「グルジェフ・弟子たちに語る」を読んで

プリオーレのスタディ・ハウスの壁に、特別な文字で記されていた格言←リンク
Q&Aまとめ
←リンク
短い言葉のまとめ
←リンク


ある人物がグルジェフに興味を持ち、A氏の手引きでグルジェフに会い、教えを受けた時の話
←リンク



誰もが白紙のように、この世に生まれる。周囲の人々や環境が、争ってこの紙を汚し、文字で埋め始める。教育、道徳心の形成、我々が知識と呼ぶ情報、さらに義務、名誉、良心等々についてのあらゆる感情がここに入る。そしてそれら一切が、〈「人格」として知られる、若木を幹に接ぎ木するのに取られるこうした方法が〉不変で絶対に正しい、と主張する。紙片は徐々に汚され、いわゆる「知識」で紙が汚れるほど、その人は利口者と考えられる。「義務」と呼ばれる場所に文字が多く書かれているほど、その所有者はいっそう正直であると言われる。あらゆることについてそうである。そして、汚れた紙自体も、人々が「汚れ」を長所とみなすのを見て、それを大切なものと考える。これが我々の「人」と呼ぶものの一例であり、これに対して我々はしばしば、才能とか、天才といった言葉さえつけ加える。ところが我々の「天才」は、朝、目を覚ましてベッドの脇にスリッパがないと、気分を一日中だいなしにするといった類いのものである。


自己知識を追求するならば、自由を追求しなければならない。自己知識と、その先の自己発達の仕事は、他の方法、とりわけ従来の方法で試みることが不可能なほど、重要で真剣な仕事であり、強烈な努力を必要とする。この仕事を決意するなら、それを人生の至上目的としなければならない。
人生は些細(ささい)なことに浪費できるほど長くはない。
あらゆる種類の執着から自由であることをおいて、探求のための時間を有益に使う方法があろうか?
自由と真剣さ。唇を財布の口のように締め、しかめた眉の下からのぞき、注意深く、抑制した身振りとか、歯の間から濾過して出る言葉という類いの真剣さではない。探求における決意と粘り強さ、熱烈さと堅固さ、休息している時でさえ主要な仕事を続ける、といった種類の真剣さである。
自由であるかと自問しなさい。物質的な意味で比較的に安定していて、明日について心配する必要がなく、誰の世話にもならず、生計を立て、あるいは生活を選ぶことができれば、多くの人は「自由である」と答えるであろう。だが、それが自由な状態であろうか?それとも、外的状態についてだけの問題であろうか?


あなたはお金をたくさん持っているとしよう。贅沢に暮らし、人から尊敬され、重んじられる。あなたの事業はうまく組織され、それを管理する人たちはまったく正直で献身的である。簡単に言うと、あなたはたいへんけっこうな暮らしをしている。おそらく、あなたもそう思い、あなたの時間は自分のものであるから、まったく自由であると考える。あなたは芸術のパトロンであり、コーヒーを飲みながら世界の諸問題を解決し、潜在的な霊力の開発にさえ興味を持っている。あなたにとって、霊的な問題は無関係ではなく、哲学的思想にも精通している。教育があり、読書家である。多くの分野に幾分かの学識があり、あらゆる種類の探求に容易に自己の道を見いだすので、小才のきく人として知られ、教養人の典型である。要するに、人の羨む身分である。
朝、あなたは不快な夢で目を覚ます。やや消沈した気分はなくなったが、一種の倦怠(けんたい)感と動作の不確かさに、その跡をとどめている。髪にブラシを当てるため鏡のところへ行き、偶然ヘアブラシを落とす。拾い上げて埃を払ったとたん、また落とす。今度はあせり気味に拾い上げるが、そのせいで3度目も落とす。空中で掴もうとするが、逆に、ブラシは鏡の方向に飛んでしまう。捕らえようとして飛び上がったが失敗する。 カチャッ! ご自慢の骨董品の鏡に、星形の割れ目ができる。残念! 不満のレコードが回り始める。困惑を誰かにぶちまけなければならない。召し使いが朝のコーヒーに新聞を添えるのを忘れたのをみつけ、忍耐は限度を超え、もはや家中のそこつ者に我慢できないと決めてかかる。
外出の時間になった。行き先は遠くないので、晴天を利用して歩くことに決め、あなたの車がゆっくりと続く。輝く太陽が何となく気分をなだめる。あなたの注意は、意識を失って歩道に倒れている男のまわりに集まっている群衆に引かれる。ポーターがやじうまの助けを借りて、その男をタクシーに乗せ、男は病院に運ばれる。奇妙に見なれた運転手の顔が、いかにあなたの連想につながり、あなたが昨年遭遇した事故のことを思い起こさせるかに、注意しなさい。華やかな誕生パーティーからの帰途であった。そこで出されたのは、何とおいしいケーキであったことか! 朝刊を忘れた召し使いが、あなたの朝食をだいなしにした。今それを取り返してはどうか? やはり、ケーキとコーヒーは重要だ! ここに、友人とときどき行くしゃれたカフェがある。だが、なぜ事故を思い出したのか? 確かに、朝の不快さはほとんど忘れていたのに。今、ケーキとコーヒーは本当にそれほどおいしいのだろうか?
隣のテーブルに、2人の淑女がいる。その1人は、なんと魅惑的な金髪女性であることか! あなたをちらっと見て、友達にささやく、「私の好きなタイプの男性よ」。
確かに、問題の何一つ、時間を浪費したり、心を乱したりするに価いしない。金髪の女性に会った瞬間から、いかにあなたの気分が変わり、彼女のそばにいた間その気分が続いたかを指摘する必要があろうか? あなたは陽気な鼻歌を歌いながら帰宅し、壊れた鏡にさえ、笑顔をほころばす。だが、朝出むいたはずのビジネスはどうなのか? あなたはつい今しがたそのことを思い出した。それは賢明! だがそんなことは、どうでもいい。電話すればよい。受話器を取り上げると、交換手は間違い番号につなぐ。もう一度試みるが、同じ番号にかかる。相手の男が、うんざりだととげとげしく言う。あなたは自分の間違いではないと言い、口論となり、あなたは馬鹿で阿呆(あほう)者であると言われて唖然(あぜん)とし、そしてもう一度電話するなら……とやられる。足元の絨毯のしわがあなたを苛立たせ、手紙を持ってきた召し使いを叱る自分の語調に気づくことは間違いない。手紙は、あなたが日頃、穏当な見解の持ち主として尊敬している人からのものである。手紙の内容があなたをほめそやしているので、苛立った気分は次第に鎮まり、お世辞が引き起こす快い決まり悪さが入れ替わる。上機嫌で手紙を読み終える。
自由な人間であるあなたの一日を、私はさらに続けることができる。たぶんあなたは私が誇張していると考えるであろう。そうではない。これは実人生から取ったシナリオである。
これは国の内外で著名な、ある人の人生における一日である。その当夜、連想的思考と感情の鮮明な例として、彼が描写し、再現した一日である。人々やものごとが、自己の気分や事業、さらに自分自身を忘れるほど人を支配するとき、どこに自由があるのか?と、お聞きしたい。そのような変化に支配される人に、探求に対する真剣な態度があり得ようか?
人は必ずしも見かけのようである必要はないこと、問題は、〈外的環境や現実がどうというのではなく、人の内的構造と、こうした現実に対するその人の態度である〉ということが理解できるであろう。だが、連想についてこう言えるだけであって、「知る」ことに関しては、事情を異にするであろう。


自己知識に加え、探求の他の面である、自己発達がある。そこではものごとがいかなる状態であるかを見てみよう。自己の仕掛けのままの人が、いかにして発達するかという知識、いわんや、正確に何を自己の中に発達させるべきであるかを、自分の小指からしぼり出すことはできないのは明らかである。
探求している人々に出会い、話を聞き、適切な本を読むことにより、人は自己発達に関する問題の領域に、徐々に引き入れられるようになる。
しかし、ここで何に出会うだろうか?
初めに出会うのは、精神的無能からの脱出を求める騙されやすい人々をたぶらかす、金銭欲だけに基づいた、最も許し難いこの上ないインチキである
だが、毒麦から小麦を分離することを修得するまでには、長い時間を経過しなければならず、真理を見いだそうとする衝動そのものが揺らぎ、消滅するか、病的に歪(ゆが)められ、〈比喩的に言って、道を誤れば悪魔に直結する迷路に〉、鈍った直感がその人を連れ込むかもしれない。この第一の沼地を脱することに成功しても、似非(えせ)知識という新しい泥沼に陥るかもしれない。その場合、真理は、病理学で言う精神錯乱的印象を引き起こすほど、理解に苦しむ朦朧(もうろう)とした形で提供される。隠れた能力や機能を開発する方法や術が教えられ、辛抱すれば大した困難なしに、生き物、自動力のない物質、自然力を含む、あらゆるものを制する力と支配権を与えると約束される。
様々な説に基づくこうした体系のすべてが異常に魅惑的であるのは、正に疑いなく、その曖昧さによる。こうした体系は、生半可に実証主義を教えられ、生半可に教育された人たちに独特の魅力を持つ。
秘教的(エソテリック)あるいは神秘学(オカルト)的諸説の観点から研究される問題の大部分が、往々にして現代科学が入手できる資料の限界を超えているという事実から、これらの諸説はしばしば現代科学を見下す。一方では実証主義に適正な評価を下すものの、他方ではその重要性を見くびり、科学は失敗であるだけでなく、それ以下でさえあるといった印象を与える。
この類いの諸説が、人に他のすべての研究を軽視させ、科学的問題について判断させるのであれば、大学に行き、公認の教科書を苦労して勉強する必要があるだろうか? だが、こういう諸説の研究に欠けている重要なことがある。それは、
知識の究明に客観性をもたらさないということである。科学よりも、さらにひどい。それは確かに、人の脳を朦朧とさせ、健全に推理し思考する能力を減少させる傾向があり、精神異常へ導く。そういう諸説を本物の啓示と思い込む、生半可に教育された人たちに及ぼす影響である。しかし、こうした影響は、科学者たちへの影響とそれほど異ならない。科学者は、存在物に不満であるという毒に、ほんの少しでも冒されているのかもしれない。我々の思考機械は、繰り返して根気よく、望む方向に影響を与えさえすれば、何でも信じ込む能力を持っている。十分な確信を持って、何度も繰り返せば、初めは不合理に見えるかもしれないものが、しまいには合理的になる。それで、あるタイプの人が、頭にこびりついた既製の言葉を繰り返して言い、第2のタイプが、それを説明するための複雑な証明や逆説を見つける。どちらも同様に哀れなものだ。こうした諸説は、いずれも独断的で、通常では証明できない主張をする。ともかく、我々に使える手段では証明できない。こうした主張を証明することができる状態に導くという、自己開発の方法や手段が示唆される。原則として、これに対する異議はあり得ない。だがそうした方法を首尾一貫して実行することにより、過度に熱心な探求者を、きわめて好ましくない結果へ導くかもしれない。神秘学的諸説を肯定し、この分野に精通していると自認する人は、研究によって知った方法を実行するという誘惑に克てなくなり、知識から行動に移る。おそらく彼は、危険であると思う方法を避け、より信頼できる確かな方法を使い、慎重に行動するであろう。おそらく彼は最大の注意をもって観察する。それでもやはり、それを使いたいという誘惑と、そうしなければならないという強い欲求に加えて、結果としての奇跡的特質が強調されること、それらの暗黒面が隠蔽されていることなどが、実践へ導く。
実行の際に、自分に害のない方法を見いだすかもしれない。実践して、何かを得ることさえあるかもしれない。手段としてであろうと、結果としてであろうと、証明として供されるすべての自己開発方法は、概してしばしば矛盾し、理解できない。人間有機体という、複雑で未知に近い機械と、その機械に密接につながり、我々が精神と呼ぶ生の一面を、こうした自己開発方法によって扱うことは、実践中のちょっとした間違いや、最も小さい誤り、または過剰の圧力が、機械に修繕不可能な被害を与えることになりかねない。
この泥沼から、無傷で何とか逃れることができれば、まったく幸運である。
不幸にも、霊的能力や機能の開発に没頭している人たちの非常に多くが、精神病院で生涯を終えたり、人生に適応できないまったくの廃疾者となるほど、健康と精神をそこねている。こうした連中の数は、奇跡的で神秘的なものなら何でも思いこがれて、似非神秘主義(えせオカルティズム)に引きつけられる仲間によってふくれ上がる。
例外的に意志薄弱な人生の敗北者たちもいて、個人的利益のために、他人を支配する能力と機能を自己のうちに開発することを夢みる。その他に、悲しみを忘れる方法、日々の退屈をまぎらわす方法、人生の対立から逃れる方法といった、ただ人生における変化を求めている人々がいる。こういう人たちが、あてにした特質を獲得する望みが少なくなると、彼らにとって意図的なペテンの手に陥るのは簡単である。
私は典型的な例を思い出す。富裕で、多読家で、奇跡的なものをお構いなく探して広く遍歴し、挙げ句の果てに破産し、同時に、自分の研究の一切に幻滅を感じた、ある超自然能力探求者のことである。
彼は、他の生計手段を模索中、彼が莫大(ばくだい)な金とエネルギーをつぎこんだ似非知識を活用することを思いついた。それを思いつくや、実行した。そして、『超能力開発コース』というような、オカルト書の表紙を飾る題名を持つ本を書いた。
このコースは7つの講義からなり、磁化現象、催眠術、遠隔現象、透視、霊聴、星気体界への脱出、空中浮遊、その他の眩惑的な能力開発の秘法に関する短い百科辞典であった。『コース』は広く宣伝され、異常に高い値段で発売されたが、最後には、普通より粘り強い客や、しみったれの客に対しては、その本を友人に推薦するという条件付きでかなりの値引き(9.5割引まで)をして販売された。
こういう問題に対する一般の関心のおかげで、『コース』の成功は、著者のあらゆる期待を上回った。まもなく、購入者たちから熱狂的で敬意に満ちた、うやうやしい調子の手紙が寄せられた。
手紙は、「親愛なる師」とか「賢明なる指導者」と呼びかけ、様々な神秘的能力を並みはずれて早く発達させる可能性を与えた素晴らしい解説と、最も役立つ教えに対して、深い謝意を表していた。
こうした手紙はかなりの数にのぼり、その一つ一つが彼を驚かせた。ついに、彼の『コース』に助けられて、1ヶ月ばかりのうちに空中浮遊ができるようになったことを知らせる手紙が来た。確かに、彼の驚愕も限界に達した。
彼が実際に語った言葉はこうである。「起こることの馬鹿らしさには驚くばかりだ。『コース』を書いた私が、自分の教える現象の本質について、大してはっきりとした概念を持っていない。それでも、阿呆(あほう)たちは、ちんぷんかんぷんの中に、自己流による方法を見つけるだけでなく、何かを修得し、ついには、ある超阿呆が空中浮遊さえ修得した。もちろん、まったくのナンセンスだ。消え失せればいい。じきに拘束服を着せられるだろう。それが分相応の扱いだ。そういう馬鹿どもがいなければ、もっと気が安まるというものだ」
神秘家諸君、あなた方は精神開発に関するこの教本の著者の論旨がおわかりだろうか? この場合、誰かが偶然に何かを修得したかもしれないということはあり得る。というのは、往々にして人は、自分自身は無知でも、様々なことについて、自分で気づかないまま、妙な正確さをもって話すことができるからである。同時に、もちろん、彼が言い表したかもしれない真実が完全に埋没し、あらゆる種類の戯言という堆肥の山から、真実の精華を掘り出すのはまったく不可能なこともある。
「なぜこういう奇妙な能力があるのか?」と、あなた方は質問するかもしれない。理由はとても単純だ。すでに述べたように、
我々は自分自身の知識、つまり、生そのものによって与えられた知識、自分自身から取り去ることのできない知識を持たない。我々の知識はすべて単なる情報で、価値があるかもしれないし、価値がないかもしれない。我々は情報を海綿のように吸収するので、何も理解しなくても、それを繰り返して言い、それについて論理的に、納得のいくように話すことは、わけなくできる。情報は我々のものではなく、器に注がれる液体のように我々の中に注がれるので、失うのも同じようにやさしい。真実のかけらは、いたるところに散らばっている。知ることができ、理解することができる人は、人々がいかに真実と間近に暮らしているにもかかわらず、いかに盲目で、その事実を見抜くことに無力であるかを洞察し、驚嘆する。だが真実を探しに、独りで、人間の愚かさと無知という暗黒の迷路に陥る危険を冒すぐらいなら、何もしない方がはるかにましである。というのは、知識を持っている人の指導と説明がないと、人は知らぬ間に、あらゆる段階において、損傷、つまり、機械の狂いを生じ、機械を痛めることにかけたよりずっと多くを、修理にかけなければならない。
自分自身について次のように語る分別ある人を、あなたはどう考えたらいいのだろうか?
「自分は完全に従順な人間で、その行為は、周囲の人々を支配する権限に支配されない。なぜなら、自分は物理的生活の基準をあてはめることのできない、精神界に暮らしているからである。」
現実には、彼の行為はずっと前に精神病理学者による研究の主題であるべきであった。これが、毎日数時間、良心的に根気強く自己の「仕事」をする男である。すなわち彼は、心理的奇矯を深め、強めることにすべての努力を傾けているのであり、この奇矯性はすでにかなり重く、彼が遅からず精神病院行きであるということを、私は確信している。
不正な指導による探索と、それがどこへ導くかの例は、枚挙にいとまがない。神秘学によって発狂しながら、我々の中で生活し、常軌を逸した行為で我々を呆れさせる著名人たちの名を挙げることもできる。彼らを発狂させた、まさにその方法、彼らがどの領域で「仕事」をして、自己を開発したか、そしていかに、なぜ、そうした方法が彼らの心理的構造に影響したかということを話すこともできる。


この領域のあらゆる段階で人を待ち構えている障害と欺瞞を研究すればするほど、偶然に出会う人から受ける偶然の教えや、読書や、何げない話から選び取った類いの情報に依存して自己開発の道を進むことは不可能であるということを、ますます確信するようになる。
同時に人は、次第にもっとはっきり見るようになる。初めはかすかに明滅する微光を、さらに、あらゆる時代を通して人類を照らしてきた真理の輝かしい光を。伝授の起源は光陰のかなたに消失し、同時に、各時代をつなぐ長い鎖が展開する。偉大な文化と文明が、祭儀と秘儀からかすかに浮上し、彷彿と現れ、絶えず変わり、消え、また現れる。
「偉大な知識」は時代から時代へ、民族から民族へ、人種から人種へ次々と伝えられる。
インド、アッシリア、エジプト、ギリシアにおける、伝授の偉大な中心地が、世界をまばゆい光で照らす。秘法を伝授された高徳者たち、真理の生ける伝え手たちの尊い名は、世代から世代へ、おごそかに伝えられる。真理は象徴文学や伝説という形で永遠に固定され、風習、儀式、口伝、記念碑、宗教芸術という形で、舞踊、音楽、彫刻や、様々な儀式による不可視の本質を媒体に、保存を目的とし、大衆に伝達される。偉大な知識は、それを求める人たちに、一定の試練の後に公然と伝えられ、連綿とつながる知者たちの鎖によって口伝えに保存される。秘法を授ける中心地は、一定の時が経過すると、次々に廃れ、古代の知識は探求者たちの目を逃れ、地下経路を経て内奥へ立ち去る。
この知識の伝え手たちも隠れ、周囲の人たちに知られざる存在となるが、存在しなくなったのではない。ときおり、別個の流れが表面に現れ、内奥では、存在についての真の知識という古代からの強烈な流れが、我々の時代においてさえ、流れ続けていることを知らせる。
この流れへ向けて突破すること、流れを見つけること、これが探求の仕事と目的である。見つけてしまえば、行こうとするその道に自己を大胆にゆだねることができ、そうなると、「存在すること」と「為すこと」のために、「知ること」が残されているだけである。この道において、人はまったくの1人ではなく、この道を行く人はみな1本の鎖でつながっているので、困難に直面すれば支援と指導を受ける。
おそらく、神秘学研究の曲がりくねった小道や脇道に費す一切の遍歴のうち、ただ1つの建設的な結果は、確実な判断力と思考能力を維持すれば、直感と呼び得る、あの特別な識別能力を発達させることであろう。人は精神異常の道や誤った道を捨てて、辛抱強く本当の道を探すであろう。ここでも、自己知識の場合のように、
「為すためには知らなければならず、知るためにはいかにして知るかを見いださなければならない」という既に引用した原則が役立つ。


厳密な研究には厳密な言葉が必要である。
ところが、我々が日常生活で話したり、自己の見解を述べたり、あるいは本を書いたりするのに使っている普通の言葉は、厳密な言語表現には何の役にも立たない。的確でない言語表現は、厳密な知識には役立たない。我々の言語を構成している単語は、あまりにも幅が広く、霧がかかったようにぼやけ、不定であり、言葉の意味は個人の判断で幾通りにも解釈できる。誰でも、何か言葉を発するとき、空想によって、その語にあれ、またはこれといった意味合いをつけ加え、色彩をほどこしてしまう。そういうわけで、あれとか、これとかの側面だけを誇張したり強調したり、ときにはその単語が持つすべての意味を、ただ1つの特徴に凝縮してしまう。すなわち、その語が持つすべての属性ではなく、話し手の注意を真っ先に引いた偶発的な属性だけに限定してしまう、ということが起こるのである。
一方聞き手も、その語に別の意味合いを加味し、違った内容に解釈するのであるが、まったく正反対の意味に取ってしまうことも珍しくない。これに第三者が加わると、この人も独自の意味を同じ語に加味するということになる。従って、仮に、10人の人が話し合っているとすると、同一の単語が十人十色に解釈されてしまう。ところが、こんなふうに話しているご本人たちは、互いに理解し合え、各自の考えを交換できると信じ込んでいるのである。
現代人が使っている言語は非常に不完全であり、科学的内容の場合は特にひどいのだが、話す内容が何であろうと、同一の言葉で同一の考えを表しているか否か、本人同士が確かでないことは疑問の余地がない。
それどころか、どの語についてもみなが異なった解釈をしており、同一の主題について話しているように見受けられるものの、実際は、まったく違ったことを話している。このことは、ほぼ確定的である。その上、自分が使う言葉の意味も、その言葉に与える意味合いも、話し手自身の考えや気分や、そのときその語によって連想するイメージとか、さらに、話の相手が何についてどんなふうに話すかによっても変わってくる。というのは、無意識的に真似たり、矛盾したりして、話し手は自分自身の使う言葉の意味を無意識的に変えてしまうからである。おまけに誰一人として、自分がこの語やあの語で何を意味するのかを定義できず、またその意味が一定なのか、変化するのか、もし変化するとすればいかにして、なぜ、いかなる根拠によってそうなるのかを明らかにすることもできない。数人の者が話している場合、各自が自分勝手にしゃべり、一人として相互理解をしていない。教授は講義を朗読し、学者は本を書き、聴衆や読者はそれを聞いたり読んだりするものの、講義や本自体ではなく、教授や著者の言葉に、そのときどきの自分自身の考え、見解、気分、感情などを加味した組合せを読んでいるのである。
現代人はある程度、言語の頼りなさに気づいている。多岐の分野にわたる科学では、どの分野でも独自の専門用語や学名の創造に苦心している。哲学では、用語を定義してから使用するという試みがなされているとはいえ、現代人が、言語に一定不変の意味を持たせようといかに努力してみても、今までのところ成功したためしがない。著述家は誰もが自分自身の用語を決め、先輩の用語を変え、その上自分が開発した用語さえ矛盾させてしまう。このようにして皆が言語の混乱に貢献している、といった有様である。
この教えは、言葉の混乱の原因を指摘する。我々の言語は、いかなる一定の意味も持たず、持ち得ない。どの語についても、その語の持つ本来の意味と、我々がその語に加味してしまう特殊な色合いを持つ。すなわち、我々がその語をどのように理解しているかという関係を明らかにするということは、第一に、我々はそうする手段を持たず、第2に、そういうことを目的にしていないばかりでなく、決まって、ある語に一定の意味を与えたがり、いつもその意味にしか理解しようとしないということである。まったく同一の語が、いろいろな場合に、様々な関係のもとに使われ、違った意味を持つから、我々の意図することは明らかに不可能である。
言葉の誤った使い方と言葉自体の持つ特性のゆえに、我々の言語は、厳密な言語表現と厳密な知識にとってあてにならない道具と化している。ましてや、我々の理性に可能な様々な概念に関しては、妥当な言葉も表現方法もないのは言うまでもない。


その原則についてこれから解説しようとしているこの教えは、我々の思考を事象の正確な数学的表示になじませ、それによって自己理解と、他者との相互理解を可能にすることを課題の一つとしている。
最も普通に使われている語をいくつか取り上げ、使う人によって、また、それがどういう関係で使われているかによって意味が違うことを調べてみれば、なぜ人が自分自身の考えを正確に表現する能力を持っていないか、また、言ったり考えたりすることがみなあてにならず、矛盾しているかがわかる。
語というものが多様な意味を持ち得るという事実とは別に、言葉による混乱と矛盾は、我々がある語を用いるときに、どの意味でその語を使うかは考えもしないで、これほど明確な意味がなぜ他人には解せないのだろう?と、いぶかしく思う事実に起因する。
例えば、10人の聞き手に「世界」という語を使ったなら、10人が10人とも自己流に解釈する。自分の思考を自分で捕らえるならば、「世界」という語につながるいかなる概念もなく、ただこれが周知の語で、聞き慣れた音がつぶやかれただけであり、この語の意味は一般に誰もが知っているものとされている、といったことに気づくであろう。
おそらく、この語を聞く人はみな、次のようなひとりごとを言っているかもしれない。
「『世界』なら知っている」と。実のところ、何も知ってはいないのである。なじみ深い語なので、つい、何の疑間も答えも浮かばないのである。ただそう理解しているだけである。
疑問というものは、知らない言葉を初めて聞くときにだけ起こり、人はその未知の語に既知の語を代用しがちである。それを「理解」と呼んでいる。
「世界」という語について何を知っているか?という質問をすれば、大抵の人はそのような問いに当惑するに違いない。普通、会話の中で「世界」という語を聞いたり使ったりする場合、そんなことは自分も知っている、誰でも知っている、と決め込んでしまっているから、この語が何を意味するかを誰も考えない。また、たとえ今まで一度も考えてみなかった、という点に気づいたとしても、自分が無知であるという考えを、そうやすやすと信じることはできないし、信じることもないであろう。人間は満足な観察力を持ち合わせていないし、観察できるほど自分自身に対して誠実ではない。すぐにいつもの自分を回復し、すばやく自分自身を欺き始め、大急ぎで「世界」という語の定義を、なじみの知識や思想の糸をたどって思い出したり、構成したり、最初に頭に浮かんだ他人の定義を自分自身の定義であるかのように述べてみたりする。だが実際には、「世界」という語について一度もこんなふうに考えてみたこともないし、自分がどのように考えてきたのかもわかってはいない。

天文学に関心を持つ人なら、「世界」を次のように説明するであろう。世界とは、惑星に取り囲まれた膨大な数の太陽からなり、各太陽間には測り知れぬ距離があり、我々が銀河系と呼ぶ宇宙を構成し、銀河系のかなたに空間が広がり、人知の及ばぬ果てにも他の星と世界があると推定される。
物理学に関心を持つ人なら、振動と放電の世界、エネルギー論や、おそらく、原子と電子の世界が太陽と惑星の世界に類似していることについて言及するであろう。
また、哲学的傾向を持つ人であれば、人間の感受性と感覚が時間と空間に創造する可視の世界は非現実で、幻想であるということを話し始めるであろう。原子や電子の世界、地球及びその山河、動植物、人間や都市、太陽、星、銀河といったものはすべて現象の世界であり、人間自身の観念が創造した欺瞞、虚偽、妄想の世界である。この世界のかなた、人知の及ばぬところに不可知の実在があり、現象界はその影、反映にすぎないと言うであろう。
現代の理論である多次元の空間に明るい人は、世界は通常、無限大の3次元球とみなされているが、そのような3次元の世界といったものが実在するはずはなく、もう1つの世界、すなわち、3次元の世界の想像上の一断面を表しているのであり、すべての事象はそこから発生し、そこへ戻るのである、というように説明するであろう。
また、宗教の教理に基づく世界観を持っている人なら、世界は神の創造物であり、神の意志で決まり、可視の世界では人間の命は短く、状況や偶然に左右されるが、この世界の向こうに不可視の世界が存在し、そこでは生命は永遠で、人間はこの世で行なったすべての行為について賞罰を受ける、というように述べるであろう。
神智学者なら、星気体界が可視的世界全体を包含しているのではなく、本質的に希薄な物質で構成されている7つの世界が相互に浸透して存在している、と説明するであろう。
ロシアの農民や東方諸国の農民なら、世界は村落共同体であり、自分もその一員である、と言うであろう。彼にとっては、そのような世界が最も身近な世界なのである。村の総会では、仲間の村民を、「世界」とさえ呼びかける。
「世界」という語に関するこういった定義の仕方には、どれも長所と短所がある。最大の短所は、どれもが反対の世界を除外し、どれもが世界の一面だけを想像し、その観点のみから見ているということである。正しい定義とは、個々の世界観を全部総合し、個々の世界が属する場所を明確にするだけでなく、同時に、個々の世界観において、それが世界のどの面を、どの観点から、どういった関係において述べているかを明らかにするものでなければならない。

この教え
では、〈世界とは何かという設問に正しく取り組むことができれば、この語によって我々が何を理解するかを、かなり的確に設定できる〉と説いている。そして、このような正しい理解という定義それ自体が、あらゆる世界観と、設問に対するあらゆる手掛かりを内包しているのである。こういった定義について合意を得て初めて、世界について話すとき、相互理解に達することができる。
こういう定義から出発して初めて、世界について語ることができるのである。
だが、そのような定義をいかにして見いだすか?
最初に、できるだけ単純に設問する。ということは、〈世界についてごく普通に使われている表現を使うこと、そして、どの世界について話すかを考えること、言いかえれば世界に対する我々の関係、我々に対する世界の関係を見ることである〉と、この教えは指摘する。
世界について話す場合、最も頻繁に言及されるのは、大地、地球(というよりはその表面)、とりも直さず我々が生活している世界である。
仮に、地球の宇宙に対する関係を見ると、地球の衛星は地球の影響圏内に包含され、一方、地球は、我が太陽系の中に一構成部分として入る。地球は太陽のまわりを公転する小惑星の1つである。
地球の大きさを太陽系内の惑星全体の大きさと比較すると、取るに足らぬほど微少であり、これらの惑星が地球それ自体の生命、及びすべての存在と生命体に及ぼす影響は多大であり、現代科学が想像するよりずっと大きな力を及ぼしている。個人の生命、集合体の生命、人類の生命は、非常に多くの点で惑星の影響を受けている。我々が地球に棲息しているように、惑星も生きている。
だが、惑星の世界自体も太陽系に入り、しかもその中のきわめて取るに足りない存在として入るのは、惑星全部を集めても、その大ささは太陽の大きさの何分の一という程度にすぎないためである。
太陽の世界もまた、我々が住む世界である。これもまた銀河系を形成している膨大な量の太陽集団として、星の世界に入る。
星の世界もまた、我々が住む世界である。星の世界全体をとると、この世界は、現代の天文学者の説においてさえ、分離した存在を表しているもののようであり、一定の形を持ち、空間に囲まれ、それより先は科学的探求を拒絶する世界である、と説明されている。だが、天文学は、この我々の星の世界を超えた広大無辺のかなたにも、別の群れがあるかもしれないと仮定している。この仮定を肯定すれば、我々の星の世界はこういった世界が集まってできた総体を構成する部分として組み入れられている、と言わねばならない。「すべての世界」が集まってできたこの世界の群れもまた、我々が生きている世界である。
科学はこれより先は見通せないが、哲学的思索は、すべての世界を超越して存在する究極的原理、すなわち、「絶対」(ヒンドゥー教でいうブラフマン)を洞察するであろう。
世界について今まで述べたことのいっさいは、簡単な図表で表せる。地球を小さい円で表し、それにAという文字を記す。円Aの内側に月を表す小さめの円を加え、Bと記す。地球を表す円のまわりに、それより大きな円を描いて地球が入る世界を示し、それにCと記入する。この円のまわりに太陽を表わす円を描き、Dと記す。この円のまわりに星の世界を表す円を描き、Eと記す。この円のまわりに「すべての世界」を表す円を描き、Fと記入する。円Fを、すべての事象の哲学的原理である「絶対」を表す円Gで囲む。
こうして、
7つの輪を持つ同心円の図ができあがる。この図表を心に留めていれば、「世界」という語を発するとき、どの世界について話しているのか、またその世界に対し、自分がどんな関係にあるのかを、いつも的確に定義することができる。
後で説明するように、この図表は、世界についての天文学的、哲学的、物理学的、理化学的、数学的(多次元の世界)、神智学的(相互に浸透する世界)、その他の定義を理解し総合するときに役立つのである。
また、世界について話している人たちが、なぜ互いに理解し合えないかもはっきりさせる。
我々は、1つの世界に生きると同時に、6つの世界に生きているのである。ちょうど、世界のどの部分の、どの国の、どの町の、どの通りの、どの家の、どの階に住んでいる、といった場合と同じである。
住んでいる場所について話すとき、世界のどの部分の、どの町の、どの階ということを示さなければ、相手に理解してもらえないであろう。ところが、人々は何についてもそんなふうに示すことをせず、実際に役立つ点を抜きにして話す。「世界」の例でみたように、人々はたった1つの語に、微細な部分が膨大な全体に次々に関連しているように、それぞれ関連する一連の概念をあまりにも安易に与えてしまっている。しかしながら、厳密な言語表現は、個々の概念がいかなる関係において理解され、その概念自体が何を内包しているかを常に明確に示すべきである。言いかえれば、その概念がどのような部分で構成され、それ自体も構成部分としていかなるものに組み込まれているかを明確にする。
こういったことは論理的に納得でき、また、そうならざるを得ないはずであるが、人々は概念の異なる部分と、それらの関連性に無知であり、またそれらをいかに見いだすかを知らないという理由だけで、かつてそうなったことがないのは不幸である。
個々の概念の相対性を明らかにすることは、この教えの原理の重要な部分を占めているが、世界のあらゆるものが相対的であるといった抽象論ではなく、そのものが何においていかに他のものと関連しているかを的確に示す意味においてである。

そこで、「人間」という概念をとってみょう。この語に関しても誤解があり、同じ矛盾が込められていることはたしかである。みながこの語を使い、また、「人間」が何を意味するかを知っていると決め込んでいるが、実際には、誰もがそれぞれ自分自身の解釈をしていて、そのどれもが違っている。
学識ある動物学者なら、人間に完成した猿の種を見、歯の構造などでもって人間を定義する。
宗教的で、神や来世を信じる人なら、人間に、誘惑に囲まれ、危険へ導く、朽ち果てる現世の衣に包まれた不死の魂を見る。
政治経済学者は、人間を生産し消費する存在とみなす。
こういった見解は、どれも互いにまったく対立し、矛盾し、何の接触点も見いだせない。その上、問題はもっと複雑である。人間にみられる相違は数多く、それらは著しく、明確に違っていて、「人間」という一般的な語によって、これほど異なる範疇(はんちゅう)の存在を表現することは、往々にして奇妙に感じられる。
こうした事実を考慮せず、人間とは何かと自問すれば、回答に窮してしまう。
我々は、人間とは何であるかを知らないのである。
解剖学、生理学、心理学、経済学のいずれによる定義も不十分であるのは、どれも、あらゆる人間を一様に説明し、個々の人間にみられる差異を区別することを認めないためである。
我々の教えは、人間とは何かを確認するためなら、人間に関して持っている我々の蓄積情報はかなり豊富であることを明らかにしている。だが、
我々は、問題をいかに率直に取り扱うかを知らない。我々自身が問題を必要以上に複雑にし、錯綜(さくそう)させている。

人間とは、「為す」ことができる存在であると、この教えは説いている。「為す」とは、意識して、しかも自己の意志に従って行動することを意味する。
人間に関してこれ以上完璧な定義は見いだせないということを認めなければならない。
動物が植物と相違するのは、その歩行能力においてである。岩石に付着した軟体動物、また潮流に逆行できるある種の海藻などは、この法則に反しているかのように見受けられるが、法則はやはり正しく、植物は餌を求めたり、衝撃を避けたり、植物を探している者の目を逃れようとしたりはしない。人間が動物と異なるのは、意識した行為、「為す」能力においてである。この事実は誰も否定できないし、この定義がすべての要件を満たしていることは明白である。こう定義することは、意識的に行動することのできない他の一連の生物から人間だけを選り抜き、同時に、行動するときの意識の度合いに応じて、人々を選別することを可能にする。
人々の間にみられる差異はすべて、行動における意識の差異に帰せられると断言しても誇張ではない。人々が我々の目にかくも異なって映るのは、我々の見解では、ある人々の行動は徹底して意識的であり、一方、他の人々の行動は石の無意識を上まわるほど無意識的だからである。
石でさえ、少なくとも外界の現象に正しく適応している。しばしば同一の人物が、意志による完全に意識的と見える行為と平行して、まったく無意識的な、動物機械的な反応を示すという単純な事実により、問題が複雑になる。このため、人間が、法外に複雑な存在に見えるのである。この教えは、複雑さを否定し、人間に関してきわめて困難な課題を掲げる。
人間とは「為す」ことができるのであるが、凡人はもとより、非凡とみなされている人々の中にさえ、「為す」ことのできる人はただの一人もいない。彼らの場合、何事によらず、初めから終わりまで「なった」のであり、彼らが「為せる」ことは一つもない。
個人として、家族の成員として、社会人としての生活においても、政治、科学、芸術、哲学、宗教の分野においても、すべては初めから終わりまで「なった」のであり、誰も何1つ「為す」ことができない。
2人の人が人間に関して話すとき、〈人間とは行動でき、「為す」能力を持つ生命体である〉ということに初めに意見が一致すれば、この2人は常に互いに理解し合える。確かに彼らは、「為す」とはどのようなことであるか、十分に明確にするであろう。「為す」ためには、きわめて高度の存在と知識が必要である。凡人には、「為す」ことが何であるかさえわかっていない。というのは、その人自身もその人の周囲の一切も、みな常に「なった」からであり、「なってきた」からである。それでも、なおかつ、人間は「為す」ことができるのである。
眠っている人間は「為す」ことができない。すべてが眠っている間に「なって」しまう。ここで言う眠りとは、文字どおりの有機的睡眠ではなく、ただの連想的生存状態という意味である。何よりもまず目覚めなければならない。目覚めれば、このままの自分では「為す」ことができないのに気づく。自主的に死ななければならないであろう。死ねば、新たに生まれることができるかもしれない。だが、生まれたばかりの存在は、成長し、学ばねばならない。成長し、知識を獲得して、初めて「為す」のである。
人間について今まで述べてきたことを分析してみると、その前半は、人間は何事も「為す」ことができず、何もかも自分の中で「為されている」ということにつき、これははからずも実証的科学の人間観と一致する。
実証主義者は、〈人間とは高度に複雑な有機体であり、最も単純な有機体から進化という過程を経て発達し、極度に複雑な方法で外界の印象に反応する〉という見方をしている。人間にみられるこの反応能力は大変複雑で、また、それに呼応する運動が、そうした運動を誘引し条件づける原因とは間接的であるため、人間の諸活動、いや、少なくともその一部は、無知な観察者の目にはまるで自主的で独立した活動のように映るのである。
実際には、人間は、独立した自主的活動など、ほんのちょっともできはしない。彼の全体が、外的影響によって生じた結果に他ならない。人間は1つの過程であり、諸力の発信施設である。生まれながらにしてあらゆる印象感受能力を失い、何かの奇跡で生命を維持している人を想像してみよう。こういう人は、いかなる活動も運動もできない。現実には、呼吸することも、食べることもできないのであるから、生きることはできない。
生命とは、呼吸、食物の摂取、物質交替、細胞と組織の成長、反射作用、神経衝撃などの極めて複雑な一連の活動である。外界からの印象を欠けば、こういった活動のどれ1つとして起こらず、通常、意志と意識から発するとみなされているもろもろの表現も、もちろんできない。
このような実証主義的観点によると、人間が動物と異なるのは、人間の場合、外界からの印象に対する反応がはるかに複雑であり、印象と反応との間隔が一層長いからにすぎないということになる。だが、人間も動物も、外界からの印象とは無関係に、内部に発する独立した活動はできず、人間の意志と呼ばれるものは、実は願望の産物にすぎない、ということになる。
実証主義的見解とはまさにこのようなものであるが、このような視点を一貫して忠実に提唱している人は少数であり、大多数は、自分自身も他人も、厳正な科学的実証主義的世界観に立っているものと勝手に想像しているだけで、実際には、雑多な理論の混合物を掲げているにすぎず、彼らは、実証主義的見解をある程度まで認めるものの、こうした見解があまりに厳しく、慰めとなるものがあまりに少なくなり始めるまでのことである。一方では、人間の身体的、心理的過程は、すべて条件反射的性質であるとしながら、他方では、何か独立した意識とか、精神性とか、自由意志を許容しているのである。
この教えの観点に立てば、意志とはある特別に発達したいくつかの資質からできた一種の結晶であり、「為す」ことができる人の中に存在する。意志は、凡人的存在に比較して、非常に高い序列の存在のしるしである。そういう存在を持つ人のみ「為す」ことができるのである。他のすべての人々はただの自動人形であり、機械や、ぜんまい仕掛けの玩具のように、外力によって動かされ、巻き上げられたぜんまいが元に戻るまでの活動範囲と活動時間だけ作動でき、それ自身の力には何1つ加えることができない。
このように、私が説く教えは、人間の偉大な可能性、実証的科学が推測するよりはるかに大きい可能性を認めるが、現状のままの人には、独立と意志の存在としてのいかなる価値も認めない。


人間は多様な印象を感受するのに適したメカニズムを持って生まれてくると言われる。ある種の印象に対する知覚能力は出生以前に始まり、成長するにつれその他の受信装置が芽生え、完成されていく。
これらの受信装置の構造はどれも同じであり、レコード盤をつくるときに使う、ワックスを塗布した無垢(むく)の円盤を想起させる。こういった巻物や巻き枠に感受した印象はすべて記録され、生後第1日目から、またある印象はそれ以前から始まる。このような仕組みには、もう1つの自動調節装置があり、この装置のおかげで、新しく感受した印象が、ことごとく、以前に記録された印象に結びつけられる。
この他、年代順の記録も保存される。こうして、経験された印象は、全部数個の巻物の数か所に記録される。記録は元のまま手をつけられずに、巻物に保存される。我々が記憶と呼んでいるものは、きわめて不完全な適応であり、蓄積された印象のうちのごく一部を記録するにすぎないが、一度経験された印象はけっして消えることがなく、巻物に記録され保存される。催眠術による多くの実験は、反駁(はんばく)し得ない例証をあげ、人間は経験したものいっさいを微細な点にいたるまで記憶していることを明らかにしている。完全に無意識の存在であったと思われる幼少時のことえ、周囲の人たちの顔や声にいたるまで、細部にわたって記憶している。
催眠術を用いれば、そのような巻物を回転させて、メカニズムの最深層部にまで達することができる。だが、巻物自体が何か可視、不可視のショックを与えられた結果、自然に巻き戻り始め、ずっと前に忘れてしまった光景、状況、人の顔などが、突然表面に浮上することもある。人間の内面の精神活動とは、印象を記録した巻物を精神的視覚に繰り広げることに他ならない。ある人の世界観にみられる特異性や、その人に固有な特徴は、いずれも、記録が展開される具合と、その人の中にある巻物の質にかかっている。
ある印象が経験され、この印象とは何も共通しない別の印象と関連して記録されると仮定しよう。
例えば、とても軽快な舞踏曲を、強烈な精神的ショックや、苦悩、悲嘆のおりに聞いたとしよう。
以後、この曲は、このときと同じ悲観的な感情を呼び起こし、同様に、沈うつな気分がこの明るい舞踏曲を思い出させる。
科学ではこれを連想的思考、連想的感覚と呼んでいる。しかし、科学の盲点は、人間がどれほどこの連想にがんじがらめにされ、身動きできずにいるかに気づいていないということである。人の世界観は、もっぱらこうした連想の特徴と量で決まる。

10
人間は複数の存在である。自己について話すとき、普通、「私」と言う。「私はこうした」、「私はこう考える」、「私はこうしたい」と言う。だが、これは間違っている。
こんな「私」などありはしない。いやむしろ、我々一人一人の中に、無数の小さな「私」がいる、と言うべきであろう。我々は分裂しているのだが、自分が複数であるということは、自己を観察し、研究しなければ認識できない。ある瞬間にはある「私」が出演し、次の瞬間には別の「私」である。
人間が調和的に機能しないのは、我々の中の「無数の私」が互いに矛盾しているからである。
通常我々は、自分の機能と力の、微少な部分だけしか使わずに生きているが、自分が機械であることを認識せず、自己のメカニズムの性質と働きを知らないからである。
私たちは機械なのだ。我々は、完全に外的状況に支配されている。我々の活動はすべて、外側からの圧力に対して、少しも抵抗しようとしない。
自身で試してみなさい。自分の感情を支配できるか? できない。あなたは感情を抑えつけようとか、ある感情を別の感情で追いやろうとするであろう。だが、感情は支配できない。感情があなたを支配する。また、あなたはあることをしようと決める。あなたの知性という「私」がそんなふうに決定する。ところが、いざ実行の段になると、まったく反対のことをしてしまう。
周囲の事情があなたの決定に好都合であれば、実行するであろうが、不都合であれば、成り行きにまかせてしまう。あなたは自分の行動を制御できない。あなたは機械であり、あなたの願望とは無関係に、外的状況があなたの行動を左右している。
誰一人として自分の行動を制御できない、とは言っていない。あなた方にはできない、と言っているのである。それはあなた方が分裂しているからである。あなた方には2つの部分、強い部分と弱い部分とがある。強さが増せば弱さも増し、止めることを知らないと、否定的な力になる。
自分の行動を制御することを学べば、別である。
ある水準の存在に達すると、自己のあらゆる部分を真に制御することができるが、今のような我々では、決めたことさえ実行できない。

11
自己観察は非常に難しい。試みるほどにはっきりしてくる。
今はただ結果を期待せず、あなたは自己を観察できないということを知るために実行しなさい。今まであなた方は、自分を見えていて、自分を知っていると思っていた。
私は、客観的自己観察のことを話しているのである。客観的に自分を観るということは、ただの1分間もできない。それは別の機能、師の機能であるからだ。
5分間なら観察できると思うなら、それは誤りである。20分間なら、あるいは1分間ならというのも、どれもみな間違いである。観察できないと率直に認めることができたら、それでよい。そうなることが目標である。
この目標を達成するには何度も試みなければならない。試みた結果は、本当の意味での自己観察とは異なるであろう。しかし、試みることにより注意力を強め、集中力を高めることを学ぶ。こういうことはみな、後になって役立つ。そのとき初めて、自己を思い起こすことができるようになる。
自己覚醒には多くのことが必要だから、仕事を続ければ、自分を覚えている瞬間が多くなるのではなく、少なくなるはずである。生易しいことではない。非常に多くを失わねばならない。
数年間は、自己観察を実行するだけで十分である。他のことはいっさい試みてはいけない。誠実に仕事を続ければ、自分に何が必要か、おのずとわかるであろう。
今、あなた方には1つの注意力しかない。身体か、感情か、どちらかの注意力である。

12
仕事と外的な生活の両方を維持しようと願うなら、誰もが大いにある特定の訓練を必要としている。我々は内面と外面の2つの生活を持ち、それで、2種類の配慮を持つ。我々は絶えず配慮する。
あの女性が私を見ると、私の内部では嫌悪を感じて怒りを感じるが、表向きは丁寧に対応する。
その女性が必要なので、非常に丁重にしなければならない。内面では、私は私のままであるが、外向きは別である。これが外向きの配慮である。その女性は、私を馬鹿者呼ばわりし、怒らせる。私を怒らせるという事実は結果であり、そのとき私の内面で起こることは、内向きの配慮である。外向きと、内向きの配慮は別のものである。この内向きと外向きの2種類の配慮を別々に扱えるようにならねばならない。我々は、内側だけでなく、外側も変えることを願っている

昨日、あの女性が悪意を持った目で見たとき、敵意を感じた。だが今日は、あんなふうに私を見たのは、たぶん馬鹿な女だからであろうとか、おそらく私に関して何か聞いたり、知ったりしたからかもしれない等々を理解する。その上、今日は平静を保ちたい。あの女性は奴隷であり、そんな人に内面で怒りを感じるべきではない。今日からは、内面でも平静であろうと望む。
外向きでは、今日も丁寧でありたい。だが、必要なら、怒っているようにみせることもできる。外向きには、彼女にも私にも最善であらねばならない。配慮が必要だ。内向きと外向きの配慮は、別々でなければならない。凡人の場合、内面の結果がそのまま外向きの態度となる。彼女が丁重であれば、こちらも丁重にする。だが、こうした態度は別々でなければならない。
内面では、配慮から自由であるべきだが、外向きは、今まで以上に配慮すべきである。凡人は外側からの指令で生きている。
変化について語るとき、我々は内側の変化の必要性のことであると考える。外側は、すべてがうまくいっていれば、変える必要はない。たとえ、うまくいっていなくても、たぶん変える必要はなかろう。もともとなのだろうから。必要なのは、内側を変えることである。
今まで、我々は何1つ変えなかったが、今日からは変えることを欲する。だが、どうしたらよいのであろうか? まず、無用なものを区別し、仕分け、捨て、新しいものを築く。人間は、善いものも悪いものもふんだんに持っている。いっさいがっさい捨ててしまうと、後で回収しなければならない。

13
すでに述べたように、正しい人間の仕事の本質は、運動、感情、思考の3つの中枢部が共に働くことにある。この3つがそろって働いて行為を生み出す。これが人間の仕事である。そうあるべき方法でするならば、床を磨くことにさえ、25冊の本を書くよりも1,000倍の価値がある。だが、3つの中枢部で仕事を始め、これらを仕事に集中させる前に、各中枢部を別々に訓練して、集中できるように準備する必要がある。運動中枢部を訓練し、他の中枢部とともに働けるようにする必要がある。各中枢部それ自体が、3つの部分で構成されていることを銘記せねばならない。
人間の運動中枢は程度の差はあれ、適応している。
2番目に難しい中枢部は思考で、1番難しいのが感情である。我々は、運動中枢を集中させることでは、小さな点で成功し始めている。それにひきかえ、思考、感情のどちらの中枢もまったく集中できない。望みの方向に思考を集めることに成功することを求めるのではない。
成功しても、単なる機械的集中で、誰でもできる。これは人間の集中力ではない。いかにして連想作用に依存しないかを知るのが重要であり、我々はまず、思考中枢部から始める。運動中枢部については従来と同じ訓練を続けることにする。
この先へ進む前に、一定の順序で思考する方法を学ぶと役に立つ。誰もが、ある対象を選ぼう。
この対象物に関して、次のように自問し、あなたの持つ知識と資料をもとに答えなさい。
(1)対象物の起源
(2)起源の原因
(3)来歴
(4)特質と属性
(5)それに結合するものと関連するもの
(6)用途と適用
(7)結果と効果
(8)それが何を説明し、何を立証するか
(9)その結末と将来
(10)あなた自身の見解と見解の根拠と動機


14

ここにいる一部の人たちにとって、プリオーレ
(グルジェフが一時的にフランスで開いた学校)滞在は、まったく意味を失ってしまった。この人たちは、ここにいる理由を聞かれたら、まったく返答に窮するか、それでなければ、無意味な回答をしたり、自分で自分の言っていることを信じないか、冗長な哲学談義を披露したりするであろう。
中には、なぜここに来たかを、初めのうちは自覚していた人もあるかもしれないが、今では忘れている。ここへ来た人たちはみな、何かをする必要性に気づき、また試行した結果、普通の生活環境では何も成就できないという結論に達したのだと思う。そこで、自己の仕事ができる人為的環境を探し始めたのである。そしてついに探し当て、ここではそうした仕事ができることを知ったのである。確かにここでは、探求者が探していた状況に身を置けるような場がつくられ、組織されている。
ところが、今私の指摘している人たちは、ここの状況を利用していない。ここの状況に気がつかない、とさえ言えるかもしれない。この状況が見えないという事実は、本当はこのような状況を求めていたのではなく、また日常生活においても、自分が探求しているはずのものを獲得しようとする努力をしなかったのだ。自己の仕事のためにあるこの状況を利用せず、見ることもできない人たちには、ここは無用の場である。ここに滞在することは、時間を浪費し、他の人たちの邪魔をし、場所を占有するだけである。スペースに限度があり、場所がないために、私は沢山の参加希望者を断っている。この場所を活用するか、去るかのいずれかであり、時間の浪費と、誰かの場所を占有するのをやめなければならない。
繰り返して言うが、プリオーレに来る人たちは、すでに予備的な仕事を経て、講義に出席し、自分で仕事を試みた人たちである、という前提をもとに私は始める。
私の見るところでは、ここにいる人たちはすでに仕事の必要性に気づき、それがいかに為されるべきであるかについてほとんど知っていながら、自分ではどうにもならない理由で実行できずにいる。従って、あなた方の一人一人が、なぜここに来たかを繰り返し指摘する必要はない。
ここにおける私の仕事は、受け取られたものが実生活に移し変えられて、初めて継続できるのである。残念ながら、そういったことが何1つ実現していないのは、人々はただここで生活するだけで、仕事をしないからである。世間の日雇い労働者のごとく、強制されて、外面だけ働いているふりをしている。そこで私は、この一部の人たちに対して、仕事について以前に理解していたとおり、すぐに仕事を始めるか、あるいは、前に抱いた理想を呼び起こし、熱意を持って仕事する決意を固めるか、または、ここでの存在が無益であることを今すぐに理解しなければならない、ということを提案する。このままでは、たとえ10年続けても、何の結果も得られない。
私が何についても答えを与えるわけではない。自分自身でやってみなさい。でないと、後で時間を浪費したと苦情を提起するであろう。かつての決意を新たにし、ここでの滞在が自他ともにとって有意義であるようにしなさい。
ここにおいて意識した利己主義者になれる人は、人生において利己主義者でなくなれる。ここでいう利己主義者とは、〈自分を含めた誰のことも気にかけないで、周りの誰もが、何もかもが自分を助けてくれる〉と考えることである。
何についても、誰についても気にかける必要はない。誰が気違いで、誰が利口であるかは問題ではない。狂人も、研究や仕事のためのよい題材であり、利口者についても同様である。言い替えれば、狂人も利口者も、どちらも必要である。下劣な人物も、高尚な人物も必要であり、利口者も馬鹿者も、高尚な人も下劣な人も、一様に自己を映す鏡であり、ショックであり、自己の仕事における観察や研究に有用である。
その上、ある特定の現象は、個人的な指針として理解すべきである。

我が研究所は、鉄道の修理工場、あるいは自動車の修理場のようなものである。そこに新しい人が入ってくると、今まで見たこともないエンジンを目にする。確かに、外で見てきた車はみな外装をほどこされ、塗装されており、内部は見えない。通りの人たちは外装だけを見るのに慣れていて、修理場で見るように外装を外した車を見ることはない。修理場では、部品は解体され、汚れを落とされ、点検しやすいように並べられていて、見慣れた外観に共通するものは何もない。
この学院でも、そのとおりである。旅行かばんを持って新しい参加者が到着すると、その人は即座に外装を剥がされる。次に、その人が持つ最悪の面、内面の「美」が1つ残らず克明に取り出される。
あなた方の中で、この現象を知らない人は、我々は、馬鹿で怠惰で愚鈍な連中、簡単に言うと、人間の屑ばかりをかき集めたという印象を受ける。
だが重要な点を忘れている。この現象を発見したのは自分ではなく、誰かがその人々を剥き出しにしたということに気がつかない。その人々は、自分が見ているすべてを、自分が見ていると考える。誰かが馬鹿なら、自分も馬鹿であるのには気づかず、誰かがその人々を剥き出しにしたことに気がつかない。誰かが人々を剥き出しにしなかったら、彼はそのような馬鹿者たちの1人にひざまずいていたに違いない。他人が裸にされているのは見えるが、自身も裸にされていることは忘れている。人生で仮面を着けることができるように、ここでも仮面を着けられると空想する。しかし、いったん研究所の門をくぐったら、番人が仮面を剥ぎ取る。ここでは彼は裸であり、誰もが、彼がどんな人間であるかを直に感じる。
といった次第であるから、ここでは、誰に関しても内面的に配慮すべきではない。誰かが間違ったことをしても激怒してはいけない。あなた自身、同じことをやっているのである。むしろ、人から叩かれずに済んだことを幸運と思い、感謝すべきである。あなたが誰かにすることは、いちいち間違っているのである。だから、あなたのことを気にしない人たちは、何と親切な人たちであろう。それに引きかえ、誰かがあなたにちょっとでも間違ったことをしようものなら、とたんに相手の顔を殴りたくなるのがあなたである。
これをはっきり理解し、それに従って行動し、善であろうが悪であろうが、他人のあらゆる面を、あなたのために役立てるように努めなさい。同様に、あなたのあらゆる面を、他人のために役立てなければいけない。他人が利口であろうが、馬鹿であろうが、親切であろうが、卑劣であろうが、ときによって、あなたも愚かで、利口で、卑劣で、良心的であるのは確かである。
人はみな同じであり、違ったときに違った発現をするだけであり、あなた自身が違ったときには違うのと同じである。ときによってあなたは助けを必要とするが、他人もあなたの助けを必要とする。しかし、他人を助けるのは、その人のためではなく、あなた自身のために助けなければいけない。第一に、他人を助ければ、助けられ、第2に、彼らを助けることで、あなたはあなたの最も身近な人々の利益のために学ぶことになる。
もう1つ、知っておかなければならないことがある。(研究所内の)多くの人々の多くの状態は、その人たち自身によってではなく、研究所によって人為的につくられているということであり、他人のそういった内面状態を乱すことは、場合によっては、研究所の仕事を妨害することになる。救いは1つしかない。あなたは自分のためにのみここにいるということ、そして、周囲のすべてのもの、すべての人があなたの邪魔をすべきではなく、あなた自身も彼らから邪魔されないように行動しなくてはならないということを、昼夜の別なく想起することだ。自己の目標を達成するために、彼らを役立てなければならない。
だが、ここでは、そうでないことだけがなされている。ここは、普通の人生より劣る何かになってしまった。はるかに劣る。一日中陰口に明け暮れ、泥をなすり合い、内面で配慮し、他人を判断し、気にかけ、ある人々に共感を、他の人々に反感を持ち、集団や、個人で友達になったり、互いに卑劣な罠をかけあったり、お互いの醜い面だけに思いを凝らしたりといった具合である。
ここには他より優れた人がいると考えるのは無益である。ここには他の人はいない。ここには利口者も馬鹿者も、イギリス人もロシア人も、善人も悪人もいない。あなたと同じ、駄目になった車があるだけだ。こうした車があるからこそ、あなたがここへ来たときの願いが達成できるのである。
あなた方は、ここに来たときにはそのことを知っていたのだが、今ではすっかり忘れている。もう一度、この認識に目覚め、以前の理想に戻らなければならない。

今まで述べたことのすべては、2つの設問に表せる。
(1)私はなぜここにいるのか?
(2)ここにいることに価値があろうか?

15
人間が生まれると、その人と一緒に3つの別々の機械が生まれ、その人が死ぬまで形成し続ける。これら3つの機械には、相互に共通するものは何もない。この3つの機械は、肉体、本質、人格である。これらはどんな場合でも、我々に依存せずに形成される。これらは生後それぞれ単独に発達し、その人の所有する素材とその人を取り巻く素材、すなわち、環境、境遇、地理的状況、その他がこれらの発達を決定する。肉体にとって、こういう素材は遺伝、地理的状況、食物、運動である。これらの素材は人格には影響しない。人格は、人生途上で、もっぱらその人が聞いたり読んだりすることを通して形成される。
本質は純粋に情緒的である。本質は、人格が形成される前に、遺伝によって受け継がれたものから成っており、後には、その人を取り巻く感覚と感情だけで形成される。その後に来るものは、変化にだけかかっている。
それで、肉体は各人の中で独自に発達する。肉体、本質、人格の3つは、生まれた日から発達し始める。これら3つは、それぞれ別個に発達する。そういうわけで、例えば、恵まれた環境、健康によい土地で生を受け、その結果として、肉体は強くても、その人の本質も同じような特徴を持っているとは限らない。同じ環境でも、本質は弱く、臆病であるかもしれない。人は、強い肉体に対象的な、臆病な本質を持つかもしれない。本質は必ずしも肉体と平行して発達するとは限らない。
人は非常に強く、健康であっても、ウサギのように臆病であり得る。
肉体の重心、すなわち肉体の魂は運動中枢部である。本質の重心は感情中枢部であり、人格の重心は思考中枢部である。本質の魂は感情中枢部である。人は健康な肉体と臆病な本質を持てるように、人格は大胆であっても、本質は臆病であるかもしれない。

16
本質と人格
外面の配慮と内面の配慮ということをさらによく理解するには、人間は誰でも自分の中に、完全に異質な2つの部分を、あたかも別人のように持っているということを理解しなければならない。
この2つは、本質と人格である。
本質は、「私」である。本質は、遺伝、類型、性格、天性である。
人格は偶然に得るもの、すなわち、育ち、教育、視点であり、外側のものである。人格は身に着ける衣服、つまり仮面のようなもの。すなわち、育ちと周囲の状況により生じ、情報と知識からなる見解であるが、見解は日ごとに変わり、ある1つが他を抹消する。
今日、あなたはあることを確信し、信じ、求める。明日は別の影響を受け、信念も願望も変わる。人格を構成しているすべての材料は、周囲の状況や場所の変化と共に、人為的または偶然に、完全に変わり、しかもきわめて短時間に変わる。
本質は変わらない。例えば、私は浅黒い皮膚を持っているが、これは生まれたときからこの先もずっと変わらない。これは私の類型に属する。

17
子供と大人のただ1つの相違は知性にある。飢えをはじめ、感受性、単純さといった弱さのすべてがどちらにもあり、何1つ相違しない。同じものが子供にも大人にもある。愛、憎悪、すべてである。機能も感受性も同じであり、子供も大人も同じように反応し、同じように架空の恐怖に捕らわれる。要するに、何も相違しない。ただ1つの相違点は知性にある。我々は、子供よりずっと多くの材料と論理を持っている。
さて、また1つの例を挙げよう。Aは私を見て、馬鹿者だと言う。私は怒り、Aに迫る。子供もこれと同じことをする。大人なら同じように怒っても、相手を叩くことはなく、自分を制止する。相手を殴ると警官が来るし、他の人たちが何と思うかを恐れるからである。「なんと自制心のない男だ」と言われたくないからである。あるいは、明日彼が逃げてしまうかもしれないと恐れて自制する。彼は私の仕事に必要である。要するに、私を制止したり制止し得なかったりする、無数の考えがある。ともかく、そういう考えがそこにある。
子供には論理も材料もないので、子供の知性はただの機能にすぎない。止まって考えない。子供の場合、「それ」が考えるのであるが、この「それ」が考えることは憎悪で染まり、感情と自己を同一視する。
子供と大人の間には明確な段階はない。生きてきた年月の長さは成熟を意味しない。人は百歳まで生きても子供のままであるかもしれない。我々が「子供」と言うのは、独立した自己の論理を知性の中に持っていない人のことを指すならば、背は伸びても、まったくの子供であるかもしれない。人は、知性がこの資質を獲得したときから「成人」と呼ぶことができる。したがって、この観点から見ると、研究所は成人した人たちだけのために存在する。成人だけが研究所から何かの利益を得ることができる。8歳の少年や少女が成人であり得、60歳の人間が子供であり得る。研究所は人々を成人にすることはできない、研究所へ来る前に成人になっていなければならない。研究所に入っている人々は成人でなければならない。私が言う成人とは、本質においてではなく、知性においての意味である。

18
この先へ進む前に、各人が何を求め、彼、または彼女が、研究所に何を与えることができるかをはっきりさせる必要がある。
研究所は非常にわずかしか与えることができない。研究所の計画、研究所の力、研究所の目的、研究所の可能性は数語で言い表せる。すなわち、研究所は、キリスト教徒であることができる人を助ける。単純そのものである! それだけである! この願望を持っていれば、研究所は助けることができ、人がこの願望を持つのは、その人の中に不変の願望が存在する場所がある場合に限られる。であることができる前に、願わなければならない。
そういうわけで、願うこと、できること、であることの3つの段階がある。
研究所は手段である。研究所の外では願うこと、であることが可能であるが、ここではできることが可能である。
ここに出席している人たちの大部分は、自分自身をキリスト教徒と呼んでいる。事実はみな、カッコ付きキリスト教徒である。この問題を成人らしく調査しよう。
X博士。あなたはキリスト教徒であろうか?
隣人を愛すべきか、憎むべきか、どうお考えであろうか?
誰がキリスト教徒のように愛せるか?
できないということは、キリスト教徒であることは不可能だということになる。キリスト教的精神は多くの事柄を伴う。例として、このうちの1つを取り上げたまでである。あなたは命令を下す人を愛せるか、それとも憎むか?
だが、キリスト教はまぎれもなく、すべての人を愛することを説いている。しかしそれは不可能である。それでも、愛さなければならないということは、まったく正しい。まず、そうできなければならない。そうすれば初めて愛することができる。
不幸にして時とともに、現代のキリスト教徒は、後半、すなわち、愛することを採り入れ、前半、すなわち愛することに先行すべき信仰を見失ってしまった。
人間に対し、人間が与えることのできないものを要求するとすれば、神は非常に浅薄だということになる。
世界の半分はキリスト教徒であり、残りの半分は他の宗教を信じている。分別ある人間である私にとっては、何の相違もない。彼らもキリスト教徒と同じである。従って、世界全体がキリスト教徒であると言え、違いは名称だけである。しかも、一年だけでなく、数千年来、世界全体がキリスト教徒であったのである。キリスト教が出現するずっと前にキリスト教徒がいた。そこで、常識に基づいて、私は自問する。
「人間はそれほど以前からずっとキリスト教徒であったのに、いかにして不可能なことを要求するほど愚かであり得ようか?」
しかし、そうではない。ものごとはいつも現在のようであったのではない。人々が前半を忘れてしまったのは近年で、これが原因で「できる能力」を失ってしまったのである。そして、本当に不可能になってしまった。
各人が自己に対して、すべての人を愛せるかどうかを、率直に正直に問いただしてみよう。コーヒーを飲んでからなら愛せる、そうでなければ愛せない。いかにこれをキリスト教徒と呼ぶことができようか?
過去においては、みながキリスト教徒と呼ばれたのではない。一家族の中に、キリスト教徒、キリスト教徒以前、非キリスト教徒と呼ばれる人たちがいた。このように、同一家族内に第一、第二、第三があり得たのである。ところが今では、みなが自分自身をキリスト教徒と呼んでいる。正当な理由なくこの名を用いるのは、無知、不正直、無分別、軽蔑すべきである。
キリスト教徒とは、戒律を守れる人である。
キリスト教徒に要求されるすべてのことを知性と本質の両面で実行できる人が、カッコなしのキリスト教徒である
。キリスト教徒に要求されるすべてのことを知性で実行したいと求め、知性ではそうできても本質ではできない人は、キリスト教徒以前と呼ばれる。知性でさえ何もできない人は非キリスト教徒と呼ばれる。
この説明により、私があなた方に何を伝えようと願っているかを理解するようにしなさい。あなた方の理解を深め、広げよう。
ここの文章は非常に重要だと思います。「キリスト教が出現する以前からキリスト教徒がいた」という言葉は、大半の人にとっては意味不明だと思いますが、これは「キリスト教が成立する以前から、それの元となる教えを実行していたグループが世界中にいた」という意味のようです。
つまり、太古からの英知を内包していると考えられる世界中に点在する宗教は、過去においては繋がっており、たとえ遠距離でも意思疎通をすることが出来ていたと、私は解釈しています。

19

人間は3つの力を持っている。それぞれの力はその性質上別個であり、それぞれが独自の法則を持ち、構成されている。しかし、3つの力は同一の源泉から成り立っている。
第1の力は体力と呼ばれる力である。その量と質は人間機械の構造と組織で決まる。
第2の力は精神力と呼ばれる。その質は、人間の思考中枢部と、そこに含まれている材料で決まる。「意志」と呼ばれるものや、それに類似するものはこの力の働きである。
第3は道徳の力と呼ばれる。この力は教育と遺伝で決まる。
最初の2つは容易に形成されるため、容易に変えることができる。他方、道徳の力は、形成されるのに長期間を要し、変えるのは非常に困難である。
人が常識と確かな判断力を持っていれば、いかなる行為も、彼の意見や「意志」を変えることができるであろう。だが、人の性質、つまり、道徳的構造を変えるには長期の圧力が要る。

20
いくつかの訓練を、我々はすでに知っている。例えば、身体のための訓練を研究している。今までに済ませてきた様々な課題は、知性のための初歩的訓練だった。感情のための訓練はまだ何もしていない。こういう訓練はずっと複雑である。初めはそれを心に描くことさえ困難である。だが、我々にとってこういうのが最も重要な訓練である。我々の内面生活では、感情の領域が優先し、たしかに我々のすべての不運は、感情の乱れに起因している。我々はそういう種類の材料をあまりにも多く持っていて、いつもそれとともに暮らしている。
しかし、それでも、我々は感情を持っていない。客観的、主観的、どちらの感情も持っていない、という意味である。我々の感情の全領域は異質なもので充満し、完全に機械的である。
感情には、主観的、客観的、自動的の3種類がある。例えば、道徳についての感情は、主観的であれ客観的であれ、皆無である。
道徳についての客観的感情は、数世紀にわたって、化学的および物理的に人間の環境と本性に従って確立され、すべてのものに対して客観的に確立された、ある全般的で秩序立った不変の道徳的法則につながり、自然界(またはいわゆる神)につながる。
道徳についての主観的感情は、人が自己自身の経験と自己の個人的資質、個人的観察、まったく自己自身の正義感などに基づいて、個人としての道徳観念を形成するとき根拠となり、そうした道徳観を基礎として人は生きる。
人々は、主観的と客観的な道徳的感情のどちらにも欠けているだけでなく、それについて何の考えも持っていない。
道徳性に関して我々が話していることは、あらゆることにつながる。
我々は心の中に、基本的な道徳についての理論的な概念を持っている。我々は聞いたり読んだりしてきた。しかし、それを実生活に適用できない。我々は、自分のメカニズムの為すままに生きている。例えば、N氏を愛さなければならないことは道理では知っていても、現実にはN氏が我々に反感を持っているかもしれない。我々は彼の鼻が好きでないのかもしれない。私の知性は、私がN氏に対して感情的にも正当な態度をとるべきであるのを理解しているが、私にはそうできない。
N氏から遠く離れ、1年かけて、よい態度をとる決心をすることはできる。しかし、ある機械的な連想が確立されてしまっていれば、彼に再会するときも、今までとまったく同じであろう。我々の場合、道徳感情は自動的である。私は自分にこのように考える規則を設けても、「それ」がそのように生きない。
我々が自分自身について仕事をすることを願うならば、主観的であるばかりでなく、客観的ということが意味するものを理解するように、自分を慣らさなければならない。人はみな違っているので、主観的感情は誰にとっても同一ではあり得ない。ある人は英国人で、他の人はユダヤ人、ある人は千鳥が好き、等々である。我々はみな違っているが、この相違を客観的法則で統一すべきである。ある状況では小さな主観的法則で間に合う。だが共同生活においては、正義は客観性を通してのみ達成できる。客観的法則は非常に数少ない。すべての人々がこの少数の法則を持っていれば、我々の内面と外面の生活は、はるかに幸福なものとなろう。寂しさもなければ不幸な状態もないであろう。

生存それ自体が、生活の経験と賢明な治政力によって、太古から次第に、15の戒律を導き出し、その戒律を個人と全民衆の安寧のために確立した。これら15の戒律が我々みなの中に存在していれば、我々は理解し、愛し、憎むことができるであろう。正しい判断を支える挺(てこ)を持つであろう。
すべての宗教、すべての教えは神から到来し、神の名において伝えられている。これは神が実際に宗教や教えを与えたということではなく、こうした宗教や教えが1つの全体、我々が神と呼ぶものとつながっていることを意味する。
例えば、ここに神の言葉がある。「汝の両親を愛すべし。さすれば汝は我を愛す」と。確かに、自分の両親を愛せない人は、神を愛することができない。
この先へ進む前に自問しよう。
我々は両親を愛したか?両親にふさわしいほど愛したか?
それとも単に「それが愛する」だけであったか?いかに愛すべきであったか?

21
常に、いたるところに、肯定と否定があり、個人についてでなく、全人類についてそうである。人類の半分が肯定すれば、他の半分は否定する。例えば、科学と宗教という2つの相反する概念がある。科学が肯定することを宗教が否定し、逆の場合もある。これは機械的法則であり、そうあらざるを得ない。肯定と否定はいたるところで、あらゆる規模で、つまり、世界、都市、家族、あるいは個人の内的生活に影響を及ぼす。ある人の一中枢部が肯定し、別の中枢部が否定する。我々はいつも、この2つからなる粒子である。
それは客観的法則であり、誰もがこの法則の奴隷である。例えば、私は科学か宗教のどちらかの奴隷である。どちらにせよ、人間はこの客観的法則の奴隷である。この法則から逃れることはできない。
中間に立つ人のみ、自由である。これができれば、一般に当てはまるこの隷属法則から逃れることができる。しかし、いかにして逃れるか? 極めて困難である。我々はこの法則に服従しないほど強くはない。我々は奴隷である。薄弱である。それでも、ゆっくり、順々に、しかし着実に努力すれば、この法則から自由になる可能性はある。客観的に見れば、もちろん法則に反し、自然に反し、言葉を変えて言えば、罪を犯すわけである。しかし、異なる秩序の法則があるので、そうすることができる。神の与えた別の法則がある。これを達成するには、何が必要であろうか?
宗教と科学という例を再び取り上げよう。これについて私は自己と討議する。みなさんも一人一人、同じことを試みるべきである。
私は次のように考える。私はつまらない人間である。わずか50年の人生を生きてきたにすぎないが、宗教は数千年来続いている。何千人もの人々が宗教を研究してきたというのに、私は宗教を否定する。私は自問する。「彼らはみな馬鹿者で、私だけが利口者ということがあり得ようか?」
科学についても事情は同じである。科学も長年存在してきた。私が科学を否定すれば、同じ質問が起こる。「それほど長い間科学を研究してきた多数の人の誰よりも、私一人が優れているということがあり得ようか?」
公平に判断すれば、私は1人や2人の人よりは賢いかもしれないが、1,000人に抜き出るほど賢くはないことを理解する。私が正常な人間で、偏見を持たずに考えるとすれば、数百万人の人たちより賢いはずがないことを理解する。繰り返して言うが、私はつまらぬ人間である。どうして私が宗教と科学を批判できようか? それなら何が可能か?
そこで私は、おそらく宗教や科学に何らかの真理があるはずだと考え始める。みなが間違えているいうことはあり得ない。そこで、すべてがどうなっているのか理解しようとして、自分自身に課題を出す。公平に考え、研究し始めると、宗教と科学が互いに対立しているという事実があるにもかかわらず、どちらも正しいということに気づく。そして、私はちょっとした間違いを発見する。一方はある問題を、他方は別の問題を扱っている。あるいは、どちらも同じ問題を、異なる角度から研究している。つまり、同一現象について、一方は原因を、他方は結果を研究するので、この2つは出会うことがない。しかしどちらも数学的に正確な法則に基づいているので、どちらも正しいのである。結果だけを取り上げれば、相違がどこにあるかを、けっして理解することはなかろう


22
公平であるということは、たとえ弱点を突かれなくても、人にとって不可能なことである。法則はそういうものであり、人間の心理はそういうものである。なぜそうであるか、その理由については、後で話そう。さしあたって、これを系統立ててまとめてみよう。
(1)人間という機械は、公平のままではいられない何かを持っている。つまり、怒らず、平静に、しかも客観的に考えることができない。
しかし、
(2)ときには特別な努力を払い、こういう特性から自己を解放することができる。
この2番目の点について、ここで私はあなた方にお願いする。我々の会話を、日常の生活の会話とは違ったものにすること、つまり、空から無へ注ぐのではなく、あなた方と私の両方にとって生産的な話をするように望み、そう実行するようにしてほしい。
私は、通常の会話は、空から無へ注ぐことだと言った。我々一人一人がこの世界に生きてきた長い年月について、また、交わしてきた多くの会話について、真剣に考えてほしい。あなた方自身に問いただし、調べなさい。そのような会話が何かの役に立ったためしがあろうか?
あなた方は、例えば、2+2が4のように、明確に疑う余地なく、何かを知っているであろうか? 誠実に自己を探索し、誠実に回答すれば、そのような会話は何の役にも立たなかったと言うはずである。
それで、常識は、過去の経験から、そのような会話が今まで何の役にも立たなかったのだから、これからも役に立たないであろうと結論する。たとえ100年生きたとしても、結果は同じであろう。
したがって、我々はその原因を探し、できればそれを変えなければならない。つまり、我々の目的は、その原因を見つけることである。そこで、第一歩から会話を続ける方法を変えるように試みよう。
この前、三の法則について触れた。この法則がいたるところに、あらゆるものの中にあると説明した。これは会話の中にも見いだされる。例えば、人々が話すと、ある人が肯定し、他の人が否定する。議論なしには、肯定と否定から何も生じない。議論すれば新しい結果、つまり、肯定した人や否定した人のそれとは異なる新しい考えが生じる。
以前の会話が何の結果ももたらさなかった、とも言えないから、これも法則である。結果はあったが、あなたのためではなく、あなたの外側の何かか、誰かのために結果を生じたのである。
だが今我々は、自分の中の結果、あるいは我々の中に持ちたいと思っている結果について話す。それで、我々を通過し、我々の外で働くこの法則を、我々自身のために、自己の中に働かせることを求める。これを達成するには、この法則が作用する場を変えさえすればよい。
今までのように客観的でなく、主観的な結果が得られるように、他人との間で肯定し、否定し、議論してきたことを、今度は自分自身にしてみなさい。

23
世界のあらゆるものが物質であり、あらゆるものが宇宙の法則に従って動き、絶えず変換する。変換は、最も細かいものから最も粗いものへ、またその反対に向かう。
この両極限の間に、物質の密度による多くの段階がある。その上、物質のこうした変換は、規則正しく連続的には進行しない。
進展の過程には、数か所に、いわば停止点、あるいは発信施設がある。これらの施設は広い意味で生物と呼ぶことができるもの一切、つまり太陽、地球、人間、微生物を指す。これらの施設は転換器である。物質を変換させ、上昇運動ではより微細になり、下降運動ではより大きな密度に向かう。この変換は純粋に機械的に起こる。
物質はどこでも同一であるが、それぞれ異なる段階において異なる密度を持つ。したがって、それぞれの物質成分は、物質の全段階においてそれ自体の場所を持っていて、いっそう希薄になるのか、又は、いっそう濃密になるのかがわかる。
それぞれの転換器は、段階を異にするだけである。
人間は、例えば、地球や太陽が発信施設であるのと同じ程度に発信施設である。自己の中に地球や太陽と同じ機械的過程を持っている。人間の中で、高い物質を低い物質に、低い物質を高い物質にする、地球や太陽と同じ変換が進行してる。
進展と退化と呼ばれる2つの方向への物質変換は、完全に細かいものから完全に粗いものへ、またその反対にも向かう基幹線に沿ってのみ進行するのでなく、すべての水準のあらゆる中間発信施設において、わきへ分岐する。ある存在が必要とする一定の成分はその存在に摂取され、吸収され、その存在の進展または退化に役立つ。あらゆるものが他のものを吸収し、つまり他のものを食べ、それ自体も食物として役目を果たす。これが相互交換ということの意味である。この相互交換はあらゆるもの、生物と無生物の両方に起こる。

24
すでに言ったように、あらゆるものが動いている。いかなる運動も直線をたどるのではなく、同時に二重の方向を持ち、それ自体で回転しながら最も近い重心に向かって落ちてゆく。これが落下の法則で、普通、運動の法則と呼ばれるものである。こうした普遍的な法則は、ずっと昔に知られていた。太古に、人間がこうした知識を持っていなかったなら、起こり得なかったであろう歴史上の出来事に基づいて、我々は今述べた結論に到達する。
人々は最も古い時代から、自然界のこうした法則を利用し、制御する方法を知っていた。人間によるこうした物理的法則の管理は魔術であり、望みの方向に物質を変換させるだけでなく、同じ法則に基づいて、一定の物理的影響に抵抗、対抗することでもあった。
これらの普遍的法則を知り、それを使う方法を知っている人々は魔術師である。白い魔術と黒い魔術がある。白い魔術は知識をよい目的に用い、黒い魔術は知識を邪悪な、利己的な目的に用いる。

魔術は、偉大な知識と同じく、最も古い時代から存在し、失われたことがなく、知識は常に同じである。この知識の表現と、伝達される方法だけが、場所と時代により変わった。たとえば、今我々は、200年後の言葉とは違う言葉で話しているし、200年前にも、言葉は今とは異なっていた。同様に、偉大な知識が表現された形は、それに続く世代にはほとんど理解できず、たいていは文字どおりに解されている。このようにして、大部分の人々にとって、その内面の意味は失われる。
人類の歴史には、2つの平行する別個の文明があろ。秘教的文明と、普通の文明である。必然的に、このうちの一方が他方を凌駕し、他方が衰えたときに一方が発展する。秘教的文明の時期は、政治や、その他の好ましい外的条件がそろうと到来する。そこで知識は、時間と空間の条件に合致する教えという形式をまとい、広まる。このようにして、キリスト教が広まった。
だが、
宗教はある人々にとって導きであるが、他の人々にとっては単なる警官である。キリストも魔術師、つまり、「知識」を持った人であった。キリストは神ではなかった。というより、ある水準における神であった。

25
福音書の中には多くの出来事が記されているが、その真の意味と重要性は、現在ではほとんど忘れられている。例えば、最後の晩餐は、普通に人々が考えるのとはまったく違う何かであった。
キリストがパンと葡萄酒に混ぜ、弟子たちに与えたのは、本当にキリストの血であった。
これを説明するには、他のことに触れなければならない。
あらゆる生命体はそれ自体の周囲に大気を持っている。大気の大きさが異なるだけである。大きい生物ほどその大気も大きい。これに関し、あらゆる生物を工場に例えることができる。工場はその周囲に、煙、蒸気、廃棄物、それに生産過程で蒸発する合成物でできた大気を持っている。これらの構成要素の価値は異なる。これとまったく同様に、人間の大気は、異なる要素でできている。
そして異なる工場の大気固有の匂いがあるように、異なる人々の大気もそれぞれに固有の匂いがある。人間より敏感な鼻、例えば犬の鼻なら、ある人の大気を、他の人の大気と混同することはない。
人間も物質を変換させる施設である、と私は言った。人体組織の中で産出される成分の一部は他の物質を変換させるために使われ、他の部分はその人の大気になる、つまり、失われる。
それで、ここでも工場と同じことが起こる。
このように、生物はそれ自体のためだけでなく、他のもののためにも働く。知者はいかにして純良な物質を自分自身の中に保ち、蓄積するかを知っている。これら純良な物質が大量に蓄積すると、人間の中に第2の、より軽い体が形成される。
しかし、普通、人の大気を構成している物質は絶えず消費され、その人の内面の仕事によって補充される。
人の大気は、必ずしも球状を保たない。絶えずその形を変える。緊張したときや、脅威や危険にさらされたときは、緊張した方向に伸びる。そうすると、反対側は薄くなる。
人の大気は一定の空間を占める。この空間内で、大気はその人の生命体に引きつけられているが、一定の限界を超えると、大気を構成する細かい粒子の群れが引き離され、戻ってこない。大気が一方向にはなはだしく引っ張られると、これが起こる。
同じことが、人が動くときに起こる。その人の大気の粒子が引き離されて背後に残り、「跡」をとどめ、その「跡」によってその人を追跡することができる。これらの粒子はすぐに空気と混ざり、溶解するかもしれないが、かなり長い間その場に残るかもしれない。大気の粒子は衣服、下着、その他、その人の持ち物に定着するので、その人との間に一種の足跡を残す。

磁化現象、催眠術、遠隔現象は、これと同じ秩序における現象である。磁化現象は直接作用し、催眠術は短距離において大気を通して作用し、遠隔現象は遠距離に作用する。遠隔現象は電話や電信に似ている。電信電話の場合、接続を可能にするのは金属線であるが、
遠隔現象では、人が残した粒子の足跡である。遠隔現象を起こす能力を持っている人は、この足跡をその人自身の物質で埋めることができ、このようにして、いわば、電線で接続し、この電線を通じて相手の心に作用する
相手の持ち物があれば、その持ち物で接続を確立し、この持ち物の回りにワックスや粘土で肖像を作り、そうしてできたイメージに作用するという方法で、その人自身に作用する。

26
自己について仕事をすることは、仕事をしたいと願うことや決心することほど難しくない。
それは、我々の諸中枢部が一緒に何かをするためには、共通の主人にしたがっていなければならないということを認識し、同意しなければならないからである。しかし中枢部にとって、同意することは難しい。というのは、主人がいるとなると、どの中枢部も他の中枢部に命令したり、好き勝手ができなくなるからだ。普通の人の中に主人はいない。主人がいなければ、魂もない。
魂、これがすべての宗教、すべてのスクールの目標である。しかし、それはたんに目標、可能性にすぎない。普通の人は魂も意志も持っていない。普通に意志と呼ばれるものは、単なる欲求の所産である。
人がある欲求を持つと、同時に反対の欲求、つまり最初の欲求より強い反抗が生じて、第2の欲求が第一の欲求を抑え、消滅させる。これが普通の言葉で、意志と呼ぶものである。
子供は魂を持って生まれるのではない。魂は人生においてのみ獲得できるのである。その場合でさえ、魂は非常に得がたく、少数の人だけのものである。大部分の人々は魂を持たず、主人を持たずに生涯を送るが、通常の人生に魂はまったく不要である。
しかし魂が無から生まれることはあり得ない。すべてのものが物質であり、魂もそうであるが、ただ非常に微細な物質でできている。したがって、魂を得るには、まず第一に、それに相応する物質を持つ必要がある。それにもかかわらず、我々は、日常の機能にさえ十分な物質を持っていない。
したがって、必要な物質、すなわち資本を持つには、明日に何かが残るように、節約し始めなければならない。例えば、私は一日に一個のじゃがいもを食べる習慣であるなら、半分だけ食べて他の半分を取っておくことも、あるいは絶食してもよい。蓄積すべき成分は大量でなければならない。
そうでないと、蓄えたものはすぐ消散してしまう。
塩の結晶を水の入ったコップに入れると、結晶はすぐ溶ける。さらに多くを繰り返し加えても、溶け続ける。だが溶液が飽和状態になる瞬間が来る。そうなると塩はもはや溶解せず、結晶は丸ごと底に残る。
人体組織についても同じである。魂の形成に必要な物質が有機体の中で絶えず生産されても、有機体中で消散し溶解する。そういう物質の余剰が有機体の中に生じなければならない。そうなると初めて、結晶化が可能となる。
そうした余剰の後に結晶化した物質は、その人の肉体の形を取り、肉体の写しであり、肉体から分離できる。どちらの体も異なる生命を持ち、どちらも異なる法則の秩序に従う。この新しい体、すなわち第二の体は、星気体(アストラル体)と呼ばれ、肉体との関係において、魂と呼ばれるものである。科学はすでに、第二の体の存在を実証する可能性を持ち始めた。
魂について語るなら、幾種類もの魂があり得るが、そのうちの1つだけが真にこの語をもって呼ぶにふさわしい、ということを説明しなければならない。
すでに述べたように、魂は人の一生で得られる。ある人がこうした成分を蓄積し始め、それが結晶化する前に死ねば、肉体の死と同時にこの成分も分解し、消散する。
人間は、他のあらゆる現象のように、3つの力の産物である。
地球と惑星世界と太陽が、すべての生命体のように、放射しているということに言及しなければならない。宇宙空間には、太陽と地球の間に、いわば放射の3つの混合がある。太陽の放射は、太陽の大きさに比例して長く、地球に到達し、そのまま地球を通り抜けるが、それは太陽の放射が最も微細だからである。惑星の放射は地球に到達するが、太陽には到達しない。地球の放射はもっと短い。このようにして、地球の大気の範囲内に、3種類の放射、太陽と地球と惑星の放射がある。
その先には地球の放射はなく、太陽と惑星の放射があるだけである。さらに高いところでは太陽の放射だけがある。
人間とは、惑星の放射と地球の大気の相互作用に、地球の物質が加わって生じたものである
普通の人が死ぬと、肉体はそれを構成している要素に分解する。地球からの要素は地球に帰る「汝塵なれば、また塵に帰るべきものなり」。惑星の放射とともに到来した要素は惑星の世界に帰り、地球の大気からの要素はそこへ帰る。このようにして、全く何も残らない。

生前に、第二の体の結晶化に成功すれば、その体は、肉体の死後も生き続けることができる。この星気体の物質は、その振動が太陽の放射と一致し、理論的には、地球とその大気圏内では破壊することができない。とは言え、その生命の持続性はさまざまである。長く生きることもあれば、非常に早く存在を終えることもある。それは、第二の体も第一の体のように諸中枢部を持ち、生き、印象を受け取るからである。第二の体は、十分な経験と、印象の材料に欠けるため、新生児のように一定の教育を受けなければならない。そうでないと無力で、ひとりでは存在できず、肉体のようにすぐ分解する。
すべて存在するものは、「上のように下も」と言うように、同じ法則に支配されている。一連の条件のもとに存在できるものは、別の条件のもとでは存在できない。星気体は微細な振動の物質にぶつかると分解する。
それで、「魂は不滅であるか?」という質問に対して、一般に「不滅でもあり、不滅でもない。」と回答できるだけである。もっと確定的に答えるには、どんな種類の魂、どんな種類の不滅が問題にされているかを知らなければならない。
すでに言ったように、人間の第二の体は、肉体に対しては魂である。第三の体もそれ自体が3つの原則に分割されるが、全体としては能動的な力を表し、受動的で陰性の原則である肉体に対して、陽性の原則となる。その間の中和的原則は、特殊な磁気であり、それは誰もが持っているわけではないが、それがないと、第二の体は第一の体の主人であり得ない。
さらに発達することができる。2つの体を持つ人は、新しい成分の結晶化によって、さらに新しい特性を獲得できる。そうなると、第三の体が第二の中に形成され、この体はときとして精神体(メンタルボディー)と呼ばれる。そうなると、第三の体は能動的原則であり、第二の体は中和的、第一の体である肉体は受動的原則である。
しかし、真の意味では、これはまだ魂ではない。肉体が死ぬと、星気体も死んで精神体だけが残る。精神体はある意味では不滅であるが、それも早晩死ぬ。
(そのうち分解する)
第四の体だけが、人間にとって可能なすべての発達を、地上における存在条件の中で完成させる。第四の体は太陽系の範囲内では不滅である。真の意志はこの体に属する。それは真の「私」、つまり人の魂、主人である。それは他の体を全部一緒にしたものに対する、能動的原則である。
それぞれの中にはまる4つの体は、全部、分離できる。肉体の死後、高次の体は別々になる。
輪廻(転生)は非常に稀な現象である。それは非常に長期間に起こるか、または、こうした高次の体を所有していた人の肉体と同一の肉体を持つ人が存在する場合に起こる。しかも、星気体が生まれ変わることができるのは、たまたま星気体がそのような肉体に遭遇する場合に限られ、無意識的にしか起こらない。しかし精神体は、選ぶことができる。

27
あなたは心理学を研究したいのだが、精神を持っていない。では、まだ存在しないものをいかに研究することができるのであろうか?
あなたは自己を人間として知りたいと願う。だが、まだ人間でなく、機械にすぎない。そこで、自己を機械として研究し始めなければならない。
心理学は単に他人の思考を研究することであり、他人の幻想を研究するより、自己を研究する方がはるかにましである。あなたは、私から多くのことを教えてくれるように望み、私もまた、人と、そのあり方について、私の知っていることをあなたに分かちたい。だが、たとえ私が教えたとしても、あなたは、自己の知りたいことを理解しないであろう。我々はまだ、言葉を持っていない。
通常の言葉は、単純なことを伝えるためにできている。「高次の」ことについての言葉を、我々は持っていない。しかし、言葉なしには理解し合うことはまだできないから、言葉は必要である。あなたが自己という機械について研究するのを学んだとき、我々はもっとよく理解し合える。
自己を研究するとき、観察したいと思う部分に注意を集中することができるようにならなければいけない。あなたの感情中枢部が平静でないから、今はまだ、注意を集中できない。
それで、あなたの注意力は、あなたでなく、あなたの感情に支配されている。感情に支配されるのをやめるまで、公正であり得ないから、言葉の意味を理解できない。人は誰でも、そのときの気分によって言葉を解釈する。私が空腹であれば、「欲しい」という言葉は食物を意味するが、満腹であれば、「睡眠」またはたぶん「セックス」を意味する。言葉の意味は常に変わるが、人々はそれに気づくことさえない。
我々は非常に重要なことがらについて話さなければならない。例えば、なぜ人間が存在するかについて話さなければならない。これは真の知識に属することであり、それについて話すには、言葉を異なって理解しなければならない。真実を知るには、すべてを知らなければならない。
「知るということは、すべてを知ること。すべてを知ってはいないということは、知らないこと。すべてを知ることは不可能ではない。ほんの少しを知ればよい。だが、その少しを知るには、かなりを知らなければならない」という古いことわざがある。
この場合、我々が知らなければならないほんの少しの事とは、人は自分自身のために存在するのでなく、月が必要とする振動を発信するために存在するということである。人間は地球の生命の一部である。地球は、惑星と地球と月によって均衡を保っている有機体という薄い皮膜に取り巻かれている。誰も自己の状態を変えることができないほど、有機体は強力である。仮に、神が我々を助けたいと望んでも、そうすることができない。神の意志に影響されるには、地球は小さすぎる。地球が小さすぎるなら、人間はどれほど小さいであろうか? それなら、必要な助けを、我々はどこで得ることができるのだろうか?

28
現在あなたは、無数の「私」を持っている。あなたのそれぞれの「私」の弱点は、いつでもあなたの主人となる、それぞれの「私」である。あなた自身の「私」を持つため、「私」が生まれなければならない。あなたは仕事があなたの中に入ることを許したので、「私」を受胎した。だが、「私」は一人では成長しない。「私」が物質を蓄積し、ある日、めでたくも形をとることができるように、食物を与えなければならない。そうすれば「私」が発達し、生まれることができる。「私」のこの物質は、意図した苦しみによってのみもたらされる。例えば、タバコが欲しくてしようがないとき、それを我慢すると、あなたは内面で苦しむ。そのとき、「この内面の力を、自己の力にしよう。自分自身の『私』のために、この意図的苦しみによって生ずる物質を受け取るのだ」と言いなさい。この方法によって、あなたは「個人」になり、完成された人への道を歩むことができる。
完成された人の徴(しるし)と、その人の日常的特徴は、外面的には、外側に発生するあらゆることについて、すぐれた演技者として与えられた状況にふさわしい役割を完璧に演じることができるが、内面では、けっしてそれと同一化したり、同意したりしないということである。
若かりし日、私もまた、あなた方が多少なりとも理解するように、これを真実と確信し、天の定めた運命と考える祝福を得るために、自己について限りなく仕事をした。膨大な努力をし、人生で当然受けるに値するほとんど一切のものを拒否し続けて、ついに、外的な何ものも私の内面にまったく触れないという点に到達した。演技に関するかぎり、私は自分の役柄を、古代バビロンの識者たちが演技者として舞台で演じていたときには夢想もしなかったほどの、理想的な完成の域に高めた。
あなた方が現在の喜びに執着し続ければ、このような祝福に到達することができないということを、警告せざるを得ない。あなた方の人生をふり返って、過去の喜びから、どのような善いものが得られたかを考察しなさい。それは今では、去年の雪のように、溶けて跡形もなく、何であったかを思い出すこともできないほど、はかないものである。
意識した骨折りと意図した苦しみの強い印象、そして真実のみが、将来において善きものを得るために役立つ

29
自己を変革する力は知性にあるのでなく、身体と感情にある。だが不幸にして、われわれの身体と感情は、幸福であるかぎり、何も気にかけない。それらは瞬間に生き、その記憶は短かい。知性だけが明日のために生きる。どれもが、それぞれの価値を持っている。知性の価値は、先を見ることである。だが、「為す」ことができるのは、他の2つだけである。

30
2つの河
人類の生存全般を、様々な源から発し、2つの別々の水流となる大河、すなわち、ある点において2つに分かれる河に例えることは有益で、一人一人の存在を、この生存という河の水滴に例えることができる。
人々の、人間にふさわしくない生存が原因で、すべての存在の目的を全部実現させるには、地球上の人類は、概して、2つの流れを行くべく定められている。偉大な自然はこれを予見して、全人類の存在の中に、この2つの流れに対応する特質を徐々に植えつけた。その結果、水流が分かれる前に、それに対応する内面の、〈主観的な自己自身の否定的部分との闘い〉を持つそれぞれの水滴の中に、「あるもの」が生ずるかもしれず、そのおかげで一定の特質が獲得され、生存という水流の分岐点で、1つの流れか、あるいは別の流れに入る可能性が与えられる。
このように、人類の生存には2つの方向がある。能動的な方向と受動的な方向である。法則はどこでも同じである。これら2つの法則、2つの流れは、絶えず出会い、互いに越えたり、並んで流れたりする。だが2つはけっして合流しない。2つは互いに支え合い、互いに相手を必要とする。常にそうであったし、これからもそうである。
さて、普通の人の存在を全部一緒にして、この2つの河の2つと考えることができ、そこでは人の存在であろうと、他の生物の存在であろうと、それぞれの存在がこの河の水の一滴であり、河自体は宇宙という鎖の中の1つの環(わ)である。
宇宙に共通の法則に従い、この河は定まった方向に流れる。河の曲がりくねりといったすべての変化は、明確な目的を持っている。この目的において、それぞれの水滴は、河を構成する要素としての役割を果たすが、河全体としての法則は個々の水滴に達しない。水滴の位置、運動、方向の変化は完全に偶発的である。ある瞬間には水滴はここにあり、次の瞬間にはそこにある。今、水面にあったと思うと、次には河底に沈んでしまう。偶然に浮上し、他と衝突し、下降する。すばやく動いたかと思うと、今度はゆっくり動く。その生存が容易であるか困難であるかは、水滴が偶然に位置する場所によって決まる。水滴のための法則はなく、個人の運命は存在しない。河全体が1つの運命を持ち、その運命をすべての水滴が共有する。個人の悲しみ、喜び、幸福、苦悩のすべては、この流れの中では偶発的に起こる。
だが原則として、水滴はこの全体の流れから脱出し、他の、隣の水流へ飛び越える可能性を持っている。これもまた、自然の法則である。だが、そのためには、飛び越えやすいところで水面に浮上し、堤に近寄れるように、水滴は、偶然の衝撃と河全体の弾みをいかに利用するか知らなければならない。水滴は、風と、水の流れと、嵐を利用するために、適切な場所だけでなく、適切なときも選ばなければならない。そうすれば、水滴は水煙とともに上昇し、他の河に飛び越えるチャンスを得る。他の河に入った瞬間から水滴は異なる世界、異なる存在の中にあり、それゆえに異なる法則に支配される。この第二の河には、個々の水滴のために法則があり、交互前進の法則がある。水滴は上に行ったり底に行ったりするが、それはもはや偶然ではなく、法則による。水面に来ると、水滴は徐々に重くなり、沈下する。水底で重さを失い、再び上昇する。水滴にとって、水面に浮くことはよいことであり、水底にいることは悪いことである。ここでは多くが、熟練と努力にかかっている。この第二の河には異なる流れがあり、水滴は定められた流れに入らなければならない。自己を準備し、もう1つの、その次の、そのまた次の流れに入る可能性を獲得するために、水滴はできるだけ長く水面に浮いていなければならない。
しかし、我々は第一の河にいる。この受動的な流れにいるかぎり、受動的であるかぎり、我々は突き回され、あらゆる偶然のなすがままにされる。我々は偶然の奴隷である。
同時に、自然は我々に、この奴隷状態から脱け出す可能性を与えてくれた。したがって、我々が自由について話す場合、まさに他の河に渡ることについて話しているのである。
だが、もちろんそう簡単ではない。ただ願うだけでは渡れない。強い願望と長期間の準備が必要である。第一の河の持つすべての魅惑と自己とを、同一視することから脱け出さなければならない。
この河に対して、あなたは死ななければならない。「死せずして、再び生を得ることなし」というように、すべての宗教がこの死について教えている。
これは肉体の死を意味しない。その死から復活する必要はない。なぜなら、魂があり、不滅なら、肉体なしにやっていけるからである。肉体の喪失を、我々は死と呼んでいる。蘇ることの理由は、教会の神父たちが教えるように、審判の日に主なる神の前に出るためではない。否。
キリストや他のすべての教えは、生きながらの死、我々を奴隷にする暴君の死について語ったのであり、この死は、人が最初の、基本的解放を得るための必要条件である。
人からもろもろの幻想を奪い、真実を見ることを妨げるいっさいのもの、つまり、その人の関心、心配、期待、希望を奪ったなら、いっさいの努力がくずれ、あらゆるものが空になり、空の存在、空の肉体が残り、ただ生理学的に生きていることになろう。
これが「私」の死であり、「私」をつくり上げているあらゆるものの死、無知と未経験から集めたすべての虚偽を破壊することである。これらのいっさいは、たんに材料としてその人の中に残るが、選択されることになる。そうなると、人は自分自身で選ぶことができるようになり、他の人たちが好むものを押しつけられることがなくなる。意識して選ぶようになる。
だがこれは、難しい。いや、難しいというのは正しくない。「不可能」という言葉も誤っている。というのは、原則として可能であり、正直に働いて億万長者になるより一千倍難しいだけにすぎないからである。

31
2種類の愛がある。1つは、奴隷の愛であり、もう1つは、仕事によって獲得されなければならない。第一の愛にはまったく価値がなく、第二の愛、すなわち、仕事を通して獲得される愛だけに価値がある。これが、あらゆる宗教の言う愛である。
(機械的に)「それ」が愛するときに愛するのでは、その愛はあなたに依存せず、何の価値もない。それは、我々が奴隷の愛と呼ぶものである。あなたは愛すべきでないときでも愛する。状況があなたに機械的に愛させるのである。
真の愛はキリストの愛、宗教の愛である。この愛を持って生まれてくる人はいない。この愛のために、仕事をしなければならない。ある人はそれを子供のときから知り、他の人々は老年になってから知る。誰かが真の愛を持っているとすれば、その人はその愛を人生において獲得したのである。
だが、学ぶことは非常に難しい。人間について直接学ぶことは不可能である。あらゆる人が他人の弱点に触れ、あなたを抑え、試みるチャンスを非常に少ししか与えてくれない。
愛は異なる種類の愛であり得る。どの種類の愛について話しているかを理解するには、これを明確にする必要がある。
今我々は、生命に対する愛について話している。生命のあるところ、つまり植物をはじめ(植物も生命を持っている)、動物の生命のあるところ、愛がある。各々の生命は神の代表者である。
代表者を見る人は誰でも、表象された神を見る。あらゆる生命が愛に敏感である。花のような、意識を持たない、動く機能のないものさえ、あなたがそれを愛するか否かを理解する。意識を持たない生命さえ、それぞれの人に相応して反応し、その人の反応に応じて作用する。
あなたは蒔いた種を刈り取る。小麦を蒔けば小麦を得るということだけではない。問題は、いかに蒔くかである。小麦は文字どおり、藁に変われる。別の人が同じ土壌に同じ種を蒔いても、結果は異なる。だが、これはたんに種の話である。自己の中に蒔かれたものについて、人は種よりも、確かに敏感である。動物も人間ほどではないが、非常に敏感である。以前に某氏が動物の世話をまかされたところ、多くの動物が病気になって死に、めんどりは少ししか卵を生まなくなった。雌牛でさえ、あなたが愛さなければ乳を少ししか出さないであろう。違いは、まったく驚くほどである。
人間は雌牛より敏感であるが、無意識にそうであるだけだ。あなたが他人を嫌ったり憎んだりするということは、ただ、誰かがあなたの中に何か悪いものを蒔いたためである。隣人を愛することを学びたいと願う人は誰でも、植物や動物を愛するように試みることから始めなければならない。
誰であろうと、生命を愛さない人は神を愛さない。直ちに人を愛そうと試みても、他人もあなたのようであり、非難の言葉で応えるから、不可能である。しかし動物は口がきけず、悲しそうに断念する。それであるから、動物に愛を実行することから始めるのが容易である。

自己について仕事する人にとって、外界に対する態度を変えさえすれば、自己の中に変化が起こるということを理解することが、非常に重要である。概してあなた方は、何を愛すべきで、何を愛してはならないかということを知らないが、それはこうしたことがすべて相対的であるためである。
あなた方の場合、まったく同じものを愛したり愛さなかったりする。だが、愛さねばならず、または、愛してはならない客観的なものがある。そこで、あなた方が善とか悪とか呼ぶものを忘れ、自分で選択することを学んだとき、初めて行動するのが、生産的で、実際に即している。
さて、自己についての仕事をしたければ、自己の中に異なる種類の態度をもたらさなければならない。重大で、明白な、明らかに悪である場合を除き、自己を次のように訓練しなさい。薔薇が好きなら、嫌うように試みなさい。植物の世界から始めるのがよい。明日から、植物を今まで見たことのないように眺めなさい。誰もが、ある植物には魅かれ、他の植物には魅かれない。おそらく今までこのことに気がつかなかった。初めは、見ることが必要であり、次に、かわりにもう1つのものを置き、次に、気をつけて、なぜ魅惑と嫌悪が起こるのかを理解するように試みなさい。誰もが、それによって何かを感じるか、感知するに違いない。それは潜在意識に起こる1つの過程であり、知性はこのことを理解しないが、意識して見ることを始めれば、多くのものを見、多くのアメリカを発見するであろう。植物も人間のように植物同士で相互関係を持ち、また植物と人間の間にも関係が成立するが、この関係はときおり変わる。生きているものはみな、他の生きものにつながっている。これは生命を持つあらゆるものについて言える。すべてのものが互いに依存している。
植物が人の気分に影響し、人の気分が植物の気分に影響する。我々は生きているかぎりこれを実験すべきである。壺の中の切り花さえ、我々の気分次第で、生きも死にもする。

32
ときおり人は、予期するだけで現実に起こらないのみか、起こり得ない、いつも同じ不快な思いに戻る回転する思考にとらわれる。
未来についてめぐらす不快な思い、病気、損失、厄介な事態という予感は、白中夢と言えるほどに人をとらえてしまう。人は実際に起こることを見たり聞いたりしなくなり、仮に誰かが、そういった予感や恐怖がある場合には、根拠を持たないということを首尾よく証明すると、快い期待を取り上げられたかのように一種の失望を感じる。
文化的環境で、教養ある人生を送る人によくあることだが、その人の人生において恐怖がいかに大きな役割を演じているかに、気づかない。その人はあらゆることを恐れる。召し使い、近所の子供たち、建物の入り口にいる荷物運搬係、町角の新聞売り、タクシーの運転手、店員、通りで出会う友人を恐れ、気づかれないようにこそこそと通り抜ける。一方、子供たち、召し使い、荷物運搬係等はその人を恐れる。
通常の時代にさえこうなのであるが、現在我々が経験しているような時代には、この、すべてに浸透する恐怖は、手に取るように明白である。昨年の出来事の大部分が恐怖に基づいており、恐怖の結果であると言っても誇張ではない。
無意識の恐怖は、眠りに固有の著しい特徴である。
人が、自己を取り巻くすべてのものに取りつかれているのは、自分と周囲の関係を十分客観的に見ることができないからである。

人は、その瞬間に自分を魅きつけ、あるいは撥ねつけるもののどれにもとらわれずに、自己を見ることはできない。この無力さゆえに、人はあらゆるものと自己を同一視する。これもまた眠りの特徴である。
あなたが、誰かからある情報を入手するという明確な目的を持って、その人と話し始める。この目的を達成するためには、あなた自身を看視することをけっしてやめてはならず、あなたの欲しいものを忘れず、自分にも、話し相手にもとらわれずに、眺めなければならない。だが、あなたはそうすることができない。十中八九、会話と自己とを同一視してしまい、あなたの欲しい情報を入手するかわりに、話すつもりのなかったことを、話してしまう。
人は、恐怖によってどれほど我を忘れるか、考えも及ばない。この恐怖は簡単には説明できない。大抵、厄介な事態についての恐怖、他人がどう思うかといった恐怖である。ときには、この恐怖が、狂気の沙汰といってよいほどに高じることがある。

33
地球と他のすべての惑星は、それぞれ異なる速度で絶えず運動している。相互に近づいたり、遠のいたりする。このように、惑星間に共通の相互作用は、強くなったり弱くなったりする。完全に途絶えることさえある。概して、地球に対する惑星の影響は、今はある惑星が作用し、次には別の惑星が、その次は第三の惑星が、というように交互に起こる。いずれ、それぞれの惑星の影響を別々に調査しなければならないが、今はおよその概念を説明するため、惑星全体を取り上げよう。
惑星の影響力は、次のように想像できる。地球の上方に、垂直に掛かった大きな車輪があり、車輪のふちに7つ、または9つの巨大なカラースポットライトが固定されている。車輪が回転し、今はある光が、次には別の光が地球に向けられる。こうして、地球は常に、そのときに地球を照らす特定の投光器の光に影響される。
地球に生を受けるすべての存在は、出生時に支配的であった光に影響され、この色彩を生涯待ち続ける。原因がなくては結果がないように、結果がなければいかなる原因もあり得ない。確かに惑星は、人類全体の生命と、個人の生命に多大な影響力を持っている。この影響力を認めないのは、現代科学の大きな誤りである。だがその反面、この影響力は、現代の占星学者たちが言うほど強くない。
人間とは、3種類の物質の相互作用による産物である。肯定(地球の大気)、否定(鉱物、金属)、それに第三の組合せである惑星の影響であるが、この第三の影響は外部から到来し、2つの物質に遭遇する。この中和的影響力が惑星の影響力であり、新しく生まれる個々の生命に影響する。この影響力は、それぞれの存在の全生涯を通して変わらない
。色が赤であれば、この存在が赤に出会ったとき、共感する。
ある色の組合せは、人を平静にさせる効果があり、他の組合せは、人を不安にさせる効果を持つ。それぞれの色が、独特な属性を持つ。これには、化学的相違に基づく法則がある。適、不適の組合せである。例えば、赤は怒りを刺激し、青は愛を目覚めさせる。好戦性は黄色に共感する。このような次第で、私が腹をたてやすいとすれば、それは惑星の影響に起因する。

34
解放が解放へ導く。これが、真実の最初の言葉である。カッコ付き真実でなく、その語が本当に意味する真実、たんに理論的な真実でなく、たんなる言葉でなく、実践して達成することのできる真実である。この言葉の背後にある意味は、次のように説明することができよう。
解放とは、あらゆる時代を通し、すべてのスクール、すべての宗教の目標とする解放を意味する。
この解放は、非常に偉大であり得る。すべての人々がそれを求め、それを得ようと奮闘した。だが、最初の小さな解放なしには、獲得することのできない解放である。偉大な解放は、我々の外にある影響力からの解放である。小さな解放は、我々の内にある影響力からの解放である。
初め、初心者にとって、この小さな解放が非常に偉大に見えるのは、初心者がまったく少ししか外的影響力に依存していないためである。内的影響力から自由になった人だけが外的影響力の支配下に入る。
内的影響力は、人が外的影響力の支配下に入ることを妨げる。内的影響力と内的奴隷状態は、様々な根源と、多くの独立した要因から生ずる。独立というのは、あるときは1つの要因であり、別のときは別の要因、ということであり、それは、我々が多くの敵を持っていることに由来する。
敵があまりにも多いので、その一つ一つと闘い、それぞれから一つ一つ自由になるほど人生は長くはあるまい。そこでこうした影響に起因する、内面の敵をできるだけ多く同時に破壊できる方法、つまり仕事の方法を見いださなければならない。我々が多くの独立した敵を持っていることは述べたが、主な好戦的な敵は、虚栄心と自己愛である。ある教えは、この2つを悪魔の使者とさえ呼ぶ。この2つは、ある理由で、虚栄夫人と自己愛氏とも呼ばれる。
すでに述べたように、多くの敵がある。最も根源的なものとして、この2つだけを指摘した。全部の敵を、ここで数えあげるのは困難だ。それぞれの敵について直接、特別に仕事をすることは難しく、また、敵が多くて、時間がかかりすぎる。それで、いくつかの敵から同時に自由になるために、それらを間接的に扱わなければならない。こうした悪魔の使者は、我々と外を隔てる敷居に立ちつくし、良い外的影響だけでなく、悪い外的影響が入るのも阻止する。このように、悪い面も良い面も持っている。自己が受ける影響力を区別することを望む人にとって、こうした番人を持つことは有利である。良い影響力だけを選ぶのは不可能であるから、すべての影響力が入ってくることを望むなら、可能なかぎり自己を解放し、ついには、好ましからざるとされるこうした番人からも完全に自由にならなければならない。
これについては、多くの方法があり、多数の手段がある。私としては、不必要な理論を弄することなく、簡潔に効果的に推論し、自己を自由にするように努めることをすすめる。効果的な推論が自己解放を可能にするが、誰一人成功せず、この方法が役に立たなければ、その次に起こることに対する手段は存在しない。
例えば、我々の人生の大半を占めている自己愛を取り上げてみよう。誰か、または何かが、外部から我々の自己愛を傷つけると、そのときだけでなく、その後長い間、その衝撃がすべての扉を閉ざし、人生を閉鎖することになる。私は外部とつながっているとき、生きている。内面だけで生きているとすれば、それは人生ではない。だが、あらゆる人がそのように生きている。私自身を調べるとき、私は外部とつながる。
例えば、今私はここに座っている。M氏がここにいる。K氏もいる。我々は一緒に生きている。M氏が私を馬鹿者と呼び、私は感情を害する。K氏が私を軽蔑的に見て、私は感情を害する。私は気にかけ、傷つき、平静を失い、長い間自己を失う。すべての人が、いつもこのように影響され、こうした経験を持つ。ある経験が治まると、治まったとたん、同じ種類の他の経験が始まる。我々の機械は、異なるものが同時に経験できる別々の場所がないように配置されている。我々の心理的経験のための場所は、1つしかない。もしこの場所がこうした様々な経験で占められていれば、望むままの経験をしていることに疑問の余地はない。ある達成、解放が、我々を一定の経験に導くとしても、ものごとがこのようなままでは、そうは行かないであろう。
M氏が私を馬鹿者と呼んだ。なぜ私は、感情を害されなければならないのか? そういうことは私を傷つけないから、私は腹を立てない。それは私が自己愛を持っていないためではなく、ここにいる誰よりも多くの自己愛を持っているためかもしれない。正にこの自己愛が、私を腹立たせないのかもしれない。
私は普通の方法とは正反対に考え、推論する。彼が私を馬鹿者と呼んだ。確かに彼が賢いのだろうか? 彼自身が馬鹿か狂人であるかもしれない。子供に賢さを求めることはできない。M氏に賢さを期待することはできない。彼の推論は馬鹿げている。誰かが私に関して何か言ったのだろうか? それとも、彼自身が、私が馬鹿者であるという愚かな見解を持ったのであろうか? そうであれば、彼にとってはもっと悪い。私は自分が馬鹿者でないことを知っているから、腹を立てない。馬鹿者が私を馬鹿者呼ばわりしても、私の内面は影響されない。
だが、ある場合、私は馬鹿者であり、馬鹿者と呼ばれても傷つかない。私の仕事は、馬鹿者でないことにあり、私はこれをあらゆる人の目標であると考える。というわけで、彼は、私が馬鹿者で、馬鹿なまねをしたことに気づかせ、思い起こさせてくれるのである。私は考え、おそらく次には馬鹿なまねはしないであろう。
それで、どちらの場合でも、私は傷つかない。
K氏が私を軽蔑的に見た。私は感情を害さない。逆に、私を蔑むように見た彼を憐れむ。蔑むように見るには理由がなければならない。彼にそのような理由があるのだろうか?
私は自分を知っている。自分についての知識で判断することができる。彼は蔑むように見た。誰かが彼に、私について悪い見解を持たせるようなことを言ったのかもしれない。彼が他人の目を通して見るほどの奴隷であるのを、憐れむ。ということは、彼がいないことを証明している。彼は奴隷であるため、私を傷つけることができない。

私はこういうことをすべて、推論の例として話しているのである。
実際には、我々が自己も、自己愛も所有していないということに、こういったこといっさいの原因と秘密がある。自己愛は偉大なものである。自己愛を、概して我々が理解するように、非難すべきものとみなすなら、残念ながら、我々が持っていない本当の自己愛は、望ましく、しかも必要なものなのである。
自己愛は、自己を高く評価していることを表す。自己愛を持つことは、人が自分自身であることを証明する。
前に述べたように、自己愛は悪魔の使いである。我々にとって最大の敵であり、強い願望とその達成を妨げるメインブレーキである。自己愛は、地獄の使者の主要な武器である。
だが同時に、自己愛は魂の属性の1つである。人は自己愛によって霊を理解する。自己愛は、人が天国の微片であることを示し、立証する。自己愛は「私」であり、「私」は神である。したがって、自己愛を持つことは望ましい。
自己愛は地獄であり、天国である。自己愛という同じ名前を持つこの2つは、外面は似ているが、本質においてまったく相違し、相反する。しかしこれを表面的に見れば、一生かかっても、一方を他方から区別せずに見続けることになる。
「自己愛を持つ者は、自由への途中」ということわざがある。ところが、ここに座っている人たちは、誰もが自己愛で満ちあふれている。自己愛であふれそうであるにもかかわらず、自由のほんのひとかけらすら獲得していない。我々の目標は自己愛を持つことでなければならない。自己愛を持てば、正にこの事実により、我々の中の多くの敵から自由になる。自己愛氏と虚栄夫人という主要な敵からさえ自由になることができる。
いかにして、ある種類の自己愛を他の自己愛と区別したらよいか? 外見は非常に難しいということは、すでに述べた。他人を見るときでさえそうであり、我々自身を見るときはもっと難しい。ありがたいことに、ここに座っている我々は、一方を他方と混同する心配がない。幸運である! 本当の自己愛がまったくないから、混同する何ものもない。

この講義の初めに私は「効果的推論」という言葉を使った。
効果的推論は実行により修得され、長期間様々な方法で実践すべきである。