、一銭も持っていないと悲しくなる。
栄養の行き届いた人間は、腹を減らした人間が考えていることがわからない。
一緒に塩を何杯も食べ合ってから友達になりなさい。
善良な人間は欠点を指摘されると、それを美徳に変える。悪徳な人間は欠点を二倍に増やす。
涙より早く乾くものはない。


私の人生において、私の祖父母は、単に彼らが存在したという事実によって、非常に大きな影響を及ぼした。そして、グルジェフの思想を学んだり、彼の手法に従ってワークを行うことによって、私は、その影響が甚大なものであることに気づいたのだった。

24
プリオーレでのある日、生まれて初めて、この場所以外のどこにもいたくないという思いが衝撃を伴って私を襲った。私の人生を妨げていた漠然とした不安は失せていた。この場所で、私は自分が探し求めていたものをすべて見つけ出すことができた。苦しむことがなかったわけではなかったが、それは別の種類の苦しみだった。その大部分は自発的な苦しみではなかったが、少なくともその苦しみが完全に機械的であることはなかった。しかし、まるで世界中の苦しみが私にのしかかっているように感じられる時があった。グルジェフはある日、こんな状態にある私を見て、フォンテーヌブローのカフェへ行こうと私を誘った。さりげなく私を観察してから、彼はその場にいたオレイジにこう言った。
G「オレイジ、物事が最悪の状態にあるように見える時は、たいてい少しは良くなるものだよ。」
まるで彼の力が私に注がれたようで、この時私は元気を取り戻しはじめた。コーヒーの礼は別として、私はプリオーレに戻るまで一言も発することがなかった。しかし、数日来の憂鬱はきれいに消え去っていた。ハルトマンは、彼らがコーカサス山脈にいた時、ハルトマンがチフスに罹り、回復を望めないくらい病状が悪くなったことがあった、と私に話した。「ところが、」と彼は言った。「ある日目を覚ますと、グルジェフが顔に汗を滴らせながら私の上で屈(かが)んでいるのに気がついたんだ。彼のすべての力が私に注がれているようだった。彼は私にパンを一切れ与え、そして立ち去った。私は体を起こしそのパンを食べはじめた。そして、彼が私の命を救ったことに気がついたのさ。」
またある時、同じフォンテーヌブローのカフェの〈アンリ・ド〉で、グルジェフがハルトマン、スジャーンヴァル、ザルツマンとロシア語で話し込んでいたことがあった。一方、私とオレイジは英語で話していた。その時、グルジェフはオレイジと七面鳥について喋りはじめ、私を見て笑いながら言った。
「彼は孔雀でも鳥でもなく、七面鳥だ。」
私が理解していないのを見て、彼はオレイジを促し、オレイジがこう言った。
「七面鳥の特徴は、いつも羽を膨らませていて、たとえ自分しかいなくても自分自身に見せびらかそうとするということだよ。」
この時私は、顔に深い失意の表情を浮かべたに違いない。というのも、ハルトマンがこう言葉を掛けてくれたからだ。
「グルジェフさんは七面鳥についていろんなことを言っているけど、この鳥が大好きなんだよ。」
ずっと後になって、私は自分のこうした性格を理解するようになり、それを客観的に、また余裕を持って観察することができるようになった。そして、自分の人生を顧みて、子供の時から、いかにこの七面鳥的な性格が絶えず自己を主張し、自分自身と他人に対して、自分が「一廉(ひとかど)のもの」であり、取るに足らない者ではないと表現しようと努めていたかということに気がついた。そして七面鳥と面と向かい合うことができるようになり、七面鳥のようにがなりたてることもなくなった。
ある日の夕食の席で、グルジェフは報いについて、様々な報い方について、あるものから負わされた恩義、自然の恩義に対する償いについて語った。彼は言った。
「あなたがたは、ここでワークをさせてもらうために私に報いる。しかし、ここでのワークによって、あなたがたは世界の9割がいかに生きているかということを知り、感じるだろう。正しい方法で肉体的なワークを行うことによって、あなたがたは知性を増やすことができる。もし隣人を助ければ、その代わりにあなたがたは助けを受けるだろう。それは明日かもしれないし、1年後、あるいは100年後かもしれないが、あなたがたは助けを受けるだろう。自然は借りを返さなければならない。それは法則だ。もし私たちが、ワークの際に私たちがしていることを好むならば、私たちは充足感を得ることによってすぐに報いられる。もし好まなくても、努力をすれば、時間は掛かるかもしれないが、報いが得られる。それは数学的な法則であり、すべての生命は数学的なのだ。
現在は過去の結果であり、未来は現在の結果である。あらゆるものは生と格闘しなければならない。過去を顧みる際、私たちはたいてい辛かった時のことを、闘いの時のことを思い出す。しかし、闘うことが生なのだ。」

25
「悪性の思考や感情はすべて、あなたがたに、他人に、私に撥ね返ってくる。悪性の思考や感情は、生を締め出す。」

26
「生の状況が困難になればなるほど、生産的なワークの可能性が増す。意識的にワークをしていればの話だが」

27
グルジェフは滅多に「システム」「手法」「自己想起」「自己観察」という言葉を用いなかった。
用語はどんなものも化石化してしまう。連想器官に常時使用されることによって、それらは内容のない表現になってしまう。プリオーレでの生活は、それ自体が、自分自身を想起し、自分自身を観察し、自分たちの行動や言葉、感情、思考に気づくよう、絶えず私たちに心掛けさせるプロセスだった。私たちの古い人格を溶解させる好機が訪れて、本質が芽を伸ばし、私たち本来の個性が、本来的ではない人格に取って代わることができるようになった、というような状態だった。こういう箴言(しんげん)があった。
あなたはここで自分自身に対処する必要性を認識している。ならば、機会を与えてくれたみなに感謝しなさい。

28
問「私には、本質と人格の区別をすることが難しいのですが?」
グルジェフは答えた。
「私たち一人一人は、2人の人間からできている。本質と人格だ。本質は、遺伝、類型、性格、性質といった、私たちが生まれながらに持っているもののすべてだ。本質は私たちの真の要素だ。本質は変わらない。例えば私は、肌が浅黒い。これは私の類型に属している。それは私の本質の要素だ。人格は偶発的なもので、誕生してから獲得されたものだ。それは環境や外的な諸力、教育などによって決定される。それは服やマスクのようなものだ。偶発的なものは、環境の変化に応じて変化する。それは人間の偽りの側面だ。それは人為的にも偶発的にも変わりうる。催眠術や薬物によって数分で変わってしまうのだ。『強烈な人格』を持った人間は、子供の本質に人格という皮を被せているだけだ。
内的な発展や内的な変革について話している時、私たちは本質の成長について話している。問題は、何か新しいものを獲得することではなく、失われたものを取り戻し再構築することだ。これは発展の目的だ。人格を本質から区別し切り離すことができるようになれば、変えるべきものは何か?ということがわかるだろう。今のあなたがたにはたった1つの目的しかない。それは、学ぶことだ。あなたがたは弱く、助けを必要としている。あなたがたは奴隷であり、周囲のあらゆるものを目の前にして、どうすることもできない。長年の習慣を打ち破るには時間とワークが必要だ。そうすれば後で、今の習慣を他のものに入れ替えることができるだろう。人間は外部に依存している。しかし外部それ自身は無害であり、あなたがたは、発展を妨げている諸力を、発展を促す諸力に入れ替えることができるようになるだろう。」
観察に関する質問が出された。
G「まず初めに、ワークのための状態が準備されなければならない。今のあなたがたは、自分がしていることを意識し、ワークに有用な材料を集めようと努力することしかできない。だがあなたがたは、自分の表現行為が本質から生じる時と、人格から生じる時とを、見極めることができない。あなたがたは材料を集めている間、喋ることができない。人間は、自分の行動に向けられる注意力を、1つしか持っていないからだ。彼の精神が彼の感情を理解していないか、あるいは、彼の感情が彼の精神を理解していないかのどちらかだ。」
彼はまた、私たちがそのうち注意力を2つもしくは3つに分割することができるようになる、と語った。しかし、どうすればそれができるようになるか?と誰かが尋ねると、彼はこう言った。
G「あなたには、まだそれはできない。そのことについては後で話そう。
普通の人間は、真の注意力を持っていない。彼らが注意力と考えているものは、単なる緊張にすぎない。まずあなたがたは注意力を得るように努めなければならない。正しい自己観察は、一定の注意力を獲得した後にのみ可能になる。まず小さなことから始めなさい。」
私たちの1人が尋ねた。「小さなことというのは、どういう意味ですか?私には何ができるのでしょうか?」
G「
行為には2つの種類がある。機械的・自動的な行為と、自分の本当の意志に準じた行為だ。自分にできないことではなく、自分がしたいと思う小さなことを手に取りなさい。これを旨としなさい。何ものにも邪魔をさせてはいけない。ただ自分の望みを果たすよう励みなさい。もしこの小さなことをやり遂げたら、私はさらに大きな仕事をあなたがたに与えよう。現在のあなたがたの多くは、あなたがたには大きすぎることを行うことに対して、異常な欲望を持っている。この欲望は、あなたがたが小さなことを行うことを抑制している。この欲望を破壊しなさい。大きなことを忘れなさい。小さな習慣を崩すことを目標としなさい。
望むならすることができる。意志がなければ、決してすることができない。意志は世界で最も強力なものだ。神よりも高みにいる。もちろん、私は意識的な意志について言っているのだ。そして、意識的な意志によってすべてが生じる。」
私たちの一人が尋ねた。
「他人の表現行為を我慢することは良いことでしょうか?」
G「他人の気に入らない表現行為を我慢することは、大きなことだ。それは人間にとって一番最後のことだ。自己を完成させた人間だけが、これを行うことができる。今の自分が辛抱できない人間の表現行為を我慢する能力を獲得することを、目標としなさい。自己を自発的な目標に向け、そしてそれを達成することを自己に強要することは、行為のための力と能力を創造する。」
他の者が言った。「私は、自分の最大の欠点は喋りすぎることだと思っています。それを直そうとすることは良いことでしょうか?」
G「あなたにとって、それは非常に良い目標だ。あなたは喋ることですべてを台無しにしている。それはあなたの仕事を妨げさえしている。喋りすぎると、言葉は重みを失う。あまり喋らないようにする訓練を心掛けなさい。これがうまくゆけば、たくさんの祝福があなたにもたらされる。それは小さなことではなく、大きなことだ。もしそれに成功したら、私はあなたに次に為すべきことを教えよう。」
また他の者にはこう言った。
G「あなたに適した仕事は、質問しようと努力することだ。あなたは知りたいと望んでいるが、喋らない。あなたにとって、この努力は非常に良いものになるだろう。」
自己観察に関する別の質問に対する答えでは、彼はこう言った。
G「観察には多くのことが必要だ。
まず第一に自己への誠実さだ。これは非常に難しい。友人への誠実さの方がよっぽど簡単だ。自己を見つめることは難しい。なぜなら、私たちは、何か悪いものが見えるのではないかと恐れるからだ。そして偶然にも深く俯(うつむ)くなら、私たちは自分たちが本来無価値であることに気づく。私たちは、良心の呵責を忍ぶことを恐れるので、自己を理解しようとはしない。私たちの中には薄汚い犬が何匹もいるが、私たちはそれを見たいとは思わない。誠実さは他界を覗くことのできる扉を開く鍵なのかもしれない。誠実であることは、分厚い殼が本質を被っているゆえに難しい。1年ごとに人間は、古いものの上に新しい服を着、新しいマスクを被ってゆく。これはすべて徐々に剥がされてゆかねばならない。玉ねぎの皮を剥いでゆくようなものだ。これらのマスクが剥がされるまで、私たちは自己を見ることができない。
有効な訓練は、人の立場に立って考えるようにすることだ。例えば私が、Aが辛い立場にあることを知っているとする。彼は落胆し陰気になる。彼の半分は、私の意見を聞こうとしているが、もう半分は自分の問題で一杯だ。私が彼を笑わせようと思って何かを言っても、逆に彼は怒ってしまう。しかし、私は彼のことを知っているので、彼の立場に立って考えようとし、どう応じるべきか自問してみるだろう。
しばしばこういうことを充分に行うならば、私は、もし誰か気難しい人間がいても、〈私とは個人的に関係のないことがその原因なのかもしれない〉と考えるようになるだろう。
私たちは、しばしば私たちに対して不機嫌に振る舞うのは、その人間自身ではなく、その人間の状態なのだということを覚えるようにしなければならない。私が変わるにつれ、他の人もそうなる。
もしあなたがたがこうしたことを行い、自己を想起し、自己を観察することができるなら、あなたがたは、他人の中だけでなく自分の中にも、実に多くのことを、あなたがたが決して考えもしなかったことを、目にするだろう。」

29
私が東洋で目にした様々な芸術作品の中でも、タージ・マハル宮殿とスフィンクスは、私に強烈な印象を与えた。一方は350年以上の歴史を持ち、もう一方は5000年以上の歴史を持っている。そして、グルジェフによれば、スフィンクスはさらに8000年前のバビロニアにあったものを模したものだという。2つとも秘教的な伝承を持ち、その秘められた永遠の流れが人間の生命に息吹を与え、人間が恒久的に野蛮な状態に陥ることを免れさせているのだ。
客観芸術作品は秘教的な学派の産物だ。パリのノートル・ダム寺院やシャルトル大聖堂はキリスト教の秘教学派が造ったものであり、タージ・マハル宮殿はスーフィーの秘教学派が造ったものだ。アーサー・ブライアント卿(1899-1985 イギリスの歴史家・伝記作家。)は、商人や農民だけでなく、公爵や伯爵そして国王さえも、聖堂の建築を手伝うことを許可されて、石を運んだりモルタルを混ぜ合わせたりすることを名誉なことと考えていた、と記している。イギリスも同じだ。イーリー(イングランド南東部の町。11世紀に建てられた大聖堂で有名)やセント・オールバンズ(イングランド南東部の町)、ヨークの聖堂もまた、客観芸術作品だ。すべての偉大な客観芸術作品は秘教学派から派生していると述べても過言ではない。中国にも例がある。天壇(北京にある、明・清代の皇帝が作った、天を祀る円形の丘壇およびそれを中心とする建造物)には3つの円形の段、もしくは台がある。地面に接した台が一番大きく、中段は小さく、一番上の段はさらに小さい。そしてこの上で皇帝が1人で礼拝したのだ。
中国の北部には巨大な寺院があり、冬のある晴れた日に私はそこを訪れたことがある。そこへ至る道は長い塀に囲まれていた。その塀が始まる広路からは、はるかに寺院の屋根や門を望むことができた。屋根の瓦には黄色いものもあれば、緑や青、紫のものもあった。私が歩き出すと、鮮やかな瓦を載せた屋根が次々に現れ、様々な模様を描き、渾然(こんぜん)となっていった。自在に変貌する景観は私に強烈な印象を与えた。まるで私ではなく、景観の方が動いているようだった。景観が、光や色の印象、感情的・精神的自由感、全体的な調和性、私が探し求めていた完成の感覚を、運んでいたのだ。
プリオーレでは、こうした寺院(中国、イスラーム、キリスト教)の記憶が呼び覚まされた。それらは古い民話や神話、あるいはグルジェフの音楽や舞踏と結ばれて一体となった。それらは私に同じ言語で話し掛け、そしてその言葉は感情を伴って伝わってきた。かつての人間は、生活や仕事のためだけでなく、神の栄光のために建造物を建築した。第一次世界大戦で破壊されてしまったが、イープル(ベルギー北西部の都市・第一次大戦の激戦地)の驚異的なクロス・ホールはその一例だ。19世紀になると、建造物は仕事のため、お金のためだけに、自尊心と虚栄心を満足させるためだけに建てられるようになり、建築術は衰退した。建築術は、他のものと同じように、微妙なものだ。それは、近代の商業建築が限界に至るまで、収縮と膨張を繰り返す。

30
ある日、〈アンリ・ド〉で、彼
は人間の堕落について話していた。そして、自然の立場からすれば、ある種の動物の方が人間よりもはるかにましだと語った。
「まだ鼠の方が、」と彼は私の方を向いて言った。「人間よりもましだ。」
私は、なぜ彼がそんなに鼠にこだわるのか、いぶかりはじめた。そのとき私は、数日前のことを思い出した。私が牛小屋にいると、鼠が一匹梁を伝って走ってきた。私はそれを見て跳び上がり、身をブルブルと奮わせた。このことがグルジェフに報告された。戦争に行く前は、私は鼠など怖くも何ともなかったが、塹壕での鼠との体験によって、鼠は、前線での塹壕戦の、あるゆる腐敗、残虐、恐怖、苦痛、苦悩と結びつくようになった。私は、毒蛇だらけの東洋の寺院の中に平気で入ることができたが、鼠を見ると、戦慄と嘔吐を感ぜずにはいられなかった。しかし今では、自己をしっかりと想起するだけでこの激しい嫌悪感を克服することができる。ちなみに、知恵と学問の神様である象の頭をしたガネーシャ神は、生物の中で最も賢く最も狡猾な、鼠によって象徴される。

31
人格と本質について話を戻すと、グルジェフは「意識的な人間だけが両者を区別することができる。」と言った。
G「私たちが演じている通常の役割はすべて人格だ。しかしもし偶然、自分が異常な状態にあるように思えるならば、それは本質に従って行動しているからかもしれない。例えば、酒を飲みすぎたり若い女性に夢中になっている大人の中には、幼い子供のように振る舞う者がいる。そういう人間は本質的に子供なのだ。一方、危険な目に遭ったときは、そういう人間は、知的にかつ理性的に振る舞うかもしれないし、あるいは脅かされた子供のように振る舞うかもしれない。悲嘆にくれたときは、厳しいビジネスマンや政治家でも人間らしくもろくなることがある。私たちに課せられているのは、〈偽りであり、自分本来のものではないこういう人格に無感覚になる〉ことだ。それには、巨大な苦しみの炎の中に人格を放り込んで、それを溶かし出すことが必要かもしれない。
しかし、このことが正しくなされれば、そこに個性が芽生えるだろう。そして、人間は個性的になり、真の意志と『自我』を手にするだろう。自分自身になることができるだろう。
彼は、「私たちの虚言、強欲、嫉妬、憎悪の大部分は、しばしばそれに対応するエネルギーの蓄積によって生じる。」と言った。使用されないエネルギーは欲求不満を引き起こし、それは消極的な感情表現に向かう。
人間は生まれつき真の個性を持っている。それは自分本来のものなのだが、偽りの人格と引き換えに売り渡されてしまったのだ。
エネルギーと注意力が物事のある1つの側面に膠着(こうちゃく)すると、同一化が生じる。それは催眠術のような一極的な作用で、有益で必要な、集中力や注意力とは区別されなければならない。
学院では、私たちの短所が観察され、記録され、そして私たちにはそれを理解する機会が与えられた。だから、言われたりなされたりしたことを見落とさないように気をつけていなければならなかった。ふとした意見や行動がその人間に多くのことを明らかにした。その教えは断片的に、しばしば思いも掛けないやり方で与えられ、私たちは自分自身の観察や経験に基づいて部品を組み合わせ、断片をつなぎ合わせることを学ばなければならなかった。
グルジェフは、罪、祈り、断食、懺悔(ざんげ)、悔悛(かいしゅん)、嘆願(たんがん)、服従、贖罪(しょくざい)、死、転生、生といった、よく使われているある種の表現について別の考え方を持つ必要性を説いた。これらの用語の通常受け入れられている定義の下には、もう1つの意味が、真の意味が潜んでいて、それは人間の心理状態の変化と結びついている。例えば断食は通常の食事を慎むことだが、それは教師の指導の下に実行されれば非常に有益なものとなりうる。伝統的な宗教においてはそれは単なる習慣になってしまったが、適切に実行されれば、それはシステムを浄化し肉体の新陳代謝を促す。そして、それとはまた別の種類の断食がある。それは全く食事とは関係がない。無用で意図しない表現行為を慎み、消極的な感情に一定のはけ口を与えることである。
透視力やテレパシーといったいわゆる超能力に関する質問には、彼は、〈これらは筋肉の収縮、もしくは感情センターの分子変動による運動・本能センターによって生じるのだ〉と答えた。あるセンターでの動きは、他のセンターに、そしてその生命体のすべての部分にすぐに波動で伝えられる。
かつて、堕落する以前、人間は互いに意志を伝え合うことができ、遥か遠くの場所で何か起こっているかということまで見通すことができた。今ではこの能力は、ラップランド人やアメリカ先住民族、あるいはオーストラリアのアボリジニーといった、野蛮とされる人々しか持っていない。また、たまたまこういった能力を持った人間がいても、それは奇妙なこととされてしまう。
私はこれと似た体験をしたことがあったので、こういうことに非常に興味があった。戦争のとき、私ともう1人の将校が、それぞれの中隊をソールズベリー平野での作業に連れてゆくよう命じられたことがあった。私たちは10マイルもトラックに乗せられ、それから木一本も無い不毛の原野を、4マイルにわたって行進する羽目になった。昼の間に戻れると思っていたので、私たちはろくに位置も確認しなかった。しかし、外はどんどん暗くなってゆく。私は隊の先頭を歩いていた。15分後には、真っ暗闇の、冷え渡る陰鬱とした2月の夜になった。そして私は道を見失ったことに気がついた。しかし、その瞬間に失われた感覚が作動しはじめた。私には、私が道を知っていて、真っ直ぐに進んでいることがわかった。隊の少尉の1人が、自分たちは荒野で道に迷っている、と言いはじめたので、私は彼に静かにするように命じた。1時間以上も私たちは言葉もなくうねる野を歩き続け、とうとう10ヤード先も見えないほどに暗くなってしまった。私は考えるのではなく、内的に冷静になり、生来の方向感覚、つまり「本能」を働かせようと試みた。すると私は、私たちがトラックに近づいていることを感じ取った。5分後、私たちは突然トラックの一群に出くわした。30分後にはキャンプで温かいスープを飲んでいた。私たちとは別のもう一方の中隊は、荒野を彷徨(さまよ)っているところを、明くる日の夜明けに発見された。彼らは冷え切って疲れきり、やつれて果てていた。
同じ年の数ヶ月後、私はソンムにいた。私はその夜、部隊を連れて前線から半マイルほど先にある森の中を偵察するように命じられた。部下を森の中に置くと、私は軍曹と一緒に周囲を見に、いやむしろ「感じ」に出掛けた。突然私は立ち止まった。私は進むことができなかった。何かが「危険だ!」と言った。私が制止しても構わず進んでゆくので、軍曹は明らかに何も感じていない様子だった。他の斥候とも試みたが、私が進もうとする度に、それに抗う感情が強くなり、まるで私は金縛りにあったかのように動けなくなった。しばらくして私は部隊を引き揚げさせ、前線に戻り、森は敵に占領されていると思われると報告した。翌日の晩、他の中隊の兵士が同じ場所へ出掛け、敵が潜んでいる中をまっしぐらに進んだ。将校を含む数名が殺され、残りは命からがらで逃げ帰ってきた。私は一度ならず自分と部下の命を、「第六感」の内的な声に耳を傾けることによって救ったのだ。ニュージーランドやオーストラリアの沃野でも、私はしばしば未知の感覚に身をまかせることによって困難な状況を脱し、自分が乗っている馬にまかせて切り抜けたことも何度かあった。
私には、遠くにある物事を感じ取ったり、未来を予知した経験がたくさんある。私の知り合いにもそういう人がいる。
不幸にも、私たちは教育や躾によって損なわれてしまったので、こうした第六感の体験が非常に安っぽくなってしまい、私たちはそれによって利益を得ることができないでいる。その上、想像力によってなされたものと、本当に感覚され感じ取られたものとを区別することが、難しくなってしまった。いずれにしろ、真の体験は精神とはわずかしか、あるいは全く関係を持っていない。それは運動・本能センターと感情センターから生じるのだ。
グルジェフが「
私たちは何か新しいものを建設することを目的としているのではない。失われたものを取り戻すことを目的としているのだ」と述べたとき、それはある意味では第六感の喪失に当てはまる。あらゆる超常現象の研究において、私が見知った限りでは、いわゆる「近代技術」は1つも役に立っていない。唯一の真に有効な手法は、グルジェフによって近代的な外観を施された、古代の手法である。しかし、このことは彼の教えの数多くある側面のうちの1つに過ぎない。
彼に出会う以前は、私はこれらの経験を偶然のものと見なしていた。非常に多くの「素朴な」人々がこの特別な感覚を所有している。例えば、漁師や農夫だ。役人や「知識人」「名人」といった人間には、たいていこの感覚がない。おそらくこのことが、彼らがほぼいつも過ちを犯す原因なのだろう。人間は、物質変成のための機械であるだけでなく、波動を受けそれを伝達する道具でもある。そしてまた、人間が自分自身の利益のために装置を利用することも可能なのだ。

32

ワークを行う最大の目標の一つは、いつでも死ねるようになることだ。

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グルジェフが「
私たちの苦しみの多くは無用であり、それは自分自身から、あるいは他人を害したり他人が自分を害すことによって生じたものなのだ。」と述べたとき、こんな箴言が思い出された。
「幸福へ至る最良の方法の一つは、内面的にではなく、常に外面的に考慮できるようになることだ。」
こんなものもあった。
「他人があなたについて言っていることではなく、あなたについて考えていることだけを考慮しなさい。」
グルジェフは常に人々に刺激を与えて、彼らに批判的な能力を使わせようとしていた。ある若い弟子にグルジェフはこう言っていた。
「私が言っていることを、決してすべて信じてはならない。文字通りに受け取られなければならないことと、比喩的に受け取られねばならないこととを区別できるようになりなさい。」
他の弟子に対しては、彼はこう言った。
私が教えたことを全部信じてはならない。常に疑いなさい。信じなければならないことがわかっていても、疑いなさい。
こういう箴言があった。
「生まれつき批判的な精神を持っていなければ、ここにいても無意味だ。」

34
〈自尊心〉もしくは〈ミスター自己愛〉は能動的なものだが、〈マダム虚栄心〉は私たちの中の受動的・女性的部分に属している。しかし、虚栄心は定義することが難しい。オレイジは、「それは、我慢するよりもむしろ、そのもののために生贄を捧げようとしてしまう何かだ。」と言った。おそらく、虚栄心を定義するには、例を挙げて説明するより他に方法はないだろう。私たちは、他人の中には虚栄心の発露を認めることができるが、自分自身の中に(事後ではなくその場において)それを認めることは、ほぼ不可能だ。集団的な精神病の場合は、この2つの敵、虚栄心と自己愛が強化される。戦争の時、私が所属していた大隊の司令官は、虚栄心ゆえに、自分の誤りを認めようとせず、20人の部下の生命を犠牲にしたのだ。言い換えれば、虚栄心は、時間とエネルギーと金を、本質的に無価値で無用なものに対して消費することだ。それは、この世界の事象から永遠の恩恵を期待することだ。
「虚栄心、虚栄心、すべては虚栄心だ、と牧師は言った」と、ジョセフ・コンラッドは記した。
「虚栄心は私たちの記憶を使って、恐ろしい策略を仕掛けている」(ロシュフーコー)
「私たちは、理性よりも虚栄心によって、自分の性向に反することをたくさん行う」(トルストイ)
「虚栄心のない人生は、ほぼ不可能だ」(シェイクスピア)
「虚栄心は、周囲から嫌われている人間に好きなようにさせる」
サマセット・モームはこう書いている。「虚栄心は人間を悩ます情熱の中で、最も破壊的で、最も普遍的で、最も根深いものだ。そして、人間の支配を拒むのは虚栄心だけだ。それは愛よりも人を消耗させる。幸運なことに、時が経つにつれて人は、愛の恐怖や苦悶を侮蔑することができるようになるが、虚栄心の呪縛からはいつまでも逃れることはできない。時は愛の苦悩を和らげることができるが、傷ついた虚栄心を癒すことができるのは死だけだ。愛は単純でごまかしようがないが、虚栄心は幾重にも人を欺く。それはすべての美徳の中で最も重要なものだ。それは勇気の源泉であり、野心の礎だ。それは恋人には貞節を、禁欲主義者には忍耐を与える。それは芸術家の名声欲をあおり、同時に、誠実な人間の高潔さを補う。それは聖者の謙遜を嘲笑(あざわら)いさえする。これから逃れることはできない。これから身を守ろうとしても、虚栄心はその努力を逆手に取ってあなたを躓(つまず)かせるだろう。あなたは、虚栄心がどこから攻めてくるかわからず、その攻撃に対して無防備だ。冷笑しても虚栄心の罠から逃れることはできないし、それを無視することもできない。人間に忌まわしい運命を辿らせるのは、結局虚栄心なのだ。」
私たちはいつも虚栄心と自尊心について論じているが、しかし、自分の中にその例を認めるまでは、それらは単なる言葉に留まっている。私たちは、悩みたくないので、それらを見ようとは思わない。私たちは、幾重にも障害があるので、それらを見ることができない。しかし、もし心の底から成長しようと望むなら、私たちはそれらを、徐々にではあれ、認めてゆかなければならない。
グルジェフはかつて私に「誰が一番虚栄心を持っているか知っているかね?」と訊いたことがあった。私は「俳優、映画スター、それに官僚でしょうか?」と答えた。彼はこう言った。「違うよ。天使と悪魔だ。」

35
グルジェフはシンボルとその使い方、中でもエニアグラムについて何回か話をした。エニアグラムというのは、〈三の法則〉〈七の法則〉〈九重の法則〉の働きを含んだ図形で、この謎を解く鍵は「ベルゼバブの孫への話」の中に見つけることができる。たくさんのテーマがシンボリズムと結びつけて考察された。簡単に言うと、それは、次のような考え方があったからだ。どんな人間もみな自分の中に、程度の差はあれ、知識欲を持っている。しかし、探究者の心は、「なぜ?」という問いを発する時(たいていは「なぜ」ではなく「どうやって」という質問になるが)、しばしば壁にぶち当たる。人間は物事の表面下に、存在しているものすべての普遍性が潜んでいるということを理解していない。人間は常に宗教と哲学の中にこの普遍性を求め、そしてそれを言葉(それは死んでしまっていて中身がない)で定義付けようとしてきた。言葉や思考は時と場所に応じて変化するが、統一性、普遍性は永遠であり、変わることがない。言葉の不十分さを本当に理解しているある種の人たちは、時代とともに、真の知識を伝授するためのシンボルを形成してきた。シンボルを学びそれを理解した者は、自分自身の中にそのシンボルが存在していることを認識する。
「世界にあるものはすべて一つであり、普遍的な法則によって支配されている」
ヘルメス・トリスメギストスの〈緑玉板・エメラルドタブレット〉にあるように、「上の如く、下もかくあり」。
宇宙の法則は、原子の中にも見いだすことができる。しかし、人間が学びえる最も身近な対象は自分自身だ。この点で、ソクラテスによって用いられた有名な「汝自身を知れ」という警句(本当はエジプト起源だが)は、示唆に富んでいる。宇宙の法則を学ぶことによって、人間は自分自身のうちに、その法則の働きを認めることができる。そしてまた、自分の否定的・消極的な部分と真剣に格闘すれば、人間は宇宙全体で続けられている闘い、「聖戦」に加わることになるだろう。そして、その時人間は、太古の昔に由来する〈ソロモンの封印〉として知られる、巨大なシンボルを自分自身の中に形成するだろう。結局〈ソロモンの封印〉とは、自己を見つめている人間のことなのだ。

36
ある日、ド・ハルトマン夫人が私たちに、「グルジェフは治療のために遠くに行くことになった、もしあなたたちの中に彼と話したい者がいるなら、今日の午後にそうできるようにしよう」と言った。その時残っていたのは8人の若い弟子で、みんなアメリカから来た人間だった。私は動揺して何を聞けばよいのかわからなかったが、しかし機会を失いたくはなかった。私たちは明るい秋の陽射しを浴びて草むらの上に座り、待った。ようやく彼が現れて、自分の椅子へゆっくりと歩いてきた。みんな次々に立ち上がって彼のところへ行った。私は心が真っ白だったので、できるだけ自分の順番を引き延ばしていたが、立ち上がると自然に質問が浮かんできて、私は彼の足元に座ってこう言った。
「グルジェフさん、私はプリオーレに留まりたかったのですが、アメリカで書店を始める手筈を整えてあるのです。また、私は結婚をしたいのですが、今現在、意中の人は誰もいません。そして私は、他の人間を救いたいのです」。
「どれもすべて有益となりうる。」と彼は言った。「生活のためにはお金がなければならない。行ってあなたのビジネスを始めなさい。そうすれば、おそらく将来私たちは一緒にビジネスをすることになるだろう。
結婚については、まず第一にあなたは女性と妻の区別をつけなければならない。妻は永遠だが、女性は一時的なものだ。もしあなたが今結婚しても、おそらくそれは続かないだろう。もっと後にした方がいい。また、あなたは他人を救う前に、他人にとって真に有益な人間になりなさい。あなたは自分を知り、自分を救うことができるようにならなければならない。今のあなたはエゴイストであり、心が常に自分自身に向けられている。あなたは良い目的のために、エゴイストになる方法を学ばなければならない。そうすれば、あなたは真の利他主義者となり、他人を救うことができるようになるだろう。
これで全てだった。しかし、その言葉の裏に潜んでいたエネルギーは、さわやかな風のように私の感傷的な曇った心、つまり、何年にもわたって蓄積された、セックスと「善行」に関する「泥にまみれた思考によって誇張された、貧弱な情動」を払い清めてくれた。彼が休憩のために中に入ると、私は彼の言葉に思いを巡らしながら森の中をさまよった。グルジェフは翌日出発し、私は翌年の夏まで彼と会うことはなかった。11月になると冷え込んできた。スタディ・ハウスは閉じられ、私たちはイギリス式食堂を掃除して、そこでムーヴメンツを練習し、新しいオブリガトリーをも習うようになった。
私は事業の準備を整えるために、その月の終わりにロンドンに戻った。私の古い友人で、当時「ウィークリー・ウェストミンスター」の文芸編集者だったウォルター・フラーが、何人かの人間を招いて、プリオーレでの生活について私に話をさせた。しかし、それは期待外れに終わった。なぜなら、私はそこでの生活やシステムやグルジェフの教えの手法について、彼らにわかりやすく説明することが全くできなかったからだ。彼らは、私たちが共同で働くことになった目標(社会主義、社会改革、教育)に対する興味を、私が失っていることを感じ取った。
「それに君の体験が、君を幸せにしたようにはちっとも見えないね。」と、彼らはさらに付け加えた。
彼らは大義のために働き、なされねばならないことをみんなに訴え続けた。しかし、私には、人間の生活がその時から、内的な面でも外面的な面でも、改善したとはとても思えない。
善良な生活に対する大きな障壁は、人種や信仰を問わず、1つにはいわゆる「知識人」の、もう1つには官僚主義者の、傲慢な態度である。彼らは自分たちが知っていると確信し、路上にいる他人を追いやろうとしている。そして彼らは常に間違っている。ある意味で私たちはすべてこれに似ており、私たちは、自己を見つめ自己の真実と向かい合うことができるようにならなければならないのだ。スーフィーの言葉には次のようなものがある。
「人間はどんなにたくさん知識を持とうと、自己を吟味したり『本当は自分は何も理解していない』と自己に告白することがなければ、それまでに得たものはすべて『手の中の風』のようなものだ。」
種が私の中に播かれ、芽が出はじめた。しかし、庭師なら誰もが知っているように、萌芽と発芽の間には、発芽と生育の間には、しばしば長い期間があり、木が花を咲かせ実を付けるまでにはさらに長い時間が掛かるのだ。新しい発展した人間になるには、なおさら長いプロセスを必要とするのだ。

37
オレイジと私達(アメリカの生徒)の中の何人かの間には、非常に緊密な感情的・精神的関係が築かれ、そして彼(オレイジ)は、影のない(私たちの英雄はすべて明るくなければいけない)「すべての光」であるように見えた。最初は、オレイジに対して客観的になることは不可能だった。私たちは誰に対しても、とりわけ自分自身に対して、客観的になることができなかったからだ。彼がよく言ったように
「他人に対して客観的になる前に、あなたたちは自分自身に対して客観的にならなければならない」
これはグルジェフの教えの目標の1つだ。もちろんグループの弟子たちの間には摩擦を引き起こす様々な相違や争いがあったが、これは逆に私たちの結びつきを深め、私たちを一種の友愛団へと結束させることになった。しかし人は容易に感情的に人間と結びつき、すぐに何でも与えたがる。
そして他人が「正しい」とは思えないことをすると、強力に反発し、次々と苦悩を産み出す。そして悪の源泉となる。「男に対するものであれ、女に対するものであれ、あるいは主義主張に対するものであれ、感情的な愛はその反対の物を呼び起こす」とオレイジは言った。

38
私が最初に「否定的感情」を意識したのは、この1925年のことだ。ある日、ニューヨークのグループの一人が、彼(オレイジ)への私の態度に絡んで、私に「君は否定的な感情を山ほど持っている。」と言ったので、私は憤慨してそのことをオレイジに話した。
彼はこう言った。「私がグルジェフに対して感謝しなければならないことの1つは(ウスペンスキーに対してはその思想を見極めたことを感謝している)、否定的、あるいは低次の感情に関する彼の教えだ。君はすぐに否定的感情に負けてしまう。君は怒りっぽく、簡単に傷つき、恨みを抱き、わずかな批判すら我慢できない。おそらく他のみんなも同じだろう。否定的感惰は無意識のものであり、それゆえに悪なのだ。」
これはショックだった。私はそれまで一度たりとも自分の苦しみのことを「否定的感情」によるものだと考えたことがなく、それを「魂に対する圧迫」の結果として、戦争の結果として、塹壕での生活によってもたらされた不健全な生活の産物として考えていた。これがすべて「否定的感情」という表現によってくくられうるという考えは、驚きだった。しかし、プリオーレに滞在していた間に経験した予備的なワークのおかげで、その時の私は、自分は否定的であるという事実と向き合えるようになっていた。しかし、心で知ることと理解することとは全く別物だ。
オレイジは言った。「もし私たちが自分の苦しみを他人に転嫁してしまうと、それは『悪』になる。この『悪』は、ソレ教授が『3つのしきたり』の中で言うところでは、『創造性のない苦しみ』だ。聖者は苦しみが大好物で、それを食べ尽くし、それを変成させ、そしてそれを存在の創造のために用いる。私たちが自己憐憫や恨み、あるいは他人への理不尽な憎しみにふけると、私たちは苦悩の通り道となり、それを伝達させることになる。憐れみは神聖なものだが、自己憐憫は悪魔的なものだ。私たちは、自己憐憫という感傷的な考えが、自分をしばしば混乱させているという事実を認めたがらない。自己憐憫は感情の病気だ。それは自分自身を憐れむことであり、自分の不幸な状況を、両親や環境や他人のせいにすることだ。自己憐憫は否定的感情の顕現の一種であり、否定的感情によって私たちは周囲から嫌われるのであり、そこには、傲慢さや自惚れが、虫けら並みの感情である卑屈な謙遜の陰にしばしば潜んでいるのだ。」
「でも、役に立つ苦しみもあるのでは?」と私が尋ねた。
オレイジ「そう、ありうる。君はそこで『どんな苦しみが役に立つのか?』と聞きたいのだろう。グルジェフによれば、もし私たちが怒りや不平を持たずに苦しみを受け止めるならば、私たちは古い借金を返済することもできるし、将来のために貯蓄しておくこともできる。」
「否定的感情」という表現は便利なものだ。というのもそれによって、人間の行動を刺激する感情の多くが定義されるからだ。ほぼすべての新聞記事や「ニュース」は、否定的感情と関係を持たざるを得ない。ちなみに、私はプリオーレでこの否定的感情という言い回しを耳にしたことはないし、グルジェフがそれを使ったことを聞いたこともない。
こうした否定的感情はたくさんあるので、英語は、様々な否定的感情を表現するのに、実に多くの言葉や言い回しを用いなければならない。例えば頭文字が「D」で始まるものを挙げてみよう。落胆、失意、憂鬱、絶望、陰鬱、滅亡、消沈、狼狽、憮然、幻滅、退屈、不安、哀愁、わびしさ、荒廃、嫌悪、不平、不満、失望といった具合で、何ページでも続けることができる。他にも、怒りっぽい、短気、不機嫌、中傷、恨みといったものや、怠惰という表現を伴う類もある。また、憎しみ、妬み、嫉妬、怒りといった基本的なものがあり、これらは否定的な側面だけでなく肯定的な側面も持っている。「妬まれることは、真似られることだ。」とグルジェフは言う。「憎むべきものを憎むことを、決して恐れるな。」とオレイジは言う。ベルゼバブは、否定的感情を産み出す否定的なエネルギーしか知らない、地球のある存在について語っている。また、感傷的な感情にも様々な形態がある。イギリス人の動物に対する態度においては、感傷性は博愛主義という仮面を被っている。反省、無駄な自己非難、ある種の「愛」は否定的なものだ。たいてい、通常の生活や社会やビジネスは、煮えたぎる否定的感情を覆い隠した巧妙な仮面だ。
憂鬱は、否定的感情に共通した形態だ。それは周期的に、まさに年に数回定期的に訪れることすらある一種の病気だ。この病から逃れるために、薬や酒に溺れる者もいる。原因は様々だ。食物、気候、性生活の不満、あるいは性への耽溺、貧困、運勢。中には先天的なものもある。
ガーデニングなどの手仕事は、最良の治療法だ。また、皿洗い、物置の掃除といった多種多様な肉体労働もそうだ。一番確実な療法は、これらを自己を想起しながら行い、そして普段よりもゆっくりと、あるいは速く作業することだ。グルジェフの父親が言ったように、「一旦荷を背負えば、それは世の中で一番軽いものになる。」
「否定的」とはどういうことか? それは肯定的な属性を欠いたもののことだ。それはマイナスであり、あるものの否定であり、否定をしているもののことだ。妨害者、悪魔、敵対者だ。否定的になることは、能動的になるべきときに受動的になることだ。否定性は、私たちの中の〈聖性〉が汚れてしまったということだ。しかしごみや汚物は、積み重ねられると花を咲かし、実をみのらせる肥えた土に変わることができる。私たちの場合もこれと同じだ。
このシステムを理解したパウロは時代に合わせて解釈し、こう述べている。「見よ、私はあなたがたに神秘を告げる。私たちはみな眠りにつくわけではない。私たちはみな、今とは異なる状態に変えられる。最後の喇叭(ラッパ)が鳴るとともに、たちまち一瞬のうちにだ。喇叭が鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされる。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる。だから次のように書かれている言葉が実現されるのだ。『死は勝利にのみ込まれた』」【コリントの信徒への手紙-第15章51節】。これは架空の未来の状態ではなく、現実に起こりえる心理学的なプロセスである。
プリオーレでは否定的感情の表現がたくさんあった。グルジェフは、憤慨した状態に至った若い弟子たちを滅多に非難することがなかった。しかし彼が二言三言しゃべると、彼らは目が覚めたかのように突然その表現を収めた。時には、グルジェフ自身が否定的感情を示すことがあった。なぜなら、自分が否定的感情を持っているということに気づくまで、人はその否定的感情に対して何も対処できないからだ。
抑圧されると、否定的感情は不機嫌になり、毒を放つ。譲歩されると、暴虐になる。だから人生は変わらないのだ。手法(メソッド)という錬金術だけが否定的感情を変成させることができる。否定的感情は、私たちがワークをするために利用できる生の素材だ。〈手法〉に応じてコントロールされたエネルギーは有益だが、コントロールされないものは有害だ。
否定的感情の表現の抑制は、自己想起の努力によってのみ、有益なものとなりうる。自己想起の状態にあるときにのみ、否定的感情は肯定的感情に変成しうるのである。
否定的なエネルギーについてグルジェフはときどき、「ダッベル」という言葉を用いた。「あなたは天使になりたがっている。」と彼は言った。「しかし、ダッベルもまた重要だ。天使は一つのことしかできないが、ダッベルは何でもできる。」

「あらゆる誤解の原因は、女性の中にのみ求められる」。これは、文字通りの意味ではなく、象徴的な意味合いだ。〈能動的〉ではなく〈受動的〉である男性が、奇怪で「粗野」であるということは、よく考えてみれば理解できる。本来あるべき〈受動的〉ではなく〈能動的〉である女性もまた、奇怪で粗野だ。女性運動家、ズボンをはいた大柄な女性、インテリの女性といった、社会で活躍している女性がそうだ。彼女たちは一種のマイナス質だ。ゲーテの「ファウスト」の中で悪魔はこう言っている。「私は常に否定するものだ」。また、こうも言っている。「永遠の女性的なるものが私たちを引き寄せる」と。
感情は、上昇させることもあれば下降させることもある。「愛は反対のものを呼び覚ます」。無遠慮な喜び、自信過剰、驕慢、仲間意識、同情といったものは(これらは通常肯定的なものと見なされている)、容易にその正反対のものに変わりうる。
というのも、私たちは普通、本来持っているべき恒常的な感情や固定的な感情を持っておらず、私たちの通常の意識の覚醒状態においてはそれが不可能だからだ。
愛が憎しみや嫉妬に変わり、そのことによって自分が愛するものを失うという例は、私たちの周囲の至る所に見られる。
恒常的な否定的感情は、私たちの周囲の至る所に、そして私たちの中の至る所に見いだせるかもしれない。癇癪、短気、虚栄心、エゴイズム、わがまま、うぬぼれ、自慢、といった感惰表現がそうだ。これらは、私たちが目覚め、「急峻な坂の上」でそれらと闘いはじめ、そしてそれらが徐々に変成しようとするまで、留まり続ける。

グルジェフは常にあらゆる方法で、〈「ダッベルもまた重要だ」ということと、私たちは受動的なままであってはならず、自分を否定的な部分や否定的な感情の奴隷にさせてはならないということ〉を私たちに思い出させた。彼は、「女性によって象徴されるような受動的部分の奴隷になってはならない」と言った。男は、妻や女主人によって支配されるべきではないのだ。
ヴァロ(古代ローマの学者)は、ソクラテスがこう語ったと述べている。
「妻の短所は、直されるべきか、我慢されるべきかの、どちらかだ。妻を助けて短所を直させれば妻が成長し、短所を我慢すれば夫が成長する。」
ありふれた人生を象徴するアルキビアデスが、ソクラテスに、「なぜクサンティッペのような口うるさい女房に我慢しているのか?」と尋ねると、彼はこう答えた。
「私は家の中で彼女を我慢することで、外に出掛けたときに人々から受ける、邪な意志や中傷に耐える訓練をしているのだ。」
グルジェフの訓練は、男性の弟子の場合は能動的な部分を、女性の弟子の場合は受動的な部分を、それぞれ引き出して成長させるということから構成されていた。それは男性の中にある男性らしさを、女性の中にある女性らしさをそれぞれ引き出した。男性は自分自身に対して、自分の惰性や弱点に対して、能動的になり、他の男女との関係において能動的であることを学ばなければならなかった。そして、男性の真の能動的部分が成長するにつれ、受動的・創造的部分も成長した。そしてもちろん2つは、調和していた。
虚栄心のような態度を特別な方法で意識的に利用し、それから利益を得ることは可能だ。しかし、どんなことであれ、ワークに反するものは否定的なものである。否定性は機械的なものであり、無意識的なものであり、それゆえ悪なのだ。
アルフレッド・アドラー(オーストリア出身の精神科医、心理学者)の信奉者であるロンドンのある有名な作家が、かつて私にこう言ったことがある。
「グルシェフの教えが弟子たちに及ぼした影響の中で著しいことの1つは、男が、少なくとも私の知っている男が、より男らしくなり、女が、より女らしくなったことだ。」

39
1925年の春、私は本を買い付けるためにイギリスに戻った。そしてそこからパリ、ウィーン、ベルリンへも足を伸ばし、古書を買い集めた。自分のビジネスの用件を済ませてから、私は休暇でアンティーブ(フランス南東部の保養地)に行き、そこからフォンテーヌブローに向かった。グルジェフは私を歓迎してくれた。
G「ああ、ミスターアメリカ、あなたはまずトルコ風呂に入り、アメリカの臭いを取り除かなければいけない。それから話をしよう。」
「でも、私はアメリカ人ではありません、イギリス人です。」
G「あなたはミスターアメリカだ。アメリカ人の臭いもイギリス人の臭いも同じようなものだ。」
こうしてその後の2年間、彼は私のことを〈ミスターアメリカ〉と呼び続けた。彼は、私が無意識のうちにアメリカ人的な人格を採用しているということ、そして、私が、イギリス人のように自分の感情を封印しつつ、アメリカ人のようにどんな場合でも大袈裟に表現しようとしているということを、私にわからせようとしたのだ。それは私に対して自己を示し出すことであり、
その結果私は、常に変化する人格の代わりに、真の個性という尺度を得ることができるようになったのだ。個性は自分自身の意義への気づきに基づいているのである。

40

私はインドの導師がかつて私に言ったことを思い出していた。
「教師は、言葉を掛けなくても弟子に教えることができる。」
中国にはこんな格言がある。
「何もする必要がない場合がある。しかしそれは怠けることではない。」

41
G「ねえ、オレイジ、君がある人間に何かを与えるとき、あるいはその人間のために何かをしてあげるとき、最初は彼は跪(ひざまず)き、君の手に口づけをするだろう。2回目には彼は帽子を脱ぐだろう。3回目には頭を下げる。4回目にはへつらうだけだ。5回目は会釈をするだけ。6回目には君をなじる。そして7回目にはもうたくさんだ、と言うだろう。」
それから、彼は私をちらりと見てからこう言った。「ねえ、オレイジ、私たちはあらゆるものに代価を支払わなければならないんだよ。」
彼が出て行ってから、私はオレイジに、これはどういうことなのかと聞いてみた。
彼は、「たぶん彼は、僕らが施し方を知らないということを、ほのめかしていたんだと思う。僕らの中で誰もまだこのことを学んでいないようだ。たぶん、グルジェフ自身が施し方を学ぶ必要があったのだろう。」と言った。
オレイジはいつも人々に愛を注いでいたが、私は恐怖心から、いつも愛を抑えていた。オレイジとは別のある年長の弟子に対して、グルジェフはかつてこう言ったことがあった。
G「あなたは私のことを愛しすぎている。あなたが私の元を離れるとき、あなたは苦しむだろう。なぜなら、あなたは私を愛しすぎているからだ。」
グルジェフの言ったことをよく考えているうちに、私はあらゆることに、人を救うことにさえ、代価を支払う必要があるということを理解し始めた。
イエスはこう言った。「あなたは、最後の一銭を返すまで、そこから出て行ってはいけない」(マタイによる福音書-第5章26節参照)
まさしく、私たちが持っているものすべてに対して、誰かが汗水を垂らして、あるいは苦しみもがきながら、代価を支払わなければならなかった。そして私たちは借りを返す方法を、自分が救われたことに対してお金で償う方法さえをも、学ばなければならない。イギリスの古い諺(ことわざ)にこんなものがある。

私が持っていたものを、私は失った。
私が持っていたものを、私は使い尽くした。
私が与えたものを、私は持っていた。

42
プリオーレには、グルジェフが「現代芸術の代表者」と呼ぶ人間や、私が知っている限りでは最高水準にある芸術家や音楽家、画家、デザイナー、歌手、作家がいたが、私は彼らとの議論を1つも覚えていない。それは、議論が禁じられていたからではなく、それが私たちの目的に比してさして重要ではなかったからだ。屋敷の西翼にはオーク材張りの立派な図書室があり、それは私がそれまでに見た中で最も素晴らしい図書室の1つだった。しかしそこには、1冊も本がなかった。
私がフォンテーヌブローで読んだ唯一の本は、バガヴァッド・ギーターだ。インドで私はアニー・ベサントに会い、彼女からギーターとインド文学の奥深さについて初めて教えられた。その後オレイジが、マハーバーラタとそれの一部であるギーターの魅力について語ってくれた。しかし、プリオーレに行ってそこで一冊貸してもらうまで、私はギーターを一度も目にすることがなかった。それは1つの天啓だった。私はそれを繰り返し読み、以来それは私の慰藉(いしゃ)と啓明の源となっている。それはまたマハーバーラタへの入り口ともなり、実際私はマハーバーラタを最後まで少なくとも2回は読み通している。ギーターは、私の心と感情が、グルジェフ・システムのおかげで拡張し始めているときに現れた。組織化された宗教や不毛な道徳への失望によって、もはや私は聖書を読むことができなくなっていた。ずっと後になって、過去の呪縛から解き放たれた私は、聖書を再び読むことができるようになったが、そのときはその教えが、さりげなくかつ深く、そして新たなエネルギーを持って、私の中で甦(よみがえ)った。私は、それまでは理解不能だったことを理解し始めた。機械的に何百回と聞かされた格言が、真の意味を持ち始めた。それは例えば老子の格言や、スーフィーの詩篇(しへん)、グノーシス主義の教え、ソクラテスやプラトンや古代エジプトの教えといったものに似ていた。「ブッダの言葉」(F・L・ウッドワード訳)の中には、私たちが理解しているような「自己想起」の状態のほぼ正確な記述を見いだすことができる。私が太古の叡智から理解を得ることができたのは、グルジェフ・システムのおかげだったのだ。
私は今では、自分が父親の素朴な信仰に多くを負っていることを理解している。私の父親は、若い頃に英国国教会を捨て、ウェズレーのメソディスト派(人間が最も重要であるとする宗教)に入信した。そしてこの信仰は、彼の人生を内的な幸福で満たした。彼は、ウェズレー的な宗教の形態が存在しうるものの中で最も優れたものであり、この信仰に従うことによって、いつしか自分は天の御国に至ることができるということを信じて疑わなかった。私の父親は善良で朴訥(ぼくとつ)な人間だった。
「注目すべき人々との出会い」の中で本売りのイエロフは、〈人間が何らかの信仰を持つことの必要性を説き、人間の信仰を変えさせてはならない、なぜなら、信仰はその人間の中で幼い頃に形成されるものだからだ〉と言っている。〈人間の信仰を破壊することは、大きな罪だ〉と彼は言う。もっとも、自分により多くの理解と内的な自由を与えてくれるものを見いだし、そしてそれを自発的に受け入れるならば話は違う。
グルジェフは、オレイジと同じように宗教的な人間だった。しかも、月並みな意味で宗教的なのではなく、本質的に宗教的な人間だった。ある日昼食の折に彼は、イエスの教えや人物像がいかに歪められてしまったかということについて話していた。その日の訪問者のうち2人はイギリス人の女性だったが、彼女たちは「イエスとその愛」についていくらか感傷的に語り始めた。するとグルジェフはこう言った。
「私はあなたのイエスを、貧しいユダヤ人の少年を、憎んでいる。」
彼は「あなたの」というところで語勢を強めた。
なぜ語勢を強めたかというと、その女性たちが「真のイエス」を知らず、理解しようともしていなかったからなのでしょう。


43
ある日、夕食のとき彼はこう言った。
G「大切なことがある。人間は1つの主観的状態にずっと留まることができない。非常に多くのことが主観的状態から生じえる。あなたがたは別の主観的状態を決して知ることができない。2人の人間の主観的状態は決して同じものではない。なぜなら、主観的状態は指紋のようなもので、人によって異なるからだ。そして、誰も自分の主観的状態を他人に説明することはできない。人間には、自分がなぜ相手に対して怒っているのか、本当にはわからない。『
私は相手に怒っていない。私の状態が相手に怒っている』のだ。このことをよく覚えておきなさい。そして決して、内的な思慮である自分の本心によって応じてはいけない。そして、復讐や恨みという感情を抱いてはならない。良い意志は遠く離れたところにまで影響を及ぼすことができる。悪い意志もまた同じだ。」

44
私たちのうちの一人がこう言った。「私はキリスト教で育てられましたが、イエスの教えについて語り、キリスト教徒を自称する人間と、その者の行動との間に横たわる差にいつも悩みました。」
グルジェフはこう答えた。「このキリスト教に関する質問は大きな質問だ。一般にキリスト教徒には3種類あると言われている。キリスト教徒になることを望む人間と、キリスト教徒になれることを望む人間と、キリスト教徒である人間の3つだ。3番目の人間だけが、心だけでなく体においても、イエス・キリストの教えに従って生きることができる。前キリスト教徒は、キリスト教徒の戒律を心においてのみ守っている人間である。非キリスト教徒は、心においてもその体においても守ることのできない異教徒である。」

45
イギリス式食堂での昼食の後、サロンで「ベルゼバブの孫への話」の中の煉獄に関する章が朗読されたことがあった。誰かの意見に答えて、グルジェフは「馬鹿な天使」について話しはじめた。そして、〈ワークを行い、好ましくない要素を自分の身から取り除くならば、その人間は、天使よりも優れた、より深い知性と、より豊富な経験を備えた存在になるだろう〉と述べた。
また他の誰かが、アルマニャックを飲みすぎたせいか、いくらか知ったかぶった風をして質問をした。するとグルジェフは彼の方に向き直り、「あなたは理解しようとしていない。」と咎めた。
その様は私に「ピスティス・ソフィア」(グノーシス主義の文献。古代ローマの哲学者ヴァレンティヌスによって書かれたとされる)の一節を連想させた。

アンデレはイエスに言った。「私を怒らないでください。耐え忍んで私に神秘を明らかにしてください。それは私には難しくて理解できません。」
イエスは言った。「それでは訊きなさい、そうすればはっきりと説き明かしてあげよう。」
アンドレは言った。「私が不思議に思うのは、もし人間がこの世から生じているとするならば、この物質からなるこの世や肉体の中にある人間が、天や王、主、神、目に見えない偉大な存在をどうやって潜り抜け、そしてどうやって〈光の王国〉に至るのかということなのです。」
イエスは怒って答えた。「一体いつまで私はあなたを我慢しなければならないのか? あなたはそんなこともいまだにわからないほど無知なのか? あなたは知らないのか? あなたと天使と大天使が、神と主と王が、そして〈光〉から放たれる閃光とその全き栄光が、みなすべて同じ土、同じ物質、同じ実体からできていることを。あなたはこれらが合わさったものなのだ。しかし、自らを浄める偉大な存在は、苦しむことも悩むこともない。しかしあなたは違う。あなたはこれらすべてのもののかすであり、あなたは、この世の様々な肉体に送り込まれることによって苦しみ悩む。さてアンドレよ。そしてあなたがたすべての者よ。あなたがたが苦しむことによって自らを浄めるとき、あなたがたは〈光の王国〉の高みに至るだろう。そして、もしあなたがたが偉大なる〈光の主〉の王国に至るなら、あなたがたは彼らから崇拝を受けるだろう。なぜなら、あなたがたは彼らを形作るもののかすであり、そして彼らの誰よりも浄められているからだ。」

46
人々に、グルジェフの思想へ関心を持たせることの難しさについて話していたある弟子は、ルキアノス(紀元二世紀頃の古代ギリシアの風刺作家)の『ガロン』を引き合いに出した。

ガロンはこう言った。「彼らの命は木の葉のように短い。しかしヘルメスよ、彼らは互いに争い、全てを捨てて、手にはわずか銀貨一枚しかないのに、力や名誉や物を得ようとする。今や私たちがこの高みにいるからには、私が大声で戒め、彼らに無益な争いをやめさせ、死という事実に常に目を据えるようにと告げたほうが良いとは思わないか? 私はこう叫びたい! 『
ああ、愚かな人間どもよ、なぜそんな空ろなことを追い求めるのか? 富も名声も長くは続かず、あなたはそれを持って歩くこともできないのだ。あなたは裸になり、家と土地を他人に譲ることになるのだ!
私がこう彼らに声高に告げれば、彼らがさらに幸福になるとは思わないだろうか?」
ヘルメス「あなたは、彼らの病んだ暮らしが彼らにもたらしたものを知らないのか? たとえきりを使ったとしても、彼らの耳に穴を開けることはできない。彼らは、オデュッセウスがセイレーンの歌声を耳に入れさせないために用いた蜜蝋(みつろう)によって耳を塞ぎ(ギリシア神話で、セイレーンは美しい歌声で船人を誘い寄せ、船を難破させた)、たとえ叫んでもあなたが怒り狂うまで聴こうとはしないだろう。レーテー川(ギリシア神話で、その水を飲むと生前のことを忘れると言われる忘却の川)が冥府で行っていることが、地上でも無知によって行われている。そこには耳を塞がずにいられる者はほとんどいないし、物事の現実を理解できる者もほとんどいない。」

ペルシアの諺にこんなものがある。「賢い人間は愚かな人間を理解している。なぜなら、彼自身かつては馬鹿だったからだ。しかし馬鹿は賢い人間を理解していない。彼は一度も賢くなったことがないからだ。
また、ペルシアには他にもこんな格言がある。「
起きろ! 起きろ! 残されているのはくだらない人生ばかりだ。あなたの前にある道は長い。しかしあなたは幻影にとらわれている。

47
グルジェフはしばしば、過去を償う必要性について語った。過去に固執し無意味な自己非難にふけるのではなく、良心の呵責を感じるのである。
呵責(remorse)は、中世の英語では、「ayenbite of inwit(知っているもの、理解しているものを再び噛むこと)」と言う。ちなみに、フランス語のremordreも、「再び噛む」という語義だが、自己沈着の反意語である。
彼はある弟子にこう言った。「過去の喜びは現在の人間には無意味だ。それは去年の雪のようなもので、何の痕も残さないので思い出すことができない。意識的労働と自発的な苦悩のみが現実であり、幸福を得ることに将来役立ちうるのだ。」
他の折りには彼はこう言った。「人間は、蒔いたものを刈り取る。未来は現在の行動によって決定される。現在は、良かれ悪しかれ、過去の結果だ。現在の瞬間ごとに未来に向けて準備し、誤ってなされたことを正すことは、人間の義務だ。これは天の掟(おきて)だ。あらゆる掟の根源だ!」
なかなか思い通りにならないことをぼやいた者に対して、グルジェフはこう言った。「どんな満足も不満足を伴うものだ。」
お互いに助け合うことの必要性について、彼はこう言った。「
私たちは大抵、相手が知っている以上に相手のことを知っている。したがって、相互に助け合うことは重要であり、有益なことだ。しかし、自分の間違いや欠点に触れられると、しばしば自己愛や自尊心が私たちの利益を損なってしまう。というのも、私たちはしばしば自己を拒み、あるいは正当化しようとするからだ。あらゆる行動において、私たちは、他人に役立ち、自分にふさわしいものを得ようと励むべきである。
彼はしばしば、〈ときには幸運となる不運〉について語った。ちなみに、中国の「淮南子」(前漢時代に成立した道家の思想書)にはこう記されている。

「ある老人が、丘の上の廃墟となった古代の砦に、息子と一緒に住んでいた。ある日、老人の愛馬が逃げ出し、いなくなってしまった。彼の隣人がやって来て彼の不運を憐れんだ。すると『どうしてこれが不運だとわかるのかね?』と老人は尋ねた。数日後、馬が、他に野生の馬を数頭引き連れて戻ってきた。老人と息子はその野生馬を手なずけた。彼の隣人は今度は老人の幸運を喜んだ。すると『どうしてこれが幸運だとわかるのかね?』と老人は尋ねた。そして、たまたま彼の息子が馬に乗っていると、地面に投げ出され、そのおかげで息子は一生足が不自由になってしまった。隣人は老人を慰め、再びその不運を嘆いた。すると『どうしてこれが不運だとわかるのかね?』と老人は言った。しばらくして戦が始まった。しかし、彼の息子は足が不自由だったので兵士に取られることがなかった。


48
私たちが電気と磁気について、あるいは動物磁気について議論していると、どうしてある種の人間には磁気が多いのか?という話になった。グルジェフにこのことを尋ねると、彼はこう答えた。
G「人間は自分の中に2つの実体を持っている。物理的な肉体の能動的な要素からなる実体と、アストラル体の能動的な要素からなる実体である。これら2つが混ぜ合わせられると、第3の実体ができる。この第3の実体は混合された実体だ。それは人間の特定の部分を蓄積し、惑星の周りに大気圏が形成されるように、その人間の周りに、ある圏域を形成する。惑星の大気圏は周囲の他の天体の影響を受けて、絶えず増えたり減ったりしている。人間も、惑星が他の惑星に取り囲まれているように、他の人間に取り囲まれている。2つの圏域がほどほどに近づくと、そしてその2つの相性が合っていると、2つの間で接触がなされ、しかるべき結果が生じる。そして何かが流出する。圏域の分量は同じままだが、質は変化している。
ワークを行い、理解している人間は、自分の圏域を制御することができる。それは電気のようなもので、正と負がある。そして電流のような流れがある。すべては正と負の電荷を持っている。人間においては、意志と非意志が正と負である。アストラル体は常に物質や質料と対置している。
太古においては、本物の祭司は磁気の効用を理解していて、手で祝福を授けることで病気を治すことができた。病人に手を載せる祭司もいれば、少し離れたところから、あるいは遠くから治すことができる祭司もいた。祭司は、第3の、混合された実体を有した人間で、それを使って人を治すことができたのだ。
祭司は磁者だった。イエス・キリストは磁者だった。病人とは、この混合された実体、磁気、すなわち『生命』が不足している者のことなのだ。この混合された実体は、意識を集中すれば見えるかもしれない。オーラや光輪、後光は現実に存在するのだ。それは今でもある種の聖地や教会において見ることができる。そしてある種の人間の周囲に現れることもあるのだ。メスメルはこの実体の効用を再発見したのだ。」
「どうすればこの実体を利用することができますか」と誰かが尋ねた。
G「それを利用することができるようになるためには、まずそれを自分自身の中に持たなければならない。それを獲得するのは、注意力を獲得する場合と同じだ。意識的な労働と自発的な苦悩によって得られるのだ。すなわち、自ら意識的に小さなことを行うことによって得られるのだ。まず、したいと思っているけれども今はすることができない、小さなことを行うことから始めなさい。努力し行為することによって、あなたは磁気を得るだろう。」

49
グルジェフは演技を学ぶことの重要性についてよく語っていたが、彼自身は演技の名人だった。例えば、役人と一緒にいるときは、彼は知性のない素朴な人間を装って、彼らの警戒心を取り除くことができた。
またある時は、イギリスから2人の心理学者が、ジェノヴァでの会議に向かう途中に、プリオーレに立ち寄ったことがあった。おそらく様々な流派に対するグルジェフの考えを聴きたかったのだろう。彼らはウスペンスキーの知り合いだった。グルジェフは彼らを素晴らしい昼食でもてなしたが、彼らがどんな質問をしても、それをジョークでかわした。食事が終わると彼は2人を連れて園内を散策し、そしてスタディ・ハウスに引き返したが、彼は冗談ばかりを口にして、奇人のように振る舞っていた。私がドアの傍に立っていると、彼は私にこう尋ねた。「今日は何曜日だい?」
「火曜日です。」と私が言うと、彼は笑いながら2人に向き直った。
G「なんてことだ! 火曜日だって? 私はずっと水曜日だと思っていたよ。」
そして彼は2人をスタディ・ハウスに案内した。彼らは困惑していた。彼らが出てゆくと、グルジェフの態度が急変した。
G「さて、これで彼らは私の邪魔をせずに、そっとしておいてくれるだろう。」
グルジェフのもう1つの特技は、ある時は自分を凡庸に見せ、またある時は、エネルギーと光に満ち溢れた導師(リシ)のように自分を見せるという能力だった。来訪者が園内を案内されているとき、彼らは時おりグルジェフの傍をチラリと一瞥(いちべつ)しただけで通り過ぎた。
「グルジェフ氏は素晴らしい人間に違いない、ぜひ彼に会わせてくれ。」と私に頼みにきた、あるアメリカ人の場合もそうだった。ちょうどその時、グルジェフが傍を通り過ぎ、屋敷の中に入っていった。
「あれがグルジェフさんだよ。」と私は言った。「えっ!」と彼は答えた。「そんな馬鹿な! 僕はあの人に庭で話し掛けたけど、てっきり庭師だと思ったよ。」
通常の生活において、人間は無意識のうちに演技をしている。しかし、グルジェフはそれを意識的に行っていた。そして彼と親しくワークをした人間には、彼の演技を見抜くことができたのだった。
「ダルヴィーシュヘの手紙」の中で、彼はこう記している。
〈完成された人間は、通常の生活において、彼の外部で起こっている全てのことに関して、与えられた状況に応じて、部分を完成へと、外的に近づけることができなければならない。しかし、その状況に融和したり合意したりしてはならない。あなたも多かれ少なかれ身に覚えがあるかもしれないが、若い頃には私もまた、この事実を確信し、天恵を得るという目的のために、大いにワークを行ったものだ。そして、必死に努力し、通常の人生において得られるものをほぼすべて拒絶し続け、そしてついに、外的なものが何1つ私の内面に触れることができない、ある境地に達した。そして演技に関する限り、私は自分自身を、古代バビロニアの学者たちが舞台の俳優たちに対しては夢にも思わなかったような極致に導いたのだ。〉

50
あるとき、自分とグルジェフと3人の女性を巻き込んだ難局に対処しようとして私は苦境に陥り、彼にこう尋ねた。「彼女たちはあなたについてあんなことを言って、あなたに何としても楯突こうとしているのに、なぜそのまま放っておくのですか?」
彼は言った。「
あなたはわかっていない。彼女たちは本当に感じていることを言っているのではない。男は論理的だが、女は非論理的だ。男の場合と同じように女が反応することを期待しているのだから、あなたは間違っている。男は男、女は女だ。それに、たまには自分の周りに自分が嫌いな人間を持つことも必要だ。人間がいつも愉快なら、あなたは人間が好きになる。しかし、ワークへの刺激はなくなる。彼女たちはあなたにワークの為の非常によい機会を与えているのだ。だから私も頑張らなければならない!
いつものように、グルジェフは正しかった。理解が欠けていたのは私の方だった。彼の忍耐と彼のワークは、彼女たちを非常に優れた弟子にしたのだ。

51
客観的な思考と日々の生活の必需品との間には、常にバランスが保たれていた。例えば、お金がそうだ。ワークを続けるには大量の資金が必要だった。グルジェフにとって、金とはワークのためのお金である、ということをなかなか理解できない人がいた。人間は、金銭への姿勢やその支払い方において、自分の大部分をさらけ出す。しかし、グルジェフの金銭への姿勢は不自然だった。彼は、他のものの場合と同じように、決してお金を他の人間と同じようには扱わなかった。人々が一生懸命になって彼のためにお金を得ようとしても、グルジェフがよく大規模なパーティーや旅行でそれを使ってしまうことを知って、彼らは驚いたものだ。しかし彼は、たまに服を買う以外は、絶対に自分のことにはお金を使わなかった。
彼のお金の使い方は、前にも述べた通り、与える側の姿勢によってしばしば決められた。ニューヨークから来たある弟子は、いくらか下品だったが財産のある女性で、グルジェフに約50ドルの小切手を寄付した。しかし、それは金額を多く見せるためにフランで記されていた。その日の夕食の後、グルジェフは、隣に座ったX夫人と一緒に子供たちをすべてサロンに招き入れた。そして一番年少の子から順番にフランを分け与えてゆき、その総額はちょうど500フランになった。
彼に金を寄付した他の人間には、グルジェフはそれを返してよくこう言った。「とっておきなさい。あなたには今それが必要だ。多分、あなたは後で人に与えるお金を得るだろう。」彼は、本当に金を必要としていた人間をいつも手助けしていた。
G「あなたはお金に対してナイーヴだ。」と彼は私に言った。「ほとんどの人がそうだ。しかし、あなたは、お金に対してだけでなく、すべてのことに対してケチだ。あなたがずっとナイーヴなままでいれば、みなはあなたを利用するようになるだろう。もし、ある人物があなたに対して『親切』であれば、あなたは感情によって彼にお金を与え、そして後でそれを後悔するだろう。あなたのビジネスにおいても同じだ。もしあなたが弱点を突かれて相手に対して甘くなると、相手はあなたを軽んじて利用しようとするだろう。これは仕事でも、他のことでもそうだ。君は、えー、缶詰(canning)になることを学ばなければならない。」
「狡猾(cunning)です。」と私が口を挟んだ。「そうそう、君は狡猾にならなきゃいけない。でも、それは善良な目的を持ち、正しい方法に則(のっと)っていなければならない。」

52
彼は絶えず私たちに、〈何事も充分に行わなければならない、常に変化する環境に順応して臨機応変になれるように、そして常に逆境や不利益を跳ね飛ばすことができるようにならなければならないということ、つまり、状況を、意志や意識や個性の発達のために利用して、正常ではなく異常になることを学ぶことができる学校として、人生を見なすということ〉を思い起こさせた。
彼は言った。G「
異常な人間は公正であり、他人の弱点に寛大だ。そして彼は、自身の努力によって勝ち得た、自分の精神の根源に依拠している。」
彼が私に話し掛けているときは、私は感じ取り行為することができた。しかし常に物事を軽く受け取って、行動ではなく言葉を選択しようとする肉体的な惰性、つまり外的な生に捕らわれて物事の流れに身をまかせようとする傾向と格闘しなければならなかった。流されることはたやすい。人生において、一旦努力をやめれば、流れは下向きになる。このことは遥か昔から知られていたことだ。
アイネイアース(ローマ神話に登場する勇士。ウェルギリウス作「アイネーイス」の登場人物)が冥界に降る前に祈りを捧げたとき、予言者はこう答えている。
「聖なる血の種よ、トロイの男よ、アンキーセースの息子よ、黄泉降りは難しいことではない。いついかなるときでも、黒き冥府の扉は、開け広げられている。しかし、己れの足取りをたどり、上の世界に戻ること、それが至難なのだ。」

〈黄金の枝〉が、〈手法・メソッド〉が、必要なのだ。

53
1926年の晩秋、私は再びニューヨークにいた。12月に、私の書店に対して買収の申し込みがあり、数週間後には書店は売り渡され私の手から離れた。以前私は、〈もしグルジェフ・システムに興味を持つようになったら、当時の私には大切なものに思えた計画を実行できなくなるかもしれない〉と不安になったものだ。それから4年も経ってない。そう思うと、私はいくらか感慨を抱いた。今ではそんな不安は消え去り、悔いる気持ちなど全く無く、むしろ安らぎを感じていた。
私は子供の頃から本の虫で、ほとんど崇拝せんばかりだった。私は読書家であり、愛書家であり、蔵書家であり、古書商人であり、本気違いだった。それが今では、本の病から救い出してくれたことに対する感謝の気持ちでいっぱいだった。先の夏、私はパリからフォンテーヌブローへと向かう列車の中で、グルジェフが私に言った言葉を思い出した。私ともう1人の弟子は、初版本と稀覯(きこう)本の話で盛り上がっていた。それを聴いていたグルジェフは私にこう言った。「そのうちイギリスで一冊も本が売れなくなる時代がくる。それでも本を売りたいというなら、ポルノ小説を売った方がましだね。」
一緒にいた純真な若い男は、このことを全く文字通りに受け取り、〈グルジェフが遠からずイギリスで本が出版されなくなる時代が来ると言い、弟子の1人にポルノ小説を売って金を儲けるように勧めた〉という話を後で言いふらした。もちろん、グルジェフの言葉は私に向けられていたのだ。それは彼特有の戯画、まさに言葉の風刺の一種であり、私があまりにも本の虜になっていることに気づかせるために、私を刺激したのだ。しかし私は、自分のビジネスやロンドンの〈初版本クラブ〉との付き合いの中で、本狂い(書籍収集、古書漁り)と性的な異常との間に関連があることに気づき始めていた。本狂い、あるいは本漁りは、真の目的から性エネルギーを逸脱させ、通常の性関係を結んでそれを内的な発展に利用することを拒否したことを指し示す、数多くの徴のうちの1つなのだ。男性は女性と通常の性関係を持ったまま、受動的になることもできる。特にその男性の女性的な創造的部分が強ければなおさらである。前にも言ったように、グルジェフとその教えは男性の中の男性らしさを、女性の中の女性らしさを発達させた。彼の心理学的疾病の治療法は、かなり変わっていて、時には残酷でさえあったが、その治癒には目覚ましいものがあった。ホモセクシャル的な傾向のある人間は男性らしくなり、レズビアンは、彼の表現を借りれば、「ウーマン・マザー」になった。
買収で得た利益で、コネチカットに納屋と数エーカーの土地を購入し、そこに家を建て、本屋よりも自分に合った仕事に就いた。それから間もなく私は結婚した。妻はプリオーレに滞在していたことがあったので、私たちはプリオーレに行き、そこで夏のほとんどを過ごした。グルジェフは驚いたようだったが、明らかに私たちと会うことを楽しみにしていた。グルジェフは周囲の人間に、私たち夫婦は奇跡を起こした、丸を四角にしたと言いふらした。彼が言うには、丸い馬鹿が四角い馬鹿と結婚したというのだ。このジョークの背後には、膨大な意味と、熟考を促す無数の材料があった。
この夏は非常に楽しかった。オレイジとニューヨークのグループもプリオーレにいて、グルジェフは執筆の合間の時間をすべて、私たちとワークをすることに割いた。このわずか数ヶ月の間に、何年分もの行動や記憶が詰め込まれた。彼の実際の言葉はほとんど覚えていないが、彼が私に与えた強烈な印象、彼が私たちを操り、結びつけるやり方や、食事の時の余談はよく覚えている。彼の手法は、オレイジを含む私たちすべての中にしかるべき変化をもたらした。来る日も来る日も私たちは、グルジェフが言ったこと、意図したことについて議論し合った。結果は、私にとっては翌年に明らかになったが、それについてはまた改めて話すことにしよう。
トルコ風呂の儀式は毎週土曜日に執り行われ、昼食と夕食はイギリス式食堂で摂られた。「ベルゼバブの孫への話」の修正された原稿がサロンで読み上げられ、毎日そこで音楽が演奏された。以前の雨続きの夏と違って、その年は晴れ渡った夏空が何週間も続いた。
プリオーレには数組のカップルがいた。ある日、私たちがサロンでコーヒーを待っていると、新婚の若い女性の1人が夫に手招きをして、彼女の隣の空いた席をきっぱりと指し示した。すると、完全にアメリカ人的な夫であるその配偶者は、素直に立ち上がり、妻の隣に座った。グルジェフは、妻ではなく夫に対して眉をひそめ、しばらくしてから「男は女の奴隷になってはいけない」と喋りはじめた。彼はまた「他の歴史の古い国々に比べてアメリカでは女性の地位が低く、それは男性がその責任を放棄したからだ。」と話した。彼はさらに加えた。
上記の下線の文章はいまいちよくわからない。誤訳かな?
G「
あなたが1番なら、あなたの妻は2番だ。しかし、もし妻が1番なら、あなたはゼロでなければならない。そうでなければ雌鳥(めんどり)は安心していられない。
それから彼はある書類を持ってこさせ、誰かに読み上げるように言った。
ギリシアの聖賢ソクラテスはこの手法(グルジェフが教えた手法のこと)の信奉者だった。そして、自分のうちに激しい内的な闘争を引き起こすために、しかるべき女を搜して結婚し、クサンティッペの絶え間ない愚痴や小言を、外面的には根気よく耐え忍ぶことを自らに強いたのだ。
しばしば、「グルジェフは、夫婦間に悪い感情を呼び起こそうとする。」と言う人間がいた。しかしそれは違う。彼は、夫婦に、夫婦間が本来あるべき関係を理解させようとしたのだ。私は、グルジェフのせいで別れることになった夫婦を一組として知らない。逆に、彼のおかげで絆が深まった夫婦ならいくらでも知っている。彼の人間の扱い方は普通ではないので、常に複雑で不可解だ。しかし、人間の精神の理解に関して言えば、グルジェフは常に正しかった。その場の状況では彼が間違っているように思えても、後になると、彼が正しかったことが明らかになるのだ。

54
ある日パリで私は、ニューヨークからやって来た知人に会った。彼は現代文学の作品の出版の話を、持ち掛けてきた。私がいくらか興味を示したので、知人は、出版社を探している友人を、私に紹介しようと言ってきた。それで翌日、私はその男とモンパルナスの〈セレクト〉で会うことになった。翌日行くと、その男がやって来た。それがアレイスター・クローリー【イギリスの有名なオカルティスト。魔術結社〈黄金の夜明け団〉等に加わって、種々の物議を醸し出した】だった。飲物が注文され(それはもちろん私が支払った)、私たちは話を始めた。彼には不思議な魅力があり、多くの山師が備えている一種の魔力を持っていた。彼にはまた、いくらか重苦しい雰囲気があったが、その態度には父親然としたところがあって、親しみやすくもあった。数年前だったら私はすぐに彼の虜(とりこ)になっていただろう。彼は、最初は普通の言葉で出版について切り出したが、そのうち黒魔術的な用語を口にし始めた。「何事においても成功するためには、出版であれ、ある種の組み合せが必要だ。君にはここに〈マスター〉が、そこに〈熊〉が、あそこに〈ドラゴン〉が必要だ。このトライアングルは・・・」といった具合だ。
彼が黙りこくると私はこう言った。「その通りです。しかし、お金も必要です。私は、あなたが必要な資金をお持ちだと考えてもよろしいのでしょうか?」
「資金? 金なら一銭もない」と彼は言った。私は「私も持っていません。」と答えた。
私がプリオーレにいることを知っていたので、彼は自分をそこに招待してくれないか?と私に頼んできた。しかし、私はこういう人間を紹介したくはなかった。ところが、驚いたことに、彼は数日後にはプリオーレに現れて、サロンでお茶を飲んでいたのだ。そこには子供たちがいて、彼は少年の1人に、悪魔になるように彼が教育している自分の息子について話していた。するとグルジェフが立ち上がり、その少年に何やらを話し掛けた。少年はそれきりもうクローリーに近づかなくなった。クローリーとグルジェフの間でいくらか会話が交わされたが、グルジェフはその間ずっと、クローリーに鋭い視線を向けていた。私は2人の魔術師から強い印象を受け取った。1人は白で、もう1人は黒。一方は激しく、強く、光に満ちていて、もう一方は、強くはあったが、重く濁っていて、愚昧だった。しかし、「黒」というのはクローリーに対する表現としては大袈裟すぎる。彼は真の黒魔術の意味を決して理解してはいなかった。しかし、何百もの人間が彼の「魔術」に引っ掛かった。彼は頭が良かった。しかし、グルジェフが言うように、クローリーは「頭の良い馬鹿」だった。
オレイジはこのことについてこう言った。「可哀想なクローリー。私は彼のことをよく知っていたんだ。私が心霊研究協会の書記を務めていたとき、そこでよく会っていた。一回、2人で話していたとき、彼が『ところで、君の数字はいくつだい?』と聞いたことがあった。どういう意味なのかさっぱりわからなかったが、私は何となく『12だ』と答えた。すると彼は『へえ、本当かい?俺は7なんだよ』と言ったよ。」

55
1928年の冬の間、私の中では、〈プリオーレヘ行って、グルジュフと本物のワークをしたい〉という思いが日増しに高まっていた。だが、〈そこで自分がやりたいと思っていることが何なのか〉は自分にもよくわからなかった。しかし、時が経つにつれてその願いは募り、とうとう抗い難いほどになってしまった。それは、〈運命が私を決して優しく扱おうとしないので、人生や責任から逃避したい〉という訳ではなかった。私は、通常の生ならば犠牲にしていなければならないはずのものをすべて持っていた。素晴らしい友人、郊外の別荘、ニューヨークのアパート、車、充分な収入をもたらす充実した仕事、そして、オレイジとそのグループ。しかし、これらすべてを合わせても、グルジェフのもとへ行くことに比べれば、さして重要ではなかったのだ。
「なるべきものになる」ことへの羨望、「存在」すること、「行為」すること、「理解」することへの羨望は、詩人や神秘家たち(ヒンドゥー教徒、スーフィー、キリスト教徒)によって、故郷を慕う流浪者の言葉に置き換えられて、あるいは、しばしば愛する者を慕う恋人の言葉に置き換えられて、表現されてきた。こうした完成への切望に伴う太陽神経叢の疼きは、流浪者や恋人が感じる心の疼きと似たようなものだ。
結局、幾多の内的葛藤を経て、私たちはニューヨークでの生活をあきらめ、フランスに旅立つことになった。私たちが発つ前に、私はオレイジに「また再会するのに、そう長くは時間は掛からないですよね?」と聞いた。するとオレイジはこう答えた。「そうだね。でも、今年はプリオーレに行くつもりはない。もっとも、実は、自分のニューヨークでの仕事は、もう終わりつつあると思い始めているんだ。もう2、3週間もすれば、多分イギリスで会うことになるかもしれない。」
私たちは、6月の初めにフォンテーヌブロー・アヴォンに着いた。駅からの辻馬車の中で、私の感情はいつものように、懐かしい景色や音や匂いによって揺り動かされ始めた。橋の下を通る列車、路面電車の音、材木の香り。門の前に来ると、「強く鳴らしなさい」と文字が刻まれた鐘を引いた。庭の噴水はバシャバシャと音を立てていた。私には、これから起きるであろうことがまるで予想できなかったが、それは自分にとって非常に重大なことだと予感していた。
グルジェフは、例の如く、私たちを非常に歓迎してくれた。私は、なぜ自分がここに来たのかを説明しなかった。いや、説明できなかったのだ。しかし、グルジェフは理解していた。最初の数週間は、私たちはいつものように、屋敷の中で、あるいは庭でワークを行い、そしてまた、グルジェフと一緒に車に乗って外に出掛けた。7月には、彼はド・ハルトマン夫人と私を連れて、ビアリッツとルルドヘの旅に出た。旅の間、私は自分の「idiot」(白痴・イディオット)が、私の中で表現しているものについて考え始めた。というのも、それまで私にはそれを知る手掛かりが全くなかったからだ。
私は、折を見て彼に尋ねてみようと決意した。もしその表現されているものの意味を見いだすことができれば、私は自分の状況や行動(他人には明らかでも自分には見えないもの)の謎を解く手掛かりを持つことになる。それまでは、私が彼に私の「白痴」について尋ねる度に、彼は話をはぐらかし、返事すらしてくれないこともあった。
ある日、私たちは道端のレストランに立ち寄り、心地良い外の木陰の下で食事をした。その日はやけに暑く、汗が私たちの頬を滴り落ちたが、食事とアルマニャックはことのほか美味しかった。
〈白痴のための乾杯の儀式〉を執り行って、件の話題に話が及ぶと、私は彼に、「〈私の白痴〉が何を引き起こしているのか、私に教えてくれ。」と頼んだ。初めのうちは、彼は答えようとしなかった。
それでも私はしつこく頼み込み、「せめてヒントだけでも与えてくれ」と懇願した。すると彼は喋りだしたが、それはわずか5つの単語からなる文章だった。私は彼の言葉の簡明さに驚いたが、彼の存在感とアルマニャックの力のせいもあって、それまで思いもよらなかった自分の特徴を思い知った。私たちはレストランを出てドライブを続けたが、そのことについて考えているうちに、この特徴が子供の頃から私にとって、最大の敵であったことがわかってきた。それは、私の人生を形作り、私に苦難をもたらし、他者との関係を台無しにさせてきた原因のうち、おそらく最たるものだ。私はまた、もしそれがグルジェフや彼の手法に供せられることがなかったら、私は常に同じままで、同じように繰り返し行動していたかもしれなかったことも理解した。もう食事をした場所を思い出すことはできないが、あの暑い日に、額の汗を拭いながら木陰の下に座っていたときの様は、鮮明に記憶している。
自己の誤った鏡像を抱いたまま何年も生き続けることができるというのは、実に恐ろしいことだ。そしてさらには、自己をどう顕現させるべきかということについての正しい見解を持たないまま、知への願望を抱くのだ。しかし、眠りから覚め始めたばかりの人間には、その恐ろしさがなかなかわからない。
その日から、私の中で何かが変わり始めた。

ビアリッツでグルジェフは、面倒なことを言い出した。私たちは彼の弟のディミトリとその妻と落ち合い、子供も1人連れて全員一緒に車に乗り込んだ。グルジェフは弟を自分と同じ前の座席に座らせ、大男だった2人の間に私が座った。その車は4人乗りの小さな車だった。
旅行鞄と6人の人間が中で窮屈にひしめき合い、日を経るにつれ、それは正に拷問のようになっていったが、私は諦めまいと堅く心を決していた。とうとうディミトリ・イヴァニッチと妻のアストラ・グレゴリエヴナが我慢できなくなり、彼らは列車でフォンテーヌブローへ帰ってしまった。グルジェフとド・ハルトマン夫人、そして私は旅を続け、私はなおもグルジェフと一緒に前の座席に座りつづけた。ルルドでは、体に障害を背負った信徒たちが列をなして並び、さながら百鬼夜行のようだった。しばらくすると、私たちは墓へと向かう司教の葬列に出くわした。弔鐘の音、香の匂い、司祭や修道士たちの詠唱。人垣の中を進む、組織化された宗教の壮麗でものものしい行列の印象は、実に強烈だった。
運転しているとき、しばしばグルジェフは、「ベルゼバブの孫への話」の文章を案出し、それをノートとペンを持って後部座席で待機していたド・ハルトマン夫人に、ロシア語で書き取らせた。私たちが眠くなってうたた寝を始めそうになると、あるいは、彼自身が眠気を覚ます刺激が必要になると、彼はよく大騒ぎし、激昂して私たちを怒鳴りつけることもあった。私たちはすぐに目を覚ました。そしてカフェに車を停めたり、あるいは道端でアルマニャックやサンドイッチを口にして、語らったものだ。田舎を走っているとグルジェフは、まさに文字通り、その土地の名物や特産品を嗅ぎ出すことができ、そのおかげで私たちは毎日食べ物に飽きることがなかった。
時おり彼は私に自由にものを言わせたが、彼はそんな時、憐れむような表情をして私に首を振った。
そして私は、自分が短所を、自己の中にある欠陥を曝け出していることに気がつくのだった。私の内部にある無数の悪を次々に暴き出したこうした一連の出来事は、私の記憶に強く残っている。

56
私たちが旅からプリオーレに戻って1日か2日すると、彼は私に、他の2人の人間と一緒に、森の中で塹壕を掘るというワークを課した。それは木陰の中での快適な作業で、休憩の時間はさらに楽しく、座ったまま「高尚な思想」について論じたものだ。こうした快適な労働のうちに数日間が過ぎたが、しばらくすると、1人が他の仕事に回され、もう1人もそのうち他所へ行き、いつの間にか私1人でワークをすることになった。グルジェフは私に、5年前に取り沙汰された、どこか近くにあるはずの泉を掘り当てなさいと命じた。しかし、いくら掘っても水は見つからず、誰も私に近寄ろうとしないので、次第に私は我慢できなくなり、心では納得していても反感が募ってきた。
それは肉体的には決して厳しい労働ではなかった。カナダのブリティッシュ・コロンビアでは井戸掘りの仕事に就き、発破をかけていたこともある。それは困難で危険な仕事だった。私がその時克服しなければならなかったことは、〈反感〉、うだるような暑さの中での単調で退屈で、明らかに意味のない仕事を続けることへの肉体と感情の猛烈な反撥だった。数日間のワークで、私は長く深い壕を掘り、硬い土に深い穴を作った。しかし誰も私に近寄らず、私はもはやイギリス式食堂での食事に呼ばれることもなかった。そんなときグルジェフは、私の妻と他の何人かを車に乗せて旅に出た。そのことは私を感情的にも圧迫した。というのも、私は彼と一緒に出掛けることを、何よりも楽しみにしていたからだ。
数日後に彼が帰ってきて、私のワークを覗きにきた時(それは2週間ぶりだった)、私はこう言った。「ここには水はありません。これ以上続けても無駄です。」
しかし彼は、「水は絶対にここにある。それを見つけ出しなさい。さあ、ここを掘りなさい。」と言うだけだった。そして彼は別の方角を向いて、立ち去ってしまった。私は再び掘り返し始めた。しかし、しつこい考えが私を苦しめた。なぜ私は、兵士の真似事をして屈辱を受けるために、アメリカでの満ち足りた生活を捨ててしまったのだろう? これは、私を支配するための単なるグルジェフの気まぐれなのだろうか? 私はすっかり意気消沈してしまった。しかし同時に、〈仕事を完遂しなければならない、これはこれまでで一番重要な真の努力なのだ〉という内的な感情も存在していた。
数日後、お茶の時間の後、私は休憩のために自分の部屋に戻った。仰向けに体を伸ばしていると、挫折感が私を襲った。事実、私はまさに諦めかけていた。私は、「天路歴程」を手に取って広げ、読み出した。

その時私は、彼らが、時にはため息混じりに、また時には楽しげに道を進んでいるのを見た。ただし、彼らの先頭には、自分自身以外とは言葉を交わそうとしない、クリスチャンがいた。彼は、しばしば、〈輝けるもの〉が彼に与えた巻物を読み、それによって元気を取り戻した。
私はその時、彼らがみな、泉のある丘の麓に来るまで進むのを見た。また、その同じ場所には、門から真っ直ぐに延びている道の他に、二本の道があり、一方は丘の左を、もう一方は右を巻いていた。しかし、丘を真っ直ぐに登る、細い道もあった(登り坂の名は「困難」と呼ばれる)。クリスチャンは泉に行き、元気を取り戻すためにそこから水を飲み、そして謳(うた)いながら丘を登りはじめた。

この丘は高いけれど、私は登ってみせたい。
私を邪魔するものはない。
なぜなら、私は、生命への道がここにあるとつかんでいるからだ。
さあ、勇気を奮い起こせ。くじけるな。
困難かもしれないが、正しい道を進んだ方が良いのだ。
容易なものは良くない。行き着く先には災いがある。

他の二人も丘の麓にやって来た。しかし、丘が険しく聳(そび)えていたので、丘を巻く二本の道が丘の向こう側でクリスチャンが進んだ道と一緒に合わさると考えて、その道を進むことにした(二本のうち一本は〈危険〉と呼ばれ、もう一本は〈破滅〉と呼ばれる)。まず、一人は〈危険〉と呼ばれる道を進み、その道は大きな森に続いていた。もう一人は〈破滅〉の道を進み、奥深い原野にたどり着いた。そして彼はそこでつまずいて倒れ、二度と立ち上がらなかった。
私はその時、クリスチャンの後を見送り、彼が丘を登ってゆくのを見た。彼の脚は段々遅くなり、急勾配のあまり終いには膝をついてよじ登っていた。丘の中腹辺りまで来ると、丘の主によって作られた、旅人用の休憩小屋があった。クリスチャンはそこに入り、腰を降ろした。そして、懐から巻物を取り出すと、気休めにそれを読み出した。さらにまた彼は、彼が十字架の傍に立ったときに与えられた、コートや上着を確かめた。こうしてしばらくくつろいでいるうちに彼は眠りはじめ、暗くなっても動かないくらい深い眠りに入った。そして眠っているうちに彼の手から巻物が落ちた。そして彼が眠っているところへ、一人の男がやって来て、彼を起こしてこう言った。怠惰なる汝、蟻(あり)のところへ行きなさい、そしてその様をよく見、賢くなりなさい。するとクリスチャンは立ち上がり、道を急ぎ、丘の頂上に着くまで一気に駆け上った。


その時私は、オレイジのここでの似たような体験を思い出した。彼はおそらくまさにこの部屋で、私と同じようなことを感じたのだ。そして今、何かが私にさらなる努力をさせようとしていた。私は自分の仕事に戻り、シャベルとつるはしを手に取り再び作業を始めた。自己を想起して、心が乱れて喜んだり怒ったりすることがないように、私は時おり普段よりも仕事の手を早め、あるいは逆に遅くして、数を数えるエクセサイズをしたり、言葉のリストを何度も繰り返したりした。しかし、それでも日々はゆっくりと単調に過ぎていった。
ある日、水を探し出すことを完全に諦めたとき、結果が出た。つるはしを土の中に打ち込むと、水がしみ出てきたのだ。深く掘り進めてゆくと、細い水流が現れ、やがてそれは大きな流れとなった。狂喜して再び掘り出すと、突然足元から水流がほとばしりはじめた。水は私のくるぶしの辺りまで噴き出たので、私は自分の目が信じられないほどに驚いた。見ていると、内的なヴェールが引き上げられ、雲が去り、光が射しはじめたかのようだった。
私は穴から、泥の中から這い上がり、グルジェフに伝えようと屋敷に戻ったが、彼は出掛けていていなかった。喜びと嬉しさが私の中で泉のように沸き返っていた。私は自分の部屋に戻り、腰を降ろして聖書を手に取った。適当に頁を開いて読み出した。
「誘惑に耐えた人間は祝福される。なぜなら、彼が試みられるとき、彼は生命の王冠を受けるだろうから」
頁をめくると黙示録に当たった。
「勝利した者は、あらゆるものを受け継ぐだろう。私は彼の神となり、彼は私の子となるだろう」
「勝利した者を、私の神の神殿の柱にしよう。彼はもう外に出ることはない。そして私は彼の上に私の神の名前と彼の新しい名前を書くだろう」
「そして彼は私に、神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように澄んだ生命の水の純粋な川を見せた。そして彼らは彼の顔を見、彼の名前は彼らの額に刻まれるだろう」
こうした子供の頃から何百回となく耳にし目にしてきた言葉は、かつては快い宗教的な感情を奮い起こしたが、今では自由な連想をさせるものとなった。まるで私がはじめてこの言葉を目にしたかのようだったが、その言葉の持つ意味は明白だった。それは悠久の昔や遥か遠くの未来のことではなく、今と関係しているに違いない。それは行為と、弱点の克服と、より多くの努力が必要とされる時に決して断念しないこととに、結び付けられる。それは内的な発展の心理学的なプロセス、ひいては、超越的努力の一種である意識的な労働の結果と関係しているに違いないのだ。
その日は1日中、「感覚の扉」が押し開かれてエクスタシーの状態が、神の現前が、あるいは今風に言えば、「高次意識の状態」が続いた。それが収まっても何かが残存した。それは記憶ではなく、言わば結晶だ。グルジェフは、翌日戻って来ると泉のところへやって来て、こう言った。
G「さて、これで終わったようだね。このワークはもう必要ない。次の計画に移ろう。私たちは他の場所で水を探しているんだ。」 目的は果たされたのだ。
これは土曜日の朝のことだった。同じ日の晩、トルコ風呂で、温室に入る前の静かな数分間、彼は私に真剣な表情で話し始めた、彼の眼からは光が放たれていた。
G「君はプリオーレで良い仕事をした。君はもうノットではなく長老ノットだ。そして、君は永遠に君のものとなるプリオーレでの新しい名前を持つだろう。」
私たちはしばらく黙っていたが、彼が私を手招きした。私たちは立ち上がり、サウナ室へと進んだ。中に入ると、彼は私を横に座らせ、部屋を出ると小枝で私を打ち払った。夕食の時、私はスジャーンヴァル博士の隣りで、グルジェフの正面の位置に座らせられた。みんなで乾杯をしている間、彼は私にこう言った。「君はもうただの白痴ではない。はっきりはわからないが、君は別の類の白痴だ。目の開いた盲人だ。さて明日、私は君にアルマニャックを3本与える。博士は君に特製のプリオーレ・サラダを作ってくれるだろう。君はそれらを全部受け取り、泉のことでパーティーを開く。集まるのは男たちだけだ。わかるかな?」 私はうなずいた。
その夜、私は「新しい名前」について考え始めた。そして黙示録を開いた。「勝利した者に、私は隠されたマナを食べさせるだろう。そして彼に白い石を授けるだろう。その石には、それを受け取った彼以外には誰も知らない新しい名前が書き記されている。」
これこそが、秘教的キリスト教の秘義なのだ。

翌日の日曜日の晩、男たちがピクニックの食糧を持って泉の前に集まった。食べたり喋ったりした後、アルマニャックに酔った人間が、ロシアの民謡を歌い始めた。それは平凡だが、ロシア人の心の奥底から湧き出る「魂が涙ぐむ」ような歌だった。他の人間がギリシアやアルメニア、ドイツの民謡を歌った。私は「藪を抜け、茨を抜け」を歌った。そのとき、髭をたくわえ、ロシア風の衣裳をまとっていた大男のスジャーンヴァルが立ち上がり、森中に響くような深く澄んだ歌声で歌い出した。彼がプリオーレで歌ったのは、この時のみのはずだ。グルジェフはわざと姿を現さなかった。それは私のためのパーティーだった。しかし彼は、次の日にそのことを聞くと、にっこりと微笑んだ。
その後9月の終わり頃になって、夜には冷え込むようになると、グルジェフがパリから戻ってきた。そして、ちょうど夕食の前に、スジャーンヴァルとハルトマン、ザルツマン、そして私に、窓からは見えない一面の芝地の端にある小さな円いプールへ一緒に行くように言葉を掛けた。彼は「さあ、みんな裸になろう」と言った。私たちは服を脱いだ。彼はプールのステップの上に座り、足を水に入れ、私に隣りに座るよう身振りで示し、他の人間は私たちの背後に座った。彼は輊く冗談を言ってから、ステップを降りていった。彼は、「人間がワークのある段階、オクターヴのある段階に達したときにはある種の努力がなされなければならず、その人間にとってはその努力をなすことは非常に重要なのだ。」と語り始めた。もしそれをなすならば、彼はそれまでに得たすべてのものを携えて、別のオクターヴに上昇してゆく。もし努力がなされないならば、彼は滑り落ち、彼のワークは失われるかもしれない。まずはじめに、この努力は教師の指導の下になされなければならない。その後で、その人間自身が、努力がなされなければならない時を知り、そのやり方を知ることができる。彼はまた、私は超越的な努力を味わったと言った。このワークでは、私たちがなす通常の努力は、中途半端である。誰もが、進んで努力をしなければならない。自然は、鮭と同じように、私たちに滝を上らせようとする。人間は行為することができなければならない。魔術は、真の魔術は、〈行為すること〉を根としている。私たちは超越的な努力をしなければならない。段階が進むにつれ、ワークはより困難になるが、私たちはより鍛えられてゆく。もし意識的な努力をするならば、自然は、おそらく直ちに報いてくれるに違いない。それが法なのだ。
「次のステップ」と彼は言い、私たちは水の中にさらに入り込んだ。彼は今やロシア語で語り始めたので、私にはほとんどわからなかった。そして、段々と深く水の中に入っていったが、首まで水に浸かって喋っていた。寒かった。私たちは震え出した。ついにグルジェフは水にもぐり込んで泳ぎ出し、私たちもそれに従った。それから、私たちは服を着て彼の部屋へ行き、暖かな炉火の前で食事をした。

翌日、スジャーンヴァルが私に、禅を知っているか?と尋ねてきた。「ちょっとだけなら」と私は答えた。すると彼はこう言った。
「禅の本当の道場では、教師たちはしばしば、修行僧たちにある教義を植え込むために、奇妙な手法を用いる。グルジェフ氏の昨日の晩の行動は、あなたが『行為すること』について学んだことをあなたに印象付けるためだったのだ。」
それはイニシエイション(伝授)、セルフ・イニシエイション(自己伝授)のプロセスだったのだ。グルジェフは課題に段階を設けた。そして彼のおかげで、私はイニシエイションを果たした。彼は密儀の神々のように、ただし独自の効果的な儀式を使って、イニシエイションを施したのだ。そして私は、存在と知性の他のオクターヴに移動することができたのだ。
この時から、彼と私の関係は、そして他者と私の関係は、別の次元に移ったのだった。